2026年7月2日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(35)

  「金大中だけだと、全羅道が反発…」

ここでもう一度、1980518日に戻りたい。その日の朝が明けた。

 南山の中央情報部の食堂で、李鍾賛・総務局長と出くわした捜査局長の金根洙(のちに国会議員、尚州市長など)が暗い表情でこう言った。

 「金泳三はそのままにしておいて、金大中だけをあのようにしょっ引いたら、全羅道が反発し、抗議の騒動が起こるだろうに…心配です」(李鍾賛の回顧)

 ▽全南大学で衝突

 かれの予感通りになっていた。光州で深刻な事態が起きていた。

 全国に休校令が出されていたが、国立全南大学ではその日の朝も、学生たちが学内に入ろうとして空挺部隊員らに制止された。戸惑い、うろうろしている学生たちにたいして軍人らは、解散しろと命じたが、学生の数はどんどん増えるばかりで、衝突は激しくなっていった。光州で、未曾有の悲劇が始まっていた。

全南大学の正門横には1980年5月18日にここで撮った写真パネルが展示してあった=2024年5月、訳者写す


全南大学正門付近=2024年5月
 ▽金泳三の抵抗

 518日午前、野党新民党のリーダー金泳三は、党の政務会議を開いた。

 金大中や金鍾泌ら、前夜のうちに連行された人たちの釈放と市内の戒厳軍撤収、国会や野党の党本部に配備された戒厳軍の越権行為中止などを決議した。

 午後遅く、合同捜査本部の李鶴捧大佐がソウル上道洞にある金泳三の自宅に来た。慶南高校の後輩だった李鶴捧は、先輩の金泳三にこう言った。

 「軍は、不安要素だけを取り除いたら帰るつもりです。記者会見や声明発表のようなことはしないでいただきたい、というのが全斗煥将軍の要請です」

 金泳三は激怒して、かれを追い出した。

 「どういうことだ。安定を揺るがしているのは、おまえたちのほうだ。おまえたちは今、許せないことをしている。おまえらがするな、と言ったからといって、記者会見をしないわけにはいかん」

 ▽国内では報道されず…

 519日、党本部に出かけて会議を開いたが、外は完全に軍人らによって封鎖されていた。金泳三は「20日に記者会見をする」と国内外のメディアに周知させた。

 20日朝、着剣した小銃に実弾を装填した中隊規模の兵力が上道洞(金泳三の自宅)を取り囲んだ。

 合同捜査本部の李鶴捧大佐がまたしても姿を現した。

 「総裁、いずれまた、機会もあるでしょうに、どうしても今日、記者会見をしないといけませんか」(李鶴捧)

 「この憲兵たちは、どういうことだ。すぐに撤収させろ。帰って全斗煥に伝えろ。全斗煥は第二の朴正煕になりたがっているようだな、と」(金泳三)

 金泳三は自宅に入ってきた一部の記者に会見文を配り、秘書らは門の外にいる記者たちに向けて、塀越しにその印刷物を投げてやった。その内容は、戒厳司令部の報道統制で、国内では、ただの一行も報道されなかった。朝日新聞をはじめとする海外メディアに載っただけだった。

 ▽金載圭処刑、「内乱目的」に異論

 524日、金載圭が処刑された。光州に見せつけようとするものだった。

 朴大統領の暗殺から6カ月余が経っていた。金載圭の裁判はしかし、死刑を狙っていた全斗煥や新軍部の思い通りにばかり進んでいったわけではなかった。

 「内乱目的はなかった」

 大法院の判事14人のうち、気骨のある判事――梁炳皓、閔文基、任恒準、徐潤鴻、金允行、鄭泰源の6人が反旗を翻した(少数意見を述べた)。「朴正煕殺害」は事実だが、「内乱目的」は、なかったというのだった。

1) 行為時の体制(維新)と裁判時の体制(維新廃止)が異なるので、内乱罪で処罰することはできない(閔文基)。

2) 憲政秩序を破壊することを目的とした殺人ではない。計画的なものではなく、偶発的な行動に過ぎないとみるべきだ(梁炳皓)。

3) 内乱罪が成立するには、暴動を起こせるだけの多人数が動員されなければならないのに、宮井洞にいた何人かで内乱は可能なのか(任恒準)。

 ――といった具合に、異を唱えた。事実は、その通りだった。

 李一圭判事は、多数意見(8人)の側に立ったのだが、後日、こう語った。

 「理論的には、少数意見の方が正しかった。しかし、わたしが考えるに、一般の殺人であれ、内乱目的の殺人であれ、どっちみち死刑は間違いないのだから、あれこれ理屈をこねて時間を費やす必要はないのではないかと考え、少数意見に加わらなかった」(韓洪九・聖公会大教授のインタビュー)

                       訳:波佐場 清

 

0 件のコメント:

コメントを投稿