2017年3月28日火曜日

文在寅回想録⑤――労働者に寄り添って

■機関員の監視
当時の盧武鉉弁護士はいま考えると、まさに激烈だった。初めて信仰の道に入った信者が、古くからの信者以上に信仰生活に熱情的なのと、どこか似ていた。

私には「弁護士なのだからやれる範囲はここまで…」という、自ら設定したラインがあった。私に限らず、みながそうだった。弁護士には弁護士のやりようがあるというのが一般的な考えだった。しかし盧武鉉弁護士はそうではなかった。正しいと思うとおりに行動した。のちの政治家・盧武鉉も同じだった。

公害問題研究所釜山支部ができると、そこで活動する人たちは情報機関の監視対象になった。情報員や刑事がその事務室前に陣取るようにして活動を監視し、出入りする人たちをチェックした。事務室の中にまで随時出入りした。

すると、盧武鉉氏は弁護士事務所の一室を公害問題研究所の事務室として提供した。運動の財政的な支援を兼ね、機関員からも守ろうとしたのだった。それでもなお、事務室の前に機関員が常駐はしたが、中には入って来られなかった。

そこからさらに一歩進み、弁護士事務所内に労働法律相談所も設けた。それまで私たちは労働事件が発生すれば裁判と弁論を支援するというやり方をしていた。しかし、盧武鉉氏はそれで満足しなかった。労働組合の設立から日常活動までを支援しようとしたのである。

■盧武鉉弁護士の原則主義
釜山民主市民協議会の創立大会を開いた日のことだった。行事は1部が講演会、2部で創立大会を予定していた。1部の講演の弁士は趙甲済氏(*)だった。そのときまで彼は「国際新聞」の解職記者として地域でいい評価を受けていた。

(*のちに『月刊朝鮮』編集長などをつとめた極右保守の論客)

警察が会場を封じ込め、初めから中に入れなくした。そんな不法をみんなで糾弾した。それでも警察がどかないと、盧武鉉弁護士はそのまま路上に横になり、一人でスローガンを叫ぶのだった。

それによって一気に過激な弁護士という噂になった。弁護士として品位に欠ける、とも言われた。しかし、警察の不法な会場封じ込めに、ただ抗議するそぶりだけで済ますことはできないというのが盧武鉉氏の考えだった。

この件について私たちは釜山市警察局長(現在の釜山警察庁長)と管轄警察署長を刑事告訴した。盧武鉉弁護士が代表告訴人になったが、まともに捜査もしないままうやむやにされてしまった。

のちのことになるが、1987年、故朴鍾哲君の追慕集会で私と盧武鉉氏がいっしょに連行され、取り調べを受けた時も同じだった。私は調べに応じ、正当性を主張するというやり方で臨んだのだが、盧武鉉氏は初めから陳述を拒み、署名・捺印すら拒否した。

盧武鉉氏は連行され、調べを受けること自体が不法、不当でいっさい応じられないとがんばったのだった。初めてのことであり、まして弁護士という立場では調べ自体を拒むというのは容易なことではなかっただろうに、自分が正しいと思った通りを貫いたのである。

それが後日、政治家になった盧武鉉氏の原則主義だったと私は思っている。

■デモ参加を妨害
全斗煥独裁政権に対する抵抗がしだいに強まり、集会やデモが頻繁におこなわれるようになると、主要な集会、デモのさいには警察が事務所を訪ねてきて参加できないよう妨害した。「事務所軟禁」だった。弁護士に対してもそのようなことがなされた時代だった。

集会、デモがあるときは、警察の目をどう逃れるか、常に思いをめぐらせなければならなかった。初めから事務所に入らないようにしたこともあった。また、いったん入った後でいろいろと工夫をこらしたりもした。情報機関員や刑事が集会、デモの会場までついてくることもあった。

わが家が捜索・押収されたこともある。アパートに住んでいたときのことだが、刑事がそのアパートの警備室に23日間たてこもっていて、ある日、正式に令状をもってやってきた。事由は、「53仁川事態」(*)関連者のうちの一人が我が家に隠れている疑いがあるというものだった。

(*198653日、学生や在野関係者約1万人が国民憲法制定など求めて繰り広げた大規模デモ。319人が連行され、129人が拘束された。全斗煥独裁政権が民主化運動弾圧を本格化させる契機となった)

確認してみると、「匿名の市民が電話で通報してきた」という警察官の報告書一枚が唯一の根拠だった。あきれ果てるばかりだった。公安検事が請求すれば、現職弁護士に対しても判事がそんな令状をだす暗黒の時代だった。

■女子工員らを無償で弁護
労働者たちが権利意識に目覚め、労働事件が相次ぎ始めた。私もそうだったが、盧武鉉弁護士は学生の事件よりも労働事件への関心の方がずっと大きかった。主張や論理がいつも似ていた学生の事件と違い、そこには労働者が生活を立てていくうえでの苦労がにじんでいた。

そのころ、釜山の主力産業だった靴工場で働く女性労働者らの処遇は極めて劣悪だった。残業や特別勤務を合わせても月6~7万ウォン台、それも遅払いが常態化していた。作業場内の人格侮辱やセクハラも茶飯事だった。生存権を掲げて勤労基準法の順守を要求したり、すこし後になってからは労働組合づくりをしたりして集団解雇される女性労働者が多かった。

自らを守るために集団行動に出て業務妨害で拘束される労働者も多かった。彼女たちに会うたびに心が痛んだ。2人で無償の弁論を精一杯やったが、救ってあげられなかった人たちも多かった。

盧武鉉弁護士はそのような事件を重ねるうちに労働弁護士に専念しようと決心した。弁護士事務所内に労働法律相談所を付設したのもそのような考えからだった。私たち自身、専門性をもっと高めようという目的もあった。

■労働法を自分で勉強
そのころ、労働法の本は概ね保守的な観点からのものだった。その時代に噴出した労働事件を扱う上であまり役に立たなかった。そんな中にあって当時最も進歩的で現実に合う理論を提示していたのは辛仁羚教授の論文集で、大きな助けとなった。

とはいえ、その論文集で扱われていない問題が多く、自分で勉強せざるを得なかった。判事や検事らも労働法を知らないまま市民法的な考えから事件を扱った時代だった。

盧武鉉弁護士は、あまりにも熱心すぎて、そのことが後輩の弁護士にかえって負担になるほどだった。たとえば、昌原で後輩弁護士が誕生したと思ったのだが、結局、そうした負担に耐えられずに地域を去ってしまった。

労働者らにしょっちゅう盧武鉉弁護士と比べられるのが大きな負担になったと思われる。「盧武鉉弁護士は無償弁論で、法廷でもいっしょにたたかってくれた。それなのに、お前は…」と言われれば、どんなものか。あまりに献身的すぎるというのも、必ずしもいいことばかりではない、という思いだ。

盧武鉉弁護士は86年後半から人権弁護士の仕事だけに専念した。一般事件は端から引き受けなかった。時局事件、それもほとんどが労働事件だけに絞った。事件の弁論だけでなく、労働組合や労働者相手の講演も多くこなした。労働者たちの行事に招かれて参加したりもした。それで、事務所から受け取った給料は月200万ウォンにすぎなかった。

2017年3月22日水曜日

文在寅回想録④――身を律し、正義を求め…

■「反公害」を名目に…
いろいろな時局事件をほぼ一手に引き受け、地域の在野の人たちとも近しくなった。当時、釜山の在野勢力を率いていたのは宋基寅神父と、いまは亡き釜山中部教会のチェ・ソンムク(최성묵)牧師だった。

小説家のキム・ジョンハン(김정한)さんは年老いておられたが、いつも私たちを励ましてくれ、いざという時には直接前面に出てくれたりもする精神的な支柱だった。これらの人たちを中心に1984年ごろから在野の民主化運動団体や人権団体が復活し始めた。釈放された釜林事件のメンバーらが主に実務面を担当した。

84年に最初に復活した在野民主化運動団体が公害問題研究所釜山支部だった。チョン・ホギョン(정호경)神父が理事長となり、チェ・ヨル(최열)さんが実務面をきりもりした。

名前こそ公害問題研究所の支部としたが、実際のところ、そちらのほうと関係があったわけではない。当時はまだ民主化運動を直接標榜するのが怖かった時期で、遠回しに反公害団体としたのだった。もちろん、釜山の在野の人たちをほとんど網羅していた。宋基寅神父が代表になった。

最初、私はまず、発起人として参加した。正式に発足するにあたっては盧武鉉弁護士もいっしょに加わった。共に理事として、だった。

■民主化運動組織を設立
85年、釜山民主市民協議会(略称・釜民協)が設立された。ソウルの民闘連と同じ性格のものだった。釜山のすべての在野勢力を網羅する組織だった。釜山の民主化運動の求心組織ができたのである。のちに、87年の「6月抗争」(*)をリードした国民運動本部も釜民協が中心となった。釜民協の代表も宋基寅神父が引き受けてくれた。

(*876月、韓国全土で起きた民主化運動。「610民主抗争」ともいう。当時の全斗煥軍事独裁政権が民主化運動を抑圧し長期政権を画策するなか、ソウル大生朴鍾哲君が拷問で死亡。この事件が発端となり、全斗煥とともに軍事クーデターの主役だった盧泰愚が与党の次期大統領候補に選ばれたことで国民の怒りが爆発。約半月間に全国で500万人以上がデモに加わった)

弾圧を覚悟しなければならない時期だった。「31運動」[*]にならい33人が悲壮な決意で代表発起人になった。私は盧武鉉弁護士といっしょに初めからその発起人に加わった。あとで常任委員にもなった。盧武鉉弁護士は労働分科会の委員長になり、私も民生分科会の委員長を引き受けた。

[*191931日、日本支配下のソウルで口火を切った反日独立運動。33人が独立宣言書に署名。運動は朝鮮半島全土に広がった]

これによって私たち2人はともに在野運動に深く足を踏み入れることとなった。盧武鉉弁護士も私もプロテスタントの信者ではなかったが、のちにつくられた釜山NCC(キリスト教会協議会)人権委員会の委員にもなった。人数が限られていたので民主化運動団体や人権団体にあまねく関わらざるを得なかった。弁護士としての義務であり、使命だと考えた。

■押し寄せた人権事件
時局事件についても同じだった。支援が必要な仕事は断れなかった。釜山に来るにあたり、「ぜひとも人権弁護士になってやろう」という目標を立てたことなど、いちどもなかった。

盧武鉉弁護士に初めて会ったときもそのようなことを言った。「人権弁護士になろうというようなことを目標にしているわけではありません。しかし、そのような事件が来る場合には避けて通ることもないでしょう」と。

その通りにやっただけだ。ほかにやる弁護士がいなかったのでいちど引き受けると、堰を切ったため池の水のように事件が押し寄せてきた。どうしようもなかった。

私と盧武鉉大統領で別々に引き受けることもあったが、すこし重要な事件はいっしょにやった。被告が何人もいる時局事件は被告人ごとに分担した。2人が並んで法廷に立つことも多かった。盧武鉉弁護士と私は、気質や性格の面よりは事件に取り組む姿勢や態度がよく似通っていた。

在野団体にもほとんどの場合、いっしょに加わった。団体内の役割を分担したが、私一人で関わる分野も一つだけあった。カトリック教系の運動団体だった。天主教社会運動協議会、天主教正義具現全国連合、天主教人権委員会、天主教正義平和委員会などだった。

私がカトリックの信者だからだった。実際、信者になってずいぶんになるが、信心が篤いとはいえず、聖堂にもあまり行かないのに、カトリック系団体で職責を担うというのは決まりが悪くもあった。

しかし、弁護士の助力がぜひとも必要だ、というのを断るわけにはいかなかった。そんな因縁から、篤実な信者でもないのに、のちに(盧武鉉政権で)青瓦台にいた時はカトリックとの窓口役をつとめた。金寿煥枢機卿とも何度かお会いし、あいさつを交わした。盧武鉉政権時代、枢機卿が2人に増えたのだが、その際、盧武鉉大統領の親書をバチカンに送るにあたって橋渡し役もした。

■収入の少ない弁護士
労働・人権弁護士の道を歩んだ結果、お金が儲かる弁護士にはなれなかった。私としては元もと覚悟のうえのことだった。初めからそういうものとしてやってきた。妻も、司法試験に合格して弁護士になってくれただけでありがたいといい、協力してくれた。

しかし一時、収入が多かった盧武鉉弁護士には容易なことではなかったと思われる。収入が減った分、生活費を減らさなければならなかったのだから、誰よりも夫人、権良淑女史の気苦労は大変だっただろう。

しかし、そんなことは平気のようだった。盧武鉉弁護士は一時期、専ら労働事件だけを引き受け、月200万ウォンだけでやっていたこともあった[*]。

[*韓国の法曹界に詳しい関係者によると、当時、韓国の弁護士は少ない人でも月700万ウォン程度の収入はあったという]。

時局事件と在野民主化運動をするなかで盧武鉉弁護士と私は2つのことに特別に神経をつかった。

■身辺をきれいに
一つは、自らがきれいであらねばならない、ということだった。当時、独裁権力がしばしば使った手についてはよく分かっていた。不正や弱点を探し出して脅したり、身動きができないようにしたりするやり方だ。

脱税や私生活面の不正などを内密に掘り起こして恥さらしにするようなことは朝飯前だった。一歩間違えれば身を滅ぼし、民主化運動にも累を及ぼしかねなかった。大義と良心に背くことがないよう節制し、注意を払った。

些細なことではコミッションをなくすことからはじめ、税務申告も徹底した。私生活も、それなりに厳しく律しようと努力した。

とくに盧武鉉弁護士は熱情にあふれ、まるで初めて運動に飛び込んだ学生のようだった。献身的だった。自らの生活自体を民衆的なものに変えようと努力していた。食事も高いものはものは食べず、酒も高価なものは避けた。

好きなヨットもやめた。口だけで「民衆」を叫ぶ偽善を嫌った。それほど純粋で、徹底していた。ともかく、生き方そのものを道徳的なものにかえようと努力していた。

そのようなことで、私はゴルフを始められなかった。当時、ゴルフ場建設に強く反対する環境運動家に同調していて、その一方でゴルフをするのは許されないと考えたからだ。その後、ゴルフが大衆化し、否定的な考えはなくなったが、こんどは時間的な余裕がなくなっていた。

■「爆弾酒」を断つ
酒についても同じことだ。洋酒やワインよりも焼酎やマッコリの方が合っている。酒席は一次会で終え、できるだけ「爆弾酒」[*]も飲まないようにした。「民衆」を口にする者が言葉と外れた行動をするのはよくないと考え、自分なりに決心した。

[*ビールをウィスキーや焼酎で割ったカクテル。韓国軍内で始まったともいわれる]

爆弾酒をやめたのには別の理由もある。釜民協が設立された、その年の暮れごろ、釜民協の関係者が安企部釜山分室の人たちといっしょに酒を飲むことになった。安企部の方から一度やろうと誘いがあり、準備された席だった。わが方は私をはじめ、神父、牧師らで、向こうは分室長ほか在野担当、宗教担当、法曹担当らだった。

お互い談笑したが、心を開き合う席にはならなかった。焼酎を飲むだけ飲んだところで終えようとしたのだが、陸士14期出身という分室長が爆弾酒を一杯やろうと言うのだった。当時はまだ、爆弾酒というものが一般に知られるようになる前のことで、わが方の人たちはみな、初めてだった。

分室長が要領を説明し、模範を示した後、グラスを回した。何杯か回ると、全員ぶっ倒れ、結局、分室長と私の2人だけが残った。私もずいぶんと酔っぱらったが、負けまいと必死に耐えていた。

10杯ほど飲んだ時、分室長がトイレへ行くというので私もいっしょについて行ったのだが、そこでおかしくも大変な光景を見てしまった。分室長は用をたすのではなく、鏡の前で自身の両頬をぴしゃりぴしゃりと大きな音を立てて叩いていたのだ。

彼もまた、負けまいと精一杯の努力をしていたのである。そこで酒の席は終わった。しかし誰彼を問わず、無理やり飲むことを強いる画一的な軍隊式飲酒文化のありさまを直に目撃してしまったというわけだった。

■法廷内の慣行正す
二つ目は、時局事件にあっても、ただ弁論するだけでなく、捜査から裁判手続きまでのすべてを刑事訴訟法の規定通りに貫徹しようと努力したということだ。時局事件法廷だからこそ刑事訴訟法の手続きが完璧に守られるべきだと思った。

大学生の時局事犯の裁判はことさらそうだった。彼らの裁判で法手続きを守らずして既成世代はどうして彼らをとがめることができるというのか。

私が弁護士を開業したころは刑事訴訟法から外れた法廷内の慣行が多かった。被告人は立たせて裁判をするのが基本だった。捕縄でしばり、手錠をはめたままで裁判するのは茶飯事だった。

それに対して一つひとつ条文を示してたてつき、正すよう裁判長に求めた。「手錠を外してください」「捕縄を解いてください」「椅子を準備し、座らせてあげてください」と。

刑事裁判の間違った慣行が一つひとつ直されていった。時局事件の被告人が裁判を受ける間、捕縄や手錠から自由になると、代わりに刑務官が左右から被告人の腕を挟みつけるようにぴたりとくっついて座ったりもした。それも身体を拘束することでは同じだった。手錠の代わりに人による身体の拘束だった。それにも抗議してできないようにした。

いちどは、こんなこともあった。時局事件の被告人が手錠も捕縄もなく座ったのだが、動作の具合がおかしかった。ただしてみると、被告人のひじの上部を縄でしばり、その上から囚人服を着せて身体の拘束がないかのように偽装していたのだった。それが分かったときは、裁判長もいっしょになって刑務官をとがめたのだった。

■検事を怒鳴りつける
時局事件の裁判では私服の警官があらかじめ傍聴席を埋めてしまうというやり方で傍聴者の入場を阻止したりもした。それで、裁判長に確認を求めると大半が警察官であることが分かり、裁判長ともども驚いたこともあった。

被告人の冒頭陳述権をめぐり裁判長らと何度か論争したりもした。刑事訴訟法の条文だけではだめだった。註釈書や裁判所実務提要の条文解説まで示して冒頭陳述権が被告人の権利であることを認めさせた。

検事のぞんざいな尋問のやり方も見過ごせず、裁判長に注意するよう求めた。とくに盧武鉉弁護士は検事が被告人を不当にどやしつけたり、ぞんざいな言葉づかいをしたりするのを決して許さなかった。

そんな場合、「どうしてそんなぞんざいな言い方をするのか」と徹底して怒鳴りつけた。検事の過ちに対する強い抗議の意味もあったが、被告人が臆することのないようにしようとしたのだった。

■接見拒む警察とのたたかい
捜査についても同じことだった。時局事件では強圧的な捜査を防ごうと努めた。連行されると、できるだけ早く接見に行くことにしていた。警察の方は、捜査中であることを理由に接見を拒むのが普通だった。

対共分室で調べる事件の場合、その対共分室に行くと容疑者が留置されている警察署に行けといい、警察署へ行けば対共分室に行って申請しろといっては無駄足を踏ませた。そのように接見を妨害するのが常だった。

それでいてそれまで、そんなことを問い詰める者はいなかった。私たちはそのようなことに強く抗議した。私たちだけで解決できないときは弁護士会に問題を提起した。そうして釜山市警察から「是正する」との返答を引き出したりもした。盧武鉉弁護士は弁護人接見を何度も拒否した警察署の捜査課長を告訴したこともあった。

こうして裁判と捜査における多くの間違った慣行を正した。そのよう努力が時局事件で実を結ぶとすぐに一般事件にまで広がった。いまではそのような慣行はほとんどなくなった。少しばかり前のことなのだが、若い法曹人はそのような時代があったということを容易に信じないほどに今は変わってきている。



2017年3月15日水曜日

文在寅回顧録③――人権弁護士

■悪弊
事務所の運営は概ね、うまくいった。当時はまだ、法曹界全体の人数が少なく、開業弁護士も少なかった。裁判官や検事を経ずに司法研修所を終えたばかりの開業だったが、それでもけっこう仕事があった。その次の年度から、司法試験合格者の数が多くなって弁護士もどっと増えた。私が恵沢を受けた最後の年次だったといえるだろう。

開業の日、ある医師の夫人が開業広告の載った新聞の切り抜きを手に事務所を訪ねて来た。若くて開業したばかりなので却って一生懸命やってくれるのではないかと思って来たという。民事事件だったが、それが初仕事だった。

一方で盧武鉉弁護士の方はかえって仕事が減った。それまで釜山で最も若く熱心な弁護士として受任する事件も多く、勝訴率も高い、たいへんな売れっ子弁護士だったのだが、私といっしょにやることになったのを機に事件受任の紹介料(コミッション)をきっぱりと断ち切ったことが大きかった。

コミッションは今でこそ弁護士法で禁じられているが、当時は慣行としておこなわれていた。裁判所や検察庁の職員、刑務官、警察官らが事件を紹介して20%程度のコミッションをかすめ取るのが普通だった。これがはびこり、銀行や企業の法務チームの中には事件を他に回すことによってコミッションを得るところもあった。盧武鉉弁護士もこの慣行から例外でいるのは難しかった。

■酒食で判事を接待
しかし、そんな慣行をきっぱり断ち切った。盧武鉉氏は、初めて会った日に約束した通りを実行した。裁判官や検事の接待についても同様だった。当時、刑事事件を扱う弁護士は時々、担当の判事を酒食でもてなすのが普通だった。

裁判の日には、その日の最終の法廷に入った弁護士が判事らを酒食で接待する慣行があった。裁判所の周辺には「パンソクチプ」[「座布団を敷いた店」の意]と呼ばれる高級料亭が何軒かあった。盧武鉉弁護士も一時、そんな料亭のお得意客だったが、そんな接待もやめた。

みんながやる慣行を一人だけ断つというのはどれほど難しいことか。それでも、そのようにした。きれいな弁護士。たぶん、盧武鉉氏は、私が民主化運動グループ出身の弁護士だから当然そう望むだろうと考えたのだと思う。

もともと将来、やってみたいと思っていたことを私にかこつけて実行に移したのだと思う。先輩弁護士として後輩に恥をかきたくない、手本を示さなければ、という義務感もあったのだと思う。ほんとうに良心的で、義務感の強い人だった。

そうなると、受任事件が目に見えて減ってきた。銀行の顧問弁護士も何カ所かでやっていたのだが、それも切れた。結果、盧武鉉弁護士の収入は一人でやっていた時と比べてずいぶんと減ったのだが、意に介する様子はなかった。

のちに人権弁護士と呼ばれるようになってからはさらに収入が減った。というわけで、盧武鉉弁護士が法曹人として経済的に豊かだった時期は実際のところ、いかほどもなかった。それでも、私たちは「よし」とした。事務所の維持にはとくに問題はなかった。

■注目の的
当時の釜山は、ことばでこそ韓国第二の都市といわれたものの、弁護士はそう多くはいなかった。登録弁護士は100人にも満たなかった。登録だけして実際には活動していない人もいて、そうした人を除くと法廷で競い合う弁護士はその半分程度にすぎなかった。それなりに一生懸命、誠実にやれば、いい弁護士だという評判を得ることができた。

法曹界は保守的で、いい評判にしろ、悪い評判にしろ、いったん、そうだとなると、簡単に変わることはなかった。ラッキーにも私は開業当初に釜山地域の法曹界でいい印象を持たれたおかげで、のちのちまで、弁護士活動をするうえで助かった。

釜山の弁護士の社会で私たちは注目の的となった。2人とも若かったのに加え、経歴が変わっていたからだ。そんな2人が釜山で一つしかない合同法律事務所を運営したのだから断然、注目された。人一倍用心深くあらねばならず、いっそう努力しなければならなかった。

事件だけでなく、釜山弁護士会の活動も一生懸命にやった。とくに盧武鉉弁護士は釜山弁護士会の財務理事を3度もつとめるほど、みんなのための仕事にも熱心に取り組んだ。老若を問わず、弁護士らはみな彼に好意的だった。いい時代だった。

■釜山米文化センター放火事件
盧武鉉弁護士は私といっしょに仕事を始めるまでにすでに2件の時局事件を引き受け、そこに一歩を踏み出した状態だった。「釜林(プリム)事件」と「釜山米文化センター放火事件」(*)だった。

(*「釜林事件」は②を参照。「釜山米文化センター放火事件」は19823月、釜山地域の大学生らが光州民主化運動の流血鎮圧と独裁政権を擁護する米国の責任を問うて米文化センターに放火した事件。その渦中で一人の学生が死亡。韓国における80年代の反米運動の嚆矢となり、当時の全斗煥政権はこれをスパイなど不純分子の仕業として弾圧した)

盧武鉉弁護士が「釜林事件」を引き受けたのは人情からだった。この事件に取り組んでいた先輩の人権弁護士の金光一氏がその事件にからんで資金提供の容疑をかけられ、拘束されてしまった。そこで金光一弁護士は若手の弁護士らに弁護を呼びかけた。被告人の数が多く、若手弁護士の何人かで分担し合うことになった。

盧武鉉弁護士はこれを引き受けるとだれよりも熱心に取り組み、弁論を主導した。被告人らに加えられた拷問と長期にわたる不法拘禁を生々しく暴露したのも盧武鉉弁護士だった。初めて取り組んだ時局事件だったが、真っ向から体当たりで弁論に臨んだ。

そのことがあったため、しばらく後に米文化センター放火事件が起きると、再び共同弁護人団への参加を頼まれることとなった。

こんどは李敦明、ユ・ヒョンソク(유현석)、ファン・インチョル(황인철)、洪性宇弁護士ら、ソウルのそうそうたる弁護士といっしょだった。この2つの事件の弁論で盧武鉉氏の人生が変わることとなった。 


■息を吹き返した民主化運動
この2つの事件で釜山の民主化運動勢力はほぼ一網打尽となった。一言でいえば、なんにもない荒れ野といえる状態になった。しかも、殺伐とした全斗煥政権初期のことであり、そこから1983年まで釜山では時局事件といえるものはほとんど何も起こらなかった。

そんなところへ83年下半期から84年初めにかけて「学園自立化措置」など、若干ながらも一息つける社会的空間が生まれた。釜林事件は初めから無理なでっち上げ事件だったため、その被告人らも83年末には全員、刑の執行停止で釈放された。彼らが加わることで釜山地域の在野民主化運動は勢いを取り戻した。

大学生らによる学生運動事件と労働事件が発生し始めた。厳しい弾圧に苦しむ労働者らが勤労基準法の順守を求めたり、労働組合の結成を推進したりして集団解雇される事件も起きた。そんな彼らが私たちを訪ねて来はじめた。

■人権弁護士の道
初めから人権弁護士の道を歩もうと決めていたわけではなかった。しかし私たちを訪ねてくる人たちを避けることはせず、彼らに共感して一生懸命弁論した。次第に私たちは釜山地域の労働者の人権弁論の中心的な役割を担うようになっていた。釜山地域だけでなく、それまで人権弁護士がいなかった近隣の蔚山、昌原、巨済島地域の事件まで引き受けるようになった。この地域には労働事件が多かった。

全斗煥政権に対する抵抗が強まるなか、大学では「三民闘」「民民闘」「自民闘」(*)にからむ事件が次々と発生していった。学生運動の理念化傾向もはっきりしてきた。釜山とソウルの学生運動組織がいっしょになって計画した釜山米文化センター占拠籠城や釜山商工会議所占拠籠城のような事件の弁護も引き受けた。

(*「三民闘」は「三民闘争委員会」の略称。854月に発足した全国学生総連合(全学連)傘下の34大学が参加した闘争組織。「民民闘」は863月にソウル大学人文学部を中心に結成された「反帝反ファッショ民族民主闘争委員会」の略称。「自民闘」は、「反米自主化、反ファッショ民主化闘争委員会」の略称で、同年6月、ソウル大学社会学部を中心に結成された。いずれも当時の学生運動をリードした)

いつの間にか、私たちは釜山地域で代表的な労働・人権弁護士になっていた。私たちの法律事務所は釜山を中心に蔚山、昌原、巨済島を網羅する地域の労働人権事件を統括するセンターのようになっていた。

 

2017年3月9日木曜日

文在寅回顧録②――盧武鉉・文在寅合同法律事務所

■同じ世界に住む人
盧武鉉弁護士の事務所は、裁判所や検察庁近くの釜山・富民洞にあった。地味というより、すこし見ずぼらしい建物だった。裁判所の正門の方ではなく、後門の側だった。事務所内はけっこう広かった。

そこで盧武鉉氏と初めて会った。その出会いが、私の生涯の運命と結びついていくことになろうとは想像すらできなかった。初めて見る盧武鉉弁護士は若かった。1978年に開業していたのだが、私が参入するまで釜山で最も年が若く、司法修習の期数も若い弁護士だった。印象からして違っていた。

もちろん、その時の私はそう多くの法曹人を知っていたわけではない。しかし、司法研修所に入ってから会った研修所の教授(裁判官、検事)や、高校・大学が同窓の法曹人のつどいで会った先輩たち、さらには弁護士試補を経るなかで会った人たちとは雰囲気がまるで違っていた。

当時、弁護士と言えば、みな、裁判官や検事をけっこう長い間つとめた人たちだった。ほとんどが権威的な雰囲気で、しゃべり方にも威厳を漂わせていた。しかし盧武鉉弁護士は裁判官生活が短かったからなのか、あるいはもともとそういう気質なのか、雰囲気がまったく違っていた。非常に気さく、率直で、親しみを感じさせた。

すぐに同じ仲間というか、私と同じ世界に住む人、という感じを抱いた。

■運命の出会い
一杯のお茶を前に、ずいぶんといろいろなことを話したと記憶している。私が学生時代にデモで捕まり、大学を除籍されたという話。そのために裁判官に任用されなかったという話……。

盧武鉉弁護士は自身が弁論した「釜林(プリム)事件」(*)の経験を語りながら、私が裁判官に任用されなかったことに対して心底、いっしょに怒ってくれた。そして自らの夢を語った。人権弁護士としてどうこうしようという話ではなく、きれいな弁護士になりたい、という話だった。

(*1981年に発足した全斗煥政権初期、釜山地域で起きた最大の容共捏造事件。政権が統治基盤を固めるために民主化運動を弾圧し、でっち上げた。同年9月、社会科学読書会を開いた善良な学生、教師、会社員らを令状なしに逮捕し、2063日間にわたって監禁。殴打はもとより、「水拷問」など殺人的な拷問を加えた。同年7月、ソウル地域の活動家学生たちが一斉に拘束された「学林[大学]事件」に続いて起きたことから「釜山の学林事件」という意味で「釜林事件」と呼ばれた)

「きれいな弁護士」といっても、言うほどには簡単ではないと盧武鉉弁護士は告白した。私といっしょに仕事をするようになったら、それを機にお互い、きれいな弁護士になってみようと話した。あたたかな気持ちが心を打った。

業務を専門化し事務所を立派なものにしていきたい、というビジョンも語った。ソウルの法律事務所で示されたような誘惑的な提案は何もなかった。しかし、心が引かれた。その日のうちに、いっしょに仕事をすることに決めた。

事務所内を見回してみた。すべての準備が整っていた。私は身一つで入り込めばよかった。「弁護士 盧武鉉・文在寅合同法律事務所」。私の弁護士人生が始まった。同時に、それは生涯にわたって続く盧武鉉氏との運命的な出会いの瞬間だった。

■先輩であって、親友のように
盧武鉉弁護士は私に気安く接してくれた。私のことを「親友」と呼んでくれたが、それは実質を伴ったものではなかった。いきさつというのは、こうだ。

2002年、盧武鉉氏が大統領選挙に出馬したさい、私は釜山の選挙対策本部長を引き受けた。その選対本部の発足式に当たり、盧武鉉候補は演説の中で、私の紹介にあたって次のような言い方をした。

「人はその親友を見ればどんな人間か分かるというではないですか。盧武鉉の親友文在寅でなく、文在寅の親友の盧武鉉です」と。選対本部長という柄でもない役目を引き受けた後輩の私に対し、感謝の気持ちも込めてそのような言い方をしたのだった。

実際のところは、盧武鉉弁護士とは6歳の年齢差があった。司法試験合格年度も5年上なのだから盧武鉉氏は私の大先輩である。ところが、そうした紹介の言葉のおかげで私はいまでも、過分にも「盧武鉉の親友」という呼ばれ方をしているのである。

盧武鉉弁護士は私のことをずいぶんと尊重してくれた。私に対していつも尊敬語を使った。少しなりとも普通の言葉を使うようになったのは、そのあと青瓦台[大統領府]に入ってからだった。

それまでは礼儀正しい尊敬語で接してくれた。私も普通は、「兄貴」といったぐらいの言葉遣いをする性格なのだが、盧武鉉氏に対しては「先輩」という以上に、「兄貴」という言い方まではできなかった。

■仕事は対等に
盧武鉉弁護士の私に対する態度は、そう生易しいものではなかった。まず、盧武鉉氏はそれまでに裁判官をやり、弁護士も何年か経験していた。弁護士業界で相当な基盤を固め、経綸も積んでいた。

一方の私はといえば、司法研修所を終えたばかりで、まったくの初心者だった。そんな私と収入を同等に分け合う条件で事務所をいっしょに開くというのはなかなか考えらえないことだった。

弁護士の協業のむずかしさは互いのスタイルの違いからくることもある。しかしまず、互いの力量を信頼し合わなければならない。たとえば、どちらが顧客と契約しても仕事をうまく分け合う必要がある。業務分担のうえでも信頼は欠かせない。信頼がなければ協業はできない。

先輩の盧武鉉弁護士は私よりよく仕事をするように思えた。盧武鉉氏も私のことを不安に思っていたに違いない。しかし、それでも信頼してくれた。

時局事件の場合も重要なものは共同で弁護人を引き受けることが多かった。その時どきのお互いの仕事量によって主任となる方を決めた。私が中心になることも多かった。そのような時も、盧武鉉氏は私のやり方にそのまま共感してくれた。ただの一度も、私がやろうとする方向に異論を唱えたことはなかった。大変な信頼と尊重で対応していただいたのだった。

考えてみると、おかげで非常に安定したかたちで弁護士生活を始めることができた。何といっても初めて弁護士をやろうというのに、開業費用の調達からして心配する必要がなかったのである。

■家族的雰囲気
住まいも盧武鉉氏と同じアパート団地だった。もちろん先に基盤を固めていた盧武鉉氏は少し広い部屋に住んでいた。私は狭い部屋だったが、気安く、心を開いて付き合った。お宅へしょっちゅう遊びに行った。盧武鉉氏の故郷の烽火(ポンファ)村へついて行ったりした。

弁護士事務所の全職員で年に2度ほど家族連れでピクニックに行ったりもした。家族的な雰囲気だった。盧武鉉弁護士はそんなに酒に強いほうではなかったが、ときどき酒席も持ち、たのしい時間を過ごしたりもした。

 

2017年3月6日月曜日

文在寅回顧録――盧武鉉氏との出会い

東京で新たに法律事務所を開かれた弁護士のYさんへ。

おめでとうございます。あれは、もう10年以上も前のことになるのですね。新聞社で報道カメラマンをしていたあなたが突然、「弁護士になる」といって社を辞め、法科大学院に進むと打ち明けられた時は、率直、驚きました。

もともと旧帝大系の法学部を出ておられたことは知っていましたが、あなたはもう40歳でした。私は口でこそ、「大賛成だ」とは言ったものの、内心、心配でした。

実際、京都で過ごされた法科大学院時代、何度か付き合っていただいた酒の席で、あなたが「法律はそんなに難しくない。学生時代はよく分からなかったが、社会生活を経た今ならよく分かる」と話すのを聞き、私には却って心配になりました。司法試験はそう簡単なものではあるまいに…と。

でも、杞憂とはこのことですね。小人には、小人のモノサシしか持てないということでしょうか。あなたは見事に司法試験をパスし、東京で、人権派として知られる弁護士のもとで修行を積み、いま、ご自身の事務所を開設されたのです。

カメラマンとしても超一流だったあなたのことです。司法試験も余裕でした。弁護士としてもきっと成功されるものと信じています。私からいま贈ることができるのはお祝いの言葉しかないのですが、それでも一つだけ、蛇足ながら付け加えておきたいと思うことが生じました。

■文在寅著『運命』
唐突ではありますが、韓国の大統領選挙のことです。朴槿恵大統領に対する憲法裁判所の弾劾審判が結審し、近々、決定が言い渡される運びです。罷免の決定が出れば、そのまま大統領選に移行します。そこを睨んだ大統領選レースはすでに始まっているのはご承知の通りですが、現段階で最有力候補として浮上しているのが野党「共に民主党」の前代表、文在寅(ムン・ジェイン)氏(64)です。

文在寅氏は弁護士出身。やはり弁護士出身の盧武鉉元大統領(19462009)の大統領秘書室長などをつとめた人物です。文在寅氏がこのままゴールして次期大統領になるかどうかは予断できないものの、私はいま、2011年にソウルで出版された彼の回顧録『運命』を読み返しているところです。(文在寅氏の経歴などは、http://hasabang.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html
 
文在寅氏はここで初めて法律事務所を開いたときのことなども書いています。社会・時代背景がいまの日本とまるで違う、と言ってしまえばそれまででしょうが、一人の弁護士としての生き方という点で国境や時代を超えて語りかけてくるものがあるように私には思えます。

文在寅氏が実際に大統領になるかどうかはともかくも、いまの韓国社会を読み解くうえでもこの回顧録が示唆するところは少なくないと思います。私自身、一語一語を噛みしめる意味からも目についたところを以下に拙訳してみました。あなたにも読んでいただけたら、という勝手な思いも込めてのことです。参考になりますか、どうか。

■裁判官を志望
19828月、私は司法修習を終えた。裁判官を志望した。研修所での成績は2番だった。修了式で法務大臣賞をもらった。司法試験合格者の人数がそう多くない時代で、研修所を終えると希望者は全員、裁判官や検察官に任用された。

それで、まさか裁判官に任用されないとは考えてもみなかった。大学時代、デモを主導して拘束された前歴はたしかにあった。しかし、それは朴正煕政権時代の維新体制反対デモだった。その後、時代も変わり、もう維新体制は間違いだったと受け止められていた時期だった。維新反対デモの前歴が問題とされる理由はまったくない、と考えていた。それが欠格事由となるとは予想だにしていなかった。

ところが、最後の段階で裁判官はだめだという。裁判官任用の面接の場面がいまも忘れられない。裁判官志望者はみな、法院[訳注・裁判所]行政処(*)の次長の面接を受けることになっていた。たいがいは12分ほどの儀礼的なものだった。ところが私一人だけが30分ほどもかかった。質問が多かったわけではない。「どうしてデモをしたのか?」「いつごろだったのか?」。それがすべてだった。それでいて面接官はそうした当時の状況がまるで理解できていなかった。

(*法院行政処は、裁判官人事はもとより裁判所の予算、会計、施設等あらゆる事務を管掌する機関。処長と次長を置き、処長は大法院[最高裁判所]長の指揮を受ける)

82年といえば、私がデモで捕まった75年は、そのわずか7年前ということになる。実際のところ、754月に維新反対のデモをしたといえば、それ以上の説明はいらなかった。ところが、そのように答えると、「その時は衛戍令が出ていたのか?」と反問するのだった。

■面接官に失望
衛戍令はそれより何年も前の71年だったと説明した。すると、こんどは「維新憲法ができた時?」といった具合だった。しかたなく、衛戍令、維新宣布、維新憲法制定、緊急措置(*)など、1970年代の政治の流れをじゅんじゅんと説明しなければならなかった。

(*緊急措置は、維新憲法に基づく大統領権限による特別措置。当時の大統領朴正煕はこの措置の発動で、憲法で認められた国民の自由と権利を暫定的に停止できる強大な権限を持つこととなった。民主化要求を抑えつけ、学生や野党政治家の弾圧に利用。朴正煕はこれを9回にわたって公布。80年の憲法改正で廃止された)

その面接官は、裁判所内では判決文をうまく書くことで名声が高く、のちに大法官[最高裁判事]にまでなった。それなのに、多くの国民が苦しみ、抵抗し、また、それゆえに時局事犯となって投獄され、裁判を受けなければならなかった、ついこの前までの歴史を裁判所の高位ポストにいながら知らないとは信じられなかった。裁判官が現実社会とかけ離れた存在であることを知ったというわけである。うすら寒い思いだった。結局、任用がかなわなかった。

当時の法院行政処長は、私が学生時代に民事訴訟法を教えてもらった恩師だった。検察なら受け入れてくれるだろうという話があり、その恩師は私に、まずは検事になるよう勧めてくれたりもした。検事に任用されて23年勤めれば、「任用不可」のレッテルがはがれるだろうから、そのときに裁判官に転官しろ、と言うのだった。そこまではやりたくなかった。

■弁護士への転進決意
やむを得ず、弁護士になろうと方向転換した。当時としては研修所を終えてすぐに弁護士を開業するというのは非常に珍しいケースだった。成績が良かった分、すぐに噂が広がった。いまのように、法律事務所が多くはない時代だったが、「キム&チャン」をはじめ、評判の高いあちこちの法律事務所からスカウトがあった。何カ所かに聞いてみたりもした。条件はよかった。

報酬も破格的で、車を提供してくれるとも言った。3年程度勤務すれば、米国のロースクールに留学させてくれる、とも言った。ちょっと、その気になった。しかし、私が考えていた弁護士像とはあまりにも違っていた。

大学時代に学生運動をしていたから、ということだけではなかったと思う。私が頭に描いていた法律家像はそのまま人権弁護士とイコールではなかったとしても、普通の庶民が何かとぶつかり、無念さを味わうときに支援する。そして、そのことに生き甲斐を求めるという、そんなイメージだった。それとはちょっと違うと思った。

その時、そんな法律事務所のスカウトに応じていたら、まったく違う生き方をしていただろう。国際弁護士か企業専属の弁護士…。それらは、どこか高級そうに見え、かえって乗り気になれなかった。

そのまま普通の弁護士の道を歩むことにした。いったんそう決めたからには母親の面倒をみることも考え、故郷の釜山に行くのがよさそうに思えた。とくに躊躇することもなかったが、ちょっと気になったのは妻のことだった。

■盧武鉉氏との出会い
大学で音楽学部だった妻はそのころ、ソウル市立合唱団の団員で、ソウルに職場をもっていた。大学時代に私が警察に捕まると面会に来てくれたりしていた妻は、裕福な生活を夢見るような女性ではなかった。司法試験に合格したことだけで、十分にありがたがっていた。だからといって、ソウルで好きな仕事をしているソウル出身の女性に、釜山に行こうというのは申し訳なかったのだが、ラッキーにも同意してくれた。

そうして釜山に行き、そこで会ったのが盧武鉉弁護士だった。私と盧武鉉氏を取り結んでくれたのは私と司法試験の同期であり、のちに私の後任として盧武鉉大統領の民情首席秘書官になった朴正圭氏だった。そこには不思議ないきさつと因縁があった。

朴正圭氏は年を食ってから司法試験に合格した。私たちの同期の中では年を取った方から数えて何番目かだった。それで、早くから、研修を終えたら弁護士の道を歩もうと決めていた。盧武鉉氏とはかつて、慶尚南道金海の長游庵[韓国で最初に仏教が伝わったとされる名刹]にいっしょにこもって司法試験の勉強をしたという因縁があった。

朴正圭氏は、先に司法試験に受かり裁判官をへて釜山で弁護士として活動していた盧武鉉氏から「いっしょに仕事をしよう」と持ちかけられ、承諾していた。盧武鉉氏は研修所を終えて合流する朴正圭氏のために自分の事務所に部屋を設けて机を持ち込むなど、すべての準備を整えていた。

■時代を先取りした盧武鉉弁護士
当時、弁護士は個人事務所を運営するのが一般的だった。弁護士同士いっしょにやっても、うまく行かないという固定観念が強かった。法律事務所はソウルに何カ所かあるだけで、地方ではみな、「一国一城の主」だった。しかし、盧武鉉氏は確実に時代を先取りする、開けた人だった。弁護士はいっしょに集まって業務を専門化・分業化するのがよい、という考えを持っていた。

裁判官を経た盧武鉉氏は78年に弁護士を開業した。しばらく一人で弁護士活動をしたあと、79年から80年末にかけて2年間ほど他の弁護士2人といっしょに合同法律事務所を運営した経験があった。「伽耶合同法律事務所」だった。恐らく、釜山初の同業事務所だったはずだ。しかし、思ったようにうまく行かなかったようだ。

弁護士の専門化・分業化については当時、一般の人たちの認識も十分ではなかった。訪ねてくる顧客を専門分野別に分けて相談に応じようとしても顧客の方で好まなかった。専門分野が何であれ、知っている弁護士が自分の事件を引き受けてくれることを望んだ。盧武鉉弁護士の理想は高かったが、現実がついてこなかったというわけである。それでいちど失敗を味わい、個人事務所を開いたのだが、朴正圭氏といっしょにいま一度、専門・分業事務所をつくってみたかったのである。

■ピンチヒッター
ところが、そこで問題が生じた。釜山に来ようとしていた朴正圭氏が検事に任用されたのである。盧武鉉弁護士が準備していた計画がスタートする前に水泡に帰したのである。それで、朴正圭氏が盧武鉉氏に申し訳ないと思っていたところへ、私が弁護士をやることになると知り、代わりに私を紹介したのである。いちど会ってみろ、といわれて盧武鉉弁護士を訪ねていった。私はそのときまで盧武鉉氏のことをまったく知らなかった。まったくの初対面だった。(中見出しは訳者がつけた)