2023年7月29日土曜日

朝鮮戦争休戦70年――『林東源自叙伝』を読んで③陸軍士官学校へ

 

■避難民暮らし

北朝鮮から「越南」して着いた韓国慶尚北道慶山郡の収容施設で新しい生活が始まった。

 <リンゴを貯蔵していた倉庫に数十人ずつ収容された。支給された軍用作業服に着替え、証明写真を撮った。厳しい冬の寒さのなか、日に3度の握りめしをもらって食べ、作業服を着たまま2枚の毛布をかぶり、カマスを敷いた地べたの上で寝る生活が続いた>

 そこが「国民防衛軍教育隊」と知ったのは何日か後だった。ある日、大隊行政兵に選ばれた。石炭ストーブのある部屋で働き、寝食できるようになった。楽園のように思えた。

 5月中旬、国民防衛軍は解散となった。司令官が将兵の食料を横領していたことが分かり、銃殺刑になったのだった。

 <どこで何をしていいやら、途方に暮れてしまった。大隊長は、戦況がよくないのでいっしょに永川(慶尚北道)へ行って様子をみようと言ってくれた。私はただ、ありがたいという思いでついて行った>

 永川では大隊長が借りた部屋にいっしょに住んだ。周囲にはほかにも避難民がいた。そんな人たちといっしょに町中に出かけて配給米を受け取ったり、山裾で薪を採ったり、近くの川で魚を捕ったりして日々を過ごした。

 ■米軍と共に

永川には米軍部隊が駐屯していた。米軍は缶詰食品や菓子のようなものを分けてくれ、部隊の鉄条網の周りは子供たちでごった返していた。チョコレートやガムを配られるたびに争いとなった。

 6月初めのある日、林東源少年が米軍部隊の前をぶらついていると、善良そうな米軍の下士官が近づいてきた。

 <「ハウ オールド アー ユー?」とかなんとかと話しかけてきた。年齢のことだと思い、「エイティーン(18)」と答えると、また、ひとしきり何かをしゃべり、自分について来いと手招きをした>

 ついて行くと部隊内の武器倉庫だった。自動小銃や軽機関銃が保管されていた。米兵はブラウン軍曹と名乗った。

 <布切れと油が手渡され、武器の手入れをする方法を教えてくれた。教えられた通りにやると、とても満足気だった。夕方、仕事を終えると「明日から毎日来て仕事をしよう」と言い、部隊の出入証明書とCレーション[米軍が開発した戦闘糧食]やチョコレートをどっさりとくれた>

 この日から米陸軍憲兵大隊B中隊武器係の非正規従業員として働くことになった。武器の分解と組み立てを習い、一生懸命に働いた。仕事は多く、収入もよかった。加えて、ブラウン軍曹のテントでいっしょに寝泊まりし、米軍の食堂で食事もしたので衣食住の問題はいっぺんに解決した。

 ■釜山で、新たな決意

5110月初め、米軍部隊といっしょに釜山に移動した。臨時の首都だった。部隊は釜山駅近くの小学校に陣取り、そこでも米軍といっしょに起居することになった。それまでの戦場近くに比べると、別世界のようだった。米軍といっしょに教会にも通い始めた。

 釜山では米軍食堂の食品倉庫管理担当として正式従業員に採用された。週1回、釜山港の埠頭で食料品を受け取り、毎食のメニューと人数に合わせて食材をそろえ、料理兵に提供するのが主な仕事だった。いつの間にか「オネスト ボーイ(正直な少年)」というあだ名がついていた。

釜山の米軍部隊で食品倉庫管理係をいていたころ

 釜山で「死の恐怖」から逃れた、と思うと新たな恐怖が襲ってきた。「不確実な未来」に対する恐怖だった。

<休戦を話し合っているというが、うまくいくのだろうか? 休戦になると、故郷に戻られなくなるのではないか? 来年19歳になると軍隊に行かなければならないのではないか? 軍隊に入ったら将校になりたいが、果たしてなれるだろうか?>

 <熱心に祈るなかで、すべては神に任せ、いまは実力を養うために最善の努力を尽くそうと心に決めた。大学に行くにしろ、軍の将校に進むにしろ、試験に通るには実力がなければならないと気付いたのだった> 

■陸軍士官学校受験

大学入試を目標に勉強を始めた。昼間は食品倉庫で働き、時間さえあれば、勉強した。ラッキーにも、時間はたっぷりあった。 

<英語は中学、高校の教科書6冊すべてを学んだ。夜間の英語講習所にも通った。北で習ったのとは大きく異なる国語、歴史、社会生活といった科目を重点的に自習した。数学や自然科学は北で習ったものの方がレベルが高いと感じた> 

ニューヨーク出身の料理兵やボストン出身の上等兵らが私の英語の発音を直してくれ、励ましてくれた。

 52年初冬のある日曜日、教会からの帰り道だった。「陸軍士官学校第3期士官生募集」というポスターが目に入った。募集要項をみると、4年間全額国費で軍事学と理工系大学課程を履修でき、卒業すれば理学士の学位を与え、陸軍少尉に任官する――というのだ。 

<お金がなくても大学教育を受けることができ、将校に任官されるとは、これこそ私にピッタリではないか、とひらめいた。どうせ軍に服務しなければならないのだ。試験を受けてみようと決めた> 

陸士受験のことはだれにも言わず、準備に全力を尽くした。試験は第1次として各地区で学科試験があり、それに合格すると何カ月か後に第2次として大邱で身体検査や面接などの試験を受けることになっていた。 

釜山で学科試験を受けたが、合格できなかったように思えた。

<受験者たちはみな、黒い学生服を着た現役生だった。試験を終えた後でささやく声に聞き耳を立てると、問題は全般に易しかったという。滅入るほかなかった。英語と数学はうまくいったようだったし、自然科学も大丈夫と思ったが、国語と社会生活は振るわなかったと思った> 

いったん、諦めていたが、合格だった。「神の特別な恩寵に感謝する」という以外に言葉はかった。 

■「韓国のウエストポイント」合格

533月、大邱の陸軍補充隊に集合して陸軍病院で身体検査と体力検定を受けた。それに合格したあと陸軍本部で、主に人物判定と英語を重視した面接試験を受けた。 

<試験官が分厚い英語の原書を広げ、「声を出して読み、どういう意味か言ってみろ」という。私は一つの文章を声を出して読み、英国の産業革命について書かれたものだと答えると、試験官は「ワンダフル」とほめてくれた> 

すべての試験を終えると、総合判定官は「合格」と判定し、祝ってくれた。あとで分かったことだが、この入試では250人の定数に対して4100人が学科試験を受け、16倍の競争率だった。 

<私が陸士の試験に合格したことが知られると大きな話題となった。米軍では「オネスト ボーイが韓国のウエストポイント[米国の陸軍士官学校]に合格した」と、まるで自分のことのように喜び、先を争ってお祝いに来てくれた。部隊長も私を呼んで祝ってくれ、部隊の慶事だと喜んだ。韓国人従業員らも会う人ごとに祝ってくれ、誇らしげだった> 

■「Good luck, Cadet Lim, Sir!」

2年間にわたってなじんだ米軍部隊を離れるのだと思うと万感が交差した。

<米軍の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいだった。彼らの愛と助けがなかったら、どうして陸士に合格できただろうか。…もし米軍部隊にいなかったなら、私はすでに軍隊に入隊してどこかの高地で戦死していたかもしれない。世間の荒波にもまれ、暗礁に乗り上げていたかもしれない。この間の私の人生は神が恵んでくださった奇跡であり、祝福だというほかに言いようがなかった> 

陸士に入学するため釜山・東莱の陸軍補充隊に集まった日、米軍が憲兵のパトロール・ジープでそこまで送ってくれた。 

<料理兵のスタンリー上等兵が自ら同行を買って出た。彼は車から降りると本を差し出し、「これは米国で買った『This is America, My Country』という米国の歴史の本だ。米国について勉強するうえで役に立つと思う」と陸士入学記念のプレゼントをしてくれた。そしてGood luck, Cadet Lim, Sir!(林士官生徒殿 幸運を祈ります!)」と挙手敬礼で別れのあいさつをして去っていった。私は視界から消えるまで手を振り、感謝の涙を流した> 

■韓国陸士第13

19536月、林東源さんは当時、鎮海(慶尚南道)にあった陸軍士官学校に入学した。20歳が目前だった。韓国で4年制の陸軍士官学校が発足したのは521月で、林東源はその新制3期、通算では13期にあたった。 

戦争は平沢―原州―三陟を結ぶラインから反撃に出た国連軍がソウルを奪還し、38度線一帯で戦線は膠着状態にあった。休戦を前に38度線沿いの地域で熾烈な高地争奪戦が続いていた。  (つづく)                      波佐場 清

 

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