ここ中国東北部には梅雨はないが、上海あたりに梅雨前線がかかる6月中旬のこの時期、夕立はよくあるという。天気図を見ると、中国東北部と沿海州付近に低気圧ができていた。
昼食をすませても雨は止まない。しばらく車の中で待ってみたが、雨脚は強まるばかりだ。やむなく、私たちは車窓越しの市内見物をすることにした。
■広い道路と緑の街
前日、長春に着いた時から感じていたことだが、この街はともかく道路が広く、緑も多い。街路樹ではマツやヤナギの類が目立つ。中国といえば、このところ、ついPM2.5や黄砂を連想してしまうが、少なくとも、私たちが長春滞在中に吸った空気は決して悪くはなかった。
この街、吉林省の省都の長春は研究学園都市として知られ、中国最大規模の吉林大学をはじめ多くの国立大学や研究機関が集まっている。都市圏人口750万。自動車工業の拠点でもある。
歴史をひも解くと、長春は鉄道の拠点として発展してきた。日清戦争後の三国干渉(1895年)で日本の遼東半島領有を阻止したロシアは、見返りとして清国から東清鉄道の敷設権を獲得。満州を横断する本線とともにハルビン―旅順・大連間に支線(南満州鉄道)をのばした。長春はその支線沿線にあり、ロシアは一帯に広大な付属地を確保していった。
そこに日本が割り込んだ。日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約(1905年)でロシアから長春以南の鉄道を譲り受け、満鉄が中心になって長春の市街地づくりに着手。日本にとってそこは、ロシアとの間で鉄道権益と満州の覇権を争う重要拠点となった。
大陸侵略を進めた日本はその後、満州事変をへて1932年、ここを満州国の首都、新京と定め、独自の構想に基づいて本格的な首都づくりにかかった。
■日満折衷
38年、満映に入社した山口淑子は当時の新京の様子を、前回紹介した藤原作弥との共著『李香蘭 私が半生』新潮文庫)のなかで、次のように書いている。
《まったくの人工都市。ハルビン、奉天[瀋陽]、大連など旧満州の大都市のほとんどが帝政ロシヤによる設計・建設で、ヨーロッパ風市街の面影を残しているのに対し、新京は安東[丹東]などとともに、満鉄が奈良、京都など日本の古都の市街を大陸風にアレンジして再現した日満折衷の都市様式だった》
《縦の通りは、京都風に一条、二条、三条と並び、横は和泉町、露月町と「イロハ順」、さらに「ヒフミ順」の日出町、富士町。「アイウエオ順」の曙町、入船町と命名された。
私が満映に入社したばかりのころは、新京の街全体が大きな公園の感じで、大通りを過ぎると郊外はまだ原野だった。しかし中心部は、ちょうど国都建設一期五カ年計画が終了したところで、大同広場(現・人民広場)周辺には主要政府機関の建物が出そろい、ようやく首都らしい風景ができあがりつつあった》
■旧官庁の建物群
長春の街は、満州国時代の都市基盤をそのまま引き継いで発展させてきた。車で市内を回ってみると、中央分離帯や側道を贅沢にとった片側2~3車線の道路が縦横に走り、あちこちに公園とおぼしき緑地が見えてくる。
満州国時代の官庁街、新民大街に入ると、旧国務院の建物が見えてきた。日本の国会議事堂とどこか似ている。「満州国の中枢神経」といわれた総務庁が入っていた建物だ。そのトップ総務長官は、官制上は国務総理(現地中国人)を補佐する機関とされたが、事実上、満州経営の実権を握っていた。思い浮かぶのは元首相、岸信介(1896~1987)のことである。
岸は36年10月、商工省工務局長から満州国実業部総務司長に転出。翌37年7月、総務庁次長に昇格。以後39年10月にこの地を離れるまで、大蔵省出身の総務長官星野直樹に次ぐ満州国最高首脳の一人として辣腕を振るった。満州国では、「主権者」溥儀の権限はなきに等しく、行政権をもつ国務院は事実上、岸ら日本のエリート官僚に支配されていた。(原彬久著『岸信介―権勢の政治家―』岩波新書)
ほかに、旧満州国の軍事部、経済部、交通部、司法部といった建物がこの通り沿いに並んでいる。鉄筋コンクリート造りの洋式建築に和風や中国風の屋根を載せた和漢洋折衷の「帝冠様式」といわれる建物群だ。
■「お城」
車で回っている間も雨脚は衰えない。翌日に控えた吉林大学での学術セミナーの準備もある。私たちは涙をのんで、この日のフィールドワークを打ち切った。
学術セミナーを挟んで旅行4日目の朝、私たちは長春を発って吉林市に向かうことになっていた。その長春出発の朝、私には最後に一カ所、どうしてもこの目で確かめておきたい場所があった。
満州国時代、「お城」といわれていたという元関東軍司令部の建物である。幸い、降り続いていた雨も明け方には上がっていた。私たちはホテルをチェックアウトし、タクシーでそこに寄ってから高速鉄道の長春駅へ向かうことにした。
長春駅から真っすぐ南にのびる人民大街、満州国時代には「大同大街」といわれたメーンストリートを逆方向、つまり南から長春駅に向けて走っていくと、左手にその建物は見えてきた。こんもりと茂ったマツ林の上にそびえたつのは、まさに天守閣そのものである。
車を回してその正面入り口に止めてもらい、カメラを天守閣に向けると、そばにいた守衛が飛び出てきて何やらわめいている。ここで車を止めるなと言っているのか、写真を撮ってはいけないといっているのか……。
ともかく、鉄製の扉の横で素早くシャッターだけを切ってその場を離れた。入り口の右側の門柱には、白地に赤い文字で「中国共産党吉林省委員会」と書いた門札がかかっていた。
■関東軍司令部と中国共産党
関東軍は、日露戦争後に満州に置かれた関東都督府が1919年関東庁に改組された際、その陸軍部が独立してできた。当初、旅順に司令部を置いていたが、その後、満州事変を策動、満州国ができると1934年、首都・新京に移ってきた。「お城」はその時に新築された。
以後、日本の敗戦に至るまで、ここが関東軍の拠点となった。小磯国昭、板垣征四郎、東条英機、石原莞爾、服部卓四郎、辻政信……。そんな軍人たちがここを拠点に権勢をふるい、作戦を練り、そして関東軍は満州国もろとも滅んでいったのである。
かつて関東軍司令部、いま、共産党委員会。性格こそ違え、いずれも最高権力機関である。そう考えると、この取り合わせはなんとも奇妙なようにも思えてくる。
■「中国人は実利的」
この「お城」をはじめ、旧満州国の支配機構の建物群を見ていて私は韓国でのことを思い起こしていた。20年ほど前の金泳三大統領の時代だった。ソウルの中心部にあった、かつての朝鮮総督府の建物をめぐって「屈辱の歴史の象徴だ」と撤去論が持ち上がった。
解放後もずっと政府庁舎や博物館として使ってきていた。しかし元もと、朝鮮王朝の宮殿の一部を取り壊し、王宮の前に立ちはだかるように建てられていたこともあり、王宮の復元も構想して大統領の決断で撤去した。日本の植民地支配からの解放50年に当たった1995年のことだった。
韓国人の気持ちはよく分かるような気がする。そんな韓国と中国は違うのだろうか。吉林大学での今回のセミナーには韓国からの研究者も参加していた。そのうちの旧知の一人に率直なところを聞くと、「うーん…」とうなった後、微笑を浮かべながら次のように答えてくれた。
「中国人は実利的だからね。われわれ韓国人とはちょっと違うのかもしれない…」
『五色の虹』の中で三浦英之氏が、満州建国大学で日本人、韓国人らと寝食を共にしながら学んだ一人の老中国人が体験に基づいて語った次のような言葉を紹介していることを思い出した。
「中国人は利で働く、朝鮮人は情で働く、日本人は義で働く」
朝鮮総督府は歴史とプライドのある王宮が押しのけられたのに対し、長春の街は原野を切り開いて造成された。そんな違いも考えると一概には言えないと思いつつも、一方で、老中国人の言葉に、なるほど、思ってみたりもする。
長春には心残りが多かった。満州国皇帝溥儀の宮殿跡「偽皇宮博物館」を見ることができなかった。ほかにも、韓国の元大統領朴正煕(1917~79)が学んだ満州陸軍軍官学校跡や、同崔圭夏(1919~2006)が学んだ大同学院跡……。欲を言えばきりがないが、時間が許さず、次の機会を待つほかない。後ろ髪を引かれる思いで、私は長春駅に向かった。
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