2017年5月25日木曜日

安保面でも金大中・盧武鉉政権はすぐれていた/文在寅政権の対北政策②

――この10年、南北はほとんど断絶状態でした。南北交流の面で、朴槿恵、李明博両政権をどう評価されますか。

■李明博・朴槿恵政権で経済生活悪化
私は講演するさい、とくに力を入れて説明していることがあります。朴槿恵政権は過去の金大中・盧武鉉政権と比べ、経済、そして安保の面でも無能だということです。金大中・盧武鉉政権と李明博・朴槿恵政権の経済成績を比べると、すべての指標で金大中・盧武鉉時代の方がすぐれています。
 

大統領選投票を翌日に控えた58日夜、ソウル光化門広場に現れた文在寅候補。
若者たちの支持が当選への大きな原動力になった=韓国カトリック大生の姜明錫君写す

 株価指数や雇用率、失業率はもとより、経済成長率、所得増加率、輸出増加率など、どの指標をとっても金大中・盧武鉉政権の方がよかった。李明博・朴槿恵政権時代は惨憺たる状況で、国民生活は苦しくなった。いちいち説明しなくてもそこは国民もほぼ共感できていると思います。

■南北関係も破綻
ところで、安保、国家観、愛国心…そういう点で依然としてまだ、セヌリ党の方がどこかよさそうだ、何か確実なようだ、という固定観念を持っている人たちがいます。それで、ともすると従北といったような安保パラダイムを持ち出すのです。

<訳注:「セヌリ党」は、朴槿恵政権の与党で、いまの自由韓国党の前身。「従北」は、北朝鮮の言いなりになるといった意味。韓国の保守勢力が「親北派」を見下すニュアンスで使うことが多い>

私はもう、安保についても正面から勝負をすべきだと思っています。安保面も一つひとつ比べてみせれば、金大中・盧武鉉政権の方が李明博・朴槿恵政権より数段よかったということを誰もが認めるでしょう。

実際、結果を見れば分かることです。いまの南北関係は破綻して深刻な状況にあり、私たちは戦争を心配するような状況になってしまっています。

■軍隊経験のない安保無能・非愛国勢力
安保の分野でもわが民主党は今はもう防御的であったり、守勢的であったりせずに、もっと能動的、攻勢的に出るべきです。実際、セヌリ党をはじめ朴槿恵政権は「安保無能勢力」、さらに言えば「非愛国勢力」です。

軍隊にもほとんど行っていない勢力です。そういう彼らがともすると、反共か容共かといったような理念論、従北論にいく。

安保に無能かどうか、比べて見れば分かることです。金大中政権時代には2度にわたる海戦があったが、北側の方により大きな被害を与え、撃退しました。「延坪海戦」を見た人はよく分かるでしょう。金大中政権はNLLを鉄桶のごとく守り抜きました。NLLより南へ、北は一歩たりとも来られなかったのです。

<訳注:「延坪海戦」は、黄海の延坪島付近で起きた南北艦艇の銃撃戦。19996月と20026月、金大中政権下で2度発生し、いずれも韓国軍優位に推移した。「NLL」は、朝鮮戦争休戦協定調印後の19538月、国連軍司令部が黄海上に南北の境界線として一方的に引いた北方限界線のこと。北朝鮮側はこれを認めずに別の境界線を主張、これがこの海域における軍事衝突の背景にある>

■盧武鉉政権では予防安保
盧武鉉政権の時は南北間に軍事衝突は一件もありませんでした。軍事衝突でかけがえのない命を犠牲にした国民や将兵はただの一人もおらず、北はNLLを侵犯しようという試みすらしませんでした。予防的な安保をおこなったからです。

ところで、李明博政権はどうだったでしょうか。天安艦事件や延坪島砲撃事件が起こるなど、NLLは破られ、無力化しました。国民のかけがえのない命が失われた。

<訳注:「天安艦事件」は20103、黄海・白翎島近くのNLL付近を航行していた韓国軍哨戒艦「天安」が爆発して沈没、乗組員46人が犠牲になった。韓国側は北朝鮮の魚雷攻撃を受けて沈没したとの調査結果を発表(北朝鮮側は否定)。「延坪島砲撃事件」は、同年11月、北朝鮮軍が黄海のNLL越しに韓国の大延坪島を砲撃。韓国側で民間人を含む4人が死亡、多数の負傷者が出た>

政府の発表によると、天安艦事件は北の潜水艦が韓国領海に入ってきて白翎島の南にいた韓国の軍艦を爆破して北に戻ったという。まんまとしてやられたというわけです。いまも(北の潜水艦が侵入した)その経路が分からず、政府の発表は国際社会でまともに信用されていません。これで、安保面で有能だといえるのでしょうか。

■国防予算も多かった盧武鉉政権
朴槿恵政権になってからは初めから戦争が心配でした。大統領の口から戦争の話が出ました。ぎくっとします。国民を安心させ、安全を保障するのが安保なのに、完全に失敗したのです。

たとえば、国防予算の増加率は盧武鉉政権の時は年平均9%程度でした。一般予算の増加率よりもずっと高かった。それが李明博政権、朴槿恵政権になってからは5%、4%台に落ちました。

盧武鉉政権のスタート時、国防予算はGDP2.7%でした。盧武鉉政権はそれを3%程度にまで引き上げる目標を立て、2012年には2.9%まで上げました。ところが、李明博・朴槿恵政権と続くなかで2.4%にまで下げてしまった。

盧武鉉政権は国防予算を増やしたことで進歩陣営から大変な非難を受けました。しかし、戦時の作戦指揮権を持ち、自主国防をしなければならないという究極の目標があり、自主国防態勢を整えるためにそれだけ多くの国防予算をつぎ込んだのでした。言ってみれば、国防のための財政努力という面でも金大中・盧武鉉政権の方が数段上だったというわけです。

■犠牲・献身のDNA
金大中・盧武鉉政権の内閣に起用された人たちは過去、民主化闘争で処罰された経歴のために軍隊に行けなかった人を除くと、みな軍服務を体験していました。ところが、李明博・朴槿恵政権を通してみても軍隊に行ってきた国務総理は1人か2人しかいません。

延坪島砲撃事件のとき、青瓦台の「地下バンカー」ということが言われましたが、この言葉も彼らが使ったのでした。盧武鉉政権のときには「状況室」だったのに、それをあえて地下バンカーと表現し、李明博大統領は空軍のジャンパーを着て安保長官会議を開いたのでした。

その会議出席者のうち、まともに軍隊に行ってきたのは陸士出身の国防長官一人だけでした。大統領、国務総理、秘書室長、国情院長…みな、ずらりと軍に行っていない人たちでした。

そのような人たちにどのような愛国心があり、どんな国家観があるというのでしょうか。国家に対する義務は反則で逃れ、特権は享受しようという人たちなのです。

安保の面でも、国家観、愛国心の面でも比べられないほど金大中・盧武鉉政権の方がすぐれていました。私たちは国家と民族のために民主化運動をして拘束されもし、学校を除籍されたり、職場を追われたりもしました。

私たちには国のために犠牲になり、献身するDNAのようなものが体内にあります。しかし、彼らにはそのようなものはなかったのです。

2017年5月22日月曜日

南北関係はどうなる/文在寅政権の対北政策


韓国の文在寅(ムン・ジェイン)新政権はまずは順調なスタートを切りつつあるようだ。文在寅大統領はこの先、どのような政策を進めるのか。とりわけ気になるのは北東アジア情勢に直結するその対北政策、南北関係だ。

文在寅氏は今年1月ソウルで出版された本の中で諸政策についてかなり詳しく語っていた。『大韓民国は問う――まったく新しい国、文在寅は答える』と題した作家・文亨烈氏との対談本である。今回の大統領選に向けた公約の性格を帯びたものだったが、そこでは対北政策の基本哲学といったものについても語っている。目についた部分を抄訳し、その対北政策を占うよすがとしたい。(波佐場 清)

文亨烈 朝鮮半島は休戦状態で、北朝鮮の核問題で常に緊張状態にあります。南北対話や統一に関しどのような構想を描いていますか。南北間に和解と平和の風穴を開けるにはどうしたらいいと考えますか?

■まずは経済分野の統一から
文在寅 いったん、統一の過程を2段階に分けて考えてみることができます。まず、経済分野で統一を達成することです。経済分野の統一は韓国経済を回復させる道であり、韓国経済の新しい突破口にもなります。

<訳注:「統一は経済の分野から」とする考えは、韓国民主化後の盧泰愚政権(198893年)以来、歴代政権が掲げてきた「民族共同体統一案」に沿ったものだ。それはヨーロッパ統合構想と重ね合わせて考えると分かりやすい。

ヨーロッパの統合は、

ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体/1952年設立)→EEC(欧州経済共同体/58年)、EURATOM(欧州原子力共同体/58年)→EC(欧州共同体/67年)→EU(欧州連合/93年)

という過程を経て進展してきた。まずは経済の統合から入り、いまの連合(EU)段階にまで進んできたわけである。実現の可能性はともかくも、ゆくゆくは政治の統合も、というのがヨーロッパ統合の理念だった。

韓国の統一構想はこれをモデルに、南北でまず経済共同体をつくり、それを社会や文化の共同体にまで広げて一つの共同生活圏にし、実質的な統一状態をつくることを当面の目標としている。そうした過程を制度化し、平和的に管理するための南北連合をつくろうというのがこの構想の核心といえる。


大統領選投票を翌日に控えた58日夜、文在寅候補がソウルの光化門広場で最後の訴え
=韓国カトリック大生、姜明錫君写す
 
 

過去、金大中政権(19982003年)と盧武鉉政権(200308年)は、この構想を下敷きに対北和解協力政策を推進。続く李明博政権(0813年)と朴槿恵政権(1317年)は北の核問題解決を前提にした形の「核連携戦略」をとったことで南北関係はいま、断絶状態に陥っている。

文在寅政権は金大中・盧武鉉政権を引き継ぎ、核問題解決と和解協力の「並行戦略」で対北関係を打開し、南北の経済協力を積極的に進めようとしているとみられる>

■「鉄のシルクロード」推進
先ごろ、ロシアが日本に鉄道の連結を提案したが、それを見て胸が塞がるような思いでした。

<訳注:例えば2016103日の「産経ニュース」は、日本とロシアの経済協力に関し、ロシア側がシベリア鉄道を延伸し、サハリンから北海道までをつなぐ大陸横断鉄道の建設を求めていることが分かった――と報じた。 http://www.sankei.com/politics/news/161003/plt1610030005-n1.html

それは韓国の夢だからです。韓国の鉄道が北朝鮮を通ってシベリア鉄道とつながり、シベリア鉄道が中国の鉄道とつながって大陸、さらにその先のヨーロッパにまで行くルート。金大中大統領が言っていた「鉄のシルクロード」を推進してきていたが、李明博政権になって中断してしまった。

朴槿恵大統領も口では言ったが、何もしませんでした。鉄道だけではありません。鉄道を繋ぐことができれば、ガス管をシベリアから北経由で南まで延伸できます。

■モンゴルで太陽光・風力発電
さらに、モンゴルに大規模な太陽光や風力の発電所ができれば、それをアジアのシルクロードから北を経て韓国に持ってくることもできる。無窮無尽の経済領域が生まれることになるのです。そのようなチャンスを有する国は韓国以外にありません。

ところが、日本とロシアが鉄道を繋ぐことになれば、韓国は大陸に出ていく機会と通路を失ってしまうことになる。南北で経済の統一がなされれば、8千万人の内需市場を持つことになり、それだけでも相当に成長潜在力を高めることができます。

そうなると、米国、中国、ドイツ、日本に次ぐくらいの経済大国になるか、場合によっては日本を追い越すだろうという世界の研究機関の展望もあります。このように、経済統一がなされると、次はいつになるかは分からないとはいえ、政治・軍事面の統一の道がおのずと開けると見ています。小さな水滴が岩をも穿つように、ということです。(つづく)

2017年5月16日火曜日

安倍首相は心から国民を守ろうとしているのか/北朝鮮のミサイル発射

「北朝鮮のミサイル発射で地下鉄や新幹線を止めたんだって? 日本の慎重さ…石橋をたたいても渡らないような社会であることはよく知っているけど、あきれてしまった。ミサイル落下時にはガラス窓から離れるように、と政府が呼びかけているそうだけど、核ミサイルだったらどうするの? 思わず笑ってしまった」

韓国大統領選の取材でソウルを訪れ、東京特派員も経験した友人の元ジャーナリストと話していてこんなことを言われた。私は反問した。

――確かにソウル市民は平静なようにみえる。戦争が起これば、「ソウルは火の海」といわれているのに、どうしてこうも平静でいられるのか。

友人はこう説明してくれた。

■内戦を知らない日本人
「われわれは戦争を知っている。それも朝鮮戦争という内戦だ。同族、身内同士が殺し合う内戦はいかに悲惨なものか。その戦争の砲火が止んでまだ64年…それもいまだ休戦の状態だ。悲惨さの記憶は北の人間にもしみついている」

「加えて、いまの南北の国力差と周辺情勢。北は、戦争が起きたとたんに自ら滅んでしまうことを知っている。そのことも、あの内戦で十分に実感できている。戦争は簡単には起こらない」

「それに比べて日本はどうか。日本は戦後72年というが、日本人が体験したあの戦争は内戦ではなかった。地上戦も、沖縄以外は経験していない。日本の本格的な内戦といえば、400年以上も前の関ヶ原の戦いだろう。日本人にはわれわれ韓国人の戦争観は分からないだろう」

淡々とした口調でこう語る友人に、私はしばらく返す言葉を失った。日本の内戦は「関ヶ原」の後も実際には起きている。近くは戊辰戦争(186869)のことが思い浮かぶ。しかし、それももう150年近くも前のことになる。戦場はかなり限定され、死者は1万人前後だったようだ。

■死者400万人の朝鮮戦争
それに比べると、朝鮮戦争という内戦は、朝鮮半島のほぼ全域が戦場となり、死者は一説に、南北合わせて400万人ともいわれる。太平洋戦争における日本人の死者総数が310万人とされること、朝鮮半島の当時の人口が日本の半分以下であったことを考えると、それはいかにすさまじいものであったか。それによって南北に散り散りになった離散家族は1千万人ともいわれ、今なお、その傷はうずいているのである。

友人の元ジャーナリストは日韓の置かれた立場の違いについてこうも言った。

「この60年以上にわたる休戦期間中、韓国はずっと前線で北朝鮮と向き合ってきた。その間何度か『戦争再発の危機』があった。でも、その度ごとに避難騒ぎをしていたりしていては、日々の生活もままならない。この気持ちは、海を挟んだ日本にあっては分からないだろう」

■日本海が前線に
前線といえば、先月、防衛大学校の倉田秀也教授が次のような指摘をしていたことが強く頭に焼き付いている。421日付産経新聞「正論」欄である。

≪クリントン政権下、後に「第1次核危機」と呼ばれる1993年から94年、北朝鮮は既に韓国を「人質」にとっていたが、日本はまだそうはなっていなかった。…従って「第1次核危機」の前線は軍事境界線に引かれていた。だからこそ、板門店での南北協議で北朝鮮代表は「ソウルを火の海にする」と述べた。

四半世紀後、北朝鮮は日本も「人質」にとる核ミサイル能力を蓄積し、米本土を射程に収める大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実戦配備に及ぼうとしている≫

そして、いまの危機。倉田教授は、ブッシュ政権期の「第2次核危機」に続く「第3次核危機」と呼ばれていいとして、次のように書く。

≪「第3次核危機」の前線は、軍事境界線だけでなく同時に日本海にも引かれている。過日、宋日昊・日朝国交正常化交渉大使も、今回の危機で「一番の被害は日本が受ける」と述べた≫

倉田教授はさらにいまのトランプ政権に関し、「米国が軍事的措置をとる可能性は排除できない」とし、次のように続ける。

≪それは確実に北朝鮮による「人質」への武力行使を招くであろう。ソウルへの攻撃で朝鮮半島は「戦時」に陥る。その際、さらに在日米軍基地が使用されれば、北朝鮮の反撃は日本にも及ぶ。…≫

説得力ある論考である。しかし、倉田教授はこのあと、
≪北朝鮮に対する軍事的措置は一見、同盟国を危殆に晒す非合理的なオプションだが、北朝鮮に非核化を強要し、「核の傘」の信頼性を保つためには示されてしかるべき措置とはいえないか≫
などとしている点には、私はついて行けない。

北朝鮮の「非核化」は達成できても、東京や大阪が火の海になるのでは何の意味もない。平和の確保こそが絶対に譲れない大前提だ。すべてにそれを最優先させたうえで北朝鮮の非核化を考えないといけない。北朝鮮に核を持たせてしまった今となっては時間をかけ、最後は話し合いで説得していく以外にないのである。

■政府の無責任さ
14日、北朝鮮はまたしても日本海に向けてミサイル発射実験をおこなった。平壌発の朝鮮中央通信によると、新しく開発した地対地中長距離戦略弾道ロケット「火星12」型の試射、だったといい、「予定の飛行軌道に沿って最大頂点高度2111.5キロまで上昇飛行して距離787キロの公海上の設定された目標水域を正確に打撃した」とした。


今回は電車も新幹線も止まらなかった。政府も、発射情報や避難勧告を伝える全国瞬時警報システム「Jアラート」を作動させなかった。菅義偉官房長官は「わが国に飛来する可能性はないと判断した」と説明している。

それにしてもこの間の政府の対応は無責任すぎる。その点を突いたメディアの論評などもあまり見かけなかった。

そんななかで私の心に響いた指摘が朝日新聞オピニオン面の「声」欄に載っていた。「首相官邸ツイート 無責任だ」との見出しが付いた54日付の無職中西幸男さん(大阪府 67)の投稿である。

そこでは、首相官邸が「弾道ミサイル落下時に取るべき行動」として「屋外では頑丈な建物や地下街へ」「屋内では窓から離れるか、窓のない部屋へ」などと呼びかけていることについて、次のように批判している。

≪安倍晋三首相は4月、北朝鮮がサリンをミサイル弾頭に装着する能力を保有している可能性があると国会答弁した。だが、日本政府が言う「国民保護」はこの程度のものなのだ。できもしないこと、できたところで何の役にも立たないことを指示する無責任さに腹が立つ≫

そして中西さんは戦時中、内務省が国民向け冊子で「焼夷弾が落ちたら、シャベルですくい出す」といった無意味な指導をして惨禍を広げたと指摘し、次のように問うている。

≪本当に国民保護をするなら、ミサイルが発射されないよう渾身の力を傾けるべきだ。戦争になっても被害が及ぶ可能性の少ない米国に追従し、危機感をあおるのが愚かとは思わぬか≫

まったく同感である。

■対話へ柔軟姿勢も示す時
14日のミサイル発射について、安倍首相は米韓と連携して警戒監視に万全を期すよう指示し、「国際社会と連携しながら毅然と対応する」との方針も示したという。

しかし、「毅然と対応する」ことが、国民の安全確保にそのまま結びつくとはいえない。「毅然さ」を否定するものではないが、併せて北朝鮮との対話にも柔軟姿勢を示しておくべき時だ。折から韓国に新しく登場した文在寅大統領は「条件が整えば平壌にも行く」との決意を示している。

その文在寅氏は、こんどの大統領選に向けて次のようなことも言っていた。

「積極的な対策もなくただ非難するだけだったので北の核が兵器化したのだ。北の核問題で国際協力のもとに制裁するのも北を話し合いのテーブルに着かせるためなのだ。究極的には対話と協議だ」

「北の核問題を解決しようとするなら、国際的に制裁し、協議し、圧迫もしないといけない。しかしその制裁や圧迫すらも協議のためだ。そのような努力をまったくしてみもしないで拳を振り上げてばかりいてはなにもできない」(今年1月にソウルで発行された対談本『大韓民国は問う』の中での発言)

文在寅氏はこの間、対北朝鮮政策について金大中・盧武鉉政権で展開した「包容政策」をさらに発展させると繰り返し強調してきた。14日の北朝鮮のミサイル発射には厳しい姿勢を見せているが、対話は否定していない。対北関与政策で問題解決をはかろうという文在寅大統領の基本戦略は動かないとみられる。

日本はいま、韓国と同様、北朝鮮と前線で向き合っている。その北朝鮮への対応は、後方の米国などとは自ずと違って当然だろう。安倍首相はほんとうに国民の生命と安全を守ろうとしているのだろうか。

2017年4月16日日曜日

続・文在寅回顧録④――富裕層の子らの中で…

■目立たない子だった
小学校時代、私は目立たない子どもだった。背が低く、体も弱かった。とても内向的で、先生の関心を引いたこともなかった。授業時間以外に先生ととくに話したという記憶もない。実際のところ、貧しい地区にあって1クラス80人を超える児童がいたのだから先生も一人一人を注意深く見守るということはできなかったと思う。

学期末や学年末に先生は通知簿をくれた。「秀」「優」「美」「良」「可」の5段階だったが、5年生まで私は「秀」はめったになく、ほとんどが「優」か「美」で、「良」もあった。3段階で評価した発育状況もまあまあというところだった。私は成績にとくに関心はなかった。父母も通知簿を見てとがめたりすることはなかった。


中学校に入試があった時代で、6年生になると学校では遅くまで勉強させた。毎日のように試験があり、模擬試験もしょっちゅう行われた。そうして4月ごろになり、私は勉強ができる方だということに初めて気が付いた[*]。

[*当時、韓国の義務教育は小学校までだった。韓国の新学期は3月から始まる]

■補習受けずに難関中学合格
ある日、担任の先生が私を呼んだかと思うと「成績が非常にいい」とほめちぎった。そうして私に補習授業を受ければ一流の中学校に行けるので、家で相談してくるように、というのだった。

クラスで勉強のできる子らはたいがい5年生の2学期ごろから担任の先生の補習授業を受けていることが分かった。放課後、先生の家に集まり夜遅くまで勉強するのだという。しかし、その授業料はわが家ではとても無理だった。家庭の事情が許さない、と先生に伝えた。家にはそのことについては何も話さなかった。

純真な時だったので、私は余計なことは考えずに一生懸命勉強した。入試は全科目で音楽、美術、体育も含まれていた。この3科目では体育だけに実技があり、音楽と美術は筆記だけだった。小学校時代を通してオルガンのような楽器で音楽教育を受けたことは一度もなかった。音符記号だけをそのまま暗記して試験を受けた。

体育の試験は徒競走、幅跳び、投擲、懸垂などだった。腕の力が弱く、懸垂がまったくできなかった。友だちから、酢をたくさん飲めば骨が柔らかくなり、懸垂がうまくできるようになると聞いた。試してみたくなり、母のいないときに台所で酢をごくんと一口飲んでみた。

このごろのような醸造酢ではなく、氷酢酸だった。口に入った瞬間、火が出たように熱くなった。瞬時に吐き出したおかげで胃にまでは行かなかった。もし、そうなっていたら、大変なことになっていただろう。

それでも唇と口の中、食道までが腫れあがり、何日間か食事がうまくできなかった。痛いというより、恥ずかしくて顔も上げられなかった。あとで、後輩たちの間で入試のさいのがむしゃらぶりの一例として語り草になったと聞いた。

ラッキーにも当時、釜山で一番といわれた慶南中学に合格できた。私がいた小学校出身の合格者は何人もいなかった。父も母もほんとうに喜んだ。私が生まれてから、いちばん喜んでもらえたことだったと思う。

父は私を連れて国際市場[*]の学生服を仕立てる店に行き、制服をつくってくれた。そういう場合、父はいつも咸鏡道出身の人の店に行った。学生服店の主人が学校名を聞いて祝いの言葉を述べたときの父の誇らしげな様子はいまだに覚えている。

[*国際市場は、釜山の中心部に位置する釜山を代表する市場の一つ。朝鮮戦争後、米軍の援助物資やヤミ物資などを避難民らが扱ってにぎわい、発展してきた。この「続・文在寅回顧録」の初回で取り上げた韓国映画「国際市場」は、この市場を舞台回しにしている]

■富裕層の子らの中で…
いったん中学入試にパスすると、高校の入試は易しかった。
慶南中学校は市内の富裕層が住む地区にあり、生徒らもだいたいが裕福だった。登校してみると、入学前に塾で英語を習ってきた子が多かった。中学校で習う前に英語の本をすらすらと読むのだった。

廊下に張り出された「Boys, be ambitious!」といった文章を自分たちだけで読み、解釈し合っているのを見て、私は初めから気圧されてしまった。貧しい子が多かった小学校の時とはまったく雰囲気が違っていた。

遊びの方や小遣いが違い、いっしょに交わるのは難しかった。時々友だちの家について行ってみたが、初めて見る豪奢な家や庭、家具には驚くばかりだった。加えて、そこで働いている人たちから「お坊ちゃん」と崇められる友人の様子に気後れしたこともあった。

当時、富裕層には「女中」と呼ばれる家事手伝いを置いている家が多かった。世の中の不公平というものを初めて強く感じだ。

■読書の楽しさ知る
だんだんと学校の図書館で過ごす時間が多くなった。本を読んでいる時が一番幸せだった。本が好きになったのは父のおかげだった。父が商売をしていた時期、いちど仕事に出ると1カ月ほども帰らないことがあった。

父は帰るたびに必ず、私のために童話や児童文学、偉人伝のような本を買ってきてくれた。アンデルセン童話集、姜小泉の児童文学、子供向けのプルターク英雄伝のような本だった。

「家なき子」のような外国作家の長編児童文学もあった。教科書以外に初めて接する本で、非常におもしろかった。父が次の本を買ってくるまで2度、3度と読み返した。

父が商売をやめ、本を買ってくることがなくなってからは、いつも本に飢えていた。新学年になって教科書が手に入ると、私のものだけでなく3年上の姉の分までも読みあさり、おもしろそうなものは一気に読み終えたりした。「国語」や「社会生活」に載っている話などだった。

そんななか、中学に入って図書館を知った。読む本は、それこそいくらでもあった。手当たり次第に読んでいった。その面白さにはまり、2年生の時には3カ月ほど毎日、図書館が閉まるまで本を読んでいた。最後に椅子の整理の手伝いをしてから帰る日が続いたこともあった。

■社会意識の目覚め
時間があれば学校の図書館に行くか本の貸し出しを受けて読む、という生活は高校を卒業するまで続いた。韓国の小説に始まり、外国の小説、そしてしだいに他の分野へと領域が広がっていった。手当たり次第だった。「思想界」(*)のような意識を目覚めさせる雑誌に接するのも比較的早かった。

(*「思想界」は1950年代、在野の白楽濬、張俊河氏らが私財を投じてつくった雑誌。李承晩、朴正煕の独裁政権に立ち向かった勢力の主張を代弁し、知識人や学生らの間で爆発的な人気を呼んだ)

卑猥な小説本も早くに読んでみた。読書計画や目標といったものはなく、やみくもに読んだ。中学・高校の6年間を通じてずいぶんと読み、それを通じて世の中や人生について知るようになった。そこから社会的な意識も生まれた。

中学の時に読んだ金燦三教授の「世界一周無銭旅行記」のような本は私に世界旅行の夢を抱かせてくれた。もちろん、未だに夢のままである。それでもネパール、インドのトレッキング旅行とシルクロード旅行だけでもできたのはそんな夢を育んできたからだった。

私はいまでも本を読むのが好きだ。いや、好きというレベルを超え、時には活字中毒になっているようにも思える。どこかへ旅行するときも、持って行く本で荷物が重たくなってしまう。寝る時も手の届くところに本がないと、どこか落ち着かない。

■入試の勉強疎かに
読書に集中するあまり、自ずと学校の勉強はおざなりになった。入試のための勉強がさほど重要とは思えなかった。ただ上位圏を維持することで満足した。父母も試験期間中ですらほかの本を読むのを見ても、とがめたりはしなかった。それなりの席次を維持していたので、やるべきことはやっているのだろうと信じていたようだ。

父母は中学・高校の6年間を通じて私に勉強しろと説教したり、干渉したりしたことはなかった。私のことを信じて任せてくれた。私はそんな自由を学校の勉強ために使わず、突飛な方向に使ったというわけだった。

結局、のちに大学入試で、その対価を払うことになった。それでも読書で私の内面が成長した。社会的な意識も持つようになった。十分な対価が得られたと思っている。

私が比較的早い時期に社会的な意識を育てることができたのには、早くから新聞を読んでいたことがあると思う。本に飢えていたのと同じ理由で、私は父が読む新聞を小さな時から読んでいた。

当時の新聞は漢字をけっこう使っていた。初めは漢字がない連載小説のようなものだけを読んでいたのだが、そのうちに漢字が交じった記事も読むようになった。慣れてくると、前後の文脈から理解できるようになり、しょっちゅう出てくる簡単な漢字はマスターできた。

父は当時、代表的な野党紙として知られた「東亜日報」の固定読者だった。私もその新聞を長い間読むことで社会の現実に対する批判意識を育むことができた。そういう意味でも、最近あまりにも変わってしまった「東亜日報」が私にはもどかしい。元の姿を取り戻してくれるよう願わざるを得ない、そんな昔からの読者のうちの一人といえる。

2017年4月9日日曜日

続・文在寅回顧録③――弁当がなく、トウモロコシ粥すすった

■学校への納入金を出せない子がいた
小学校の時、毎月学校に納めるお金があった。初めは「月謝」といっていたが、のちに父母会費」という言い方にかわった。それが6年生のころには、また「育成会費」という名前になったと記憶している。貧しくて、そのお金を期限内に納められない子が多かった。

担任の先生はそんな子の名前を呼び、督促した。立たせて叱りつけたりもした。それでもお金を持ってこない時は、家に行ってお金をもらってくるよう、授業中に教室から追い出した。


1クラス80人ほどだったが、そのように追い出される子が20人ほども数えた。わが家は貧しくはあったが、学校に出すお金くらいは何とか都合してくれた。それでもどうしても遅れてしまうときがあり、他の子らといっしょに家に取りにやらされたこともあった。

貧しいと、機転を利かせるようになるのも早いものだ。教室を追い出されたからといって家に行く子はほとんどいなかった。家に行ったからといって解決する問題でもなく、親の心を痛めるだけだった。

そのままみんなで二松島の浜辺へ行って遊び、学校が終わるころに教室に戻った。先生には「家には誰もいなかった」とか、「お母さんが近いうちに、といっている」などと、さも家に行ってきたかのようなウソを言うのだった。

■一部は担任のポケットに
小学校6年生の時、そのように教室を追いだされたあと貸本屋で漫画をみていて出てきたところを偶然、担任の先生に見つかってしまったことがある。全員、学校に引っ張っていかれ、しこたま殴られた。こうしていつもいじめられているうちにやがて、学校に行かなくなってしまう子もいた。

そんな子とあとで会ってみると、製菓店や洋服屋のようなところで下働きをしたりしていた。卒業間近になって分かったのだが、父母会費や育成会費[*]は全員が出さなければならないものでもなかった。正確には覚えていないが、学級の3分の2の児童が出せばよかったのだ。超過分は担任の収入になったので、督促していたのだ。

[*育成会費は学校の運営に必要な資金を得るため授業料とは別に集めた。1997年までに全面廃止された]

■「衛生検査」で辱め
貧しい子どもたちは正月か秋夕の時以外、銭湯に行けなかった。先生たちは衛生検査だといって時々、上半身を裸にさせて調べ、垢が多いと、みんなの前で辱めたりもした。私はそんなことは一度もなかったが、辱めを受けるほかの子を見るだけで侮蔑感とともに反抗心を覚えたものだ。

小学校で弁当が必要な学年になっても大半の子は弁当を持って来られなかった。弁当のない子には学校で給食を出した。学校に供給される食材が一定していなかったためか、トウモロコシの餅が一個ずつの時と半個ずつの時があった。それさえないときは、トウモロコシのお粥だった。

ところで、そんなときも給食を分ける器というものがなかった。トウモロコシの餅のときはそれでもよかったが、お粥の時が問題だった。弁当を持ってきた子たちから、弁当のふたを借りてお粥をよそってもらうようにした。弁当のふたが足りないときは2人が交替で使うこともあった。

■傷ついた自尊心
私もそのようにして給食を食べた。弁当のふたを借りる時はその度に自尊心が傷ついた。「学校で器を提供してくれるか、それがむずかしいのなら家から持ってくるようにすればいいのに…」と思った。

そのような個人的な経験もあり、このところの給食無償化論争を関心深く見守っている。盧武鉉政権の時期、欠食児童を対象に夏休み期間中などの給食を初めてスタートさせてみた。最初の実施期間が終わった後で点検してみると、支給率は思いのほか低かった。

原因を調べてみると、子らの自尊心を傷つけないやり方を考えておらず、給食の支給を受けるよりは、むしろ空腹を耐える方を選ぶ子が多いということが分かった。給食以上に、自尊心を守ってやることの方が大事なのだということが確認できた。

■自転車に乗れなかった
貧しいがために、やりたくてもできないことも多かった。お金のかかることは初めから父母に言い出せなかった。私は今も自転車に乗ることができない。家に自転車というものがなかったからだ。中学校時代、学校の前に自転車を貸し出す店があり、放課後にそれを借りて乗る友だちもいたが、それもお金がかかったので、私はやれなかった。

幼いころには好きだったコマ回しやチャチギ[*]、凧揚げのような遊び道具も買えず、家で作った。他の子らは父親や兄に作ってもらっていた。私は、父が商売に出て家にいなかったので自分で作った。たとえ、父が家にいたとしても元来、手先が不器用な人だったのであまりあてにならなかったと思う。

[*자치기=短い棒を長い棒で打ち飛ばし、飛距離を競う子どもの遊び]


凧糸用の糸巻は、簡単なものは自分で作れたが、巻く速度がずっと速くなる型のものは作れず、毎年悔しい思いをしたものだ。輪回しの棒も自分で作ろうとしてみたが、うまくいかった。

小学校3年生か4年生のとき、台所の包丁でチャチギ用の棒を削っていて左手の人差し指を過って傷つけてしまった。爪のほぼ3分の1を切ってしまうほどの深い傷だった。とても痛く、たくさんの血が出て怖かったが、家にはだれもおらず、一人で布切れを巻いて処置した。

その後、治るまで「赤チン」[*]と呼ばれたマーキュロクロムを塗って我慢した。なんとか耐えられたので、最後まで親には言わずに隠していた。このごろだと、病院に行って何針か縫わなければならないところだっただろう。
[*韓国語でも아까징끼(アカチンキ)]

できることなら、自分で解決する、辛くてもともかく一人でぶち当たってみる。そのような姿勢が自立と独立の心を育てるのに大いに役立ったと思う。貧しさが私にくれた贈り物だった。

■お金よりも大切なもの
そのような贈り物といえば、もっと大きいものもある。「お金といっても、そんなに大事なものではない」という今の私の価値観はむしろ、貧しさの中から生まれてきたものといっていい。貧しさに耐えようとした私の自尊心がそうさせたのかもしれない。

両親も同じことだった。貧しい中で私たちを育てながらも、お金が最高の価値だというようには教えなかった。「お金は大切だが、一番大事なものではない」。そのような価値観が、この間生きてきた私にとって大きな助けになったと思う。

父母は教育に特別に熱心だった。少し遅れることはあっても、どんな場合でも月謝は出してくれた。しかし、それでも貧しさは私をいじけさせた。先生の質問に皆が「はい! はい!」と手を挙げたが、私は一度も手を挙げたことがない。先生に当てられると仕方なく答えたが、自分から進んで手を挙げて発表したことは一度もなかった。もちろん、父母が学校に来たこともなかった。