■日本からの資金調達問題で信任得る
外務部長官の盧信永は、すぐに全斗煥大統領の目に留まった。
新軍部が血を流して権力を握った1980年は、経済もどん底だった。マイナス成長のうえに、経済を立て直そうにも資金がなく、手の打ちようがなかった。新軍部政権は「日本から経済協力資金として100億ドルを導入しよう」というアイデアを採用した。
▽米国を説得して先手
全斗煥大統領は飛びついた。
経済企画院の崔昌洛次官を中心とする実務チームが日本にたいする要求草案を作成、経済副総理の申秉鉉、外務部長官の盧信永、経済首席秘書官の金在益が、調達額を100億ドルと確定させて大統領に報告した。
1981年2月2日、全斗煥大統領はワシントンでレーガン大統領と韓米首脳会談を開いた際にその布石を打った。「金大中の減刑」(死刑免除)を交換条件に開かれた首脳会談だった。席上、全大統領は、レーガン大統領に対日要求の名分を説明して日本に先手を打ったのだった。盧信永長官が練った緻密なアイデアだった。
会談の席上、全斗煥大統領はこう説明した。
「日本は東北アジアの安全保障のためにもう少し積極的な役割を果たすべきだ。日本が今日の繁栄を築くことができたのは、韓国と米国が共産陣営にたいする防波堤の役割を果たしているからだ。したがって日本は、米国が2個師団の兵力を韓国に駐屯させるのに要するだけの費用を、防衛費の名目ではなく経済協力というかたちで韓国に援助すべきだ。日本は、GNP1兆1600億ドルのうち国防費は0・9%にすぎないというのに、韓国はGNP600億ドルのうちの6%を防衛費に充てているではないか」(『盧信永回顧録』)
▽「米軍駐屯費用の5年分」
もともとこのアイデアは、日本が開発途上国に低金利で融資する政府開発援助(ODA)からヒントを得たという。建前としては「日本は、韓国が共産圏の防波堤になっているおかげで、『安保ただ乗り』で経済繁栄を享受しているのではないか」とするものだった。実際、1969年の日米共同声明には「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」という文言が含まれていたのである。
100億ドルとした根拠は、在韓米軍2個師団の駐屯費用(年間20億ドル)の5年分相当ということだった。100億ドルを韓国に支援すれば、韓国経済は立ち直り、それによって日本の安全保障もしっかりとしたものになる――とする論理だった。密室で編み出された「金先達流」[金先達は、朝鮮時代末期の伝説的な詐欺師。頓智(とんち)で悪人をやっつけたとされる庶民派のアンチヒーロー]のアイデアだっただけに、100億ドルをどう使うかという具体的な計画自体、存在しなかった。
▽「安保ただ乗り」で焚き付け
計算高くて抜け目のない日本から資金を絞りとるには米国の力添えも必要だった。
韓米首脳会談でレーガン大統領に援護射撃を求めた。
全斗煥は何食わぬ顔でレーガンを前に、「米国が韓国に2個師団を駐屯させるのに必要なくらいの資金を、日本は防衛費ということでなく経済協力のかたちで韓国に提供すべきだ」と布石を打ったのである。
一方で、盧信永は別途、ホルドリッジ国務次官補と会って焚きつけた。米国は、それでなくても日本の「安保ただ乗り」を苦々しく思っていたところだった。その分、このような訴えは効いた。
こうして盧信永は先頭に立って日本に正式に要求を突きつけたのである。
▽「奇想天外な100億ドル」
1981年4月22日、盧信永長官は離任前の須之部量三・駐韓日本大使を外務部に呼び、「安保経済協力」として100億ドルを援助するよう求めた。内々の調整もなく、いきなり奇襲的に突きつけた要求だった。須之部は後日、「奇想天外な数字に耳を疑った」と述懐している。
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| 須之部量三駐韓大使(左)と盧信永外務部長官=1980年11月、韓国外務部で |
日本側も甘くはなかった。
「韓国が発表した経済開発計画(第5次5カ年計画)には、日本からの借款100億ドルなど入っていないではないか」と痛いところを突いてきた。そうなると青瓦台は100億ドルの使用計画をひねり出すのに大わらわとなった。81年8月、日本の園田直外相は東京を訪れた盧信永外務長官にたいし、「ほかの名分なら、いざ知らず、防衛費の分担という名目では受け入れることはできない」と一歩も引かなかった。
▽瀬島龍三、権翊鉉
互いに一歩も譲らぬ膠着状態が続き、密使が行きかった。
全斗煥大統領と陸士11期同期の権翊鉉(のちに民正党代表)や、日本の商社伊藤忠顧問の瀬島龍三らだった。権翊鉉は1973年の「尹必鏞事件」で予備役に退かされ、三星(サムスン)グループ(三星精密専務)にいたとき、瀬島と知り合っていた。しかし、無二の親友という2人が乗り出したからといって、国益がぶつかっているなかでは、明確な答えがでるはずもなかった。
そうこうしているうちに1982年5月、李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件が弾けたのだった。
▽安企部長に大抜擢
韓日経済協力交渉は八方塞がりの状態だった。しかし、そんな難題に心血を注ぐ盧信永の真摯な忠誠心が全斗煥に認められ、一挙に安企部長に大抜擢される。金大中の減刑から韓米首脳会談に至る交渉手腕が評価されたことも、もちろんである。
一方で、権翊鉉は、民正党の事務総長(権正達の後任)へと駆け上る。
権翊鉉は、1980年に新軍部が政権を握った当初から政治の前面に出たかったのだが、許和平、許三守という二人の大佐(「2許」)の牽制によって阻まれていた。その論理というのは「新時代の新しい政治を、古臭い人間が掻き乱してはならない」というものだったという。そんなところへ権翊鉉が登用されたのだから、「2許」は、さぞ驚き、ドキリとしたことだろう。
全斗煥大統領は、盧信永を安企部長に据えた後も、引き続き、盧に韓日の経済協力問題を取り仕切るよう命じた。
そうなると盧信永は、閣下の信任に忠誠を尽くそうと、外務部の外からリモコンで古巣の外務部の後輩たちを指揮しだした。
おかげで、平壌高等普通学校の5年先輩にあたる李範錫外務部長官[このあと、1983年10月のラングーン事件で死去]が激怒するところとなり、二人の仲はすっかり冷え切ってしまった。この前任と後任の2人の長官の間にあって、孔魯明次官補[のちに駐日大使や外務部長官]と崔東鎮アジア局長[のちに駐英大使]らは板挟みとなり、脂汗を流したということは言うまでもない。
訳:波佐場 清







