2017年11月26日日曜日

「性奴隷」ではだめなのか/拝啓 吉村大阪市長さま

拝啓 吉村洋文大阪市長さま

米サンフランシスコ市に建てられた慰安婦像が市有化されたことをめぐり、あなたは大阪市が60年間にわたって続けてきたサ市との姉妹都市関係を断つと表明されました。そんな報道に接し、ぜひ、いまいちど慰安婦問題を根本から考え直していただきたいという思いから、この拙文を綴っています。
 


あなたは像の碑文に大きな不満を持っておられるようです。

「旧日本軍によって数十万人の女性や少女が性的に奴隷化された」「ほとんどが捕らわれの身のまま亡くなった」……。とくに「性的に奴隷化」という表現に強く反発しておられるといったような報道もありました。「日本政府の見解と違う」とも主張しておられるようです。

■「河野談話」
慰安婦問題に関する日本政府の見解といえば、19938月に宮沢内閣の河野洋平官房長官が公表した「河野談話」があります。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
同時に内閣官房内閣外政審議室の文書も発表されました。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf

河野談話を要約すれば、慰安所は「当時の軍当局の要請により設営された」とし、その設置や管理、慰安婦の移送に「旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と認め、元慰安婦に「心からお詫びと反省の気持ち」を表明しているわけです。
 


付け加えれば、これを「歴史の教訓として直視」し、「歴史教育」などを通じて「永く記憶にとどめ」ていく、ともしており、教科書掲載も念頭にあったと思えます。

この河野談話に関しては韓国など慰安婦被害者を抱える関係国もいったん納得したかのように見えていたのですが、その後、とくに安倍首相が登場してからは様相が変わってきました。安倍首相は「河野談話の見直し」などを主張していたからです。

実際、安倍首相は河野談話の検証に取り掛かったのでした。これについては「作成過程」を検証するもので「見直すことはない」と表明したのですが、靖国神社参拝や「侵略の定義は定まっていない」などとする発言も重なって関係国の不信を深めたのでした。

■「性奴隷」
そんな経過をへて安倍首相はいま、この問題について「政府が発見した資料には軍や官憲による強制連行を直接示す記述は見られない」などと持って回ったような言い回しをしています。「政府の見解」を重んじているようにみえる市長もやはり、そういう立場なのでしょうか。「軍や官憲の関与」はともかくも「性奴隷」などというものではなかった、と言いたいのだと思います。

確かにこの問題には、十分に解明されているはといえない面があります。実態はどうだったのか。慰安婦被害者の証言がすべて正しいとも言えないかもしれません。しかし私は、「性奴隷」という表現それ自体を全面否定してしまうわけにはいかないだろう、と考えています。

実際、あの時代、朝鮮半島出身の慰安婦は国際社会からは「性奴隷」と見られてもおかしくない状況があったのだと思います。次のようなことです。

■カイロ宣言
日本はあの戦争で、ポツダム宣言(19457月)を受け入れ、降伏に至ったことは改めて言うまでもありません。そしてそのポツダム宣言は、194311月に米英中3国首脳(ローズヴェルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統)が発したカイロ宣言を踏まえたものであったこともこれまた言うまでもありません。

そのカイロ宣言は朝鮮について何と言っていたか。そこでは「3大国(つまり、米英中)は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」としていたのです。http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html

つまり、あの時代、植民地朝鮮の人々は「奴隷状態」に置かれているとみられていたのです。そうだとすれば、朝鮮人慰安婦は、「強制」であったのかどうかという以前に「奴隷状態」におかれていたとみなされていたのであり、「性奴隷」と言われてもしかたがなかったのではないでしょうか。

■「ポツダム」受け入れ、国際社会へ復帰
その後1945814日に日本が連合国に受諾を通告したポツダム宣言は、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく…」(第8条)となっていました。
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

815日、天皇がラジオ放送でその受諾を国民に知らせ、92日、東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で日本は連合国との間で降伏文書に調印したのでした。

ついでに、おさらいをしておきますと、連合国軍の占領下におかれた日本は19519月、米英など48カ国とサンフランシスコ平和条約を締結。翌524月にその平和条約が発効して日本は主権を回復、国際社会に復帰していったのでした。つまり、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意」するとしたカイロ宣言や、それが「履行せられるべく」としたポツダム宣言を受け入れることによって日本の国際社会復帰が認められたというわけです。

■姉妹都市解消は考え直すべきだ
さて、サンフランシスコの慰安婦像の碑文のことです。市長は、「性奴隷」という表現以外にも慰安婦の総数や被害実態に関する記述に大きな不満を持っておられるようです。それらについては十分解明されたといえないことはすでに指摘したとおりです。その点、「違う」と思われることがあったら、はっきり「違う」と伝えるべきでしょう。

しかし、それで姉妹都市関係を断ってしまうというのはどんなものでしょうか。大阪市議会の自民、公明市議団も慰安婦像・碑文の設置には反対としつつも、次のような申し入れをしています。

「この問題については国と綿密な連携を取り、姉妹都市の解消ではなく交流を通じて解決に努めることを求めます」

その通りだと思います。市長は12月中には姉妹都市解消の手続きを済ませたいという意向のようですが、考え直すべきです。いまからでも遅くはないのです。

■ワイツゼッカー演説
いま、市長にぜひ、お読みいただきたい演説文のことが思い浮かんでいます。戦後ドイツと周辺国の和解に貢献したワイツゼッカー元ドイツ大統領が、第2次世界大戦でのドイツ敗戦40周年にあたった198558日に連邦議会でおこなった演説です。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」というフレーズで知られる、あの名演説です。そこには次のようなくだりがありました。以下、その翻訳「荒れ野の40年」(永井清彦訳/岩波ブックレット)からの一部抜粋です。

▽大抵のドイツ人は国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります。
▽(戦後を)振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な未来があるだけでした。しかし日一日と過ぎていくにつれ、58日が解放の日であることがはっきりしてまいりました。......ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります。

▽今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれていませんでした。
この人たちは自ら手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。

▽問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
http://hasabang.blogspot.jp/2015/02/

■先人が遺した過去の遺産
私がとくに心打たれるのは、敗戦の日から時間がたつにつれて、しだいにそれが「解放の日」であったことが分かってきたという点、そして、ドイツ人であるということだけで悔い改めることはできないが、先人の遺産については罪の有無を問わずわれわれ全員が過去を引き受けなければならないとした点です。

そうです。日本にとってもあれは、私たち国民に主権のなかった時代、私たちがそういう状況を許してしまった時代に、時の権力者がとんでもない暴走をしてしまったのです。

そんな時代から私たちは解放されたのです。国民が初めて主権を得たのです。
とはいえ、だからと言って、私たちは責任を逃れることはできません。先人が遺した容易ならざる過去の遺産は、私たち全員が引き受けなければならないのです。

吉村市長、どうぞもう一度考え直してみてくださるよう、お願いします。
                                   敬具