2013年11月20日水曜日

「安重根の隠れ家」を中国・延辺に見た


「犯罪者だ」(菅義偉官房長官)
「独立と東洋平和のために命を捧げた方だ」(韓国外務省報道官)

日本の初代首相、伊藤博文を中国ハルビン駅で暗殺した独立運動家、安重根の碑を建てる計画が中国で進んでいることをめぐる日韓政府間の応酬は、両政府間で行き違う歴史認識問題の、いよいよ核心部分に行きついたようだ。

中国吉林省の延辺朝鮮族自治州で、その安重根が一時期活動の拠点にしていたとされる「隠れ家」を見た。以下は20074月に現地を訪れた時の様子を書きとめておいた一文の再録である。
 

中朝国境を流れる豆満江は中流でいったん北に大きくうねり、延辺朝鮮族自治州の州都、延吉市の東あたりで、また、南下しながら東の日本海へ注いでいく。下流付近は北朝鮮とロシアに両側から挟まれて中国領土は狭くなり、日本海まで15キロ余りの防川というまちで、中国の領土は尽きる。その防川の手前およそ20キロの小さな村に「安重根の家」はあった。
 















行政区画でいえば、琿春市敬信鎮圏河村。幹線道路沿いに中国語で「安重根義士故居」、ハングルで「安重根義士遺跡地」と記した案内表示があり、そこをわき道に200メートルほど入ると、畑の中に小さな家がみえてきた。

わらぶき木造、土壁の平屋。オンドルの煙突が突っ立っている。家屋全体がすこし歪んでいる。

どこからか、ひとりの女性が現れた。近くで農業を営み、この家の管理を引き受けている崔今花さん(33)だった。朝鮮族で、その話すところは、こうだ。
  
100年前、安重根は間島(延辺朝鮮族自治州の旧称)から沿海州にかけての地域で活動し、この家は190846月の間、安重根とその仲間ら12人が拠点にしていた————


 中に入ると、入り口に3つのかまどが並び、むしろ敷き8畳ほどの居間が広がっている。奥には3畳ほどの部屋が2つ。天井に裸電球が一つぶら下がり、その横の壁に安重根の写真が掛けてある。 

家の歪みは外から見た以上にひどく、壁が傾いていまにも崩れ落ちそうだ。崔さんは4年前まで家族とここに住んでいたが、いたみがひどく、別の家に移ったそうだ。
 
関係当局に補修と保存を訴えてきたが、聞き入れてもらえないという。ここら辺りは以前、朝鮮族の住民が多かったが、だんだんと減り、いま、この村の住民380人のうち朝鮮族は15人だけで、あとはみな漢族だという。当局の腰が重いのはどうやら、そんなこととも関係があるようなのだ。

入り口に募金箱があった。のぞいてみると中国の元札にまじって韓国のウォン札も何枚かみえる。ここ数年、韓国の観光客がふえ、去年は約3千人がここに来たという。崔さんは「みなさんの力を借りてこの家を守っていきたい」と、わたしにも協力を求めるのだった。
 
 
 
 
近くに碑があり、安重根についてつぎのような内容がハングルで刻まれていた。 

187992日、黄海道海州生まれ。日露戦争後、義兵闘争に参加。上海、延辺とロシア沿海州一帯で抗日救国活動を展開。190709年、何度か琿春県敬信を訪れ、人民を動員、学校を建て抗日と民族独立を宣伝した。19091026日、伊藤博文をハルビン駅で射殺。その事績は中国でも大きな波紋を呼び、周恩来は中学時代、「安重根」という劇を演出、のにち「中朝人民が日本帝国主義の侵略に反対した闘争は安重根が伊藤を銃撃した時から始まった」と語った>
 
 
この家について語られていることが実際にどこまで検証されたものか、わからない。しかし蓋然性はある。

韓国各地で義兵が立ち上がった1907年夏、平壌南西の鎮南浦で無為の日々を送っていた青年安重根は山岳ゲリラに加わった。翌年6月、間島で「連合大韓義軍」の参謀中将に選ばれ、朝鮮半島北部の咸鏡北道へ出撃。このあとロシアのポシェットで「断指同盟」を提唱し、仲間と薬指の先を切って「大韓独立」を誓い合ったといわれる。

190910月、安重根はロシアのウラジオストクにいて伊藤博文のハルビン行きを知り、ウスリースクから中ロ国境を越えて綏芬河に入り、東清鉄道でハルビンへ。旅順・大連から満鉄を北上し、奉天(瀋陽)、長春をへてハルビンに向かった伊藤を待ち受けたのだった。

これを現地で聞いた説明と付き合わせると、安重根があのわら屋にいたのは、ちょうど連合大韓義軍の参謀中将になる直前だったということになるわけである。

伊藤暗殺後、日本は一気に韓国の完全な植民地化へと進み、19108月、併合。その朝鮮支配を「安定」させるためさらに満洲の支配へと突き進んだ。そんな中で間島の地は抗日闘争のひとつの拠点となっていったのだった。
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中国・延辺朝鮮自治州はかつて朝鮮側から「間島」(朝鮮語読みで「カンド」)と呼ばれた地域である。日本のかいらい国家「満洲国」の時代は「間島省」とされた。もともと19世紀後半、朝鮮からの移住者によって開墾された土地であることから「墾土」(カント)といったのが、なまったとも言われているようだ。

20世紀初頭の日露戦争(190405)は朝鮮半島と満州をめぐる争いだった。勝った日本はさっそく伊藤博文が漢城(ソウル)に乗り込み、時の朝鮮の王、高宗に直接迫って韓国の外交権を奪い保護国化する。190511月の第2次日韓協約(乙巳保護条約)である。

韓国は強く反発し、高宗は国際社会に訴えようとオランダ・ハーグの万国平和会議に密使を送る。19076月のことだった。密使はハーグで門前払いされ、伊藤の激怒で高宗は退位させられる。日本はこれを機にその夏、韓国支配をさらに強め、軍隊も解散させる。

職を失った兵士らは義兵となり、農民らも加わって各地で蜂起する。その一部は豆満江を越え、間島やロシアの沿海州を拠点に抗日活動をおこなった。そんな中に、のちに伊藤博文を暗殺する安重根もいたのだった。