■朴正煕と陸士同期の義父
全斗煥と朴正煕大統領の「根深く長い因縁」(許和平)は1950年代にまで遡ることができる。
ここで、全斗煥の義父李圭東が登場してくる。
朴俊炳の述懐や張世東のインタビュー記録、許和平の記録『私の考え、私の回答』などが伝える壮大な「全斗煥物語」は、韓国近現代史のひとコマであり、そのまま一編のドラマである。
▽ビリから3番で陸士合格
全斗煥が陸軍士官学校(陸士)に入学したのは1951年だった。
砲声まだ止まぬ戦乱[朝鮮戦争]のさなか、北緯38度線をめぐって一進一退の緊迫した状況だった。サクラが咲き誇る後方の鎮海(慶尚南道)で4年間生活が保障される将校養成コース、陸士は大変な人気だった。200人の募集に1400人が出願、7倍の競争率だった。大学生から入隊した学徒兵など下士官兵の応募が多く、合格者の3分の1がそういう者たちだった。盧泰愚、鄭鎬溶、白雲澤も下士官兵から陸士に進んだ。28人の補欠を含め、計228人が選抜されたが、全斗煥の成績は正確に言ってビリから3番目の226番だった。
ぎりぎり、滑り込みの合格だった。
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| 全斗煥は1951年、陸軍士官学校に入学した |
▽満州たたき上げの軍人
全斗煥らが陸士に入ったとき、陸士の参謀長[旧日本軍でいうと、陸士の幹事に相当]は李圭東将軍だった。李は満州でたたき上げられた軍人で、同じく満州出身で韓国陸士2期の朴正煕や金載圭らといっしょに韓国軍に合流した。
全斗煥はサッカー部に入り、ゴールキーパーやキャプテンとして活躍した。
折から陸海空3軍士官学校体育大会の開催責任者が李圭東だった。かれは、勇ましくも気さくな全斗煥に注目し、娘の李順子を託して1959年1月、娘婿にした。結婚式の祝辞は盧泰愚中尉にしてもらったのだが、その盧泰愚は披露宴で見事な口笛を披露し、拍手喝采を浴びた(その5カ月後に盧泰愚も結婚するが、司会は全斗煥が受け持った)。
この結婚が田舎青年の人生を変えた。
一躍、将軍家の婿養子になったのである。貧しかった田舎出身の青年の輝かしい成功神話――それは、かれが生涯、親族という足かせに苦しめられるという、影をも落とすことになる。
▽せめて面長ぐらいには
かれは慶尚南道陜川で、着るものもなく、腹を空かせていた少年時代のことをこう振り返っている。
「田舎で法事のとき、豚一頭を潰すと村の子どもたちがどっと寄って来て列をつくり、肉をもらって食べるんだ。様子をうかがっていて、もう一度並び直して、ご馳走にありついたりもした。豚肉二切れほどを手に入れて家に帰ると、それを豚汁にして家族全員で食べた。肉をもらってきたからといって、その子だけが特別よけいに食べるだけのご飯もない。そのように貧しかったころ、親たちはしっかり勉強して、せめて面長[村長]くらいになって食べていけと、まあ、そんな具合だ。金持ちになれ、なんて大それたことは言わない」(1986年5月23日)
「ワシは、ムク[묵/ドングリの粉でつくった「こんにゃく」]が大好きだ。農村出身ならテンジャンチゲ[味噌鍋]が嫌いなわけがない。食べるものといえば、それだけだったんだから。ワシらの子どものころは、味噌にマクワウリの皮だとか、スイカの皮とかを入れて煮ると、汁物とも味噌煮ともつかないものになり、みんな、うまそうに食べたもんだ」(86年3月23日)
▽8歳で、満州へ
全斗煥が8歳の時、一家は満州へ引っ越した。
父親の全相禹が問題を起こした。
慶尚南道陜川の故郷の村で、遊び人の借金の保証人になって先祖代々の土地を形(かた)にとられてしまったのだ。それで、その土地のことが問題になり、駐在所の巡査部長(日本人で「シオヅキ・カツヤ」といった)に出頭を求められたが、応じなかった。そんなとき、村の入り口の川の土手で巡査部長と出くわした。巡査部長が捕縄で縛ろうとすると、父は巡査部長の腰のあたりをつかんで堤防の下に投げ飛ばしてしまった、という。
それで、逮捕を恐れて満州へ逃れ、家族も後を追って満州へ行ったのだった。
満州では、吉林省磐石県呼蘭鎮に身を隠した。
▽2年で戻り、大邱で間借り
少年全斗煥はそこで、呼蘭普通小学校1年生として学校に通った。しかし、母親が故郷に帰りたがり、2年後の1941年、家族で故郷に戻ってきて大邱に落ち着いた。全斗煥の回顧――。
「大邱でのわが家は不遇だった。父は日本語がよくできるわけでもなく、特別に仕事ができるわけでもなかった。それで、何の基盤もない大邱で貧乏暮らしをするほかなかった。娘が一人いる老人の家に間借りをして住んだ。食べるものがなく、週に麦飯を2度食べればいい方で、昼食は抜く日の方が多かった」
▽「掘っ立て小屋の子」
翌年、大邱の内唐洞の山の斜面に掘っ立て小屋を建て、そこに移り住んだ。
何本かの柱を立てて藁(わら)束で周りを囲った、いわば旧式ビニールハウスといったようなものだった。床に藁(わら)を敷いて寝るので、朝起きると、叩(はた)いても叩いても藁屑がくっついており、村の子どもたちからは「掘っ立て小屋の子」とからかわれた。背負子(しょいこ)で水を運び、裏山でたきぎを拾い集める日々だった。家族全員、草の粥で命をつないだ。全斗煥は後年になっても、決してご飯にお湯を注いで食べたりはしなかったという。草粥の時代を思い出すのが嫌だったからだった。
▽「記憶力に富み、責任感旺盛」
全斗煥少年は、正規の小学校に入学することすらできなかった。
金剛学園というところに入って非正規の教育を受けていて、喜道小学校の5年生に編入した。教師は学籍簿に「すべてに熱意あり。注意深さ、記憶力に富み、責任感旺盛」と記した。
6年制の大邱公立工業中学校の機械科に入学、サッカー部でゴールキーパーとして活躍した。貧しい家庭事情から、学校に通いながら新聞配達、漢方薬配達、納豆配達のようなこともしたが、配達先の家々で犬に吠えられ、飛びかかって来られたりもして、ひどい目に遭った。そんなトラウマから、かれは生涯、犬を嫌った。
▽日本人の納豆工場をクビ
大邱での中学時代も悲惨だった。
「日帝の強占(植民地)期、10歳のときに、大邱に住んでいた日本人の納豆工場に就職したんだ。それを食べる日本人の家に配達するのが仕事だった。そこの人たちはひどかった。学校が休みの日曜日に配達を終えると昼ご飯の時間になっていたが、かれらは自分たちだけで食べていて、ワシには食べろという声一つ、かけてくれなかった。
ある日、ワシが納豆を荷車に載せて一人で坂道を下っていた時のことだ。ワシの体重が軽いものだから、ひっくり返る事故を起こしてしまった。納豆にすっかり泥がついて食べられなくなると、工場を辞めろと通告された。首になったのだ。ワシの不手際だったとはいえ、お金を一銭ももらえないまま、追い出された」
▽「今に見ておれ」
「新聞配達もしてみた。大邱の漢方薬局通りで薬の運搬もやってみた。しかし、どれもこれも、うまくいかなかった。ワシはずっと、そこでがんばりたかったのだが、主人が出て行けという。まだ年が若すぎるというんだ。そんななかでも、ワシは不幸だと思ったことはない。いつかはおまえたちより、きっと、よくなってやる、いまに見ていろ、という気持ちだった。日本語で『よおーし!』と、な」(1986年7月11日)
そんな少年が陸士に入り、将軍の娘婿になったのである。
訳:波佐場 清

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