■金淇春、許和平へ「忠誠の手紙」
李哲煕・張玲子夫婦による手形詐欺事件の「流れ弾」が金淇春にも飛んでいった。
1982年6月、法務部の検察局長だった金淇春がいきなり、法務研修院の研修部長に飛ばされた。「検察の花」である検察局長が、辛うじて首がつながっているような研修院だなんて……。この左遷人事は、ソウルで大きな話題となった。
▽「法匪」
今日、「法の網をヌルヌルすり抜けるドジョウ」とか「法匪」といった悪名で通る金淇春ではある[朴槿恵政権で大統領秘書室長をしていた2016年、大統領の弾劾につながった「崔順実事件」(私人による国政介入事件)に関連して国会聴聞会に呼ばれた際、その圧倒的な法知識を駆使して追及をかわし続けたことから、そのようなあだ名がついた]。巨済島(慶尚南道)の寒村で育ち、検事になった。駆け出し検事のころ、法務部長官だった申稙秀に注目されたく、早朝から長官宅前の坂道を登っていって挨拶するなど、その勤勉さをアピールしていた、と沈在淪・元高検検事長は話す(2019年11月27日付「時事N」)。
朴正煕政権後半、維新時代の1974年、中央情報部長になっていた申稙秀の目に留まり、玄鴻柱[検事から外交官になり、駐米大使や国連大使を歴任]とともに抜擢される。若くして中央情報部対共捜査局長となり、バリバリ仕事をしていた。そんなとき、軍事境界線を挟んで北朝鮮と向き合う前線部隊の大隊長だった柳雲鶴中佐が通信兵を連れて北へ逃げ込む(越北)事件が起きた。
▽保安司令部に大ナタ
朴正煕大統領が逃亡の理由を探ったところ、(軍の監視役として、この前線部隊に張り付いていた)保安司令部の横暴(いじめ)に原因があることが分かった。
大統領は激怒し、金載圭率いる中央情報部に、保安司令部にたいする特別監査を指示した。その際、中央情報部から現地に乗り込んだ「凄腕の仕事人」が、対共捜査局長の金淇春だったのである。そのころ、保安司令部には陳鍾埰司令官のもと、許和平、許三守、李鶴捧らの将校がいた。かれらは、容赦なく大ナタを振るう金淇春のそのやり方にしてやられ、恨みを抱いた。保安司令部に置かれていた民間情報を収集する情報処が廃止されたのも、その時のことだったのである。
「金淇春め! やるにしても、あまりにもひどすぎる」
恐れられた保安司令部だといっても、民間情報を収集できないとなると、たいした存在ではなくなってしまう。軍の兵舎の中だけでふんぞり返っていたとしても、去勢されたも同然だ。情報処は1979年3月、全斗煥が第一師団長から保安司令官になってようやく復活したのだった(『全斗煥回顧録』)。
▽全斗煥の「頭脳プレー」
朴正煕大統領が、「わが子(養子)」のように可愛がっていた全斗煥の次のような論理を受け入れたのだった。
「閣下、情報機関は互いに競い合い、監視し合いながら、質の良い、正確な情報を上げなければなりません。それでこそ、閣下もクロスチェックができ、バランスも保たれます。客観性、真実性、正確性の面で情報の質を高めるべきです。保安司令部が民間の情報を収集できるよう、情報処を復活していただきたいのです」
全斗煥の話を聞いた朴正煕大統領は、その問題は金載圭・中央情報部長の建議(金淇春が起案していた)によってそういうことになったのだから、直接、情報部長と話し合ってみるように、と言ったのだった。とはいえ、そのままストレートに中央情報部側に持ちかけたとしても金載圭は応じるはずがなかった。情報部は、情報の独占を楽しみ、謳歌していたのである。
全斗煥は頭を使った。
朴大統領との単独面談を終えたその足で、秘書室長の金桂元と大統領警護室長の車智澈のところへ行き、大統領との話の内容について話し、協力を求めた。
朴大統領が了承したということについて両室長が異議を唱えようはずもない。
そのような挟み撃ちの作戦をとったうえで金載圭のところへ行くと、さすがの金載圭としても、どうしようもなかった。快諾するように、これを受け入れた。こうして数年間にわたって去勢されていた保安司令部が再び、思う存分に民間情報を収集できるようになったのだった(『全斗煥回顧録』)。全斗煥司令官は部下の処長たちから「さすが、ハナ会の会長であられる」と尊敬され、保安司令部の士気は大いに上がったのだった。
▽報復
臥薪嘗胆――。金淇春にしてやられた保安司令部は1980年に政権をとり、青瓦台を乗っ取った。保安司令部の時代が来たのである。
金淇春は息を潜めていなければならなかった。
しかし、許和平は昔の恨みを忘れられずにいた。1981年、許和平は仕返しとして金淇春を検事の座から引きずり下ろしにかかった。金淇春は当時、ソウル地検の公安部長をしていて検事長[検事正]に昇進する時期を迎えていた。それを昇進リストから外し、そのまま辞職に追い込もうとしたのである。
気配を察して不安に駆られた金淇春は、ずっと年下の後輩検事である朴哲彦秘書官を訪ね、助けを求めた。話を一通り聞いた朴哲彦は、金淇春に「許和平補佐官に手渡したいので、心を込めて許しを請うような手紙を一通書いてください」と求めた。
それを受けて金淇春は、真摯に膝を屈し、一言一句に必死の思いを込めた「忠誠の誓い」(朴哲彦の表現)を手紙に書いて朴哲彦に託した。この手紙が金淇春を救い、歴史を変えていった。金淇春は、艱難辛苦の末に許和平の恩赦によってなんとか検事長に昇進することができたのだった。そして、その後すぐに検察局長に栄転した。
▽大統領のホンネ見抜き、早とちり
しかし、かれの「ジェットコースター人生」は、そのまますんなりといった、というわけではなかった。
1982年に起きた李哲煕・張玲子手形詐欺事件の際、あまりにも回転が速すぎるその頭脳が問題になった。
同年5月31日、全斗煥大統領は朴哲彦を呼びつけ、こう指示した。
「李鍾賛・院内総務から聞いた話なのだが、金淇春が国会のある席で、李・張事件について『李哲煕が主犯だという点に焦点を合わせろというのは、上からの指示なんだ』と(「全大統領の親族である張玲子への追及が甘い」という世間の批判に対する)言い逃れをしたそうだ。法務部長官に命じて、検察局長の金淇春を直ちに調べるようにするんだ」(朴哲彦の証言)
折から、全斗煥は「(自身の妻の叔父である)李圭光の義妹にすぎない張玲子にどんな力があって詐欺を働くというのか。元中央情報部次長の李哲煕がやったことだ」と声を張り上げているところだった。そんななかで金淇春に痛いところを突かれたというわけである。
82年6月9日、真っ青に青ざめた金淇春がまた、朴哲彦秘書官に泣きついた。
「だれかが大統領に間違った報告をしたようなのです。あの怒りをなんとか鎮めていただけないものでしょうか」
朴哲彦は、またしても矢面に立った。
「金淇春は、後輩検事たちの信望も厚く、国会から出てきた話も事実とはちょっと違うようなのです」と、全斗煥に進言した。こうして金淇春は辛うじて命だけは助かったものの、前述した通り、法務研修院の研修部長に追いやられたのである。
▽臥薪嘗胆
そんな金淇春だったが、臥薪嘗胆である。時代が第6共和国(盧泰愚政権)に変わるまで、じっと耐え抜いた。
その間、かれは葬家の弔問などでだれかと出くわしても――例えば、憐れみの目で見る後輩たちの視線にもじっと耐えた。骨の髄まで「官職主義者」だった、という。例えば、かれは公職を失って「浪人」をしていた時代も、「朝食を食べ終えるとネクタイを締めて正装し、自宅2階に上がって現役の公務員のようにして過ごしながら時機が来るのを待った」と、しばしば自慢していたという(朴柱宣[金淇春の後輩の検察官で、のちに国会副議長]らの証言)。
第5共和国の時代、ある法務部長官が金淇春のことを不憫に思い、地検長[日本の検事正に相当]に発令しようとすると、青瓦台の首席秘書官から電話がかかった。
「法務長官の首を賭けるおつもりですか」
金淇春と「保安司令部政権」の悪縁は、それほどまでにしぶとく、根深いものだったのである。
金淇春は、そんな忍苦の歳月をはねのけ、第6共和国(盧泰愚政権)で初代の検察総長に就任した。そして、そこで第5共和国の安企部長だった張世東をはじめとする全斗煥政権の元将校や一般の兵士を、実に49人も拘束したのだった。一やられたら十を返すのが金淇春流の報復だと人々は評した。
そうした「5共清算」という血の嵐の功労ということなのかどうか、金淇春は、泰愚政権下で法務部長官にまで昇り詰めた。
▽金淇春を警戒した金泳三
そんな金淇春と金泳三は、共に巨済島(慶尚南道)出身の同郷であり、慶南高校の同窓(金淇春は後輩)という関係にあった。金泳三が野党統一民主党総裁(1987年5月~90年2月)だったころ、検察総長の金淇春を一時期、とても憎んでいた。
金淇春と慶南高校の同期だった金光一[釜山で人権弁護士として活躍していて金泳三にスカウトされ、野党統一民主党の国会議員になった。1990年、金泳三が盧泰愚らと手を組む「3党合同」で与党に転じると、合流を拒否。その後、金泳三政権(1993~98年)で大統領秘書室長などを務めた]は1989年ごろ、国会の野党総裁室で筆者にたいして、ひそやかにこう聞いてきたことがある。
「金泳三総裁が金淇春を(政治的に)抹殺しろと命令してくるんだ。何かいい手立てはないものだろうか。初当選組のわたしのような者には、政治の勘所が分からなくて……」
記者のわたしは、クスッと笑いながら金光一に尋ねた。
「総裁が、どうして金淇春を抹殺しろと言うのか、心当たりはないのでしょうか」
こんな問いかけに金光一は「盧泰愚大統領に忠誠を尽くそうとして金泳三総裁の拠点である上道洞の周辺を探り、司法の面で噛みつこうとしているようなんだ」と答えたのだった。
▽没落
筆者は後日、金泳三の側近であった李源宗(2021年死去、金泳三政権で政務首席秘書官などを歴任)に、金泳三が金淇春を嫌った理由について尋ねたが、「詳しいことはよく覚えていない」という返事だった。ただ、「金泳三総裁は金淇春に好感を持っていなかったことだけは確かだ」と答えていた。
そのように金淇春に歯ぎしりし、激怒していた金泳三だったが、金泳三が大統領になったあとも、その間に巨済島選挙区選出の国会議員となっていた金淇春はどういうわけか、そのまま健在だった。その選挙区を金泳三の息子の金賢哲が狙っているという報道もあったが、議席を奪われることなく、この選挙区で3回も国会議員を務め上げたのだった。
そんな金淇春だったが、遂に、没落の日が訪れる。2015年、朴槿恵政権下で大統領の右腕、大統領秘書室長になり、「ブラックリスト」という権力遊びに酔いしれたのである。金淇春は自らが掘った墓穴に転げ落ちた。文化体育観光部長官の趙允旋とともに監獄に収監されたのである[金淇春は、朴槿恵政権に批判的な文化人や芸術家を公的資金支援から排除する目的で「ブラックリスト」の作成を主導、趙允旋がその執行などに関わったとして2017年、ともに職権乱用などの容疑で逮捕された]。
訳:波佐場 清





