2016年10月30日日曜日

「満州」への旅⑯――抵抗詩人・尹東柱


間島(かんとう)。中国吉林省の延辺朝鮮族自治州辺り一帯を朝鮮側でかつて、そう呼んだ。間島は、表音文字のハングルで「간도」(カンド)となるが、「墾島」あるいは「艮島」(いずれも「간도」)という漢字が用いられたこともあったという。

■間島/墾島/艮島
元もと清朝が封禁の地と定め、なんびとの立ち入りも認めていなかった。結果、清国と朝鮮の間を隔てる陸の島のようなかたちとなり、間島と呼ばれたようだ。そんなところへ朝鮮王朝後期、朝鮮の農民が入り込んで開墾を始めた。それで「墾島」、そしてその土地が朝鮮から見て北東、つまり艮(うしとら)の方角に当たることから「艮島」ともされたのだという。(NAVER知識百科『韓国民族文化大百科』)

というわけで、ここは19世紀後半以降、朝鮮から入植した農民によって切り開かれたのだが、この地への朝鮮人の流入、移動が本格化したのは、日本による朝鮮併合以降のことだった。1930年には一帯で、その数80万ともいわれた。
 

移住民のほとんどが日本の朝鮮統治における土地調査事業や産米増殖計画によって土地を失い、食糧を奪われて流浪、移住した人たちであったが、一方で、日本の支配に反対し独立を求めて戦う抗日運動家も少なくなかった。こうして「満州」は「「反日運動の策源地」とみなされることとなっていったのだった。(山室信一著『キメラ――満洲国の肖像』中公新書)
 

韓国民に愛される抵抗の詩人、尹東柱(191745)はこの地のそんな土壌の中から生まれてきた。

龍井市郊外の明東村出身。太平洋戦争の時期、日本に留学。同志社大学で学んでいるときに朝鮮の独立運動をしたとして治安維持法違反容疑で捕まり、福岡刑務所で服役中、27歳の若さで獄死した。

日本でも1990年代に、その作品を紹介した詩人茨木のり子さん(19262006)の文章が高校の国語の教科書に載せられたりして広く知られるようになった。

■尹東柱の生家
明東村に復元された尹東柱の生家を見に行った。私自身、10年前にもここを訪れているのだが、周囲がきれいに整備され、代表作「序詩」を刻んだ肖像や展示館が新たに建てられていた。生家の周りには韓国の団体観光客20人ほどが群がっていた。

その観光客らに聞いてみると、白頭山を中心に据えた34日、計64万ウォン(約58000円)の観光ツアーで、黒竜江省の牡丹江空港から中国に入り、バスで一帯を回っているという。生家のガイドの話では、このところ1日にバス12台、3040人ほどがここを訪れている。韓国からの観光客が中心だが、日本人もけっこういるという。

 ■曾祖父の代に間島へ
尹東柱の先祖はもともと朝鮮北部、豆満江沿いの咸鏡北道・鍾城に住んでいた。19世紀後半、曾祖父の代に間島の地に移住し、1900年に祖父がこの明東村に引っ越してきた。尹東柱の年譜の概略は次のようだ。
 
19171230日、学校教員の父の長男として出生。祖父は小地主でキリスト教会長老。
19324月、龍井のキリスト教系恩真中学入学。359月、平壌の崇実中学3年に編入。36年、同校が神社参拝拒否問題で廃校になり、故郷の光明学園中学部に編入。
19384月、ソウルの延禧専門学校(延世大学の前身)入学。4112月、卒業。 
 
19424月、東京の立教大学入学。同年10月、京都の同志社大学英文学科入学。437月、独立運動の疑いで京都下鴨警察署に逮捕される。同年12月、送検。442月、起訴。
19443月、京都地裁が治安維持法違反(独立運動)で懲役2年の判決(求刑3年)。41日、刑確定。福岡刑務所に投獄。
1945216日、福岡刑務所で死去。享年27
 
尹東柱の死は45218日、「一六ニチ トウチュウ[東柱] シボウ シタイ トリニ コイ」との電報が故郷の家に配達され、家族に知らされた。父と父のいとこが遺体を引き取りに日本に渡り、火葬した遺骨を故郷に持ち帰り埋葬。5月ごろ、家族らが「詩人尹東柱之墓」と刻んだ碑を建てた。
(伊吹郷訳『空と風と星と詩 尹東柱全詩集』=記録社発行/影書房発売=に載せられた尹東柱の弟・尹一柱作成の「尹東柱年譜」)
 
墓は、生家にほど近い、日当たりのいい丘の斜面にあった。きれいに整備され、そばにナツメの木が植えられていた。

■治安維持法違反
そもそも尹東柱は何をなし、何が問われたのか。尹東柱の死後37年目の1982年に明らかになった京都地裁の判決文(1944331日付)をいま、改めて読み直してみる。以下、その概略――。(カッコ内は判決文からの引用)
 
尹東柱は「幼少ノ頃ヨリ民族的学校教育ヲ受ケ思想的文学書等ヲ耽読」するなど、「熾烈ナル民族意識」を抱いていた。長じてからは「我朝鮮統治ノ方針ヲ目シテ朝鮮固有ノ民族文化ヲ絶滅シ朝鮮民族ノ滅亡ヲ図ルモノ」とみなし、民族解放のためには独立国家を建設するしかない、と考えるようになった。
 
「大東亜戦争」が起きると「日本ノ敗戦ヲ夢想」し、これを機に「朝鮮独立ノ野望ヲ実現シ得ヘシト妄信」して「独立意識ノ昂揚」を図り、同郷のいとこで、同時期に京都帝大に留学していた宋夢奎(やはり治安維持法違反で服役中に獄死)とインドのチャンドラ=ボースを語り、朝鮮にもいずれ同様の人物が出現するとみて「其ノ好機ヲ捉ヘ独立達成ノ為蹶起セサルヘカラサル旨激励」し合うなど、「相互独立意識ノ激発ニ努メ」た。
 
また、朝鮮内の学校における朝鮮語の授業の廃止を批判したうえに「内鮮一体政策ヲ誹謗シ朝鮮文化ノ維持朝鮮民族ノ発展ノ為ニハ独立達成ノ必須ナル」ことを友人に対して「強調」した。
 
以上のようなことは「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とした行為に当たり、「治安維持法第5條ニ該当スル」として、懲役2年が言い渡されたのだった。
戦前の治安維持法はそんな法律であり、植民地下の朝鮮の人々は、そんな状況に置かれていたのである。尹東柱の代表作をいま一度、読み返してみる。
 
 
  序詩
 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心傷んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
 
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳

2016年10月24日月曜日

「満州」への旅⑮――「間島」の地

旅行5日目の朝を、私たちは吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉で迎えた。天気は上々。朝方、街を歩いてみる。ここは私には10年ぶりだったが、この間に「韓国化」がまた一段と進んだ、という印象を受けた。街のところどころに韓国風のレストランが目につき、さながら韓国の地方都市にいるかのような錯覚に陥る。


実際のところ、私たちは市中心部にある朝鮮族経営の小さなホテルに宿泊したのだが、そこではKBSMBCSBSといったソウルの主要放送局のテレビ番組がリアルタイムで入っている。逆に、ここが北朝鮮と隣接し相互に深い関係を持ってきた地域というのに、平壌の放送は見られない。
韓国からの観光客らも多いようだ。私たちが宿泊したホテルの狭いフロントにも「ソウル弁」の団体客が押しかけていた。

■減っていく朝鮮族
延辺朝鮮族自治州では中国語と並んで朝鮮語が公用語になっている。役所の文書などは両言語併記だ。街の看板にもハングルがよく目につく。

とはいえ、この地域に住む朝鮮族は年々減ってきているようだ。延吉市の人口は現在約60万とされ、うち朝鮮族は統計上60%ということになっているが、実際には半分を割り込んでいるとみられるという。市の全人口は増えているといい、その分、漢族の流入が多くなっているということになる。市内でタクシーをつかまえても朝鮮語の分かる運転手にはめったに巡り合えない。

自治州全体でみても同じ傾向にある。全人口200余万のうち、朝鮮族はいま、40%を切ったとみられている。1952年にこの地域が朝鮮族自治区(55年に朝鮮族自治州に移行)になった当時は80%が朝鮮族だった。人口比率が低下してきた分、行政面などでの朝鮮族の発言力も弱まってきているようだ。

朝鮮族の「地元離れ」は近年、とくに若者に多いようだ。中国語と朝鮮語のバイリンガルという強みを生かして中国各地に進出した韓国系企業に就職したり、韓国に出稼ぎに行ってそのまま居ついてしまう人も多い。日本に来ている人もいる。自らのアイデンティティで悩む若者も少なくないようだ。

■「先駆者」
延吉で朝食をとったあと、まず、南隣の龍井市に足を延ばしてみた。龍井は早い時期から朝鮮からの入植者が住みついた土地として知られる。この辺りが朝鮮で「間島」と呼ばれた時代、この地域の政治的な中心地でもあった。日本でもよく知られる韓国の国民的詩人、尹東柱の故郷でもある。

チャーターした車で龍井に向かう。市内に入る少し手前に、ぜひ見ておきたい場所があった。延辺観光の韓国人が必ず立ち寄るスポットだ。「一松亭」といわれる。韓国人ならだれもが知っている歌曲「先駆者」の歌い出しになっている場所である。

韓国が日本の植民地であった時代、この付近は独立運動の一つの拠点だった。歌曲は、そんな独立運動を戦った人たちを称えて1930年代に作られたとされ、解放後だいぶたってから、とくに韓国の民主化運動の時代に盛んに歌われた。

それは小高い山に植わる一本の松だった。枝ぶりが立派で、遠くから眺めると、まるで東屋(あずまや)のように見え、ここを行き交う旅人たちもその趣ある姿に旅情を慰めた――。これは、諸説がある一松亭の解釈のうちの一つだ。「先駆者」はそんな一松亭を含むこの付近一帯の情景を荘重な調べとともに詩情豊かに歌い上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=AjGjcptrZog

いま、その一松亭のすぐ近くまで立派な道路がついている。当時の松は枯れたといい、代わりに一棟のしゃれた東屋が建てられている。近年、この歌曲の由来そのものについても一部で異説も出ているようだ。

ともあれ、その一松亭からみる景色は雄大だ。やはり「先駆者」に歌い込まれた海蘭江(ヘランガン)という豆満江の支流が大地を突っ切って真っすぐに延びている。
 
目を転じると、私たちがこれから向かう龍井の市街も一望できる。

「先駆者」の調べにぴったりの荘重さがどこか漂ってくる。

 ■龍井公園
龍井市内に入ると、中心部に龍井公園があった。公園内には古びた井戸があり、顕彰碑が建っている。19世紀後半、朝鮮から豆満江を渡ってここに入植してきた人たちが初めて発見した井戸で、龍井の地名発祥の由来になったのだという。

その井戸のすぐ傍の木陰で、老人たちが車座になって何かに興じていた。覗いてみると、花札だった。こうした光景はどこかで見た記憶がある。そう、ソウルのパゴダ(タプコル)公園である。あそこでは老人たちがのんびりと碁や将棋、花札をたのしんでいるのをよく見かけた。そっくりなので朝鮮語で話しかけてみると、やはり朝鮮族の人たちだった。


ソウルでは日本と似たルールで、「アカタン」「アオタン」「サンコー」「ゴコー」といった日本語がそのまま飛び交っていた。ここではそうした言葉は通じず、ルールもかなり違うようだが、札そのものは、私たちが親しんだ任天堂のものとほぼ同じだった。札のそばに小さな硬貨が何個か散らばっていた。

■間島総領事館
市内に日本と関係の深い建物が残っていた。日本の元間島総領事館庁舎である。1926年に建てられたという。瀟洒な建物だが、どこか威厳も漂ってくる。いまは展示館になっているようだが、あいにくの休館日だった。


間島の日本総領事館――。歴史を振り返ると、日本がこの地に総領事館を設置したのには大きな意味合いがあった。

もともと、この辺りは清国と朝鮮の境界が曖昧だった。満州族の清朝は一帯を先祖ゆかりの神聖な地として立ち入りを禁じていたのだが、19世紀後半ごろから朝鮮の農民らが入植し始め、双方に領有権争いが生じた。両国で何度か話し合いが持たれたが、境界線を確定できなかった。

そんなところへ日本が乗り込んできた。1905年、日露戦争に勝った日本は韓国(1897年、朝鮮は大韓帝国と改称)に第2次日韓協約を強要して外交権を奪い、ソウルに統監府を置いた。そんな日本は間島地域について韓国領とする立場を取り、「韓国民保護」の名目でここに統監府派出所を設け、大量の日本兵を駐屯させた。

■間島協約
これに対して清国は強硬に抗議し、日本軍の撤退を求めたが、日本は「間島は韓国固有の領土」という立場を譲らなかった。それを一転させたのが、ここでの総領事館設置だった。総領事館の設置は、そこが外国の地であることを前提になされるものであることは言うまでもない。

190994日、日清間で交わされた「間島協約」である。ここで両国は「豆満江が清国と韓国の国境である」と確認し合った。つまり、間島が清国領であることを日本が認めたのである。これは日清間でなされた一つの取り引きだった。その1カ月ほど前に両国は「安奉鉄道の改築」に関する覚書を調印していたのである。

安奉鉄道とは、鴨緑江の河口に近い中国の安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)を結ぶ鉄路。覚書は、日露戦争のさなかに日本軍が清国から敷地を租借して走らせていた軽便鉄道を広軌に改築して満鉄と連結させようというものだった。それと引き換えに、日本は韓国がずっとこだわってきた間島の地を清国側に譲ったのである。

歴史を振り返ると、日本はこの後すぐに韓国を併合(1910年)。清朝も辛亥革命(1911年)で滅び、中華民国となったのだった。

■間島省
私たちが見た元間島総領事館の庁舎が建てられたのは1926年というから、総領事館の開設から17年が経っていた。この時点でおそらく、新しく建て替えられたのだろう。

当時を振り返ると、暗雲が立ち込めていた時代状況は、さらに暗転しようとしていた。1925年、日本国内では普通選挙法とセットにしたかたちで治安維持法が成立。その普通選挙法による初の衆院議員選挙が282月にあり、共産党が公然と活動を始めると、危機感を強めた田中義一内閣は検挙を断行。中国への侵略や戦争に反対する勢力は治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れられてしまった。(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫)

286月、「満州某重大事件」という名の張作霖爆殺事件。319月、満州事変。翌323月、満州国樹立が宣言され、この間島の地は、間島省としてそこに組み込まれていったのだった。

2016年10月17日月曜日

「満州」への旅⑭――関東軍の「マジノ線」

吉林駅に戻った。駅舎はどっしりした建物で、まだ新しい。

 
次の目的地は吉林省延辺朝鮮族自治州の首府、延吉市。吉林駅では少し時間の余裕があり、高速鉄道のホームで待っていると、和諧号が静かに滑り込んできた。出発時刻は午後6時過ぎだった。



■トンネル50
私たちが乗ったのは吉林―図們―琿春を結ぶ「吉図琿」高速鉄道。昨年9月に開業したばかりの新しい路線だ。ここから延吉西駅まで2時間足らずである。

日暮れが迫るなか、和諧号は東に向かってひた走る。車窓の後方に落ちていく夕日は雲間に弱々しい光を放ち、山の端をシルエットで浮かび上がらせている。私が思い描いてきた「満州の赤い夕日」とはほど遠い情景ではあるが、これはこれなりに趣深い。
車窓を流れていく一帯の風景は、「満州の広野」というイメージからはほど遠い。そう高くはないものの、長白山脈から連なる山々が次々と現れ、高速鉄道はそれらを貫いて走っていく。

列車に乗ってすぐにトンネルの多さに気づき、つれづれに任せてメモ帳に「正」の文字を書きつけ、その数を数えてみた。必ずしも正確にカウントできたわけではないが、この吉林―延吉西間で最低45個、漏れた分を考えると、あるいは50個くらいあったかもしれない。短いものが多かったが、思っていた以上に多い数だ。

■最後の防御ライン
実際、いま、高速鉄道が走るこのルートは、かつて満州国を支配した軍国日本が山岳を盾に一時、最期の防御線と考えていたラインと重なるのである。共同通信社社会部編『沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)によると、次のようだった。

太平洋戦争末期、ソ連参戦を2カ月余り後に控えた19455月、日本の大本営はそれまでの対ソ作戦方針を全面的に転換。関東軍に対し「京図線(新京[長春]―図們)以南、連京線(大連―新京)以東の要域を確保して持久を策し、大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」と命令した。

つまり、ソ連が参戦した場合、関東軍の主力は南満州の朝鮮国境沿いの山岳地帯に立てこもって持久戦を続け、大陸の一角を確保して本土決戦を有利にせよというのだったが、ここに出てくる「京図線」にほぼ沿ったかたちで、高速鉄道は走っている。

大本営は併せて、新京から南へ二百数十キロ離れた中朝国境にほど近い通化を持久戦の拠点として選び、要塞づくりを進めた。そのことは北部満州に入植した開拓団にはいっさい知らせていなかった。

4589日、ソ連参戦。大本営は、関東軍総司令部に「朝鮮ヲ保衛スベシ」と下達し、満州を放棄した。

開拓民らはそのまま置き去りにされた。これまでに紹介した吉林・砲台山の悲劇や宮尾登美子が『朱夏』で描いた極限状況は、こうしたなかで生じたのだった。

長春や吉林など都市部やその周辺にいた人たちはまだ、ラッキーな方だといえた。より悲惨だったのはソ連国境近くに入植していた人たちだった。ソ連軍や中国人暴徒からの過酷な逃避行を強いられ、多くの人々が命を失った。残留孤児の悲劇もここで生まれた。『沈黙のファイル』は、ソ連参戦時、満州各地に散らばっていた約155万人の民間人のうち、国境付近にいた人を中心に約176千人が帰国を果たせずに死亡した、と記している。

■「長吉図開発区」
関東軍が一時、最後の「マジノ線」として構想した、そんな山岳地帯を抱えるこの地域だが、中国各地で急速な国土開発が進むなか、ここでもいま、大きな槌音が響き始めた。2009年、国家級プロジェクトに採択された「長吉図開発開放先導区」の開発計画である。

「長吉図」とは、長春・吉林・図們江(豆満江)の意。吉林省の産業の中心地である長春市と吉林市の一部、それに延辺朝鮮族自治州の全域を合わせて一つの経済圏にまとめ、総合的な発展をはかろうという計画だ。そこでは、北朝鮮、ロシアと隣接する同自治州の琿春市を窓口に朝ロ両国経由で日本海航路を生かした国際輸送ルートを開いていこうという構想も盛り込まれている。(日本貿易振興機構『世界のビジネスニュース』)

私たちの乗った和諧号はこの構想区域を突っ切って目的地の延吉に着いた。この街を中心とする延辺朝鮮族自治州は中国のほぼ東の端に位置する。南は豆満江を隔てて北朝鮮と国境を接し、北からはロシア領がせり出してきて朝ロ両国に挟み込まれるようなかたちで中国領土は尽きる。そこから東の日本海まで最短距離で15キロ。このわずかな距離が「陸の壁」となり、同自治州の「どん詰まり感」を醸してきた。

■東の海より、高速鉄道の西
海への新しい可能性を開く「長吉図開発区」構想は、この地域の人たちに大きな夢を与えているのは間違いないが、いま、そこへ新しく西から高速鉄道が延びてきた。これによって、延吉から首都・北京までの所要時間がこれまでの14時間から一気に9時間に短縮され、東北地方の主要都市も一日旅行圏となった。

いま、北朝鮮の核ミサイル問題などで、海への道はいま一つ見通しが立ちにくい。そんな中にあっては、この地域の人たちの目も当分、東より西、海よりは陸側に向いていくのかもしれない。高速鉄道延吉西駅を降りて思ったのは、そんなことだった。

2016年10月10日月曜日

「満州」への旅⑬――松花江

吉林市内では中心部に近い砲台山も訪ねてみた。敗戦後、開拓地を追われ、この近くの収容所に集まった日本人難民が酷寒と飢えで次々と死亡、その数、数千ともいわれる遺体が埋められたとされる場所だ。小林慶二さんは『観光コースでない「満州」』で、ここに妹と次男を葬ったという人の話を、読売新聞大阪社会部編『満蒙開拓団』から引いて次のように紹介している。

《「深さは一・六メートルほど、幅はもう少しありました。もう、ばたばたと死ぬ。日本人の居留民会などが奔走、この丘が埋葬地と決まったのです。初めは土をかぶせていましたが、冬になり凍土が掘れなくなってからは、薪のように投げ込むだけでした。二、三千体は…」》

■遺骨はどこへ…
訪ねてみると、たしかに、山というよりは小高い丘だった。夏草がうっそうと茂り、荒れ果てて一部、ゴミ捨て場のようになっていた。死者への畏敬や弔いといった雰囲気とはほど遠い風景である。

戦後70年余。遺骨はどこか別の場所に移されたのか、あるいはこの長い歳月のなかに人々の記憶は埋もれていったのか。近くに何かの作業小屋があり、入り口でイヌが吠えていた。
 
小屋の中にいた人に通訳を通して聞くと、「遺骨のことは聞いたことがない。ここら一帯は来年、公園として新しく整備されることになっている」という返事だった。私はただ、心の中で黙祷を捧げ、ここを離れた。

■白頭山→松花江→アムール川→オホーツク
私たちは市内を流れる松花江を遡り、上流のダムを見ることにした。満州国時代、日本の満鉄が手がけた豊満ダムである。市の中心部から20キロほど。松花江沿いの舗装道路を走ると、この大河は圧倒的な重量感で迫ってくる。水量豊かに、まさに滔々の流れである。

地図でなぞってみる。中国東北部から朝鮮半島へと連なる長白山系の最高峰、中朝国境の白頭山(長白山、標高2744メートル)山頂のカルデラ湖、天池に源を発し、原始林地帯を縫って吉林省に流れ込む。そこから北西方向にくねって黒竜江省との境付近で大興安嶺山脈から流れてきた嫩(ネン)江と合流、ここで北東方向に大きく向きを変えて三江平原を流れ、世界有数の大河、中ロ国境のアムール川(黒竜江)へと注ぎ込む。

アムール川はそこからさらに北東へ流れてロシアの極東地域に入り、ついにはユーラシア大陸と樺太を隔てる間宮海峡(タタール海峡、韃靼海峡)に至る。その先は、北はオホーツク海、南は日本海である。いま、松花江のほとりに立ってそのスケールに思いを致した時、私はそこに地球そのものを感じてしまったという思いだった。

■豊満ダム
やがて、豊満ダムのコンクリート壁が見えてきた。その近くで車を降り、しばらく歩くと、まったく別の光景が広がってきた。人造のダム湖、松花湖。遊覧船が何艘も浮かび、のどかに初夏の陽光を浴びていた。

豊満ダム。手元の電子辞書でブリタニカ国際大百科事典をみると、次のようなことが書かれている。

▽松花江を堰き止めたコンクリート製の重力式ダム。貯水量100億立方メートル。東北地方を占領統治していた日本が、水豊ダムに次ぐ極東第2の水力発電所とする計画を立てて1937年着工。458月の第二次大戦終結までにダムの87%、発電機据え付けの25%が完成したが、この間中国人労働者を酷使し、多数の死者を出した。

▽日本敗戦後の内戦で国民党軍によって大破されたが、新中国成立後再建され、56年には出力567000キロワットと、当時の中国では最大の発電所となった。吉林省の重工業建設に大きな役割を果たし、また松嫩(ソンネン)平原の低地の洪水防止や広い面積の灌漑に役立っている。

ここに出てくる水豊ダムとは、中朝国境を流れる鴨緑江に戦前、この地域を支配していた日本が建設した多目的巨大ダムで、1941年に送電を始め、出力64万キロワットで竣工。朝鮮戦争中、米軍に爆撃されたが、戦後復旧し、北朝鮮と中国で電力を分け合っている。

豊満ダムは着工以来80年近くが経ち、いま、老朽化が問題になってきているようだ。私たちを案内してくれた車の運転手によると、いまのダムの下流100メートルほどのところに新しいダムを建設する計画が進んでいるという。

■万人抗
ここまで来たからには、もう一カ所、やはり、ここを素通りするわけにはいかない場所があった。吉林市労工記念館。豊満ダムの建設工事で過酷な労働を強いられ、多くの中国人作業員が亡くなったことを「歴史の教訓」として今に伝えようという場所である。

記念館は松花江を見下ろす小高い丘の上にあった。構内に入ると正面に「資料館」が見えてきた。中に入ると、女性の係員が案内してくれた。「日本人の蛮行」を告発する写真が多数展示してあり、思わず目を背けてしまった。

すぐ近くの別棟が強制労働で亡くなり埋められたという人たちの「遺骨館」だった。「万人抗」である。何体のも遺骨が埋められた時の状態のままで展示してある。無造作に捨てられたような遺骨も多数散らばっている。あまりの生々しさに私は目がくらむ思いだった。

「万人抗」には日本で異論もあることは、私も知っている。なら、私が見たものは何だったのか。かつてこの地が日本の支配下にあった時代、多くの中国人がここで過酷な労働を強いられ、酷使されたのは事実だろう。中国の人たちが負った「歴史のキズ」は深く、いぜんとして癒えていないことを改めて知らされたという思いである。