■「5・16」助けた支持デモ
1961年、朴正煕が「5・16クーデター」を起こした。
朴正煕や金鍾泌らが、張勉政権を3600人の軍人と戦車でひっくり返した。しかし、米軍の反発や李翰林第1軍司令官らの抵抗で、成功するかどうか不透明だった。まかり間違えば、かつての開化派金玉均の「三日天下」[1884年の甲申事変。クーデターで新政権を立てたが、3日後に清軍の介入で失敗、金玉均は日本に亡命]のように反乱軍にされてしまう。そうなると、銃殺される恐れがあった。
その点、金鍾泌は後に「革命であれクーデターであれ、3日間が勝負だ。それは古今東西を問わず、同じことだ」と筆者に語っている。
ソウル市民らも不安を募らせていた。
クーデターが起き、張都暎[当時、陸軍参謀総長。朴正煕らに擁立されたが、2カ月足らずで失脚]と朴正煕の戒厳軍が入ってきたものの、どうなるか、まだ闇の中だった。カーター・マグルーダー米第8軍司令官をはじめとする在韓米軍や張勉政権派の将官たちの反発にクーデター軍は焦り、冷や汗をかいていた。
▽「革命は軍全体の意思」
この時、大尉の全斗煥は、ソウル大学で学軍団(ROTC)[学生軍事教育団。大学に通いながら将校を目指す制度]の教官をしていた。
朴正煕将軍の革命はなんとしても成功させなければならない!
全斗煥は陸士同期の李相薰(盧泰愚政権で国防部長官)らと連絡を取り、陸士の生徒で「クーデター支持デモ」をすることにした。折から、クーデターに加わった金鍾泌、呉致成 らもそのことを待ち望んでいた。
「陸士出身の将校と陸士の現役生徒がいっしょになって支持デモをおこなうことで、革命が軍全体の意思であり期待なのだ、ということをソウル市民や国民の前に示すべきだ」
全斗煥はそのように煽った。李相薰大尉らはデモのコースと時間を決め、放送用のメッセージや決議文を作った。張勉政権の擁護に回った姜英勲陸士校長(中将。のちに盧泰愚政権で国務総理)が懸命に全斗煥、李相薰大尉らを止めようとしたが、及ばなかった。
▽成功への分水嶺
3日目の61年5月18日、陸士の生徒らは、正装してソウル泰陵の陸軍士官学校を出発、東大門~半島ホテル(現ロッテホテル)~市庁のコースを街頭行進した。その後に「革命軍」の腕章を巻いたクーデター軍が続いた。ソウル市民らは沿道で歓呼し、拍手を送った。もう世論は完全にクーデター軍の側についていた。
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| 陸士生による「クーデター支持デモ」=1961年5月18日 |
「陸士生徒の市街行進が、クーデター成功の分水嶺となった」と張勉首相の秘書官だった鮮于宗源は、筆者に話した。金大中もその点、疑いの余地はない、と筆者に語った。米国も、政権擁護派の軍部も、すでにもう、朴正煕のクーデター軍をひっくり返す力はなくなっていた。全斗煥も「陸士の支持行進が、不確実で、まだ流動的だった(クーデター成功の)流れを決定的なものにしたと自信を持って言える」と述べたとする記録も残っている。
■「政治をやらないか」
「5・16」の朝、自らの人生を賭けた「最後の株券」1枚を引っつかんだ全斗煥大尉は、革命勢力の末席に割り込んだ。そうした言動が、同郷の朴正煕の目に留まり、国家再建最高会議[朴正煕らがクーデター直後に設立した最高統治機関]の民願秘書官に抜擢された。
秘書官をしていたその頃、陸軍上級将校課程(OAC)への入校命令を受けた。全斗煥は引っ越し荷物をまとめたあと、最高会議議長朴正煕のところへあいさつに行った。朴正煕は手放しで喜び、こんなことを言った。
「おまえ、退役しないか。共和党に入って政治をやってみろ」
「閣下、自分は、政治のことは分かりません。いちども考えてみたこともありません。自分には向いていないと思います」
「他の者はみんな、政治をやりたいというのに、おまえは、やれというのにできない、と?」
「陸軍大尉で、金もなく、政治は難しいのではありませんか。どう考えてみても、自分には分不相応なようです」
▽「軍に残るのがいいようです」
全斗煥は、家族と相談してみたいと言って、その場の返事を避けた。
すると、朴正煕は急に怒り出し、「どうしてそんなことを家の者と相談したいというんだ。 そうか、それなら分かった。もう帰れ」と逆情した。そうして追い出されるように出てきて、その日は、よく眠れなかった。ところが翌朝、朴正煕議長の秘書室長に呼ばれてまた、そこへ行くと、朴正煕は意外にも、あっさりしていた。
「いまいちど考え直してみたんだが、全大尉の言い分もわかった。軍に戻って正統なコースを歩み、立派な指揮官になるのも、国に忠誠を尽くす道だ。きのうワシが何かと怒ったことは、すまなかった。気にしないで、帰ってしっかりと勉強し、軍生活をうまくやれよ」
「はい。どう考えてみても自分は軍に残るのがいいようです」
こうして朴正煕と全斗煥は、互いに堅い信頼の握手を交わして別れた。これが2度目の出会いだった。全斗煥はこの時のことをよく、こう自慢していた。
「朴大統領はそんなわたしのことが気に入り、殊勝だと思ったんだ。みんな政治にかぶれて権力を握りたいと騒いでいる。それなのに軍に残りたいというのが、気に入れられたようだ。5・16のあの時、そのまま政治の世界に入っていたら、せいぜい、どこかの省(部)庁の長官一つなりともやって、終わっていたことだろう」
▽3人の恩人
1963年、朴正煕の軍政が民政に移行した直後、全斗煥大尉は大隊長として出ることになり、朴正煕議長のところへあいさつに行った。ちょうど、そこに中央情報部長の金容珣がいた。金鍾泌のあとを継いで2代目の情報部長になったばかりだった。金容珣部長が「では、全大尉を連れて行きます」と言うと、朴大統領はうなずいた。
全斗煥は初め、何のことだかよく分からなかったが、金容珣部長が「全斗煥を情報部で使いたい」といい、朴大統領は「そうしろ」と裁可したのだった。こうして全斗煥は大隊長に出る代わりに、中央情報部に勤務することになった。ところがその後、金容珣はすぐに情報部長を辞めてしまい、後を継いだ第3代部長の金在春にもしばらく仕えることになった。
こうして全斗煥は南山の情報部で、人事課長として半年余りを過ごした。このとき、全斗煥が情報部に提出した人事記録カードの身元保証人は、李圭東、朴鐘圭の2人。これに朴正煕をあわせると、かれの生涯を左右した「3人の恩人」ということになる。
▽ライバル失脚
全斗煥は少佐に昇進し、陸軍本部の人事参謀部や陸軍大学を経て、第1空挺特戦団の大隊長代理として赴任した。さらに中佐に昇進し、第1空挺特戦団副団長から、67年ごろには首都警備司令部[のちの首都防衛司令部]の第30大隊長になった。第30大隊(のちに第30警備団)は青瓦台を警備する部隊で、後日、「12・12クーデター」の現場となるところだ(1979年の12・12クーデターのその時は、全斗煥の右腕、張世東大佐が第30警備団長だった)。
全斗煥の前任の第30大隊長は孫永吉中佐だった。
孫永吉は、朴正煕少将が師団長だった時期の専属副官で、陸士11期の全斗煥、盧泰愚、金復東らと同期だった。「朴正煕の忠僕」として知られていたが、73年に「尹必鏞不忠事件」[当時、首都警備司令官として絶大な権力を握っていた尹必鏞少将が、朴正煕大統領の「後継者」に言及したことが逆鱗に触れ、処罰された事件]に巻き込まれて、軍服を脱いのだった。
▽青瓦台警備で大手柄
朴俊炳、張世東、許和平らによると、全斗煥中佐は青瓦台の周りを警備する第30大隊長をしていた時期に大手柄を立て、朴正煕の厚い信任をさらに積み重ねることになった。
全斗煥は、北岳山[青瓦台の後ろにあり、標高342メートル]に向けて迫撃砲を配備する計画を立てた。夜間にスパイでも現れたりしたら青瓦台の背後一帯に照明弾を撃ち、真昼のように明るくして撃滅すべきだ、とする構想だった。ふつうの場合、歩兵大隊は3個の小銃中隊と火器中隊1個で編成するのだが、当時、第30警備大隊は迫撃砲を倉庫にしまい込み、遊ばせている状態だった。
とはいえ、その迫撃砲が向けられる北岳山方向には、まさに至尊の大統領がおられる青瓦台があり、「不忠」にもなりかねない構想だった。首都警備司令官の崔宇根将軍でさえ、そのアイディアに首を横に振った。大統領閣下に礼を欠くというのだった。
訳:波佐場 清

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