2026年4月10日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(8)

 ■車智澈と盧泰愚への、おせっかい

全斗煥の世話焼きのおかげで盧泰愚は、ベトナム派遣が決まった全斗煥から陸軍参謀総長の首席副官というポストを引き継ぐことになった。

全斗煥はベトナム派遣中、朴正煕大統領から情愛たっぷりの直筆の慰問の手紙をたびたび受け取っていた。1971年にベトナムから帰ると、全斗煥はまたしても第1空挺特戦旅団長に抜擢された。破格の人事だった。そして、さらに驚いたことに73年、同期で最も早く准将に昇進して将官の星をつけたのだった。

76年には、青瓦台警護室作戦次長補に補される。陸英修女史が暗殺された後[朴正煕大統領夫人の陸女史は74年、在日韓国人の文世光によって殺害された]75年に朴鍾圭が警護室長を退き、その後任として車智澈が警護室長になっていた。

▽「軍を辞めます」

全斗煥は、この人事に不満を爆発させた。

車智澈室長の方が年も若く、陸士出身の先輩でもない。それなのに、その下で働けというのだから自尊心が傷ついた。後輩の朴世直(陸士12期、ハナ会。のちにソウル五輪組織委員長)が国防部長官徐鐘喆の補佐官だったので、そんな彼を通して徐長官に会いにいった。

「軍を辞めて、予備役に退きます」

すると、徐鐘喆長官は朴大統領直筆の署名(煕)が入った決裁書類を見せながら、宥(なだ)めた。全斗煥はすでに、大統領が特別に目をかけ、長官が宥めなければならないほどの将軍になっていたのである。

▽車智澈のコンプレックス

全斗煥は、車智澈警護室長の下、顎で使われる辛い日々を送った。

全斗煥が警護室作戦次長補に発令されると、車警護室長も緊張した。大統領閣下の寵愛を一身に受ける全斗煥のことが気になって仕方がなかった。

全斗煥はよく、こう振り返った。

車智澈は、ワシが警護室長のポストを横取りするのではないかと戦々恐々としていた。大統領の信任が奪われるのではないか、と恐れていた。ともかく、軍の司令官クラスの中将を次長に置いているところへ、さらに准将のワシまで部下扱いだ。

車は、もともと陸士の試験に落ちて将校になったことに大きなコンプレックスがあった。60年代初め、ワシが少佐だった時のことだ。米国の特殊戦(レインジャー)訓練部隊に一緒に委託教育を受けに行ったことがある。崔世昌、張基梧[ともに陸士出身で、後に「ハナ会」の主要メンバーとなる]もいっしょだった。その時、車智澈は失敗をしでかし、本国送還になるところを、ワシが助けてやったんだ。そのさい、車智澈はワシに『兄貴分として仕えたい。実のところ、陸士12期の試験に落ち、歩兵学校を出て将校になったんだ』と言っていた。それ以来、ワシには頭が上がらず、這いつくばるようにしていたもんだ」(全斗煥の肉声証言)

▽全斗煥に忠誠誓う

「ハナ会」の全斗煥の後輩らは、車智澈の本国送還の危機について、こんなことを言っていた。

全斗煥少佐は、米国でいっしょに訓練を受けるときまで、車智澈大尉が空挺団の一員として「516」に加わったということを知らなかった。

米国では、南部の湿地帯を横断する訓練があった。

米国で特殊訓練を受ける全斗煥

個人の装備と、やたらと重い機関銃のような重火器を背負って徹夜の行軍をした。重たい重火器は何人かで交代して担いだ。車大尉に順番が回り、それを担いで沼地をかき分けて進まなければならなかった。ところが、小柄な彼は沼地でもがき、泥水を飲んでしまう。それなのに、だれも手を貸そうとはしなかった。ようやく代わってもらえたのは、ほとんど沼地を渡り切ったころだった。車大尉は、はらわたが煮えくり返り、拳を振り上げて米兵に殴りかかった。 

この事件で、車智澈は懲戒委員会にかけられた。このとき、全斗煥少佐は韓国軍の先任将校として懲戒委に呼び出された。崔世昌と張基梧も同じ訓練課程にいたが、先任として全斗煥が呼ばれたのだった。全斗煥はそこで、米兵らを前に拙い英語で熱弁をふるった。

「米軍の兵卒が韓国軍の将校を監督するというのは、自尊心が傷つけられる。そんなところへ、小柄な者に重たい重火器を担がせ、交代してやらないというのは、韓国ではあり得ないことだ。だから、あんな不祥事が起きてしまったのだ」

車智澈は「退校―即刻本国送還」となるところを、全斗煥のおかげで罰点をもらうだけで済んだ。それで、車智澈は全斗煥に自分の過去を打ち明け、「兄貴分として仕える」と忠誠を誓ったというのである。

▽屈辱の査閲式

そんな車智澈だったが、いざ、上司となった途端に変身し、全斗煥をいじめた。

766月、車智澈警護室長としては、過去に負い目があって気まずい存在だった全斗煥を部下に持つことになった。車は、全斗煥を萎縮させるため、「のけ者」にした。そんな下心を見透かしていた全斗煥は、苦しんだ。

友人の盧泰愚に、心の内を打ち明けたりもしていた。盧泰愚は書いている。

「全斗煥将軍にとって最もプライドを傷つけられ、耐え難かったのは、車智澈室長が土曜日ごとに、降旗式[韓国の軍隊や役所などで、始業時に掲揚した国旗を業務終了時に降ろす儀式]をおこなうと言って、景福宮の第30警備団練兵場に来賓(陸軍参謀総長や将官、長官、国会議員ら)を招いて、査閲と分列式をやらせることだった。車室長が臨席上官[閲兵の主役]になり、作戦次長補の全将軍は、練兵場で部隊の指揮をとらなければならなかった。全斗煥将軍は、何度かそのことだけは勘弁してほしいと頼んだが、車室長は一言の下に、はねつけた。車は、査閲式に出るのを最上の喜びにしていたという。わたしは内心、車智澈って人は、ほんとうに意地悪なんだな、と思った」(盧泰愚回顧録)

▽盧泰愚には、親切に

しかし車智澈は、全斗煥の後任として盧泰愚が作戦次長補に赴任すると、聞いていたのとは違い、とても親切に接した。盧泰愚は、全斗煥から聞いていた不満や「警告」とはまるで違っていて感動した。盧泰愚は競争相手ではない、と考えたのだろうか。

あるいは、「爪を隠す鷹」である盧泰愚を見くびり、さらには朴大統領に可愛がられている盧泰愚を自分の味方にしようとしたのか。ともかく、盧泰愚は「車室長はわたしに特別によくしてくれたので、人間的にありがたかった」と回顧録に書き残している。

まったく、相対的なのが人間関係というものなのだろうか。

                        訳:波佐場 清

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