2023年12月4日月曜日

漢江下流域から公州へ/百済歴史散策②

ツアーは「白村江の戦い 百済歴史散策 扶余・公州・益山・瑞山 4日間」というものだった。大阪の南海国際旅行社が企画した。扶余(プヨ)、公州(コンジュ)、瑞山(ソサン)はいずれも忠清南道、益山(イクサン)はすぐ南に隣接する全羅北道にある。 

白村江の戦い――。手っ取り早く、たとえば手元の辞書を引いてみる。 

  663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。(広辞苑) 

で、その白村江(はくそんこう)とは? 

  朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。はくすきのえ。白江。(同) 

■清州から公州へ

112日(木)11時、エアロKAero-K)機で関空を発ち、軍と共用の清州(チョンジュ)空港(忠清北道)から韓国に入った。飛行時間1時間半余。ツアー参加者23人、男女ほぼ半々、夫婦連れも何組かいた。多くが私たち同様、現役を退いたとみられる人たちだったが、比較的若い人もまじっていた。 

清州空港を出ると大型バスでまず、公州に向かった。標高200300メートルほどの山々の間をぬう高速道路を1時間。色づき始めた木々や、刈り取りを終えた田に並べられた稲わらのロールが秋の陽ざしに映えていた。 

公州ではまず、公山城に案内された。手渡された日本語のパンフレットには「百済の息遣いが感じられる世界遺産都市・公州」「公山城は、熊津百済の時期を代表する古代城郭である」などとある。


 熊津百済? 韓国、朝鮮半島にはそれなりに関心があり、新聞記者としてソウルに駐在したこともある。しかし、目先のニュースに追い立てられ、歴史、とくに古代史についてはほとんど勉強してこなかった。このあたりを訪ねた記憶はあるが、基礎知識に乏しく、ただ風景として眺めているだけだった。 

今回、関連した本を何冊か買い、書棚でほこりをかぶっていた何冊かを読み返した。学生時代の試験前の一夜漬けにも似た、にわか勉強である。 

■「三国時代」

そもそも百済とはどんな国だったのか――。新羅、高句麗とあわせて語られる朝鮮半島の「三国時代」とはどういう時代だったのか。 

大阪で何かとお教えをいただいた歴史家姜在彦先生(1926 2017)の『新版 朝鮮の歴史と文化』(明石書店)と『歴史物語 朝鮮半島』(朝日選書)に沿って私なりにかみ砕くと、次のようである。 

  高句麗は始祖伝説によると、朱蒙(チュモン)が紀元前37年、いま中朝国境になっている鴨緑江の右岸(中国側)地域を拠点に国を開いた。313年に楽浪郡を占領するなど中国勢力を朝鮮半島から追放。4世紀末~5世紀、「好太王碑」(中国吉林省に現存)で知られる広開土王(在位392413)と、平壌に都を移した次の長寿王(413491)の代に大きく勢力を伸ばし、南方の百済と新羅を圧迫した。 

 百済は、馬韓諸部族を伯済族が統合して建国した。始祖の温祚王は高句麗の朱蒙の次男とされ、前18年に即位。漢江下流域、今のソウル江南地域の漢城に都を定めた。371年、百済の近肖古王(346375)は平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させた。百年後の475年、こんどは高句麗の長寿王が百済を攻め、百済の蓋鹵王を殺害。後継の文周王は百済発祥の地である漢江流域を放棄し、錦江中流の熊津(ウンジン/いまの公州)に都を移した。

6世紀の朝鮮半島 『詳説日本史B』(山川出版) 

 新羅は半島南東部の辰韓諸部族を斯盧族が統合して国を開き、慶州(金城)に都を置いた。始祖は朴赫居世(パクヒョッコセ)なる人物で、前57年に即位したとされる。長く土着的な色彩を帯びていたが、6世紀初め、法興王(514540)が仏教を公認するなどして中央集権的な国づくりを進めた。 

そんな6世紀、3国に大きな動きがみられた。百済の聖王(在位523554)は高句麗の圧迫もあって538年、熊津から泗(サビ/いまの扶余)へ遷都。新羅の真興王(540576)と結び、551年に旧王都の漢城をいったん高句麗から奪回した。 

ところが新羅は、その漢城を百済から奪い取った。半島南東端に位置した新羅にとっても中国大陸に海路がつながる漢江河口への進出は宿願だった。新羅の裏切りに激怒した聖王は554年新羅軍を攻めたが、返り討ちに遭って殺された。以来、百済はそれまで敵であった高句麗と手を結んで新羅と敵対していった。 

6世紀前半ごろまでの動きは、ざっと以上のようである。漢江流域を確保して三国競争の主導権をとった新羅は、このあと北方に勢力を拡大、南方の洛東江河口付近にあって日本(倭軍)も進出していた加耶諸国(任那)も併合していった。新羅はその後さらに唐と結んで百済、高句麗を滅ぼし、7世紀後半、半島の統一を成し遂げたのだった。

王宮跡

さて、私たちが訪れた公山城。案内パンフの「熊津百済」とは、いま見た通り、公州に都を置いた475年から538年まで60余年間の百済をいうのである。日本ではヤマト政権が関東や九州中部にまで支配体制を広げていった時代だった。 

そのころの日本の海外との関係についていえば、「倭の五王」最後の王、武王(雄略天皇)が中国南朝の宋(420479)に朝貢したのが478年。北九州で筑紫の豪族が新羅と結んでヤマト政権に抗った「磐井(いわい)の反乱」は527年のことだった。 

公州城の城郭は錦江に接した標高百メートルほどの山の稜線を中心に渓谷を包み込むかたちで築かれていた。総延長2・6キロ余。百済時代は土城だったが、朝鮮王朝時代に石城に改築され、土城が残るのは一部だけという。 

城内に入ってなだらかな坂道を登った。頂上付近が平地になっており、小さな池の跡が見えてきた。


のぞいてみると深さ10メートルほど。底に石が敷かれ、側壁もぎっしりと石が積まれている。ここらあたりに王宮があったとみられ、池は防火用などに使われたようだという。発掘作業はいまも続いている。 

帰路、城郭の上の狭い歩道を伝って下におりた。遠くに公州市街が見える。人口は年々減って現在11万。観光が主要産業で、国立公州大学は教員養成の名門として知られ、全国から学生を集めているという。

 この公州市と隣接の扶余郡、益山市の3地域に分布する遺跡地が「百済歴史遺跡地区」として2015年、ユネスコの世界遺産に登録された。私たちは公州市内に宿所を定め、この地域の遺跡を主に巡っていくことになる。 

次は、公山城のすぐ近くにある武寧王陵と、そこから出た遺物を主に展示する国立公州博物館だった。(つづく)

         波佐場 清

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