2016年8月22日月曜日

「満州」への旅⑥――続・姜英勲回顧録

韓国の元首相、姜英勲さん(19212016)の回顧録は、建国大学の入試に合格したあと、建国大学に到着するまでの間のことを、かなり詳細に書いている。この点、三浦英之著『五色の虹』は、卒業生の一人が入学前から綴っていた日記を紹介しながらも、「残念なことに、(建国大学への)到着日の前後のことを日記には記してはいない」と書いている。姜さんの回顧録はそこの部分を埋める意味合いもある。建国大学合格後のことを次のように書いている。

■宮城、明治神宮、皇大神宮
《高田中学の卒業式は413月下旬にあったが、建国大学の新入生はそれより前の3月初旬に東京に集合した。日本人の新入生が大部分で、その中に朝鮮人7人、中国人1人、台湾人3人が含まれていた。全部で91人だった。

大学側は私たちをいったん東京に集めたあと日本の皇国精神を鼓吹させ、日本帝国主義の先鋒としてアジア大陸に特派されるのだという使命意識を堅持させるべく各種の行事を準備していた。

引率教授の石中廣次に従って宮城の二重橋前に行って遥拝し、明治神宮にも参拝した。次に名古屋近くの豊橋予備士官学校で1週間の軍事訓練を受け、皇大神宮に参拝するなど、厳しい精神強化訓練を受けた》

■神戸→大連→新京
《私たちは京都、奈良、大阪を経て神戸港から700トンクラスの船に乗って大連に向かった。大連で特急列車に乗り、新京に到着したのは4月初旬だった。新京駅前から伸びるものすごく大きな通りは大同大街と呼ばれ、建国大学の校門前までまっすぐに伸びていた。学校まで約10キロのこの大同大街を歩いて私たちは学校まで行くことになった。

東京に集まって新京に来るまでの間に引率してきた石中先生から習った塾歌を高らかに歌いながら大同大街の広い通りを闊歩した。そんな私たち同期生各自の胸には、近い将来、自分もこの新天地を開拓する主人公になるのだという抱負がうねっていた。塾歌の一節を紹介すれば、次のようだった。

 曙きざす 歓喜嶺*
 先覚の子の 打ち鳴らす
 響け 興亜の 陣太鼓

 天を振るわし 地を揺れば
 亜細亜の嵐 雄叫びて
 十億の蒼民 醒めんとす
(*歓喜嶺は、建国大学が位置した地名)》

[訳注:塾歌の翻訳は、安彦良和著『虹色のトロツキー』(中公文庫コミック版)から引用した]

■貧弱な校舎に愕然
《しかし、10キロの通りを感激の心で歩いて着いた建国大学の校舎は、ひときわ大きく見える校門以外、あまりにも見ずぼらしかった。大学の象徴である象牙の塔が天に聳え、その下で雄大な未来像を描き、若い情熱を思いっきりたぎらせることができるだろうと想像していたのが、一瞬のうちに崩れ落ちた。

「これは一体…、これが大学の建物だというのか…」。そんな不平が教授の耳に入らないはずがなかった。引率の教授は私たちのそのような考え方自体が古いのだ、と叱責した。

建国大学の教場は目の前に建てられている小さな建物だけでなく、63万坪の大学の敷地全体が教室であり、満州全体が教育の場であり、教授も大学にいる人たちだけでなく、ガンジーやヒトラーのような人物までを講師に招き、実践に関する経験と抱負を聞くという運営方針を立てている、というのだった》

■全員、寄宿舎生活
姜さんは、満州建国大学について次のように説明している。

《満州国誕生を背景に193852日に開校した建国大学は、満州国宣統皇帝の勅書によって設立された満州国の最高学府だった。満州の一般大学が4年制だったのに比べ、建国大学は日本の大学と同様、前期(予科)3年と後期(本科)3年の6年制だった。

私が入学した年から前期が2年となり、私は前期2学年に入学した。5年ないし6年間塾と呼ばれる寄宿舎で生活することになっており、前期は一つの塾に約2530人、後期は56人が一つの部屋で起居を共にした。

共同生活を通して一緒に勉強し、討論しながら協力しあうなかで、運命共同体の指導者としての資質を養うという日本の明治維新期の吉田松陰の松下村塾やプラトンの「リパブリック・エリート教育」の現代版だった。63万坪もある、当時としては破格に広い大学敷地には大学の建物のほかに満州全体の三角測量の基準点も置かれていた。また、馬術訓練場やグライダー訓練場はもとより、軍事訓練も十分に可能な丘陵地帯があり、相当部分が農場として使われていた。


こうした環境のなか、建国大学は日本の帝国大学レベルの学問、士官学校レベルの軍事訓練、武道家並みの武道を習得させると豪語していた。毎年150人ほどの新入生を募集したが、韓人学生10人、モンゴル系8人、白ロシア系3人、台湾系3人で、あとは日本人と中国人の学生が半々だった。全体で1000人足らずの学生に比して教職員は300余人いた。これだけをみても建国大学は教育だけでなく、新生満州国の統治と経営のための政策研究という重責を担っていたことが十分にうかがえた。
 
大学設立後わずか23年で大学図書館の蔵書は50万冊を超えた。東京帝国大学の膨大な図書館施設とは比較できないものの、建国大学が図書を購入するときは東京の古本屋の本の値段がいっきょに跳ね上がったといわれたほどだった。

大学当局の意欲は大変なものだった。満州国国務総理を大学総長に招き、卒業生は卒業と同時に自動的に満州国高等文官の資格も得られるようになっていた。大学生活はまるで軍隊営内のような日課表にしたがって行われた。それなのに使命感があったからだろうが、拘束感はとくになく、大学生活を楽しむことができた》

■違った理想と現実
しかし、そんな姜英勲青年ではあったが、やがて満州国と建国大学の欺瞞に気が付いていく。

《満州国の溥儀皇帝が1940年に日本を訪問したあと、「国本奠定詔書(こくほんてんていしょうしょ)」を発した。満州国も日本同様、天照大神を祀るといい、日本と満州が不可分の関係であることを強調した。これによって満州国建設初期の理想的雰囲気は180度転換して王道楽土、五族協和は空念仏になってしまった》

[訳注:1940年、日本の紀元2600年慶祝のために来日した溥儀は伊勢神宮に参拝して515日に「日満一神一崇」を表明、満州国建国以来の事業はすべて天照大神の加護と、天皇の援助によらないものはないという国本奠定詔書を発した(『世界大百科事典』)]

《私は結局、騙されて建国大学に来たというわけだった。すでに、満蒙文化論を講義するために招聘された六堂崔南善先生は1学期の講義のあと、建学精神に合わないという理由で講義の中断させられた状態にあり、私が入学した時は朝鮮民族の学生に民族精神を鼓吹しているとの批判を受けていた。

世事に疎かった私は、道義世界、王道楽土、五族協和という言葉から未来に対して大きな希望を感じて建国大学に入学した。しかし、大学生活に慣れるなかで私は建国大学の理想と現実がかけ離れているということに気が付いた。そうなると、私の悩みも大きくならざるを得なかった》

■「歴史の産物」
しかし、建国大学は、歴史の中で現実に存在していたのは事実であり、そのことをいま全面的に否定してしまうわけにもいかないだろう、と姜英勲さんはいう。

《建国大学の学風はその当時からそうだったが、いま考えてみても一つの時代性を反映したもので、批判の対象になると思う。しかし20世紀の前半期、日本帝国主義の傀儡政権だったとはいえ、満州国という厳然たる政治版図が存在したことを認めるなら、建国大学はその満州国の正当性を国粋主義的な日本の立場から確立しようと学問的努力を傾けた組織体だったわけで、一つの歴史の産物だったといっていい》

■青春の記憶を今に…
ともあれ、建国大学での共同生活は青春の記憶として姜さんの脳裏に深く刻み込まれた。そしてその記憶を、いまの時代状況と重ね合わせてみたりもする。

《今流にいえば、寄宿舎とスタディグループ機能を共に備えた建国大学時代の塾生活は忘れることができないものの一つだ。塾の綱領の中に舎員は同志的紐帯を強固にし、協和精神の実践的先覚者になるべく努力するといった意味の言葉がある。五族協和といいつつ、日本の大陸侵略の悪だくみを隠蔽、あるいは正当化しようという日本帝国主義者たちの本心は別のところにあったのだとしても、肉体と肉体、精神と精神がぶつかり合う3年ないし5年の共同生活は異民族で構成された学生たちに多くの記憶の足跡を残した。

塾生活の前期には2030人ずつが寝食を共にし、いっしょに勉強しながら、ともに飛び回って遊ぶなかで互いに笑い、楽しみ、時に激論を交わし、けんかもした。それこそ青年たちの魂と魂がぶつかり合った。日本帝国主義の大陸政策がどういうものであったにせよ、各自がそれなりの正義感と主観を持ち、切磋琢磨した、と思う。

民族主義者であれ、自由主義者であれ、共産主義者であれ、国粋主義者であれ、ここに至ってはもう、新しい視点から民族や国家というものを見詰め直し、いまこそ建国大学で叫んだ真の五族協和、道義世界実現の気運を盛り上げたらいい、と思ってもみる。塾生活制度をつくった側の人間ではなく、塾生活を直接体験した学生たちが60余年たったいまも、交流しながら親和するのをみると、建国大学建学の理想が全的に誤ったものばかりではなかったということを物語ってくれているといっていいだろう》                                                 (波佐場 清)

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