2026年7月2日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(35)

  「金大中だけだと、全羅道が反発…」

ここでもう一度、1980518日に戻りたい。その日の朝が明けた。

 南山の中央情報部の食堂で、李鍾賛・総務局長と出くわした捜査局長の金根洙(のちに国会議員、尚州市長など)が暗い表情でこう言った。

 「金泳三はそのままにしておいて、金大中だけをあのようにしょっ引いたら、全羅道が反発し、抗議の騒動が起こるだろうに…心配です」(李鍾賛の回顧)

 ▽全南大学で衝突

 かれの予感通りになっていた。光州で深刻な事態が起きていた。

 全国に休校令が出されていたが、国立全南大学ではその日の朝も、学生たちが学内に入ろうとして空挺部隊員らに制止された。戸惑い、うろうろしている学生たちにたいして軍人らは、解散しろと命じたが、学生の数はどんどん増えるばかりで、衝突は激しくなっていった。光州で、未曾有の悲劇が始まっていた。

全南大学の正門横には1980年5月18日にここで撮った写真パネルが展示してあった=2024年5月、訳者写す


全南大学正門付近=2024年5月
 ▽金泳三の抵抗

 518日午前、野党新民党のリーダー金泳三は、党の政務会議を開いた。

 金大中や金鍾泌ら、前夜のうちに連行された人たちの釈放と市内の戒厳軍撤収、国会や野党の党本部に配備された戒厳軍の越権行為中止などを決議した。

 午後遅く、合同捜査本部の李鶴捧大佐がソウル上道洞にある金泳三の自宅に来た。慶南高校の後輩だった李鶴捧は、先輩の金泳三にこう言った。

 「軍は、不安要素だけを取り除いたら帰るつもりです。記者会見や声明発表のようなことはしないでいただきたい、というのが全斗煥将軍の要請です」

 金泳三は激怒して、かれを追い出した。

 「どういうことだ。安定を揺るがしているのは、おまえたちのほうだ。おまえたちは今、許せないことをしている。おまえらがするな、と言ったからといって、記者会見をしないわけにはいかん」

 ▽国内では報道されず…

 519日、党本部に出かけて会議を開いたが、外は完全に軍人らによって封鎖されていた。金泳三は「20日に記者会見をする」と国内外のメディアに周知させた。

 20日朝、着剣した小銃に実弾を装填した中隊規模の兵力が上道洞(金泳三の自宅)を取り囲んだ。

 合同捜査本部の李鶴捧大佐がまたしても姿を現した。

 「総裁、いずれまた、機会もあるでしょうに、どうしても今日、記者会見をしないといけませんか」(李鶴捧)

 「この憲兵たちは、どういうことだ。すぐに撤収させろ。帰って全斗煥に伝えろ。全斗煥は第二の朴正煕になりたがっているようだな、と」(金泳三)

 金泳三は自宅に入ってきた一部の記者に会見文を配り、秘書らは門の外にいる記者たちに向けて、塀越しにその印刷物を投げてやった。その内容は、戒厳司令部の報道統制で、国内では、ただの一行も報道されなかった。朝日新聞をはじめとする海外メディアに載っただけだった。

 ▽金載圭処刑、「内乱目的」に異論

 524日、金載圭が処刑された。光州に見せつけようとするものだった。

 朴大統領の暗殺から6カ月余が経っていた。金載圭の裁判はしかし、死刑を狙っていた全斗煥や新軍部の思い通りにばかり進んでいったわけではなかった。

 「内乱目的はなかった」

 大法院の判事14人のうち、気骨のある判事――梁炳皓、閔文基、任恒準、徐潤鴻、金允行、鄭泰源の6人が反旗を翻した(少数意見を述べた)。「朴正煕殺害」は事実だが、「内乱目的」は、なかったというのだった。

1) 行為時の体制(維新)と裁判時の体制(維新廃止)が異なるので、内乱罪で処罰することはできない(閔文基)。

2) 憲政秩序を破壊することを目的とした殺人ではない。計画的なものではなく、偶発的な行動に過ぎないとみるべきだ(梁炳皓)。

3) 内乱罪が成立するには、暴動を起こせるだけの多人数が動員されなければならないのに、宮井洞にいた何人かで内乱は可能なのか(任恒準)。

 ――といった具合に、異を唱えた。事実は、その通りだった。

 李一圭判事は、多数意見(8人)の側に立ったのだが、後日、こう語った。

 「理論的には、少数意見の方が正しかった。しかし、わたしが考えるに、一般の殺人であれ、内乱目的の殺人であれ、どっちみち死刑は間違いないのだから、あれこれ理屈をこねて時間を費やす必要はないのではないかと考え、少数意見に加わらなかった」(韓洪九・聖公会大教授のインタビュー)

                       訳:波佐場 清

 

2026年6月29日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(34)

  金大中が危ない

1980517日夜、金大中のソウル東橋洞の自宅では電話が鳴りやまなかった。

 「世の中がひっくり返った。金大中が危ない。すべてが終わったので、身の安全に気を付けろ」

「梨花女子大に集まった学生たちが銃床で殴られ、血まみれになって引っぱって行かれている」

 秘書が外をうかがうと、周辺の街灯はすべて消えており、黒塗りのセダン8台が陣取っているという。何日か前から様子がおかしく、知人から米国大使館に避難するよう勧められていたところだった。

            非常戒厳の拡大と金大中逮捕に抗議して光州市民は立ち上がった。

        新軍部はこれを金大中が企てた「内乱」と、でっち上げた=19805月、光州・錦南路

 ▽銃剣突きつけ、連行

 夫人の李姫鎬と金大中側近の秘書である金玉斗は、書類を次々とかき集めてはタンスの後ろの隙間に押し込んで隠した。金大中はパイプ煙草をひっきりなしにふかしていた。午後1045分、軍人数十人が銃剣を突きつけて奥の部屋に踏み込んできた。李姫鎬が「言葉で言ってくれさえすれば従うのに、どうして銃を向けるのよ」と抗議した。金大中は黙々と服を着替え、彼らについて行った。

 「神があなたのそばにいてくださいます」

 キリスト教信者の李姫鎬は、祈るように叫んだ。

 続いて秘書、家政婦、警護員らを一つの部屋に閉じ込めて捜索にかかった。奥座敷、書斎、台所をくまなくひっくり返しては漁り、なんでも手あたり次第にトラックに積み込んだ。午前3時になってようやく捜索は終わった。引き出しをひっくり返し、10万ウォンの小切手27枚と外貨6千余ドルも持っていった。

 東橋洞グループの身内、全員が連行されていった。

息子(長男)の金弘一をはじめ、秘書の韓和甲、金玉斗や朴成哲[金大中の私設警護団のトップを務め、仲間内から「将軍」と呼ばれていた]らが連れて行かれた。ほかに、側近の権魯甲と李協は逃げていたが、のちに連行された。次男の弘業は、朝日新聞特派員の車に潜んで脱出し、3カ月間、身を潜めていた。

▽奇想天外なでっち上げ

 一人だけ残された李姫鎬は、ラジオ「ボイス・オブ・アメリカ」(VOA)に耳を傾けた。

 金大中が連行されて5日目となる5月22日、新軍部は「金大中が国民を扇動して光州で民衆暴動を起こし、国家を転覆させる内乱を企てた」とする奇想天外な中間発表をおこなった。

 あきれるばかりのでっち上げだったが、いったん金大中が無事でいることが確認できただけでも李姫鎬にとっては、ありがたかったという(『李姫鎬自伝』)。

戒厳司令部から出された、その「金大中捜査中間発表」なるものは、新聞で大々的に報じられたが、メディアに配られた資料には「捜査過程で明らかになった犯罪事実」というサブタイトルが付いていた。

 まだ、捜査官が調書1枚巻けていない段階なのに、犯罪事実とはどういうことだ。

 金大中を担当する中央情報部捜査局捜査官の李基東をはじめとする中央情報部のメンバーらは、ただあっけにとられ、お互いに顔を見合わせるばかりだった。これが、保安司令部のやることなのか――。李基東はこう記録している。

 「まだ、たった一行の調書も取れておらず、これから事実確認に入る段階だというのに、もう、『明らかになった犯罪事実』の発表などとは…。このように戒厳司令部の合同捜査本部(保安司令部)は、警察が上げた虚偽の情報をもとに、民主化を求めていた在野の市民団体までも含めて金大中系のすべての組織を犯罪集団と規定して発表した。しかし合同捜査本部に首根っこを押さえられた情報部としては、どうして文句など言えるというのか」(全斗煥の合同捜査本部によってこのように仕組まれた「金大中内乱陰謀」は、2004年になってようやく無罪が確定したのだった)

 ▽長男弘一の自傷事件

 そうこうしているうちに、拘禁中の金弘一が自傷行為に及ぶ騒動が起きた。捜査局長の金根洙が捜査官の李基東を緊急に呼び出して指示した。

 「弘一の部屋で問題が起きた。事態は深刻だ。捜査チームを替えないといけないが、ここはやはり、おまえにちょっと面倒をみてもらわなければならない。自傷行為に及んだようなんだが、問題が起きると、大変なことになる。いますぐ、新しいチームを組んで、それに取り組むんだ」

「金大中一人だけでも手一杯なのに、息子の弘一まで面倒を見ろ、ですって?」

「なんだ、その言いぐさは。命令、これは命令なんだ」

金根洙局長はイラつき、怒鳴り散らした。

李基東は、それまで金弘一を担当していた捜査官たちに、どうして急に様子がおかしくなったのか、と聞いた。かれらは「連行してから5日目のあの日の、金大中の中間捜査結果の発表が問題だった」と答えた。中央情報部の捜査官たちでさえ、とんでもない内容に驚いたのだが、息子の驚きはどれほどだったか。

それはそうとして、地下深くの取調室に拘禁されていて、どうしてそのニュースを知ったというのか?

奇想天外な経緯が明らかになった。

 ▽換気口の秘密

金弘一が拘禁されていた対共捜査局の地下室には、地上につながる換気口があった。その地上の排気口付近に情報部の運転手たちが車を止め、よくラジオを聞いていた。運転席のドアを開けたままのことが多く、そのラジオニュースが換気口の接続ダクトを通してそっくりそのまま金弘一に生中継されていた、というのである。

 それで、金弘一は「いっそのこと死んでやる」「濡れ衣を着せられて悔しい思いをするくらいなら、自殺しよう」と、自傷騒動を起こしたというのだった。

                            訳:波佐場 清

 

2026年6月26日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(33)

  朴鐘圭の裏切り

 19805月中旬、中央情報部長を兼任する保安司令官の全斗煥は突然、人事作業をいったん、中止させた。学生たちの街頭デモが激しくなると、徐廷和次長は会議のたびに、こう言っていた。

 「いまは情報部を改編している時ではなく、全員総がかりで社会を混乱させるデモ隊や、その政治勢力とたたかうべき時です」

 そう声を張り上げたおかげで、辞めさせられるところだった要員たちも、すんでのところで助かった。

 中央情報部が地下室拷問によってその「実力」を発揮するチャンスが来たのである。

 ▽拷問

 「517クーデター」による反対勢力の一掃や戒厳令の全国拡大とともに、その間空っぽだった地下室には、どっと「政治的な顧客」たちが押し寄せてきた。

 内乱陰謀で金大中、そしてデモ関連の学生たちがいっせいに捕らえられ、地下室にぎっしりと詰め込まれた。同じ時刻、保安司令部は西氷庫の捜査分室などに金鍾泌、李厚洛、金振晩、金致烈、呉源哲、金鍾珞、張東雲、李世鎬らをぶち込み、締め上げ始めた。

517」の、この反対勢力一掃のことを朴鐘圭は事前に知っていた。

 全斗煥と親しかったことから、その日程からやり方までをすべて把握していた。後日、金鍾泌は、当時を振り返って記者たちにそのように語った。

 ▽権力型不正蓄財

 513日、朴鐘圭はだしぬけに共和党からの離党を宣言し、記者会見を開いて「不正蓄財した財産を公の場で調べてほしい」と次のように言っていた。

朴鐘圭(中央)は金鍾泌(左)らを裏切り、新軍部の下で栄華を極めた。右は朴正煕大統領

 「最近、権力型の不正腐敗という批判が高まってきており、国民の間に不信感が広がっている。この際、わたしや共和党も含め、すべての政治家の腐敗について浄化をおこなうべきだ。それがわたしの心からの思いだ。だからといって、わたしが政界を引退するというわけではない」

 権力型不正蓄財――。

 それは全斗煥一派による造語だった。朴鐘圭は、何日か後に起こることを予告していたのである。

 それは、それからわずか4日後の「517一掃作戦」で、朴正煕政権の実力者たちに被せた罪状のことだった。金鍾泌(216億)、李厚洛(194億)、李世鎬(111億)、金振晩(103億)、金鍾珞(92億)、朴鐘圭(77億)、李秉禧(24億)、呉源哲(21億)、張東雲(11億)など、腐敗分子の名前と不正蓄財額が新聞の1面を飾った。

 金鍾泌は「朴鐘圭が新軍部の手先になって共和党を離党し、政治家の財産没収の名分づくりのために、あのような芝居を打ったのだ」と述懐した。朴鐘圭は、全斗煥が政権をとるべきだと煽ってきていた(元保安司令官・姜昌成の証言)。

 ▽恩人

 そして、一掃作戦の直前、全斗煥は「恩人」の朴鐘圭に「あなたを不正蓄財の処罰対象者から外すと、スジが通らないと言われます。公正さを装うためにも、発表に含めざるを得ないので、少しの間だけがまんして待っていてください」と了解を求めていたのだった。

 全斗煥にとって朴鐘圭は、少佐時代の1962年、中央情報部に入るときに身元保証人になってもらった恩人だった。そして73年の「ハナ会事件」[全斗煥を中心とした軍内部の私組織「ハナ会」のパトロンだった当時の首都警備司令官、尹必鏞が朴正煕大統領にたいして「不忠」だとされ、失脚した事件]に際しても、全斗煥が危うく軍服を脱がされそうになった危機から救ってやっていた。

 そういう事情があったとはいえ、金鍾泌は朴鐘圭の裏切りに腹の虫がおさまらなかった。

 かれは、当時の朴鐘圭について「まるで難破船からネズミが海へ飛び込むかのように、必死になっていた」と筆者に語った。李厚洛の新軍部に向けた「尻尾ふり」以上に、朴鐘圭の裏切りの方が、金鍾泌には骨身にこたえたという。

 ▽卑劣

 517日夜、落ち着かず、どこかそわそわした気分のなか、金鍾泌は張栄淳(元国会法制司法委員長)らと碁を打っていた。そんなところへ、藪から棒に朴鐘圭が現れた。

 ほんの数日前に「わたし朴鐘圭も含め、(金鍾泌らの)すべての不正蓄財について政府は調査すべきだ」と記者会見で言っていたばかりである。新軍部にくっつき、その手先になり下がった朴鐘圭がいったい、どの面をさげて何をしに、ここへ来たというのか。

 朴鐘圭は黙って碁盤だけを見つめながら、うろうろしていた。

 しばらくして、銃を持った兵士らが金鍾泌を連行するために踏み込んできたところで初めて分かった。かれら逮捕チームの囮(おとり)となって、金鍾泌が現場から逃げ出せないよう足止めをするために来ていたことは明らかだった。実に汚く、卑劣なやり口だった(『金鍾泌証言録』)。

 「何かと厄介者だった朴鐘圭がまだ軍曹だった時代から、かれが朴正煕大統領と陸英修夫人の信頼を得られるよう、常に後押しをしてやっていた。警護室長になるときも応援してやった。それなのに、その見返りが、このように恩を仇で返そうということだったのか」(金鍾泌)

 朴鐘圭は、新軍部の全斗煥に対してそのようにひれ伏すことで、軍部の下でも拘束を免れた。不正蓄財も、その額(77億ウォン)が発表されただけで、あとはうやむやにされ、新軍部の庇護を受けた。そして、のちに国際オリンピック委員会(IOC)委員という名誉職まで得て、栄華を極めることになったのだった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年6月23日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(32)

  5章 光州の流血踏み台に大統領に

 文在寅の運命――留置場で弁護士への道つなぐ

 1980513日から学生デモが激しくなり、絶叫がソウルの街にこだました。

 「全斗煥、申鉉碻 退陣しろ」

 「戒厳令撤廃 民主主義を回復せよ」

 この「ソウルの春」は咲ききれなかった。当時大学生で、のちに第19代大統領となる文在寅もまた、人生の岐路に立たされていた。大混乱の修羅場に巻き込まれ、危うく奈落の底へと突き落されるところだった。

 ▽司法試験受験後、街頭デモで逮捕

 そのいきさつというのは、こうである。

 ソウルの慶煕大学法学部の学生だった文在寅が、軍の空挺部隊(1975年の維新反対デモで強制入隊させられた)を除隊したあと、復学したのは803月。前年の1979年に司法試験の1次試験に合格し、復学後の19804月には第2次試験の受験も済ませていた。

   文在寅は1975年、「維新反対デモ」で強制入隊させられ、
空挺部隊で兵役に服した。

 ところが、時まさに、「ソウルの春」。全斗煥退陣を叫ぶ学生デモは日を追って激しさを増し、文在寅は復学生の代表として515日、ソウル駅に結集した20万人のデモ隊の先頭に立つことになる。

 そんななか、一人の青年が道端に放置されていたバスを運転、警察の阻止線を突破しようとしていて事故を起こし、戦闘警察隊員1人が死亡、4人にけがを負わせてしまった。あいにく、その運転者は、慶煕大生らが横断幕を掲げて陣を張っていた付近から飛び出していた。このシーンは学生デモの過激ぶり、暴力性、激烈さを示す典型例として、繰り返し何度も報道された。

 文在寅は、現場写真を根拠に逮捕される。

 戒厳布告令違反の容疑だった。バスを運転していた人物ではないことは明らかになった。しかし、その運転者の行方は杳(よう)として知れず、身柄を確保できなかったために捜査はいつまでも長引いた。そのため、文在寅ら慶煕大の学生たちは軍法会議に直接送られず[戒厳令下では直ちに軍事裁判にかけられることが多かった]、ずっと警察の留置場に未決囚として勾留されていた。

 そんな偶然が文在寅を救った。

 ▽留置場で「合格」聞く

 司法試験の第2次試験に合格した、という知らせが留置場に飛び込んできたのである。朗報に沸き立つ慶煕大から学生処(部)長や法学部同窓会長らが留置場の中まで焼酎やつまみを持ち込んできて、祝い酒をふるまった。外泊まではさせてくれなかったものの、「考試合格者」[司法試験や国家公務員上級試験など難関国家試験の合格者。当時の韓国社会では圧倒的なステータスを持っていた]として、それほどの優遇を受けたのだった。

 慶煕大で合格できたのは文在寅ともう一人の、合わせて2人だけだった。

 ▽大学挙げての救出運動

 大学は総力を挙げて救出に乗り出した。

 金点坤・大学院長(陸士1期)が戒厳司令部を訪ね歩いて救出運動をした。かれは朴正煕が尊敬した軍の大先輩だった。朝鮮戦争当時、平壌に一番乗りで攻め入った韓国軍の連隊長であり、中隊長時代には、朴正煕を配下の小隊長として従えていた。それで、全斗煥はじめ、維新政権の将官たちも仰ぎ見、一目置く人物だった。

 そんな金点坤教授の救出への努力が実を結んだ。

 「あの方のおかげで、合同捜査本部の取り調べも参考人扱いで済み、戒厳布告令違反もうやむやになって、釈放された。軍事裁判にかけられていたら、釈放は不可能だっただろう。合格も取り消されるか、第3次試験(面接)で不合格として処理されてしまっていただろう。幸いにも未決の状態だったので釈放の余地が生じ、弁護士の道を歩むことができた。ラッキーだった」(『運命 文在寅自伝』)

 こうして司法試験の合格証を手にした文在寅は、のちに司法研修院[日本の司法研修所に相当]で、運命的な同志となる盧武鉉[のちに第16代大統領]と出会うことになる。朴元淳(のちにソウル市長)、朴時煥(大法院判事)、宋斗煥(憲法裁判事)、李貴男(法務部長官)、趙培淑(国会議員)、咸承熙(国会議員)らが研修院の同期だった。

 ▽ソウル駅大集会の同志たち

 ソウル駅に20万人が結集した80515日、慶煕大生文在寅と同じ空間に、ソウル大学の有名な雄弁家であった金富謙(のちに文在寅政権の国務総理、当時政治学科生)もいた。ソウル大の学生会長だった沈在哲(のちに4選国会議員となり、国会副議長も務めた)がその日の集会を指揮していたのだが、(軍が武力鎮圧してくるのを恐れて)ほどなく「自主解散」[一般に「ソウル駅回軍」と呼ばれている]を宣言した。しかし、いくら努力しても群衆を収拾できなくなり、沈在哲はマイクに向かって「金富謙先輩、どこにおられるのですか」と必死になって捜すありさまだった。

 金富謙は77年、維新体制反対のデモを主導して緊急措置9号違反で拘束された。永登浦や安養の刑務所で収監生活を送り、大学からも除籍された。79年、富平の化学工場に偽装就職し、80年に復学。ソウル大の学生運動リーダーとしてデモの先頭に立っていた。しかし、このソウル駅集会の2日後、「517クーデター」による戒厳拡大に伴って布告令違反(「金大中内乱陰謀」)の関連者として拘束され、再び服役することになったのだった。

                          訳:波佐場 清

2026年6月20日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(31)

  「革命は銃剣でやるものだ」

1980517日午後遅く、落ち着かない気分でソウル三清洞の総理公邸にいた申鉉碻総理を、国防部長官の周永福と戒厳司令官の李熺性が訪ねていった。

「総理、デモがひどくなり、もう手の施しようがありません。ですから、どうぞ全国戒厳を宣布してください。そして国会を解散してください。それから、国家保衛非常対策委員会のようなものを新たに設けるよう、国務会議で議決してください」

▽総理の拒否と、大統領の優柔不断

申鉉碻の証言――

「国家保衛非常対策委員会? それって何なんだと聞くと、『これこれ、こういう組織(非常措置として行政府に代わる機関)で、これこれ、こういうことをするためのものなので、決裁してください』と。それでわたしは『どういうことだ、これは革命ではないのか。革命を、決裁をもらってからやる者がどこにいるというんだ、革命は銃剣でやるものだろう』と

申鉉碻は声を荒げて拒否した。申は、こう回顧している。

 「わたしには、できない。非常戒厳の全国拡大は、秩序が乱れているのでやむを得ないとしても、国会の解散、そして政府があるというのに、また、もう一つ別の政府のような国保委ってそれ、何のことだ? 押し問答の末、これは国務総理が決裁する問題ではない、大統領のところへ行こう、と。それで崔圭夏氏のところへ行ったんだ。しかし、決着などつくものか。わたしは決裁なんかできない、と。それでまた、押し問答だ……

崔圭夏は、そこでも毅然とした態度をとることができなかった、と申鉉碻は振り返った。

「あの場でも崔圭夏氏は、わたしが反対するものだから、何も言わなかったよ。ただ、『申総理がそうおっしゃるのであれば』と言う程度で、きっぱりと拒絶もしない。わたしは、『できない』と、きっぱりとそう言った。崔圭夏氏と息が合わないことにはいっしょにやれない。それで、わたしは総理を辞めると言ったんだ」

5人の会合と、新軍部の焦り

 一日がもう暮れていこうとしており、全斗煥と新軍部は焦っていた。

     801月、陸軍会館の行事で歓談する(左から)李熺性戒厳司令官、周永福国防部長官、
金鍾泌共和党総裁。
4カ月後、金鍾泌は「不正蓄財」で新軍部に逮捕された。

 青瓦台での5人の会合[崔圭夏大統領、申鉉碻総理、周永福国防部長官、李熺性戒厳司令官のほか、途中から全斗煥保安司令官も加わっていた]も時間が過ぎていった。深夜の臨時国務会議でも開いて戒厳令の全国拡大を決め、シナリオ通りに反対勢力一掃の作戦を展開しなければならないというのに、時間ばかりが経っていく。

 すでに金大中逮捕、金鍾泌連行といったシナリオに沿って兵力の配置がなされ、地下の取り調べ室まで用意しているというのに、突撃のサインを出せないまま、秒針だけがコチコチと時を刻んでいる。

 保安司令部は前日の16日のうちに、すでに全軍の保安部隊捜査課長会議を招集し、17日の非常戒厳全国拡大と同時に検挙する800余人のリストを通報済みだった。罠を幾重にも完璧に仕掛けてあり、今はもう、「ショットガン・スタート」方式で一斉突撃を待つばかりだ。急を要している。

 ▽「戒厳拡大」へ深夜の国務会議

 情勢に狂いが生じて壁にぶつかると、周永福と李熺性は、戒厳令の全国拡大だけでも実施すべきだと主張した。

 一歩、引き下がろうというのである。北朝鮮のただならぬ動きがどうのこうのと並べたてながら、こう言った。

「あす、あさっての5月20日になると、梨花女子大に全国の学生代表が集まってきて一斉に決起大会を開くことになっています。戒厳令の全国拡大はやらざるを得ないのではないですか」

申鉉碻の証言は、続く。

「まあ、いいだろう。それは認めよう。しかし、あとのこと(国保委設置)はだめだ。非常戒厳の全国拡大は国務会議で議決しよう。そうしておいて、わたしは総理を辞める、と……。わたしの力不足と不徳から、こういうことになったのだから、総理は辞める。閣僚たち全員の辞任までは強要するつもりはない、と言ったんだ」

結局、戒厳令の全国拡大だけで、ひとまず決着をみた。さあ、国務会議に移ろう――。

▽首席秘書官の抵抗

 深夜の国務会議で議決することが確定した。

 大統領と総理が屈服し、全斗煥、周永福、李熺性は、青瓦台を後にした。

すると間もなく、崔侊洙秘書室長が首席秘書官会議を招集した。

 「全軍主要指揮官会議の進言により、非常戒厳令を全国に拡大することにしました」

 朴正煕大統領が暗殺された「1026事件」のあと発せられてきた戒厳令は、済州島を除外した「地域戒厳」にとどまっていた。これを「全国戒厳」にするということは、軍が行政、司法も握る全面的な軍政への移行を意味した。それは、青瓦台が高建・政務首席秘書官を中心に求めてきていたものとは、まるっきり違っていた。

 崔秘書室長は「それでも、国保委なるものをつくろうという軍部の要求はひとまず、保留にさせた」としながら、高建に言った。

 「非常戒厳令の全国拡大を議決する臨時国務会議を午後9時から開くので出席しなさい」

 国務会議には首席秘書官ではなく、その下にいる一般の秘書官が出席するのが通例だ。ところが異例にも、政務首席に出席しろという。それは、青瓦台にたいして非常戒厳令の全国拡大を追認しろ、という意味なのか。高建は腹の底から激しい怒りがこみ上げてきた。

 「わたしがどうして、そこに出ないといけないのですか」

 ▽「情報部長兼任さえ辞めれば…」

 突然の大声に、みな驚いた様子だった。すると、李経植・経済首席秘書官がその場をなだめようとするように、ぽつりと言った。

 「全斗煥・保安司令官が中央情報部長の兼任を降りさえすれば、すべてがうまく収まることなのに…」

大ごとになる発言だったが、崔侊洙をはじめ青瓦台の文官スタッフたちの本心がそこに表われていた。

新軍部と全斗煥はあまりにもひどすぎる、という抗議――。だれかに聞かれでもしたら大変だとばかりに、崔室長はあわててその場をおさめにかかった。政務首席秘書官の高建にたいして「なら、政務のほうで、一般の秘書官だけでも出席させなさい」と言って引き下がった。こうして、国務会議の盛り立て役として金有厚秘書官(のちに法務次官)がそこに向かうことになった。

▽厳戒のなかで議決、そして内閣総辞職

 午後1010分、国務会議が始まった。

中央庁(政府総合庁舎)の廊下には、着剣した銃を構えた兵士らが整列していた。外部との通信回線はすべて切断され、さらには内線の警備電話までもが遮断されていた。国務委員(閣僚)以外の立ち入りは一切許されず、職員らの出入りさえ禁止された。

全国に戒厳令を拡大する案件は、10分足らずで議決された。

深夜に国務会議が開かれた中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)=1980517日午後930

総理の申鉉碻は辞意を表明した。申の回顧談――

 「各自、意見を出すことにしよう、副総理から一人ずつ、順番に意見を述べてください、とそう言ったんだ。すると、順々に全員が辞めたいと、そう言うんだ。(大統領から)『辞めろ』と言われたから、ということではなく、内閣が自ら進んで総辞職を決めたのは、歴史上この1回だけだっただろうな。後になって崔圭夏氏が『こんな危機の時に、どうしてこんなことをなさるのですか』と引き止め、さらには軍部からも引き止められた。全斗煥も『どうして、こんなことをなさるのですか。これで、どうやって、やっていけるというのですか』と。それでもわたしは、もうやれないと答えたんだ。そうして、ついには総辞職ということになったんだ」

午後1140分、政府スポークスマンであり、文化公報部長官の李揆現が、そのことを発表した。

                       訳:波佐場 清

2026年6月17日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(30)

  「いっしょに退陣しよう」

長い、実に長い一日だった。

新軍部にとっても、過渡政権にとっても、そして暴力に呑み込まれ、流されていった政治家たちにとっても、ほんとうに長く、緊迫した24時間――歴史に、そう記録されている。

▽最後の逆転画策

国務総理の申鉉碻は、新軍部のむき出しの権力欲に対抗して最後の逆転を試みた。

1980517日朝、青瓦台に赴き、崔圭夏大統領とともに壮烈に一蓮托生の「心中退陣」をしよう、と提案した。武力で反対勢力を一掃しようとする新軍部にたいする最後の一手、大統領と国務総理の「心中退陣」宣言で衝撃を与え、情勢をひっくり返そうというのだった。

 一種、政治的「投身自殺」である。

新軍部への対応で対立した申鉉碻総理(左)と崔圭夏大統領

 崔大統領にたいして「わたしたちが死後も永遠に生きる(名誉を保つ)には、ここは、いっしょに退陣するほかありません」と説いた。

 「軍部が出て来るつもりなら、民政の(過渡)政権を倒し、踏みつけていってみろ」

 大統領と国務総理がいっしょに退陣すれば、新軍部の登場は不法なものとなる。

 まさに、大胆な逆転の発想だった。

 横暴な新軍部の腕力に抵抗する過渡政権の最後のカード、乾坤一擲の勝負だった。死即生――死ぬつもりで絶壁から身を投じれば、軍人らはどう出るか。奴らが死にもの狂いで挑んでくるように、われわれ文民の方もどっちみち死ぬのなら、どんな死に方をしようと同じではないか、という覚悟でやるべきだ。

 ▽国の責任者の器

「崔大統領に言ったんだ。『あなたが引き続き大統領のイスにしがみついてばかりいたら、生きていたとしても、それは死んだも同然のことだ。それは軍の登場を合法化してやるだけだ』とまで言ってやったんだが、大統領は首を縦に振らなかった。結局、新軍部におんぶされて生き残る道を選んだのだ」(申鉉碻の証言)

 それで、申鉉碻は517日朝のことを振り返っては、よく、「崔圭夏氏は民政に移管するとの公約を裏切った男だ」と批判していた。

「崔圭夏氏は国の責任者になるような器ではなかった。全斗煥はそんな崔大統領を利用したのだ」(申鉉碻)

いざ、乾坤一擲というときに、勝負の一手に打って出たのは逆に、全斗煥一派の方だったのである。

▽第2次クーデターの幕開け

 517日午前10時、新軍部の「1212反乱」につづく第2次の静かなクーデターが幕を開ける(政治学者たちは、全斗煥らの新軍部は79年の「1212クーデター」と80年の「517クーデター」の2段階のクーデター<Two-phased coup d’etat>を経て権力を奪取したとする)。

国防部の第1会議室で、全軍主要指揮官会議が開かれた。シナリオ通りに、国防部長官の周永福、合同参謀本部議長の柳炳賢をはじめとする出席者らが着席した。

 李熺性、陳鍾埰、尹誠敏、黄永時、車圭憲、盧泰愚、鄭鎬溶、朴俊炳といった実力者たちの硬い表情が見えた。ほかに、金潤鎬、尹興正、金洪基、金相台、崔永九、崔永植、全成珏、姜英植、朴魯栄、安鍾勲、鄭鉉澤、具得賢、金鍾淑、権翊倹、全昌禄、金鍾坤、李鍾浩、丁元民、金正浩、李銀秀、李相海、崔徳、崔重夏、尹子重、李熺根、金容洙、金仁基らの将官が、重苦しい表情で席に着いた。

517クーデター」当日の午前、国防部で開かれた全軍主要指揮官会議

 だれもがみな、全斗煥一味が何を企んでいるかは予感できていた。

 ▽新軍部のシナリオ

 これに先立ち、国防部長官の周永福には、朝早くに保安司令部処長の権正達を通して全斗煥(中央情報部長兼保安司令官)ら新軍部が描くシナリオが通知されていた。国務会議(閣議)にたいして戒厳令の全国拡大国会解散「国家保衛非常対策委員会(国保委)」の設置――を議決するよう迫る、というものだった。加えて、その国務会議での議論も形だけのものとし、白紙委任の署名だけをもらう、という筋書きだった。

周永福は、同じ国防部庁舎にいた合同参謀本部議長の柳炳賢を呼んで、これを通報するとともに根回しを試みた。

▽憲法破壊

ところが、柳炳賢議長は細かな点についてまで、しつこく問い詰めてきた。

「それは崔圭夏大統領の意志なのか、申鉉碻総理の指示なのか。それとも、周永福長官、あなた独りの個人的な発想なのか?」

しかし周永福は、ぐにゅぐにゅと言葉を濁し、答えをはぐらかした。

明確に答える代わりに、保安司令部の指針通りに、ひたすら「学生デモなど国内の混乱を収拾するためには国会の解散が必要だ。そして、国会に代わる非常機関をつくらなければならない。それを法的に裏付けるには戒厳令を全国に拡大する必要がある」という言葉を繰り返すばかりだった。

 柳炳賢議長は、崔大統領に随行して中東を歴訪し、前夜に帰国したばかりだったが、全斗煥一味のやり口をすでに見抜いていた。

 傀儡に過ぎない国防長官の周永福にたいして柳議長はこう言った。

 「国会解散の決議などすれば、会議の主宰者であるあなたは後日、憲法を破壊したという憲法違反の罪を追及されることになる。歴史に汚点を残してはならない。非常統治機構(国保委)を進言するのも軍の権限を越えている」

 ▽厳重警戒

 柳炳賢の警告があったにもかかわらず、周永福は躊躇しているわけにはいかなかった。部屋を出た。

 一刻も早く、シナリオ通りに全軍主要指揮官会議を主宰しなければならない……。

 国防部の会議場周辺は、殺気立っていた。

 新軍部の実力者たちが命懸けで「1212反乱」に続くクーデターの第2ラウンドを繰り広げている真っ最中なのだ。保安司令部と憲兵隊の要員らが辺りにびっしりと張り付いていた。将官たちさえ、その殺伐とした雰囲気に思わず身をすくめるほどだった。

 ▽反対意見

 周永福長官は、将官らに向かって言った。

 「本日の戒厳令拡大の進言は、国務会議の議決を経ることになる。そうして合法化されれば、政治風土を刷新し、政界の問題人物どもを完全に排除しなければならない」という趣旨のものだった。これは反対勢力の一掃に初めて触れた発言だった。

安鍾勲将軍(軍需基地司令官)が発言した。

 この人物は、もともと鄭昇和参謀総長の側近だった。「1212反乱」当時、かれの副官将校だった柳仁相・嘉泉大教授によると、あの夜、安鍾勲は配下の将官を非常招集し、決然とした表情で「クーデター軍に協力するな。わたしの指示だけに従え」と、鄭参謀総長の側に忠誠を誓うよう強いた。しかし今、鄭総長が罪人となってしまった以上、彼も敗軍の将の一人に過ぎず、辛うじて首がつながっているだけという状態だった。それでも、言うべきことは言わなければならない。

 「わが軍が政治に直接介入するのは、重大な問題だ。国民全体の世論がこうなのか? 全国民がそうだとは思えない。国民的な合意と全体の意思統一が必要だ。会議をこのようなかたちで開くのは問題だ。対策を講じるための会議といいながら、前もってあらかじめ結論を出しておいて、それに合わせて開く会議なんぞ、何の意味があるというのか」

 ▽「軍が政治を助けるべき」

 全斗煥の盟友、特戦司令官の鄭鎬溶が反論した。

「国民のだれにいちいち聞いて回って、そんなことを言っているんだ。ここでは、各自の考えだけを述べればいいんだ。国民の大多数は、非常戒厳を支持している。あす、あさって(520日)国会が開かれると、国を誤った方向に導くような動きが多くなる。学生たちの過激なデモで国が案じられる今、非常対策機関を設けることが求められている」

首都警備司令官の盧泰愚もこのシナリオに加勢した。

「政治は完全に信頼を失っている。政府の力が及ばないのなら、軍が出て助けてやるべきだ。大学街は無政府状態だ。わが軍が政府を助けるべきときがきた。企業家らも国のことを心配し、訴えている。生存と安定のために、国民が望む通りに障害要素を取り除くべきだ」

▽白紙委任

盧泰愚や鄭鎬溶がどれほど大きな力を持つ実力者であるか、将官たちにはよく分かっていた。シナリオをつくっておいて、その通りにやろうとしているところへ、いったい何ができるというのか。大勢に従うのが軍隊というものではないのか。

反論していた安鍾勲も、もう何も言えなくなった。意気消沈した安鍾勲を見て周永福は止めを刺すように「異議はないか」と質し、署名を取り始めた。周長官が回す白紙に将官たち全員が署名をした。

中身を知る必要すらない「問答無用」の白紙委任――。

それまで反対していた柳炳賢や安鍾勲も署名した。さらには崔圭夏大統領の実弟、崔重夏将軍(海軍第5海域司令官)までもが署名に応じた。

「その日の全軍主要指揮官会議は、軍を去る覚悟なしには、反対意見など、とても言い出せないような雰囲気だった」と3軍団長の全成は、記録に残している。

▽「如意棒」

この白紙署名(進言書)の威力は、想像を超えた。

 全軍主要指揮官会議の「白紙委任」は、崔圭夏大統領と申鉉碻総理を締め上げ、米国を脅して新軍部の側に引き込む「白紙小切手」となった。大統領や総理の前で言葉に窮すれば、「北朝鮮の脅威や社会混乱に対処する大韓民国軍部の一致団結した意思だ」と、この決議文を突きつければ、それまでだった。米国にたいしてもこれを突きつけて自分たちの行動を合理化した。それは、保安司令部のとんでもない「如意棒」となった。

 反乱軍の作戦は用意周到だった。

 全斗煥は、国防部の主要指揮官会議とまったく同時刻の午前10時、崔圭夏大統領と会うために青瓦台に上がっていった。国防部の将官らの決議のほうは周永福、鄭鎬溶、盧泰愚に任せ、全斗煥本人は崔大統領を動かして裁可を受け、反対勢力一掃の土台固めをしようというのであった。

 ▽「革命は516だけでいい」

 しかし、崔圭夏も一筋縄ではいかなかった。

 戒厳令の全国拡大は、内閣の機能停止を意味した。その間の地域戒厳令(済州島を除外していた)の下では、指揮系統は「大統領-国防部長官-戒厳司令官」だった。それが全国戒厳となると、国防部長官は姿を消し、戒厳司令官が国家権力を事実上掌握することになる。傀儡(大統領)一人だけを意のままに操れば、それで済むということになるのだ。それだけでも許しがたいことだが、その上さらに国会まで解散し、「革命評議会」(許三守の表現)のような国保委をつくるというのは、あまりにもひどすぎるではないか。「憲政の中断はいけない」と崔大統領は抵抗した。

 崔大統領は「革命は516ひとつでたくさんだ。軍の名誉のためにも二度と憲政中断が繰り返されてはならない」と全斗煥に言った。

 ▽「総理のところに行こう」

 崔圭夏は5カ月前の「1212クーデター」の際、「陸軍参謀総長を逮捕したいなら、国防部長官の裁可をもらって来い」と言い放ったときと同じように、手続き論を説いて拒否した。「全軍主要指揮官会議の進言は、大統領が裁可することがらではない。国務会議の方で確認してみろ」と申鉉碻総理に下駄を預けた。

 「総理のところへ行こう」

すでに午後6時ごろになっていた。

 全斗煥は抜け、国防長官の周永福と戒厳司令官の李熺性が、指揮官会議の決議書(白紙に署名だけをもらい、保安司令官が細部を書き入れたもの)を持って申鉉碻総理のとこへ行った。

 しかし、申総理も甘くはなかった。

                         訳:波佐場 清

 

2026年6月14日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(29)

  「大統領は天が決める」

 陸軍保安司令官・全斗煥の中央情報部長兼任が1980414日に発令されてから何日かして正式にその座についた全斗煥が尹潽善元大統領を自宅に訪問した日のことである。「権勢の誇示」を兼ねた、意気揚々たるお出ましだった。そのころは日々、警護部隊を厳重につけ、ものものしく出歩いていた。

 保安司令部の韓鏞源課長は、全斗煥をソウル安国洞の尹潽善宅へ案内するため延禧洞にある全斗煥宅へ出かけた。折から、兄の家に立ち寄っていた全斗煥の弟の全敬煥がどこか面白がるように、冗談めかして兄に一言、こう聞いた。

総理や長官を従えてテープカットをする全敬煥(中央)。大統領の兄の下、絶大な権力をふるった=19874

 「兄さん、きょう、尹潽善先生がいきなり自分を大統領にしてくれと言いだしたら、どうする?」

 兄の全斗煥はためらうようすもなく、こう答えた。

 「大統領は天が決めるものだ。なりたいからといって、なれるものではないのだ」

 ▽「K―工作」始動

 この世は自分のものだ、と全斗煥は確信していた。

 かれはそのころ、唯我独尊、天運は自分に味方している――と信じて疑わないかのように振舞っていた。愛唱歌「男の決心」の歌詞のように、心を決めて進む道、行く手を阻む嵐には断固としてぶつかっていく、という覚悟だった。

 すでに保安司令部の李相宰(別名「姜基徳補佐官」)は、全斗煥の戴冠式に向け、新聞・放送世論を操作する「K―工作計画」を始動させていた。

 ▽保安司令部の情報で、中央情報部員を解雇

中央情報部長を兼任した全斗煥は、情報部要員の解雇者数を減らし、慈悲と融通性のあるところをみせた。許三守を宥(なだ)めすかしながら解雇者の数を減らしたのだった。

 ところが、李鍾賛がこの部長決済を次長の徐廷和のところへ持っていくと、徐は顔をしかめて不平を言った。海外担当の次長である金永先は大満足だったが、徐廷和は自分の部下の国内要員が大幅に減らされることにどうしても納得できないのだった。

 「情報部はこれからも安保に責任を負わなければならないというのに、国内部門がこんな編成では、だれと、どうやって仕事をしていけるというのですか。わたしがいまいちど、部長と話し合ってみます」

人員と組織の大きさが、そのままリーダーの力である。そのことが分かっているからこその発言だった。

そうしている間にも保安司令部の許三守大佐は、何人かの情報部員の問題点を次々と指摘して随時、解雇対象者にねじ込んでいた。保安司令部の情報で中央情報部にメスを入れると、ともすれば「悪貨が良貨を駆逐する」ということにもなりかねなかった。李鍾賛は人事課長の尹碩淳を使ってそこをカバーした。尹は許三守と釜山高校の同期生だったので、よく話が通じた。

そのようにして情報部改編の人事案が練り上げられる間に、「ソウルの春」は、花が咲き開く前にしおれていったのだった。

 ▽拡大し、激しさ増すデモ

全斗煥の情報部長兼任は、野党や在野勢力、学生らの反発を大きくした。

そんなところへ、全斗煥側に記者出身者が合流したという噂――「李振羲[元京郷新聞主筆。全斗煥政権下でMBC社長や文化公報部長官となり、メディア統制を主導]が新軍部側についた」とか、「許文道[元朝鮮日報記者。全斗煥政権下で言論統廃合を主導]が南山(情報部)についた」といった話が言論界に広まった(もちろん、こうしたニュースは検閲によって新聞には1行も載らなかった)。

「非常戒厳、解除しろ」

「全斗煥、退陣せよ」

「政治日程を早めろ」

5月に入ると、大学街のデモは激しさを増していった。熱を帯びた学生たちのデモ隊は、ソウル市内へと繰り出し始めた。また、江原道舎北炭鉱の労働者たちの闘争や暴力沙汰が連日、新聞紙面を飾った。激しい労使紛争や街頭デモは、新軍部が待っていたとばかりに、戒厳令下の検閲も無条件でパスした。大見出しが付いたデモの記事が紙面を埋め尽くした。世の中が不穏、不安な空気に、じわじわと包まれていった。

▽「9月1日に大統領に就任」

そのころ、国会職員(専門委員)だった朴寛用(のちに国会議長)は、三星(サムスン)グループの秘書室に勤務する友人の李某氏と会った。かれは「全斗煥将軍は学生デモを口実に軍を動員して政治家らを一掃し、体育館選挙[政権の息のかかった者たちを体育館に集めておこなう、形ばかりの選挙という皮肉を込めた言い方]で大統領に就任する」といい、その日付までを「9月1日だ」とまで断定して教えてくれた。

▽金泳三の楽観

 朴寛用はソウル麻浦の新民党本部に金泳三総裁を訪ね、そのことを報告した。金泳三は悠然と構えていた。

「奴らは一時、そんなことを考えていたが、いまは違うようだ。滔々と流れる河の流れは手のひらで塞き止められるものではない」

そのように自信満々だった金泳三だったが、何日かしてまた、朴寛用を呼んで尋ねた。あの情報はどこで聞いたんだ、というのである。

「三星の秘書室にいる友人からです」

「その情報、当たっているようだ。悪い奴らだ。しかし、そう易々と、奴らの思い通りにはさせん。民主化の滔々たる流れは銃剣では塞げないのだ」(朴寛用の回顧)

しかし、金泳三のそんな思いをよそに、「517クーデター」による反対勢力一掃のその時は、音もなく忍び寄る戦車のように刻一刻と迫ってきていた。

▽中東訪問切り上げ、帰国

510日、崔圭夏大統領は、そんな渦中にあってもサウジアラビアなど中東歴訪を強行した。

出国前、崔大統領が金泳三総裁に電話で出国のあいさつをした際、金泳三は強く反対した。それでもあえて飛行機に乗り込んで出発したのだが、学生らの街頭デモがさらに激化すると、急遽、歴訪日程を切り上げて516日夜に帰国した。

空港に着くと、そのまま青瓦台に向かい、会議を開いた。深夜の11時だった。

 大統領が主宰し、崔侊洙秘書室長、高建政務首席秘書官、申鉉碻総理のほか各部(省庁)の長官、そして全斗煥保安司令官兼中央情報部長代理(現役軍人の身分であるため「代理」が付いた)が出席した。申総理が国内のデモに関して報告し、30分ほどで会議は終わった。

517日の朝が明けた。

土曜日でもあり、また、崔大統領が急遽帰国したばかりということもあって、大学の学生会長らも梨花女子大に集結したまま、青瓦台の決断を沈黙のうちに見守っていた。

                       訳:波佐場 清