2024年2月28日水曜日

倭と新羅の和解と不信/百済歴史散策⑰

白村江の敗戦によって倭国は国家体制の整備と防衛の強化を迫られた。防衛政策では敗戦翌年、対馬・壱岐・筑紫に「防人(さきもり)」と「烽(とぶひ)」(のろし)をおき、亡命百済人の指導下、大宰府を守る水城や大野城、基肄(きい)城を築城、瀬戸内海の要地や大和でも朝鮮式山城が築かれた。 

国内政策でも664年、中大兄は「甲子(かっし)の宣」を発して制度改革に着手。冠位制の改定や氏上(うじのかみ)制で豪族らの不満をかわし、体制の立て直しにかかった。中大兄は6673月、飛鳥から近江の大津宮に遷都した。防衛上の理由からとの見方がある。

大津宮跡近くの琵琶湖  大津市柳が崎

大津宮跡  大津市錦織
668年正月、中大兄は大津宮で即位して天智天皇(在位668671)となり、近江令を編纂(異説あり)、最初の戸籍である庚午年籍を作るなど、緊迫した国際情勢に対応する律令体制づくりを進めた。 

■倭王朝滅亡の危機

すでに見たように、高句麗が唐・新羅軍に滅ぼされたのは天智即位とまったく同じ時期だった。大津宮遷都後の66711月、百済に駐屯していた唐の鎮将の使者が筑紫に来ていたが、これは倭が高句麗と結ぶのを牽制するためだったとの見方がある。

高句麗が滅亡する直前の6689月、新羅の使臣が倭を訪れている。両国の断絶から11年、白村江の戦いから5年が経っていた。ここで天智は新羅王らに船を与え、国交を再開した。このあとに羅唐戦争が始まっており、新羅は唐との対決に備えて背後の倭との和平へ布石を打ったようにもみえる。 

高句麗を滅ぼした唐王朝は北方、西方でも対抗勢力を屈服させ、最大版図を実現していた。669年段階の唐の東方での課題は、新羅の後方海上の倭を屈服させることだった。吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書)は次のように書いている。 

  倭王朝は天智八(六六九)年に新羅使を迎え、戦勝国からじかに高句麗の滅亡を聞かされた。迫りくる脅威をやわらげようと、天智天皇はすぐに遣唐使を派遣し、高句麗平定を祝ってみせたが、唐の倭国征討計画はすでに始まっていた。後世のモンゴル襲来に匹敵する、倭(日本)王朝滅亡の危機であった。 

そんな情勢を一変させたのが「羅唐戦争」(670676)だった。唐と新羅が対立すると、唐の倭国征討は棚上げになったのである。 

■天智から天武へ

671年、唐と新羅が相次いで倭国に使節を送ってきた。双方、それぞれに倭の協力を求めたとみられる。厳しい選択が迫られた倭は、綱渡りの交渉で戦争への介入を避けようとしていた、そんなさなかの同年9月、天智天皇が病に倒れ、12月に没した。

天智天皇陵  京都市山科区

天智の後継としていったん子の大友皇子が決まったものの、弟の大海人皇子が巻き返して権力を掌握した。672年の「壬申の乱」である。大友が「羅唐戦争」で唐側につく動きをみせたのに対抗して大海人が決起したとの見方もある。 

大海人は翌6732月、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇(在位673686)となった。半年後の8月、新羅が「祝賀使節」を送ってくると天武はその入京を許すなど、新羅との関係を深めた。一方で、唐との交流はこのあと約30年にわたって途絶え、遣唐使派遣の再開は702年まで待たなければならなかった。 

■倭と新羅の「蜜月」

「羅唐戦争」で朝鮮半島から唐を追い出した新羅は、結果として、日本の危機を救う防波堤の役割を果たした。唐は西方の吐蕃との対立や則天武后(在位690705)の執権をめぐる内政問題で余裕がなくなり、新羅と倭にとっての唐の脅威は670年代の終わりにひとまず消えた。 

これによって、「白村江の戦い」以来続いていた倭の臨戦体制は終わりを告げ、平時にふさわしい体制に切り替えられていくことになる。天武朝下で進められたのは律令制の確立だった。 

681年、飛鳥浄御原令編纂開始▽682年、藤原京造営開始▽684年、「八色の姓」を定めて豪族たちを天皇中心の新しい身分秩序に編成――。天武は686年に没したが、これらの施策は、後を継いだ皇后の持統天皇によって実行されていった。 

新羅でも680年代に集権的中央官制が完成。倭と新羅は歩調を合わせるように集権的国家体制を整備していったのだった。この時期、倭と新羅の関係はきわめて緊密であり、唐との関係が冷えた分、さまざまな文物や情報が新羅から倭に伝えられた。 

■倭国警戒の「海中陵墓」

とはいえ、新羅の倭に対する警戒心は強かった。

文武大王陵  慶州市HP
新羅の都であった慶尚北道慶州(キョンジュ)市の海辺近くの沖合に「文武大王陵」がある。三国統一を成し遂げた新羅30代文武王(在位661681)の「海中の陵墓」といわれている。

朝鮮の史書『三国遺事』によると、文武王が681年に没すると、その遺言によって東海(日本海)で葬儀をおこなった。遺言は、仏教の法式に則って火葬した後、東海に埋めれば、龍となって倭の侵攻を防ぐ――とする内容で、後継の子の神文王(681692)が、その通りにしたがったという。 

陵墓の岩は沖合200メートルほどのところにある。東西南北の両方向に水路がつくられ、そこに平べったい大きな石が置いてある。遺骨はその下に埋められたのではないかともみられている。 

近くに、この時建てられた感恩寺という寺の跡もある。この寺は元もと「鎮国寺」と呼ばれ、倭兵を防いで国を安定させるという意味をもっていたという。 

新羅には、倭に対する根本からの警戒心があった。実際、新羅と倭の緊密な関係は長続きしなかった。(つづく)               波佐場 清 


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