■全斗煥、「3許」を牽制
第5共和国(全斗煥政権)の「創業功臣」として威張りまくり、「共同経営者」と自負さえしてきた許和平と許三守の「2許」や李鶴捧といった保安司令部出身の首席秘書官たち――。全斗煥大統領は、煙たくなってきていた彼らを1981年12月22日の人事で巧妙に遠ざけた。
▽許和平を追い出す
政務第1首席秘書官の禹炳奎を国会事務総長として転出させ、許和平をその後釜に据えた。一見、昇進のように見えたが、事実上、追い出したのだった。全斗煥大統領の執務室の目と鼻の先で「補佐官」の名刺を使い、漢方薬における甘草のように何にでも事あるごとに首を突っ込んでいた許和平だったが、以後、政務首席秘書官室だけに籠らざるを得なくなった。
▽法曹エリートを抜擢
一方で、頭の回転が速く機転の利く文民出身の法曹エリートの3人を抜擢した。朴哲彦(検事)を政務首席秘書官室に、孫晋坤(裁判官)を司正首席秘書官室に、金栄馹(検事)を民情首席秘書官室に、それぞれ配置した。偶然にも、これら3人の秘書官は、いずれも大邱の名門・慶北高校の同期生だった。全斗煥の人材登用の妙であり、権力の座に就いて1年半の経験と自信がにじみ出た、驚くべき一手だった。
それからさらに1年後、許和平と許三守が追い出されて青瓦台を去ることになろうとは、その時はまだ、だれも知る由がなかった。
本館にあった秘書室長室も、金瓊元室長を国連大使に転出させて後任に李範錫・統一部長官を据えるのと同時に、室長室そのものを本館からずっと離れた別館に追い払った。
▽朴槿恵に代わり、李順子
1981年の新しい年が明けると、全斗煥大統領夫人の李順子が「新世代育英会」[財団法人]の会長に就任する。
この組織の母体となったのは朴正煕の長女である朴槿恵が率いていた「セマウム奉仕団」[社団/旧・救国奉仕団/セマウムは「新しい心」の意]だった。全斗煥がこれを解散させるよう許和平に指示したため、許はソウル新堂洞にある朴槿恵の自宅を訪ねて行った。
許和平は、こう言って朴槿恵を説得した。
「(全斗煥政権は奉仕団にたいする財政援助はできないので)もう、財力のある側(財閥)の援助を受けて(財団法人として)運営するほかありません。しかし、もしそういうことになれば、(財閥との癒着が非難されてきた)反維新(反朴正煕政権)の風当たりが強い今のような状況にあっては、在野勢力[市民団体など]の恰好の標的になりかねません」
「朴槿恵には無念の表情がありありだった。要請を受け入れるとも、拒否するとも言わなかった。そうならざるを得なかった。陸英修女史[朴正煕夫人、朴槿恵の母親]が亡くなった後、ずっと自分が『セマウム奉仕団』を率いてきていたのだから」(許和平の回顧)[1974年に母親の陸英修女史が暗殺され、さらに79年、父親の朴正煕も暗殺されて両親を失った朴槿恵にとって、「セマウム奉仕団」は心の拠り所だったといわれる。それが全斗煥政権によって奪い取られたのだった]
▽百潭寺幽閉への火種
そのように、奪い取る時の名分はもっともらしかったが、李順子がそれを引き継ぐとなると、辻褄が合わず、格好もつかなくなる。そんなことを心配する青瓦台の参謀たちをよそに、全斗煥は強引に押し切った。
「一部の首席秘書官らは、問題の火種になりかねないと反対しているが、とんでもない話だ。朴槿恵の『セマウム奉仕団』は、崔太敏の不正もあって問題だった[新興宗教の指導者だった崔太敏は、陸英修女史の死後、朴槿恵の精神を完全に支配したとされる。娘の崔順実は、のちに朴槿恵政権(2013年2月~17年3月)下で国家権力を私物化し、それが国民の反発を招いて朴槿恵大統領は弾劾・罷免に追い込まれた]。しかし、これからは、国家百年の大計のために大統領夫人が会長になって責任を負い、運営に当たるのが正しいやり方なのだ」
全斗煥大統領は、軍の指揮官が訓示するような口調で、こう正当化したのだった。それが、長い歳月を経たのちに「新世代育英会会長・李順子」もまた、百潭寺に幽閉されことになる一つの口実にされるとは、この時点では、だれも知る由がなかった[李順子は、全斗煥大統領退任後の1988年秋、全斗煥とともに人里離れた江原道の山寺・百潭寺に籠り、約2年間にわたる事実上の「幽閉・隠遁生活」を強いられた]。
▽絶頂の「3許」
1981年1月10日、戒厳令の解除が発表された。
1979年の「10・26」(朴正煕暗殺事件)で戒厳令が出されて以来、実に456日ぶりのことだった。2月に大統領選出、3月に国会議員総選挙――という政治日程に合わせた戒厳令解除だった。
当時、青瓦台の秘書室は許和平の天下だった。
肩書こそ、「補佐官」という、たいしたこともないものだったが、大統領への報告や情報は、すべて許和平を通さなければならなかった。かれを筆頭に、司正首席秘書官の許三守、民情首席秘書官の李鶴捧、政務第1秘書官の許文道が突出し、軍の大先輩である安企部長の兪学聖までもが、かれらの顔色をうかがうという、まさに「スリー許」人脈の絶頂期であった(当時の安企部局長・金根洙の証言)。
秘書室長の金瓊元(1974年、高麗大教授から朴正煕大統領の政治特別補佐官となった)も、ただの「木偶の坊」に過ぎなかった。かれは微妙な問題には「あいまいな態度」(朴哲彦の表現)をとることで、「3許」らとの衝突を巧みに避けた。そんな世渡り上手な立ち回りで、金瓊元はのちに駐米大使を務めることになったのだった。
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| カークパトリック米国連大使と話す金瓊元(左)=1983年9月 |
▽権力闘争
1981年の新年を迎え、青瓦台では戒厳令をめぐり、「いま、解除すべきだ」「いや、まだ早い」という激しい論争が巻き起こった。小さな権力闘争だった。
政務第1首席秘書官の禹炳奎と法律秘書官の朴哲彦は、解除を主張した。
「3月末までには大統領選挙をおこなわなければならず、続いて国会議員選挙もやらなければなりません。だとすると、戒厳令下の選挙というのは格好がつかないので、避けるべきです。政党を立ち上げ、政治活動を解禁するためには集会も許可しなければなりませんが、戒厳令下では、それは不可能なのではないでしょうか」
全斗煥は、これを了とした。
しかし、許和平補佐官をはじめとする軍出身の参謀らは、色をなして猛反発した。
安企部長の兪学聖や同次長の玄鴻柱まで動員して「世間知らず」の文民出身の参謀である禹炳奎と朴哲彦を攻撃した。
「大統領閣下はすぐに、1月末にはもう、レーガン米大統領に会うためにソウルを留守にされるのですよ。何が起こるか分からないときに戒厳令を解除するだなんて、話になるでしょうか。政治家にたいする規制も解いて国会議員選挙もやらなければならないというのに、ここで野放しにしたら、世の中はまた、大変なことになってしまいます」
▽逆転
そんな軍出身参謀らの反論が、いったん「了」とした全大統領の決心をひっくり返した。
戒厳令の解除は、なかったことになった。戦車を出動させておいて選挙をおこなうというのか――。
禹炳奎と朴哲彦は、援軍を求めて金瓊元秘書室長の部屋へと向かった。
ソウル大法学部卒業、ハーバード大学国際政治学博士、高麗大教授出身という立派な肩書の文民、金瓊元室長なら助けてくれるものと期待した。
「戒厳令を出したままで大統領が米国に行かれ、国際舞台にデビューするというのは滑稽な話ではありませんか」
「一理あるお話です」(金瓊元)
2人は、共感する金瓊元秘書室長の前に大統領への報告書を差し出し、サインをしてほしいと頼んだ。大統領のもとに出す報告書に秘書室長のサインがないというのでは、お話にならない。しかし金瓊元は、補佐官の許和平を怖がっているようだった。政権の黒幕たちが反対していることはとうに分かっていたのだ。
「サインはできない」
2人は、秘書室長が目を通したという証拠だけでも記してほしい、と署名を促した。すると、金瓊元はしぶしぶペンをとった。
「見ました」と書いた。
▽再逆転
そんな「目を通した」というだけの、卑怯なまでに中立的な報告書を持って2人は再び、全大統領の執務室に入った。そして、その結果、なんとまた方針がひっくり返り、「大統領訪米前の戒厳令解除」ということになったのである。
この再逆転劇には、保安司令官の盧泰愚も一役買っていた。盧泰愚は、朴哲彦の「従兄(いとこ)」にあたった。朴哲彦がそんな従兄を背後から動かしていたことは、言うまでもない。
これによって許和平と朴哲彦の間にわだかまりが残った。青瓦台で「向かうところ敵なし」だった許和平と、のちの「盧泰愚時代」を見据えた朴哲彦との間の「避けられない一戦」(朴哲彦の表現)だった。
戒厳令が正式に解除されたのは1月24日だった。朴正煕暗殺直後から456日間、実に長い戒厳ではあった。
訳:波佐場 清
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