2016年10月3日月曜日

「満州」への旅⑫――金日成の母校

「列車から降りて私が真っ先に向かったのは、吉林毓文中学という学校だった。父親に連れられて中国に亡命した故金日成主席が学んだところである」。小林慶二さんが『観光コースでない「満州」』でそう書いたのと同じように、私たちも吉林駅に着くと、車でまず、その吉林毓文中学校に直行した。

■吉林毓文中学
中学校は市の中心部をS字にくねって流れる松花江のほとりにあった。

松花江側に面した正門に「吉林毓文中学」と刻んだ大きな石の門標。あいにくの日曜日で門が閉まり、がらんとしている。鉄筋、高層の校舎はまだ新しく、最近建て替えられたようだ。

横手に回ると、ガラスケースの掲示板と、かつて使っていたとみられる古い門標のついた塀がみえてきた。瓦を載せた塀の門標は、この学校の歴史と伝統を物語っているようで、なかなかの趣である。実際、毓文中学は1917年に創立されたという私立の名門校なのである。
 

掲示板を覗いてみると、校訓や校風、学風のほか、教育理念などが書かれている。「中学」といっても日本の高校に相当する高等中学校で、「過去6年間の進学実績」といったものも張り出されている。

北京大学16人、清華大学4人、復旦大学7人、浙江大学4人、中山大学31人、南開大学16人、北京師範大学23人、中国人民大学40人……。中国の名門大学がずらりと並んでいる。

「中朝友誼の紐帯」と書いた掲示が目を引いた。
「1927~30年、朝鮮民主主義人民共和国の元国家主席金日成同志はここで学び、革命運動に身を投じた。これによって毓文中学は中朝友誼の架け橋となり、国際的な名門校になった。金正日国家主席(ママ)は2010年にわが校を訪問、記念の揮毫をした」
校内に「金日成学習記念堂」が設けられているとも記している。

■中国語をマスター
1912年生まれの金日成少年がこの学校に入ったのは1927年、生年から計算すると15歳の時だった。当時、吉林は省都。その年の1月中旬、初めて吉林に出てきた時のことを『金日成回顧録 世紀とともに』(雄山閣)は次のように書いている。

《古い歴史を誇る大都市の盛況は一目見た瞬間から、静寂な農村地帯で過ごしたわたしを威圧するかのようだった。わたしは改札口を出てからも、こみあげる興奮で歩みを移すことができず、わたしを新しい生活へといざなう新天地の躍動する姿に長いこと見入っていた》

とはいえ、金日成は当時、中国の生活にはすっかり慣れていたと思われる。『回顧録』によれば、平壌で生まれた金日成は、独立運動をしていた父に連れられて7歳のときに朝鮮の「北のさいはて」の地、鴨緑江沿いの中江(現在の慈江道)に移り住んだ。そこでも日本の警察当局の監視が強まると、一家は対岸の中国・臨江に逃れ、さらに中国東北部の八道溝、撫松へと転居した。

その間、1923年春から2年間、朝鮮に「逆留学」もしたが、中国では現地の小学校に通い、中国語をしっかりとマスターしている。『回顧録』は書く。

《あのころ父がわたしに中国語を習わせなかったとしたら、四半世紀を中国で過ごしたわたしは、行く先々で大きな言語の障害にぶつかっていたであろう。正直な話、われわれの闘争舞台はほとんど満州地方であったので、もしわたしが中国語を知らなかったなら、中国人と親しく交われなかったはずであり、彼らとの反日連合戦線も成功裏に実現できなかったであろう》

■「ㅌ・ㄷ(トゥ・ドゥ)」結成
吉林に出る半年前の1926年6月、金日成は、撫松にいた父親が病死したのをきっかけに武官学校に通うことになった。撫松から120キロほど離れた樺甸の華成義塾という独立軍の幹部を養成する、授業料のいらない学校だった。母の手一つで学費の工面が難しかったことも大きかった。

しかしそこも半年で中退した。民族主義一点張りの学校で、共産主義の書籍を読むことすら禁じられたことに失望したからだという。そんな中にあってその樺甸で26年10月、社会主義・共産主義を志向する新しい世代の青年組織「打倒帝国主義同盟」=略称「ㅌ・ㄷ(トゥ・ドゥ)」=を結成。金日成はその責任者に推薦されたという。生年から計算すると金日成14歳。今日、北朝鮮では、この「トゥ・ドゥ」を朝鮮労働党のルーツとみなし、その結成を朝鮮共産主義運動と朝鮮革命の新たな出発点になったとしているのである。

華成義塾を中退し、吉林へ出ようと決心したのは、そこが満州各地から朝鮮の反日独立運動家や共産主義者が集まる政治的中心地だったからで、その決断は「私の生涯における最初の大勇断であった」と『回顧録』は書いている。

■「朝鮮共産主義青年同盟」
吉林毓文中学は2学年に編入した。母からの送金はあったが、十分でなく、登校するときだけズック靴をはき、帰宅してからはほとんど裸足で過ごした。書物を買う金はなかった。図書館などで、『共産党宣言』『資本論』『国家と革命』『賃労働と資本』といったマルクス・レーニン主義の古典とその解説書を読みあさり、ゴーリキーや魯迅も読んだという。

《わたしの世界観は吉林時代に確立して揺るぎないものとなり、生涯の思想的、精神的糧となった。吉林での蓄積と体験はその後、わたしの自主的革命思想の骨組みをつくる礎となった》

毓文中学校在学中の1927年8月、「トゥ・ドゥ」を「反帝青年同盟」に再編するとともに、その中核メンバーで「朝鮮共産主義青年同盟(共青)」を結成。これは、民族解放と共産主義をめざす非合法の青年組織だった。

《「トゥ・ドゥ」を結成した華成義塾の時代が、わたしの青年学生運動の出発点であったとすれば、共青と反帝青年同盟を組織し拡大していった吉林毓文中学校時代は、学生の枠を離れて労働者、農民をはじめ各階層の大衆のなかに深く浸透し、いたるところに革命の種を播いた、わたしの青年運動の全盛期であったと思う》

金日成は吉林毓文中学に3年間通った。その間、中国軍閥当局の手にかかり、監獄暮らしも強いられた。以上は『金日成回顧録』に書かれていることをそのまま紹介したまでだが、それらはひとつの「革命叙事詩」といってもよいものだろう。

■金正日総書記の訪問
金日成が吉林毓文中学で学んだ時から80年の歳月を経て2010年、そのことが改めてクローズアップされることとなった。この年8月、時の北朝鮮トップ、金正日総書記がこの学校を訪れたのである。

8月26日~30日の中国東北部非公式訪問初日の26日のことだった。北朝鮮の公式報道は、これに関連して同30日、次のような内容を伝えた。

▽金正日同志は、教職員や生徒の熱烈な歓迎を受けて同校に到着。校庭に建てられた金日成主席の銅像に花かごを捧げて敬意を表したあと、原状のままに保存されている校舎の内部を見て回った。金正日同志は主席の体臭が染み込んだ机や椅子など貴重な事跡物に感懐を禁じ得なかった。
▽毓文中学校の合唱団は、金日成主席への敬慕の情を抱き、「金日成将軍の歌」と毓文中学校歌を歌った。

▽金正日同志は同校訪問を終えるにあたり、「朝中親善の象徴であり、長い歴史と伝統を有している毓文中学校が立派な活動家をさらに多く育てることを望む」という内容の親筆を残した。
▽金正日同志は続いて、主席が革命活動の初期に頻繁に利用した秘密の場所の一つである吉林市内の北山公園薬王廟を参観、秘密会議を開いた地下室などを見て回った。

■3代目世襲の正当化
金正日総書記のこの時の中国東北部訪問をめぐっては当時、さまざまな憶測がなされたが、いま振り返ると、そこには最高指導者の後継問題が深く絡んでいたとみて間違いない。金正日氏は前々年の2008年夏、病で倒れたあと、衰弱ぶりが痛々しかった。そして、この訪中の翌9月に党最高機関選挙のための党代表者会を開くことはすでに予告済みだった。

毓文中学校訪問翌日の8月27日、金正日総書記は省都・長春で胡錦濤総書記との朝中首脳会談に臨んだ。この時、中国側の報道が核問題をめぐる6者協議の早期再開問題に焦点を合わせていたのに対し、北朝鮮側は「朝中親善は、歳月が流れ、世代が代わっても変わることはない」といった金正日氏の発言を伝えていた。

さらに、首脳会談に続く宴席のあいさつで金正日氏は「今日、複雑な国際情勢のなかで、朝中の革命先輩らが貴い財産として譲ってくれた伝統的な朝中親善のバトンを後代にしっかりと譲り渡し、それを代を継いで強化、発展させていくことは、われわれが負った重大な歴史的使命である」と述べた、とも北朝鮮側は伝えた。

恐らく、こうした席を通して金正日氏は三男金正恩氏(現・党委員長)への3代目世襲後継を正当化し、中国側の了解を求めていたとみていいだろう。

北朝鮮はこのあと、9月に予定通り党代表者会を開き、金正恩氏を党中央軍事委員会副委員長のポストに就けて後継を公式化する手順を踏んでいったのだった。

■不透明
金正日氏が死去したのは、この中国訪問から1年4カ月後の2011年12月17日だった。金正恩氏が予定通り、直ちに後を継ぎ、以後、北朝鮮を統治してきている。とはいえ、それは金正日氏が生前に思い描いていたかたちとは相当に隔たりがあるもののようにみえる。

金正恩・党委員長は、金正日氏が「後見役」として準備した叔父の張成沢氏ら側近幹部を次々と粛清。一方で、国際世論に抗して強引に核・ミサイル実験を繰り返している。当然、中国との関係もくしゃくする。金正恩氏が先代から権力を継いでもう5年近くになるが、朝中間の首脳会談はいまだに見通せない。

金正恩委員長が祖父の母校、吉林毓文中学校を訪れることはあるのか。あるとすれば、いつなのか。金正恩委員長の足元の問題を含め、いま、それを占うにはあまりにも不透明な要素が多すぎる。


2016年9月26日月曜日

「満州」への旅⑪――『朱夏』の風景

長春駅から高速鉄道で吉林に向かった。「和諧号」の2等席。出発してほどなく車窓越しに広大な平野が広がる。時折、雨が窓を打つ。車内の電光掲示板をみると、「内温23度 外温17度」の表示。快適だ。細かな点はともかくも、乗り心地など、日本の新幹線とさほどの変わりはない。

■宮尾登美子著『朱夏』
車窓越しに猛スピードで後ろへ飛び去る田畑と遠くの地平線を眺めながら、私はある物語のことを思い浮かべていた。
宮尾登美子(1926~2014)の小説『朱夏』のことである。舞台はたしか、このあたりだったような…。間もなく停車した「九台南」という駅名にハッとした。間違いない。九台という地名は私の頭にしっかりと刻み込まれている。

旅を終えた後、『朱夏』(新潮文庫)を読み返してみた。1985年、宮尾59歳のときの作品で、自らの若き日の「満州」体験をそのまま描いたといわれる。


 
宮尾の分身である高知出身の綾子は、日本敗戦5カ月前の1945年春、小学校教師の夫に付き従って満州に渡る。高知から入植した開拓団の子弟教育のためで、県の「出向命令」というかたちだった。綾子18歳、生後50日の長女をおぶっての旅立ちだった。以来、敗戦を挟み翌46年9月に引き揚げるまでの1年半、現地の「土の家」での教師仲間らとの共同生活や、ソ連軍と中国暴民に追われての難民収容所暮らしなど、極限状態の人間模様を繊細な心理描写と冷静な目で追っている。

■飲馬河
主舞台は、長春からさほど遠くない飲馬河、営城子、九台という地域。最初に住んだのは、夫が勤める小学校の所在地、飲馬河という村だった。

《飲馬河村は新京[長春]から近々一時間半余り、これは満州でいえば最高に交通至便という土地で、それに水田のほとんどない満州では珍しく、飲馬河からの引水によって既に二千町歩もの水田が作られてあった。総面積一万五千町歩というのは全部耕地であり、ということはそこに農民の先住者がいて農業を営んでいたことに他ならず、日本の移民が強引にそこに割り込んで来れば当然現地人は立ち退かなければならなかった》

4月初め、着いたばかりのその地の光景を宮尾は、次のように描写している。

《飲馬河村の風光は、視線の届く限り赤茶けた土一色であった。まだ春にはほど遠く、過酷な冬をやりすごしているためにものの芽の気配もない上に、学校も近くの住民の家もすべて土ででき上がっており、わずかに屋根に葺いた何かの草だけが柔らかさを帯びているという乾き切ったこの光景を見て、綾子は咽喉もとに固いものが詰まるような気がした》

《夕陽の沈むのを見たのは到着後三日目で、西方の地平線に巨大な太陽が朱いろに燃えながらずしんずしんとまるで地響きをたてるように落ちてゆき、そしてみるみるうちに球形が半円になり櫛形になって、あっとおもう間もなく奈落の向こうに消えていった。内地の落日はゆるやかでいつまでも夕闇にたゆたっているが、ここでは陽足極めて早く、落ちた途端に濃い闇がただちに下りて来る。闇とともに寒さもひしひしと迫ってくるなかで、綾子は初めて見た満州の夕陽の荘厳さに打たれ、しばらくその場を動くこともできなかった》

■一瞬の春
やがて、「大陸名物の黄塵の季節」が過ぎ、5月初め、ここにも春がやってくる。

《たしか昨日の朝までは土一色だった野は、わずか一夜のうちに天から五彩の織物を降らせたように紅、赤、朱、黄、緑と鮮やかな色をいちめん繰りひろげ、折からのさんさんたる朝陽にめらめらと秀明な炎のかげろうを燃やしている。足もとを仔細に見ればれんげ、たんぽぽ、すみれ、おきなぐさ、すずらん、その他名も知らぬ可憐な小花がせいいっぱいに咲き競っていて、文字通り百花繚乱、息づまるような香が立っており、その上を満州あげはという大きな蝶が無数に遊んでいるのであった》

北満州の春は一瞬のうちに終わる。

《替って野は緑一色の夏景色があらわれる。野に立って眺めると緑にもさまざまあり、昨日まで花をつけていた背の低い雑草類は、浅緑だが、ところどころに見える、こんもりとした低い木や、天に届く楊柳は既に濃緑で、それが日に日に色を増してくるのがはっきりと判る》

私が高速鉄道の車窓越しにその辺りの光景を見た6月中旬といえば、たぶん、そんな季節をすこしばかり過ぎたころだったのだろう。


■飲馬河を渡る?
いま、地図やネットで確認してみると、長春からいったん北西に延びて吉林方面へ向かう在来線にたしかに飲馬河、九台、営城子という駅が連なっている。営城子は、綾子が荒くれのソ連兵に怯え、ごみ捨て場を漁る飢餓のなかで越冬した難民収容所があったところだ。九台は、旧関東軍のバラック兵舎で日本への引き揚げを待つ間、夫が国共内戦に巻き込まれ危うく難を逃れた場所である。

今回、私たちが乗った長春―吉林間の高速鉄道は在来線より南寄りのコースで新たに敷設されたようで、5年前に開業したのだという。さらに、これはネットで調べていて気づいたのだが、高速鉄道は長春を出てすぐに飲馬河という川をまたいで走っているようだ。そんな意識がまったくなかった私が、そのことに気づくはずもなかったのは当然だが、いま考えると惜しいことをしたものである。

■鄧小平の謙虚さ
快適に走る高速鉄道の車内で、いま一つ思い出したことがある。かつての中国の最高指導者、鄧小平のことである。1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換で日本を公式訪問した鄧小平は東京―京都間で新幹線に乗り、その感想を「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」と述べた。

当時、テレビニュースに映し出された、そのときの率直な語りようと無邪気とさえいえる表情――、その残像が私の頭の中でしばしば反復されてきた。鄧小平はこの訪日時、「まず必要なのは、我々が遅れていることを認めることだ。遅れていることを素直に認めれば、希望が生まれる。…今回日本を訪れたのも、日本に教えを請うためだ」とも語っていた。(鄧小平語録は、2008年12月3日『人民網 日本語版』より引用)

中国が改革開放政策を決定したのはその年の暮れだった。以来、今日に至るその後の中国発展の基礎は、鄧小平のこの率直さと謙虚さによって築かれたのだと私は思う。

そんなことを思いながら、車内で周囲の乗客の様子をうかがってみる。日本の新幹線に比べると、やや、よそ行き気味の顔が多いように見える。考えてみると、そうなのかもしれない。日本で、東京―新大阪間の新幹線が開業したのは1964年10月、「団塊」のはしくれの私が高校生のときだった。

北陸の地方都市で高校時代を送ったこともあり、新幹線に乗るのは開業からだいぶたってからだった。たぶん、大学時代だったと思うが、初めのうちはけっこう緊張していたものである。中国の乗客たちもあるいはそのようなことなのかもしれない。

あっという間に40分。私たちはもう、吉林に着いていた。『観光コースでない「満州」』で小林慶二さんは「長春から吉林まで快速列車で約二時間の旅だった」と書いている。中国はここでも大きく変わってきている。(波佐場 清)
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2016年9月20日火曜日

「満州」への旅⑩――「お城」

満映撮影所跡の博物館と満州建国大学で時間を費やし、時計を見ると、とうにお昼の時間が過ぎていた。悪いことに空模様がおかしくなり、雨も降り出した。私たちは遅い昼食をとりながら雨が止むのを待った。

ここ中国東北部には梅雨はないが、上海あたりに梅雨前線がかかる6月中旬のこの時期、夕立はよくあるという。天気図を見ると、中国東北部と沿海州付近に低気圧ができていた。

昼食をすませても雨は止まない。しばらく車の中で待ってみたが、雨脚は強まるばかりだ。やむなく、私たちは車窓越しの市内見物をすることにした。

■広い道路と緑の街
前日、長春に着いた時から感じていたことだが、この街はともかく道路が広く、緑も多い。街路樹ではマツやヤナギの類が目立つ。中国といえば、このところ、ついPM2.5や黄砂を連想してしまうが、少なくとも、私たちが長春滞在中に吸った空気は決して悪くはなかった。

この街、吉林省の省都の長春は研究学園都市として知られ、中国最大規模の吉林大学をはじめ多くの国立大学や研究機関が集まっている。都市圏人口750万。自動車工業の拠点でもある。

歴史をひも解くと、長春は鉄道の拠点として発展してきた。日清戦争後の三国干渉(1895年)で日本の遼東半島領有を阻止したロシアは、見返りとして清国から東清鉄道の敷設権を獲得。満州を横断する本線とともにハルビン―旅順・大連間に支線(南満州鉄道)をのばした。長春はその支線沿線にあり、ロシアは一帯に広大な付属地を確保していった。

そこに日本が割り込んだ。日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約(1905年)でロシアから長春以南の鉄道を譲り受け、満鉄が中心になって長春の市街地づくりに着手。日本にとってそこは、ロシアとの間で鉄道権益と満州の覇権を争う重要拠点となった。

大陸侵略を進めた日本はその後、満州事変をへて1932年、ここを満州国の首都、新京と定め、独自の構想に基づいて本格的な首都づくりにかかった。

■日満折衷
38年、満映に入社した山口淑子は当時の新京の様子を、前回紹介した藤原作弥との共著『李香蘭 私が半生』新潮文庫)のなかで、次のように書いている。

《まったくの人工都市。ハルビン、奉天[瀋陽]、大連など旧満州の大都市のほとんどが帝政ロシヤによる設計・建設で、ヨーロッパ風市街の面影を残しているのに対し、新京は安東[丹東]などとともに、満鉄が奈良、京都など日本の古都の市街を大陸風にアレンジして再現した日満折衷の都市様式だった》

《縦の通りは、京都風に一条、二条、三条と並び、横は和泉町、露月町と「イロハ順」、さらに「ヒフミ順」の日出町、富士町。「アイウエオ順」の曙町、入船町と命名された。

私が満映に入社したばかりのころは、新京の街全体が大きな公園の感じで、大通りを過ぎると郊外はまだ原野だった。しかし中心部は、ちょうど国都建設一期五カ年計画が終了したところで、大同広場(現・人民広場)周辺には主要政府機関の建物が出そろい、ようやく首都らしい風景ができあがりつつあった》

■旧官庁の建物群
長春の街は、満州国時代の都市基盤をそのまま引き継いで発展させてきた。車で市内を回ってみると、中央分離帯や側道を贅沢にとった片側2~3車線の道路が縦横に走り、あちこちに公園とおぼしき緑地が見えてくる。

満州国時代の官庁街、新民大街に入ると、旧国務院の建物が見えてきた。日本の国会議事堂とどこか似ている。「満州国の中枢神経」といわれた総務庁が入っていた建物だ。そのトップ総務長官は、官制上は国務総理(現地中国人)を補佐する機関とされたが、事実上、満州経営の実権を握っていた。思い浮かぶのは元首相、岸信介(1896~1987)のことである。

岸は36年10月、商工省工務局長から満州国実業部総務司長に転出。翌37年7月、総務庁次長に昇格。以後39年10月にこの地を離れるまで、大蔵省出身の総務長官星野直樹に次ぐ満州国最高首脳の一人として辣腕を振るった。満州国では、「主権者」溥儀の権限はなきに等しく、行政権をもつ国務院は事実上、岸ら日本のエリート官僚に支配されていた。(原彬久著『岸信介―権勢の政治家―』岩波新書)

ほかに、旧満州国の軍事部、経済部、交通部、司法部といった建物がこの通り沿いに並んでいる。鉄筋コンクリート造りの洋式建築に和風や中国風の屋根を載せた和漢洋折衷の「帝冠様式」といわれる建物群だ。

■「お城」
車で回っている間も雨脚は衰えない。翌日に控えた吉林大学での学術セミナーの準備もある。私たちは涙をのんで、この日のフィールドワークを打ち切った。

学術セミナーを挟んで旅行4日目の朝、私たちは長春を発って吉林市に向かうことになっていた。その長春出発の朝、私には最後に一カ所、どうしてもこの目で確かめておきたい場所があった。

満州国時代、「お城」といわれていたという元関東軍司令部の建物である。幸い、降り続いていた雨も明け方には上がっていた。私たちはホテルをチェックアウトし、タクシーでそこに寄ってから高速鉄道の長春駅へ向かうことにした。

長春駅から真っすぐ南にのびる人民大街、満州国時代には「大同大街」といわれたメーンストリートを逆方向、つまり南から長春駅に向けて走っていくと、左手にその建物は見えてきた。こんもりと茂ったマツ林の上にそびえたつのは、まさに天守閣そのものである。

車を回してその正面入り口に止めてもらい、カメラを天守閣に向けると、そばにいた守衛が飛び出てきて何やらわめいている。ここで車を止めるなと言っているのか、写真を撮ってはいけないといっているのか……。

ともかく、鉄製の扉の横で素早くシャッターだけを切ってその場を離れた。入り口の右側の門柱には、白地に赤い文字で「中国共産党吉林省委員会」と書いた門札がかかっていた。

■関東軍司令部と中国共産党
関東軍は、日露戦争後に満州に置かれた関東都督府が1919年関東庁に改組された際、その陸軍部が独立してできた。当初、旅順に司令部を置いていたが、その後、満州事変を策動、満州国ができると1934年、首都・新京に移ってきた。「お城」はその時に新築された。

以後、日本の敗戦に至るまで、ここが関東軍の拠点となった。小磯国昭、板垣征四郎、東条英機、石原莞爾、服部卓四郎、辻政信……。そんな軍人たちがここを拠点に権勢をふるい、作戦を練り、そして関東軍は満州国もろとも滅んでいったのである。

かつて関東軍司令部、いま、共産党委員会。性格こそ違え、いずれも最高権力機関である。そう考えると、この取り合わせはなんとも奇妙なようにも思えてくる。

■「中国人は実利的」
この「お城」をはじめ、旧満州国の支配機構の建物群を見ていて私は韓国でのことを思い起こしていた。20年ほど前の金泳三大統領の時代だった。ソウルの中心部にあった、かつての朝鮮総督府の建物をめぐって「屈辱の歴史の象徴だ」と撤去論が持ち上がった。

解放後もずっと政府庁舎や博物館として使ってきていた。しかし元もと、朝鮮王朝の宮殿の一部を取り壊し、王宮の前に立ちはだかるように建てられていたこともあり、王宮の復元も構想して大統領の決断で撤去した。日本の植民地支配からの解放50年に当たった1995年のことだった。

韓国人の気持ちはよく分かるような気がする。そんな韓国と中国は違うのだろうか。吉林大学での今回のセミナーには韓国からの研究者も参加していた。そのうちの旧知の一人に率直なところを聞くと、「うーん…」とうなった後、微笑を浮かべながら次のように答えてくれた。

「中国人は実利的だからね。われわれ韓国人とはちょっと違うのかもしれない…」

『五色の虹』の中で三浦英之氏が、満州建国大学で日本人、韓国人らと寝食を共にしながら学んだ一人の老中国人が体験に基づいて語った次のような言葉を紹介していることを思い出した。

「中国人は利で働く、朝鮮人は情で働く、日本人は義で働く」

朝鮮総督府は歴史とプライドのある王宮が押しのけられたのに対し、長春の街は原野を切り開いて造成された。そんな違いも考えると一概には言えないと思いつつも、一方で、老中国人の言葉に、なるほど、思ってみたりもする。

長春には心残りが多かった。満州国皇帝溥儀の宮殿跡「偽皇宮博物館」を見ることができなかった。ほかにも、韓国の元大統領朴正煕(1917~79)が学んだ満州陸軍軍官学校跡や、同崔圭夏(1919~2006)が学んだ大同学院跡……。欲を言えばきりがないが、時間が許さず、次の機会を待つほかない。後ろ髪を引かれる思いで、私は長春駅に向かった。