2019年3月16日土曜日

中塚明著『日本人の明治観をただす』/戦史にも改竄・隠蔽


満州事変から敗戦までの「15年戦争」(193145年)は、「栄光の明治」に対する背信だった――。こんな歴史認識は正しいのか。近代日朝関係史の研究で知られる中塚明・奈良女子大名誉教授は日本の社会に根付くそんな通念に真っ向から「ノー」を突き付ける新著を出した。


タイトルもずばり、『日本人の明治観をただす』(高文研)。中塚先生はここで、明治からの「帝国日本の発展」は「朝鮮の犠牲と没落」と表裏一体の関係にあり、「明治の栄光」の中に「帝国破滅」の根本原因が巣くっていたことをあばき出している。


■改竄、隠蔽…

たとえば、いま、安倍政権にあって次つぎと明るみに出ている公文書の改竄や隠蔽。これは「栄光の明治」の時代からあった。中塚先生は、埋もれたり、見過ごされたりしてきた史料に光を当て、その具体例を実証的に明らかにしている。

【例1 江華島事件】
1875(明治8)年9月、ソウルに通じる漢江河口の江華島付近でこの事件は起きた。日本の軍艦「雲揚」が島に接近し、朝鮮側の砲台と交戦、いま仁川空港がある永宗島の砲台を一時占領した。翌年、日本は朝鮮に不平等の日朝修好条規を押し付け、朝鮮を開国させた。

この事件に関する「雲揚」艦長、井上良馨の公式報告書(108日付)は次のような内容になっていた。
<飲料水を求めるため島に寄港しようとボートで近づいたところ、突然、朝鮮側が銃砲を撃ってきた>


ところが、この公式報告書とは別に、その10日も前に詳細な報告書が書かれていたことが分かった。井上が長崎帰港直後に書いた報告書(929日付)で、防衛省防衛研究所図書館に保存されていた。公式報告書は、最初の報告書を大きく書きかえていた。
 
■「3日」を「1日」に

ポイントは、「雲揚」は朝鮮の領海内に「3日」間にわたって入り込んでいたのに、「1日」と書きかえていた点。のちに元帥にまで登りつめた井上自身、事件半世紀後の1924(大正13)年5月、「海軍大学校談話会」の席上、次のようなことを語っていたことが記録に残っている。
韓国観光公社HP  江華島・草芝鎮。日本の軍艦「雲揚」はここに近づき、朝鮮側と銃砲を撃ち合った。

<陸岸から3カイリ内、ことに川の中に入り込み3日もいたということになれば、他国の領海に入って戦争したことになり、国際公法上許されないことだとの議論があると聞いた。しかし国際公法に燃料の石炭や飲料水が欠乏したときは、臨時にどこの港湾に行ってもさしつかえないということもある。別段悪いところはないと考える>

最初の報告書には「水を求めて…」とはどこにも書かれていない。それを公式報告では、最初から飲料水を求めていただけなのに朝鮮側が不法にも攻撃してきたのでやむを得ず…、と改竄していたのだ。要するに、最初から挑発をもくろんでいたというわけである。



■発砲第一弾は王宮へ
【例2 日清戦争】
日清戦争は一般に、1894(明治27)年725日の「豊島沖の海戦」、つまり仁川の沖合における日清海軍の衝突で始まったとされている。しかし、実際に日本軍が最初に軍事行動を起こし、第一弾を発砲したのは、朝鮮の王宮(景福宮)に向けてだった。豊島海戦の2日前、723日早朝のことだった。

公刊の日清戦史はこの王宮への発砲について次のようなことを書いている。
<ソウルの龍山に駐屯していた日本軍がたまたま王宮のそばを通っていて朝鮮の兵士から撃たれたので、やむなく応戦した。王宮に入って朝鮮の兵士を王宮の外に追い出し、国王を保護した>

しかし、実態は違っていた。
当時、朝鮮をめぐって日清両軍がにらみ合うなか、日本としては清国軍を朝鮮から追い出す口実が欲しかった。そこでとられたのが、日本は「朝鮮の依頼」によって清国軍を朝鮮から打ち払うかたちにする、という策略だった。

王宮砲撃は、計略通りのものだった。結局、日本軍は王宮を占拠して国王を「とりこ」にし、大院君を再度、政権の座に引っ張り出したうえで、狙いどおり、朝鮮の依頼を受けたかたちで清国軍を攻撃し、朝鮮から駆逐した。

■計画性を物語る新史料
このような事実は、日清戦争から100年目の1994年、福島県立図書館で新たに見つかった史料によって裏付けられた。陸軍参謀本部で書かれた「日清戦史の草案」だ。それは、王宮占拠は初めから日本政府・軍が計画したもので、日本軍の綿密な作戦行動として実行に移されたことを物語っていた。

韓国観光公社HP 復元された景福宮の西門迎秋門。日清戦争の際し日本軍はこの門を壊し王宮内に突入した。 
次のようなことである。
▽王宮占拠に主導的な役割を果たしたのは当時の外相陸奥宗光であり、当時のありさまを初めからウソの話にして外務省に電報を打ったのは現地の公使、大鳥圭介だった。
▽公使の大鳥圭介はじめ日本政府・軍は、王宮占拠をあくまで「不意の戦闘」「偶然の交戦」として処理した。内外の非難を恐れ、真相は決して明らかにしてはならないと前もって決めたうえで、作戦を決行していた。



■本当のことを書かない戦史

【例3 日露戦争】
日露戦争=190405(明治37~38)年=でも戦史は歪められていた。さきに触れた福島県立図書館には「日露戦史編纂綱領」と題する文書もあった。そこから分かったのは日清戦争のときとは違い、参謀本部が前もって編集方針を定めてから編纂に入っていたということだ。

「書いてはならないこと、削除すべきこと」が15カ条にわたって示されていた。次のような1カ条も含まれていた。
<国際法違反または外交に影響する恐れのある記事は記述してはならない>

中塚先生はこう指摘する。
「日露戦争をへて日本では、公刊される戦史には機密事項を削除、書かないことが原則になった。市販され、だれもが読める歴史には、ホントのことは書かない、そういうことが『神』である天皇が率いる日本政府・軍隊の状態になった」

「天皇の『名』でこの国がおこなった戦争の歴史には、本当のことは書かない、そんなしきたりを確立し、戦史を偽造することが当たり前になった」

■日露戦争は「解放戦争」?
「明治の栄光」はこんな歴史の改竄、隠蔽のうえに綴られていた。そこから目をそらし、日本が道を誤ったのは昭和の前半とくに満州事変以降、軍部の独断と独走を許してしまったことが原因とする史観が、一つの通念として日本の社会に深く根を張ってきた。

中塚先生はそのことに異をさしはさむ。
「明治は栄光の時代、昭和前半は汚辱の時代」とする、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に代表されるような主張には賛成できない、と。そして、その根拠は「明治」そのもののなかにあることを示すためにこの本を書いた、と自ら明らかにしている。

明治を「栄光の時代」だとし、誤りを認めようとしないところに反省など、あろうハズもない。20158月、戦後70年にあたって安倍晋三首相が出した「総理大臣談話」には次のようなくだりがあった。
<百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました>

中塚先生はこれを「日露戦争をまるで解放戦争であったかのように言い紛らわした」と指弾する。「安倍首相は明治という時代の本筋を語らず、…日露戦争はあたかもアジアを代表する日本が白人の横暴な帝国主義を打ち破った植民地の解放戦争であったのように言ったのだ」と。

その通りであろう。日本の「明治の栄光と帝国への発展」は、朝鮮の没落と植民地化という犠牲のうえにあったのである。歴史を偽る改竄、隠蔽を繰り返すなかで、それはなされた。

■日本の社会へ警告の書
いま、その隣国韓国と日本の政府レベルの関係は「戦後最悪」などと言われている。核心は双方の歴史認識のズレにあることは言うまでもない。元徴用工問題を引き合いに出すまでもなく、焦点の一つは明治の末期、1910(明治43)年8月に調印された韓国併合条約に当てられている。

日本が韓国を植民地化したこの条約について、韓国が「初めから無効だった」とするのに対し、日本は「当時は有効だった」と主張。1965年の日韓基本条約で「もはや無効」と双方それぞれが都合よく解釈できる玉虫色の表現でいったん決着させた問題が、ここに来て蒸し返されているのである。

ここで問われているのはやはり、「明治」である。それは日韓にあってどういう時代だったのか。日本社会はそれをどう記録し、記憶してきたのか。本書は、そこを根本から問い直している。いま、日韓の信頼構築を考えるうえからも、時宜にかなった出版なのである。

それにしても、いまの日本社会の、この状況はどういうことなのか。ヘイト、嫌韓…。一部メディアは、明らかにそれを煽っている。日本はこの東アジア地域で将来、どう生きていこうというのか。

中塚先生は1929年生まれ、90歳。本書は、その老学者が日本社会に発した警告の一書なのである。                                                                                               (波佐場 清)




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