2024年2月16日金曜日

白村江の戦い/百済歴史散策⑭

百済復興軍の救援を決断した倭国は660年暮れ、斉明女帝が難波宮に赴き、出兵の準備にかかった。翌661年正月、斉明は68歳の老齢を押して難波を発ち、北九州に向かった。一行は途中、兵士を徴発しながら西へと進み、伊予熟田津(にぎたづ)の石湯(道後温泉)の行宮に泊まった。 

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな 

教科書にも載る『万葉集』のこの一首は、このとき額田王(または斉明女帝)がつくった、とされる。 

■余豊璋、百済へ帰還

一行は同年3月下旬、娜大津(博多)に着き、磐瀬行宮を本営とした。5月、朝倉宮に遷宮。7月、斉明はここで没した。母の女帝亡きあと、中大兄は皇太子のまま博多湾に面した長津宮(以前の磐瀬行宮)で国政を執った(称制)。 

ついでに言っておくと、斉明が亡くなるひと月前の6616月、新羅でも武烈王(金春秋)が死去し、生前から後継者に決められていた息子の金法敏が即位していた。これが文武王(在位661681)である。倭と新羅はこのあと、共に新しい体制で相打つことになったのである。 

8月、第1次百済進攻軍が編制され、阿曇比羅夫(あずみのひらふ)や阿倍比羅夫(あべのひらふ)らが将軍に任命された。ついで9月、余豊璋に5千余の護衛兵を与えて百済へ帰還させた。豊璋はこの年のうちに周留城で鬼室福信と合流できたようだ。 

662年正月、倭の朝廷は福信に矢や糸、なめし皮など、武器やその材料を送った。『日本書紀』によれば、同年5月、豊璋は百済王位を継承した。第1次進攻軍の将軍阿曇比羅夫が勅命を伝え、倭国の天皇が豊璋を王に立てる形式をとったという。 

7月、唐の百済駐屯軍が百済復興軍を熊津(公州)付近で撃破し、新羅からの兵糧運送ルートを確保。さらに唐本国に兵の増援を要請し、山東半島から7千の水軍が送られることになった。 

■白村江へ結集

6633月、倭国は2万7千の大軍を第2次進攻軍として出し、新羅を攻撃した。そんななかで6月、百済復興軍に内紛が起き、豊璋が福信を「謀反の疑いがある」として殺害、復興軍は崩壊の道へと進んでいく。 

一方、山東半島から増派されてきた唐の水軍は熊津城の唐駐屯軍と合流、新羅軍と協議の結果、陸軍は新羅軍と唐軍が周留城に進撃し、唐の水軍は熊津から錦江をくだり、河口の白村江で陸軍と合流して周留城の百済復興軍を攻めるということになった。 

そのころ、朝鮮半島南部で新羅軍と戦っていた倭国軍も、急の報せをうけて錦江の河口、白村江へと向かった。 

■倭軍敗北、海水皆赤し

817日、唐・新羅陸軍は百済王豊璋のいる周留城を囲んだ。唐の水軍は倭の周留城救援を妨げるため、白村江に軍船170隻をならべて待ち受けた。そんなところへ8月27日、倭の水軍が到達し、2日間にわたる白村江の戦いの幕が切って落とされた。 

錦江(白村江)河口付近  群山市HP
初日、倭国水軍は唐水軍の実力を探るために攻撃を仕掛けてみた。一種、様子見の戦いだったが、唐水軍の布陣は堅固で、倭水軍は、すぐに退却した。唐軍も陣を守って追撃しなかった。 

28日、倭の水軍は唐の水軍に向かって突進した。唐軍は左右から倭の兵船を囲んで挟み撃ちにすると、倭軍は後退することすらできず、大敗した。中国の史書は次のように書いている。 

  四たび戦って捷(か)ち、その船四百隻を焚(や)く。煙と燄(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水皆(みな)赤し。 

群山市を流れる錦江  群山市HP
■倭、朝鮮半島から完全撤退

97日、周留城陥落。余豊璋は白村江の戦いの直前に城を脱し、倭軍と合流していた。倭軍の敗北を見届けた後、数人の従者らと船で逃走したといわれ、以後消息を絶った。高句麗に逃げたともいわれている。 

周留城の陥落によって唐の百済平定はほぼ完了した。倭の軍兵や百済遺民らの多くは捕虜にされた。逃れた者たちは9月24日、百済南部の弖礼城に集まり、そこから倭国に向かった。以後、大量の百済遺民が玄界灘を越えて倭国に来ることになる。 

この戦闘の敗北によって倭は朝鮮半島から完全に退けられた。この点、古代日朝関係史にもつ意味合いは大きい。日本が律令体制という中央集権国家づくりを進めていく、日本史にとって大きな画期をなしたともいえる。 

■「白村江の戦いって?」

しかし、これを当時の東アジア情勢を決定づけた会戦とするのはあまりの誇張だと、この間しばしば引用してきた盧泰敦氏の著書は指摘する。戦闘の主力は唐軍と倭軍であり、中国勢力と日本勢力が朝鮮半島で雌雄を決した戦争であったかのようにとらえるのは戦争の実像と符合しない、と次のように指摘する。 

  この戦闘は、唐には特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、新羅にとっても主たる戦場ではなかった。…白村江の戦いに関する過度の強調は、その年に繰り広げられた百済復興戦争の主戦場が周留城攻防戦であったことと、新羅軍の存在を軽視することになり、新羅を受動的な存在とみる歴史認識を生み出す側面がある。

           盧泰敦(橋本繁訳)『古代朝鮮 三国統一戦争史』(岩波書店) 

韓国の友人たちに白村江の戦いについて聞いてみても「それって、なに?」という感じで首をひねる人が多い。韓国でいま使われている高校の『韓国史』の教科書をみてもこの戦争にはとくに触れていないようだ。(つづく)  波佐場 清   


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