2016年8月9日火曜日

「満州」への旅③――満州建国大学の建物

国立長春大学は、長春の玄関口・長春駅からまっすぐ南にのびるメーンストリート、人民大街と東西に走る衛星路が交差するあたりにあった。

正門に近づくと、角帽、ガウンのアカデミックドレスの学生たちがしきりと記念写真を撮りあっている。中国の大学はいま、この6月が卒業シーズンなのだという。正門をくぐると真正面に大きな図書館が迫り、その前に孔子像が立っていた。







キャンパス内で、通りがかりの何人かの学生や教職員とおぼしき人に建国大学の建物のことを尋ねてみるが、みな、首をかしげてしまう。それらしい建物を探しながらキャンパス内を歩いてみるが、ともかく広い。マツの並木の間に古いレンガ造りの建物も見つかったが、どうやら、それらしくはない。

1時間余り歩き回り、たまたま出会った清掃係りのおばさんたちに聞いてみると、この大学に長く勤務している高齢の職員がいるので、その人に聞いたら分かるはず、とのこと。通訳の王くんが、さっそくその人の部屋を訪ね、聞いてきてくれた。その話というのはこうだ。

建国大学の建物の一部は確かに、このキャンパス内に残っている。それは、この大学の「第2学生公寓」、つまり第2学生寮として最近まで使われていた建物で、いまもそのまま残っている。ここからちょっと離れているが、「第2学生公寓」といえば、学生らにもすぐに分かるはずだ――。

■第2学生公寓
私たちは「第2学生公寓」を探すことになった。しかし、これも容易ではない。「すぐに分かるはず」なのが、聞く学生、聞く学生、ただ「知らない」「分からない」という返事ばかりだ。しばらくして、ようやく「知っている」という教員らしき人に巡り合えた。目指す建物は、正門前の片側3車線の大通りを挟んで反対側にあった。私たちは陸橋を歩いてそこへ向かった。

陸橋から500メートルほど進むと、「学生公寓」とされる建物群が見えてきた。グレーとベージュのツートンカラー、モルタル外壁の3棟が並び立つ。7階建て、3階建て、6階建て。真ん中の3階建てが「第2学生公寓」なのだという。その建物に近寄ってみる。

 



周り全体が人の背丈ほどの高さの金網で囲われている。黄と赤、ツートンカラーの下地に黒字と白字で「危険 請勿靠近」と書いた板が何カ所かに取り付けられている。近寄るな、危険だ、という意味だろう。入り口の観音開きのドアは閉じられ、施錠がなされている。その上部に英文で「The Students’ Home」の浮き文字板。その下方、入り口ドア横の木製板の文字は一部消えかかっているが、目を凝らすと「長春大学 第二学生公寓」と読める。




そばの6階建ての前に、「寮の管理人」という女性がいた。40歳代後半といったところだろうか。通訳の王くんを通じて尋ねると、目の前の3階建ては確かに満州建国大学の建物の一部だったと聞いているという。
 
「ずっと長春大学の学生寮として使われてきていたが、ご覧の通り、老朽化したため2年ほど前から使われていません。横の2棟は、第3学生寮と第5学生寮で、いまも学生たちが使っています」

なるほど、見ていると、6階建てと7階建ての2棟には学生たちが出入りしている。

■イメージと違った建物
改めて3階建ての第2公寓を見てみる。間口は20メートルほど、奥行きは50~60メートルはあろうか。一見、横の2棟と同じように見えるが、違う点もある。他の2棟の窓はいずれも、ほぼ正方形にかたどられているのに対し、この3階建てだけは縦長だ。屋上部分をみると、3階建てだけに、半円筒の換気口のようなものが取り付けられている。

しかし、これが本当に建国大学の建物だったという確実な証拠がつかめたわけではない。確かに、目の前にいる寮の管理人は「そう聞いている」と断言している。そう思って眺めると、確かにそれらしくも見えるが、一方で、疑ってみるとすこし不安にもなってくる。

これが、建国大学の建物の一部だったとすると、建てられてから少なくとも70年以上は経っているはずだ。しかし、その割にはなぜか、「歴史の重み」みたいなものが伝わってこない。

もっとも、これは、私の勝手な思い込みのせいなのかもしれない。

旧満州国の最高学府。あの権威主義が幅を利かせた日本帝国主義の時代、「外地」の京城、台北帝大を含む9帝大と並ぶ大学、ということになれば、その建物もさぞかし、という思い込みである。実際、建国大学の当時の写真を見ると、二階建てのレンガ造りが多かったようだ。重量感もある。それに比べると、この建物は…、というわけである。

長春大学の「第2学生公寓」は、本当に建国大学の建物の一部なのかどうか。建物の内部を覗いて見てみたいという衝動にかられたが、とてもかなわぬ相談だった。ほかにも知りたいこと、聞いてみたいことは山ほどあったが、如何せん、飛び込みの取材である。今回の旅では、この後のスケジュールも詰まっていた。私は文字通り、後ろ髪を引かれる思いでここを去らねばならなかった。

2016年8月5日金曜日

「満州」への旅②――大阪→上海→長春


九州北部に中心を持つ低気圧から伸びる梅雨前線は、東は紀伊半島沖から太平洋へ、西は東シナ海を横切って上海南方へと長い帯をなしていた。朝刊各紙は、政治資金の公私混同が問われた東京都知事、舛添要一氏の辞職が決まったことを大きく伝えていた。私たちの乗った中国東方航空機はその日午前、ほぼ定刻通りに関西国際空港を発ち、厚い雲を抜けて西へ向かった。 

目指すは、まず上海。そこで中国の国内線に乗り換え、吉林省長春に向かうことになっていた。大阪―上海間は順調に飛び、約2時間で浦東空港着。ここも大阪同様、どんよりした空で、蒸し暑い。やたらだだっ広い空港の構内を歩いて乗り換え搭乗口の方に向かった。若い中国人の女性たちのグループが、自撮り棒につけたデジカメに向かってポーズを取り、黄色い声を上げている。


■区別つかない日中韓
関西空港、ソウルの仁川空港、そして、ここ浦東空港…。そこで見かける光景はもう、ほとんど大差がない。これが20年前、いや10年前までだと、明らかに差があった。日本人、韓国人、中国人。若い女性たちの場合、服装、髪形、化粧法で、だいたい区別ができたものだが、いまは耳をそばだて、言語を確認してからでないと容易に判断は下せない。

空港構内で簡単な食事を済ませ、国内線出発ロビーで長春行きの便を待つ。予定の時間がすぎても搭乗手続きが始まらない。1時間ほど遅れてようやく機内に乗り込んだ。窓越しに見る滑走路を雨がしきりに打っている。出発の遅れは梅雨前線の影響なのだろうか。ともあれ、定刻より1時間余遅れ、午後5時すぎ、浦東空港を飛び発った。

これから、北東方向に長春へと向かう。いったん東シナ海に出るのだろうか、山東半島、遼東半島は…。そんなことも楽しみにしていたのだが、いかんせん、空の上は見渡す限り、雲の海である。

■満州の夕日
日本より1時間遅れの現地時間で午後7時過ぎ、ようやく雲が切れ、左手前方に夕日が見えてきた。これが、先輩、小林慶二さんのあこがれていた、あの満州の夕日なのか。確かに赤くはあるが、「大地を真っ赤に染め、ギラギラとした」と小林さんが表現したようなものなのかどうか。空の上、飛行機の窓越しではいま一つ、よく分からない。

やがて眼下に大地も見えてきた。すこし黒ずんだ、肥沃そうな土に、緑の作物が行儀よく植わっている。まだ大きく育っていないようだが、トウモロコシ畑のようだ。

午後7時半すぎ、長春空港着。空港構内から外へ出ると、木々の緑がいきなり目に飛び込んでくる。空気が澄み切り、乾いている。梅雨から、いきなりさわやかな秋に飛び込んだかのようである。タクシーをつかまえ、高速道路を突っ走って市中心部のホテルに向かう。大阪の街を見慣れた目には、道路周辺のアパート群がやたら大きく映る。

■長春の朝
翌日、旅行2日目の長春。前夜、さわやかに感じられたこの地の空気だったが、朝から、どんよりし、湿度もけっこう高そうだ。この日は、日本からのセミナー参加者らと共に終日、長春市内のフィールドワークにあてている。吉林大学の修士課程で「日本経済」を専攻する学生、王さんに通訳とアテンドをお願いしてあった。

見たいところは山ほどあった。小林さんの本、『観光コースでない「満州」』に載った写真だけを拾っても、旧満州国国務院(現在・吉林大学医学院)▽旧満州国軍事部庁舎(吉林大学第一附属病院)▽旧満州国皇宮(偽皇宮博物館)▽旧満州国新宮殿(吉林大学地質学院)▽旧満州中央銀行(中国人民銀行長春支店)▽旧ヤマトホテル(春誼賓館)…。

とても1日では回りきれない。私の頭の中には、絶対に外せない最優先のスポットとして建国大学が組み込まれていたことは言うまでもない。宿泊したホテルに近いというラッキーさもあり、午前中は、ともかくその建国大学跡と、旧満州国で李香蘭(山口淑子)らの活動拠点となった国策映画社、満州映画協会(満映)撮影所跡を見ることにした。

■「スパイ容疑」
小林さんの本も、長春については建国大学のことから書き始めている。その理由について小林さんは、「五族協和、王道楽土」という満州国建国の理念をもとにこの大学が設立されたからである、と説明している。この大学を満州国の象徴として捉えたのである。書き出しはこうである。

《二〇〇二年九月一〇日、私たちは(私とカメラマンの福井君、通訳の金赫さん)長春駅から人民大街を南下した軍の施設のある一角にいた。空軍士官学校(空軍長春飛行学校)の敷地で、その中に満州建国大学の建物の一部が残っているという。あまり高くない塀に沿って内部をのぞいてまわると、レンガ造りの古い建物が見えた。満州建国大学の宿舎か食堂だったらしい。福井君が塀越しに写真を撮り、しばらく付近を徘徊していると、壊れかけたお寺があった。「長春の靖国神社と言われたお寺(?)らしいですよ」と金さんがいう。福井君がシャッターを切り始めた。

ふと気がつくと、一人の男がわれわれをじっと見詰めている。近辺には「写真撮影禁止」という掲示は見当たらないが、ただならぬ気配である。すぐに撮影を切り上げ、立ち去ろうとしたら、一〇人近い憲兵に取り巻かれ、有無を言わせず士官学校の本館に連行された。…》

小林さんらはスパイの容疑をかけられた。写真の現像が終わり、軍事機密を撮影していないことが確認されるまで拘留する、もし怪しい写真があれば、身柄を警察に引き渡す、とすごまれた。結局、容疑は晴れ、無事放免となったのだが、フィルムの現像の仕方がまずく、せっかくの写真がすべて使いものにならなくなってしまったのだった。

今回、私は王くんにまず建国大学のことを聞いてみたが、まったく知らないという。ともかく、小林さんが行った場-所に行ってみるしかない。というわけで、私たちは空軍士官学校に向かうことになった。そこと見られる場所に着き、カメラを肩にかけて車から出ようとすると、それまでほとんどしゃべらなかった運転手が「ここでは写真撮影はいけない」と無愛想な表情で機先を制すのだった。

どこの国であれ、軍の施設とあれば、撮影が制限されるのが常識だろう。そうでなくとも、私は小林さんの体験のことを肝に銘じ、初めから慎重にならざるを得なかった。それでも、簡単に諦めるわけにはいかない。すこしばかりの緊張を抑えながら小林さんが見た、それらしき建物がないか、と鉄柵の隙間から内部をうかがって見るが、近代的な建物ばかりで、どうも見当たらない。

鉄柵沿いに歩いていくと、正門と見られるゲートにたどり着いた。守衛の兵士らが警備にあたっている。ばつの悪さを感じつつ、間合いをはかって「ここらで、記念写真を一枚撮りたいのですが…」と王くんを通じて頼んでみると、兵士らは「とんでもない」とばかり、激しく両手で払いのけるようなポーズをとって制するのだった。
 

■長春大学へ
これではどうしようもない。辺りには、この季節、この地の風物詩という柳絮がまるで雪のように舞っている。歩道をそのまましばらく歩き、道路の反対側に渡ったところで、歩道上に立ちつくし、考え込んでしまっている時だった。ずっとスマホをのぞき込んでいた王くんが、突如、顔を上げて話しかけてきた。

「その建物はどうやら、長春大学のキャンパスにあるようです。ここから遠くはなく、すぐ近くです」

あとで分かったことだが、中国最大の検索エンジンを提供する百度の「百度百科」で「満州建国大学」と入力すると、次のような内容のものが見つかった。
 
《かつての新京にあった。略称「建大」。1938年5月にでき、1945年8月、偽満州国の滅亡に伴ってなくなった。卒業生1500人……。その建物の一部は今、長春大学で使っている。…》

三浦英之氏の『五色の虹』は巻頭に1941年当時の「新京市街図」を載せている。それを見ると、建国大学は満州国の時代、首都新京の街づくりにあたって日本が造成し、いまもそのまま残る人造湖「南湖」のすぐ南に位置していた。敷地はとてつもなく広大だったという。場所的に見ても、長春大学とぴったりと一致する。私たちはともかく、長春大学に行ってみることにした。

2016年8月2日火曜日

「満州」への旅――『観光コースでない「満州」』と『五色の虹』

中国・東北地方、吉林省へ行ってきた。日本支配下の「満州国」の時代、新京と呼ばれた省都・長春では、かつての「満州国」の最高学府、建国大学の校舎の一部だったという建物を見た。吉林市では北朝鮮建国の祖、金日成が少年時代に通った中学校を見、日本の敗戦で開拓地を追われた多くの日本人難民が酷寒と飢えの中で死んでいったといわれている場所を訪ねてみた。北朝鮮と国境を接する延辺朝鮮族自治州では、豆満江越しに北朝鮮の様子をうかがってみた。 
      波佐場 清(ジャーナリスト/立命館大学コリア研究センター上席研究員)
 
6月中旬、長春にある国立吉林大学で開かれた学術セミナーに参加したついでに周辺にも足を延ばした。セミナー参加も含め5泊6日、駆け足の旅だった。「ガイドブック」にしたのは主に、文・小林慶二/写真・福井理文『観光コースでない「満州」』(高文研)と三浦英之著『五色の虹』(集英社)の2冊である。 
 
■『観光コースでない「満州」』 

『観光コースでない…』の小林慶二さんには個人的に格別の思いがある。先年鬼籍に入られたのだが、かつて私が所属していた新聞社の先輩で、カイロ支局長やソウル支局長、編集委員などを勤めた。私自身、新聞社ではソウル駐在を含め朝鮮半島取材が長かったが、人の紹介から取材法、はては記事の書き方に至るまで文字通り手取り足取り、特別の手ほどきを受けた。

 小林さんは私より一回り先輩の1935年生まれだった。定年の少し前に新聞社を辞め、九州国際大学に勤めていた。「満州」取材は九州国際大に移ってから本格的に着手した。以来、6、7年にわたって現地に何度も足を運び、日露戦争終結百周年に当たった2005年にこの一冊をものしたのだった。 

小林さんの人柄がそのまま滲み出た本である。「新聞社で偉くなってもしょうがないぞ」と口ぐせのようにいい、最後まで一線の現場にこだわった。新聞記者といえば、どこか世間ズレしたタイプもときどきいるが、それとは対極の、最後まで「書生」のような人だった。

父方か母方かは聞き洩らしたが(あるいは私の方で忘れてしまったのかもしれないが…)、たしか東北、青森にルーツがあり、戦後、そこで代用教員をしながら受験勉強をし、東大に進んだ。そんな経歴も私には魅力で、あこがれの先輩だった。 

小林さんは、「満州」に取り組んだ動機と取材しての感想を、この本の<はじめに>と、<おわりに>で、次のように書いている。 

■「赤い夕日の…」 
<はじめに>
《日中戦争からアジア太平洋戦争の時代にかけ、東京の下町で路地裏を駆け回りながら、母の経営する喫茶店の電蓄(電気蓄音機)から聞こえてくる流行歌を〝子守歌〟として育った私にとり、歌詞によく使われた「赤い夕日の満州」は漠然とした憧れの対象だった。教科書だったか記憶は定かではないが、「コーリャン刈って広いなあ どっちを見てもひろいなあ」という児童詩の一節も、私の夢をくすぐった。「狭い日本にゃ住み飽きた、支那には四億の民がいる」という歌を年上の子どもから教わり、想像はふくらんでいった。だが、敗戦と同時にこうした歌は聞こえてこなくなった。そして「満州」は私の記憶の片隅で冬眠に入った。

その「満州」が再び私の意識のなかに戻って来たのは、新聞社を定年前に辞め、大学に赴任してからである。大学で「アジア概論」を担当した私は、授業の中心に「日中・日韓関係」と「歴史認識問題」を据えた。この二項目を十分に理解させない限り、アジアで通用する人材、アジアから信頼される日本人の育成は不可能だと考えたからである》

<おわりに>
《(満州の夕日は)大地を真っ赤に染めギラギラとした太陽が沈んでゆくのだという。まるで明日の活動のエネルギーを保証し、「明日もがんばれよ」と励ますように。残念ながら10回を超える満州取材では、そうした素晴らしい「夕日」を見る機会には恵まれなかったが、「真っ赤な満州の夕日」が日本人、とりわけ冷夏に悩まされた東北の開拓民には素晴らしい自然の惠みと映ったであろうことは十分想像できる。 

この本を書きながら、なぜ日本が破滅の道を辿ったのかを、何回も考えた。マスコミの責任も大きい。日露戦争が、世界中を駆け回って集めた借金で武器を買い、ようやく勝った戦争であることを正確に国民に知らせておけば、その後の軍部の独走は防げたのではないか。旅順虐殺を正しく報道していれば、南京虐殺は起こらなかったかもしれない、などなど》

ここで書いているようなことは、取材、執筆中の小林さんから直接、何度も聞かされていた。そして、そんな「満州」はいつの間にか私にとってもどこか重たくのしかかってきていた。朝鮮半島取材で何度も突き付けられた歴史認識問題……、そのことと「満州」は決して切り離すことはできず、その本質に迫ることもできない。馬齢を重ねるうちにそういう思いが、ますます強くなってきた。

「満州」への旅は、実をいうと、初めてではなかった。小林さんの本が出た後、2006年に北朝鮮に対する関心もあって中朝国境の豆満江沿い一帯は見ていた。ただ、その時はそこらあたり一帯だけで、長春や吉林は今回が初めてだった。 

■「五族協和」の夢
 もう一冊の『五色の虹』は2015年12月に出た新しい本である。帯に、「2015年第13回開高健ノンフィクション賞受賞」とうたい、次のように書いている。
 

旧満州、最高学府、建国大学。

「五族協和」を実践すべく、集った若者たち。

歴史の闇に消えた大学で、

スーパーエリートたちが夢見たものとは。

生き抜いた戦後とは――。





著者の三浦英之氏は1974年生まれ、と若い。

やはり、私が所属していた新聞社の現役記者である。後輩とはいえ、年がぐんと離れており、面識はない。本の中身は、帯に書いてある通りであるが、少し補足すると、こうである。
 
――日中戦争当時、日本の傀儡国家、満州国で、その国家運営を担う人材養成のために設立された建国大学。「五族協和」の掛け声のもと、当時日本の植民地であった朝鮮、台湾を含む日本全土と満州国全域から民族を越えて選び抜かれ、共同の寮生活を送った俊秀たちはそこで何を考え、日本の敗戦で一転、足場のすべてを失った彼らは戦後をどう生き抜いたのか。

三浦氏は、日本国内はもとより、大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、カザフスタンに生存者を追い、その波乱の人生を辿ったのである。

この本が出たあと、どこかで書評は読んでいた。いずれ、と思っているうちにこの本のことをすっかり忘れ、時間だけが流れていた。今回、長春に発つ数日前、ふと思い出して書店に駆け込み、帰りの電車でページをめくると、そのまま吸い込まれていった。才を感じさせる、読ませる文章でもある。小林さんの本に加えて、私は急遽、この一冊も旅のスーツケースに詰め込んで旅立ったのだった。

 

2016年2月20日土曜日

平和協定へ話し合いを/金大中さんと夢の中でインタビュー②



夢の中での金大中大統領とのインタビューは続く。
―この緊迫した状況、どうしたらいいのでしょうか。

「具体的な方策の前に、まず北朝鮮が何を考えているのかを知っておく必要がある。なぜ、核実験やロケット発射を繰り返すのか。そこには国内的な理由―、国威発揚とか、5月の第7回労働党大会に向けて金正恩第1書記の求心力を高めるといったことも確かにあるだろう。しかし、それはなにも今回、金第1書記が初めてやっていることではない。核実験もロケット発射も金正日総書記の時代から繰り返している」

■平和協定求め、米国にサイン
「重要なのは、背景にあるもの―一言でいえば、要するに米国に対する脅しと言おうか、一つのサインなのだ。1950年6月に勃発した朝鮮戦争は法的にはまだ終わっていない。休戦状態でしかない。言ってみれば、『一時撃ち方やめ』の状態。だから不安定で、韓国と北朝鮮の間に引かれた休戦ラインを挟んでしょっちゅう小競合いや衝突が起きている。そこで、そんな休戦体制を平和体制に変えよう、いまの休戦協定に代わる平和協定を結ぶ話し合いをしよう、と北朝鮮は米国に求めている」

「これは、北朝鮮の一貫した主張なのだが、今回とくに昨年1月から、平和協定の締結を真正面から掲げて米国に話し合いを迫っていた。それを米国は『核放棄が先決』とする『戦略的忍耐』政策で事実上、無視してきた。北朝鮮にとって米国との平和協定締結は自らの体制の生き残りをはかるうえで欠かせない。核実験とロケット発射は、今の休戦体制がいかに危ういものであるかを米国と国際社会に再認識させることで、米国を交渉に引き込もうとしている面がある」

<朝鮮戦争休戦後、北朝鮮は南北間の平和協定を求めていたが、1970年代に入って「米朝間」を求めるようになった。「朝鮮半島に展開されている武力の統帥権を握るのは米軍と朝鮮人民軍だけだ」とする論理だ。80年代に入って、これに韓国を加えた「3者会談」を提案。以来、「米朝で平和協定、南北で不可侵宣言」という基本路線を維持している。90年代に入ってからは、休戦協定に代わる米朝間の「新しい平和保障システム」づくりを主張、現在の休戦体制がいかに危ういかをアピールしようとしているとみられる「意図的な挑発」も繰り返している>

<北朝鮮側のこうした「平和攻勢」を、韓国側は「在韓米軍を撤退させ、その隙をついて南侵を企てようとしている」と警戒してきた。休戦協定に替えて平和協定が結ばれる、つまり平和が保障されれば、韓国内に外国軍隊が駐屯する理由はなくなる―という論理を北朝鮮は展開してきたからだ>

―核実験やロケット発射は国際ルール違反だ、というのが日米韓に限らず、中国も含めた国際世論です。北朝鮮の主張は、国際社会では通用しません。

■圧力では解決しない
「日米韓は制裁と圧力一辺倒で、これは極めて危険だ。北朝鮮は果たして圧力をかければ降参して核を手放すだろうか。そんな柔な政権なら、とうに崩壊してしまっている。だから、やっかいなのだ。『太陽政策』と逆の『北風路線』は北をますます頑なにさせ、却って核にしがみつかせる結果を招いている。『核も経済も』という北の『並進路線』は要するに、南北の国力格差が大きく広がる中、米韓の軍事圧力に対抗していくうえで一発逆転の核兵器だけに集中した方が、経済的に安上がりになる、という路線だ」

「その点、中国は北の核実験とロケット発射を厳しく非難する一方で、国連制裁をめぐり『制裁そのものが目的でなない』と慎重な姿勢を見せている。追い込むだけでは解決につながらないことがよく分かっているからだ。実際、崩壊などということになれば大混乱で最悪の事態が予想される。中国は朝鮮半島の非核化を求めると同時に、休戦協定を平和協定に転換することも求めている」

<中国の王毅外相は2月17日、訪中のオーストラリアのビショップ外相との共同記者会見で、朝鮮半島の非核化と、休戦協定の平和協定への転換を並行して進める考えを明らかにした。(http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM17H7X_X10C16A2FF1000/)>

―その中国は6者協議の再開を模索していますが、簡単ではなさそうです。米韓は北朝鮮が核放棄に向かうことを再開の前提にしているし、北朝鮮は自ら「核保有国」と宣言し、憲法にまで書き込んでいます。6者協議はその目的を「朝鮮半島の非核化」としており、再開は容易ではなさそうです。

 ■4者会談も考えるべきだ
「ここ8年間開かれていないとはいえ、枠組みは残っている。これを何とか生かしたい。もし、6者協議がどうしても難しいというなら、南北と米中による4者でもいいではないか。実際、1990年代後半に4者会談は開かれてもいる。2005年の6者協議共同声明(「9・19声明」)や、廬武鉉大統領と金正日総書記が交わした2007年の首脳宣言(「10・4宣言」)でも、そういう趣旨のことが盛り込まれていた」

<4者会談は「(朝鮮半島で)恒久的平和協定を達成する過程を始めるため」(1996年4月の米韓首脳会談共同声明)とする米韓の提案により、97年末から99年夏にかけジュネーブを舞台に6回にわたって開かれたが、北朝鮮側が主張した「在韓米軍撤退」問題などを巡って紛糾し、成果は得られなかった>

<2005年の6者協議「9・19声明」は、「6者は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束した」とし、「直接の当事者は、適当な話し合いの場で、朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する」と、「直接の当事者」に絞った協議にも言及している>

<2007年の「10・4宣言」は、「南と北は現在の休戦体制を終わらせ、恒久的平和体制を模索していかなければならないということで認識を同じくし、直接関係のある3者または4者の首脳が朝鮮半島地域で会い、終戦を宣言する問題を推進するために協力していくことにした」とした。ここで「3者」とは南北と米国、「4者」はその3者に中国を加えたフォーラムを意味していたとみられている>

―朴槿恵大統領は今、制裁と圧力だけを考えているようです。この間、中国への配慮から慎重だった在韓米軍への高高度迎撃ミサイルシステム「THAAD(サード)」配備についても米国と協議を始めています。3月7日から予定している米韓合同軍事演習も「最先端、最大規模で行う」と宣言しています。

 ■新冷戦への引き金
「平和とは全く逆方向に進もうとしている。本当に心配だ。とくに、米国のアジア太平洋リバランス戦略に組み込まれる在韓米軍へのTHAAD配備は、朝鮮半島を中心とした東北アジア地域を米中対立、新冷戦の最前線に変えてしまう。その配備は、この地域の軍事バランスを崩すことになり、中国はミサイル配備の増強で対抗してくるのは間違いない。韓国が東北アジア新冷戦の引き金を引くことがあってはならない」

「朴槿恵大統領は本来、オバマ大統領を説得し、平和の方向に導いていかなければならないのに、本当にもどかしい。地政学的に言っても、また現在の国際的な地位から見ても、東北アジアにおける韓国の存在感は十分に大きくなっているのだ」

「私が大統領の時代、当時のクリントン米大統領に米朝の対話を強く働きかけた。結果、オルブライト国務長官の訪朝が実現し、いよいよクリントン大統領の訪朝というところまでいった。結局、クリントン大統領の任期切れが迫り、中東和平の動きが急を告げたことで実現には至らなかったが、あのとき、クリントン大統領の訪朝が実現していたら、朝鮮半島の歴史は変わっていた。北朝鮮が核兵器を持ってしまっているなど、当時と状況は違ってきている面もあるとはいえ、その気になれば朴大統領は大きな役割を果たせる」

 ■早急に4者会談を開くべきだ
「繰り返しになるが、北朝鮮が求めているのは米国との平和協定だ。韓国も加わり、そこに向けて4者会談のようなものを早急に開いていくべきだ。北朝鮮の在韓米軍撤退要求も言葉通りに受け取る必要はない。実際、2000年6月の南北首脳会談のさい、金正日総書記は私に『米軍は引き続き朝鮮半島にいた方がいい。北東アジアの力関係からいって、統一後も残るべきだ』とはっきり言った。その点、金正恩第1書記も十分にわかっていると思う」

<在韓米軍をめぐる南北首脳会談のやりとりは『金大中自伝Ⅱ 歴史を信じて 平和統一への道』(波佐場清、康宗憲訳/岩波書店)240ページ参照。
http://www.amazon.co.jp/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%AA%E4%BC%9D%EF%BC%88II%EF%BC%89%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%81%A6%E2%80%95%E2%80%95%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%B5%B1%E4%B8%80%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E9%87%91-%E5%A4%A7%E4%B8%AD/dp/4000225820/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1455939334&sr=1-2

この問題に関しては、金大中政権下で「太陽政策」を推進した林東源元統一相の回顧録『南北首脳会談への道』(波佐場清訳/岩波書店)に詳しい。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8D%97%E5%8C%97%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%9E%97%E6%9D%B1%E6%BA%90%E5%9B%9E%E9%A1%A7%E9%8C%B2-%E6%9E%97-%E6%9D%B1%E6%BA%90/dp/400024163X/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1455939334&sr=1-3>

―クリントン大統領の訪朝が実現しなかったのは惜しまれます。とはいえ、目の前の現実を見るとき、北朝鮮は自ら「核保有国」を名乗って核実験を繰り返し、今回、「水素爆弾」とまで言っています。北朝鮮に核を手放させるのは簡単ではなさそうです。

 ■北の生存を認めたうえで…
「その通りだと思う。その点、米国のキッシンジャー元国務長官の考え方が参考になると思う。北朝鮮が核を持つのは体制の崩壊を恐れているからなのだ。いまの体制の生存の問題を含まない枠組みを用意し、そこで解決していくしかない」

<元外務省国際情報局長の孫崎享氏はその著書『これから世界はどうなるか----米国衰退と日本』(ちくま新書)などで、キッシンジャー氏の次のような指摘を紹介している。『核兵器と外交政策』(田中武克・桃井真訳、日本外政学会 絶版)からの引用を、そのまま孫引きすると、次のような内容である。

▽核兵器を有する国はそれを用いずして全面降伏を受け入れることはないであろう。

▽一方でその生存が直接脅かされていると信ずるとき以外は、戦争の危険をおかす国もないとみられる。

▽無条件降伏を求めないことを明らかにし、どんな紛争も国家の生存の問題を含まない枠をつくることが米国外交の仕事である>

―日本はどんな役割を果たすべきでしょうか。安倍晋三首相は「日米韓の協力」を強調するだけで、独自の策がよく見えてきません。

「安倍政権は拉致・核・ミサイル問題の包括的な解決、と言いながらその実、拉致問題だけを突出させてきた。拉致問題は重要な人権問題であることは言うまでもない。しかし、いまのやり方を見ていると本気で解決しようとしているようには思えない。核・ミサイルの問題も、ただ米国に追随しているだけだ」

「日朝の国交正常化は東北アジア地域の平和に欠かせない。それは日本の過去を清算する問題でもある。拉致問題をめぐる日朝の交渉においても日本はそのことをもっと前面に打ち出していくべきだ。そうすれば、北朝鮮も前向きになり、拉致問題解決の展望も開けてくるというものだ。安倍首相の国会での施政方針演説も、第2次内閣になってからは一度も過去清算や国交正常化に触れていない。前任の野田・民主党政権では毎回、安倍政権でも第1次内閣のときは、それでも言及だけはしていたのに…」

―具体的にどうすべきでしょうか…
と、聞こうとしたところで、目が覚め、夢も途絶えてしまった。残念だが、どうしようもない。この続きは、金大中大統領がまた夢に現れるまで待つしかない…