2026年7月14日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(39)

  新党づくり

大統領の選出方法についての話し合いは長引いた。許和平は「直接選挙で、国民的な祝祭ムードの中で選ぶのがよい」と強く主張した。すると、盧泰愚は「社会が安定してからでないと直接選挙はできない」と間接選挙にこだわった。全斗煥が間接選挙の方に軍配を上げ、許和平を抑え込んで決着させた。

▽国会議員選は1区定数2、兼職も容認

  国会議員選挙は1区につき定数2でいくことにした。朴正煕時代に柳赫仁・政務首席秘書官が、総選挙の過熱化を防ぐために検討していた案がそのまま採用された。維新政友会[朴正煕政権下、選挙を経ずに大統領の任命で国会議員になった者たちの会派]を廃止して比例代表制を導入することにしたが、第1党に有利な配分とした。

比例代表の議員には、政治屋や無職のならず者ばかりでなく、専門職も進出させるという趣旨から兼職も認めることにした。待遇は名誉職とし、次官補クラスと定めた。

この日の会議では、年内に憲法改定を終え、新憲法に基づく政治日程を1981年から始めていくことも決めた。

▽全斗煥の後継は盧泰愚

これに伴って、新党の組織づくりも急がなければならなかった。

全斗煥は「党組織づくりでは、とくにソウルと全羅道を念頭に置くように」と指示して急かせた。李鍾賛はこうした過程を見守りながら、政権奪取に向けた準備が早くから進められてきていたものと確信した。

新軍部は政権奪取へ向けて加速のペダルを踏んだ。

全斗煥による国保委(国家保衛非常対策委員会)の掌握と、兪学聖の中央情報部長就任(718日)。それによって、もはや「お飾り」となった崔圭夏を大統領から引きずり下ろし、全斗煥がそれに代わって権力の座に就く「戴冠式」まで、あと1カ月となっていた。そのころ(80627日)にはもう、全斗煥が任期を終えれば盧泰愚が後を継ぐ、という方針も新軍部の有力者の間で決められていたと後日、兪学聖は李鍾賛に語っている。

▽「3金討伐」

金泳三についても、最後の障害物として片づけておかなければならなかった。

金大中は内乱陰謀ですでに収監した。金鍾泌は不正蓄財で政界を引退させ、葬り去った。

730日、李鶴捧大佐は、保安司令官の全斗煥に呼び出された。情報処長の権正達を傍らに座らせておいて全斗煥は命じた。

「金泳三とは、慶南高校の同窓なんだから、政治活動をやめろ、と言ってもらわないと、な。上道洞[金泳三の自宅のある場所で、金泳三陣営の代名詞として使われた]と連絡を取り、『金大中も金鍾泌も捕まったというのにYS(金泳三)だけが活動を続けているというのもちょっとヘンに思われるから、自ら潔く引退するのがいいのではないか』と、そう言ってみろ」

李鶴捧は、上道洞の秘書の文正秀(のちに国会議員、釜山市長)と会った。

二人は慶南高校の同期だった。文秘書に全斗煥の指示を伝えて、金泳三に政界引退を進言してもらいたいと頼んだ。すると、金泳三は文秘書を通して「数日間、猶予がほしい」と答えてきた。

何日か待ったが、返事がない。気が急(せ)いた李鶴捧は、再び文正秀を問い詰めた。すると、8月13日、政界引退が発表された。

3金」[金泳三、金大中、金鍾泌]の討伐が完結した。

 ▽新党の「顔」に元野党幹部

 次は、新党の「顔」をだれにするか、だった。

李載[イ・ジェヒョン(이재형191492/日本の中央大卒。野党幹部の経歴もあった]を推したのは晋州(慶尚南道)出身の政治家、安秉珪[学生運動のリーダーから記者を経て金大中の秘書も務めた。のちに長男の安祥勲は尹錫悦政権の首席秘書官]だった。当時、保安司令官だった盧泰愚[全斗煥の後任として19808月~817月、保安司令官を務めた]の「99人脈」(盧泰愚が指揮した第9師団、第9空挺旅団出身)の安秉浩大佐が保安司令部秘書室長として権勢を振るっていた時期である。安秉珪はそんな安秉浩の従兄で、李載に仕えたことがあった。

民正党の「顔」となった李載(左)と推薦した安秉珪

盧泰愚がその提案を受け入れて全斗煥に上げたため、有力候補として名前が挙がっていた高麗大総長の金相浹や李用熙[国際政治学者、朴正煕政権で国土統一院長官などを歴任]といった学者らは、外された(金相浹は2年後に国務総理に起用された)。

▽標的に大学総長

金相浹にまつわるエピソードがある。

1980年8月、保安司令部秘書室長の許和平が、同情報課長の韓鎔源を呼び出して指示した。

「近々、国保委の立法会議(5共の憲法改正案を確定させる機関)を発足させるが、主要大学の総長を参加させなければならない。高麗大の金相浹総長と延世大の金明会総長をうまく取り込むんだ」

流血の軍事クーデター政権であっても、体裁は整える必要があった。名士や文化人、学者たちが支持する政権であるかのように見せかけなければならない。刀を輝かせるには、鞘(さや)も華麗でなければならなかった。

韓鎔源課長は慎重に2人の大学総長に近づき、提案した。

しかし、2人は共に、一言の下に拒絶した。血を流した全斗煥将軍の走狗とみなされるのはご免だ、ということだ。

 ▽主要大学の総長全員が協力

「なら、ほかに何か、いい知恵はないものでしょうか」

韓鎔源が金相浹総長にすがるように尋ねた。すると、一つのアイデアをくれた。

 「何人かの総長と交渉するんだったら、いっそのこと主要5大学[ソウル、高麗、延世、梨花女子、西江大学]の総長全員を一人残らず選ぶというのはどうだろうか。そういうやり方をすれば、反対する人など、出てくるでしょうか」

金相浹は「托鉢僧に施しは与えられないまでも、托鉢の鉢を割るようなことはするな」[韓国のことわざで、「与えることはできなくても、人を傷つけたり、困らせたりしてはいけない」という意]とばかりに政治学者らしい知恵を授けた。

韓鎔源は快哉を叫んで許和平に報告すると、許もやはり「卓見だ」と膝を打った。こうして主要大学の総長たちを前面に立てて学界の立法議員13人が誕生したのだった。

▽大物政治家

9月初め、青瓦台の全斗煥大統領から、李載を新党の代表として検討しろとの指示が保安司令部の権正達に下った。権は李鍾賛に「李載を知っているか」と聞いた。

「知っています。大林産業を創業した李載濬の兄で、わたしの友人の李埈鎔[当時、大林産業社長]の伯父にあたります」

李載は、京畿道始興出身の制憲議員[1948年に韓国の憲法を制定した最初の国会議員]で、自由党時代[李承晩政権下]に商工部長官を務めていた。西北青年会出身、朝鮮民族青年団[解放直後に結成された極右団体]系の首領だった李範奭将軍[190072/独立運動家。日本の統治下、中国で組織された臨時政府の光復軍で参謀長を務め、解放後、初代国務総理兼国防部長官]と近く、自由党が李範奭を排除すると、彼といっしょに野党に転じた。その後、1972年に維新クーデターが起こると政界を引退し、野に下っていた。

権正達と李鍾賛は2人で、ソウル社稷洞の自宅へ李載を訪ねた。かれは、老練かつ緻密な「プロ」だった。全斗煥から与えられた抱き込み工作の任務に追われる権正達が、焦ってタバコを取り出して口にくわえると、ライターを出して火をつけてやりながらも最後まで、走り使いの彼らがせっかちに求める回答を示さなかった。

▽直談判

李載は、あれこれ余計なことは言わず、全斗煥大統領に直接会わせろ、というのだった。

のちに、李載は全斗煥大統領と会い、談判するかのようにこう聞いた。

 「わたしがお役に立てるとすれば、民主主義だけだが、閣下はほんとうに民主主義をなさるおつもりでしょうか」

全斗煥は、こう答えた。

「まさに、そのことです。この地に民主主義を植え付けたいのです」

この面談が終わったところで、新党の顔が確定した。

                   訳:波佐場 清

 

2026年7月11日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(38)

「民族」外し、「民主・福祉」

保安司令部の裏手にある2階建ての建物に陣取った新党結党チームは、対外秘密を守ることを誓約し、人物の選定にかかった。いったん、仕事を分担し、李相宰(保安司令部)がメディア関係者、李相淵(同)が予備役および現役軍人、李鍾賛と郭煕正(中央情報部)は旧政治家、教授、著名人を担当し、斬新な人材を選ぶことにした。

一方で、金潤煥(維政会議員)が、盧泰愚や鄭鎬溶と慶北高校の同窓という縁故をつてに与野党の政治家らと接触して回った。全斗煥、盧泰愚らと同期の陸士11期で、尹必鏞事件に絡んで軍服を脱いだあと三星(サムスン)グループにいた権翊鉉も結党の手伝いをして回った。しかし、実力者の大佐である許和平は、この2人をひどく嫌った。

「新しい時代を切り拓いていくに当たり、昔の人間たちがのさばっていてはイメージが損なわれます」

▽正義派の元記者

許和平が「斬新な第3勢力[旧軍部・保守(第1勢力)や既成の野党(第2勢力)以外の勢力]を糾合しよう」というのには、李鍾賛も同感だった。

李鍾賛は友人の任在慶[ジャーナリスト、のちにハンギョレ新聞編集人]や蔡賢国[実業家、教育者]に相談したところ、記者出身の南載熙[19342024/金泳三政権で労働部長官]を推薦された。南載熙は政治記者として駆け出しの時代、革新系を取材していた正義派だった。

自由党政権[李承晩政権]下、ソウル大法学部の学生だった頃には、李承晩大統領の養子となっていた李康石[実父は有力政治家の李起鵬]のソウル大法学部編入に反対する運動の先頭に立ったりもした。韓国日報、朝鮮日報、ソウル新聞を渡り歩く間、朴正煕大統領の面前で「苦言」を呈したことによって却って抜擢され、第10代国会議員(793月~8010月)も務めた。

李鍾賛の提案に南載煕は二つ返事で応じ、2人は疎外された在野勢力を抱き込もうということで意気投合した。

▽独立運動家の孫

李鍾賛は、上海臨時政府の創設に関わった独立運動家、李会栄の家系[李会栄の孫に当たる]であり、南載煕は、曺奉岩[1899~1959/進歩党党首。李承晩を相手に大統領選で善戦。のちに、スパイとして処刑された]や尹吉重[1916~2001/曺奉岩と共に進歩党で活躍。全斗煥政権下では与党民正党に参加した]が活躍した1950年代末、革新系政治家を担当していた。そんなところに在野の政治家が合流すれば、新軍部政権の正統性を補い、斬新性も加わって新党のイメージアップにつながるはずである。というわけで、軍の実力者たちも、これを拒まなかった。

一方で、新党の理念や綱領、政策もつくらなければならなかった。

そんなとき、京郷新聞編集局長の鄭九浩(全斗煥の高校の後輩)が研究報告書を持って権正達・保安司令部情報処長の部屋を訪れてきた。

▽「学生革命」の元闘士

鄭九浩はもともと、1960年の「419学生革命」直後、ソウル大学文理学部在学中に崔永喆[東亜日報政治部長などをへて全斗煥政権で統一部長官などを歴任]や柳根一[朝鮮日報のコラムニストとして名を馳せ、のちに同紙主筆]らといっしょに進歩的なサークル「新進会」で活動した、目覚めた青年だった。学生革命の後、民族統一に向けた板門店での南北会談を求め、「行こう北へ、来たれ南に!」と叫んだ疾風怒濤のメンバーである。ところが、いつの間にか、その時から20年の歳月が流れ、全斗煥と同郷の縁により、新軍部のブレーンとして現れたのだった。

▽「民主福祉国家の建設」

鄭九浩は「民族福祉国家」というテーマを掲げた。

「新たに建設する国家のブランドは『民族』福祉国家であるべきです。韓国政治にあって最も脆弱であった部分こそ、まさに民族問題でした。それで、米国の植民地だという声が若者たちの間から出てくるのです。そして、経済発展に見合う福祉の恩恵がなければなりません。朴正煕大統領も福祉に着目していたが、実現できずに逝去してしまいました」

しかし権正達は、たしなめるように言った。

「民族、民族と、それをあまり前面に押し出さないでもらいたい」

それでなくとも米国は、民族主義を掲げた新軍部の動きを「ヤング・カーネル(若手大佐)たちのクーデターだ」と白眼視してきたところだ。

李鍾賛は、鄭九浩に加勢した。とはいえ、「福祉国家の建設」だけでは地味すぎるのではないか、と…。

そのうえで、「民主福祉国家としましょう」と修正案を出した。

権正達は、鄭九浩が「民族」と書いた部分をすべてサインペンで「民主」と修正していった。このあと鄭九浩が清書し直した報告書は、全斗煥の裁可を得て「民主福祉国家の建設」ということで決着した。これが、第5共和国のキャッチフレーズとなっていったのである。

とはいえ、それでも「民族主義」という言葉を完全に捨て去ってしまうのは惜しかった。そこで、創造的(creative)という修飾語を付けて米国の警戒心を和らげることにした。結局、「創造的民族主義」とし、改革の意志も込めてそれを綱領・政策に反映させていくことにした。それには許和平も積極的に支持した。

▽大統領任期は「16年間だけ」

1980年7月15日、憲法改定について新軍部の中心メンバーたちが話し合った。全斗煥、盧泰愚、鄭永(保安司令部参謀長)、権正達、許和平、許三守、李鶴捧、李鍾賛が出席した。

盧泰愚(下)と権正達(上)は、現役軍人のまま憲法改定論議に加わった
19807

首都警備司令官の盧泰愚は、軍服の正装で身を固め、乗馬用鞭を手にして入ってくると、友人であると同時に自分の上に立つ指導者となった全斗煥に向かって厳粛に敬礼をした。全斗煥は満足そうに微笑んだ。

だれもが浮き立ち、得意になっていた。

会合は権正達のブリーフィングで始まり、真っ先に話し合われたのは大統領の任期についてだった。4年重任(再選あり)とする意見も出たが、(重任を認めたことでさらに長期政権に欲望を燃やした)李承晩や朴正煕による無理な改憲を反省材料として、1期だけに限ることにした。任期は6年と決められた。

       訳:波佐場 清

2026年7月8日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(37)

  金鍾泌の「516」と同じ手口

 全斗煥らの国保委(国家保衛非常対策委員会)は、朴正煕らが「5・16クーデター」で設けた「国家再建最高会議」のコピーにすぎない――在韓米軍のウィッカム司令官はすでに1980年2月の時点で、そのことを見抜いていた。ウィッカムは80216日、全斗煥との正式な面会を許した。

 「1212軍事反乱」から2カ月余を経て、初めて設定された面談だった。その間ずっと米CIA韓国支部長のブリュースターから全斗煥と会うよう勧められていたのだが、反乱に不快感を示してやろうと、わざと会うのを引き延ばしてきていた。

 ▽既視感

 ウィッカムは、全斗煥と会うのに先立ち、1961年の「516」直後に金鍾泌が駐韓米軍司令官のカーター・マグルーダーと面談した際の対話録を読んでいた。参考資料として補佐官らが持って来たのだった。

 目がくらむほどの、驚くべきデジャヴ(既視感)――

記録を読めば読むほど、ウィッカムは、自分が知らない時代のことなのに、まるでタイムマシンに乗ってその時代に飛び、自らがマグルーダーとなってそこにいるかのような錯覚に陥った(『ウィッカム回顧録』)。記録は以下のようなものだった。

――金鍾泌は、米第8軍司令官の承認なしに韓国の兵力(3600人)を移動させて指揮統制系統を乱したことについて、マグルーダーに丁重に謝った。金鍾泌はまた、クーデターを主導した者たちには、「政治的な目的」など、まったくないことを強調した。クーデター軍は、より有能な将官たちが昇進する機会を阻んでいる、古くて腐敗した軍の参謀陣を追い出し、さらには、国民に何の恩恵も与えられない無能で腐敗した政府の「浄化」を断行するのだ、と弁明した。

「直ちに原隊に復帰します」

金鍾泌はマグルーダーに、軍部は限定された目的さえ達成すれば、即刻、軍に戻ると確約した。「わたしを信じてください」と金鍾泌は言った。

この記録を読んでいたウィッカムは「マグルーダーの記録を日付さえ20年後に変えれば、そのまま、わたしと全斗煥の対話録になる」と思った(同回顧録)。

▽「1026」直後から研究

かつての詐欺の手口に、米国はまたしても、みすみすやられてしまうのか。かといって、ほかに何かやりようがあるとでもいうのか。ウィッカムはあきれ果ててしまうばかりだった。

 全斗煥はそれほどまでに徹底して「5・16」のことを頭に入れてウィッカムに向き合っていた。

保安司令部捜査第1局長の白東林は「許和平、許三守、李鶴捧は、79年の1026の捜査の時から516や海外のクーデターに関する資料を持ち歩いてクーデターのことを研究していた」と証言している(1995年の検察調書)。79年当時、保安司令部の課長だった韓鏞源も「保安司令部は、1026の直後から合同捜査本部の仕事(戒厳の業務)に没頭する一方で、5・16を研究して新軍部政権を樹立していった」と記録している(『韓鏞源回顧録』)。

▽丸ごと盗用

金鍾泌もまた、「全斗煥は1026の直後から、保安司令部の中心的な参謀ら(許和平、許三守、李鶴捧)にたいして516を研究するよう指示していたということを、あとになって知った」と証言録のなかで語っている(『金鍾泌証言録』)。

米国大使や米軍司令官への言いつくろい、原隊に復帰するという約束、国保委のような革命機関づくり…。このほかにも、20年近く前の手口をそのまま真似たものが多かった。

516クーデター」(1961年)

1026」後(1979年)

李丁載や林和秀ら暴力団の掃討

三清教育隊

旧政治家活動規制法

政治風土刷新法

中央情報部と共和党を事前に組織

国保委新設と、秘密裏の新党結成

腐敗した幹部公職者らの財産没収

金鍾泌、李厚洛らの財産没収

すべてが、許和平、許三守、李鶴捧(3人は、いずれも「ハナ会」のメンバー)に権正達(非「ハナ会」)を加えた4人組が「516」の手口を丸ごと真似たものだった。かれらは金鍾泌先輩の「知的財産権」までも無視し、そっくりそのまま丸写しで盗用したのだった。

許和平は第5共和国の企画者として4人組をリードし、政権奪取を狙うやり方やスピードの管理を受け持った。許三守は世論の見極めや連絡役を担った。李鶴捧は、金載圭や金大中の捜査を指揮し、「(朴正煕大統領暗殺という)不幸な過去の出来事を(自分たちの新しい政権をつくる)幸運な現代史として解釈する楽天性と大胆性」(韓鏞源の表現)を見せた。権正達は新党(民正党)づくりを担当した(『韓鏞源回顧録』)。

▽米国の苦悩

その頃の米国の呻(うめ)きが、記録に残っている。

光州の流血を踏み台に、国民が後ろ指を指すなかで権力奪取へ血眼になって突き進む全斗煥だったが、そんなかれを排除することも、それに代わる他の選択肢もないのが米国の悩みだった。1980528日、駐韓大使のグライスティーンがワシントンに送った報告書――

「全斗煥を除去することの危険性は、今さら強調するまでもない。われわれが拙速で動く場合、全斗煥は対抗のために軍を固く団結させ、国民の反米感情を煽って米国の国内政治問題にしてしまうこともあり得る。もちろん、われわれは、かれが韓国国内で(流血クーデターを起こしたことによって)最も評判の悪い人物であるという点は分かっている。しかし、かれが本当に韓国国内の各種利益団体の利害と相反する立場にいるのかどうかは、まだよく分からない。加えて、われわれが留意しなければならないのは、われわれが支持するに値するだけの、真に理想的な指導者がいないということだ」(グライスティーン大使)

▽「カラスに代わるシラサギもいない」

グライスティーンがこの報告書を書く1カ月前の4月にワシントンに送った、次のような報告通りに事態は進んでいった。

「われわれ(米国)が排除しようしているカラス(全斗煥)に代わりうるシラサギ(代わりの指導者)は見当たらない」

かれは、全斗煥をひどく嫌うカーター政権が、何らかの逆クーデターを企て、それが失敗に終わることになりはしないか、と怖れた。そんななかで結局、「いっそのこと全斗煥の軍事反乱を認めてしまおう」と現状維持論を唱えるブリュースターCIA韓国支部長と気脈が通じるようになり、ウィッカム司令官もそこに飲み込まれていったのだった。このあと、第5共和国(全斗煥政権)の期間を通して続いた学生たちによる反米闘争や米文化センター放火事件といった悲劇は、そのような判断の結果だったのであり、自業自得というわけだった。

▽新党結成へ秘密会議

8073日、国保委で開かれた新党結成に向けた保安司令部の秘密会議――。

常任委員長の全斗煥は、権正達、李相淵、李鍾賛、李相宰(メディア担当)を前に座らせ、厳かな口調で切り出した。

新党民正党の結成を受け持った権正達(右)と李鍾賛=1980年12月

「これからは権正達(情報)処長を中心に、新たな歴史をつくっていく仕事をしっかりとやってもらいたい」

それだけだった。それ以上の具体的な指示はなく、李鍾賛はなにか釈然としない思いで部屋を出ようとしていると、権正達が「保安司令部に行こう」と声をかけてきた。その保安司令部の廊下で、李鍾賛は中央情報部秘書室長の許文道と鉢合わせた。

許文道は李鍾賛にこう言った。

「先輩、今朝、新党結成のタスクフォース・チームの一員として、部長[当時の中央情報部長(正式には代理)は全斗煥だった]に(拝命の)挨拶をしましたよね?」

そう言われて初めて、李鍾賛は、先ほどの集まりが新党結成のための会合だった、と悟ったのだった。許文道は続けた。

「新党結成の作業に、南山の尹碩淳(19372021年、第11代国会議員)も入れてみてはいかがでしょうか」

▽結党本格化

当時、中央情報部副局長だった尹碩淳は、許文道、許三守と釜山高校の同期生だった。それを聞いて、すでに綿密に練られたシナリオ通りに事が進んでいるのだな、と李鍾賛は思った。そのようにして尹碩淳も合流した。

崔圭夏大統領を青瓦台から引きずり下ろしたのは816日、全斗煥が大統領になったのは827日だった。それから考えると、新党結成はその1カ月半前からすでに本格化していたというわけである。

                    訳:波佐場 清

                     

2026年7月5日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(36)

少数意見の判事を追放

 正論であった大法院判事の少数意見は、過酷な代償を伴った。

 全斗煥らの新軍部は、これを許すわけにはいかなかった。

 金載圭を内乱犯に仕立てて「生け贄」にしなければならないというのに、それにケチをつけたからである。新軍部には初めからそんな心配もあり、1980年の年初来、保安司令部の全斗煥とその実力者である李鶴捧・対共処長(大佐)は、金載圭の裁判を前に、早くから大法院に手を回していた。

 ▽下工作

801月、全斗煥は大法院判事全員を陸軍会館に招き、夕食会を催した。

 李英燮大法院長は3月のある日、李熺性戒厳司令官から『金載圭の事件がそちらにいくので、よろしく』と言われた。同じころ、陸軍法務監を名乗る人物が大法院長のもとを訪ねてきて「1カ月以内に裁判を終わらせてほしい」と、とんでもない催促をした。

 そして李鶴捧は、大法院判事の梁炳皓が大法院の任用序列ナンバー2として金載圭の裁判を担当することが確実視されると、梁判事を訪ね、『被告人らの上告を棄却してほしい』と頼み込んだ。

 414日に中央情報部長を兼任した全斗煥も使いの者を送って李英燮大法院長に「金載圭事件の早急な処理」を求めるとともに「一度会いたい」と伝えた。ところが、大法院長は当然、情報部長の方から訪ねてくるものだと思い、一方の全斗煥のほうも、李英燮が自分を訪ねてくるものと考えているうちに時間が経ち、会うことができなかったというのだった。

朴正煕大統領を暗殺した金載圭について「内乱目的はなかった」と、
梁炳皓(左端)ら6人の判事が少数意見を述べた。
   梁判事は保安司令部に連行され、ひどい暴行を受けた

 いずれにせよ、少数意見を述べた6人はいたものの、8人の多数意見によって金載圭ら5人の死刑が確定し、光州への見せしめでもするかのように524日、急いで処刑をおこなった。

 ▽排除対象者は288

 529日、光州に再び戒厳軍が入った直後のことだ。

 中央情報部長の全斗煥と総務局長の李鍾賛は、中央情報部の改編案を持って崔圭夏大統領のもとに向かった。全斗煥は情報部改編業務の仕上げを急いでいた。もう、シナリオ通りに国保委(国家保衛非常対策委員会)に行って国の統治に当たらなければならない。そこには大統領秘書室長の崔侊洙も同席した。

 崔大統領は、かなり入念に、細部についてまで問い質した。

 李鍾賛は情報部に入って15年余になり、その間あらゆる部署を一通り経験していたのでよどみなく答えることができた。崔大統領は外交官出身らしく、「海外工作局」という名称を「渉外局」に改めるよう求めただけで、あとは、とくに何も言わずに裁可した。

 こうしてなされた組織改編によって排除された脱落者は288人にのぼった。

 ほとんどが幹部クラスで、一般職員は少なかった。19616月、朴正煕が統治権強化のために中央情報部をつくって以来、歴代部長らが恩着せがましくねじ込んできた者たちがそれほどに上層部を支配し、頭でっかちの「仮分数」組織になっていたということだ。総務処[日本の内閣府に相当]は「公務員年金の構造が中央情報部出身者のせいで歪められている」と不平を漏らしてきてもいた。

 ▽公平性

 288人のうち、100人を退職させるつもりで解雇者リストを作った。

 全斗煥部長はそれについて決裁している途中、うち1枚の人事カードだけを引き抜いて中身を確かめていた。イム某という人物のものだった。全斗煥は総務局長の李鍾賛に聞いた。

 「この者はどうして、だめなんだ?」

 「慎重に何度も検討してみたのですが、米軍PX(売店)に出入りして取引[物資の横流し]をしていたことも分かり、担当課長が残すのはとても無理だ、と判断したのです」 

 「もともと、だれが推薦した人物なのか、分かっているのか」

 「知っております。人事資料にも、部長(全斗煥)が推薦された人物と書いてあるので、ことさら慎重に調べてみました。この者だけを外せば、公平性のうえから問題になりかねないと思い、悩んだ末に…」

 全斗煥は顔をしかめながらも、ぐいっぐいっとハンコを押しながら言った。

 「ワシが推薦した者と知りながら整理の対象に含めたというんだから、この審査は公正なものだと認めよう。なら、退職する者たちが食っていけるよう、生活の問題についても気を遣ってやってくれ」(李鍾賛の記録)

 ▽シナリオと寸分の狂いもなく…

 すでに国会解散と国保委創設のシナリオはつくられていた。

 光州の鮮血がまだ乾かぬうちから、新軍部は自らの進む道を急いだ。

 531日 国保委の設置および全斗煥の国保委常任委員長就任

6月 2日 全斗煥中央情報部長(代理)辞任

27日 全斗煥と盧泰愚が順番に大統領になることで新軍部の実力者らが密室で合意

28日 李鶴捧、拘禁中の金大中と初の面談(降伏を要求)

718日 兪学聖、中央情報部長に就任

813日 金泳三、政界引退を発表

16日 崔圭夏大統領、退任

27日 全斗煥の大統領(当選)確定

91日 全斗煥、大統領に就任

 反乱の主役たちの描いたシナリオが寸分の狂いもなく、一糸乱れぬ作戦のように遂行されていった。

 ▽最高権力機関

 531日、ソウルの三清洞で、国保委の看板かけの儀式があった。

「国保委」の看板かけ儀式に出た全斗煥(右端)と盧泰愚(左端)=1980531

 目的はただ一つ、全斗煥が全権を掌握し、思うままにその権力を振るおうというものだった。保安司令官と中央情報部長を兼ね、「天下無双の権力者」であったとしても、法の上では、戒厳令下にあるため、戒厳司令官の指揮を受けなければならない。その限界を回避するための手立てが国保委だった。

 国保委は19年前、1961年の「516クーデター」の直後、金鍾泌がつくった「国家再建最高会議」をそっくりそのまま焼き直したものだった。形のうえでは崔圭夏大統領の諮問・補佐機関だったが、その実、全斗煥が革命的に全権を振るえるようにした最高権力機関だった。

 ▽「軍事革命委員会」

国保委は常任委員長の全斗煥をトップに、それを下から30人の常任委員が支える構造だった。傘下に13の分科委員会も設けた。常任委員30人のうち18人が現役の将官であり、13分科委の幹事も全員佐官級将校で、文字通り新軍部の「軍事革命委員会」(許三守)そのものだった。

 看板かけ儀式4日前の527日、国保委を大統領直属の機関とする設置令に崔圭夏大統領は、やむなく署名していた。517日夜、申鉉碻総理が命がけで国務委員会(閣議)での議決に反対した「屋上屋」の機関である国保委――つまりは民政政権を形骸化させるこの革命機関を、崔大統領を脅して遂に、つくり上げたのである。

 ▽コピー

 国保委という大きな剣は、「516クーデター」でつくった軍部による「最高会議」のコピーだった。

 その意味で、新軍部の「517」と朴正煕の「516」は、「正常化したなら、軍に復帰する」という虚偽の煙幕作戦も含め、最初のスタート時点から、まさに「一卵性の双生児」だったのである。

                        訳:波佐場 清

2026年7月2日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(35)

  「金大中だけだと、全羅道が反発…」

ここでもう一度、1980518日に戻りたい。その日の朝が明けた。

 南山の中央情報部の食堂で、李鍾賛・総務局長と出くわした捜査局長の金根洙(のちに国会議員、尚州市長など)が暗い表情でこう言った。

 「金泳三はそのままにしておいて、金大中だけをあのようにしょっ引いたら、全羅道が反発し、抗議の騒動が起こるだろうに…心配です」(李鍾賛の回顧)

 ▽全南大学で衝突

 かれの予感通りになっていた。光州で深刻な事態が起きていた。

 全国に休校令が出されていたが、国立全南大学ではその日の朝も、学生たちが学内に入ろうとして空挺部隊員らに制止された。戸惑い、うろうろしている学生たちにたいして軍人らは、解散しろと命じたが、学生の数はどんどん増えるばかりで、衝突は激しくなっていった。光州で、未曾有の悲劇が始まっていた。

全南大学の正門横には1980年5月18日にここで撮った写真パネルが展示してあった=2024年5月、訳者写す


全南大学正門付近=2024年5月
 ▽金泳三の抵抗

 518日午前、野党新民党のリーダー金泳三は、党の政務会議を開いた。

 金大中や金鍾泌ら、前夜のうちに連行された人たちの釈放と市内の戒厳軍撤収、国会や野党の党本部に配備された戒厳軍の越権行為中止などを決議した。

 午後遅く、合同捜査本部の李鶴捧大佐がソウル上道洞にある金泳三の自宅に来た。慶南高校の後輩だった李鶴捧は、先輩の金泳三にこう言った。

 「軍は、不安要素だけを取り除いたら帰るつもりです。記者会見や声明発表のようなことはしないでいただきたい、というのが全斗煥将軍の要請です」

 金泳三は激怒して、かれを追い出した。

 「どういうことだ。安定を揺るがしているのは、おまえたちのほうだ。おまえたちは今、許せないことをしている。おまえらがするな、と言ったからといって、記者会見をしないわけにはいかん」

 ▽国内では報道されず…

 519日、党本部に出かけて会議を開いたが、外は完全に軍人らによって封鎖されていた。金泳三は「20日に記者会見をする」と国内外のメディアに周知させた。

 20日朝、着剣した小銃に実弾を装填した中隊規模の兵力が上道洞(金泳三の自宅)を取り囲んだ。

 合同捜査本部の李鶴捧大佐がまたしても姿を現した。

 「総裁、いずれまた、機会もあるでしょうに、どうしても今日、記者会見をしないといけませんか」(李鶴捧)

 「この憲兵たちは、どういうことだ。すぐに撤収させろ。帰って全斗煥に伝えろ。全斗煥は第二の朴正煕になりたがっているようだな、と」(金泳三)

 金泳三は自宅に入ってきた一部の記者に会見文を配り、秘書らは門の外にいる記者たちに向けて、塀越しにその印刷物を投げてやった。その内容は、戒厳司令部の報道統制で、国内では、ただの一行も報道されなかった。朝日新聞をはじめとする海外メディアに載っただけだった。

 ▽金載圭処刑、「内乱目的」に異論

 524日、金載圭が処刑された。光州に見せつけようとするものだった。

 朴大統領の暗殺から6カ月余が経っていた。金載圭の裁判はしかし、死刑を狙っていた全斗煥や新軍部の思い通りにばかり進んでいったわけではなかった。

 「内乱目的はなかった」

 大法院の判事14人のうち、気骨のある判事――梁炳皓、閔文基、任恒準、徐潤鴻、金允行、鄭泰源の6人が反旗を翻した(少数意見を述べた)。「朴正煕殺害」は事実だが、「内乱目的」は、なかったというのだった。

1) 行為時の体制(維新)と裁判時の体制(維新廃止)が異なるので、内乱罪で処罰することはできない(閔文基)。

2) 憲政秩序を破壊することを目的とした殺人ではない。計画的なものではなく、偶発的な行動に過ぎないとみるべきだ(梁炳皓)。

3) 内乱罪が成立するには、暴動を起こせるだけの多人数が動員されなければならないのに、宮井洞にいた何人かで内乱は可能なのか(任恒準)。

 ――といった具合に、異を唱えた。事実は、その通りだった。

 李一圭判事は、多数意見(8人)の側に立ったのだが、後日、こう語った。

 「理論的には、少数意見の方が正しかった。しかし、わたしが考えるに、一般の殺人であれ、内乱目的の殺人であれ、どっちみち死刑は間違いないのだから、あれこれ理屈をこねて時間を費やす必要はないのではないかと考え、少数意見に加わらなかった」(韓洪九・聖公会大教授のインタビュー)

                       訳:波佐場 清

 

2026年6月29日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(34)

  金大中が危ない

1980517日夜、金大中のソウル東橋洞の自宅では電話が鳴りやまなかった。

 「世の中がひっくり返った。金大中が危ない。すべてが終わったので、身の安全に気を付けろ」

「梨花女子大に集まった学生たちが銃床で殴られ、血まみれになって引っぱって行かれている」

 秘書が外をうかがうと、周辺の街灯はすべて消えており、黒塗りのセダン8台が陣取っているという。何日か前から様子がおかしく、知人から米国大使館に避難するよう勧められていたところだった。

            非常戒厳の拡大と金大中逮捕に抗議して光州市民は立ち上がった。

        新軍部はこれを金大中が企てた「内乱」と、でっち上げた=19805月、光州・錦南路

 ▽銃剣突きつけ、連行

 夫人の李姫鎬と金大中側近の秘書である金玉斗は、書類を次々とかき集めてはタンスの後ろの隙間に押し込んで隠した。金大中はパイプ煙草をひっきりなしにふかしていた。午後1045分、軍人数十人が銃剣を突きつけて奥の部屋に踏み込んできた。李姫鎬が「言葉で言ってくれさえすれば従うのに、どうして銃を向けるのよ」と抗議した。金大中は黙々と服を着替え、彼らについて行った。

 「神があなたのそばにいてくださいます」

 キリスト教信者の李姫鎬は、祈るように叫んだ。

 続いて秘書、家政婦、警護員らを一つの部屋に閉じ込めて捜索にかかった。奥座敷、書斎、台所をくまなくひっくり返しては漁り、なんでも手あたり次第にトラックに積み込んだ。午前3時になってようやく捜索は終わった。引き出しをひっくり返し、10万ウォンの小切手27枚と外貨6千余ドルも持っていった。

 東橋洞グループの身内、全員が連行されていった。

息子(長男)の金弘一をはじめ、秘書の韓和甲、金玉斗や朴成哲[金大中の私設警護団のトップを務め、仲間内から「将軍」と呼ばれていた]らが連れて行かれた。ほかに、側近の権魯甲と李協は逃げていたが、のちに連行された。次男の弘業は、朝日新聞特派員の車に潜んで脱出し、3カ月間、身を潜めていた。

▽奇想天外なでっち上げ

 一人だけ残された李姫鎬は、ラジオ「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)に耳を傾けた。

 金大中が連行されて5日目となる5月22日、新軍部は「金大中が国民を扇動して光州で民衆暴動を起こし、国家を転覆させる内乱を企てた」とする奇想天外な中間発表をおこなった。

 あきれるばかりのでっち上げだったが、いったん金大中が無事でいることが確認できただけでも李姫鎬にとっては、ありがたかったという(『李姫鎬自伝』)。

戒厳司令部から出された、その「金大中捜査中間発表」なるものは、新聞で大々的に報じられたが、メディアに配られた資料には「捜査過程で明らかになった犯罪事実」というサブタイトルが付いていた。

 まだ、捜査官が調書1枚巻けていない段階なのに、犯罪事実とはどういうことだ。

 金大中を担当する中央情報部捜査局捜査官の李基東をはじめとする中央情報部のメンバーらは、ただあっけにとられ、お互いに顔を見合わせるばかりだった。これが、保安司令部のやることなのか――。李基東はこう記録している。

 「まだ、たった一行の調書も取れておらず、これから事実確認に入る段階だというのに、もう、『明らかになった犯罪事実』の発表などとは…。このように戒厳司令部の合同捜査本部(保安司令部)は、警察が上げた虚偽の情報をもとに、民主化を求めていた在野の市民団体までも含めて金大中系のすべての組織を犯罪集団と規定して発表した。しかし合同捜査本部に首根っこを押さえられた情報部としては、どうして文句など言えるというのか」(全斗煥の合同捜査本部によってこのように仕組まれた「金大中内乱陰謀」は、2004年になってようやく無罪が確定したのだった)

 ▽長男弘一の自傷事件

 そうこうしているうちに、拘禁中の金弘一が自傷行為に及ぶ騒動が起きた。捜査局長の金根洙が捜査官の李基東を緊急に呼び出して指示した。

 「弘一の部屋で問題が起きた。事態は深刻だ。捜査チームを替えないといけないが、ここはやはり、おまえにちょっと面倒をみてもらわなければならない。自傷行為に及んだようなんだが、問題が起きると、大変なことになる。いますぐ、新しいチームを組んで、それに取り組むんだ」

「金大中一人だけでも手一杯なのに、息子の弘一まで面倒を見ろ、ですって?」

「なんだ、その言いぐさは。命令、これは命令なんだ」

金根洙局長はイラつき、怒鳴り散らした。

李基東は、それまで金弘一を担当していた捜査官たちに、どうして急に様子がおかしくなったのか、と聞いた。かれらは「連行してから5日目のあの日の、金大中の中間捜査結果の発表が問題だった」と答えた。中央情報部の捜査官たちでさえ、とんでもない内容に驚いたのだが、息子の驚きはどれほどだったか。

それはそうとして、地下深くの取調室に拘禁されていて、どうしてそのニュースを知ったというのか?

奇想天外な経緯が明らかになった。

 ▽換気口の秘密

金弘一が拘禁されていた対共捜査局の地下室には、地上につながる換気口があった。その地上の排気口付近に情報部の運転手たちが車を止め、よくラジオを聞いていた。運転席のドアを開けたままのことが多く、そのラジオニュースが換気口の接続ダクトを通してそっくりそのまま金弘一に生中継されていた、というのである。

 それで、金弘一は「いっそのこと死んでやる」「濡れ衣を着せられて悔しい思いをするくらいなら、自殺しよう」と、自傷騒動を起こしたというのだった。

                            訳:波佐場 清

 

2026年6月26日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(33)

  朴鐘圭の裏切り

 19805月中旬、中央情報部長を兼任する保安司令官の全斗煥は突然、人事作業をいったん、中止させた。学生たちの街頭デモが激しくなると、徐廷和次長は会議のたびに、こう言っていた。

 「いまは情報部を改編している時ではなく、全員総がかりで社会を混乱させるデモ隊や、その政治勢力とたたかうべき時です」

 そう声を張り上げたおかげで、辞めさせられるところだった要員たちも、すんでのところで助かった。

 中央情報部が地下室拷問によってその「実力」を発揮するチャンスが来たのである。

 ▽拷問

 「517クーデター」による反対勢力の一掃や戒厳令の全国拡大とともに、その間空っぽだった地下室には、どっと「政治的な顧客」たちが押し寄せてきた。

 内乱陰謀で金大中、そしてデモ関連の学生たちがいっせいに捕らえられ、地下室にぎっしりと詰め込まれた。同じ時刻、保安司令部は西氷庫の捜査分室などに金鍾泌、李厚洛、金振晩、金致烈、呉源哲、金鍾珞、張東雲、李世鎬らをぶち込み、締め上げ始めた。

517」の、この反対勢力一掃のことを朴鐘圭は事前に知っていた。

 全斗煥と親しかったことから、その日程からやり方までをすべて把握していた。後日、金鍾泌は、当時を振り返って記者たちにそのように語った。

 ▽権力型不正蓄財

 513日、朴鐘圭はだしぬけに共和党からの離党を宣言し、記者会見を開いて「不正蓄財した財産を公の場で調べてほしい」と次のように言っていた。

朴鐘圭(中央)は金鍾泌(左)らを裏切り、新軍部の下で栄華を極めた。右は朴正煕大統領

 「最近、権力型の不正腐敗という批判が高まってきており、国民の間に不信感が広がっている。この際、わたしや共和党も含め、すべての政治家の腐敗について浄化をおこなうべきだ。それがわたしの心からの思いだ。だからといって、わたしが政界を引退するというわけではない」

 権力型不正蓄財――。

 それは全斗煥一派による造語だった。朴鐘圭は、何日か後に起こることを予告していたのである。

 それは、それからわずか4日後の「517一掃作戦」で、朴正煕政権の実力者たちに被せた罪状のことだった。金鍾泌(216億)、李厚洛(194億)、李世鎬(111億)、金振晩(103億)、金鍾珞(92億)、朴鐘圭(77億)、李秉禧(24億)、呉源哲(21億)、張東雲(11億)など、腐敗分子の名前と不正蓄財額が新聞の1面を飾った。

 金鍾泌は「朴鐘圭が新軍部の手先になって共和党を離党し、政治家の財産没収の名分づくりのために、あのような芝居を打ったのだ」と述懐した。朴鐘圭は、全斗煥が政権をとるべきだと煽ってきていた(元保安司令官・姜昌成の証言)。

 ▽恩人

 そして、一掃作戦の直前、全斗煥は「恩人」の朴鐘圭に「あなたを不正蓄財の処罰対象者から外すと、スジが通らないと言われます。公正さを装うためにも、発表に含めざるを得ないので、少しの間だけがまんして待っていてください」と了解を求めていたのだった。

 全斗煥にとって朴鐘圭は、少佐時代の1962年、中央情報部に入るときに身元保証人になってもらった恩人だった。そして73年の「ハナ会事件」[全斗煥を中心とした軍内部の私組織「ハナ会」のパトロンだった当時の首都警備司令官、尹必鏞が朴正煕大統領にたいして「不忠」だとされ、失脚した事件]に際しても、全斗煥が危うく軍服を脱がされそうになった危機から救ってやっていた。

 そういう事情があったとはいえ、金鍾泌は朴鐘圭の裏切りに腹の虫がおさまらなかった。

 かれは、当時の朴鐘圭について「まるで難破船からネズミが海へ飛び込むかのように、必死になっていた」と筆者に語った。李厚洛の新軍部に向けた「尻尾ふり」以上に、朴鐘圭の裏切りの方が、金鍾泌には骨身にこたえたという。

 ▽卑劣

 517日夜、落ち着かず、どこかそわそわした気分のなか、金鍾泌は張栄淳(元国会法制司法委員長)らと碁を打っていた。そんなところへ、藪から棒に朴鐘圭が現れた。

 ほんの数日前に「わたし朴鐘圭も含め、(金鍾泌らの)すべての不正蓄財について政府は調査すべきだ」と記者会見で言っていたばかりである。新軍部にくっつき、その手先になり下がった朴鐘圭がいったい、どの面をさげて何をしに、ここへ来たというのか。

 朴鐘圭は黙って碁盤だけを見つめながら、うろうろしていた。

 しばらくして、銃を持った兵士らが金鍾泌を連行するために踏み込んできたところで初めて分かった。かれら逮捕チームの囮(おとり)となって、金鍾泌が現場から逃げ出せないよう足止めをするために来ていたことは明らかだった。実に汚く、卑劣なやり口だった(『金鍾泌証言録』)。

 「何かと厄介者だった朴鐘圭がまだ軍曹だった時代から、かれが朴正煕大統領と陸英修夫人の信頼を得られるよう、常に後押しをしてやっていた。警護室長になるときも応援してやった。それなのに、その見返りが、このように恩を仇で返そうということだったのか」(金鍾泌)

 朴鐘圭は、新軍部の全斗煥に対してそのようにひれ伏すことで、軍部の下でも拘束を免れた。不正蓄財も、その額(77億ウォン)が発表されただけで、あとはうやむやにされ、新軍部の庇護を受けた。そして、のちに国際オリンピック委員会(IOC)委員という名誉職まで得て、栄華を極めることになったのだった。

                          訳:波佐場 清