■「庶民的、素朴、慈愛の民主主義者」
大学生の模擬裁判でも無期懲役刑を言い渡される、そんな人気のない全斗煥をメディアを通じて持ち上げる「K-工作計画」[Kは、King(王)の頭文字とされた]が推進された。
▽世論操作と検閲
保安司令部は1980年3月、メディアにたいする懐柔と工作、全斗煥のイメージアップ、そして非協力者の排除を柱とする「K-工作計画」を立てた。そして、新聞社や放送局の社長、主筆、編集局長、報道局長、政治部長、社会部長らを通じて世論操作に乗り出した。
責任者は、保安司令部の李相宰准尉(通称「姜基徳補佐官」、のちに国会議員)だった。元もと「対共」(北朝鮮のスパイにたいする転向工作)の専門家だったが、1979年の「10・26」(朴正煕大統領暗殺事件)直後、つまり鄭昇和戒厳司令官の時代から言論検閲チームの責任者としてソウル市庁に常駐し、新聞社や放送局では絶大な権力を持つ人物として知られていた。捜査機関独特の習慣として、かれは「姜補佐官」という通称で呼ばれていた。
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| 言論工作は1988年、国会聴聞会で追及された。証言台に立った(左から)李源洪(元KBS社長)、許文道(元大統領公報秘書官)、文太甲(元ソウル新聞社長)、李相宰(元保安司令部言論対策班長) |
検閲チームは、文化公報部[当時の省庁の一つ。文化・芸術の振興のほか、政府の広報やメディア統制も担っていた]、中央情報部、保安司令部、経済企画院、陸海空軍から引き抜かれた50人ほどで構成されていた。かれらは戒厳法に基づいて、すべての新聞・放送の記事を事前に読み、検閲指針に沿って削除していった。その指針を下す最高責任者が李相宰だった。
▽持ち上げ
李相宰は、保安司令官である全斗煥の決裁を受けて新たに設けた「言論操作班」(言論対策班)の班長として「K-工作」をおこなった。
この班には14人の分析官と収集官がいた。
かれらは、新軍部が社会安定のための唯一の選択肢であり、同時に全斗煥がそのリーダーであることを印象付ける任務を遂行した。全斗煥を「正義感が強く、包容力のある、太っ腹な人物」「憂国の情に燃え立つ、私心のない、清廉潔白で理想的な軍人」「農村出身で、庶民的、素朴、慈愛に満ちた、広く国民に愛される人物」「海外留学や視察経験もある、文武を兼ね備えた民主主義の信奉者」「困難な時代に国家の運命を担い、いばらの道を歩む愛国者」などと思いっきり持ち上げたのである。
▽記者をランク付け
そのような言論工作はうまくいった。
記者を新軍部に協力的か否かで分類し、「良好」、「協力の見込みあり」、「積極的に協力」、「警戒」、「協力に消極的」などと格付けした。言論対策班の分析で「国是否定」、「制作拒否(ストライキ)」、「不正腐敗」など、非協力的または反政府的といったレッテルを張られれば、解雇へと追い込まれた。
▽報道社に圧力
80年8月、解雇対象の記者約100人の名簿を保安司令部言論対策班長の李相宰がまとめた。そして、それを情報処長の権正達を通して李光杓文化公報部長官に上げた。文化公報部は報道各社にこの強制解雇対象者リストを送り、実行に移させた。
もし、報道各社で強制解雇に応じないところがあれば、新軍部は国税庁や監査院[日本の会計検査院に相当]を動員してその社に対し、税務調査や経営監査で圧力をかける計画を立てていたことが後日、明らかになった(「真実和解調査員会」)。
訳:波佐場 清

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