2024年1月19日金曜日

韓国版「ロミオとジュリエット」/百済歴史散策⑦

百済の武王は積極的な東進政策をとり、新羅の各地を攻撃した。一方で、隋・唐や倭とは外交関係を保ち、隋が高句麗を攻撃したときも中立的な態度をとった。 

すでに見たように百済が公州(熊津)から扶余(泗沘)に遷都したのは538年、聖王の時だった。そのあと、660年に百済が滅ぶまでの歴代王を見ておくと、次のとおりである。 

26代聖王(在位523554)▽第27代威徳王(554598)▽第28代恵王(598599)▽第29代法王(599600)▽第30代武王(600641)▽第31代義慈王(641660) 

■薯童謠(ソドンヨ)

武王は、新羅との戦いで聖王が殺されたあと衰えていた百済を再建したといわれている。法王の子とされるが、異説もある。その生い立ちなどについては『三国遺事』に出てくる郷歌(ヒャンガ)の「薯童謠(ソドンヨ)」で知られている。 

『三国遺事』は13世紀に高麗の僧一然によって書かれた史書。『三国史記』(12世紀に書かれた新羅・高句麗・百済に関する史書)から漏れた遺聞など仏教説話が多く盛られている。「郷歌」は「新羅の詩歌」の意をもち、独特の定型を備えている。 

私が学生時代、その謦咳に接した元大阪外国語大客員教授金思燁(キムサヨプ)先生(191292/京城帝国大法文学部卒。米ハーバード大招聘教授や韓国の慶北大学教授、東国大学日本学研究所長なども歴任)によると、郷歌「薯童謠」は次のようなものである。 

  善花公主(王女)の君 そっと嫁入りなされて

  夜には 薯童さまを 抱きしめて立ち去る

   (金思燁全集刊行委員会『金思燁全集25 完訳三国遺事』図書刊行会) 

この郷歌が出てくる説話を金思燁先生の訳にもとに私なりにごく簡単に要約すると次のようになる。 

  武王は幼名を薯童(ソドン)といった。母親はやもめで、池の竜と通じて生まれた。薯(いも)を売って暮らしをたてていたので、そう呼ばれた。新羅の真平王の第3王女善花が美しいと聞き、何とか自分のものにしたいと考えた。坊主の姿になって新羅の都に入り、街の子らに薯を与えて、この郷歌を歌わせた。 

  これが都じゅうに広まって宮殿に届き、善花は都を追われるところとなった。そんなとき善花の前に薯童が現れて道中を共にし、百済の都にたどり着いたところで夫婦のちぎりを結んだ。善花はこんごの暮らしについて相談し、新羅を出るとき、王后からもらった黄金を差し出した。 

黄金の価値を知らなかった薯童は「そんなものはいくらでもある」と言って薯を掘っていた場所から金を掘り出し、新羅の宮殿へ送る。これによって人望を得た薯童は百済の王位にのぼり、武王となった。 

ある日、武王と王妃善花がお寺参りに行く途中、大きな池のほとりを通ると、池から弥勒仏三尊が現れた。王妃はそこを埋めて大きな寺を建ててほしいと願うと、王はそれを聞き入れた。こうして建立されたのが弥勒寺だった――。 

■韓流大河ドラマ

この説話を題材に韓国の放送局SBS開局15周年にあわせて大河ドラマ『ソドンヨ(薯童謠)』を制作。200506年に放送されると大変な人気を呼び、日本でもBS朝日などで放送された。

ドラマは、数奇な運命をたどる百済の王子と、敵対国新羅の王女の純愛物語として描かれた。「韓国版ロミオとジュリエット」と喧伝され、日本の韓流ドラマファンの間でも評判になっていった。 

そんなところへ2009年、思わぬニュースが伝わった。先にみた益山の弥勒寺址の西塔の解体工事中に塔の内部から弥勒寺建立のいきさつなどを記した金板が見つかり、それによって弥勒寺建立の発願者は、どうやら新羅の王女善花ではないことが分かったというのである。 

■発願者は百済有力貴族の娘

弥勒寺址の出土品を保存・展示している国立益山博物館によると、石塔の内部からは大量の舎利荘厳具が見つかった。(舎利荘厳具 - YouTube

益山博物館HP

中身は、金製舎利内壺や金銅製舎利外壺といった各種供養品で、金板(縦10・5センチ、横155センチ)もその中にあった。 

益山博物館HP
金板には、
佐平[百済最高位の官職]沙宅徳積の娘である百済の王后が財物を喜捨して伽藍を創建し、己亥年(639年)に舎利を安置して王室の無事安寧を祈願する」
といった内容が記されていた。 

ここに出てくる沙宅徳積とは百済の有力貴族で、その娘が武王の王妃となると、ドラマとはずいぶんとイメージが違ってしまう。「敵対関係を超えて…」という愛を「ロミオとジュリエット」に重ね合わせていたファンには、水をぶっかけられたという思いだろう。 

韓国内には、それでも、「武王には沙宅王妃の他に別の王妃が存在していた可能性もあり、善花公主も武王の王妃として認めるべきだ」といった善花執着論もあるようだが、「純愛イメージ」の損傷はやはり、避けられない。 

■大激動の時代へ

益山が「王都」であったという確たる証拠は見つかっていない。しかし、弥勒寺址のほかにも、やはり武王の時代に造られた王宮の址とされる王宮里遺跡や武王と王妃が陵墓ではないかといわれる双陵など、この時期の百済の重要な拠点であったことをうかがわせる遺跡がこのあたり一帯に散らばっている。 

益山地域は錦江のほか万頃江にも近い水路交通の要衝であり、新羅攻略の軍事的拠点でもあった。こうした点を考えても益山が一時期「王都」だったのではないかという見方も根強いようだ。 

このあたり一帯はこのあと、百済・高句麗・新羅間の争いを経ていったん新羅に編入され、さらに新羅・唐間の戦争へと続く大激動の時代に入っていく。その過程でこの地域が「高句麗復興運動」の拠点になったりもした。そのことは後にまた触れることになるだろう。

(つづく)               波佐場 清

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