2016年9月26日月曜日

「満州」への旅⑪――『朱夏』の風景

長春駅から高速鉄道で吉林に向かった。「和諧号」の2等席。出発してほどなく車窓越しに広大な平野が広がる。時折、雨が窓を打つ。車内の電光掲示板をみると、「内温23度 外温17度」の表示。快適だ。細かな点はともかくも、乗り心地など、日本の新幹線とさほどの変わりはない。

■宮尾登美子著『朱夏』
車窓越しに猛スピードで後ろへ飛び去る田畑と遠くの地平線を眺めながら、私はある物語のことを思い浮かべていた。
宮尾登美子(19262014)の小説『朱夏』のことである。舞台はたしか、このあたりだったような…。間もなく停車した「九台南」という駅名にハッとした。間違いない。九台という地名は私の頭にしっかりと刻み込まれている。

旅を終えた後、『朱夏』(新潮文庫)を読み返してみた。1985年、宮尾59歳のときの作品で、自らの若き日の「満州」体験をそのまま描いたといわれる。


 
宮尾の分身である高知出身の綾子は、日本敗戦5カ月前の1945年春、小学校教師の夫に付き従って満州に渡る。高知から入植した開拓団の子弟教育のためで、県の「出向命令」というかたちだった。綾子18歳、生後50日の長女をおぶっての旅立ちだった。以来、敗戦を挟み翌469月に引き揚げるまでの1年半、現地の「土の家」での教師仲間らとの共同生活や、ソ連軍と中国暴民に追われての難民収容所暮らしなど、極限状態の人間模様を繊細な心理描写と冷静な目で追っている。

■飲馬河
主舞台は、長春からさほど遠くない飲馬河、営城子、九台という地域。最初に住んだのは、夫が勤める小学校の所在地、飲馬河という村だった。

《飲馬河村は新京[長春]から近々一時間半余り、これは満州でいえば最高に交通至便という土地で、それに水田のほとんどない満州では珍しく、飲馬河からの引水によって既に二千町歩もの水田が作られてあった。総面積一万五千町歩というのは全部耕地であり、ということはそこに農民の先住者がいて農業を営んでいたことに他ならず、日本の移民が強引にそこに割り込んで来れば当然現地人は立ち退かなければならなかった》

4月初め、着いたばかりのその地の光景を宮尾は、次のように描写している。

《飲馬河村の風光は、視線の届く限り赤茶けた土一色であった。まだ春にはほど遠く、過酷な冬をやりすごしているためにものの芽の気配もない上に、学校も近くの住民の家もすべて土ででき上がっており、わずかに屋根に葺いた何かの草だけが柔らかさを帯びているという乾き切ったこの光景を見て、綾子は咽喉もとに固いものが詰まるような気がした》

《夕陽の沈むのを見たのは到着後三日目で、西方の地平線に巨大な太陽が朱いろに燃えながらずしんずしんとまるで地響きをたてるように落ちてゆき、そしてみるみるうちに球形が半円になり櫛形になって、あっとおもう間もなく奈落の向こうに消えていった。内地の落日はゆるやかでいつまでも夕闇にたゆたっているが、ここでは陽足極めて早く、落ちた途端に濃い闇がただちに下りて来る。闇とともに寒さもひしひしと迫ってくるなかで、綾子は初めて見た満州の夕陽の荘厳さに打たれ、しばらくその場を動くこともできなかった》

■一瞬の春
やがて、「大陸名物の黄塵の季節」が過ぎ、5月初め、ここにも春がやってくる。

《たしか昨日の朝までは土一色だった野は、わずか一夜のうちに天から五彩の織物を降らせたように紅、赤、朱、黄、緑と鮮やかな色をいちめん繰りひろげ、折からのさんさんたる朝陽にめらめらと秀明な炎のかげろうを燃やしている。足もとを仔細に見ればれんげ、たんぽぽ、すみれ、おきなぐさ、すずらん、その他名も知らぬ可憐な小花がせいいっぱいに咲き競っていて、文字通り百花繚乱、息づまるような香が立っており、その上を満州あげはという大きな蝶が無数に遊んでいるのであった》

北満州の春は一瞬のうちに終わる。

《替って野は緑一色の夏景色があらわれる。野に立って眺めると緑にもさまざまあり、昨日まで花をつけていた背の低い雑草類は、浅緑だが、ところどころに見える、こんもりとした低い木や、天に届く楊柳は既に濃緑で、それが日に日に色を増してくるのがはっきりと判る》

私が高速鉄道の車窓越しにその辺りの光景を見た6月中旬といえば、たぶん、そんな季節をすこしばかり過ぎたころだったのだろう。


■飲馬河を渡る?
いま、地図やネットで確認してみると、長春からいったん北西に延びて吉林方面へ向かう在来線にたしかに飲馬河、九台、営城子という駅が連なっている。営城子は、綾子が荒くれのソ連兵に怯え、ごみ捨て場を漁る飢餓のなかで越冬した難民収容所があったところだ。九台は、旧関東軍のバラック兵舎で日本への引き揚げを待つ間、夫が国共内戦に巻き込まれ危うく難を逃れた場所である。

今回、私たちが乗った長春―吉林間の高速鉄道は在来線より南寄りのコースで新たに敷設されたようで、5年前に開業したのだという。さらに、これはネットで調べていて気づいたのだが、高速鉄道は長春を出てすぐに飲馬河という川をまたいで走っているようだ。そんな意識がまったくなかった私が、そのことに気づくはずもなかったのは当然だが、いま考えると惜しいことをしたものである。

■鄧小平の謙虚さ
快適に走る高速鉄道の車内で、いま一つ思い出したことがある。かつての中国の最高指導者、鄧小平のことである。197810月、日中平和友好条約の批准書交換で日本を公式訪問した鄧小平は東京―京都間で新幹線に乗り、その感想を「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」と述べた。

当時、テレビニュースに映し出された、そのときの率直な語りようと無邪気とさえいえる表情――、その残像が私の頭の中でしばしば反復されてきた。鄧小平はこの訪日時、「まず必要なのは、我々が遅れていることを認めることだ。遅れていることを素直に認めれば、希望が生まれる。…今回日本を訪れたのも、日本に教えを請うためだ」とも語っていた。(鄧小平語録は、2008123日『人民網 日本語版』より引用)

中国が改革開放政策を決定したのはその年の暮れだった。以来、今日に至るその後の中国発展の基礎は、鄧小平のこの率直さと謙虚さによって築かれたのだと私は思う。

そんなことを思いながら、車内で周囲の乗客の様子をうかがってみる。日本の新幹線に比べると、やや、よそ行き気味の顔が多いように見える。考えてみると、そうなのかもしれない。日本で、東京―新大阪間の新幹線が開業したのは196410月、「団塊」のはしくれの私が高校生のときだった。

北陸の地方都市で高校時代を送ったこともあり、新幹線に乗るのは開業からだいぶたってからだった。たぶん、大学時代だったと思うが、初めのうちはけっこう緊張していたものである。中国の乗客たちもあるいはそのようなことなのかもしれない。

あっという間に40分。私たちはもう、吉林に着いていた。『観光コースでない「満州」』で小林慶二さんは「長春から吉林まで快速列車で約二時間の旅だった」と書いている。中国はここでも大きく変わってきている。(波佐場 清)

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