2026年10月8日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(65)

 ■盧信永を抜擢

 軍人でなく、クーデターの功績もない文民なら、言うとおりに従うだろう。許和平や許三守との深い縁もないだろうし……。その間、日本との経済協力で無から有を創り出すために粘り強い借款交渉をしてきていた盧信永外務部長官の忠誠心が全斗煥大統領の頭に浮かんだ。

 刑務所に収容している無期懲役囚の金大中のことも喉に刺さったトゲだった。

 米国と日本がいつまでもしつこく食い下がってきているが、そのような外交問題は、軍人では解決できない。いや、全斗煥がひとり、解決しようとしても、目を三角にして睨んでいる大佐たちや、その上の「株主」たる将官たちが黙って見ているはずもないだろう。

 ▽「政治のこと、分かるでしょう」

1982年5月下旬、大統領は、報告のためにやって来た盧信永にそれとなく聞いてみた。 

「盧信永長官も、政治のことは少しは分かるでしょう」

全斗煥政権で重用された盧信永。外務部長官、安企部長、国務総理を歴任した

 

当時、盧長官が取り組んでいた日本から100億ドルの経済協力資金を引き出す「韓日経済協力」の問題は、膠着状態に陥っていた。盧信永長官がそのことに関して大統領に報告しに上がった席で、全大統領が突拍子もなく聞いてきたのである(『盧信永回顧録』)。

 「政治のことは分かりません。大学を出て外務部に入り、これまで公務員一筋でやってまいりました」

 「海外の大使館に勤務していて、その国の政治について勉強したのではないのかね」

 「毎週、情勢について報告はしてまいりました。しかし、そうだからといって、政治のことが分かっているというわけではありません」

 それだけで、終わった。

 ▽兪学聖更迭、後任に盧信永

 何日かしてまた、経済協力の問題で青瓦台に報告に上がると、大統領はまた、話しかけてきた。

 「最近、安企部の兪学聖部長に会っていないのかね」

 「このところ、わたしの仕事で忙しく、ここしばらくは会えないままです」

 盧信永長官は気になり、怪訝に思って帰り道、南山に寄って兪学聖部長と会った。兪部長は喜んで迎えてくれた。

 「おお、これは盧君、いらっしゃい」

 「大統領閣下が、このごろ兪部長と会っているか、とお尋ねになられましてね。この間、なにかあったのでしょうか」

 「なにかって? なにもなかったんだけどね。経済協力の問題は盧長官がずいぶんと苦労なされ、いつも外務部のほうでよくやってくれているので、心強いかぎりです」

 兪学聖は、すっとぼけた。李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件に絡んで大統領に「親族の処罰」を進言する一方で、すでに辞表を出していたのだが、まさか、大統領が盧信永を後任に据えることを念頭に自分を更迭しようとしている、というところまでは考えてもみなかったのだろうか。

 ▽破格の人事

 盧信永が第5共和国の外務部長官に抜擢されたこと自体、破格の人事だった。

 1980年9月1日、当時ジュネーブ総領事として勤務していて許和平からの電話を受け取ったときのことについて盧信永は次のように回顧している。思いもよらぬ、夜明け前の電話連絡だった。以下、『盧信永回顧録』から――。

 その日の前日、ソウルから来た元青瓦台政務首席秘書官の柳赫仁と夕食を共にした。そんなとき、別れ際に盧信永は、乗用車のドアに指を挟んで人差し指の爪を剥がすという事故に遭ってしまった。一晩中、ズキズキする痛みをこらえて寝返りを打っていると、未明に電話がかかってきた。

 深夜の電話はたいがい、不快なものが多かった。

うれしくもない事故の報告だったり、あるいは北朝鮮の工作員なのかのどうか、電話に出ても何の応答もなく、受話器を持ち直すと、向こうから一方的に切ってしまったり――といった怪しい電話もかかっていた。だいたい、南北関係の重要な会議がある前日のことが多かった。それで、午前2時ごろにかかってきたこの電話にも、つっけんどんに応じた。

「ソウルの許和平です」

「許和平さんって、どなたですか」

相手はちょっと言い淀み、別の人間に代った。

「大統領秘書室長の金瓊元です」

「えっ、金博士はいつ、ジュネーブに来られたのですか」

盧信永は、金瓊元とは面識はなかった。とはいえ、1970年代半ば、高麗大学政治外交学科教授の金瓊元が朴正煕に抜擢されて青瓦台の特別補佐官になったということは、よく知っていた。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)からも教わったというハーバード大の博士である。

「いえ、ここはソウルです。外務部長官に任命されましたので帰国の準備にかかってください。ソウルでお会いしましょう」

 新軍部にはこれといった知り合いもいないところへ、外務部には能力の傑出した先輩たちが大勢いる。そんななかで、まさか自分に長官の番が回ってくるなんて――。半信半疑でいるうちに夜が明けると、ソウルの放送記者からインタビューを申し込む国際電話がかかってきた。

 前夜会っていた柳赫仁・元首席秘書官に電話で、明け方の電話のことを話した。

 柳は「おめでとう」といい、ソウルの新軍部や許和平大佐の立ち位置などについて詳細に教えてくれた。東亜日報の政治部長をしていて1973年に青瓦台に政務第1首席秘書官として入り、車智澈警護室長と金載圭情報部長の間で火花を散らしたライバル競争など、権力中枢の裏事情に何から何まで通じていた。

 盧信永はそんな柳から、青瓦台奥深くの権力関係について聞くことができた。

 ▽心遣い

 1980年9月8日、盧信永は帰国して外務部長官に就任した。

 新軍部と縁のなかった盧信永をいったい、だれが推挙したのか? 盧に忠実に仕えていた外交官は、筆者にこう語った。

 「実際、新軍部とのツテなど、まったくなかった。ただ、能力とその誠実さでメディアの評価は高かった。次官も務めていたので、いずれ一度は長官をやるだろうと期待されてはいた。それにスイスのジュネーブはソウルの高官たちが外遊の際によく立ち寄るコースなので、そこで4年半、総領事をしている間に食事の接待などで縁ができた人たちに好印象を与えたようだ」(金興洙・元バチカン大使)

たとえば、盧総領事は心のこもった挨拶の葉書をよくソウルに送っていた(筆者も、かれが日本の萩市を旅行した際に短い文章を書き添えて送ってくれた絵葉書1枚をいまも保管している)。軍部の、許氏らをはじめとする実力派の大佐たちもそのような葉書を受け取っていた。コチコチと、ただ硬いだけの「ヤング・カーネル」たちも、そんな心遣いに感動していたのである。

▽「お前が盧信永か…」

 全斗煥は「元来、外交官というものは、きちんとアイロンのかかった服を着、辛い仕事や責任を伴う仕事からは逃れてずる賢く立ち回るものだが、盧信永は違う」と評価していたという。絵葉書という些細なことに感動した大佐や将官たちが口々に盧信永のことを話題にしていたということもあった。

 青瓦台で長官任命状を手渡しながら全斗煥はこう言った。

 「おまえが盧信永か…。情報報告をみると、適任だというので任命するが、しっかりやってくれよ」

 このように後ろ盾もなく起用された、平壌生まれの外交官だったが、やがて全斗煥の厚い信任を得ていったのである。[盧信永(1930~2019)は、平壌近郊の生まれ。解放後の南北分断下、平壌の中学を卒業してすぐに単身で南に入った(越南)。地縁、血縁がないなか、苦学してソウル大に入学。その直後に朝鮮戦争が勃発し、韓国軍に志願入隊。休戦した1953年、軍籍に身を置いたまま外交官試験に合格。韓国の外交官から国連事務総長になった潘基文氏の「師匠」としても知られる]

                        訳:波佐場 清

2026年10月5日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(64)

 ■権正達、失脚

 全斗煥は素早かった。ソウルに帰る列車内で警護室長を呼びつけると、国会手帳を探して持ってくるよう命じた。

 手帳の1枚1枚をめくりながら、李鍾賛に聞いた。

 「(民正党)事務総長には、だれがいいか」

 「権翊鉉議員がいいのではありませんか。党を確実に掌握し、閣下の考えを正確に理解していないといけないのですから…」

 ▽権翊鉉・事務総長

 権翊鉉は陸士11期、全斗煥と同期で、長年の友人である。新軍部が1980年春、全斗煥を押し立てた政権づくりと新党を構想する際には金潤煥らといっしょにその先頭に立ちたがっていた。しかし「クーデター功臣」の許和平、許三守らが立ちはだかり、意を遂げられないでいた。その後も何度か党役員候補として名前が挙がったが、外されていくのを李鍾賛は見てきた。

 ――そうだな。スリー許、あいつらに天敵を立ててひと泡吹かせてやらないと…。安企部長の兪学聖までがいっしょになって、ワシを苦しめているではないか。

全斗煥政権で初代安企部長をつとめた兪学聖

閣下はそう思っているに違いないとみた李鍾賛の判断は当たっていた。

「権翊鉉。かれなら、うまくやるだろうな」

全大統領はすぐに「OK」を出した。

▽列車内人事

 そしてさらにその場で、政策委員会議長[政調会長]に陳懿鍾、政務長官に呉世応、総裁秘書室長に南載斗議員を一挙に決めていった。全大統領はさらに李鍾賛に聞いた。

 「ところで、金正礼議員は闘士型で非常に積極的なのだが、どこに抜擢すべきかな」

 「党の女性委員長にするよりも行政府で入閣させるのはいかがでしょうか」

 「なら、保健社会部長官[日本の厚生労働相に相当]にしよう」

 列車がソウルに近づくと、全大統領はトイレに行ってきた。

 そして、改まった表情でこう言った。

 「いま、ワシとした話は口外してはならんぞ。青瓦台の補佐官ども(許氏ら)が、列車内で2人だけでどんな話をしたのか、探ろうとするはずだ。絶対に口外はならんぞ、分かったな。あっちの客車の長官や随行の者たちにも、もし聞いてきたら、国会対策や時局に関する話だった、と言っておけ」

 ――ああ、鉄拳統治者であっても、ここまで細心なのか。権力の属性というものを見抜いているんだな。李鍾賛は心の内で感嘆しながら、こう付け加えた。

「それはそうとして、李載瀅代表だけには前もって耳打ちしておくべきではないでしょうか」

「そうしておけ。しかし必要なところだけに限るのだぞ」

▽全斗煥に白紙委任

案の定だった。翌日、李鍾賛のところへ青瓦台の補佐官たちから間髪を入れずに電話がかかってきた。李鍾賛は徹底して「何も知らない」とシラを切り続けた。

大統領からの伝言を受け取り、その真意を読み取った民正党代表の李載瀅は、やはり老獪だった。

翌日、プラザホテルに党役員全員を集めて朝食会を開いた。

「わたしたちは李哲煕・張玲子事件で一大挑戦を受け、『正義社会の実現』という目標が揺らいでいます。党としては、このような激動にたいして責任を負わないわけにはいきません。そこで、責任ある党人としては、ここはいったん、党総裁(全斗煥)に再信任を仰ぐことで収拾をはかるべきではないかと考えます。協力をお願いします」

李載瀅は、そう言って静かに白紙を回した。

権正達事務総長は、来るべきものが来た、という表情で諦めたように署名した。

2年余に及ぶ権勢の末の失脚だった。

「結党の過程で権正達総長は、ほとんど独占的に指揮を執った。権総長には李載瀅代表も眼中にないかのようだった。そんなことも、かれが社会的に追い詰められるようになった背景の一つだった。わたしが見るに、かれは他人に配慮する余裕がないようだった。それで、世論の中心をなす層から不興を買ったのではないか、と思う」(李鍾賛の述懐)

▽いいカッコしい

権正達に白い目を向ける者は少なくなかった。

蔡汶植(1925〜2010/元国会議長)は、権正達の「虎の威を借る狐」のような「もったいぶった態度」について、筆者にこう語ったことがある。

「国会議員選挙の公認証や党役員任命書をもらいに青瓦台に上がった場合など、事務総長の権正達がやったことといったら、目も当てられなかった。大統領に先んじて壇上に上がって直立不動の姿勢をとり、軍隊式に一つひとつを予行演習させた。自分が大統領にでもなったかのように、例外なく一人ひとりから敬礼を受け、授与するのだった。大統領への忠誠を装いながら、実のところ、いい格好がしたくてそんなことをしていたのではないか。わたしと尹吉重氏(のちに国会副議長)は恥ずかしくて控室にじっと座り、タバコをくわえてがまんしていたものだ。それでも、わたしらが年上だったからかどうか、無理やり引っ張りだして敬礼をさせるようなことまではしなかった。しかし、あんなにも多くの者に予行演習をさせるとなると、ずいぶんと時間もかかった。みんな、口には出せなかったが、腹の中では悪口を言っていた」

▽次期安企部長は?

全斗煥大統領も「1980年に結党しろ、と指示していたのに権正達は格好だけをつけていて実際の仕事はぜんぶ、李鍾賛がやった」と冗談半分に言っていた。ともかく、威張るのが好きな権正達のことを李鍾賛は「世論の中心をなす層から不興を買った」と表現したのである。

こうして党と政府の人事刷新、内閣改造の輪郭は固まった。あとは、だれを安企部長に起用するかだ。

全斗煥大統領は意表を突く妙案を持っていた。

                        訳:波佐場 清

2026年10月2日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(63)

  ■「大統領の親族であっても叩け」

「先進祖国の創造」という第5共和国の理念の前には、全斗煥大統領の親族であっても例外はあり得ない――とばかりの「スリー許」(許和平、許三守、許文道)らの高圧的な態度は、(大統領の親族の管理を担当する)民情首席秘書官の李鶴捧や秘書官の朴哲彦、孫晋坤らの反感を買った。かれらは「スリー許」に背を向け、みじめな境遇に転落(?)した大統領にかえって同情した。

とくに許和平の存在は、首席秘書官のなかでも際立っていた。盧泰愚も回顧録のなかでこう書き残している。

手形詐欺事件で逮捕された李哲煕(右端)張玲子(左端)夫婦と李圭光(中央)=1982年5月

「スリー許が目立つようになり、人がそこに集まり始めた。権力の属性とはそういうものではないか。いつの間にか長官たちも、大統領と面談した場合、青瓦台を出る前にかれらのところに立ち寄るようになった。大統領と話した内容について、かれらに説明して初めて安心できる、というような空気になっていった。全斗煥としては、気分がよかろうはずがなかった」(『盧泰愚回顧録』)

▽「3許」と安企部長に不信

前々から全斗煥は、盧泰愚にたいして「許和平らはけしからん」と口にしてきていた。

全大統領は困惑し、怒りまくった。

安企部長の兪学聖は「スリー許」とグルになり、軍部の声を代弁すると称して「親族を切り捨てないと生き残れない。劇薬は時には良薬にもなる」と厳しく責め立ててきているのではないか――。

安企部長が申し立てている「親族の第一線からの後退」とは、大統領夫人である李順子の新世代育英会長辞任や李順子の父(大統領の義父)李圭東の大韓老人会長辞退、大統領の義弟に当たる金相球の平和統一諮問会議事務次長退陣、大統領の実弟である全敬煥のセマウル中央本部事務総長辞任を意味していた。

「スリー許」や兪学聖は、全斗煥が青年期の貧しかったころ、妻の実家暮らしをしていたことは知っていたはずである。妻方の人たちに頭が上がらず、困惑していることは、だれよりもよく分かっていたのではなかったのか。

さらに言えば、兪学聖率いる安企部が初動の措置さえうまくやっていたら、ここまで大ごとにならずに済んだ、という報告も全斗煥大統領は受けていた。

▽「安企部に責任」

李哲煕は、中央情報部の次長を務めた経歴を生かして全斗煥政権の身内に近づき、「陽友会」(中央情報部退職者の共済組合)の資金を自分に任せてくれればうまく運用して増やしてやると持ちかけていたこともあった。それで、青瓦台民情首席秘書官室のほうでも「要注意人物」としてマークしていた。

さらには、李哲煕が経営する大華産業には中央情報部の退職者たちが再就職していた。そんなことからも安企部は、事の深刻さを見過ごしてしまったのではないか。李哲煕・張玲子夫婦は、大統領の親族であることをひけらかして世渡りをしている、というぐらいに軽く考えていたのではないか。まさか、とてつもない手形詐欺を働いているとは、ずいぶんと後になるまで気付かなかったのではないか。

安企部にも責任はある――。

大統領は首席秘書官会議で怒りを爆発させた。

「ワシが信じる者たちのほうが、かえって騒ぎを起こしている。罪状をはっきりさせもせずに、やたらと親族を排除せよというが、このワシにいったい、どうしろというんだ」

安企部長の兪学聖と「スリー許」、とくに許和平を狙った詰問だった。

▽兪学聖・安企部長更迭へ布石

全斗煥はまず、兪学聖を叩くことにした。

そのためにはまず、外堀から埋めなければならない。

1982年5月19日、警護室長の張世東が、民正党院内総務の李鍾賛を急遽、呼び出した。

「大統領閣下は全国体育大会でいま、大田におられるのだが、急いで来るようにとのことだ」というのだった。李鍾賛は、大田へ駆けつけた。

ソウルに帰る大統領専用列車の中で全斗煥は李鍾賛に、声を潜めてこう言った。

「権正達事務総長[与党民正党の幹事長]から辞表を取り付けなければならなくなった。これ以上引き延ばすと、権正達のためにもいいことはないだろう。ソウルに着いたら、すぐに辞表をもらってくれ」

李鍾賛は、そうはいっても権正達だけを狙い撃ちすれば、かれ一人ですべての泥をかぶることになると思った。

「辞表は受け取らないといけませんが、事務総長だけを辞めさせると、報道されたすべての疑惑を与党が認めるかのようになります。それよりも、政治的責任を問うて党役員全員が辞表を出す方向で行くほうが、新たに出直すという雰囲気づくりのうえからもいいのではないでしょうか」[全斗煥としては、手形詐欺事件に関連して、メディアでその名前が取りざたされた権正達をまず排除することによって、どんな権力者であろうと厳正に処罰するという姿勢を示そうとした。これにたいして李鍾賛は「与党全体の責任」というかたちにもっていくほうがいいと考えた]

全斗煥大統領はうなずくと、さらに一歩踏み込んだ。

「そうだな。党役員を入れ替え、内閣も変えよう。それが民心を収拾するうえでよいだろう。ソウルに着き次第、すぐに党役員全員の辞表を取りまとめてくれ。ただ、おまえと李載瀅・民正党代表の辞表だけは差し戻すから、そのつもりでいるように…」

                      訳:波佐場 清

2026年9月29日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(62)

  ■手形詐欺事件で安企部長に危機

1982年4月27日、小雨がそぼ降るその日の明け方、またしても驚天動地の事件が起きた。

慶尚南道・宜寧警察署の巡査、禹範坤がカービン銃と手榴弾を武器庫から奪い、近隣5カ所の村を荒らしまわりながら、理由もなく住民56人を射殺、35人にケガを負わせて自爆するという事件だった。

▽盧泰愚、内務長官に

直ちに内務部長官の徐廷和が更迭され、後任に盧泰愚が起用された。

盧泰愚はそのわずか1カ月前に体育部長官になったばかりだった。

前年の81年7月に陸軍大将(保安司令官)で予備役編入となり、民間人の身分になった。以来、「第二人者」との呼び声はあったものの、その間、許和平と許三守が大きな声で号令をかけるなかにあって、政務長官、体育部長官として息を潜めてきていた。

世の中、何が起こるか分からないものである。ピンチはチャンスを孕んでいた。

盧泰愚は、ちょっと意地悪な春雨の降る宜寧の田舎の村むらを、住民の心を慰めるため、へいこらと頭を下げてさまよわなければならなかった。しかし、だれ知ろう、これが、のちに大統領の座へ登っていくうえで、いい勉強の機会になったのだ、ということを――。

「突然、内務部長官になった盧泰愚としては、結果的に、これをきっかけに全国の市、郡、区の行政と警察組織について把握・掌握することとなり、大統領への道を歩むうえで大きな力となった」(朴哲彦の証言)

「人間万事塞翁が馬」とは、こういうことなのか。

▽大型手形詐欺事件

兪学聖・安企部長に危機が迫っていた。

82年4月の禹範坤巡査の銃乱射事件が外傷であったとしたら、それ以上にもっと世間を騒がせた李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件は、内部で膿んで破裂した内傷だった。

大型手形詐欺事件を起こした李哲煕・張玲子夫婦=1981年6月、ロッテ・ホテル

李哲煕は、金大中拉致事件(1973年)当時の中央情報部次長で、国会議員(維新政友会)も務めた人物だ。妻の張玲子は、全斗煥の妻(李順子)の叔父にあたる鉱業振興公社社長、李圭光の義妹である。この夫婦は、その政治的な思惑が透けてみえる結婚式からしてあまりにも派手なもので、ソウルの街の噂になった[結婚式場となったのは、当時最高級だった新羅ホテル近くの超高級メンバーズ・クラブ「サファリ・クラブ」。全斗煥政権が国民に贅沢を禁じるなか、政財界の超大物を大勢招いて超豪華な結婚披露宴を開いた]。

李・張の夫婦は、「大華産業」という会社を立ち上げ、銀行の無担保融資を利用して資金を引き出したあと、自己資金の乏しい建設業者に近づいてその資金で詐欺を働いたのだった。

▽国家予算額の1割相当を詐取

手形詐欺の手口はそう複雑なものではなかった。資金繰りにあえぐ企業を見つけては「現金を融通してやる」と持ちかけ、代わりにその何倍もの手形(見返り手形)を受け取る。その手形を銀行に持ち込んで即座に現金化し、その現金を別の企業に貸し付けては、また新たな手形を受け取って次々と現金化していく、というやり方だった。このごろの言葉で言えば、一種のデリバティブ(金融派生商品)をつくり出して流通させたというわけである(当時は違法だった)。

こうして騙し取った額は実に6400億ウォン[当時の日本円で2千余億円に相当し、韓国の国家予算の7%、見方によってはほぼ1割に匹敵した]にものぼった。

金鍾仁・元青瓦台経済首席秘書官はこう指摘する。

「そのような大型詐欺事件は、2人が元中央情報部次長(李哲煕)と現職大統領夫人の叔父(李圭光)の義妹(張玲子)――という夫婦だからこそ起こり得た。かつての肩書がどうだとか、青瓦台の親族を笠に着て特殊資金がうんぬんかんぬんなどと言えば、まかり通ってしまうのが昔も今も変わらない現実なのだ」

検察の調べをより詳細に説明すると、この夫婦は81年2月から1年ほどの間に、銀行から総額6404億ウォンを調達して企業に貸し付け、その担保名目で貸与額の2~9倍に達する手形を受け取っていた。

「見返り手形」として市中に流通させないという条件で受け取った手形を私債市場で売ったり株式に投資したりして、手形詐欺を働いていたという。そのあおりで、日新製鋼や公栄土建といったちゃんとした企業が倒産し、朝興銀行と商業銀行の頭取を含む30余人が拘束されたのだった。

▽湯水のごとく…

李と張の夫婦は、騙し取った金を湯水のように使っていた。

そのころ、元中央情報部捜査局長の国会議員、李龍澤(慶尚北道星州・達城・高霊選出)は、慶州でこの夫婦とばったり出会った。李哲煕がうれしそうに声をかけてきた。

 「お久しぶりです。このごろ、いかがお過ごしですか」(李哲煕)

 「はい、国会の仕事のほかにも、わたしがずっと前から関わってきている太平洋戦争の戦没同胞の慰霊のことで、忙しくしています。霊を慰める鎮魂碑をサイパン島に建てようかと思っています」(李龍澤)

 李龍澤がこんな話をすると、李哲煕は張玲子を呼んだ。

 「おい、おまえ。李議員は良いことをしているんだから、ちょっと力になってやろうよ」

 張玲子はその場でハンドバッグを開き、封筒に何かを入れて渡してくれた。あとで開いて見てびっくり、なんと1000万ウォンもの大金だった。当時、大企業や総合商社の社員で月給20~30万ウォンだったから、いまの金でいうと1億ウォンくらいになる額だった。驚いた李龍澤は「なにかの間違いではないか。あまりにも大金なので返したい」と申し出ると、張玲子はこう言うのだった。

「そのぐらいの金で何をおっしゃるのですか。良いことに使いなさいよ」

 それでも李議員は返したという。こんな具合だったので、中央情報部出身の者たちも、あれこれ理由をつけては李哲煕のもとを訪れ、小遣いをもらっているという噂が広がった。

 ▽国民の憤怒を煽った「スリー許」

資金繰りにあえいでいた公栄土建のような建設会社が餌食になった。

公栄土建のオーナーは当時、実力者だった民正党の権正達事務総長と友人関係にあった。

公栄土建が罠にかかったという報道とともに、張玲子の義兄である鉱業振興公社社長の李圭光や権正達の名前が新聞をにぎわせた。クーデターを起こして「正義社会の実現」を掲げた第5共和国政権と、そんな政権にたいする記者たちの反感と冷笑、そしてそこに全斗煥の親族を蛇蝎のごとく嫌った実力者の「スリー許」(許和平、許三守、許文道)のサポートも加わった。国民の憤怒は、炎となって燃え上がった。

「スリー許」は、メディア工作によってこれを煽った、と朴哲彦は次のように証言している。

「朝鮮日報東京特派員出身の許文道は、古巣の朝鮮日報の崔秉烈編集局長らの協力を得て大統領周辺に批判的な世論づくりをしているようだった。かれらのメディア工作によって全斗煥大統領は裸の王様になった。国民はもちろん、青瓦台の参謀たちまでが、この事件の裏には大統領夫妻がいるのではないかと疑うような雰囲気になった。許和平、許三守の2人の首席秘書官はあからさまに大統領夫妻に圧力をかけ、大統領を怒らせた。下手をすると、大統領は操り人形になりかねなかった。スリー許らのそのような凄まじい剣幕に、次に予定されている盧泰愚の時代は、もう永遠に来ることはないのではないか、とさえ心配になった」[朴哲彦は盧泰愚の親族で、盧とは義理の甥という関係にあった]

▽横柄に振る舞う「スリー許」

許和平と許三守――この「2許」の大佐は、ハナ会と保安司令部で同志という関係にあった民情首席秘書官の李鶴捧にも詰め寄り、「民情首席秘書官の本来の業務である大統領の親族の管理を怠ったために、こういうことになったのだ」とやり込めた。

李鶴捧はカッとなって辞表を出し、荷物をまとめて青瓦台を出て行くという一幕もあった。大統領も、かれら「建国功臣」である「ヤング・カーネル」(若い大佐)たちの、こうした「いがみ合い」を見守りながらじっと鬱憤を抑え込んでいた。

大統領をコーナーに追い詰める「スリー許」のこうしたやり方は内部に敵もつくった。

「その時点まで国政全般を思いのままに弄んでいたスリー許は、この李哲煕・張玲子事件を自分たちの影響力をさらに強める、いいチャンスととらえていたようだ。大統領の親族管理を問題にし、これを機に大統領までコントロールしてやろうとしたことが事件をいっそう大きくさせていった」(朴哲彦の証言)

朴正煕暗殺事件後の「12・12クーデター」で、鄭昇和・陸軍参謀総長を逮捕した「一等功臣」だったとはいえ、その「大株主」たる大佐たちも度を過ごしている、という不満が秘書室内に広がっていった。

                      訳:波佐場 清

 

2026年9月26日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(61)

 ■「聖堂はデモ隊の聖域なのか」

 1982年3月18日、全斗煥政権に衝撃を与えた釜山の米文化センター放火事件が起きる。白昼の午後3時、若い男女3人が文化センターの建物の中に入って引火物質をまき、火を放った。

 「米国が問題なのだ。絶えず、反米闘争を展開しよう」

 現場に散らばっていたビラの見出しである。火は1時間ほどで消えたが、大学生1人が死亡、3人が重軽傷を負った。在韓米大使館が憂慮していた通り、全斗煥にたいする反発と憎悪の火の粉は、その「庇護勢力」である米国(文化センター)へ飛び火した。

 ▽政府VSカトリック

 3月30日、高神大生の李美淑が捕まり、同大学の文富軾、金恩淑が公開手配された。文と金は江原道で、咸世雄神父に付き添われて自首した。そして放火事件を背後で操っていた、「5・18光州抗争」で指名手配中の金鉉奨という人物が原州(江原道)のカトリック聖堂で検挙された。これによって事件は、政府とカトリックの衝突という様相を帯びていった。

 80年5月末に光州を抜け出た金鉉奨は、原州の崔基植神父のもとを訪ねて行き、そこで2年ほど潜んでいて釜山の大学生たちと接触したのだった。

検察に呼ばれ、記者たちの質問に答える崔基植神父(右下〇印)=1982年4月1日

 鉄拳統治下にあったそのころ、カトリック教会は手配者が身を隠すにあたっての聖地だった。

 ▽手配者と記者

 80年の「ソウルの春」の後、逃亡した高麗大生の朴啓東(のちに国会議員)も大邱のカトリック系障害者収容施設「希望院」に潜んでいた。東亜日報記者の金忠植は81年5月、マザー・テレサが訪韓した際に訪れた「希望院」へ同行取材し、そこで、かねて知り合いの間柄だった朴啓東と鉢合わせをした。

 朴啓東は、外来客の目を避けるようにうつむいたまま、ほうきで庭を掃いていた。金記者はそれに気づき、2人は便所の中で息を殺しながら近況を話し合った。別れ際、朴は名刺を1枚ほしいといい、金記者はそれを渡して握手を交わし合った。その際、朴啓東は、時どきソウルへも行き来していると言っていたのだが、その後、何の連絡もなかった

 そんなとき、意外にも電話は治安本部の情報課長(朱炳徳総警[警視正クラス])からかかって来た。真相はこうだった――。

朴啓東は、日本に密航しようと全羅南道・高興の海岸に船を準備していたところを安企部に見つかった。朴自身は逮捕直前に逃げたが、密航船に残された荷物の風呂敷包みの中から記者たちの名刺が出てきた。金忠植記者は、安企部の指揮を受ける治安本部で一部始終を説明しなければならなかった(朴啓東は、のちに逮捕された)。[金忠植氏は本書の著者。朴啓東とは高麗大学の同窓で、金は1年後輩だった。当時、学生運動の拠点となった高麗大の政治外交学科で学んでいた朴は、有名な活動家だった。一方の金は哲学科の文学青年で、互いに顔見知りだった。マザー・テレサの取材で偶然知った朴の施設潜伏は特ダネだったが、金記者は記事にせず、朴を守ったのだった]

 ▽隠蔽された光州の放火事件

 実際のところ、1980年代の反米運動の序幕は、光州で切って落とされていた。

 釜山の米文化センター放火事件の1年余り前、光州の米文化センターが放火されていたのだが、ひた隠しにされていた。その事件というのはこうだ。

 1980年12月9日午後9時半ごろのことだった。カトリック農民会の林鍾洙らが闇に紛れて、瓦ぶき平屋の光州米文化センターの屋根に上がった。瓦を剥がして油を注ぎ、そこに火の付いた紙を投げ込んだのである。林らは、風のように姿を消した。

「5・18光州抗争の精神はまだ生きているのだ、ということを示してやりたかった。しかし、何をやるにも、まったく能力不足ということがあり、少人数でやれることを探さなければならなかった。結論として得たのは、5・18の黒幕である米国を糾弾しよう、ということだった。簡単にできて、人目を引く――そんな対象として、警備が手薄な米文化センターを狙うアイデアが採用された」(林鍾洙)

全斗煥政権はこれをなかったものとして隠し、そのまま時が流れ過ぎていた。

▽反米闘争

民主化を求める反体制の活動家たちは、本丸である第5共和国の鉄拳統治の壁が強固な「鉄の要塞」に変わると、窮余の策としてその外郭(米国)を攻め始めたのである。しかし当局もメディアも、まさかこれが「5・18」への憤りからくる「背信者・米国」を狙った放火事件だとは確信を持てずにいた。「漏電による火災」と報道された。さらに言えば、放火した林鍾洙が警察に引き立てられて現場検証に立ち会った際も、文化センターの職員たちでさえ、そこで何がおこなわれているのか、よく分からないでいた。それほど無関心だった。そうこうしているうちに林鍾洙が密かにまた、別の農民大会を開こうと企てていることが分かり、捕まった。そこで初めて、根っこに反米の闘争があることが分かったのである。

▽「聖堂は治外法権地域ではない」

そんな光州の放火とは違い、釜山の文化センター事件のほうは死傷者が出ていた。

1982年4月5日、カトリック原州教区の崔基植神父が逮捕された。

逮捕された崔基植神父=82年4月

80年5月に指名手配され、2年近く身を潜めながら放火事件を背後で操った金鉉奨を匿った犯人蔵匿・隠避の容疑だった。カトリックは「たとえ犯罪の容疑者であっても、聖堂に救いを求めて来たのなら、教会法に従って助けてやるべきだ。それが司祭の義務だ」と対抗した。

「天主教(カトリック)正義実現司祭団」が声明を出し、各教区からも崔神父の拘束に抗議する声明が相次いだ。全斗煥政権とカトリックの全面戦争の様相となったのである。

全大統領は激怒した。

「聖堂は決して、治外法権地域でも、聖域でもない」

 82年4月14日、青瓦台では全斗煥大統領主宰の非常対策会議が開かれた。秘書室長の李範錫、政務首席秘書官の許和平、司正首席秘書官の許三守、民情首席秘書官の李鶴捧、そして秘書官の朴哲彦が出席した、その席で全大統領はそう断言したのである。大統領のそんな指針に従い、安企部、文化公報部(宗教担当)とも話し合って青瓦台が総合対策を立てることになった(朴哲彦の証言)。

 ▽キリスト教界が声明

翌4月15日、韓国教会社会宣教協議会[社会運動に取り組むキリスト教(主にプロテスタント進歩派)関係の諸団体が結集した連合体。1976年結成。あとで出てくる都市産業宣教会(都産)は、その傘下にあって現場で労働運動を担った]に所属する牧師ら42人が声明を出した。そこでは「放火事件は反米感情の具体的な現れだ。米政府は駐韓大使と駐韓米軍司令官を本国に召還せよ」と求めていた。光州抗争をめぐる軍の弾圧についての米国の容認、駐韓米軍司令官ジョン・ウィッカムと駐韓米大使リチャード・ウォーカーによる韓国人蔑視発言、韓米間の不平等な関係――といったことが放火事件の背景にある、と指摘していた。

「韓国人は野ネズミのようなもので、だれが指導者になっても従うだろう。体質的に民主主義は合わない」(ウィッカム司令官)

「韓国民は民主主義を享受する資格がない。分別のない子どもたちが危険なナショナリズムごっこをしている」(ウォーカー大使)

このような屈辱的な言辞にたいする韓国社会の反発は強かった。

野党や3金(金大中、金泳三、金鍾泌)は政権によって捕縛され、死んだように静まり返っていても、キリスト教界は「教会法」と「良心法」を盾に政権に立ち向かっていった。1988年のオリンピック、86年のアジア競技大会という巨大な国策の課題を前に、ローマ教皇庁や国際世論に真っ向から立ち向かうのは賢明であろうはずがない。

このキリスト教界挙げての声明の背後には池学淳司教、朴炯圭牧師(共に韓国教会社会宣教協議会顧問)、金勝勲神父(同協議会会長)らがいた。

▽「政治的な宗教者は、革命家だ」

82年4月18日、全斗煥大統領はまた、対策会議を開いた。

この日は、安企部長の兪学聖、同次長の玄鴻柱、治安本部長の安応模、文化公報部次長の許文道らも会議に出た。全大統領は「左傾化した宗教勢力の跋扈は食い止めなければならない」と、こう説いた。

「(韓国教会社会宣教協議会傘下の)都市産業宣教会(都産)に関しては、ワシが保安司令官だった1979年8月、朴正煕大統領の指示を受けてその実態をつかみ、報告を上げたことがある。そのころ、検察のほうでも大統領の指示で都産について調べたが、理論武装がうまくいかず、正体を突き止めることができなかった。それで、朴大統領は情報部長の金載圭を厳しく叱責したのだ。しかしこんどこそ、都産の正体を解明できる、いいチャンスだ。問題の宗教者たちは政治的な宗教者であり、革命家たちなのだ。解放神学をうんぬんし、教会法を口にするなど、とんでもないことだ。国法で処断すべきだ」(朴哲彦の証言)

[当時の韓国では高度経済成長下、労働者、とくに若い女性たちが長時間労働、低賃金など過酷な環境に置かれていた。都産の若い牧師や活動家たちは工場地帯に入り込み、夜間学校を開いて労働法を教えるなどの活動をおこなった。1979年8月、女子工員たちが立ち上がって悲惨な結果(1人死去)を招いたソウルの「YH貿易事件」もそんな中で起きた。この事件は同年10月の金載圭による朴正煕暗殺事件につながったともいわれる。都産は、政権からは「共産主義の温床」とみられていた]

▽光州抗争焚き付けを警戒

全斗煥大統領の剣幕に出席者はみな、硬い表情で会議室を出た。

しかし、初めのうちこそ強硬な態度をとったものの、時間が経つにつれ、宗教者たちは全員、釈放するほかなかった。放火事件の根っこにあった光州抗争の問題に、再び火を焚きつけることになるからであった(『金大中自伝』)。

                      訳:波佐場 清

2026年9月23日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(60)

  ■特戦隊員50余人、漢拏山に散る

1982年、第5共和国(全斗煥政権)の新年は残酷な事故で明けた。

2月6日に予定されていた全斗煥大統領の新年の済州島巡視を前に、大きな事故が起きたのである。

▽悪天候で墜落

特戦司令部の将兵53人全員(うち空軍6人)が漢拏山で死亡した惨事だった。大統領警護のためと称して特戦司令部直属の第707部隊を動員したのだが、悪天候のなか、輸送機(C123)が漢拏山中腹に墜落して惨事を招いたのである。

この大惨事は、強力な報道統制によって「訓練中の事故」とだけ、簡単に報じられた。

しかし、訓練中の事故というのは嘘だった。

▽「12・12反乱」教訓に創設

 この部隊は、前任の鄭柄宙特戦司令官が「12・12反乱」の夜、部下の崔世昌旅団長に逮捕されたことを踏まえ、司令部防衛の弱点を補うために81年3月に創設された。朴正煕時代、一騎当千を叫んできた特戦部隊だったが、その司令官が部下の反乱によって無残に踏みにじられてしまっていた。護衛部隊がなく、司令官本人が手首を撃ち抜かれて気を失い、秘書室長の金五郎少佐は射殺されたのだった。

そのような最悪の事態に備えて第707部隊はつくられた。

 特戦司令官を守るための近衛部隊を、米国のデルタフォース(陸軍第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)をモデルに創設したのである。しかし、いくら精鋭部隊であっても悪天候の前には、なす術がなかった。

 ▽お咎めなし

 飛行機は、飛ばすべきではなかったのである。

 空軍の戦術空輸飛行団は「気象の悪化で一般の航空機運航も中止されており、離陸は不可」と2度にわたって上申したが、それを無視して警護室長の張世東は強行を指示した。警護室には、北朝鮮にいったん拉致され、韓国に帰ってきた漁民たちから得た情報があったという。「北では、大統領の済州島内での宿泊先や済州空港の警備状況、道路事情について聞かれた」というのだった。それで、済州島の警護を強化し、対テロ部隊を動員したのだという。

 結果は、大惨事に終わった。貴重な将兵をあまりにも多く失った。

 しかし、張世東には大統領の厚い信任があり、お咎(とが)めなしだった。「旧軍部」の文洪球将軍の回顧録にはこんなシーンが描かれている。

 ――1970年代、全斗煥率いる空挺特戦団のデモンストレーション訓練が両水里(京畿道楊平郡)でおこなわれ、朴正煕大統領や米第8軍の将官らが参観した。そんな折、何度も訓練を重ねてきたはずのヘリコプターが二重三重に衝突したかと思うと、後続のヘリコプターが撃った銃弾が先行のヘリコプターに飛んでいくとか、爆薬の取り扱いを誤った兵士が即死する、といった事故が相次いだ。そのような場合、全斗煥は当然、臨席している大統領に報告し、訓練を中止すべきなのに、全斗煥はそのまま強行した。

 ▽「運命共同体」

漢拏山で起きた特戦司令部の惨事の真相は、事故から6年余が経った88年になってようやく分かった。遺族らの嘆願によっておこなわれた国政監査で全貌が明らかにされたのだった。全斗煥が張世東をどれほど庇(かば)っていたのかを示す、一つの事例である。

1985年2月、全斗煥(左端)は張世東(右端)を警護室長に任命した。その際、大統領の全が宣誓し、
張が任命状を読み上げるという「主客転倒」のパフォーマンスで、互いの信頼関係の強さを誇示した。

 張世東は1960年代、ベトナム戦争に二度、参戦した。

 そして1977年末までの間、全斗煥のもとで5つのポストにあって全を補佐した。

 全斗煥が首都警備司令部の第30大隊長をしていたときは作戦将校(大尉)として、陸軍参謀総長首席副官のときは人事参謀部の将校(同)、さらに白馬部隊[ベトナム戦争に派遣された韓国陸軍第9歩兵師団の通称]第29連隊長のときには情報主任(少佐)として、それぞれ全に仕えたのだった。全斗煥が張世東に送った手紙には「世東よ、ワシらが黄金バットの時代からひたすら追い求めて続けてきたのは、ただ、愛国愛族の名誉と義理ではなかったのか――」と書いているものがある。敵陣に奇襲浸透する白馬第29連隊の別称が「コウモリ部隊」であり、その作戦名は「コウモリ25、26、27号」だった。「黄金バット(コウモリ)」とは、そこに由来していた。

 張世東はさらに、全斗煥が金浦の第1空挺特戦旅団長のときの大隊長(中佐)だったし、警護室次長補の時代には、その下で作戦補佐官および首都警備司令部第30警備団長だった。

 こうして、「世東」と全斗煥は「運命共同体」になる。

 張世東大佐は、新軍部による「12・12クーデター」とき、そのアジトとして第30警備団(景福宮の敷地内)を提供し、「赫々たる有功者」として将官に昇進して第3空挺旅団長(准将)になった。そうして81年7月、大統領警護室長となり(前任者は鄭東鎬で、鄭は事実上、崔圭夏大統領を見張る「監視室長」の役目を果たした)、またまた全斗煥に仕えることになったのだった。

 1985年、張世東は遂に安企部長のポストに登りつめ、2年余にわたって東奔西走することになる。針の行くところ、糸がついて行くかのように、互いが互いの運命となり、そして一緒に没落していったのだった。

                    訳:波佐場 清

 

2026年9月20日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(59)

  第8章 「2許」沈み、張世東・盧信永が浮上

 ■「5・18光州」1周年

 光州抗争1周年のころ、「国風81」なるフェスティバルがソウルの汝矣島を埋め尽くした。

「国風81」で繰り出した伝統の「チャジョンノリ(차전놀이)」
=1981年5月、汝矣島広場
 新軍部の許文道が先頭に立ち、御用メディアや広報手段、さらには文化・芸術界の関係者を総動員してつくり上げたこの出し物には1千万人もが詰めかけた。

 当時、民正党の事務総長(幹事長)だった権正達の回顧――。

 「あの時、許文道は『国風』なるものをつくって政権の宣伝に熱を上げ、KBS(韓国放送公社)、MBC(文化放送)という2大放送局の社長(李元洪、李振羲)の忠誠競争に火をつけた。両放送局の競争が過熱するなか、イベントは一定の成果を収めたものの、一方で(予算の無駄遣いだという)悪評も買った」(2013年11月18日付『日曜ソウル』紙インタビュー)

 ▽「国風81」

 「国風」は、1981年5月28日から5日間、汝矣島広場で開かれた。韓国新聞協会が主催し、KBSが主管した大がかりな芸術祭であり、全斗煥政権による官製のイベントだった。

 光州抗争1周年が近づくにつれて反政府的な追慕集会やデモの機運が高まるのに先手を打っておく必要があった。国民の目を他に逸らさせるには、それなりのイベントが必要だった。許文道が日本滞在中に見た「まつり」にヒントを得たのだった。

 1970年代後半から大学街ではマダン劇や仮面劇、プンムル(農楽)が流行し、そこで打ち鳴らされるケンガリ(小鉦)やチン(銅鑼)といった楽器は、たいがいの場合、反政府の「抵抗の道具」とみなされていた。80年代初頭になると、それらは、全斗煥の軍事独裁に抗う民族主義や社会主義的な知的風潮ともあいまって、「民族民衆の芸術」を掲げた「反権力運動の文化」として定着していく。

 ▽詩人の金芝河らを懐柔

 許文道は、そんな風潮を象徴する人物だった金芝河[「五賊」などの作品で知られる抵抗詩人]や金敏基[抵抗歌「朝露」の作者]、林珍澤[「マダン劇の父」といわれるパンソリ歌手]らを全員「国風81」に参加させて威勢を示そうとした。林珍澤を青瓦台に直接呼んで懐柔したりもした。また、原州(江原道)に住んでいた金芝河に会うために1980年の暮れごろから、酒瓶を手にわざわざ、そこにまで足を運んだりもした。

 そのころ、許文道は筆者らと夕食を共にし、一杯入った席で、こんなことを言ったりもしていた。

 「原州に行って金芝河と会い、ソウルに帰って来る途中、高速道路沿い一帯に大雪が降っていたことがあった。限りなく降り積もる雪で白一色に覆われた世界――。ああ、あの雪原の中で横になっていたい、と思ったもんだよ」

 許文道は独り、自己陶酔に陥り、じっと目をつむりながら、そう言った。そんなかれのことをロマンチストだという者もいた。

 ▽「5共のラッパ吹き」

 許文道と共に第5共和国の「ラッパ吹き」を自任していたのが、それぞれKBS、MBCの社長になった李元洪と李振羲だった。

 権正達の回顧――。

 「(MBC社長となった)李振羲は、釜山の高校(東莱高校)を出ていて(同郷の)許三守と親しく、1980年初め、ソウル新聞の主筆として第5共和国の正当性についてコラムを書いたりしていた。それを読んだ新軍部の内部で、かれをMBC・京郷新聞グループの社長にしようということが話し合われた。そこで、わたしの事務所にかれを呼んで会った後、全斗煥・保安司令官に会わせてやったんだ。李振羲は小柄で、顔色も浅黒く、最初の印象はこれといって良いものではなかった。それで、果たして困難な仕事をやり遂げられるのだろうか、と心配もした。しかし、よく見るに、自己主張がはっきりしていて所信を持っているようだったし、声もよく通り、仕事をしっかりとやってくれそうに思えた。それで、全司令官に『ポストさえ与えれば、ちゃんとやってのけるだけの人物』と紹介し、直接会ってみるよう進言した。全司令官は李振羲と会った後、『いい』と言い、MBC・京郷新聞の社長に任命した」

 ▽「新時代の新指導者」

 80年7月、李振羲は、更迭された李桓儀社長の後を継いだ。

 翌8月になって全斗煥が大統領に就任することがはっきりしてくると、李振羲はメディアの社長として、やる気に燃え、いきなり保安司令部に全斗煥司令官を訪ねていって直接インタビューしたいと申し出た。

新しい時代、新しい波、新しい歴史――これが李振羲のキャッチフレーズだった。

「全斗煥司令官が出勤するのを待ち構えていたので、保安司令部に入って行きながらインタビューに応じるというかたちになった。その時はまだ、全司令官にとって新聞や放送は初めてということもあり、ちょっと野暮ったく、横に問答集のようなものを用意するなど、ぎこちなく見えた。しかし、それが京郷新聞の1面全面とMBCで大々的に報道され、『新しい時代における新しい指導者の登場』を国民に宣伝するうえで効果が大きかったと記憶している。これには、裏で許文道秘書室長が関わっていたと聞いている」(権正達の回顧)

▽忠誠競争

(KBS社長となった)李元洪の場合も、忠誠心においては似たりよったりだった。

韓国日報記者の出身で、1974年から駐日広報館長兼文化院長として東京に赴任していた。帰国後、朴正煕大統領の暗殺をへて崔圭夏大統領のときに青瓦台で民情首席秘書官として勤務した。それ以来、保安司令部の権正達処長との縁ができ、とくに国保委(国家保衛非常対策委員会)を立ち上げるさいには、大統領令発布の手続きに関する問題で、法律秘書官の金有厚も交え、3人でしょっちゅう会っていた。権正達の証言――。

「李元洪がKBSの社長になったのは、わたしが冗談半分でかれに『青瓦台にいるよりも野戦軍の司令官(KBS社長)を一度やってみるのはどうか』と持ちかけたのがきっかけだった。かれは、目を輝かせ、乗り気なようだったので、翌日、全斗煥司令官との面談の場を設けてやったんだ。李元洪も、KBS社長(1980年7月、崔世卿の後任として就任した)になると、意欲的に仕事に取り組んだ。必然の成り行きとして、MBCの李振羲社長との間で激しい忠誠競争となり、2人の間は悪くなっていった」

▽「テン・チョン・ニュース」

権正達の証言は続く。

「李元洪社長は放送局の生ぬるい空気に緊張感を吹き込む一方で、大統領の広報を強化していった。夜9時のニュースは必ず全斗煥に関するもので飾り、『テン・チョン(땡전)ニュース』という言葉も生まれた[全斗煥大統領の動向が必ずトップニュースで扱われ、「テン(チン)」という9時の時報とともに、「全(チョン)斗煥大統領は…」というアナウンサーの発声でニュースが始まったことから、こう皮肉られた]。

李振羲と李元洪は、ともに文化公報部長官を務め、許文道も同次官を歴任した。この3人は、正当性も人気もまったくない第5共和国のトップランナーにしゃしゃり出た挙句に結局のところ、浴びるほどの罵声を受ける、という憐れな「ラッパ吹き」たちだったのである。

                       訳:波佐場 清