2026年5月30日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(24)

  「庶民的、素朴、慈愛の民主主義者」

 大学生の模擬裁判でも無期懲役刑を言い渡される、そんな人気のない全斗煥をメディアを通じて持ち上げる「K-工作計画」[Kは、King(王)の頭文字とされた]が推進された。

 ▽世論操作と検閲

 保安司令部は19803月、メディアにたいする懐柔と工作、全斗煥のイメージアップ、そして非協力者の排除を柱とする「K-工作計画」を立てた。そして、新聞社や放送局の社長、主筆、編集局長、報道局長、政治部長、社会部長らを通じて世論操作に乗り出した。

 責任者は、保安司令部の李相宰准尉(通称「姜基徳補佐官」、のちに国会議員)だった。元もと「対共」(北朝鮮のスパイにたいする転向工作)の専門家だったが、1979年の「1026」(朴正煕大統領暗殺事件)直後、つまり鄭昇和戒厳司令官の時代から言論検閲チームの責任者としてソウル市庁に常駐し、新聞社や放送局では絶大な権力を持つ人物として知られていた。捜査機関独特の習慣として、かれは「姜補佐官」という通称で呼ばれていた。

      言論工作は1988年、国会聴聞会で追及された。証言台に立った(左から)李源洪(元KBS社長)、許文道(元大統領公報秘書官)、文太甲(元ソウル新聞社長)、李相宰(元保安司令部言論対策班長)


   


   



   検閲チームは、文化公報部[当時の省庁の一つ。文化・芸術の振興のほか、政府の広報やメディア統制も担っていた]、中央情報部、保安司令部、経済企画院、陸海空軍から引き抜かれた50人ほどで構成されていた。かれらは戒厳法に基づいて、すべての新聞・放送の記事を事前に読み、検閲指針に沿って削除していった。その指針を下す最高責任者が李相宰だった。

 ▽持ち上げ

 李相宰は、保安司令官である全斗煥の決裁を受けて新たに設けた「言論操作班」(言論対策班)の班長として「K-工作」をおこなった。

 この班には14人の分析官と収集官がいた。

 かれらは、新軍部が社会安定のための唯一の選択肢であり、同時に全斗煥がそのリーダーであることを印象付ける任務を遂行した。全斗煥を「正義感が強く、包容力のある、太っ腹な人物」「憂国の情に燃え立つ、私心のない、清廉潔白で理想的な軍人」「農村出身で、庶民的、素朴、慈愛に満ちた、広く国民に愛される人物」「海外留学や視察経験もある、文武を兼ね備えた民主主義の信奉者」「困難な時代に国家の運命を担い、いばらの道を歩む愛国者」などと思いっきり持ち上げたのである。

 ▽記者をランク付け

 そのような言論工作はうまくいった。

 記者を新軍部に協力的か否かで分類し、「良好」、「協力の見込みあり」、「積極的に協力」、「警戒」、「協力に消極的」などと格付けした。言論対策班の分析で「国是否定」、「制作拒否(ストライキ)」、「不正腐敗」など、非協力的または反政府的といったレッテルを張られれば、解雇へと追い込まれた。

 ▽報道社に圧力

 808月、解雇対象の記者約100人の名簿を保安司令部言論対策班長の李相宰がまとめた。そして、それを情報処長の権正達を通して李光杓文化公報部長官に上げた。文化公報部は報道各社にこの強制解雇対象者リストを送り、実行に移させた。

 もし、報道各社で強制解雇に応じないところがあれば、新軍部は国税庁や監査院[日本の会計検査院に相当]を動員してその社に対し、税務調査や経営監査で圧力をかける計画を立てていたことが後日、明らかになった(「真実和解調査員会」)。

                            訳:波佐場 清

2026年5月27日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(23)

  崔圭夏の姑息な策謀

 1980314日、崔圭夏大統領の発言で、ひとしきり騒動が起きた。

 大統領制にすこし揺さぶりをかけ、二元執政制の可能性について探ろうとするものだった。

 「新憲法における政府の形態としては、大統領中心制と議院内閣制の折衷型が望ましい。大統領に過度に権力を集中させると、大統領に万一のことがあった場合には危機を招くし、選挙も激しくなって混乱をもたらす」(改憲審議委員会開会式での発言)

 ▽二元執政制

 この一言が過渡期の政権を非難する世論に油を注ぐ結果を招いた。

 折衷型の政府とは?

 崔圭夏は、大統領は外交など象徴的な役割を担い、総理が実質的な権限を行使する、とする二元執政制について語ったのである。ところが、世間は、これを申鉉碻総理のくわだてであると誤解した。

 いま、申鉉碻の証言などを基に整理してみると、これは崔圭夏の野心から生まれたものだった。申鉉碻は一貫して大統領中心制を主張していた。要するに、「崔圭夏大統領は、自分が大統領で居続けることに汲々とし、新軍部ともたれ合いながらその地位を維持したいという思いが強かった」というのが、申鉉碻の回顧である。

 ▽総理に非難の矛先

 ところが当時、誤解は申鉉碻に向けて集中していた。

 この世の出来事や人生は、その半分以上が誤解のうえに成り立っている面がある、ということなのだろうか。

 二元執政制のために、申総理は「3金」[金大中、金泳三、金鍾泌]をはじめとする政界、そして政権奪取を決意した新軍部、さらには街頭や大学街のデモ隊から十字砲火を浴びることになる。

ソウル大学では「二元執政制」構想に反対する討論会が「アクロポリス広場」で開かれた

 崔圭夏は、ほくそ笑んでいたことだろう。

 尹錫悦「裁判長」、総理に「死刑」の判決

 「申鉉碻は退陣しろ」

 ふざけ半分でおこなわれたソウル大学の模擬裁判でも、申鉉碻総理に「死刑」が言い渡された。裁判長役を務めたのは、ソウル大法学部の学生、尹錫悦(第20代大統領、元検察総長)だった。尹錫悦はこう振り返っている。

 「198058日に学生会館2階のラウンジで、夜を徹しての模擬裁判がおこなわれました。518[光州事件]の直前のことで、検閲と報道管制で正確な情報がなく、漠然と全斗煥、盧泰愚が軍事反乱を起こしたという噂だけを聞いていたときでした。当時、東亜日報に入社した先輩から情報を聞いてきた法学部の4年生らが被告人不在の欠席模擬裁判を企画し、わたしが裁判長役を務めたというわけです。間違った情報のせいで、あの方(申鉉碻)をクーデターの首謀者と思い込み、死刑の判決を下したのです。全斗煥は『無期懲役』でした。いま思うと、申鉉碻総理には大変申し訳ないことをしてしまいました」(20217月、京郷新聞のインタビューに答えて)

 ▽検挙逃れ、避難

 翌日、キャンパスに号外のビラが出回った。

 裁判長役の学生尹錫悦が、新軍部勢力にたいする欠席模擬裁判で死刑や無期の判決を下した、と伝えていた。

 軍による反対勢力の一斉検挙がおこなわれれば、捕まるところだった。

 ところが、検挙が始まった517日の前夜、保安司令部に勤務する遠い親戚から自宅に電話があり、「尹錫悦を早く避難させろ」というのだった。それで尹錫悦は、江陵(江原道)の母方の親戚の家に3カ月間身を隠し、もう大丈夫だという知らせを聞いてから、ソウルに戻ってきたのだった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月24日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(22)

  「大韓陸軍万歳」と叫んで逝く

 新軍部の政権奪取に向けたキャタピラーに金載圭の部下、朴興柱が押しつぶされていこうとしていた。

 「1026決起」[1979年の朴正煕暗殺事件]の失敗で、中央情報部長金載圭の秘書室長だった朴興柱大佐の運命は尽きてしまった。1審だけしかない軍事裁判(791220日)で死刑が決まった。軍事裁判にあって2審、3審は贅沢すぎるのだ。

 9丁のうち、3丁は空砲

 198036日午前、第33師団の射撃場には処刑台の杭3本が立てられていた。

 朴興柱大佐のほかにも2人の死刑囚がいた。一人は安東の映画館に手榴弾を投げ込んだ軍人、もう一人は内務班で発砲して同僚を殺害した軍人で、合わせて3人だった。

 3人を標的とする3カ所の射台にはそれぞれ3丁ずつ、計9丁の16自動小銃を持つ射手が配置された。9人のうち6人の銃には実弾が込められていたが、各射台で1人ずつ、計3人の銃は空砲で、音だけしか出ないようになっていた。そうすることによって射手らは、自分が撃った銃では死ななかったのだ、と自らを慰めることができ、その夜もぐっすり眠ることができるのだという。

 執行官は陸士出身の大尉が務めることになっている。

しかし、どういうわけか、担当の執行官はこの日、射撃場に現れなかった。陸士の先輩である朴興柱のあまりにも無念な事情を察してのことだった、と思われる。それで、代わりに曹長が立ち会うことになった。

朴正煕暗殺事件で「内乱陰謀幇助」を問われ、法廷に立つ鄭昇和元参謀総長。民主化後、無罪が確定した

▽とどめの射撃

 射撃開始の命令が下る。「射撃用意」、それに続く「開始!」の命令がまだ下らない、その刹那であった。朴興柱は、白い布で目を覆われた状態で、声を限りに叫んだ。

 「大韓民国万歳! 大韓陸軍万歳!」

 その瞬間、「開始!」の命令が下り、銃声が空を切り裂いた。2人の死刑囚はぐったりと首をうなだれた。しかし朴興柱はどうしたわけか、首をもたげたままだった。手続き通りに検分が始まった。

 軍医官は、朴興柱の番になると、「まだだ…」と低い声で言った。すると、曹長は腰の大型コルト回転式拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく頭部に向けて引き金を引いてしまった。

 ▽因果応報…

 その銃撃の部位はまさしく頭頂部だった。頭蓋骨の上から下顎に向けた発射――。それは金載圭が朴正煕大統領を撃った際、1発目の銃撃で血を流して倒れた大統領に、とどめの一発を撃った部位・方向と、寸分の違いもなかった。

 見守っていた保安司令部の派遣官は鳥肌が立った。

 ああ、冤魂と悪業のカルマ(業)は空(くう)に漂うものなのか。

 朴大統領がとどめの一撃を受けた銃は、まさしく朴興柱の拳銃ではなかったのか。

 「1026」の夜、1発目を発砲した後、拳銃が故障した金載圭は部屋の外に飛び出してきて朴興柱の拳銃を奪い、頭部への銃撃でとどめを刺していたのである。

 あの夜、朴大統領を検分した保安司令部構内にある首都病院の院長金秉洙大佐は、頭部のひどい銃傷のためにそれが朴大統領のものであるかどうか明確に判別できなかった。遺体の腹部にある特有の痣(あざ)を見て、それが見覚えのある「コード・ワン(大統領)」であることを確認した。曹長の銃撃を受けた朴興柱の顔も、それと同様だった。

 ▽家族の願い届かず

 死刑囚の妻は、布で覆われた夫、朴興柱の顔をめくってみてそのまま気を失ってしまった。「顔かたちが無残につぶれた夫を見て気絶したのです」と当時の派遣官は証言している。

 当時、新聞記事を通して「お父さんを助けてほしい」と泣きながら訴えていた朴興柱の妻と息子、娘らの願いは遂に、かなえられることはなかった(息子は後年、大学の神学部を卒業し、いまは牧師になって京畿道・一山の教会で、牧会を担っているという)。

                      訳:波佐場 清

 

2026年5月21日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(21)

  「大統領になられるお方」

全斗煥が国家元首になるだろう。そんな話を最初に耳にしたのは意外にも、西氷庫の保安司令部捜査分室[当時、朴正煕暗殺事件の合同捜査本部の取調室として使われていた]に拘束されていた鄭昇和派の将官たちだった。

802月初め、全斗煥が初めて西氷庫に現れた。

李建栄、張泰玩、文洪球、金晋基ら一人ひとりと個別に面談した。

西氷庫の捜査官は、あらかじめ警告していた。

「すぐに国家元首になられる方なのだから、必ず敬語で接しなければなりません」

保安司令部の捜査官らは、全斗煥が大統領になることをすでに既定の事実として話した。

とはいえ長い間、全斗煥に対して先輩という立場で接してきた将官たちではないか。話しているうちについ、かつての口調そのままに「おまえ、全将軍」といった言葉が口をついて出た。その度に捜査官らは「尊敬語を使え」と注意した。世の中がひっくり返っていた。

▽靴下を手袋代わりに…

全斗煥が来ていった後すぐに、西氷庫の中庭で運動してもよろしい、という「恩恵」が施された。

 厳冬の収容所の「敗軍の将」たちは、交代で中庭に出て徒手体操などの運動をした。氷点下10度の超す寒波が襲ったある日、手袋がなかったために各自、靴下を手にはめた奇妙ないでたちで、狭い中庭をランニングした。将官というにはあまりにも惨めな格好だったが、30~40分間だけでもそのように運動できるということは、涙が出るほどありがたかった、という。

 ▽「軍は出るべきでない」

803月、全斗煥は保安司令官の先輩である姜昌成を招待した。

姜昌成(右)は19722月、金載圭(左/のちに中央情報部長として朴正煕大統領を殺害)から保安司令官を引き継いだ。

 姜は、全斗煥から秘かに連絡を受け、保安司令官室で会った。

1時間ほどの面談で全斗煥は、自分が政権をとるのを手伝ってほしいといった趣旨のことを話した。

「金鍾泌はキズ疑惑)が多くて軽率だし、金泳三は能力が不足しているようだ。金大中は思想が疑わしい」

姜昌成は首を横に振り、維新体制が終わったところへ軍が再び出るべきではない、と忠告した。全斗煥は反論して言い張った。

「先輩、みんながわたしのところに来ては、当分の間、軍が政権を引き受けてくれないといけないと、せがむんです。朴鐘圭(元警護室長)の兄貴など、わたしのところへ来て『もし、全将軍でなく、ほかの奴が政権をとろうと言いだしたら、だれにも知られぬやり方で自分で始末してやる』と言うんです」

朴鐘圭のこのような熱い焚き付けは、全斗煥にとってさぞかし満足のいくものであったはずだ。全斗煥はさらに、こう続けた。

「崔圭夏は、まったく間抜けな人間です。あんな者に政権を任せることはできません。そのまま傀儡として立てておき、軍部で実権を握っていくのがよさそうです」

姜がそれでも納得しないと、全斗煥は苛立ったように秘書室長の許和平を呼び、「次に待っている者はいないのか?」と言い、追い出すように立ち上がった。

▽報復

このあと、姜昌成は報復を受ける。

全斗煥が大統領に就任(80年9月1日)するころ、保安司令部は、姜昌成の海運港湾庁[現在の海洋水産部の前身]長官時代の不正をほじくり出して永登浦刑務所に収監した。そこで姜は、一般の刑法犯らといっしょに容赦のない三清教育隊に4回も連行され、悪名高い棒体操[重い丸太を繰り返し担がせる過酷な訓練]で死ぬ思いをさせられることになる(黄龍熙刑務官の記録)。

▽「いっそのこと、大統領まで…」

 80年春。そのころの保安司令官の接見室は、まちの市場のようなにぎわいぶりだった。

 政治、行政、経済の司令塔となった保安司令部の秘書室には、あれこれと口実を設けて幹部クラスが競うように押しかけた。顔を覚えてもらおうという者たちで、まさに「門前市を成す」ありさまだった。秘書室長の許和平はすでに「一人の下、万人の上」[つまり、全斗煥に次ぐナンバー2]の地位を存分に味わっていた。

 そんな彼に、財務長官の李承潤が進言するように言った。

 「全斗煥司令官がいっそのこと、すべてを(大統領まで)引き受けてしまえば、このように(青瓦台に行ったり、総理室に行ったりといった)煩わしい思いをしなくてもいいものを」と。

 ▽阿諛追従

反対勢力の一掃を急かす声も聞こえてきたという(元国情院長の目撃談)。

 駐韓米軍司令官ウィッカムの回顧録にも「ゴマすり」たちの話が出てくる。

 国会の文亨泰国防委員長はウィッカムに繰り返し、こう言ったという。「政府高官たちが全斗煥のところへ群れをなして押しかけて阿諛追従(あゆついしょう)し、全斗煥がそれを楽しんでいる。そのせいで事態はますます歪んでいっている」と。

 ウィッカムの、その次のくだり、皮肉を込めた言い方が、おぞましい。

 「ところで、文亨泰自身もまた、頻繁に全斗煥と接触しているではないか。それで、わたしは文亨泰も全斗煥の自宅詣(もう)でをする高官のうちの一人である、という事実に注目せざるを得なかった」(『ウィッカム回顧録』)

                           訳:波佐場 清

2026年5月18日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(20)

  「大統領選遅らせた」

1980年、ソウルの早い春。当時、「政治日程」といえば、維新憲法の改正と新しい大統領を選ぶ選挙のことを意味していた。

「ソウルの春」の会同。右から金鍾泌、金泳三、金相万(東亜日報会長)、金大中、丁一権(国会議長)19802月、仁村記念館

 118日、崔圭夏大統領は記者会見で「政府が約束した政治日程を守る」と表明した。しかし、新民党総裁の金泳三は、政治日程を大幅に前倒しすべきだと主張し、活動を本格化させていった。金大中も229日、尹潽善[初代ソウル市長。李承晩大統領下野の後、議院内閣制下で第4代大統領]らとともに復権し、集会への参加や要人らとの面会といった政治活動を再開した。

振り返ってみるに、崔圭夏は政治日程を思い切り前倒しし、一刻も早く過渡期を終わらせておくべきだった。

崔圭夏の判断ミスについて、金泳三、申鉉碻、盧泰愚はそろって、回顧録のなかで叩きだしの太鼓のように崔圭夏を厳しく批判しているのが目を引く。

▽「早急に大統領選をやるべきだった」

まず、金泳三の回顧――

「崔圭夏は過渡期の政権担当者として早急に選挙をやり、国民の手に民主主義を取り戻すべきだった。わたしはかねてより、80年に選挙さえ早くやっていたなら、(全斗煥らによる「517」の)クーデターはなかっただろうと考えている。「1026[朴正煕暗殺事件]直後に崔圭夏と会った際、『軍部に機会と名分を与えてはいけない。時間を引き延ばすと、混乱が大きくなるだけだ。あなたに課せられた任務は、3カ月以内に大統領選挙をおこなうことだ』と説き、かれの口からその了解も得ていた。ところが、かれは政治日程を遅らせ、国に不幸を招いた。「419[1960年春に李承晩政権を倒した「学生革命」]のあと、許政の過渡政権が混乱の中でも選挙によって民主党への政権交代をなしたのとは対照的な、間違った身の処し方をした」(『金泳三回顧録』)

当時の国務総理、申鉉碻に聞いてみよう。

「崔圭夏大統領とうまく呼吸が合っていれば、民政移管がうまくいっていた可能性もあった。しかし、崔圭夏氏は(新軍部が自分を担いでくれるだろうと期待していて)新軍部による反対勢力一掃の5・17クーデターを呼び込み、民政の開始という国民との約束を破った」と言い切った。

▽盧泰愚も批判

この点、新軍部の盧泰愚までもが崔圭夏を非難している。

 盧泰愚は金泳三とは反対の側にいたが、「崔圭夏は能力もないのに時間だけを引き延ばした」と、回顧録のなかで次のように書いている。

 「崔圭夏大統領があの時期に国政を担当されたのは、ご自身にとっても、また、国家にとっても不幸なことだった。あの方は政治スケジュールをあまりにも長く設定しすぎた。国政を率いる自信と信念があったのなら、余裕をもって日程を組み、混乱を収拾してから安定と秩序を取り戻したうえで政権を移管しても、とくに問題はなかっただろう。しかし、そうした能力もないくせに、政治日程を長く取りすぎたせいで、混乱がいっそう深まった」

そう指摘しながら盧泰愚は、「これは仮定の話だが、もし申鉉碻であったなら、違っていたことだろう。あの方は崔大統領の欠点を補って余りある能力と決断力を備えていたので、多分、状況は変わっていたはずだ」と記録している。

当時、青瓦台の政務首席秘書官だった高建も同じ考えだった。やはり、政治日程を早めるべきだったと書き残している。

「街のデモ隊が『政治日程を早めろ』『非常戒厳令を解除しろ』と叫んでいる以上、時局収拾を急ぐべきだった。そこで、『政治日程を早め、透明にすべきだ。戒厳令の条件付き解除の時期を発表し、全面的な内閣改造をおこなって雰囲気を一新すべきだ』という内容の進言書を作成した。安致淳秘書官にも手伝ってもらい、各界の世論をまとめたものだった。ところが、大統領はそれとは正反対の対応をとった」(『高建回顧録』)

▽タイム誌にリーク

申鉉碻の回顧談に登場する崔圭夏の「黒い下心」に関して、2――

申総理は崔大統領に、中央情報部長を民間から急いで任命するよう進言した。

 「崔圭夏氏に話したんだ。情報部は(朴大統領を殺害した)金載圭のせいで、めちゃくちゃになってしまっている。こういう過渡期だからこそ、情報が決定的なのだから(金載圭の)後任の部長を早く、密かに任命してください。軍人ではなく、民間人を任命して保安司令官(全斗煥)と両立させ、相互に牽制させるべきです。2つの機関を併存させて情報をコントロールしていくべきです、と」

それでも反応はなく、何日かしてまた、催促したが、崔圭夏は黙りこくったままだった。

ところが、崔大統領の反応は、あろうことか突然、米週刊誌『タイム』から出てきた。

「タイム誌が届いたので見ると、『崔大統領は情報部長を軍人から任命しようとしているが、申総理が民間人にすべきだと反対していて任命できず、遅れている』と出ている。大統領と2人きりで、ほかにだれもいないところで交わした話なのに、どうしてこのような記事が出るのか。それで、あちら(崔圭夏)でわざとリークしているんだ、と考えるほかなかった。崔圭夏は、軍人たちとグルになりつつあるんだなあ、と…」(『申鉉碻の証言』)

▽退陣に抵抗

 80424日、申鉉碻総理は、新聞各社の編集局長を三清洞の総理公邸に招いて夕食会を持った。その席で申総理は、こう話した。

「わたしたち過渡期の管理政府は、使命をまっとうして退くつもりだ」

 世間のデマ(政治日程が長引いていること関し、政権延期の野心がある、とするもの)を払拭し、申鉉碻の退陣を叫ぶデモ隊のスローガンにたいする回答を示したものだった。

 翌日、青瓦台の人間がやって来て、申総理に「わたしたち」とはどういう意味なのか、と聞いた。申氏は語る。

 「わたしは怒りがこみ上げ、怒鳴りつけた。青瓦台に住んでいる人間どもは韓国人ではないのか。『わたしたち』という言葉も知らないのか。つまらぬことを言っていないで帰れ、と怒鳴りつけてしまったよ。わたしが過渡政府の責任を果たして退陣すると言っていることに異存がないのなら、どうして『わたしたち』という言葉に異議を唱えるのか。聞くまでもないことだ。大統領のイスに座ってみて、考えが変わったという意味だった」

 崔圭夏と申鉉碻の過渡政権は、こうして足並みが乱れ、こじれて行った。

 そんな隙を突き、全斗煥の新軍部は政権に向かって猛烈な勢いで突き進んでいった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月15日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(19)

 「ひっくり返そうとしていたら、軍は全滅」

当時は、陸軍参謀総長の李熺性戒厳司令官さえも、全斗煥の新軍部の手中にある「お飾り司令官」に過ぎず、監視される身だった。李熺性は、こう吐露している。

「わたしは参謀総長として、あの1212の下克上劇を正すべき立場ではあったが、調査機関も補佐陣もみんな、あちら側(保安司令部)に押さえられていた。もし、そのことを問題にしようものなら、軍全体がめちゃくちゃになっていただろう。そういう状態が惰性的に固まっていってしまった」(20109月、MBCインタビュー)

「全斗煥の言うことを聞かなかったら、初めから戒厳司令官は務まらなかった。保安司令部の通信傍受や盗聴が怖かった。参謀総長を放りだし、辞めてしまおうか、と思ったりもした」(検察の「1212」捜査で)

▽米軍も監視対象

全斗煥率いる保安司令部の包囲網は、駐韓米軍司令官ウィッカムにたいしても例外ではなかった。

801月末の逆クーデター騒動(ウィッカムのところへ李範俊が逆クーデターの情報を持ち込んだ事件)のあと、全斗煥の保安司令部は、幹部将校らの批判的な言動は即刻報告せよ、との指示を出した。米第8軍や米大使館の関係者と接触する高官らは、すべて保安司令部の許可を得なければならないようにした。あらゆる幹部級会合で、密かに録音テープが回された。また、全斗煥にたいする警護・警備が強化され、公用車の窓ガラスはすべて黒く塗りつぶされ、仮に街なかに暗殺を狙う者がいたとしても、車内をうかがうことができないようにした」(ウィッカム回顧録)

 さらには、新軍部が常々「植民地の総督気取りなのか」と皮肉っていたウィッカムにたいしてはスパイまで付けた。

「米韓連合軍司令部に韓国軍の副官(中佐)が新しく来た。ところが、その新任副官は事務室の外にある書類棚を漁っていた。情報収集をしていることは明らかだった。調べてみると、かれは保安司令部の将校であり、収集した内容を機密として報告していた事実が明らかになった。それ以来、わたしはそのスパイに事務室のいかなる書類にも一切手を触れさせなかった。そのスパイがいるときは車内であれ、ヘリコプター内であれ、話を交わさないようにした」(同)

▽自信満々

全斗煥の口からは、自信たっぷりの言葉が出ていた。

ある日、申鉉碻総理の息子である申喆湜に言った。「ソウルの春」がピークを迎えようとしていたころだ。経済企画院に勤めていた申喆湜にたいし全斗煥は、さも、よく知っているかのような顔で、近寄ってきた。

19803月、全斗煥(右)は少将から中将に破格の昇進をした。
左は崔圭夏大統領
「申総理の子息の喆湜君、そうだろう?」

「あ、はい」

「ワシだ、全斗煥だ」

「近ごろの情勢、大丈夫なのでしょうか? デモが深刻になってきているようですが…」

「な~に、心配するな。ワシがしっかりと掌握している」

全斗煥は明るい表情で、自信たっぷりに答えた。

 ▽米側の不安と計算

 80129日付の2級秘密電文で、米大使のグライスティーンは、微妙なニュアンスの報告を付け加えていた。

「現在、韓国経済は近年(朴正煕政権末期)の楽観論から大きく逸脱してきている。(崔圭夏による)民政政権には、このような経済的難局を扱う能力はないと見なければならない。このような状況が続けば、軍部による新たなクーデターや政治的反乱が再び起こる危険性は、ますます高くなるだろう」

米国は5月のソウルの大規模なデモと「518光州抗争」のあと、急速に全斗煥の新軍部に傾いていったのだが、その予兆をここに垣間見ることができる。

 802月中旬、ウィッカム司令官が全斗煥と初めて会ったあとに書いた記録がある。

ウィッカムは本国に送った報告書の中で「全斗煥は自ら、最高権力者になるのが『運命』だと信じている。しかし、米国についての知識や、韓国の政治不安が国際社会に及ぼす影響の重大性に関する知識は、幼児レベルに留まっていることを発見した」と書いていた。ここで、目を引くのは「運命」という言葉だ。米国は不安を抱きながらも全斗煥の野心に注目し、その一方で、全斗煥を通して米国の国益を実現すべきかどうかを天秤にかけている。

                       訳;波佐場 清

 

2026年5月12日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(18)

  「逆クーデター」

 そのころ、米国も頭を悩ませていた。

 駐韓米大使の秘密電文(1993年解除)は、そのことを物語っている。

 「(米国が)動けば非難され、動かなくても非難される。やるべきことをしっかりやらなければ危険なことになるだろうし、逆に、介入しすぎても(新軍部の)国粋主義者らの強い反発を招くだろう」

 80129日の2級秘密電文で、ウィリアム・グライスティーン大使はサイラス・ヴァンス国務長官にこう打電した。「1212反乱」の後、ジレンマに陥った米国の困惑をそのまま物語っている。

 あっちにも、こっちにもつけず、不安に怯えるばかりの米国――

 驚くべきことに、グライスティーン大使はこの時、旧軍部から「逆クーデター」を提案される。韓国軍の将官30余人を代表するという「ある将官」が訪ねてきて、「不人気な反乱軍の全斗煥一味をひっくり返したいので、助けてもらいたい」と米国に支援を求めたのである。

 ▽秘密解除外交文書

 その将官とは、李範俊中将(19282007/当時、国防部防衛産業次官補)だった。

 米国務省が2021916日に韓国外交部に伝達した882ページに及ぶ光州事件関連の秘密解除外交文書で、その名前が初めて明らかになった。198021日、グライスティーン大使がワシントンに報告した「韓国軍の不安定性に関する追加の証拠」と題する電文に出てくる「情報提供者」である。

 そこには、米大使が、李範俊(General Rhee Bomb June)将軍から「1212反乱をひっくり返そうという韓国軍内の反全斗煥クーデター情報」を入手した、という内容が書かれている。

 「李範俊から逆クーデター情報を入手した。ウィッカム駐韓米軍司令官も軍内部にさらなるクーデターの兆候があることを確認した」

 後日出版されたグライスティーン大使の回顧録とウィッカム司令官の回顧録、そしてこの秘密文書を突き合わせてみると、ジグソーパズルが完成する。当時、米国が入手していた情報の全貌というのは、こうだ。

  ▼全斗煥の計画は、1212反乱で軍権を掌握したあと、民政政権を奪取しようとするものだが、米国の拒否反応を前に、まだ様子をうかがっている。

▼陸士出身でない将官の90%と陸士出身将校の半数が、全斗煥の反乱に反感を抱いている。

30余人の将官クラスの将校が、全斗煥の排除を計画している。

 ▽揉み消し

グライスティーン大使とウィッカム司令官は、逆クーデターを嫌っていたわけではなかった。道徳的にも、それは正当なものだった。

 しかし、それにもかかわらず、それを拒否した。現実的にみて、限界があったからだ。

 まず第一に、逆クーデター勢力の主役たちの正体と、その実力のほどがよく分からなかった。米国の立場を積極的に支持するとは言っているものの、「もう一人の全斗煥」ではない、という確信が持てなかった。さらに、逆クーデターの動員兵力がどれほどのものになり、流血事態を起こさずに全斗煥勢力を駆逐できるのかも不透明だった。米国が最も恐れていたのは「1212反乱」のような安全保障上の混乱が再び繰り返されることだった。

 ワシントンは、逆クーデターに反対の意思を表明する一方で、全斗煥にもその事実を知らせ、「こんご、民政政権を乗っ取るようなことをしたら、不幸な結果を招くことになるだろう」と警告することで、「逆クーデター事件」を闇に葬った。

 ▽偽装工作?

 この過程において、米CIA韓国支部長のブリュースターが大きな役割を果たした。

 全斗煥ら新軍部と親密な関係にあった彼は、グライスティーン大使とウィッカム司令官に「すでに軍の統治権者になってしまった全斗煥を排除できる有効な手段は、米国にはない」と指摘し、ワシントンは韓国の民主主義よりも安保の方を重視すべきだ、とアドバイスしたという。

 「逆クーデター」の情報が入ったあとの展開は、驚くべきものだった。

 新軍部は問題の幹部将校15人を排除(粛清)したのだが、そのことについて、ウィッカムは回顧録の中で「あろうことか、逆クーデター計画を持って訪ねてきた当の将官(李範俊)は排除の対象に含まれておらず、計画の全容は謎に包まれたままとなった」と書いている。

 

ウィッカム駐韓米軍司令官(右)は19816月、離任した

つまり、その将官は、全斗煥側が送り込んだ偽装工作のための人物だった可能性があることを示唆しているのである。全斗煥が逆クーデターという芝居を打ち、米国がうっかり食いついてきて罠にはまれば、逆に、それを弱みとして握ろうとしていたというのだ。

情報提供者の李範俊のその後の経歴を見たなら米国は、身の毛もよだつ思いをしたはずだ。

彼は全斗煥の権力下、中将で予備役に編入して81年から故郷の江陵(江原道)から2回も民正党の国会議員に当選し、さらに盧泰愚政権で交通部長官までつとめた。ウィッカムが疑っていたように、もし、これが新軍部の偽装工作だったのだとしたら、それはもう、『三国志』顔負けの奇抜な策略というしかない。

▽「あり得ない、不可能」

新軍部の一員で、当時保安司令部にいた将官の呉日郎(金載圭を逮捕した人物で、のちに青瓦台安全処長)に最近、筆者は逆クーデターについて聞いてみた。

結果から言うと、そのような試み自体、不可能だっただろう、という答えだった。

「一時、逆クーデターの噂があったのは事実だ。しかし、全斗煥保安司令官は当時、戒厳司令部を含む全軍の神経網(通信網)や急所を完全に掌握していた。そんななか、現実問題として、そのようなことは決して起こり得なかった。米国がそのような提案を断固払いのけたのは、韓国軍の内部を正確に把握していて賢明な判断を下したというわけだ」

                        訳:波佐場 清