2024年2月24日土曜日

「羅唐戦争」と新羅の統一/百済歴史散策⑯

百済を滅ぼした唐と新羅は、北と南から挟み撃ちにするかたちで高句麗に迫っていた。そんなとき、高句麗で独裁体制を固めてきた淵(泉)蓋蘇文が665年(664年あるいは666年とも)に没すると、後継をめぐって蓋蘇文の身内で争いが起きた。 

蓋蘇文の次男の淵男建が主導権を握り、兄と叔父を追放すると、兄は唐に走り、叔父は新羅に降った。そんななか北方から唐軍、南方から新羅軍が攻めて平壌城を包囲した。男建は最後まで抵抗したが6689月、力尽きて投降、ここに高句麗は滅んだ。 

■唐の支配欲望

百済に続く高句麗の滅亡はしかし、そのまま新羅の三国統一ということにはならなかった。唐は新羅を含む旧三国をすべて支配下におこうとした。異民族に一定の「自治」を与えて統治する独自の「羈縻(きび)政策」をとろうとしたのである。 

百済の故地は、百済復興軍壊滅後の664年、洛陽に連行していた元百済王子扶余隆を熊津(公州)都督に任命して管轄させた。高句麗が滅ぶと668年、平壌城に安東都護府を置き、唐将・薛仁貴2万の兵を与えて駐屯させた。 

新羅についても、唐はこれより先の663年、文武王に鶏林(新羅の別称)大都督という内臣の官職を与えて配下においた。新羅には屈辱だったが、高句麗との敵対に加え、背後の倭国への警戒もあり、従うほかなかった。 

■「羅唐戦争」

670年、高句麗の遺民が唐に反旗をひるがえした。すると、唐と提携していたはずの新羅軍がこれを支援した。唐が反撃に出ると、高句麗遺民らは高句麗最後の王、宝蔵王の外孫にあたる安勝という人物を押し立て、新羅の地に駆け込んだ。 

新羅は彼らを現在の全羅北道益山にあたる旧百済の金馬渚に住まわせ、安勝を「高句麗王」に冊封した。唐中心の支配体制への挑戦であり、以来676年に唐軍が朝鮮半島から撤退するまで続いた唐と新羅の戦いを韓国では一般に「羅唐(ナダン)戦争」と呼んでいる。

安勝が一時ここにいたともいわれる王宮里の遺跡 益山市HP
羅唐戦争 赤は唐軍、黒は新羅軍 『한국사』미래엔

新羅が唐に強く出た、そのころ、唐の西方領に吐蕃(チベット)が進攻していた。唐は6704月、高句麗支配にあたっていた薛仁貴を吐蕃討伐に向かわせたが、大敗した。新羅はその間旧百済地域の掌握に注力し、翌671年秋までにこの地域から唐軍を追い払った。 

■唐軍撤退

新羅と唐はその後も一進一退の攻防を繰り広げたが、675年9月の買肖城(メソソン/京畿道北部)の戦闘と翌676年の錦江河口の伎伐浦(キボルポ/)の海戦で新羅軍が唐軍を撃破した。羅唐戦争はそれが決定打となって新羅に勝利をもたらしたというのが韓国での一般的な評価のようで、高校の教科書はそのように書いている。 

676年、唐は高句麗支配の拠点であった安東都護府を平壌から遼東故城(遼陽)へ、また旧百済遺民を支配する熊津都督府を熊津から建安故城(営口)に移した。翌677年、安東都護府をさらに新城(撫順)に再移転させ、唐の内地に移住させた高句麗・百済の遺民をそれぞれ統括させた。 

唐軍は朝鮮半島から撤退したものの、再征討を狙っていた。しかし676年、チベット高原の吐蕃が再び攻勢を強め、西域方面では西突厥と連合して唐の支配拠点を奪いとった。結局678年、唐は新羅再征討計画を中止した。 

緊張緩和に伴い、新羅は国家体制の整備にかかった。681年に文武王が没し、子の神文王が即位すると、百済の故地に「高句麗王」に封じていた安勝を都の金城(慶州)に定住させ、684年、新羅はその「高句麗国」を吸収して名実ともに三国統一を達成した。 

■「南北国時代」

しかし、この統一は朝鮮半島全域に及ぶものではなかった。新羅が領有できたのは、平壌付近を流れる大同江と東海(日本海)に面する元山湾を結ぶ線から南に限られた。それ以北の高句麗の故地には698年、「高句麗の後継国」を名乗る渤海国が新たに建国された(当初は「震国」を名乗った)。 

統一新羅と渤海(8世紀) KOREA.net
ここらあたりの歴史の評価は一様でなく、南北朝鮮の間でも分かれている。韓国では、たとえば、高校教科書『韓国史』(検定)は次のように書いている(拙訳)。 

新羅の三国統一は外国勢力の支援を受けたという点と、大同江以南の領土を確保することで終わったという点で限界がある。しかし粘り強い抗争の末に唐軍を追い出した事実は自主的性格を見せている。また、わが国歴史上初めての統一であり、三国の文化を融合して民族文化の枠組みを整える契機となった。(고등학교한국사미래엔 

これに対し北朝鮮は、新羅の統一に否定的で、10世紀にできる高麗国を最初の統一国家としている。北朝鮮に近い立場とみられる朝鮮大学校歴史学研究室編『朝鮮史 古代から近代まで』(朝鮮青年社)は次のように書いている。 

  新羅は大同江以南の地を統合することに成功した。しかし、三国全域を統一しようとする新羅の最初の目的は達成されず、北方の高句麗領土の一部は唐の手に渡った。……九三六年、高麗の大軍は慶尚北道善山で後百済軍をうちやぶり、ついに後三国は高麗によって統合されるに至った。こうして高麗は、朝鮮最初の統一国家となったのである。 

韓国には新羅と渤海が並立した時代を「南北国時代」とする学者もいる。三国時代に続く「二国時代」、あるいは「南北朝時代」ということなのだろう。 

■朝貢・冊封関係

新羅は、唐との戦争期間中も朝貢・冊封関係にもとづく外交的関係を断ち切らず、唐の年号を使い続けた。羅唐戦争後もあつれきは残り、唐が大同江以南の新羅領有を正式に認めたのは735年のことだった。両国関係が安定していったのはそれ以降である。 

盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店)は次のように書いている。 

新羅と唐が力の対決を通じて、言い換えれば、中国天子の徳を万民に及ぼすといういわゆる徳化論を掲げて、三国を併呑して唐の郡県や羈縻州に編入しようという策動を、最終的に新羅が斥けたことによって、力の限界を感じた唐と、唐の現実的な優位性を認めた新羅が、共存の道を求めて妥協がなされた。ここに新羅と唐の安定した朝貢・冊封関係が定立した。 

このような国際情勢のなかで倭国はどのように身を処していったのだろうか。(つづく)

                          波佐場 清 

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