■「大韓陸軍万歳」と叫んで逝く
新軍部の政権奪取に向けたキャタピラーに金載圭の部下、朴興柱が押しつぶされていこうとしていた。
「10・26決起」[1979年の朴正煕暗殺事件]の失敗で、中央情報部長金載圭の秘書室長だった朴興柱大佐の運命は尽きてしまった。1審だけしかない軍事裁判(79年12月20日)で死刑が決まった。軍事裁判にあって2審、3審は贅沢すぎるのだ。
▽9丁のうち、3丁は空砲
1980年3月6日午前、第33師団の射撃場には処刑台の杭3本が立てられていた。
朴興柱大佐のほかにも2人の死刑囚がいた。一人は安東の映画館に手榴弾を投げ込んだ軍人、もう一人は内務班で発砲して同僚を殺害した軍人で、合わせて3人だった。
3人を標的とする3カ所の射台にはそれぞれ3丁ずつ、計9丁のⅯ16自動小銃を持つ射手が配置された。9人のうち6人の銃には実弾が込められていたが、各射台で1人ずつ、計3人の銃は空砲で、音だけしか出ないようになっていた。そうすることによって射手らは、自分が撃った銃では死ななかったのだ、と自らを慰めることができ、その夜もぐっすり眠ることができるのだという。
執行官は陸士出身の大尉が務めることになっている。
しかし、どういうわけか、担当の執行官はこの日、射撃場に現れなかった。陸士の先輩である朴興柱のあまりにも無念な事情を察してのことだった、と思われる。それで、代わりに辺曹長が立ち会うことになった。
![]() |
| 朴正煕暗殺事件で「内乱陰謀幇助」を問われ、法廷に立つ鄭昇和元参謀総長。民主化後、無罪が確定した |
▽とどめの射撃
射撃開始の命令が下る。「射撃…」、それに続く「開始!」の命令がまだ下らない、その刹那であった。朴興柱は、白い布で目を覆われた状態で、声を限りに叫んだ。
「大韓民国万歳! 大韓陸軍万歳!」
その瞬間、「開始!」の命令が下り、銃声が空を切り裂いた。2人の死刑囚はぐったりと首をうなだれた。しかし朴興柱はどうしたわけか、首をもたげたままだった。手続き通りに検分が始まった。
軍医官は、朴興柱の番になると、「まだだ…」と低い声で言った。すると、辺曹長は腰の大型コルト回転式拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく頭部に向けて引き金を引いてしまった。
▽因果応報…
その銃撃の部位はまさしく頭頂部だった。頭蓋骨の上から下顎に向けた発射――。それは金載圭が朴正煕大統領を撃った際、1発目の銃撃で血を流して倒れた大統領に、とどめの一発を撃った部位・方向と、寸分の違いもなかった。
見守っていた保安司令部の派遣官は鳥肌が立った。
ああ、冤魂と悪業のカルマ(業)は空(くう)に漂うものなのか。
朴大統領がとどめの一撃を受けた銃は、まさしく朴興柱の拳銃ではなかったのか。
「10・26」の夜、1発目を発砲した後、拳銃が故障した金載圭は、部屋の外に飛び出してきて朴興柱の拳銃を奪い、頭部への銃撃でとどめを刺していたのである。
あの夜、朴大統領を検分した保安司令部構内にある首都病院の院長金秉洙大佐は、頭部のひどい銃傷のためにそれが朴大統領のものであるかどうか明確に判別できなかった。遺体の腹部にある特有の痣(あざ)を見て、それが見覚えのある「コード・ワン(大統領)」であることを確認した。辺曹長の銃撃を受けた朴興柱の顔も、それと同様だった。
▽家族の願い届かず
死刑囚の妻は、布で覆われた夫、朴興柱の顔をめくってみてそのまま気を失ってしまった。「顔かたちが無残につぶれた夫を見て気絶したのです」と当時の派遣官は証言している。
当時、新聞記事を通して「お父さんを助けてほしい」と泣きながら訴えていた朴興柱の妻と息子、娘らの願いは遂に、かなえられることはなかった(息子は後年、大学の神学部を卒業し、いまは牧師になって京畿道・一山の教会で、牧会を担っているという)。
訳:波佐場 清






