2016年10月30日日曜日

「満州」への旅⑯――抵抗詩人・尹東柱


間島(かんとう)。中国吉林省の延辺朝鮮族自治州辺り一帯を朝鮮側でかつて、そう呼んだ。間島は、表音文字のハングルで「간도」(カンド)となるが、「墾島」あるいは「艮島」(いずれも「간도」)という漢字が用いられたこともあったという。

■間島/墾島/艮島
元もと清朝が封禁の地と定め、なんびとの立ち入りも認めていなかった。結果、清国と朝鮮の間を隔てる陸の島のようなかたちとなり、間島と呼ばれたようだ。そんなところへ朝鮮王朝後期、朝鮮の農民が入り込んで開墾を始めた。それで「墾島」、そしてその土地が朝鮮から見て北東、つまり艮(うしとら)の方角に当たることから「艮島」ともされたのだという。(NAVER知識百科『韓国民族文化大百科』)

というわけで、ここは19世紀後半以降、朝鮮から入植した農民によって切り開かれたのだが、この地への朝鮮人の流入、移動が本格化したのは、日本による朝鮮併合以降のことだった。1930年には一帯で、その数80万ともいわれた。
 

移住民のほとんどが日本の朝鮮統治における土地調査事業や産米増殖計画によって土地を失い、食糧を奪われて流浪、移住した人たちであったが、一方で、日本の支配に反対し独立を求めて戦う抗日運動家も少なくなかった。こうして「満州」は「「反日運動の策源地」とみなされることとなっていったのだった。(山室信一著『キメラ――満洲国の肖像』中公新書)
 

韓国民に愛される抵抗の詩人、尹東柱(191745)はこの地のそんな土壌の中から生まれてきた。

龍井市郊外の明東村出身。太平洋戦争の時期、日本に留学。同志社大学で学んでいるときに朝鮮の独立運動をしたとして治安維持法違反容疑で捕まり、福岡刑務所で服役中、27歳の若さで獄死した。

日本でも1990年代に、その作品を紹介した詩人茨木のり子さん(19262006)の文章が高校の国語の教科書に載せられたりして広く知られるようになった。

■尹東柱の生家
明東村に復元された尹東柱の生家を見に行った。私自身、10年前にもここを訪れているのだが、周囲がきれいに整備され、代表作「序詩」を刻んだ肖像や展示館が新たに建てられていた。生家の周りには韓国の団体観光客20人ほどが群がっていた。

その観光客らに聞いてみると、白頭山を中心に据えた34日、計64万ウォン(約58000円)の観光ツアーで、黒竜江省の牡丹江空港から中国に入り、バスで一帯を回っているという。生家のガイドの話では、このところ1日にバス12台、3040人ほどがここを訪れている。韓国からの観光客が中心だが、日本人もけっこういるという。

 ■曾祖父の代に間島へ
尹東柱の先祖はもともと朝鮮北部、豆満江沿いの咸鏡北道・鍾城に住んでいた。19世紀後半、曾祖父の代に間島の地に移住し、1900年に祖父がこの明東村に引っ越してきた。尹東柱の年譜の概略は次のようだ。
 
19171230日、学校教員の父の長男として出生。祖父は小地主でキリスト教会長老。
19324月、龍井のキリスト教系恩真中学入学。359月、平壌の崇実中学3年に編入。36年、同校が神社参拝拒否問題で廃校になり、故郷の光明学園中学部に編入。
19384月、ソウルの延禧専門学校(延世大学の前身)入学。4112月、卒業。 
 
19424月、東京の立教大学入学。同年10月、京都の同志社大学英文学科入学。437月、独立運動の疑いで京都下鴨警察署に逮捕される。同年12月、送検。442月、起訴。
19443月、京都地裁が治安維持法違反(独立運動)で懲役2年の判決(求刑3年)。41日、刑確定。福岡刑務所に投獄。
1945216日、福岡刑務所で死去。享年27
 
尹東柱の死は45218日、「一六ニチ トウチュウ[東柱] シボウ シタイ トリニ コイ」との電報が故郷の家に配達され、家族に知らされた。父と父のいとこが遺体を引き取りに日本に渡り、火葬した遺骨を故郷に持ち帰り埋葬。5月ごろ、家族らが「詩人尹東柱之墓」と刻んだ碑を建てた。
(伊吹郷訳『空と風と星と詩 尹東柱全詩集』=記録社発行/影書房発売=に載せられた尹東柱の弟・尹一柱作成の「尹東柱年譜」)
 
墓は、生家にほど近い、日当たりのいい丘の斜面にあった。きれいに整備され、そばにナツメの木が植えられていた。

■治安維持法違反
そもそも尹東柱は何をなし、何が問われたのか。尹東柱の死後37年目の1982年に明らかになった京都地裁の判決文(1944331日付)をいま、改めて読み直してみる。以下、その概略――。(カッコ内は判決文からの引用)
 
尹東柱は「幼少ノ頃ヨリ民族的学校教育ヲ受ケ思想的文学書等ヲ耽読」するなど、「熾烈ナル民族意識」を抱いていた。長じてからは「我朝鮮統治ノ方針ヲ目シテ朝鮮固有ノ民族文化ヲ絶滅シ朝鮮民族ノ滅亡ヲ図ルモノ」とみなし、民族解放のためには独立国家を建設するしかない、と考えるようになった。
 
「大東亜戦争」が起きると「日本ノ敗戦ヲ夢想」し、これを機に「朝鮮独立ノ野望ヲ実現シ得ヘシト妄信」して「独立意識ノ昂揚」を図り、同郷のいとこで、同時期に京都帝大に留学していた宋夢奎(やはり治安維持法違反で服役中に獄死)とインドのチャンドラ=ボースを語り、朝鮮にもいずれ同様の人物が出現するとみて「其ノ好機ヲ捉ヘ独立達成ノ為蹶起セサルヘカラサル旨激励」し合うなど、「相互独立意識ノ激発ニ努メ」た。
 
また、朝鮮内の学校における朝鮮語の授業の廃止を批判したうえに「内鮮一体政策ヲ誹謗シ朝鮮文化ノ維持朝鮮民族ノ発展ノ為ニハ独立達成ノ必須ナル」ことを友人に対して「強調」した。
 
以上のようなことは「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とした行為に当たり、「治安維持法第5條ニ該当スル」として、懲役2年が言い渡されたのだった。
戦前の治安維持法はそんな法律であり、植民地下の朝鮮の人々は、そんな状況に置かれていたのである。尹東柱の代表作をいま一度、読み返してみる。
 
 
  序詩
 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心傷んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
 
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳

0 件のコメント:

コメントを投稿