2016年8月28日日曜日

「満州」への旅⑦――「五族協和」の欺瞞

小林慶二さんの『観光コースでない「満州」』は、建国大学で若き日の元韓国首相姜英勲さんと3年間学寮の同じ部屋で暮らしたというジャーナリスト、上野英信(192387)のことも書いている。

《上野は建国大在学中に招集されて広島で被爆。戦後は京都大学支那文学科に入学するが、一年で中退し炭鉱夫に身を投じ、地の底からの報告『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』(二冊とも岩波新書)などを書いた。
 
私は『朝日ジャーナル』編集部にいた頃、取材も兼ね何度も上野に会っている。一緒に筑豊を回ったこともある。斗酒も辞せぬ酒豪でありながら、酒に飲まれず、端然として杯を傾ける上野の姿に、私は殉教者の陰を感じた。京大を中退したことは知っていたが、被爆者であることは知らなかった。上野は生涯、建国大学について多くを語らなかったという》

この上野英信や、さきに見た姜英勲さんらの青春を吸引し、のちに韓国大統領となってノーベル平和賞を受賞する金大中さんも若き日に憧れた建国大学とは何だったのか。そもそも「満州国」はいま、どう評価されるべきなのか。

■「王道楽土」と「五族協和」の欺瞞
よすがに、山室信一著『キメラ 満洲国の肖像』(中公新書)を読み返してみた。山室信一先生には何度か直接お会いしたことがある。講演も聴いている。この本は「満州国」の肖像をギリシャ神話の怪物キメラに見立て、膨大な史料・文献・引用を駆使し分析した濃密な本である。私なりの読み方でかいつまめば、次のようなことが書かれている。
 
▽満州国は「王道楽土」をうたったが、関東軍の武力で生まれた国家が、覇道でなく王道を建国理念にしたこと自体、大いなるアイロニーだった。

▽「五族協和」を唱えたが、その実態は徹底した差別社会だった。一等日本人、二等朝鮮人、三等漢・満人。食糧配給は日本人には白米、朝鮮人は白米とコーリャン、中国人はコーリャンだけ。給料にも民族によって差をつけた。

▽満州国での歴史的体験は、日本人が初めて大規模にかかわった多民族社会形成の試みだった。しかし、内実はといえば、異質なものの共存ではなく、同質性へ服従をもって協和の達成としたのだった。

▽日本の満蒙開拓移民らに提供された満洲の「新天地」とは、中国人、朝鮮人らが数十年にわたって切り開いた土地だった。日本人によって追い立てられた彼らにとってそれは「怨恨の土地」にほかならなかったのである。

▽満州国には、法的には実は一人の満州国民もいなかった。国籍法が制定されることがなかったからである。その最大の原因は、「民族協和」を理想としながらも日本国籍を満州国籍に移すことを嫌った在満日本人の心の中にあった。

▽侵略という事態のもとでは、いかに崇高で卓越した民族であれ、民族協和を実現することはできない。それができる民族なら、そもそも他民族を侵略し、自らの夢を強制したりはしないはずである。

■本質見抜いた学生
「民族協和」が掛け声だけの差別社会にあって、建国大学にはそれでも理想を追い求めようとする姿勢がなかったわけではない。満州国にあって建国大学と並ぶ、武の面でのもう一つのエリート養成所、満州陸軍軍官学校でも服装や食事の面で差別があったが、建国大学だけは日系学生の主唱で初めから全学生平等に、米とコーリャンの混食だったという。

しかし、もちろん、このエリート集団、建国大学の学生たちが満州国の本質を見抜けなかったはずがない。『キメラ』で山室先生は、建国大学出身の湯治万蔵氏が遺した『建国大学年表』で記した次のようなエピソードを紹介している。

日本降伏直後の1945817日、建国大学助教授、西元宗助のもとに朝鮮民族と中国人の学生が別れの挨拶のために訪れて、次のようなことを話したという。

▽朝鮮民族学生
われわれ建国大学の朝鮮系学生のほとんどが民族独立運動の結社に入っていました。朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、両民族は真に提携ができるのです。わたしは祖国の独立と再建のために朝鮮に帰ります。

▽中国人学生
東方遥拝ということが毎朝、建大で行われました。あのとき、われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は「要敗」、つまり、必ず負けるようにと祈っていました。それから黙祷という号令。われわれはそれを、帝国主義日本を打倒するために刀を磨け、という「磨刀」の合図と受け取っていました。中国語で黙祷と磨刀とは、遥拝と要敗と同様、ほとんど同じ発音なのです。先生たちの善意がどうであれ、…満州国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権以外のなにものでもなかったことは、あきらかな事実でした。

■失敗から学ぶこと
山室先生が著書のタイトルにとったギリシャ神話の怪物キメラは、頭が獅子、胴が羊、尾が龍なのだという。それを満州国に見立て―つまり、獅子の頭部を関東軍、羊の胴体を天皇制国家、尾っぽの龍を中国皇帝および近代中国に比して、その変態と滅亡の過程を描いたのだった。

中国東北の地で、もっともらしいスローガンにあわせて産声を上げたキメラは、しだいに頭部と胴体だけを肥大化させて尾を切り捨てていった。皇帝自身が天照大神と天皇に帰依して日本そのものと合一し、ついには内部からも壊死していったのだった。

あの時代、「満州」という歴史の大きな渦に巻き込まれ、あるいは巻き込まれそうになったのは、若き日の上野英信や姜英勲さん、金大中さんだけでなかったことは言うまでもない。いや、若者に限らず、多くのおとなたちが、むしろ率先してその渦に向かって走っていったのである。

すでに紹介したように小林慶二さんは、『観光コースでない「満州」』のあとがきで次のように書いていた。

《この本を書きながら、なぜ日本が破滅の道を辿ったかを、何回も考えた。マスコミの責任も大きい。日露戦争が、世界中を駆け回って集めた借金で武器を買い、ようやく勝った戦争であることを正確に国民に知らせておけば、その後の軍部の独走は防げたのではないか。…》

いま、日本で、「侵略という定義については、学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと…」(20134月の国会答弁)と公言してきた首相の長期政権が続いていこうとしている。そんななか、はっきりと実感できることがある。国家と国民の関係がこの10年ほどの間に大きく変わってしまったということだ。国家主義の台頭である。

いま、マスメディアの萎縮ぶりを見るにつけても、日本が過去の轍を踏まないとだれが言い切れるのか。今回の満州旅行で私が考えたのも小林さんと同じようなことだった。
 

2016年8月22日月曜日

「満州」への旅⑥――続・姜英勲回顧録

韓国の元首相、姜英勲さん(19212016)の回顧録は、建国大学の入試に合格したあと、建国大学に到着するまでの間のことを、かなり詳細に書いている。この点、三浦英之著『五色の虹』は、卒業生の一人が入学前から綴っていた日記を紹介しながらも、「残念なことに、(建国大学への)到着日の前後のことを日記には記してはいない」と書いている。姜さんの回顧録はそこの部分を埋める意味合いもある。建国大学合格後のことを次のように書いている。

■宮城、明治神宮、皇大神宮
《高田中学の卒業式は413月下旬にあったが、建国大学の新入生はそれより前の3月初旬に東京に集合した。日本人の新入生が大部分で、その中に朝鮮人7人、中国人1人、台湾人3人が含まれていた。全部で91人だった。

大学側は私たちをいったん東京に集めたあと日本の皇国精神を鼓吹させ、日本帝国主義の先鋒としてアジア大陸に特派されるのだという使命意識を堅持させるべく各種の行事を準備していた。

引率教授の石中廣次に従って宮城の二重橋前に行って遥拝し、明治神宮にも参拝した。次に名古屋近くの豊橋予備士官学校で1週間の軍事訓練を受け、皇大神宮に参拝するなど、厳しい精神強化訓練を受けた》

■神戸→大連→新京
《私たちは京都、奈良、大阪を経て神戸港から700トンクラスの船に乗って大連に向かった。大連で特急列車に乗り、新京に到着したのは4月初旬だった。新京駅前から伸びるものすごく大きな通りは大同大街と呼ばれ、建国大学の校門前までまっすぐに伸びていた。学校まで約10キロのこの大同大街を歩いて私たちは学校まで行くことになった。

東京に集まって新京に来るまでの間に引率してきた石中先生から習った塾歌を高らかに歌いながら大同大街の広い通りを闊歩した。そんな私たち同期生各自の胸には、近い将来、自分もこの新天地を開拓する主人公になるのだという抱負がうねっていた。塾歌の一節を紹介すれば、次のようだった。

 曙きざす 歓喜嶺*
 先覚の子の 打ち鳴らす
 響け 興亜の 陣太鼓

 天を振るわし 地を揺れば
 亜細亜の嵐 雄叫びて
 十億の蒼民 醒めんとす
(*歓喜嶺は、建国大学が位置した地名)》

[訳注:塾歌の翻訳は、安彦良和著『虹色のトロツキー』(中公文庫コミック版)から引用した]

■貧弱な校舎に愕然
《しかし、10キロの通りを感激の心で歩いて着いた建国大学の校舎は、ひときわ大きく見える校門以外、あまりにもみすぼらしかった。大学の象徴である象牙の塔が天に聳え、その下で雄大な未来像を描き、若い情熱を思いっきりたぎらせることができるだろうと想像していたのが、一瞬のうちに崩れ落ちた。

「これは一体…、これが大学の建物だというのか…」。そんな不平が教授の耳に入らないはずがなかった。引率の教授は私たちのそのような考え方自体が古いのだ、と叱責した。

建国大学の教場は目の前に建てられている小さな建物だけでなく、63万坪の大学の敷地全体が教室であり、満州全体が教育の場であり、教授も大学にいる人たちだけでなく、ガンジーやヒトラーのような人物までを講師に招き、実践に関する経験と抱負を聞くという運営方針を立てている、というのだった》

■全員、寄宿舎生活
姜さんは、満州建国大学について次のように説明している。

《満州国誕生を背景に193852日に開校した建国大学は、満州国宣統皇帝の勅書によって設立された満州国の最高学府だった。満州の一般大学が4年制だったのに比べ、建国大学は日本の大学と同様、前期(予科)3年と後期(本科)3年の6年制だった。

私が入学した年から前期が2年となり、私は前期2学年に入学した。5年ないし6年間塾と呼ばれる寄宿舎で生活することになっており、前期は一つの塾に約2530人、後期は56人が一つの部屋で起居を共にした。

共同生活を通して一緒に勉強し、討論しながら協力しあうなかで、運命共同体の指導者としての資質を養うという日本の明治維新期の吉田松陰の松下村塾やプラトンの「リパブリック・エリート教育」の現代版だった。63万坪もある、当時としては破格に広い大学敷地には大学の建物のほかに満州全体の三角測量の基準点も置かれていた。また、馬術訓練場やグライダー訓練場はもとより、軍事訓練も十分に可能な丘陵地帯があり、相当部分が農場として使われていた。


こうした環境のなか、建国大学は日本の帝国大学レベルの学問、士官学校レベルの軍事訓練、武道家並みの武道を習得させると豪語していた。毎年150人ほどの新入生を募集したが、韓人学生10人、モンゴル系8人、白ロシア系3人、台湾系3人で、あとは日本人と中国人の学生が半々だった。全体で1000人足らずの学生に比して教職員は300余人いた。これだけをみても建国大学は教育だけでなく、新生満州国の統治と経営のための政策研究という重責を担っていたことが十分にうかがえた。
 
大学設立後わずか23年で大学図書館の蔵書は50万冊を超えた。東京帝国大学の膨大な図書館施設とは比較できないものの、建国大学が図書を購入するときは東京の古本屋の本の値段がいっきょに跳ね上がったといわれたほどだった。

大学当局の意欲は大変なものだった。満州国国務総理を大学総長に招き、卒業生は卒業と同時に自動的に満州国高等文官の資格も得られるようになっていた。大学生活はまるで軍隊営内のような日課表にしたがって行われた。それなのに使命感があったからだろうが、拘束感はとくになく、大学生活を楽しむことができた》

■違った理想と現実
しかし、そんな姜英勲青年ではあったが、やがて満州国と建国大学の欺瞞に気が付いていく。

《満州国の溥儀皇帝が1940年に日本を訪問したあと、「国本奠定詔書(こくほんてんていしょうしょ)」を発した。満州国も日本同様、天照大神を祀るといい、日本と満州が不可分の関係であることを強調した。これによって満州国建設初期の理想的雰囲気は180度転換して王道楽土、五族協和は空念仏になってしまった》

[訳注:1940年、日本の紀元2600年慶祝のために来日した溥儀は伊勢神宮に参拝して515日に「日満一神一崇」を表明、満州国建国以来の事業はすべて天照大神の加護と、天皇の援助によらないものはないという国本奠定詔書を発した(『世界大百科事典』)]

《私は結局、騙されて建国大学に来たというわけだった。すでに、満蒙文化論を講義するために招聘された六堂崔南善先生は1学期の講義のあと、建学精神に合わないという理由で講義の中断させられた状態にあり、私が入学した時は朝鮮民族の学生に民族精神を鼓吹しているとの批判を受けていた。

世事に疎かった私は、道義世界、王道楽土、五族協和という言葉から未来に対して大きな希望を感じて建国大学に入学した。しかし、大学生活に慣れるなかで私は建国大学の理想と現実がかけ離れているということに気が付いた。そうなると、私の悩みも大きくならざるを得なかった》

■「歴史の産物」
しかし、建国大学は、歴史の中で現実に存在していたのは事実であり、そのことをいま全面的に否定してしまうわけにもいかないだろう、と姜英勲さんはいう。

《建国大学の学風はその当時からそうだったが、いま考えてみても一つの時代性を反映したもので、批判の対象になると思う。しかし20世紀の前半期、日本帝国主義の傀儡政権だったとはいえ、満州国という厳然たる政治版図が存在したことを認めるなら、建国大学はその満州国の正当性を国粋主義的な日本の立場から確立しようと学問的努力を傾けた組織体だったわけで、一つの歴史の産物だったといっていい》

■青春の記憶を今に…
ともあれ、建国大学での共同生活は青春の記憶として姜さんの脳裏に深く刻み込まれた。そしてその記憶を、いまの時代状況と重ね合わせてみたりもする。

《今流にいえば、寄宿舎とスタディグループ機能を共に備えた建国大学時代の塾生活は忘れることができないものの一つだ。塾の綱領の中に舎員は同志的紐帯を強固にし、協和精神の実践的先覚者になるべく努力するといった意味の言葉がある。五族協和といいつつ、日本の大陸侵略の悪だくみを隠蔽、あるいは正当化しようという日本帝国主義者たちの本心は別のところにあったのだとしても、肉体と肉体、精神と精神がぶつかり合う3年ないし5年の共同生活は異民族で構成された学生たちに多くの記憶の足跡を残した。

塾生活の前期には2030人ずつが寝食を共にし、いっしょに勉強しながら、ともに飛び回って遊ぶなかで互いに笑い、楽しみ、時に激論を交わし、けんかもした。それこそ青年たちの魂と魂がぶつかり合った。日本帝国主義の大陸政策がどういうものであったにせよ、各自がそれなりの正義感と主観を持ち、切磋琢磨した、と思う。

民族主義者であれ、自由主義者であれ、共産主義者であれ、国粋主義者であれ、ここに至ってはもう、新しい視点から民族や国家というものを見詰め直し、いまこそ建国大学で叫んだ真の五族協和、道義世界実現の気運を盛り上げたらいい、と思ってもみる。塾生活制度をつくった側の人間ではなく、塾生活を直接体験した学生たちが60余年たったいまも、交流しながら親和するのをみると、建国大学建学の理想が全的に誤ったものばかりではなかったということを物語ってくれているといっていいだろう》                                                 (波佐場 清)

2016年8月17日水曜日

「満州」への旅⑤――姜英勲回顧録

若き日、満州建国大学に学んだ韓国の元首相姜英勲さんのことについて、もう少し書いておきたい。姜さんについては三浦英之氏が『五色の虹』で、直接ソウルで取材したことなどを相当詳しく紹介している。 

しかし、残念なことがある。三浦氏がソウルで取材した201010月の時点で、姜さんは「最近の出来事をうまく記憶できない」状態になっていた。三浦氏はそれでも、「今年90歳になる」という姜さんから過去の記憶について十分に忍耐強く、丹念に聞き出している跡がうかがえるのだが、自ずと限界がある。

実際、いま考えると、よくやってくれたという思いである。その時から6年半が経った今年5月、姜さんの訃報がソウルから伝えられたのである。三浦氏自身意識していたように、姜さんの証言を記録として残す最後のチャンスを三浦氏は生かしたのだった。

■姜英勲回顧録
とはいえ、やはり、もどかしさは残る。そこを埋めたいと思い、姜さんの回顧録を読んでみた。2008年に韓国で出版された『国を愛した頑固者(나라를 사랑한 벽창우)』(東亜日報社)である。実はこの本、私は発売されたすぐあとにソウルの書店で買い求め、当時私自身の最大の関心事の一つだった南北関係に関する部分だけを重点的に読んだのだが、あとはそのまま本棚の隅に放り投げていたのだった。それを今回、少年期から青年期にかけての時期を中心に読み直してみたのである。

三浦氏の『五色の虹』を補足すると思える部分を、拙訳で紹介しておきたい。


 
 
 
 
その前に便宜上、姜さんの年譜の概略―。

1921年 中朝国境を流れる鴨緑江に近い平安北道昌城郡青山面の農家に生まれる

 31年 地元の普通学校入学

35年 平安北道の寧辺農業学校入学

39年 日本に渡航し、広島県の高田中学校4年に編入

41年 満州建国大学(前期)2学年に入学

44年 建国大学本科2年在学中、学徒兵として招集され、日本へ

 45年 日本敗戦(朝鮮解放)、10月帰郷
 

■建国大学志願の動機
建国大学を志望した動機などについて回顧録は次のように書いている。

《高田中学5年の2学期、学校の掲示板に真っ先に張り出された上級学校の入試案内は、満州建国大学と広島高等師範学校のものだった。建国大学は第1次試験で筆記と身体検査があり、東京、広島と朝鮮のソウルで実施された。1次の合格者に対する第2次の口頭試問は東京と満州の新京(現在の長春)で行うことになっていた。4回目に募集する新入生だったが、私が受けた入試からは日本全土(韓国を含む)の中学校卒業予定者は合格後、3年制の前期(予科)の2学年に入学することになっており、私の場合、3期生になったわけである。私は大学の予科に該当する高等学校から帝国大学に進学しようと思っていたので、実力を試す模擬試験のような軽い気持ちで入学願書を出していた。

試験科目は、国語、英語、数学、地理、歴史など非常に多かったと記憶している。他の科目はとくに難しいとは思わなかったが、数学は4問中2問しか解けなかった。ところがどうしたことか、1次試験で合格の通知を受け、東京で2次試験を受けることになった。旅費は学校側で負担するというのだった》

■「崔南善教授」で決意/広島高等師範も合格
《私は東京見物を兼ねて試験日に合わせて東京に行き、学校側が指定した東京会館に投宿した。鹿児島中学の高大有という名の学生も一緒だった。口頭試問が終わった後、座談会で試験官としてきた教授たちが大学を紹介した。満州建国大学の理念のうちの一つが五族協和(日、漢、韓、蒙、ロ)だといい、少数民族を代表する教授がいるのだという。そして、朝鮮民族を代表する教授として六堂崔南善先生[訳注:崔南善(18901957)は朝鮮の詩人・評論家で、31独立宣言文の起草者として知られる。六堂は雅号]について話した。

その言葉が私の耳に響いた。31独立宣言文を起草した方が六堂ということぐらいは知っており、私はその場で、口頭試問で通ったら建国大学に行こうと決心した。かつて韓民族の生活領域だった満州に行くことはむしろ、その子孫として天が与えてくれたチャンスと考えた。試験結果は合格だった。一方で、建国大学から合格通知が届く前に広島高等師範の入試も受けていたのだが、それにも合格した。

建国大学に合格した以上、高等学校(大学の予科過程)受験は放棄することにした。建国大学に行くという私の決心を先生に話すと、満州にある大学の性格についてはよく分からないところがあるので、建国大学ではなく広島高等師範に行くのがいいと勧められた。しかし、私の決心は変わらなかった》

 

2016年8月12日金曜日

「満州」への旅④――金大中さんの憧れと、「北帰行」

満州建国大学とはどのようなものであり、その時代を生きた人たちに実際、どう受け止められていたのか。私がそのようなことに関心を持つようになったのには、それなりの理由がある。6年ほど前、韓国の元大統領、金大中さん(19242009)の自伝を翻訳する作業に取り組んでいて、次のような記述に出合ったのである。

■金大中さんも建国大学を志望
《(木浦商業学校)三年の時、進学クラスに移った。もちろん大学に行くためだった。満州の建国大学を考えていた。当時すでに朝鮮半島をはじめ周辺情勢は混迷を極めていた。少し広いところへ行って答えを探したかった。建国大学は授業料はもちろん、寝食まで無料だった。しかしその年暮れの一九四一年一二月、日本はとうとう米国と戦争を始めた。将来が見通せず、現実はただ暗かった。戦争で、満州へ行くこともままならず、聞こえてくるのは憂鬱な話ばかりだった。それで、勉強も嫌になった。

進学の夢は破れたが、建国大学へ行かなかったのはラッキーだったと思う。満州へ行っていたら解放後の三八線の分断で南の地を踏めなかったかもしれない。「人間万事塞翁が馬」だった》=波佐場清/康宗憲訳『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ 民主化への道』(岩波書店)
 

韓国の民主化、朝鮮半島分断以来初の南北首脳会談、そしてノーベル平和賞受賞で歴史に名を刻んだ、あの大統領17歳の頃の追憶である。金大中少年の祖国は当時、日本の植民地支配下にあったことは改めて言うまでもない。その朝鮮半島西南端の港町・木浦からさらに40キロほど西南に離れた小島で生を受けた金大中さんは島を出て当時、名門で知られた木浦商業学校に進んでいた。首席で入学し、初め「就職クラス」にいたのだが、将来に大きく夢を羽ばたかせる中でいったん、大学進学を決意し、目標として満洲の建国大学を考えていたというのである。

■授業料無料、「手当」も
建国大学は日本植民地下にあって将来に夢を抱く少年にとっても憧れの学府だったのである。実際、どのような大学であったのか。三浦英之著『五色の虹』は、国際基督教大学(ICU)の博士課程に在籍していた宮沢恵理子氏の研究成果を引き、次のように記述している。 

《建国大学は「満州国」における文科系最高学府として、関東軍と「満州国」政府によって一九三八年に新京市(現長春市)に創設された。「民族協和」をその建学の精神とし、日本人・朝鮮人・中国人・モンゴル人・白系ロシア人の優秀な学生を集めて共同生活の中で切磋琢磨して、将来の満州国建設の指導者たるべき人材を養成するとの教育方針に加えて、すべてが官費で賄われ全寮制で授業料免除といった軍関係の学校並みの条件から、創立当時は合格定員一五〇名に対して日本領および満州国内から約二万人以上の志願者が集まった》

金大中さんが指摘したように授業料、寝食が無料だっただけでなく、月五円の「手当」まで支給されたという。

■建国大学出身の韓国首相
私自身、建国大学のことは金大中さんの自伝に出合う前からそこそこに知っていた。新聞記者としてソウルに駐在していた時の韓国の首相の一人が、建国大学出身の姜英勲さん(19212016)だったからだ。新聞記者としてのソウル駐在は1980年代後半から90年代後半にかけて2度、都合6年にわたり、その間ちょっと数えきれないほどの首相が入れ替ったが、姜さんは私にとって最も印象深い首相の一人であった。

姜さんは元もと、いまの北の地域の出身。朝鮮半島分断後に南に渡り、激動の時代を生き抜いた。韓国で民主化が進むなか、ソウル五輪直後の88年暮れ、盧泰愚政権下で首相に抜擢された。そこで取り組んだのが南北首相会談。予備会談をへて90年秋から92年にかけ、南北の首相がソウルと平壌を行き来して会談を開いたのだが、90年中に開いた初めの3回は姜さんが韓国側の代表を務めたのだった。

当時、首相レベルの南北会談は初めてのことで、ソウルいた私たちは姜首相の一挙手一投足を懸命に追ったものである。私自身、日本人記者グループの代表とし姜首相を直近で取材したこともあるが、そのスマートな身のこなしと落ち着いた話しぶりは強く印象に残っている。

いずれにしろ、建国大学はその時、姜英勲首相の経歴として私の頭のなかにインプットされたのだった。

■窓は夜露に濡れて…
もう一つ、これよりずっと前から、私の中に建国大学が入り込んでいたことに、いつのころからか気づいていた。むかし、小林旭が歌ってヒットした、あの「北帰行」――。

窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず

私自身、すこし落ち込んだり、どこかさすらいの風情に誘われたりした時など、つい口ずさんできたこの歌の原詞に建国大学が歌い込まれていたのである。金大中自伝を翻訳する際、それについて少し調べたことがあるのだが、いま改めてネットで繰ると、たとえば、「二木紘三のうた物語」では概略、次のような説明がなされている。

原詞:旅順高等学校寮歌
作詞・作曲:宇田 博
小林旭が歌う歌詞は1番から3番までだが、原詞は1番から5番まである。
1番は両方同じだが、2番以下が異なり、建国大学は原詞の2番に「建大」という略称で歌い込まれている。原詞2番は次の通りである。

建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

ここで「建大」以外について説明すると、「一高」は旧制一高、つまり現在の東京大学教養学部の前身。「旅高」とは、旧満州の旅順(現在の大連市の一部)にあった旧制旅順高校のことである。

この歌が生まれたのは1941年。作者の宇田博は旅順高校2年生。宇田は旧制中学4年修了で一高を受験するも失敗。満州・奉天(現在の瀋陽)の親元に帰って建国大学に入るも校則違反で放校となり、当時設立されたばかりの旅順高校に入学した。

宇田はしかし、旅順高校でも校則違反で退学処分を受け、奉天の親元に帰るにあたって滞在した旅館で、「敗北と流離の思い」を5連の歌に書き上げたのが、この「北帰行」だった。友人らが涙ぐみながら口伝えで歌を覚え、歌詞を書き写したという。

宇田はその後、一高に入って東大に進み、卒業後、東京放送に入社、のちに常務になったという。詳しくは、下の「二木紘三のうた物語」を。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_3959.html