2021年9月8日水曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑤/「二宮金次郎は尊敬されていますか」

戦前、理想的な人間像として「文部省唱歌」に歌われた二宮金次郎(本名・尊徳)は、その時代、「筆頭の教科」とされた「修身科」の教科書に登場する代表的な人物だった。どんなふうに教えられたのか。

一粒のコメ

大戦期の1942年、国民学校で使われた文部省発行の『初等科修身 一』(3年生対象)を見てみる。当時の状況から考えて、盧泰愚少年が使った朝鮮総督府の教科書もこれと同一か、ほぼ同じ内容だったはずである。二宮金次郎は「一つぶの米」という題で取り上げられ、以下のような内容が盛られていた。 

「一つぶの米」の挿絵 1942年文部省発行の『初等科修身一』

 ▼14歳のときに父を亡くした金次郎は、母を助けて小さな弟たちの世話をし、家のために働いたが、間もなく母も亡くなった。金次郎の兄弟は別れ別れになってよその家にもらわれていき、金次郎はおじの世話になる。

 ▼おじの家で金次郎は昼は田畑を耕し、夜は縄をなったりわらじを作ったりした。悲しいこと、つらいことがあっても辛抱した。「家をおこし、国を盛んにするには心を緩めずに働かなければならない」と考えたからだ。 

 ▼金次郎は川端の荒れ地を開いて菜種をまいた。翌春、一面に美しい花が咲き、菜種がたくさん取れた。金次郎は油屋に頼んでそれを油に代えてもらい、夜の仕事が済むと、その油で火をともし、本を読んだ。

 ▼大水が出たことがあった。金次郎は荒らされたところをよく耕し、捨てられた稲の苗を集めてそこに植えた。秋、それがよく実って一俵の米が取れた。「一粒の米でも育てていけば、たくさんの米になる。土地も手入れをすれば立派な田になる。怠けると荒れてしまう」。そう考えて金次郎はいっそう精を出して働いた。

■忍耐、勤勉、倹約、努力……

内村鑑三(18611930年)が明治末年に英語で書いた名著『代表的日本人』でこの人物を取り上げている。鈴木範久訳の岩波文庫でかいつまむと、次のようだ。

二宮尊徳 『代表的日本人』の表紙より

 

江戸後期の1787年、相模の貧しい農家に生まれた。早くに両親を亡くし、伯父のもと、昼は働き、夜も勉強に励んだ。……数年後、生家に戻り、斜面や沼地を次々と切り拓く。やがて、かなりの資産を持つようになり、倹約家、勤勉家と仰がれる。請われて藩主の領地や全国各地の荒廃した村々を救い、最晩年は徳川幕府にも用いられた。 

 

ここでは、忍耐、勤勉、倹約、努力、信念、仁愛、自助、自尊、誠意、道徳、実直といった言葉があふれ、尊徳をめぐるエピソードの数々が具体的に紹介される。一例をとれば、次のようである。 

 村人の信頼を失った名主が尊徳に知恵を借りに来た。

 答えは簡単だった。

「自分可愛さが強すぎる。村人に感化をおよぼそうとするなら、自分のもの一切を村人に与えるしかない。全財産を売って村の財産にし、すべてを村人に捧げるがよい」

名主は、犠牲が大きすぎると言ってきた。

尊徳は言った。

「よもや自分の家族が飢えるのを心配しているのではあるまい。あなたが役目を果たしているのに、相談役の私が役目を果たさないとでも思うのか」

名主は教えどおりに実行した。彼の影響力と声望はただちに回復した。一時の不足分は尊徳が自分の貯えから調達した。まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、名主は以前にもまして裕福になった。

 

■「施政者に都合のいい人物」

二宮尊徳は植民地朝鮮でも、とくに1930年代の「農村振興運動」で、勤倹の模範として農村青年に浸透がはかられた。 

この人物をいま、どう見るべきか。人によって評価はさまざまだろう。尊徳が発揮した勤勉、努力、誠意といった価値は尊い。社会のために尽くそうという精神も見習いたい。私自身、そう思う。しかし、それはやはり個々人の問題だろう。国家が強制したり教科書で教えて子らの評価につなげたり、という問題ではない。 

あの時代、個人の尊厳を無視し、国家中心の特定の価値観で染め上げた全体主義が、とんでもない方向に突き進んだ。その反省から戦後の日本国憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)とうたいあげたのである。 

二宮尊徳が教科書に主流人物として登場してきたのは明治中期以降だった。それについて中村紀久二『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで 』(岩波新書)は、次のような指摘をしている。 

明治政府が尊徳を尊重したのは、百姓一揆の方法をとらず、決して政治を口にせず、農民自身の勤勉と倹約によって、農村の矛盾を解決した点である(奈良本辰也『二宮尊徳』岩波新書)。勤勉と倹約を強調して農民の生き方を教える尊徳の態度は、いずれの時代の施政者にとってもまことにつごうのよい人物であった。 

二宮金次郎の復活

そんな二宮尊徳が今また、教科書に復活してきた。2006年、第一次安倍政権で教育基本法の抜本改正がなされ、15年の学校教育法施行規則の改正で「道徳」が「特別の教科」に格上げされた。これを受けて18年から小学校、19年から中学校で検定教科書が用いられるようになり、そこに金次郎が登場してきた。従来の「道徳の時間」にはなかった子らの学習成果についての評価も行われている。 

どんな内容なのか。例えば、教育出版の小学4年生用『小学道徳4 はばたこう明日へ』は「勤労、公共の精神」の「徳目」と関連して「二宮金次郎の働き」と題する文章が載せられている。概略、次のようだ。 

金次郎は200年ほど前、いまの小田原市の農家に生まれた。幼いころ、台風の洪水被害で一家の暮らしが苦しくなった。金次郎は懸命に働く両親を助けて朝は山へ薪とりに行き、昼は田畑で働き、夜はわらじをつくり、その合間に勉学にも励んだ。

 大人になった金次郎は桜町という地域の人々の暮らしを立て直す仕事を頼まれた。金次郎は家々を一軒ずつ訪ね歩いて人々の暮らしぶりを調べ、みんなで働くことのすばらしさを説いた。 

 しかし金次郎のやり方に不満を言う人も少なくなく、思うように進まない。金次郎は一時あきらめかけたが、人々を救うことを第一に考え、10年をかけて人々と田畑や用水を整える仕事を進め、人々の暮らしを豊かにしていった。

 その後も金次郎は600以上もの村の立て直しに尽力した。「一生懸命働いて周りの人や世の中の役に立つこと」。これが金次郎の大切にしていた考えであり、いまでも多くの人々が、金次郎の功績から働くことのすばらしさを学んでいる。 

ここには戦前の修身科の教科書の「家をおこし、国を盛んにする」といった言いようはさすがにない。しかしこれは、たとえば特定の価値観の押し付けにつながっていくことにはならない、と言い切れるのかどうか。 

前川喜平さんの警告

「特別の教科・道徳」について文部科学省は「学習指導要領解説」のなかで、特定の価値観の押し付けなどを強く否定。「答えが一つでない道徳的な課題を一人ひとりが自分の問題として捉え、『考える道徳』『議論する道徳』へと転換をはかる」と説明しているようだ。 

児童の評価も数値によるものでなく、一人ひとりがどれだけ成長したかを記述式で評価するのだという。本当に大丈夫なのかどうか。 

これについて例えば、元文部科学事務次官の前川喜平さん(66)は次のような警告を発している。 

学習指導要領に列挙されている徳目を見ると、個人の尊厳や自由の価値にはほとんど触れていない。重視されているのは「我慢する」「わがままを言わない」「自己抑制・自己犠牲を厭わない」「国を愛する」「日本人としての自覚を持つ」「法やきまりを守る」「父母・祖父母、祖先を敬う」といった徳目ばかりだ。

個人や自由の価値には触れず、自己抑制や自己犠牲を美化し、国家や全体への奉仕を強調する道徳は、国家主義、全体主義へと子どもたちの精神を追い込むものになるだろう。 

前川さんは、目指しているのは戦前の教育勅語の復活だ、と警戒している。 

重かった盧泰愚さんの問いかけ

「二宮金次郎はいまも尊敬されていますか」

30余年前、盧泰愚さんが私たち日本人記者団に発した、こんな問いかけは、当時、私が考えていたより、ずっと重かったのである。(つづく)

           立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

*参考文献

前川喜平「我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ/教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる」東洋経済ONLINE2019126日 https://toyokeizai.net/articles/-/260699?page=4

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

二宮尊徳(児玉幸多訳)『二宮翁夜話』中公クラシックス、2012

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