2024年1月31日水曜日

錦江――韓国第3の大河/百済歴史散策⑩

扶余羅城一帯を見た私たちは錦江(クムガン)に向かった。錦江にはいろいろな呼び名があり、扶余辺りでは「白馬江(ペンマガン)」、すこし上流の公州付近では「熊津江(ウンジンガン)」、そして古代、日本・百済と新羅・唐の間の「白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦い」の戦場となった「白村江」は錦江の河口付近のことと考えられている。韓国では「白村江」とはいわず、「白江(ペッカン)」と言っているようだ。 

最初に案内されたのは「クドゥレ(구드래kudeurae)」というところの船着き場だった。昔から渡し場として開け、いまは付近の観光名所の拠点になっているようだ。ここから遊覧船に乗って錦江の風景を楽しむことになっている。 

クドゥレの船着き場

■百済は、なぜ「くだら」なのか?

遊覧船に乗り込む前に一つ、興味深い話を紹介しておきたい。このツアーで私たちにずっと付き添ってくれた南海国際旅行社の加地光広さん(57)が途中のバスの中で紹介してくれた話である。百済はなぜ、「くだら」なのか、ということだ。 

これは、むかしから発せられてきた問いである。たとえば作家の司馬遼太郎は次のように書いていた。 

  古来、日本ではこの古代国家をクダラとよんできたが、その語源については説得力のある意見はまだ出ていない。本場の朝鮮ではクダラとはいわず、漢音でいう。百済(ビヤッジェ)。「Baek-je」と、ミセス・イムは発音した。……これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にもないふしぎな言葉は、古代に南鮮(ママ)に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。 (司馬遼太郎『街道をゆく 二』朝日新聞社) 

■「구드래→「くだら」

加地さんの説は、「くだら」はここの「クドゥレ(구드래)」からきたに違いない、というのである。要するに、次のようなことだ。

加地光広さん

  

昔、この渡し場から日本に来た百済人がいた。日本人との間で次のような会話が交わされた。

  「お前はどこから来たのか?」 

  「구드래

  「クドレ?」

  「いや、구드래だ」

  「クドラ?」

  「구드래だ」

  「クダラ?」

  「ん、まぁ、そうだ」 

というわけで百済が「くだら」になったというのである。ちょっとこじつけくさい気もするが、とてもおもしろいと思った。 

■カワアカメ

錦江の流れは思っていたほどきれいではなかった。あいにくの曇天だったせいもあるのか、茶色っぽく濁っていた。「白村江」「白江」「白馬江」といった呼び名から勝手に「白砂青松」を思い浮かべていたのがいけなかった。 

桟橋から韓国人観光客がパンくずのようなものを投げている。川面をみると体長20センチほどの黒っぽい魚が大きな口を開けて群がっている。ボラのようにも見えるが、ボラほどに頭が扁平ではない。聞くと、与えているのはポップコーンで、魚はヌンプルゲ(눈불개だという。

カワアカメ Private Aquarium 

日本に帰って調べてみると、カワアカメというコイ科の淡水魚だった。ロシアのアムール川水系から中国大陸、朝鮮半島、ベトナムにかけて分布し、日本には生息していないようだ。ユーラシア大陸から続く朝鮮半島と、島国日本の生態系の違いを改めてかみしめる思いだ。

 


■帆掛けの遊覧船

錦江と帆掛け船

遊覧船は百済時代を再現して帆を張っている。もちろん動力がついており、水量豊かにゆったりと流れる川面をまず、上流に向かってゆっくりと進んだ。現地で私たちを案内してくれた鶴本しおりさん(55)によると、観覧船は24トン級2隻と13トン級3隻が13キロほどの区間を運航しているのだという。

鶴本しおりさん

この付近の川幅は250メートルほどで、これが普段の平均的な水量だという。そんな説明をしてくれた鶴本さんは熊本県の出身。この地に嫁いできて25年になるといい、扶余郡の「文化観光解説士」という肩書をもつ。いってみれば、郡庁の公式観光ガイドというわけである。 

■韓国第3の大河

ここで、錦江について少し説明しておかなければならないだろう。洛東江、漢江に次ぐ韓国第3の大河。全羅北道の小白山脈付近に水源を発してまず北上、忠清道の山間峡谷を蛇行して南西に向きを変えていき、群山市の北で黄海に注ぐ。全長401キロで、日本最長の信濃川より30キロほど長く、流域面積9886平方キロは北上川にほぼ近い。 

錦江 위키백과

流域には、古都の扶余や公州のほか、人口153万の大田広域市や首都機能の分散で2012年に新しく発足した世宗特別自治市(人口38万余)などがある。河川の汚れが心配され、下水浄化施設の拡充や河川敷の緑化なども進められているという。 

■落花岩

上流へしばらく進むと右手(左岸)に百済の「逃げ城」が築かれていた扶蘇山の大きく切り立った絶壁がみえてきた。「落花岩」といわれている。百済の滅亡にあたり、宮女たちがそこから次つぎと身を投げたと言われる。その数3千――。その様子はまるで花が落ちるようだったところから、この名がついたとされる。

落花岩

 

てっぺんに、あずまやのようなものが見えている。水面からの高さは4050メートルほどだろうか。中ほどからやや下の岩場に「落花巌」と赤く刻まれた文字が見えている。 

「三千宮女」は百済滅亡の象徴のように韓国で語られてきた。しかし、3千という数字はオーバーだというのが専門家の見方のようだ。当時の百済の人口や宮殿の規模、経済力から考えて、まったく釣り合わないというのである。 

時代が下ってソウルに都を置いた、より大規模な朝鮮王朝(13921910)で宮女はせいぜい500600人。栄華から急な滅亡というその悲劇性が後世、こうした伝説を生んできたようだ。

                             (つづく)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員    波佐場 清


 

2024年1月27日土曜日

「三国統一戦争」/百済歴史散策⑨

私はいま、この原稿を盧泰敦著(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)をなぞるかたちで書き進めようとしている。韓国人である著者は、百済、高句麗、新羅の3国が争い、結局、新羅が朝鮮半島地域を統合した7世紀のこの戦争を「三国統一戦争」と位置づけ、次のように書いている。 

  韓国史でもっとも大きな影響を与えた戦争は、二〇世紀の朝鮮戦争と三国統一戦争であった。今日、南北朝鮮に住む人々の生は、朝鮮戦争を離れて考えることができないように、七世紀後半以降、我々の祖先が生きてきた軌跡は、三国統一戦争が残した遺産の上に進められた。 

  この戦争で三国は、唐・日本およびモンゴル高原の遊牧民国家など隣接諸国と関係を展開しており、これは周辺の強大国家に囲まれた朝鮮半島の国家が直面しなければならない厳しい現実を理解する鏡となりうる。 

その通りのように私も思う。いま、この北東アジア地域の見るに、中国の急激な台頭と膨張志向はどこか、あの時代と重なって見えなくもない。一方で、分断された朝鮮半島の南北断絶は新たな「二国時代」の到来を思わせる。そんななかにあって日本はどんな立ち位置をとり、どう動くべきなのか。そんなことも頭の片隅に、当時のことを追っていきたい。 

■著者と訳者

本論に入る前に著者など、この書のことを奥付で見ておくと概略、次のようである。 


2012年424日 第1刷発行

盧泰敦(Noh,Tae-Don) 1949年、慶尚南道昌寧郡生まれ。ソウル大学史学科大学院文学博士。ソウル大教授、ソウル大奎章閣韓国学研究院長。著書に『韓国史を通してみた我々と世界についての認識』(1998年)など。

橋本繁 1975年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了、文学博士。専攻は朝鮮古代史。「浦項中城里碑の研究」(『朝鮮学報』)など。 

■唐の膨張政策と高句麗の対抗策

645年、唐の高句麗侵攻は失敗に終わったが、唐はいぜん、東アジアの国際情勢を主導する唯一の強大国だった。高句麗を滅ぼして唐中心の国際秩序を築こうとする膨張政策をそのまま堅持した。各国の動向に立ち入ると、次のとおりである。 

≪唐≫ 

高句麗から撤退した直後、薛延陀を大破。さらに647年から648年にかけ、高句麗に対して小規模な攻撃を繰り返した。そんなとき、新羅の金春秋(キムチュンチュ/のちの武烈王)が唐に入った。高句麗遠征に執念を燃やす太宗(李世民)はこれを歓迎、両国関係は新たな進展をみせていった。 

≪高句麗≫

唐の再侵略に備え、10年以上をかけて遼東平原に築いてきた「千里長城」を646年に完成させた。一方で唐の膨張に共同で対処しうる外国との連衡をはかり、西方遠くソグド地方にまで使者を送った。そのことを示す壁画が1960年代、ウズベキスタン・サマルカンド市郊外のアフラシャブ宮殿址から見つかっている。 

アフラシャブ宮殿壁画の高句麗使臣(右端の2人)  KOREA.net
一方で、高句麗は海を越えて倭との連携を強め、百済と連合して新羅への軍事圧力をかけ続けた。 

■対応迫られた百済、倭国、新羅

≪百済≫

647年から649年にかけて百済は毎年、新羅に攻撃を加えた。唐の意向に逆らった百済には、高句麗が唐の攻撃を阻止できるとの判断があったとみられる。一方で百済は対唐破綻を避けようと651年、朝貢使節を派遣したが、そんな二股政策はいつまでも続かなかった。 

≪倭国≫

唐の高句麗遠征さなかの6456月、倭で「乙巳の変」が起き、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏本宗家を追放。孝徳天皇が即位し大化改新を進めた。唐帝国の膨張で緊迫する国際情勢下、危機意識の高まりが変化への動きを触発したのだった。 

653654年、倭の朝廷は630年以来の遣唐使を派遣。一方で高句麗・百済と交流し、新羅とも交渉するなど全方位の姿勢をみせた。百済と新羅が、倭国を物産豊かな大国とみなして競って交流を求めてくるのを横目に情勢をうかがっていたとみられる。 

≪新羅≫

唐の勢力東進が高句麗によっていったん阻止されたことで、新羅は百済と高句麗の挟み撃ちに遭うかたちとなった。百済と連携した倭の動向も気になった。倭は6469月、唐留学生出身の国博士高向玄理を新羅に遣って話し合いを試みた。そんななかで647年初め、新羅で貴族間の内紛が起き、その後の三国統一戦争に大きな影響を及ぼしていった。 

■金春秋と金庾信

新羅の内紛は「毗曇(ピダム)の乱」といった。新羅最初の女王善徳王の後継候補として再び女性が浮上すると、毗曇という人物を中心とする貴族グループが反乱。王族の金春秋を中心に武将の金庾信(キムユシン)らがこれを鎮圧し、二人目の女王真徳王を立てて実権を掌握していった。 

ソウル南山公園の金庾信像 海外文化弘報院HP
新羅の半島統一に大きな功をあげていくことになる金庾信は、新羅に併合された加耶王室の後裔だった。血統を重んじる新羅にあって出身身分は高くなかったが、妹が金春秋の妻だったこともあり、両雄が連携して中央集権体制づくりを進めていった。 

■新羅と倭国の模索

内部を固めた新羅は金春秋自らが先頭に立って積極外交に乗り出す。647年、前年から倭国の使者として新羅に滞在していた高向玄理といっしょにまず倭国に渡り、続いて翌648年、唐に乗り込んだ。 

金春秋の倭国行きについて『日本書紀』は、倭の「質」要請に応じたとしている。しかし倭国からすぐに帰国し、そのまま唐への使者となっていることなどから見て、「質」という表現は、「蕃国」の新羅に対する日本の優位を示すための作為とする見方がある。 

玄理と春秋の相手国相互訪問は何かをめぐって両国の協力が試みられたことを感じさせる。当時、唐と途絶状態にあった倭としては新羅を通じて唐に改善の意向を伝えたかったとみられる。新羅には倭を「新羅-唐」側に引き入れようとする意図があったとみられる。 

倭はしかし、新たな可能性を探ったものの、対外政策の基本は変えなかった。結果的にそれは百済との友好関係を重視することを意味した。そのことを察知した金春秋は新たな突破口の模索へと動いた。それが続く、唐訪問だった。 

■「新羅-唐」同盟

金春秋は唐で歓待された。高句麗を攻めあぐねていた唐は、高句麗西部の国境線のほかに第2の戦線を設けてその防御力を分散させようと考えていた。そんなところへ金春秋が訪れてきたのだった。 

唐の太宗と金春秋はこの時、一つの約束を交わしたとみてよいだろう。新羅は唐の究極的目標である高句麗滅亡に協力する、その代わりに唐は新羅の当面の目標である百済攻略に賛成するという合意である。 

唐から帰国した金春秋は新羅朝廷に申し立てて官服を唐と同じものに改め、新羅固有の年号を廃止して唐の年号を使うことにした。新羅が唐中心の天下秩序に帰属することを内外に示したのである。 

■倭をめぐり、綱引き

649年に唐の太宗が没すると、高句麗遠征はいったん中止となった。しかし後継の高宗(在位649683)も手綱を緩めなかった。高宗は651年、百済が新羅攻撃を続ければ唐が介入すると明らかにし、倭に対しても654年、新羅支援を要求した。 

こんななかで百済は652年以降、唐への使者派遣を中止。一方で倭には650656年、毎年使節団を送ったと『日本書紀』は伝える。百済のこうした動きは「高句麗-倭」と連携して「唐-新羅」に対抗しようという立場の表明といえたが、倭は自らの立場を明確にしなかった。 

この間、新羅も毎年、倭に使者を送った。倭に、「百済-高句麗」側でなく「新羅-唐」側を選ばせようとしたのである。百済・高句麗と対決した新羅は背後の倭に注意を払わないわけにはいかなかった。 

■「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」

「百済-高句麗」vs「新羅-唐」の対決様相の深まりを横目に、倭は慎重な両面外交を展開した。島国の有利さを生かし、ゆっくりと国益を最大化しようとした可能性がある。しかし、状況はそれほど余裕のあるものではなかった。 

新羅は、倭に「唐-新羅」側につく意思がないと判断したとみられ、657年、倭が新羅に求めた唐への使者や留学生の新羅経由の派遣を拒否。彼らを倭国に送り返し、倭との公式接触を断った。 

これによって「唐-新羅」vs「高句麗-百済-倭」の対立構図が明確になった。それでも倭の朝廷は、こうした構図とその深刻さを十分把握できないまま6597月にも唐に遣使した。同年末、その遣唐使一行が帰国しようとすると、唐の朝廷は一行を長安に抑留した。翌年の対百済攻撃の機密がもれることを憂慮したのだった。 

百済の命運が尽きる、660年のその日が近づいていた。 (つづく)

                             波佐場 清

参考資料(百済歴史散策⑦~⑨)

金思燁『朝鮮の風土と文化』(六興出版)

金思燁『朝鮮のこころ 民族の詩と真実』(講談社現代新書)

金思燁全集刊行委員会『金思燁全集25 完訳三国遺事』(図書刊行会)

南廷昊(植田喜兵成智訳)「百済武王と王妃と義慈王の生母に関する考察」『学習院大学国際研究教育機構研究年報 第2号』kenkyunenpo_2_113_133.pdf

韓国民族文化大百科事典부여나성(扶餘羅城) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)

崔夢竜(河廷竜訳)『百済をもう一度考える』(図書出版周留城)

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)

吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』(小学館ライブラリー)


 

2024年1月23日火曜日

風雲急/百済歴史散策⑧

旅行3日目、私たちは扶余(旧名・泗沘=サビ)に入った。まず訪れたのは扶余羅城。羅城とは古代都市を防御のために囲んだ城郭のことである。 

■天然の要害を羅城で補強

地元の自治体、扶余郡庁が作成した日本語版「観光案内マップ」が分かりやすかった。百済の王都泗沘は北から南西、さらに南東方向へと流れる錦江(別名・白馬江)に抱かれるようなかたちで築かれていた。つまり、錦江が天然の要害になっており、防御にすきのある東側を固めるために羅城が築かれたというわけである。 

扶余羅城

扶余郡作成「観光マップ」

私たちが訪れたのはそんな城郭の一角で、囲いの外側から向かっていった。小高い丘に沿って城郭はうねるように続いていた。扶余に遷都した聖王(在位523554)のころに築城されたとみられている。 

粘土と真砂土を交互に入れて突き固める工法がとられた。北端の扶蘇山から南の錦江まで総延長84キロほどあったとみられる。いま残っているのは、その一部で、真新しい石垣が目立ち、修復もなされてきているようだ。 

■王陵群と、大発見

羅城の近くに陵山里古墳群が広がっていた。

陵山里古墳群
主な円墳だけで7基あり、王や王妃の陵と推測されているが、埋葬された人物を特定できる墓誌などは見つかっていない。

 いまから30前の1993年、羅城とこの古墳群の間の寺院址とみられる場所で、一つの大発見があった。「百済文化の結晶」ともいわれる「金銅大香炉」が見つかったのである。 

金銅大香炉のレプリカ

発見場所には発見当時のレプリカが地表から床用ガラス越しに見られるように展示されていた。原物は国立扶余博物館に展示されており、のちほど見ることになっている。 



■百済、新羅へ進攻

さて、7世紀も半ばにさしかかると、東アジア情勢はいよいよ風雲急を告げた。隋に代わった中国大陸の唐は、内部を固めて周辺に膨張、その圧力は東方にも及び、朝鮮の3国は新たな対応を迫られた。 

百済では6413月、武王が没して義慈王が即位すると、王の周りにいた負担となる勢力を粛清して中央集権を強化。そのうえで642年夏、新羅を攻略し始めた。新羅の唐への交通路である黄海(西海)沿いの党項城を高句麗とともに攻め、さらに洛東江西側の新羅の要衝である大耶城(慶尚南道陜川郡付近)を攻撃した。 

大耶城址 韓国文化財庁HP

大耶城を守っていた新羅の都督金品釈はのちに新羅の武烈王となる金春秋の娘婿だった。金品釈は自らまいた種で内部の裏切りにあい、いったん降伏を試みたが失敗。自ら、まず妻子を殺し、自決して果てた。結局、大耶城は陥落し、百済が新羅の本拠地を直接脅かす形勢となった。
 

■高句麗のクーデターと新羅の模索

遼東地域で唐と国境を接した高句麗は対唐政策をめぐり貴族間で対立が生じた。64210月、宰相の淵(泉)蓋蘇文(ヨンゲソムン)はクーデターで国王らを殺害、宝蔵王を傀儡として擁立し権力を握った。蓋蘇文は同年末、悲壮な覚悟で平壌を訪ねた新羅金春秋の対百済戦支援要請を拒否。金春秋は辛うじて高句麗から脱出した。 

平壌の蓋蘇文-金春秋会談決裂後、高句麗は新羅を圧迫、百済も高句麗との連携を強めると643年、新羅は唐に使臣を送って救援を要請。唐は、「新羅は王が女性の善徳王なので隣国に軽んじられる。唐の王族を新羅王にせよ」といった選択肢を含む支援条件を提示、さすがに新羅は受け入れられなかった。 

■唐の高句麗侵攻

644年、唐の太宗(李世民)は高句麗遠征を決定。「淵蓋蘇文の暴政から高句麗人民を救う」という名分を掲げて6452月、太宗自らが洛陽を発って遠征を開始し、新羅と百済にも参戦を求めた。4月、唐軍は遼河を渡って高句麗領を攻撃。対する高句麗軍は遼東平原の安市城などを拠点によく持ちこたえた。 

安市城の戦いは映画化され、日本でも上映された


そんなとき、北方モンゴル高原で勢力を振るっていたトルコ系遊牧民国家・薛延陀(せつえんだ)が蓋蘇文の呼びかけに応じて一部地域で唐に戦いを挑んだ。遼東平原に早い冬が迫った9月、唐軍はついに全面撤退を決めた。
 

遼東平原で唐と高句麗が戦っていたころ、戦火は朝鮮半島南部にも広がっていた。 

■「高句麗・百済」vs「新羅・唐」

644年、唐は高句麗遠征を公布したあと、新羅、百済に使者を送り、高句麗戦への派兵を求めた。両国にとっては難しい選択だった。 

新羅はしばらく返答をのばしていたが、高句麗と百済が協力して対新羅攻勢を強め、背後の倭の動向も楽観できない状況だったため、結局、参戦と派兵を決定。6455月、新羅軍3万が北方の臨津江を越えて高句麗に攻め入った。 

一方の百済は新羅とは異なる行動をとった。新羅軍が北方に侵攻すると、防御力の弱まった新羅の西部国境線を攻撃、新羅の7城を陥落させた。北進した新羅軍は急遽、軍を引き返して百済の侵攻に当たらなければならなかった。 

百済は唐と直接交戦したわけではなかったが、唐軍側についた新羅軍と交戦したことで、唐に歯向かったことになる。高句麗、百済、新羅、唐、倭が絡まった複雑な国際情勢は以後、しだいに2つの陣営に再編されていくことになる。つづく)   波佐場 清 


2024年1月19日金曜日

韓国版「ロミオとジュリエット」/百済歴史散策⑦

百済の武王は積極的な東進政策をとり、新羅の各地を攻撃した。一方で、隋・唐や倭とは外交関係を保ち、隋が高句麗を攻撃したときも中立的な態度をとった。 

すでに見たように百済が公州(熊津)から扶余(泗沘)に遷都したのは538年、聖王の時だった。そのあと、660年に百済が滅ぶまでの歴代王を見ておくと、次のとおりである。 

26代聖王(在位523554)▽第27代威徳王(554598)▽第28代恵王(598599)▽第29代法王(599600)▽第30代武王(600641)▽第31代義慈王(641660) 

■薯童謠(ソドンヨ)

武王は、新羅との戦いで聖王が殺されたあと衰えていた百済を再建したといわれている。法王の子とされるが、異説もある。その生い立ちなどについては『三国遺事』に出てくる郷歌(ヒャンガ)の「薯童謠(ソドンヨ)」で知られている。 

『三国遺事』は13世紀に高麗の僧一然によって書かれた史書。『三国史記』(12世紀に書かれた新羅・高句麗・百済に関する史書)から漏れた遺聞など仏教説話が多く盛られている。「郷歌」は「新羅の詩歌」の意をもち、独特の定型を備えている。 

私が学生時代、その謦咳に接した元大阪外国語大客員教授金思燁(キムサヨプ)先生(191292/京城帝国大法文学部卒。米ハーバード大招聘教授や韓国の慶北大学教授、東国大学日本学研究所長なども歴任)によると、郷歌「薯童謠」は次のようなものである。 

  善花公主(王女)の君 そっと嫁入りなされて

  夜には 薯童さまを 抱きしめて立ち去る

   (金思燁全集刊行委員会『金思燁全集25 完訳三国遺事』図書刊行会) 

この郷歌が出てくる説話を金思燁先生の訳にもとに私なりにごく簡単に要約すると次のようになる。 

  武王は幼名を薯童(ソドン)といった。母親はやもめで、池の竜と通じて生まれた。薯(いも)を売って暮らしをたてていたので、そう呼ばれた。新羅の真平王の第3王女善花が美しいと聞き、何とか自分のものにしたいと考えた。坊主の姿になって新羅の都に入り、街の子らに薯を与えて、この郷歌を歌わせた。 

  これが都じゅうに広まって宮殿に届き、善花は都を追われるところとなった。そんなとき善花の前に薯童が現れて道中を共にし、百済の都にたどり着いたところで夫婦のちぎりを結んだ。善花はこんごの暮らしについて相談し、新羅を出るとき、王后からもらった黄金を差し出した。 

黄金の価値を知らなかった薯童は「そんなものはいくらでもある」と言って薯を掘っていた場所から金を掘り出し、新羅の宮殿へ送る。これによって人望を得た薯童は百済の王位にのぼり、武王となった。 

ある日、武王と王妃善花がお寺参りに行く途中、大きな池のほとりを通ると、池から弥勒仏三尊が現れた。王妃はそこを埋めて大きな寺を建ててほしいと願うと、王はそれを聞き入れた。こうして建立されたのが弥勒寺だった――。 

■韓流大河ドラマ

この説話を題材に韓国の放送局SBS開局15周年にあわせて大河ドラマ『ソドンヨ(薯童謠)』を制作。200506年に放送されると大変な人気を呼び、日本でもBS朝日などで放送された。

ドラマは、数奇な運命をたどる百済の王子と、敵対国新羅の王女の純愛物語として描かれた。「韓国版ロミオとジュリエット」と喧伝され、日本の韓流ドラマファンの間でも評判になっていった。 

そんなところへ2009年、思わぬニュースが伝わった。先にみた益山の弥勒寺址の西塔の解体工事中に塔の内部から弥勒寺建立のいきさつなどを記した金板が見つかり、それによって弥勒寺建立の発願者は、どうやら新羅の王女善花ではないことが分かったというのである。 

■発願者は百済有力貴族の娘

弥勒寺址の出土品を保存・展示している国立益山博物館によると、石塔の内部からは大量の舎利荘厳具が見つかった。(舎利荘厳具 - YouTube

益山博物館HP

中身は、金製舎利内壺や金銅製舎利外壺といった各種供養品で、金板(縦10・5センチ、横155センチ)もその中にあった。 

益山博物館HP
金板には、
佐平[百済最高位の官職]沙宅徳積の娘である百済の王后が財物を喜捨して伽藍を創建し、己亥年(639年)に舎利を安置して王室の無事安寧を祈願する」
といった内容が記されていた。 

ここに出てくる沙宅徳積とは百済の有力貴族で、その娘が武王の王妃となると、ドラマとはずいぶんとイメージが違ってしまう。「敵対関係を超えて…」という愛を「ロミオとジュリエット」に重ね合わせていたファンには、水をぶっかけられたという思いだろう。 

韓国内には、それでも、「武王には沙宅王妃の他に別の王妃が存在していた可能性もあり、善花公主も武王の王妃として認めるべきだ」といった善花執着論もあるようだが、「純愛イメージ」の損傷はやはり、避けられない。 

■大激動の時代へ

益山が「王都」であったという確たる証拠は見つかっていない。しかし、弥勒寺址のほかにも、やはり武王の時代に造られた王宮の址とされる王宮里遺跡や武王と王妃が陵墓ではないかといわれる双陵など、この時期の百済の重要な拠点であったことをうかがわせる遺跡がこのあたり一帯に散らばっている。 

益山地域は錦江のほか万頃江にも近い水路交通の要衝であり、新羅攻略の軍事的拠点でもあった。こうした点を考えても益山が一時期「王都」だったのではないかという見方も根強いようだ。 

このあたり一帯はこのあと、百済・高句麗・新羅間の争いを経ていったん新羅に編入され、さらに新羅・唐間の戦争へと続く大激動の時代に入っていく。その過程でこの地域が「高句麗復興運動」の拠点になったりもした。そのことは後にまた触れることになるだろう。

(つづく)               波佐場 清

2024年1月15日月曜日

戦争と内乱の世紀へ/百済歴史散策⑥

公州博物館を出た私たちは南へ、全羅北道の益山(イクサン)に向かった。ここまでは主に6世紀までの歴史をみてきたのだが、これからは7世紀の舞台をみていくことになる。 

7世紀――。東アジアは大激動の時代だった。震源は中国大陸にあった。西暦220年に後漢の統一王朝が滅んだあと、魏・蜀・呉が争った三国時代にはじまった。そこから589年に再び隋の統一王朝が登場するまでの、ほぼ370年間、中国は分裂状態となった。「魏晋南北朝」の時代である。 

魏、晋に続き、華北では五胡十六国が入り乱れたあと、北魏、東魏、北斉、北周といった国々が次々と興り、江南では東晋のあと宋、斉、梁、陳の4王朝が興亡。結局、華北の北周から出た隋が南朝をのみこみ、再統一を達成したのだった。 

■隋帝国の出現と東アジア情勢

中国における新たなうごめきと強力な統一王朝の出現は周辺国に緊張をもたらし、朝鮮の3国や倭国にも大きな影響を及ぼしていった。京都大学教授吉川真司さんの著書『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)を手引きに、この時期に至るまでの東アジア情勢を概観しておくと次のようだった。 

  朝鮮半島北部から中国東北部の遼東半島、牡丹江辺りまでを支配していた大国の高句麗に対し、朝鮮半島南東部を本拠とする新羅が急速に台頭し、北方では高句麗と戦って東海岸に版図を広げ、551年には西海岸の漢江流域に進出した。南方では百済と対峙し、562年までに加耶地域全域を領有した。 

  新羅は国家体制を着々と整え、中国王朝とも直接の外交関係をもってさらなる発展への基礎を築いていった。そんな新羅に高句麗は552年、平壌に新都の長安城を築いて対抗、570年には新羅の背後勢力の倭に使者を送った。 

  隋が出現すると、遼河をはさんで国土を接する高句麗には大きな脅威となった。598年、30万の隋軍に攻められるが、高句麗はこれを撃退した。このように西の隋、南の新羅と対峙した高句麗は、そのころ勢力を伸ばしていた北方のトルコ系遊牧民突厥や倭との連携を探らなければならなかった。 

  そんななか、半島南西部の百済は新羅に押されて逼塞していったが、隋や倭、そして、かつての宿敵高句麗ともたくみな外交関係を結び、生き残りをはかっていた――。 

■副都? 益山

私たちはいま、そんな時代の百済を訪ねようとしているのだった。これまでに見たように百済は538年に聖王が扶余(旧名・泗沘=サビ)に遷都し、660年に滅亡するまで百二十余年間、ここを拠点に仏教を中心とした百済文化の花を咲かせたのだった。 

そんな歴史の舞台へ、まず足を踏み入れたのが益山だった。当時の王都・扶余から南へ直線距離で30キロほど。7世紀初め、副都、あるいは次の遷都先として整備されていたのではないかとも見られている場所である。 

地域の観光事業関係者が私たち一行を歓迎してくれた。コロナ禍の後、日本から訪れた最初の大型ツアー団体ということになったらしい。全員に「百済の衣装」を着せてくれ、益山文化観光財団の金世満(キムセマン)代表理事(64)が私たちの代表に花束を手渡してくれた。


扶余付近略図 南海国際旅行作成

金世満さんは元もと韓国観光公社にいて大阪、仙台、名古屋など日本勤務が長かったといい、流暢な日本語であいさつをした。釜山の出身だが、百済のことが気に入り、定年退職した後、専門知識と経験を役立てたいと、いまの仕事を引き受けたという。金さんのもとにいるガイドがいろいろと案内してくれた。 

■弥勒寺址

まず、弥勒寺址に案内された。韓国最古の寺院の一つで、百済最大規模の伽藍をもっていたとみられるという。そのことが、泗沘期の百済にあってここが王都並みの地であったことを示す証拠の一つにもなっているのだという。 

東西260メートル、南北640メートルという広い敷地に東西2基の石の塔が建っていた。

弥勒寺址の2つの塔

東の塔は完全な形だが、西側の塔は上部がちょん切られたようになっている。実はこの西塔の方が貴重な歴史遺跡で、崩れかかっていたのを文化財庁が23億ウォン(当時のレートで約23億円)の費用と20年の歳月をかけて2019年に解体改修工事を終えたのだという。 

元もと9重の塔だったとみられるが、17世紀の段階で6層から上がなくなっていた。その後、さらに崩れそうになっていたのを日本の植民地期の1915年、日本人がコンクリートで応急補強し、無粋な姿をさらしていた。それを今回、初めから石を組み直したという。高さは約145メートル。 

近くに解体前の写真が展示されていた。

解体前に撮影したの西塔

完成後、監査院が「原形通りになっていない」と苦言を呈したという。見る角度によってはたしかにそんな気もしないわけではないが、地元の関係者はあまり気にしていないようすだ。

西塔(南側から撮影)

西塔(北側から撮影)

もう片方、東塔の方は、まったく無くなっていたのを1980年から90年代にかけて大がかりな発掘調査をおこない、その結果をもとに93年に新しく9重の塔を再現した。

■武王の時代

弥勒寺が建てられたのは7世紀前葉、百済第30代の王、武王の時だった。武王は6世紀最後の年の600年に王位につき、641年に没して百済最後の王となる長子の義慈王(在位641660)に引き継ぐまで40余年間にわたって百済を率いた。 

武王の時代、中国大陸にあった隋は、文帝の後を継いだ煬帝が612年、高句麗に100万を超す大軍を送り込んで滅ぼそうとしたが、激しい抵抗にあって敗退。その翌年とさらにその翌年にも大軍を動員して攻撃を加えたが、そのたびに高句麗軍は隋軍をはね返した。そんな大動員の繰り返しで隋の国内は疲弊し、反乱が続発。618年に煬帝は殺され、隋は滅亡した。 

このあと中国大陸では唐が大帝国を再建。百済・新羅・高句麗はそれぞれ唐から冊封を受け、いったん国際秩序は回復していった。百済の武王は、そんな激動の合間といえる時期に比較的安定した王権を保ち、この益山の地にその址をとどめる大寺院、弥勒寺も建立したのだった。(つづく)

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

参考文献(百済歴史散策④~⑥)

吉田光男編『韓国朝鮮の歴史と社会』(放送大学教育振興会)

文科省検定教科書『詳説日本史B』(山川出版)

遠山美都男『白村江 古代東アジア大戦の謎』(講談社現代新書)

岡田英弘『倭国 東アジア世界の中で』(中公新書)

吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)

吉田孝『体系日本の歴史③――古代国家の歩み』小学館ライブラリー

韓国民族文化大百科事典무왕(武王) - 한국민족문화대백과사전 (aks.ac.kr)