2016年10月24日月曜日

「満州」への旅⑮――「間島」の地

旅行5日目の朝を、私たちは吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉で迎えた。天気は上々。朝方、街を歩いてみる。ここは私には10年ぶりだったが、この間に「韓国化」がまた一段と進んだ、という印象を受けた。街のところどころに韓国風のレストランが目につき、さながら韓国の地方都市にいるかのような錯覚に陥る。


実際のところ、私たちは市中心部にある朝鮮族経営の小さなホテルに宿泊したのだが、そこではKBSMBCSBSといったソウルの主要放送局のテレビ番組がリアルタイムで入っている。逆に、ここが北朝鮮と隣接し相互に深い関係を持ってきた地域というのに、平壌の放送は見られない。
韓国からの観光客らも多いようだ。私たちが宿泊したホテルの狭いフロントにも「ソウル弁」の団体客が押しかけていた。

■減っていく朝鮮族
延辺朝鮮族自治州では中国語と並んで朝鮮語が公用語になっている。役所の文書などは両言語併記だ。街の看板にもハングルがよく目につく。

とはいえ、この地域に住む朝鮮族は年々減ってきているようだ。延吉市の人口は現在約60万とされ、うち朝鮮族は統計上60%ということになっているが、実際には半分を割り込んでいるとみられるという。市の全人口は増えているといい、その分、漢族の流入が多くなっているということになる。市内でタクシーをつかまえても朝鮮語の分かる運転手にはめったに巡り合えない。

自治州全体でみても同じ傾向にある。全人口200余万のうち、朝鮮族はいま、40%を切ったとみられている。1952年にこの地域が朝鮮族自治区(55年に朝鮮族自治州に移行)になった当時は80%が朝鮮族だった。人口比率が低下してきた分、行政面などでの朝鮮族の発言力も弱まってきているようだ。

朝鮮族の「地元離れ」は近年、とくに若者に多いようだ。中国語と朝鮮語のバイリンガルという強みを生かして中国各地に進出した韓国系企業に就職したり、韓国に出稼ぎに行ってそのまま居ついてしまう人も多い。日本に来ている人もいる。自らのアイデンティティで悩む若者も少なくないようだ。

■「先駆者」
延吉で朝食をとったあと、まず、南隣の龍井市に足を延ばしてみた。龍井は早い時期から朝鮮からの入植者が住みついた土地として知られる。この辺りが朝鮮で「間島」と呼ばれた時代、この地域の政治的な中心地でもあった。日本でもよく知られる韓国の国民的詩人、尹東柱の故郷でもある。

チャーターした車で龍井に向かう。市内に入る少し手前に、ぜひ見ておきたい場所があった。延辺観光の韓国人が必ず立ち寄るスポットだ。「一松亭」といわれる。韓国人ならだれもが知っている歌曲「先駆者」の歌い出しになっている場所である。

韓国が日本の植民地であった時代、この付近は独立運動の一つの拠点だった。歌曲は、そんな独立運動を戦った人たちを称えて1930年代に作られたとされ、解放後だいぶたってから、とくに韓国の民主化運動の時代に盛んに歌われた。

それは小高い山に植わる一本の松だった。枝ぶりが立派で、遠くから眺めると、まるで東屋(あずまや)のように見え、ここを行き交う旅人たちもその趣ある姿に旅情を慰めた――。これは、諸説がある一松亭の解釈のうちの一つだ。「先駆者」はそんな一松亭を含むこの付近一帯の情景を荘重な調べとともに詩情豊かに歌い上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=AjGjcptrZog

いま、その一松亭のすぐ近くまで立派な道路がついている。当時の松は枯れたといい、代わりに一棟のしゃれた東屋が建てられている。近年、この歌曲の由来そのものについても一部で異説も出ているようだ。

ともあれ、その一松亭からみる景色は雄大だ。やはり「先駆者」に歌い込まれた海蘭江(ヘランガン)という豆満江の支流が大地を突っ切って真っすぐに延びている。
 
目を転じると、私たちがこれから向かう龍井の市街も一望できる。

「先駆者」の調べにぴったりの荘重さがどこか漂ってくる。

 ■龍井公園
龍井市内に入ると、中心部に龍井公園があった。公園内には古びた井戸があり、顕彰碑が建っている。19世紀後半、朝鮮から豆満江を渡ってここに入植してきた人たちが初めて発見した井戸で、龍井の地名発祥の由来になったのだという。

その井戸のすぐ傍の木陰で、老人たちが車座になって何かに興じていた。覗いてみると、花札だった。こうした光景はどこかで見た記憶がある。そう、ソウルのパゴダ(タプコル)公園である。あそこでは老人たちがのんびりと碁や将棋、花札をたのしんでいるのをよく見かけた。そっくりなので朝鮮語で話しかけてみると、やはり朝鮮族の人たちだった。


ソウルでは日本と似たルールで、「アカタン」「アオタン」「サンコー」「ゴコー」といった日本語がそのまま飛び交っていた。ここではそうした言葉は通じず、ルールもかなり違うようだが、札そのものは、私たちが親しんだ任天堂のものとほぼ同じだった。札のそばに小さな硬貨が何個か散らばっていた。

■間島総領事館
市内に日本と関係の深い建物が残っていた。日本の元間島総領事館庁舎である。1926年に建てられたという。瀟洒な建物だが、どこか威厳も漂ってくる。いまは展示館になっているようだが、あいにくの休館日だった。


間島の日本総領事館――。歴史を振り返ると、日本がこの地に総領事館を設置したのには大きな意味合いがあった。

もともと、この辺りは清国と朝鮮の境界が曖昧だった。満州族の清朝は一帯を先祖ゆかりの神聖な地として立ち入りを禁じていたのだが、19世紀後半ごろから朝鮮の農民らが入植し始め、双方に領有権争いが生じた。両国で何度か話し合いが持たれたが、境界線を確定できなかった。

そんなところへ日本が乗り込んできた。1905年、日露戦争に勝った日本は韓国(1897年、朝鮮は大韓帝国と改称)に第2次日韓協約を強要して外交権を奪い、ソウルに統監府を置いた。そんな日本は間島地域について韓国領とする立場を取り、「韓国民保護」の名目でここに統監府派出所を設け、大量の日本兵を駐屯させた。

■間島協約
これに対して清国は強硬に抗議し、日本軍の撤退を求めたが、日本は「間島は韓国固有の領土」という立場を譲らなかった。それを一転させたのが、ここでの総領事館設置だった。総領事館の設置は、そこが外国の地であることを前提になされるものであることは言うまでもない。

190994日、日清間で交わされた「間島協約」である。ここで両国は「豆満江が清国と韓国の国境である」と確認し合った。つまり、間島が清国領であることを日本が認めたのである。これは日清間でなされた一つの取り引きだった。その1カ月ほど前に両国は「安奉鉄道の改築」に関する覚書を調印していたのである。

安奉鉄道とは、鴨緑江の河口に近い中国の安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)を結ぶ鉄路。覚書は、日露戦争のさなかに日本軍が清国から敷地を租借して走らせていた軽便鉄道を広軌に改築して満鉄と連結させようというものだった。それと引き換えに、日本は韓国がずっとこだわってきた間島の地を清国側に譲ったのである。

歴史を振り返ると、日本はこの後すぐに韓国を併合(1910年)。清朝も辛亥革命(1911年)で滅び、中華民国となったのだった。

■間島省
私たちが見た元間島総領事館の庁舎が建てられたのは1926年というから、総領事館の開設から17年が経っていた。この時点でおそらく、新しく建て替えられたのだろう。

当時を振り返ると、暗雲が立ち込めていた時代状況は、さらに暗転しようとしていた。1925年、日本国内では普通選挙法とセットにしたかたちで治安維持法が成立。その普通選挙法による初の衆院議員選挙が282月にあり、共産党が公然と活動を始めると、危機感を強めた田中義一内閣は検挙を断行。中国への侵略や戦争に反対する勢力は治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れられてしまった。(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫)

286月、「満州某重大事件」という名の張作霖爆殺事件。319月、満州事変。翌323月、満州国樹立が宣言され、この間島の地は、間島省としてそこに組み込まれていったのだった。

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