■替え歌の風刺曲は著作権法違反?
1982年夏、盧信永率いる安企部は、流行歌を労働運動の替え歌にして歌うことに不審の目を向けた。
反政府・反政権ムードの広がりについて詳細かつ深く観察した結果だった。盧信永体制の安企部は、保安司令部やかつての中央情報部、あるいは兪学聖時代の安企部とは、また違う知能的なアプローチを見せた。
▽貧民運動の牧師
震源を探ってみると、民青学連事件[1974年4月、朴正煕政権下で起きた民主化運動弾圧事件。金芝河、尹潽善氏らが逮捕された]の擁護者として知られ、貧民運動の先頭に立ってきた許炳燮牧師(2012年、71歳で没)だった。かれは小説『ドヤ街の人びと(꼬방동네 사람들)』(李東哲著)の実際の主人公であり、労働現場で闘ってきていた。
眠たくてたまらないのに 眠ることもできず
睡魔と闘って 働く この身の上
社長が分かってくれようか 奥様が分かってくれようか
回っておくれ ミシンよ 夜を徹して
歌手の李美子[国民的女性歌手。「韓国の美空ひばり」ともいわれた]が歌った「泣けよ 熱風」(울어라 열풍아 - Google 検索)の替え歌である。許炳燮牧師は、こんな具合に労働現場で風刺的に歌われる「抵抗の替え歌」を集め、『労働と歌』と題する本にして配布していた。
▽著作権法違反で起訴
安企部が許牧師を連行(ソウル中部警察署が代行)し、そのような歌が広がるのを阻止しようとした。ところが、いざ処罰するとなると、当然のことながら、検察にも適用する法規が見当たらなかった。ソウル地検公安部は窮余の策として「著作権法違反」で起訴した。
著作権法違反事件を公安部でやるという奇異なことが生じたのである。
2審の弁護を担当した韓勝憲弁護士(のちに金大中政権で監査院長)は、詩人の申庚林氏[1936~2024/民衆的叙情詩人として知られ、日本の谷川俊太郎との親交もあった]を裁判の証人として呼んだ。
「申庚林証人は、テレビの替え歌番組を見たことがありますか」
「はい、あります」
「その番組では、上手に歌った人に、賞をあげていたでしょうか、罰を与えていたでしょうか」
「豪華な賞品をあげているのは見ましたが、罰を受けるのは見たことがありません」
「では、どうしてこの事件の被告人は裁判を受けることになったのでしょうか」
「労働者たちが喜んで歌う替え歌が現実に批判的だからで、政府が弾圧しているのだと思います」
▽2審無罪、最終判決は有罪
この2審の裁判は無罪となり、大成功を収めた。
著作権の侵害には当たらない、という判決だった。
しかし、安企部はだまってはいなかった。兪泰興・大法院長率いる大法院に手を回し、最後にはひっくり返して破棄・差戻しから有罪に持ち込んでしまった。韓勝憲弁護士は「大法院判事らの見識と、ものを見る目に失望した」と述懐している。
歌の歌詞一ついい加減に見逃さず、裁判所も裏で操った。
▽金大中の救命運動
金大中は、依然として全斗煥政権の喉に引っかかったトゲだった。
1981年1月に死刑から無期、その後さらに懲役20年へと減刑されたが、米国や日本で釈放を求める運動や嘆願が止まなかった。
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| 清州刑務所に収監された金大中(手前)と面会する家族たち(中央が李姫鎬夫人)=1982年 |
82年2月初め、政務首席秘書官の許和平が、金大中夫人の李姫鎬に電話してきた(以下、『李姫鎬自伝』)。
ソウルのプラザホテルの21階で会おう、という。3・1節(独立運動記念日)に合わせて特別赦免でもしてくれるのだろうか…。
「どうして、海外で救命(釈放)運動をするのですか」(許)
「あの方たちが自ら進んでやってくれているのでしょう」(李)
「国内で救命運動は、なされないのでしょうか」
「……」
「(大統領)閣下に会われたいと思いませんか」
「会わせていただけるというなら、お目にかかります」
「では、のちほど、時間と場所を連絡します」
▽李姫鎬夫人、全斗煥と面会
何日かして許和平が、今日がその日だ、と連絡してきた。
そして、公衆電話からまた、かけ直してほしいという。青瓦台の人間も盗聴は嫌なのだろうか。公衆電話から電話をすると、許は言った。
「タクシーで、午後6時に博物館の西門のほうへお越しいただければ、チョン(정)秘書官がご案内します」
小さな平屋の建物に案内された。全斗煥は入って来るなり、こう口を開いた。
「李夫人もご苦労が多いでしょう」
「釈放していただきたく存じます」
「それは、わたし一人では決められません。他の者たちもいることなので難しいのです。しかし、こんご、よくなっていくでしょう」
口達者な全斗煥は2時間余り、李姫鎬と話した。
訳:波佐場 清
