2024年1月31日水曜日

錦江――韓国第3の大河/百済歴史散策⑩

扶余羅城一帯を見た私たちは錦江(クムガン)に向かった。錦江にはいろいろな呼び名があり、扶余辺りでは「白馬江(ペンマガン)」、すこし上流の公州付近では「熊津江(ウンジンガン)」、そして古代、日本・百済と新羅・唐の間の「白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦い」の戦場となった「白村江」は錦江の河口付近のことと考えられている。韓国では「白村江」とはいわず、「白江(ペッカン)」と言っているようだ。 

最初に案内されたのは「クドゥレ(구드래kudeurae)」というところの船着き場だった。昔から渡し場として開け、いまは付近の観光名所の拠点になっているようだ。ここから遊覧船に乗って錦江の風景を楽しむことになっている。 

クドゥレの船着き場

■百済は、なぜ「くだら」なのか?

遊覧船に乗り込む前に一つ、興味深い話を紹介しておきたい。このツアーで私たちにずっと付き添ってくれた南海国際旅行社の加地光広さん(57)が途中のバスの中で紹介してくれた話である。百済はなぜ、「くだら」なのか、ということだ。 

これは、むかしから発せられてきた問いである。たとえば作家の司馬遼太郎は次のように書いていた。 

  古来、日本ではこの古代国家をクダラとよんできたが、その語源については説得力のある意見はまだ出ていない。本場の朝鮮ではクダラとはいわず、漢音でいう。百済(ビヤッジェ)。「Baek-je」と、ミセス・イムは発音した。……これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にもないふしぎな言葉は、古代に南鮮(ママ)に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。 (司馬遼太郎『街道をゆく 二』朝日新聞社) 

■「구드래→「くだら」

加地さんの説は、「くだら」はここの「クドゥレ(구드래)」からきたに違いない、というのである。要するに、次のようなことだ。

加地光広さん

  

昔、この渡し場から日本に来た百済人がいた。日本人との間で次のような会話が交わされた。

  「お前はどこから来たのか?」 

  「구드래

  「クドレ?」

  「いや、구드래だ」

  「クドラ?」

  「구드래だ」

  「クダラ?」

  「ん、まぁ、そうだ」 

というわけで百済が「くだら」になったというのである。ちょっとこじつけくさい気もするが、とてもおもしろいと思った。 

■カワアカメ

錦江の流れは思っていたほどきれいではなかった。あいにくの曇天だったせいもあるのか、茶色っぽく濁っていた。「白村江」「白江」「白馬江」といった呼び名から勝手に「白砂青松」を思い浮かべていたのがいけなかった。 

桟橋から韓国人観光客がパンくずのようなものを投げている。川面をみると体長20センチほどの黒っぽい魚が大きな口を開けて群がっている。ボラのようにも見えるが、ボラほどに頭が扁平ではない。聞くと、与えているのはポップコーンで、魚はヌンプルゲ(눈불개だという。

カワアカメ Private Aquarium 

日本に帰って調べてみると、カワアカメというコイ科の淡水魚だった。ロシアのアムール川水系から中国大陸、朝鮮半島、ベトナムにかけて分布し、日本には生息していないようだ。ユーラシア大陸から続く朝鮮半島と、島国日本の生態系の違いを改めてかみしめる思いだ。

 


■帆掛けの遊覧船

錦江と帆掛け船

遊覧船は百済時代を再現して帆を張っている。もちろん動力がついており、水量豊かにゆったりと流れる川面をまず、上流に向かってゆっくりと進んだ。現地で私たちを案内してくれた鶴本しおりさん(55)によると、観覧船は24トン級2隻と13トン級3隻が13キロほどの区間を運航しているのだという。

鶴本しおりさん

この付近の川幅は250メートルほどで、これが普段の平均的な水量だという。そんな説明をしてくれた鶴本さんは熊本県の出身。この地に嫁いできて25年になるといい、扶余郡の「文化観光解説士」という肩書をもつ。いってみれば、郡庁の公式観光ガイドというわけである。 

■韓国第3の大河

ここで、錦江について少し説明しておかなければならないだろう。洛東江、漢江に次ぐ韓国第3の大河。全羅北道の小白山脈付近に水源を発してまず北上、忠清道の山間峡谷を蛇行して南西に向きを変えていき、群山市の北で黄海に注ぐ。全長401キロで、日本最長の信濃川より30キロほど長く、流域面積9886平方キロは北上川にほぼ近い。 

錦江 위키백과

流域には、古都の扶余や公州のほか、人口153万の大田広域市や首都機能の分散で2012年に新しく発足した世宗特別自治市(人口38万余)などがある。河川の汚れが心配され、下水浄化施設の拡充や河川敷の緑化なども進められているという。 

■落花岩

上流へしばらく進むと右手(左岸)に百済の「逃げ城」が築かれていた扶蘇山の大きく切り立った絶壁がみえてきた。「落花岩」といわれている。百済の滅亡にあたり、宮女たちがそこから次つぎと身を投げたと言われる。その数3千――。その様子はまるで花が落ちるようだったところから、この名がついたとされる。

落花岩

 

てっぺんに、あずまやのようなものが見えている。水面からの高さは4050メートルほどだろうか。中ほどからやや下の岩場に「落花巌」と赤く刻まれた文字が見えている。 

「三千宮女」は百済滅亡の象徴のように韓国で語られてきた。しかし、3千という数字はオーバーだというのが専門家の見方のようだ。当時の百済の人口や宮殿の規模、経済力から考えて、まったく釣り合わないというのである。 

時代が下ってソウルに都を置いた、より大規模な朝鮮王朝(13921910)で宮女はせいぜい500600人。栄華から急な滅亡というその悲劇性が後世、こうした伝説を生んできたようだ。

                             (つづく)

 立命館大学コリア研究センター上席研究員    波佐場 清


 

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