2024年3月3日日曜日

「蕃国」新羅を見下す「帝国」日本/百済歴史散策⑱

日本の律令国家は、隋唐帝国の脅威に対処するための権力集中と軍事体制強化によって実現していった。その仕組みは大化改新以後半世紀、近江令、飛鳥浄御原令をへて701年の大宝律令の完成によってほぼ整った。「日本」が国号として正式に用いられるようになったのもこのころだ。 

■唐の律令法と日本

律令国家づくりで日本が手本にしたのは唐の国制だった。そんな唐の律令法とはどういうものであり、日本はどう見習ったのか――。坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)は次のように書いている。 

隋唐の律令法は、天から統治を委託された皇帝(天子)が、徳治主義をもって天下を統治するための法、すなわち帝国法でもあった。…

皇帝が支配する空間には同心円的に価値が付与され、郡県に分けられて官僚が派遣される支配地を「中国」と呼び、その周辺に羈縻(きび)政策といって、官僚を派遣せずに現地の有力者の支配を温存する地域を置くことがあり、さらに外蕃(げばん)と呼ばれる、皇帝に朝貢してくる諸国があり、さらにその外側には、国家の態を成さない人々がいることにしていた(華夷秩序)。 

日本の律令は、いま述べた点まで含めて唐のそれとそっくりに作られている。天皇は皇帝・天子とも呼ばれ(儀制令)、元号を制定し(公式令)、詔勅を出す様式や手続きが盛り込まれている(公式令)。 

日本と新羅はともに唐に朝貢していた。しかし、日本が唐の冊封を受けずに独自の年号や律令法をつくったのに対し、唐の脅威により直接的にさらされた新羅は激しいあつれきの末に冊封国として唐との関係を築いていったことは先に見た通りである。 

■「蕃国」新羅

日本の律令にあって外国は「隣国」の唐と、「外蕃(蕃国、諸蕃とも)」の新羅(のちに7世紀末にできた渤海も)に区分され、ほかに隼人、蝦夷など列島内の異民族を「夷狄(いてき)」と位置づけた。そこでは、天皇は蕃国や夷狄を従える存在であらねばならなかった。 

新羅は、唐と対立していたことから日本には比較的低姿勢で臨んだ。日本が大宝律令を制定した後も、たとえば706年正月に藤原宮でおこなわれた元旦の朝賀に使臣を参列させたりしている。日本はそんな新羅を名目上、朝貢国とし、日本からも遣新羅使を送っていた。

奈良・明日香村の甘樫丘から藤原京跡付近を望む。正面は耳成山

■新羅征討計画

変化は、唐と新羅の接近によってもたらされた。732年、渤海が唐山東半島の登州を攻撃、唐の要請を受けた新羅は唐側について参戦した。これをきっかけに735年、新羅は唐から大同江以南の朝鮮半島領有を正式に認められ、両国は安定した関係を築いていった。 

これに伴い、新羅は日本に強い態度で臨むようになった。これより先、渤海は日本に使節を送ってきており、対新羅で利害を共にする日本と渤海の関係はおのずと深まった。とはいえ、日本にとって渤海はあくまで「蕃国」であり、朝貢国あらねばならなかった。 

758年に渤海から帰国した小野田守が、唐で「安史の乱」(755763)が起こり、玄宗皇帝が都から逃げたと報告すると、翌年、朝廷は新羅征討計画を立てた。内乱の唐に新羅を援ける余裕がないとみたようで、当時実権を握っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)によって準備が進められた。 

律令国家は諸蕃と夷狄を支配する帝国でなくてはならなかった。新羅が名目的な朝貢関係から離反するのを容認することは、押勝にはできなかった。

(吉田孝『日本の歴史【2】 飛鳥・奈良時代』岩波ジュニア新書) 

新羅征討は押勝の失権で実行に移されなかったが、日本と新羅の関係はこのように険悪なものになっていたのである。 

■「白村江の呪い」

以上が7世紀後半から8世紀半ばごろにかけての日本と新羅の関係の概略である。記紀はこんな時代状況のなかで編纂されていったのだった。明治維新時の「征韓論」と結びついたとみられる神功皇后による「三韓征伐」は、そんな史書の中で語られていたのである。 

『日本書紀』の記述について盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のような指摘をしている。 

白村江の戦い以降、数多くの百済人が倭に亡命した。…亡命した百済人のうち相当数は、彼らの才能を活用しようという倭の朝廷に登用された。…日本の皇室に寄生して明日の暮らしを立てていくほかないのが、彼らのもつ宿命であった。 

彼らは、百済復興と故国復帰を望んだが、自力で具体化する力量はなかった。彼らがこれを熱望すればするほど、実現の可能性は、日本勢力の朝鮮半島への介入に見出すほかなかったのである。…このために朝鮮半島が早い時期から日本の天皇家に従属したという歴史像の構築に積極的に乗り出した。…

いわゆる百済三書[筆者注:日本書紀の基本史料の一つ]は彼らの叙述であるか、彼らの手を経て修正されたものと考えられ、そうした著述は『日本書紀』の内容構成に大きく作用した。…

『日本書紀』は、その後の日本人の対外意識、特に対朝鮮認識に大きな影響を及ぼした。白村江の戦いで流された百済人と倭人の血の呪いは、千数百年過ぎた今日まで作用して、韓日両国人の間の葛藤を焚きつけている。いまやその呪いから逃れねばならない。 

■「朝貢」vs「交隣」

『日本書紀』の記述は日本人の対朝鮮観に大きな影響を及ぼし、その「呪い」はいまもとけていないというのである。同書は次のようにも書いている。 

  唐との安定的な朝貢・冊封関係を結ぶようになった新羅としては、今や現実的に安全のために日本の動向にこれ以上神経を使う必要がなくなった。日本は隣国として同じ唐の朝貢国であるので、当然、両国は対等な隣国として関係を結ばなければならないと考えた。 

この点に日本が反発したので、両国の関係は次第に悪化した。新羅の対外政策は、唐とは事大関係、日本とは交隣関係と設定された。こうした対外政策の基調は、その後、高麗・朝鮮を経て、朝鮮半島諸王朝の対外政策の基本的枠組みとなった。 

一方日本は、引き続き新羅を朝貢国とみなそうとしたため、両者の間に摩擦と不信が積み重なっていった。新羅としては、日本との関係は交隣関係であるほかなく、現実的に日本もそれを受容するほかないと考えたが、日本朝廷が拒否する姿勢を堅持したことによって、両国の関係は事実上断絶へと向かった。…

両国支配層が想定する相手国の性格は、それぞれ隣国・蕃国であった。これは統一戦争の終盤である新・唐戦争[筆者注:「羅唐戦争」]を歴史的背景として形成されたもので、その後も両国関係に影響を与え、ある面では、今日でも両国人の意識に作用していると思われる。 

日韓はどうしてこうなのか――。そんな私の問いかけに対する一つの答えがここには提示されている。これをどう受け止めるか。歴史を直視することが未来の関係づくりへの確実な一歩であることはいうまでもない。(おわり)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑯~⑱)

姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)

姜在彦『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

韓国民族文化大百科事典 경주 문무대왕릉(慶州 文武大王陵) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)신문왕(神文王) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)

坂上康俊『平城京の時代 シリーズ日本古代史④』(岩波新書)

大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書)

吉田孝『日本の歴史【2】 飛鳥・奈良時代』(岩波ジュニア新書)

2024年2月28日水曜日

倭と新羅の和解と不信/百済歴史散策⑰

白村江の敗戦によって倭国は国家体制の整備と防衛の強化を迫られた。防衛政策では敗戦翌年、対馬・壱岐・筑紫に「防人(さきもり)」と「烽(とぶひ)」(のろし)をおき、亡命百済人の指導下、大宰府を守る水城や大野城、基肄(きい)城を築城、瀬戸内海の要地や大和でも朝鮮式山城が築かれた。 

国内政策でも664年、中大兄は「甲子(かっし)の宣」を発して制度改革に着手。冠位制の改定や氏上(うじのかみ)制で豪族らの不満をかわし、体制の立て直しにかかった。中大兄は6673月、飛鳥から近江の大津宮に遷都した。防衛上の理由からとの見方がある。

大津宮跡近くの琵琶湖  大津市柳が崎

大津宮跡  大津市錦織
668年正月、中大兄は大津宮で即位して天智天皇(在位668671)となり、近江令を編纂(異説あり)、最初の戸籍である庚午年籍を作るなど、緊迫した国際情勢に対応する律令体制づくりを進めた。 

■倭王朝滅亡の危機

すでに見たように、高句麗が唐・新羅軍に滅ぼされたのは天智即位とまったく同じ時期だった。大津宮遷都後の66711月、百済に駐屯していた唐の鎮将の使者が筑紫に来ていたが、これは倭が高句麗と結ぶのを牽制するためだったとの見方がある。

高句麗が滅亡する直前の6689月、新羅の使臣が倭を訪れている。両国の断絶から11年、白村江の戦いから5年が経っていた。ここで天智は新羅王らに船を与え、国交を再開した。このあとに羅唐戦争が始まっており、新羅は唐との対決に備えて背後の倭との和平へ布石を打ったようにもみえる。 

高句麗を滅ぼした唐王朝は北方、西方でも対抗勢力を屈服させ、最大版図を実現していた。669年段階の唐の東方での課題は、新羅の後方海上の倭を屈服させることだった。吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)は次のように書いている。 

  倭王朝は天智八(六六九)年に新羅使を迎え、戦勝国からじかに高句麗の滅亡を聞かされた。迫りくる脅威をやわらげようと、天智天皇はすぐに遣唐使を派遣し、高句麗平定を祝ってみせたが、唐の倭国征討計画はすでに始まっていた。後世のモンゴル襲来に匹敵する、倭(日本)王朝滅亡の危機であった。 

そんな情勢を一変させたのが「羅唐戦争」(670676)だった。唐と新羅が対立すると、唐の倭国征討は棚上げになったのである。 

■天智から天武へ

671年、唐と新羅が相次いで倭国に使節を送ってきた。双方、それぞれに倭の協力を求めたとみられる。厳しい選択が迫られた倭は、綱渡りの交渉で戦争への介入を避けようとしていた、そんなさなかの同年9月、天智天皇が病に倒れ、12月に没した。

天智天皇陵  京都市山科区

天智の後継としていったん子の大友皇子が決まったものの、弟の大海人皇子が巻き返して権力を掌握した。672年の「壬申の乱」である。大友が「羅唐戦争」で唐側につく動きをみせたのに対抗して大海人が決起したとの見方もある。 

大海人は翌6732月、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇(在位673686)となった。半年後の8月、新羅が「祝賀使節」を送ってくると天武はその入京を許すなど、新羅との関係を深めた。一方で、唐との交流はこのあと約30年にわたって途絶え、遣唐使派遣の再開は702年まで待たなければならなかった。 

■倭と新羅の「蜜月」

「羅唐戦争」で朝鮮半島から唐を追い出した新羅は、結果として、日本の危機を救う防波堤の役割を果たした。唐は西方の吐蕃との対立や則天武后(在位690705)の執権をめぐる内政問題で余裕がなくなり、新羅と倭にとっての唐の脅威は670年代の終わりにひとまず消えた。 

これによって、「白村江の戦い」以来続いていた倭の臨戦体制は終わりを告げ、平時にふさわしい体制に切り替えられていくことになる。天武朝下で進められたのは律令制の確立だった。 

681年、飛鳥浄御原令編纂開始▽682年、藤原京造営開始▽684年、「八色の姓」を定めて豪族たちを天皇中心の新しい身分秩序に編成――。天武は686年に没したが、これらの施策は、後を継いだ皇后の持統天皇によって実行されていった。 

新羅でも680年代に集権的中央官制が完成。倭と新羅は歩調を合わせるように集権的国家体制を整備していったのだった。この時期、倭と新羅の関係はきわめて緊密であり、唐との関係が冷えた分、さまざまな文物や情報が新羅から倭に伝えられた。 

■倭国警戒の「海中陵墓」

とはいえ、新羅の倭に対する警戒心は強かった。

文武大王陵  慶州市HP
新羅の都であった慶尚北道慶州(キョンジュ)市の海辺近くの沖合に「文武大王陵」がある。三国統一を成し遂げた新羅30代文武王(在位661681)の「海中の陵墓」といわれている。

朝鮮の史書『三国遺事』によると、文武王が681年に没すると、その遺言によって東海(日本海)で葬儀をおこなった。遺言は、仏教の法式に則って火葬した後、東海に埋めれば、龍となって倭の侵攻を防ぐ――とする内容で、後継の子の神文王(681692)が、その通りにしたがったという。 

陵墓の岩は沖合200メートルほどのところにある。東西南北の両方向に水路がつくられ、そこに平べったい大きな石が置いてある。遺骨はその下に埋められたのではないかともみられている。 

近くに、この時建てられた感恩寺という寺の跡もある。この寺は元もと「鎮国寺」と呼ばれ、倭兵を防いで国を安定させるという意味をもっていたという。 

新羅には、倭に対する根本からの警戒心があった。実際、新羅と倭の緊密な関係は長続きしなかった。(つづく)               波佐場 清 


2024年2月24日土曜日

「羅唐戦争」と新羅の統一/百済歴史散策⑯

百済を滅ぼした唐と新羅は、北と南から挟み撃ちにするかたちで高句麗に迫っていた。そんなとき、高句麗で独裁体制を固めてきた淵(泉)蓋蘇文が665年(664年あるいは666年とも)に没すると、後継をめぐって蓋蘇文の身内で争いが起きた。 

蓋蘇文の次男の淵男建が主導権を握り、兄と叔父を追放すると、兄は唐に走り、叔父は新羅に降った。そんななか北方から唐軍、南方から新羅軍が攻めて平壌城を包囲した。男建は最後まで抵抗したが6689月、力尽きて投降、ここに高句麗は滅んだ。 

■唐の支配欲望

百済に続く高句麗の滅亡はしかし、そのまま新羅の三国統一ということにはならなかった。唐は新羅を含む旧三国をすべて支配下におこうとした。異民族に一定の「自治」を与えて統治する独自の「羈縻(きび)政策」をとろうとしたのである。 

百済の故地は、百済復興軍壊滅後の664年、洛陽に連行していた元百済王子扶余隆を熊津(公州)都督に任命して管轄させた。高句麗が滅ぶと668年、平壌城に安東都護府を置き、唐将・薛仁貴2万の兵を与えて駐屯させた。 

新羅についても、唐はこれより先の663年、文武王に鶏林(新羅の別称)大都督という内臣の官職を与えて配下においた。新羅には屈辱だったが、高句麗との敵対に加え、背後の倭国への警戒もあり、従うほかなかった。 

■「羅唐戦争」

670年、高句麗の遺民が唐に反旗をひるがえした。すると、唐と提携していたはずの新羅軍がこれを支援した。唐が反撃に出ると、高句麗遺民らは高句麗最後の王、宝蔵王の外孫にあたる安勝という人物を押し立て、新羅の地に駆け込んだ。 

新羅は彼らを現在の全羅北道益山にあたる旧百済の金馬渚に住まわせ、安勝を「高句麗王」に冊封した。唐中心の支配体制への挑戦であり、以来676年に唐軍が朝鮮半島から撤退するまで続いた唐と新羅の戦いを韓国では一般に「羅唐(ナダン)戦争」と呼んでいる。

安勝が一時ここにいたともいわれる王宮里の遺跡 益山市HP
羅唐戦争 赤は唐軍、黒は新羅軍 『한국사』미래엔

新羅が唐に強く出た、そのころ、唐の西方領に吐蕃(チベット)が進攻していた。唐は6704月、高句麗支配にあたっていた薛仁貴を吐蕃討伐に向かわせたが、大敗した。新羅はその間旧百済地域の掌握に注力し、翌671年秋までにこの地域から唐軍を追い払った。 

■唐軍撤退

新羅と唐はその後も一進一退の攻防を繰り広げたが、675年9月の買肖城(メソソン/京畿道北部)の戦闘と翌676年の錦江河口の伎伐浦(キボルポ/)の海戦で新羅軍が唐軍を撃破した。羅唐戦争はそれが決定打となって新羅に勝利をもたらしたというのが韓国での一般的な評価のようで、高校の教科書はそのように書いている。 

676年、唐は高句麗支配の拠点であった安東都護府を平壌から遼東故城(遼陽)へ、また旧百済遺民を支配する熊津都督府を熊津から建安故城(営口)に移した。翌677年、安東都護府をさらに新城(撫順)に再移転させ、唐の内地に移住させた高句麗・百済の遺民をそれぞれ統括させた。 

唐軍は朝鮮半島から撤退したものの、再征討を狙っていた。しかし676年、チベット高原の吐蕃が再び攻勢を強め、西域方面では西突厥と連合して唐の支配拠点を奪いとった。結局678年、唐は新羅再征討計画を中止した。 

緊張緩和に伴い、新羅は国家体制の整備にかかった。681年に文武王が没し、子の神文王が即位すると、百済の故地に「高句麗王」に封じていた安勝を都の金城(慶州)に定住させ、684年、新羅はその「高句麗国」を吸収して名実ともに三国統一を達成した。 

■「南北国時代」

しかし、この統一は朝鮮半島全域に及ぶものではなかった。新羅が領有できたのは、平壌付近を流れる大同江と東海(日本海)に面する元山湾を結ぶ線から南に限られた。それ以北の高句麗の故地には698年、「高句麗の後継国」を名乗る渤海国が新たに建国された(当初は「震国」を名乗った)。 

統一新羅と渤海(8世紀) KOREA.net
ここらあたりの歴史の評価は一様でなく、南北朝鮮の間でも分かれている。韓国では、たとえば、高校教科書『韓国史』(検定)は次のように書いている(拙訳)。 

新羅の三国統一は外国勢力の支援を受けたという点と、大同江以南の領土を確保することで終わったという点で限界がある。しかし粘り強い抗争の末に唐軍を追い出した事実は自主的性格を見せている。また、わが国歴史上初めての統一であり、三国の文化を融合して民族文化の枠組みを整える契機となった。(고등학교한국사미래엔 

これに対し北朝鮮は、新羅の統一に否定的で、10世紀にできる高麗国を最初の統一国家としている。北朝鮮に近い立場とみられる朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)は次のように書いている。 

  新羅は大同江以南の地を統合することに成功した。しかし、三国全域を統一しようとする新羅の最初の目的は達成されず、北方の高句麗領土の一部は唐の手に渡った。……九三六年、高麗の大軍は慶尚北道善山で後百済軍をうちやぶり、ついに後三国は高麗によって統合されるに至った。こうして高麗は、朝鮮最初の統一国家となったのである。 

韓国には新羅と渤海が並立した時代を「南北国時代」とする学者もいる。三国時代に続く「二国時代」、あるいは「南北朝時代」ということなのだろう。 

■朝貢・冊封関係

新羅は、唐との戦争期間中も朝貢・冊封関係にもとづく外交的関係を断ち切らず、唐の年号を使い続けた。羅唐戦争後もあつれきは残り、唐が大同江以南の新羅領有を正式に認めたのは735年のことだった。両国関係が安定していったのはそれ以降である。 

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のように書いている。 

新羅と唐が力の対決を通じて、言い換えれば、中国天子の徳を万民に及ぼすといういわゆる徳化論を掲げて、三国を併呑して唐の郡県や羈縻州に編入しようという策動を、最終的に新羅が斥けたことによって、力の限界を感じた唐と、唐の現実的な優位性を認めた新羅が、共存の道を求めて妥協がなされた。ここに新羅と唐の安定した朝貢・冊封関係が定立した。 

このような国際情勢のなかで倭国はどのように身を処していったのだろうか。(つづく)

                          波佐場 清 

2024年2月20日火曜日

百済の微笑/百済歴史散策⑮

私たちの小さな旅も終わりに近づいた。最終日の4日目、私たちは忠清南道瑞山(ソサン)市を訪ねた。宿泊地の公州から高速道路を北西方向に走って1時間40分。そこの山中で見た別名「百済の微笑」といわれる摩崖仏が印象に残った。

摩崖如来三尊像

加耶山(標高678メートル)という山の中腹にあった。あいにくの雨模様だった。渓流にかかる橋を渡り、ぬれ落ち葉の石段を用心しながら一段一段登っていくと、切り立った崖面で3体の仏像が穏やかな微笑みで迎えてくれた。

■磨崖如来三尊像

国宝の「磨崖如来三尊像」だった。現地のパンフレットによると、中央は如来立像(高さ28メートル)、向かって左に菩薩立像(17メートル)、右は半跏思惟像(166メートル)で、それぞれ法華経の釈迦と弥勒、提華褐羅菩薩を表現しているという。 

よく見ると、表情はそれぞれにあじわい深い。中央の如来立像は大きな目がなごやかで、やや獅子鼻、厚ぼったい唇はおおらかさと慈悲深さを感じさせる。左の菩薩立像は目と口元の笑み、そして宝珠を包み込む手がいかにも優しい。右脚を左脚の上に載せる半跏思惟像は右手の指をそっとほおに当てており、心清い童女を思わせる。 

この仏像が世に知れたのはそう古いことではない。1959年、付近の寺院址などを調べていた扶余の博物館長がムラの木こりから偶然聞いた話が「大発見」につながった。 

瑞山の地は扶余に都した百済後期(538660)、中国に通じる交通の要所にあたった。この摩崖仏は中国との文化交流が盛んだったそのころにつくられたとみられている。 

■「高句麗が統一していたら…」

私たちはすべの旅行日程を予定通りに無事終えた。日本に帰ったあと、百済の本拠地といえる忠清道地域出身のソウルの友人にメールで報告し、この「百済の微笑」についての「感銘」を伝えると、意外な返事が戻ってきた。 

「百済の微笑……ふっふっふ(ㅎㅎㅎ)、微笑だけ浮かべていて、それで滅んでしまった。やはり強い軍事力を持たないことには……。百済の文化を見て察せられたと思うけど、平野が多く豊かな穀倉地帯だった分、どこか、もの静かでおとなしく、気質の面で高句麗や新羅に押されてしまった。いまも忠清道の人はすこしのんびりしていると言われたりするんです」 

「あの時代、私は高句麗が統一してくれていたらよかったのに、と思っています。そうすれば、中国との国境が白頭山よりずっと北のほうまで広がっていた。韓国人なら、ほとんどみんな、そう考えていると思いますよ」 

「高句麗が統一してくれていたら…」という話は、これまで韓国人から何度か聞いたことがある。 

■百済の仏教

百済は朝鮮3国のなかでも古くから日本と関係が深かった。4世紀、高句麗の隷属下にあった百済は倭国の軍事援助で独立をはかろうとした。奈良県天理市の石上神宮に伝わる七支刀も「軍事同盟」の証しとして百済から倭国に贈られたとみられるということについはすでに触れた。 

百済と倭国の軍事同盟関係はその後も維持され、百済は主に中国の南朝から得た当時最高の文化や技術を軍事援助の見返りとして倭国に伝えた。538年の百済の聖王から欽明天皇への「仏教公伝」もそんななかでなされたのだった。 

そんな仏教は中国から朝鮮に伝わった。372年、五胡十六国時代の前秦から高句麗に伝えられ、百済へは384年、江南の東晋から伝わったとされる。新羅には535年、高句麗からもたらされた。日本公伝はそのすぐ後、ということになる。 

この時代、仏教は東アジア普遍のイデオロギーだった。鎮護国家思想とした国王らも多かった。そんななかで百済には極端すぎる王も出た。第29代法王(在位599600)は一切の殺生を禁じ、民家で飼っている鷹を放させ、魚釣りや狩りの道具までも燃やさせたという。 

「百済の微笑」は、法王のそのような原理主義的な信仰心にもつうじる「優しさ」だったのだろうか。百済と対立した新羅はその間、国力の増強につとめ、それが両国の力の逆転につながったともいわれているようだ。

 ■日韓関係の「答え」を求めて…

私はこの旅を始めるにあたり、歴史問題でぎくしゃくする今の日韓関係に関して、日本と韓国はなぜこうなのか、という問題を提起した。東京大学の小島毅教授の著書を引き合いに、どうやら7世紀後半の国際情勢のなかで編纂された記紀(『古事記』と『日本書紀』)に由来する「歴史捏造」とも関係しているのではないか、という仮説を立ててみた。 

『日本書紀』は681年に天武天皇が発した詔(みことのり)によって編纂事業が始まったと考えられており、完成したのは720年だった。『古事記』も似たような編纂過程をたどり、712年に完成している。

私たちの「百済歴史散策」の旅は終わったが、この間にたどった歴史は、記紀編纂の時代にまでまだ到達できていない。私が最初に投げかけた問いに対する「答え」はまだ探し出せていない。 

その答えを求めて、もうすこし、歴史の旅をつづけてみたいと思う。(つづく)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員  波佐場 清 

参考資料(百済歴史散策⑬~⑮)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)

교육부 검정고등학교 한국사(미래엔)

https://www.youtube.com/watch?v=kwURGkNehOM

姜在彦『新版朝鮮の歴史と文化』(明石書店)

崔夢竜編著(河廷竜訳)『百済をもう一度考える』(図書出版周留城)


 

2024年2月16日金曜日

白村江の戦い/百済歴史散策⑭

百済復興軍の救援を決断した倭国は660年暮れ、斉明女帝が難波宮に赴き、出兵の準備にかかった。翌661年正月、斉明は68歳の老齢を押して難波を発ち、北九州に向かった。一行は途中、兵士を徴発しながら西へと進み、伊予熟田津(にぎたづ)の石湯(道後温泉)の行宮に泊まった。 

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな 

教科書にも載る『万葉集』のこの一首は、このとき額田王(または斉明女帝)がつくった、とされる。 

■余豊璋、百済へ帰還

一行は同年3月下旬、娜大津(博多)に着き、磐瀬行宮を本営とした。5月、朝倉宮に遷宮。7月、斉明はここで没した。母の女帝亡きあと、中大兄は皇太子のまま博多湾に面した長津宮(以前の磐瀬行宮)で国政を執った(称制)。 

ついでに言っておくと、斉明が亡くなるひと月前の6616月、新羅でも武烈王(金春秋)が死去し、生前から後継者に決められていた息子の金法敏が即位していた。これが文武王(在位661681)である。倭と新羅はこのあと、共に新しい体制で相打つことになったのである。 

8月、第1次百済進攻軍が編制され、阿曇比羅夫(あずみのひらふ)や阿倍比羅夫(あべのひらふ)らが将軍に任命された。ついで9月、余豊璋に5千余の護衛兵を与えて百済へ帰還させた。豊璋はこの年のうちに周留城で鬼室福信と合流できたようだ。 

662年正月、倭の朝廷は福信に矢や糸、なめし皮など、武器やその材料を送った。『日本書紀』によれば、同年5月、豊璋は百済王位を継承した。第1次進攻軍の将軍阿曇比羅夫が勅命を伝え、倭国の天皇が豊璋を王に立てる形式をとったという。 

7月、唐の百済駐屯軍が百済復興軍を熊津(公州)付近で撃破し、新羅からの兵糧運送ルートを確保。さらに唐本国に兵の増援を要請し、山東半島から7千の水軍が送られることになった。 

■白村江へ結集

6633月、倭国は2万7千の大軍を第2次進攻軍として出し、新羅を攻撃した。そんななかで6月、百済復興軍に内紛が起き、豊璋が福信を「謀反の疑いがある」として殺害、復興軍は崩壊の道へと進んでいく。 

一方、山東半島から増派されてきた唐の水軍は熊津城の唐駐屯軍と合流、新羅軍と協議の結果、陸軍は新羅軍と唐軍が周留城に進撃し、唐の水軍は熊津から錦江をくだり、河口の白村江で陸軍と合流して周留城の百済復興軍を攻めるということになった。 

そのころ、朝鮮半島南部で新羅軍と戦っていた倭国軍も、急の報せをうけて錦江の河口、白村江へと向かった。 

■倭軍敗北、海水皆赤し

817日、唐・新羅陸軍は百済王豊璋のいる周留城を囲んだ。唐の水軍は倭の周留城救援を妨げるため、白村江に軍船170隻をならべて待ち受けた。そんなところへ8月27日、倭の水軍が到達し、2日間にわたる白村江の戦いの幕が切って落とされた。 

錦江(白村江)河口付近  群山市HP
初日、倭国水軍は唐水軍の実力を探るために攻撃を仕掛けてみた。一種、様子見の戦いだったが、唐水軍の布陣は堅固で、倭水軍は、すぐに退却した。唐軍も陣を守って追撃しなかった。 

28日、倭の水軍は唐の水軍に向かって突進した。唐軍は左右から倭の兵船を囲んで挟み撃ちにすると、倭軍は後退することすらできず、大敗した。中国の史書は次のように書いている。 

  四たび戦って捷(か)ち、その船四百隻を焚(や)く。煙と燄(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水皆(みな)赤し。 

群山市を流れる錦江  群山市HP
■倭、朝鮮半島から完全撤退

97日、周留城陥落。余豊璋は白村江の戦いの直前に城を脱し、倭軍と合流していた。倭軍の敗北を見届けた後、数人の従者らと船で逃走したといわれ、以後消息を絶った。高句麗に逃げたともいわれている。 

周留城の陥落によって唐の百済平定はほぼ完了した。倭の軍兵や百済遺民らの多くは捕虜にされた。逃れた者たちは9月24日、百済南部の弖礼城に集まり、そこから倭国に向かった。以後、大量の百済遺民が玄界灘を越えて倭国に来ることになる。 

この戦闘の敗北によって倭は朝鮮半島から完全に退けられた。この点、古代日朝関係史にもつ意味合いは大きい。日本が律令体制という中央集権国家づくりを進めていく、日本史にとって大きな画期をなしたともいえる。 

■「白村江の戦いって?」

しかし、これを当時の東アジア情勢を決定づけた会戦とするのはあまりの誇張だと、この間しばしば引用してきた盧泰敦氏の著書は指摘する。戦闘の主力は唐軍と倭軍であり、中国勢力と日本勢力が朝鮮半島で雌雄を決した戦争であったかのようにとらえるのは戦争の実像と符合しない、と次のように指摘する。 

  この戦闘は、唐には特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、新羅にとっても主たる戦場ではなかった。…白村江の戦いに関する過度の強調は、その年に繰り広げられた百済復興戦争の主戦場が周留城攻防戦であったことと、新羅軍の存在を軽視することになり、新羅を受動的な存在とみる歴史認識を生み出す側面がある。

           盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店) 

韓国の友人たちに白村江の戦いについて聞いてみても「それって、なに?」という感じで首をひねる人が多い。韓国でいま使われている高校の『韓国史』の教科書をみてもこの戦争にはとくに触れていないようだ。(つづく)  波佐場 清   


2024年2月12日月曜日

百済復興軍の決起/百済歴史散策⑬

錦江を離れた私たちは定林寺址に案内された。かつての百済の泗沘都城址にひらけた今の扶余のまちのほぼ中央にあった。寺址といっても残っているのは石造の五重塔だけで、これが残ったこと自体、アイロニーであり、一つの奇跡といえた。 

定林寺址の石塔

6607月、百済の都城を攻め落とした唐・新羅の連合軍は破壊と略奪の限りを尽くした。官寺だったこの寺もそのときに徹底的に破壊され、焼き尽くされたとみられているが、唯一この塔が残ったのには理由があった。 

■石塔に唐の「勝利宣言」

唐の軍司令官・蘇定方がこの石塔に、自らの功績を後世に伝える文字を刻みつけたのである。

「大唐平百済…」と刻まれた塔身

高さ833メートル。近づいて初層の塔身に目を凝らすと文字が刻んであるのが分かる。風化で判読しにくいが、「大唐平百済国碑銘」と書かれているのだそうで、そう言われると、確かにそう読める。 

唐が百済を平定したことを誇ろうというもので、百済はなぜ滅ぼされなければならなかったのか、といった内容も小さな文字で書き込まれているという。唐軍はこの記録を残すために石塔を壊さず、逆にだいじに保存したというわけである。 

韓国の人たちにとっては「屈辱の塔」といっていいだろう。後日、ソウルの友人にこの話を持ちかけると、「私たちもあそこへ行くと、石塔のことより唐の蘇定方の悪口ばかりを言い合っている」という。今日まで残ったのは「歴史の教訓」としてだったのか、あるいは韓国の人たちの中華の帝国に対する気がねからだったのか……。 

■百済金銅大香炉

扶余では最後に国立扶余博物館を訪れた。圧巻は何といっても百済文化の結晶、「百済金銅大香炉」だった。同様の香炉はたしか、ソウルの国立中央博物館でも展示されていたはずだと思い、館側に尋ねると、ソウルの方はレプリカで、こちらが本ものなのだという。 

百済金銅大香炉
博物館のパンフレットによると、高さ618センチ、重さ1185キロ。龍が頭をもたげたかたちの台座と、蓮華の花びら様に装飾された炉心、そして峰々が重なったかたちの蓋の部分から構成され、蓋の上には大きく翼を広げた鳳凰が表現されている。 

7世紀前半ごろに作られたと考えられ、仏教はもちろん、道教の神仙思想の影響もみられるという。照明を落とした展示室で、下からのライトを浴びて黄金色に輝く逸品は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。写真撮影は自由だった。 

■国際情勢に疎く…

この香炉は、さきに見たように199312月、扶余羅城近くの陵山里寺址で見つかった。発見現場の状況から、慌てて土中に埋められた様子がうかがえるといい、唐・新羅軍によって都城が踏みにじられた際、略奪を免れるために、とっさの方便で隠されたのではないかと推測されるという。 

義慈王末期の百済は国際情勢の変化にうとく、相手国の情報にも鈍感だった。唐が海を越えて大挙攻撃してくる可能性について十分考えず、侵攻があったとしても、まず矢面に立つのは高句麗で、対応策はそれからでも間に合うと考えていたようだ。 

実際のところ、百済は唐の高宗から攻撃の可能性を警告されていた。新羅が唐と同盟を進めていることも知っていた。それなのに百済の支配層は安逸をむさぼり、備えを怠った。攻撃を受けると右往左往するばかりで、そのまま滅亡の淵に沈みこんでいったのである。 

■百済復興へ倭の決断

とはいえ、百済の勢力はこれによって完全に消滅したというわけではなかった。唐・新羅軍が制圧したのは点と線だけで、唐が駐留軍を置いて主力を本丸の高句麗に振り向けると、百済の遺民らが立ち上がった。中心になったのは義慈王のいとこともいわれる鬼室福信だった。 

百済復興軍は任存城(忠清南道礼山)を拠点に勢力を広げ、唐が援軍を送って巻き返そうとすると、福信らは錦江河口に近い周留城に入って守りを固めた。一方で、復興軍は66010月、倭に使者を送って援軍の派遣と、倭に「人質」として送られていた百済の王子余豊璋の送還を要請。福信らは豊璋を王に立てて百済を復興しようとしたのである。 

百済は昔から倭と深いかかわりがあった。何よりも百済がこのまま滅べば、唐の脅威は直接、倭に及ぶ。逆に、もし百済が倭の力で復興するなら、朝鮮半島南部を倭の勢力下におくことができる――。 

倭は百済復興軍を救援する決断を下した。(つづく)    波佐場 清 


2024年2月8日木曜日

命運尽きて…/百済歴史散策⑫

対百済戦争を準備した唐は、その前にまず西突厥を滅ぼして西方の不安を取り除き、さらに高句麗の西部国境を攻撃して高句麗の防御力と百済の注意をその方面に引きつけた。そのうえで6603月、蘇定方を司令官とする13万の軍が唐を進発、海路、百済に向かった。 

徳積島  덕적도 공식HP

武烈王(金春秋/キムチュンチュ)と金庾信(キムユシン)が率いた新羅軍も5月に都(慶州)を発って北上、6月、利川(京畿道)に至った。武烈王は太子の金法敏(のちの文武王)を仁川沖の徳勿島(徳積島/トクチョクト)に送り、唐軍を迎えさせた。そこで両軍は710日に百済の都、扶余(泗沘)で落ち合う作戦を申し合わせた。


■決戦「黄山伐」

陸戦を受け持った新羅は金庾信率いる5万の精兵が黄山伐(ファンサンボル/忠清南道論山付近)方面へと向かった。唐軍は徳勿島で航海の疲れを癒してから錦江の河口に向かって進発した。 

新羅・唐両軍の動きに百済は慌て、防御策をめぐって紛糾した。領土の入り口を封鎖して戦うか、領土内に引き込んで邀撃するか。結局、後者が選ばれ、新羅との陸戦は黄山伐が決戦の場となった。 

우리 역사 넷
新羅軍の精兵5万に対し、百済軍は階伯(ケベク)将軍率いる5千。階伯は戦いに臨んで自らの手で妻子を斬殺し、この世の未練を断ち切ってから出陣、新羅軍の攻勢を4度撃退したあと、戦場に散ったとされる。 

■義慈王降伏

一方、錦江河口付近に進んだ唐海軍は左岸の伎伐浦に上陸。付近の百済軍を打ち破り、満潮にあわせ河をさかのぼって進撃した。泗沘城近くにまで進んだところで西進してきた新羅軍と合流、両軍で泗沘城を包囲した。百済の義慈王は713日、太子の扶余孝とともに防御に有利な上流の熊津(公州)城に逃れた。 

義慈王が去ったあと、泗沘城に残った王子・扶余隆らは城を出て降伏。残る王の親族らも城門を開き、相次いで敵に降った。見捨てられた宮女たちが錦江に身を投げたのはこの時のこととされる。718日、熊津城に逃げた義慈王と扶余孝も白旗をあげた。数百年続いた百済王朝の命運はこうして尽きた。 

■日本の遣唐使が目撃

8月2日、泗沘城で勝者による大宴会が開かれた。武烈王、蘇定方らは堂上に座り、堂下の義慈王と扶余隆に酒をつがせた。93日、蘇定方は帰国の途に就いた。義慈王はじめ王族と貴族93人のほか、12千人の民が捕虜として連行された。 

義慈王は唐の洛陽で開かれた戦勝の儀式に引き出された。高宗皇帝は勝者の雅量を誇示して義慈王の「罪」を許し、放してやった。義慈王はその後、いくらも経たずに病を得て異郷の地で果てた。 

そのころ唐の長安には、先に見たように日本の遣唐使一行が抑留されていた。百済平定後、一行の禁は解かれ、10月、長安から洛陽に着いた。そこで、義慈王、扶余隆らが引き立てられるところを目撃している。 

■英雄伝説

百済の滅亡は後世、さまざまな伝説を生んだ。「三千宮女」のほか、「忠臣階伯」もその一つである。滅びゆく国に、妻子を犠牲にして忠誠を尽くしたと語られるこの英雄は、各地に銅像が建てられ、そのどれもが新羅の都慶州の方角をにらんでいるとされる。この間テレビドラマ化されたり、映画化されたりもしてきた。 

階伯将軍像 論山市HP

2003年に公開された映画「黄山伐」を見てみた。韓国で観客270万人を動員したといい、

日本の映画祭でも「黄山ケ原」のタイトルで上映されている。ブラックユーモアにあふれたコメディ作品にしているのが大きな特徴だ。 

나무위키
新羅の金庾信と百済の階伯を中心に、義慈王(百済)、武烈王(新羅)、蘇定方(唐)、淵蓋蘇文(高句麗)ら「三国統一戦争」の英雄が勢ぞろいし、それぞれが「お国言葉」を駆使、史実に沿ったストーリーが展開される。 

圧巻は、慶尚道方言の新羅軍と全羅道方言の百済軍のコテコテの方言のやりとりだ。意思疎通が十分かなわないなか、双方「新羅と百済は根っこからして違うんだ」などと口を極めてののしり合い、悪態の限りを尽くす。 

一方で、階伯の妻が「恥辱の人生より名誉ある死を選べ、だって? 戦いに明け暮れるアンタが、私たち家族に何をしてくれたというの? 国が亡ぼうが、それが子どもの命となんの関係があるというのよ」と伝説をひっくり返し、激しい全羅道弁でまくしたてる。 

朝鮮半島の南部中央には千メートル級の険しい山々が連なる小白山脈が南北に走り、新羅と百済の国境を成した。その山々が国土を東西に分け、嶺南地域(慶尚道)、湖南地域(全羅道)という呼び方で区切られる。 

両地域にはいまも対立感情があると言われ、選挙時などにしばしば問題になったりもする。民族分断の南北対立があることも言うまでもない。映画は、そんな民族内の問題と、さらには韓国社会にいまも根強く残る家父長主義を、コメディならではの機知で痛烈に風刺しているように私には思えた。(つづく)         波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑩~⑫)

『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館)

『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

(1) KBS 역사스페셜 – 삼천궁녀에 가려진 의자왕의 진실 / KBS 2002.11.30. 방송 - YouTube

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)

2024年2月4日日曜日

倭国に及んだ東アジア情勢/百済歴史散策⑪

「落花岩」の少しばかり上流の扶蘇山麓に船着き場があり、私たちはそこでいったん下船した。すぐ近くに、落花岩の宮女たちを慰霊するために建てられたともいわれる皐蘭寺(コランサ)というお寺があり、大きな読経の声がスピーカーから聞こえていた。その横道から扶蘇山を登った。 

中腹まで行くと視界がひらけた。ゆったりと流れる錦江が一望できた。ここから河口の白村江までざっと50キロで、わずかながら海水も届いているという。百済・新羅・高句麗の3国に唐、そして倭国も入り乱れた7世紀後半の北東アジアの大戦争は、この河と周辺地域を一つの主舞台に展開されたのだった。 

河の向こう岸の山麓にならされた広い敷地が見えている。望遠レンズで引くと、道路が通り、植林がなされているのがわかる。ここが王興寺址という。日本の飛鳥寺のモデルになったとみられる寺の址である。 

王興寺址  手前は錦江

日本はこの時代、どのような状況だったのか。錦江一帯で繰り広げられた大戦争について見る前に、当時の倭国のことを概観しておきたい。 

■倭国初の本格寺院

飛鳥真神原(まかみはら)の地において、倭国初の本格的な寺院が建設され始めたのは、崇峻元(五八八)年のことであった。飛鳥には五世紀から渡来人が集住していたが、その一人飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかのきぬぬいのみやつこのおやこのは)の家を撤去して、伽藍が造営されることになった。 

先にも引用した京都大教授吉川真司さんの『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)は飛鳥寺建立のことからこの書を書き起こしている。以下、同書をなぞると概略、つぎのようである。 

■上から下まで百済様式

飛鳥寺創建に着手したのは蘇我馬子だった。百済王が仏舎利を倭国にもたらし、何人もの僧と専門技術者を派遣して造営を援けた。590年用材切り出し開始。592年に仏堂と回廊ができ、596年堂塔完工。鞍作鳥が受けもった造仏には高句麗王が資金支援をしたという。 

こんな経過をへて609年本尊の仏像が完成した。20年の歳月をかけて飛鳥寺は建立されたのである。この間、崇峻天皇は馬子に暗殺され、推古天皇が即位していた。 

1957年の飛鳥寺発掘で見つかった舎利容器には大量の玉類や金銅製装身具が添えられ、武具や馬具も置かれていた。これらは古墳時代後期の副葬品と共通し、古墳から寺院へ、伝統的な祖先祭祀が受け継がれた証拠と考えられてきた。 

ところが21世紀に入り、2007年の王興寺発掘で丁酉年(577)の銘文を刻んだ舎利容器とともに膨大な金銀製装身具や玉類などが出土し、これらは舎利を荘厳する(飾る)品々と理解されている。とすれば、飛鳥寺の出土品も舎利荘厳具と考えるのがよく、百済に学んだとみるのが妥当だろう。 

王興寺址出土の舎利容器 扶余博物館HP

塔の頂部にすえられる相輪をつくったのも百済の技術者たちであり、真神原にそびえ立った五重塔は、まさに上から下まで百済様式を受け継いだと言わなければならない――と、そんなふうに吉川さんは書いている。 

甘樫丘から見た飛鳥寺
韓国ツアーから帰って間もない秋の一日、私は奈良・明日香村に足を運び、甘樫丘の展望台から東南方、飛鳥寺を眺めてみた。木々に隠れて見えないが、丘のすぐ下には飛鳥川が流れているはずである。大河錦江とは比べようもないが、川を挟んで向こうに見える寺の風景はどこか王興寺と重なって見えてくる。

 

■百済・高句麗・倭の共同作戦

飛鳥寺創建には百済と高句麗の援助が欠かせなかった。しかし百済王も高句麗王も、純然たる善意や仏教流布の熱意だけでこうしたことを行ったのではない。背景には、6世紀後葉から急速に動き出した東アジアの国際情勢があった。 

隋唐帝国の出現に伴う動きである。6世紀最後の年である600年は、倭が積極的な外交政策を始めた年だった。新羅に軍隊を送って交戦し、隋にも最初の遣隋使を派遣した。ともに、新情勢と深く関わる施策だった。 

新羅との戦闘は旧加耶領をめぐる抗争だった。百済・高句麗との連携があったとみられる。飛鳥寺の造営援助に続き、百済と高句麗はそれぞれ僧の慧聰、慧慈を派遣し、倭と通じた。とくに高句麗僧の慧慈は聖徳太子の師となった人物だった。 

百済・高句麗・倭のこのような3国共同作戦の成立は7世紀の朝鮮半島情勢の起点といえた。百済・高句麗が滅亡し、倭が完全に放逐されて新羅が半島を統一するまでの歴史過程はここに始まったのだった。 

■「乙巳の変」と「大化改新」

推古天皇亡き後629年に即位した舒明天皇は630年、初の遣唐使を派遣した。朝鮮3国はすでに唐に朝貢し冊封を受けていた。唐はなかでも新羅を重視していた。舒明朝では、そんな新羅も仲立ちに、隋の時代から中国で学んでいた学問僧や留学生が相次いで帰国した。 

僧旻や南淵請安、高向玄理らである。彼らが飛鳥の都に現れると、次代を担う若者たちが新しい政治思想など新知識をどん欲に求めた。そんななかに中大兄皇子や中臣鎌足、蘇我入鹿らもいたのだった。 

642年、舒明の皇后だった皇極天皇が即位した。朝鮮半島での戦争や政変など、東アジア激動の時期と重なった。有力王族が分立していた倭国としても権力集中の一枚岩の国づくりが求められていた。中大兄皇子、中臣鎌足らが決起して蘇我本宗家を滅ぼした6456月のクーデター「乙巳の変」と、それに続く「大化改新」はそんななかで展開していったのである。 

■律令体制への起点

「乙巳の変」を経て孝徳天皇が即位、中大兄が皇太子となり難波宮に遷都して改革に取り組んだ。柱に据えたのは公民制と官僚制だった。

難波宮跡

 

646年、中大兄はクーデターの結果として自らのもとに集中した部民と屯倉を率先返上し、部民の公民化を推進した。官僚制についても649年に十九階冠位制を施行、畿内豪族を官人として体制に組み込み、中央集権化を進めた。これが律令制への起点となっていく。

 そんな改革政権だったが、653年に分裂した。中大兄は孝徳天皇を難波宮に残し、母親の前天皇皇極や妹の皇后間人皇女らとともに飛鳥に移った。百済と新羅・唐のどちら側を重視するかという外交路線の違いが背景としてあったとの見方もある。 

■倭、対外戦争突入へ

654年冬、孝徳天皇は病死し、翌655年正月、前天皇の皇極が重祚して斉明天皇となった。政治の実権は中大兄が握っていた。 

斉明朝は積極的な東北支配に乗り出した。658年から660年まで3次にわたる北征で北海道南部にまで支配を広げたとみられる。その目的に関し、高句麗への北方航路の開拓をめざしたのではないか、という説も提起されている。 

斉明朝の北征は660年で終わった。朝鮮情勢が急変したためだった。同年7月、百済滅亡。倭は総力をあげて対外戦争に突入していった。(つづく)     波佐場 清                      



2024年1月31日水曜日

錦江――韓国第3の大河/百済歴史散策⑩

扶余羅城一帯を見た私たちは錦江(クムガン)に向かった。錦江にはいろいろな呼び名があり、扶余辺りでは「白馬江(ペンマガン)」、すこし上流の公州付近では「熊津江(ウンジンガン)」、そして古代、日本・百済と新羅・唐の間の「白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦い」の戦場となった「白村江」は錦江の河口付近のことと考えられている。韓国では「白村江」とはいわず、「白江(ペッカン)」と言っているようだ。 

最初に案内されたのは「クドゥレ(구드래kudeurae)」というところの船着き場だった。昔から渡し場として開け、いまは付近の観光名所の拠点になっているようだ。ここから遊覧船に乗って錦江の風景を楽しむことになっている。 

クドゥレの船着き場

■百済は、なぜ「くだら」なのか?

遊覧船に乗り込む前に一つ、興味深い話を紹介しておきたい。このツアーで私たちにずっと付き添ってくれた南海国際旅行社の加地光広さん(57)が途中のバスの中で紹介してくれた話である。百済はなぜ、「くだら」なのか、ということだ。 

これは、むかしから発せられてきた問いである。たとえば作家の司馬遼太郎は次のように書いていた。 

  古来、日本ではこの古代国家をクダラとよんできたが、その語源については説得力のある意見はまだ出ていない。本場の朝鮮ではクダラとはいわず、漢音でいう。百済(ビヤッジェ)。「Baek-je」と、ミセス・イムは発音した。……これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にもないふしぎな言葉は、古代に南鮮(ママ)に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。 (司馬遼太郎『街道をゆく 二』朝日新聞社) 

■「구드래→「くだら」

加地さんの説は、「くだら」はここの「クドゥレ(구드래)」からきたに違いない、というのである。要するに、次のようなことだ。

加地光広さん

  

昔、この渡し場から日本に来た百済人がいた。日本人との間で次のような会話が交わされた。

  「お前はどこから来たのか?」 

  「구드래

  「クドレ?」

  「いや、구드래だ」

  「クドラ?」

  「구드래だ」

  「クダラ?」

  「ん、まぁ、そうだ」 

というわけで百済が「くだら」になったというのである。ちょっとこじつけくさい気もするが、とてもおもしろいと思った。 

■カワアカメ

錦江の流れは思っていたほどきれいではなかった。あいにくの曇天だったせいもあるのか、茶色っぽく濁っていた。「白村江」「白江」「白馬江」といった呼び名から勝手に「白砂青松」を思い浮かべていたのがいけなかった。 

桟橋から韓国人観光客がパンくずのようなものを投げている。川面をみると体長20センチほどの黒っぽい魚が大きな口を開けて群がっている。ボラのようにも見えるが、ボラほどに頭が扁平ではない。聞くと、与えているのはポップコーンで、魚はヌンプルゲ(눈불개だという。

カワアカメ Private Aquarium 

日本に帰って調べてみると、カワアカメというコイ科の淡水魚だった。ロシアのアムール川水系から中国大陸、朝鮮半島、ベトナムにかけて分布し、日本には生息していないようだ。ユーラシア大陸から続く朝鮮半島と、島国日本の生態系の違いを改めてかみしめる思いだ。

 


■帆掛けの遊覧船

錦江と帆掛け船

遊覧船は百済時代を再現して帆を張っている。もちろん動力がついており、水量豊かにゆったりと流れる川面をまず、上流に向かってゆっくりと進んだ。現地で私たちを案内してくれた鶴本しおりさん(55)によると、観覧船は24トン級2隻と13トン級3隻が13キロほどの区間を運航しているのだという。

鶴本しおりさん

この付近の川幅は250メートルほどで、これが普段の平均的な水量だという。そんな説明をしてくれた鶴本さんは熊本県の出身。この地に嫁いできて25年になるといい、扶余郡の「文化観光解説士」という肩書をもつ。いってみれば、郡庁の公式観光ガイドというわけである。 

■韓国第3の大河

ここで、錦江について少し説明しておかなければならないだろう。洛東江、漢江に次ぐ韓国第3の大河。全羅北道の小白山脈付近に水源を発してまず北上、忠清道の山間峡谷を蛇行して南西に向きを変えていき、群山市の北で黄海に注ぐ。全長401キロで、日本最長の信濃川より30キロほど長く、流域面積9886平方キロは北上川にほぼ近い。 

錦江 위키백과

流域には、古都の扶余や公州のほか、人口153万の大田広域市や首都機能の分散で2012年に新しく発足した世宗特別自治市(人口38万余)などがある。河川の汚れが心配され、下水浄化施設の拡充や河川敷の緑化なども進められているという。 

■落花岩

上流へしばらく進むと右手(左岸)に百済の「逃げ城」が築かれていた扶蘇山の大きく切り立った絶壁がみえてきた。「落花岩」といわれている。百済の滅亡にあたり、宮女たちがそこから次つぎと身を投げたと言われる。その数3千――。その様子はまるで花が落ちるようだったところから、この名がついたとされる。

落花岩

 

てっぺんに、あずまやのようなものが見えている。水面からの高さは4050メートルほどだろうか。中ほどからやや下の岩場に「落花巌」と赤く刻まれた文字が見えている。 

「三千宮女」は百済滅亡の象徴のように韓国で語られてきた。しかし、3千という数字はオーバーだというのが専門家の見方のようだ。当時の百済の人口や宮殿の規模、経済力から考えて、まったく釣り合わないというのである。 

時代が下ってソウルに都を置いた、より大規模な朝鮮王朝(13921910)で宮女はせいぜい500600人。栄華から急な滅亡というその悲劇性が後世、こうした伝説を生んできたようだ。

                             (つづく)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員    波佐場 清


 

2024年1月27日土曜日

「三国統一戦争」/百済歴史散策⑨

私はいま、この原稿を盧泰敦著(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)をなぞるかたちで書き進めようとしている。韓国人である著者は、百済、高句麗、新羅の3国が争い、結局、新羅が朝鮮半島地域を統合した7世紀のこの戦争を「三国統一戦争」と位置づけ、次のように書いている。 

  韓国史でもっとも大きな影響を与えた戦争は、二〇世紀の朝鮮戦争と三国統一戦争であった。今日、南北朝鮮に住む人々の生は、朝鮮戦争を離れて考えることができないように、七世紀後半以降、我々の祖先が生きてきた軌跡は、三国統一戦争が残した遺産の上に進められた。 

  この戦争で三国は、唐・日本およびモンゴル高原の遊牧民国家など隣接諸国と関係を展開しており、これは周辺の強大国家に囲まれた朝鮮半島の国家が直面しなければならない厳しい現実を理解する鏡となりうる。 

その通りのように私も思う。いま、この北東アジア地域の見るに、中国の急激な台頭と膨張志向はどこか、あの時代と重なって見えなくもない。一方で、分断された朝鮮半島の南北断絶は新たな「二国時代」の到来を思わせる。そんななかにあって日本はどんな立ち位置をとり、どう動くべきなのか。そんなことも頭の片隅に、当時のことを追っていきたい。 

■著者と訳者

本論に入る前に著者など、この書のことを奥付で見ておくと概略、次のようである。 


2012年424日 第1刷発行

盧泰敦(Noh,Tae-Don) 1949年、慶尚南道昌寧郡生まれ。ソウル大学史学科大学院文学博士。ソウル大教授、ソウル大奎章閣韓国学研究院長。著書に『韓国史を通してみた我々と世界についての認識』(1998年)など。

橋本繁 1975年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了、文学博士。専攻は朝鮮古代史。「浦項中城里碑の研究」(『朝鮮学報』)など。 

■唐の膨張政策と高句麗の対抗策

645年、唐の高句麗侵攻は失敗に終わったが、唐はいぜん、東アジアの国際情勢を主導する唯一の強大国だった。高句麗を滅ぼして唐中心の国際秩序を築こうとする膨張政策をそのまま堅持した。各国の動向に立ち入ると、次のとおりである。 

≪唐≫ 

高句麗から撤退した直後、薛延陀を大破。さらに647年から648年にかけ、高句麗に対して小規模な攻撃を繰り返した。そんなとき、新羅の金春秋(キムチュンチュ/のちの武烈王)が唐に入った。高句麗遠征に執念を燃やす太宗(李世民)はこれを歓迎、両国関係は新たな進展をみせていった。 

≪高句麗≫

唐の再侵略に備え、10年以上をかけて遼東平原に築いてきた「千里長城」を646年に完成させた。一方で唐の膨張に共同で対処しうる外国との連衡をはかり、西方遠くソグド地方にまで使者を送った。そのことを示す壁画が1960年代、ウズベキスタン・サマルカンド市郊外のアフラシャブ宮殿址から見つかっている。 

アフラシャブ宮殿壁画の高句麗使臣(右端の2人)  KOREA.net
一方で、高句麗は海を越えて倭との連携を強め、百済と連合して新羅への軍事圧力をかけ続けた。 

■対応迫られた百済、倭国、新羅

≪百済≫

647年から649年にかけて百済は毎年、新羅に攻撃を加えた。唐の意向に逆らった百済には、高句麗が唐の攻撃を阻止できるとの判断があったとみられる。一方で百済は対唐破綻を避けようと651年、朝貢使節を派遣したが、そんな二股政策はいつまでも続かなかった。 

≪倭国≫

唐の高句麗遠征さなかの6456月、倭で「乙巳の変」が起き、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏本宗家を追放。孝徳天皇が即位し大化改新を進めた。唐帝国の膨張で緊迫する国際情勢下、危機意識の高まりが変化への動きを触発したのだった。 

653654年、倭の朝廷は630年以来の遣唐使を派遣。一方で高句麗・百済と交流し、新羅とも交渉するなど全方位の姿勢をみせた。百済と新羅が、倭国を物産豊かな大国とみなして競って交流を求めてくるのを横目に情勢をうかがっていたとみられる。 

≪新羅≫

唐の勢力東進が高句麗によっていったん阻止されたことで、新羅は百済と高句麗の挟み撃ちに遭うかたちとなった。百済と連携した倭の動向も気になった。倭は6469月、唐留学生出身の国博士高向玄理を新羅に遣って話し合いを試みた。そんななかで647年初め、新羅で貴族間の内紛が起き、その後の三国統一戦争に大きな影響を及ぼしていった。 

■金春秋と金庾信

新羅の内紛は「毗曇(ピダム)の乱」といった。新羅最初の女王善徳王の後継候補として再び女性が浮上すると、毗曇という人物を中心とする貴族グループが反乱。王族の金春秋を中心に武将の金庾信(キムユシン)らがこれを鎮圧し、二人目の女王真徳王を立てて実権を掌握していった。 

ソウル南山公園の金庾信像 海外文化弘報院HP
新羅の半島統一に大きな功をあげていくことになる金庾信は、新羅に併合された加耶王室の後裔だった。血統を重んじる新羅にあって出身身分は高くなかったが、妹が金春秋の妻だったこともあり、両雄が連携して中央集権体制づくりを進めていった。 

■新羅と倭国の模索

内部を固めた新羅は金春秋自らが先頭に立って積極外交に乗り出す。647年、前年から倭国の使者として新羅に滞在していた高向玄理といっしょにまず倭国に渡り、続いて翌648年、唐に乗り込んだ。 

金春秋の倭国行きについて『日本書紀』は、倭の「質」要請に応じたとしている。しかし倭国からすぐに帰国し、そのまま唐への使者となっていることなどから見て、「質」という表現は、「蕃国」の新羅に対する日本の優位を示すための作為とする見方がある。 

玄理と春秋の相手国相互訪問は何かをめぐって両国の協力が試みられたことを感じさせる。当時、唐と途絶状態にあった倭としては新羅を通じて唐に改善の意向を伝えたかったとみられる。新羅には倭を「新羅-唐」側に引き入れようとする意図があったとみられる。 

倭はしかし、新たな可能性を探ったものの、対外政策の基本は変えなかった。結果的にそれは百済との友好関係を重視することを意味した。そのことを察知した金春秋は新たな突破口の模索へと動いた。それが続く、唐訪問だった。 

■「新羅-唐」同盟

金春秋は唐で歓待された。高句麗を攻めあぐねていた唐は、高句麗西部の国境線のほかに第2の戦線を設けてその防御力を分散させようと考えていた。そんなところへ金春秋が訪れてきたのだった。 

唐の太宗と金春秋はこの時、一つの約束を交わしたとみてよいだろう。新羅は唐の究極的目標である高句麗滅亡に協力する、その代わりに唐は新羅の当面の目標である百済攻略に賛成するという合意である。 

唐から帰国した金春秋は新羅朝廷に申し立てて官服を唐と同じものに改め、新羅固有の年号を廃止して唐の年号を使うことにした。新羅が唐中心の天下秩序に帰属することを内外に示したのである。 

■倭をめぐり、綱引き

649年に唐の太宗が没すると、高句麗遠征はいったん中止となった。しかし後継の高宗(在位649683)も手綱を緩めなかった。高宗は651年、百済が新羅攻撃を続ければ唐が介入すると明らかにし、倭に対しても654年、新羅支援を要求した。 

こんななかで百済は652年以降、唐への使者派遣を中止。一方で倭には650656年、毎年使節団を送ったと『日本書紀』は伝える。百済のこうした動きは「高句麗-倭」と連携して「唐-新羅」に対抗しようという立場の表明といえたが、倭は自らの立場を明確にしなかった。 

この間、新羅も毎年、倭に使者を送った。倭に、「百済-高句麗」側でなく「新羅-唐」側を選ばせようとしたのである。百済・高句麗と対決した新羅は背後の倭に注意を払わないわけにはいかなかった。 

■「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」

「百済-高句麗」vs「新羅-唐」の対決様相の深まりを横目に、倭は慎重な両面外交を展開した。島国の有利さを生かし、ゆっくりと国益を最大化しようとした可能性がある。しかし、状況はそれほど余裕のあるものではなかった。 

新羅は、倭に「唐-新羅」側につく意思がないと判断したとみられ、657年、倭が新羅に求めた唐への使者や留学生の新羅経由の派遣を拒否。彼らを倭国に送り返し、倭との公式接触を断った。 

これによって「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」の対立構図が明確になった。それでも倭の朝廷は、こうした構図とその深刻さを十分把握できないまま6597月にも唐に遣使した。同年末、その遣唐使一行が帰国しようとすると、唐の朝廷は一行を長安に抑留した。翌年の対百済攻撃の機密がもれることを憂慮したのだった。 

百済の命運が尽きる、660年のその日が近づいていた。 (つづく)

                             波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑦~⑨)

金思燁『朝鮮の風土と文化』(六興出版)

金思燁『朝鮮のこころ 民族の詩と真実』(講談社現代新書)

金思燁全集刊行委員会『金思燁全集25 完訳三国遺事』(図書刊行会)

南廷昊(植田喜兵成智訳)「百済武王と王妃と義慈王の生母に関する考察」『学習院大学国際研究教育機構研究年報 第2号』kenkyunenpo_2_113_133.pdf

韓国民族文化大百科事典부여나성(扶餘羅城) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)

崔夢竜(河廷竜訳)『百済をもう一度考える』(図書出版周留城)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)