2021年8月27日金曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代②/幼い頭に日本の歴史・文化だけが注入された

今年10月に亡くなった韓国の元大統領盧泰愚さん(大統領在任198893年)は1932年12月、慶尚北道達城郡公山面で生まれた。朝鮮半島南東部の中心都市、大邱の北郊にある八公山(標高1192㍍)のふもとの小さな村だった。いまは大邱広域市に組み込まれ、八公山にはロープウェイが設置されるなど、一帯は行楽客や登山客らでにぎわっている。

八公山の麓の盧泰愚さんの生家=『盧泰愚回顧録』より

生まれた年の1932年といえば、朝鮮半島が日本の植民統治下に入って20余年がたっていた。前年9月、満州事変勃発。32年に入ると上海事変、満州国建国、日本国内では「515事件」…。その後、「226事件」(1936年)、日中戦争の発端となった盧溝橋事件(37年)とつづき、朝鮮は日本の大陸侵略の兵站基地として戦時動員態勢に組み込まれていった――。そんな時期に盧泰愚さんは幼児期を過ごし、少年時代を迎えていったのだった。

 ■幼き日々

『盧泰愚回顧録』(2011年、朝鮮ニュースプレス社)は一家や幼い日のことを次のように書いている。(以下、回顧録からの引用は、いずれも一部再構成して抄訳した)

 

ソウルで出版された『盧泰愚回顧録』

 ▽祖父から文字を習う

5歳のころから祖父に千字文を教えてもらった。祖父は文字を習わなかった人なのに、どうして孫に教えることができたのか。あとで聞いた話では祖父の兄弟が勉強するとき、祖父は家族といっしょに藁草履を作りながら耳学問で勉強したのだという。

  6歳で父親と死別

父は村の書記などをしていたが、私がまだ6歳にもならない1938年初め、交通事故で亡くなった。木炭車のバスで大邱市内に向かう途中、踏切事故に遭ったのだった。

みぞれの降る日、大邱から飛び込んできた悲報に、幼い私はそれがどういうことかも分からなかった。だれかが弔花を持ってくるのを見てこんな寒い冬なのに、と不思議に思った。夕刻ごろ父の棺が着き、母が痛哭するのをみていっしょに泣いたのを覚えている。

父は多才、多能だった。電気もない深い山奥の村で蓄音機があるのは我が家だけだった。父の膝に座り、蓄音機に合わせて歌った歌はいまも忘れていない。冬になると村の貯水池へ連れていってくれ、スケートを楽しんだ。

  ▽仏教と縁

大黒柱の父を失い、わが一族は離散した。2人の叔父は日本と満州へ渡った。祖父母は苦難に耐えてわが家を守った。祖母は篤実な仏教信者で、よく背負われて八公山西麓の把渓寺[桐華寺の末寺]へ行ったことを覚えている。

私が生まれたことについて村人たちは、祖母が男の子を授けてほしいとお参りした功徳だと噂し合った。そんなこともあって私も仏さまとは縁が深いと思うようになった。

■「国民学校」時代

盧泰愚少年は1939年春、地元の小学校に入学した。

  

▽片道6㌔の山道を通学

私が通った学校は公山国民学校で、数えの7歳で入学した。家から学校まで片道6㌔、毎日往復12㌔の山道を歩くのは容易ではなかった。

私は体が弱く、幼いときは叔母が負ぶってくれたりもした。1学年2クラスだったが、同輩は何人もおらず、大部分が私より年長だった。56歳上の者もいた。5年生のときには結婚した同級生までいた。

『回顧録』は通った学校を「国民学校」としているが、入学当初は正式には「小学校」だったと思われる。盧少年が入学した前年1938年の(第三次)朝鮮教育令改正で、それまで「普通学校」といわれていた朝鮮の初等教育学校は、日本国内と同様「小学校」になった。さらに413月の教育令改正で、「小学校」は日本国内と同様、「国民学校」という名に変わった。

この時期、皇国臣民化の教育はいちだんと進んだ。3710月、「皇国臣民の誓詞」が制定され、朝礼など事あるごとに斉唱が義務付けられた。児童用は次のようなものだった。

一、私共は大日本帝国の臣民であります。

二、私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。

三、私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。

38年の教育令改正は、動員態勢を強化するためのもので、朝鮮人の志願兵制度と対になっていた。「国体明徴」「内鮮一体」「忍苦鍛錬」が三大教育方針とされた。朝鮮語は正課から外されて随意科目となり、公立学校の大半で朝鮮語を教えなくなった。教科書も日本人と同じものを使うようになった。

 

盧泰愚少年はこんな教育を強いられたのだった。『回顧録』は次のように書いている。

 

▽「朝鮮は未開、日本が保護者」

1年生の時から韓国の歴史や文化の授業はないも同然だった。朝鮮語の科目も2年生からなくなった。純真無垢な幼い頭に日本の歴史・文化だけを注入するのだからそのまま入っていくほかなかった。

 「朝鮮は未開で貧しいので日本が保護者となって開化、開発し、日本と同じようないい暮らしのできる国にならないといけない」

「ルーツは同じ民族なのだから一つの国にならないといけない」

日本はそんなことを言い、いわゆる「内鮮一体」をスローガンに、歴史、文化、言語を日本に同化させようとした。

 私たちは日本語を一生懸命に習い、歪曲された歴史を真実であるかのように学ばなければならなかった。「教育勅語」のようなものは国民学校23年生以上なら全部暗記しなければならなかった。

 

   ▽内心「われわれは違う」

 そのように徹底した日本式の教育を受けたが、ルーツの違いはどうしようもなかった。

ユダヤ人たちがタルムードを通して民族の正統性を確固と維持してきたように、夕べには祖父が、われわれの文化は日本の文化よりもずっと優秀だという話をしょっちゅうしてくれた。

そんなわけで、日本の教育を受けながらも心の内では「われわれは違う、違わないといけない、いつかはわれわれのものを取り戻そう」という考えを育んでいくほかなかった。

 

日本人教師との再会

植民地時代に受けた教育について、こう振り返った盧泰愚さんだが、そこでは深く感銘を受けた日本人教師との出会いもあった。盧泰愚さんは大統領になった後、その恩師をソウルの青瓦台(大統領官邸)に招待し、涙の再会を果たしたのだった。(つづく)

             立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

*参考文献

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

佐野通夫『日本植民地教育の展開と朝鮮民族の対応』社会評論社、2006


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