■少数意見の判事を追放
正論であった大法院判事の少数意見は、過酷な代償を伴った。
全斗煥らの新軍部は、これを許すわけにはいかなかった。
金載圭を内乱犯に仕立てて「生け贄」にしなければならないというのに、それにケチをつけたからである。新軍部には初めからそんな心配もあり、1980年の年初来、保安司令部の全斗煥とその実力者である李鶴捧・対共処長(大佐)は、金載圭の裁判を前に、早くから大法院に手を回していた。
▽下工作
80年1月、全斗煥は大法院判事全員を陸軍会館に招き、夕食会を催した。
李英燮大法院長は3月のある日、李熺性戒厳司令官から『金載圭の事件がそちらにいくので、よろしく』と言われた。同じころ、陸軍法務監を名乗る人物が大法院長のもとを訪ねてきて「1カ月以内に裁判を終わらせてほしい」と、とんでもない催促をした。
そして李鶴捧は、大法院判事の梁炳皓が大法院の任用序列ナンバー2として金載圭の裁判を担当することが確実視されると、梁判事を訪ね、『被告人らの上告を棄却してほしい』と頼み込んだ。
4月14日に中央情報部長を兼任した全斗煥も使いの者を送って李英燮大法院長に「金載圭事件の早急な処理」を求めるとともに「一度会いたい」と伝えた。ところが、大法院長は当然、情報部長の方から訪ねてくるものだと思い、一方の全斗煥のほうも、李英燮が自分を訪ねてくるものと考えているうちに時間が経ち、会うことができなかったというのだった。
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| 朴正煕大統領を暗殺した金載圭について「内乱目的はなかった」と、 梁炳皓(左端)ら6人の判事が少数意見を述べた。 梁判事は保安司令部に連行され、ひどい暴行を受けた |
いずれにせよ、少数意見を述べた6人はいたものの、8人の多数意見によって金載圭ら5人の死刑が確定し、光州への見せしめでもするかのように5月24日、急いで処刑をおこなった。
▽排除対象者は288人
5月29日、光州に再び戒厳軍が入った直後のことだ。
中央情報部長の全斗煥と総務局長の李鍾賛は、中央情報部の改編案を持って崔圭夏大統領のもとに向かった。全斗煥は情報部改編業務の仕上げを急いでいた。もう、シナリオ通りに国保委(国家保衛非常対策委員会)に行って国の統治に当たらなければならない。そこには大統領秘書室長の崔侊洙も同席した。
崔大統領は、かなり入念に、細部についてまで問い質した。
李鍾賛は情報部に入って15年余になり、その間あらゆる部署を一通り経験していたのでよどみなく答えることができた。崔大統領は外交官出身らしく、「海外工作局」という名称を「渉外局」に改めるよう求めただけで、あとは、とくに何も言わずに裁可した。
こうしてなされた組織改編によって排除された脱落者は288人にのぼった。
ほとんどが幹部クラスで、一般職員は少なかった。1961年6月、朴正煕が統治権強化のために中央情報部をつくって以来、歴代部長らが恩着せがましくねじ込んできた者たちがそれほどに上層部を支配し、頭でっかちの「仮分数」組織になっていたということだ。総務処[日本の内閣府に相当]は「公務員年金の構造が中央情報部出身者のせいで歪められている」と不平を漏らしてきてもいた。
▽公平性
288人のうち、100人を退職させるつもりで解雇者リストを作った。
全斗煥部長はそれについて決裁している途中、うち1枚の人事カードだけを引き抜いて中身を確かめていた。イム(임)某という人物のものだった。全斗煥は総務局長の李鍾賛に聞いた。
「この者はどうして、だめなんだ?」
「慎重に何度も検討してみたのですが、米軍PX(売店)に出入りして取引[物資の横流し]をしていたことも分かり、担当課長が残すのはとても無理だ、と判断したのです」
「もともと、だれが推薦した人物なのか、分かっているのか」
「知っております。人事資料にも、部長(全斗煥)が推薦された人物と書いてあるので、ことさら慎重に調べてみました。この者だけを外せば、公平性のうえから問題になりかねないと思い、悩んだ末に……」
全斗煥は顔をしかめながらも、ぐいっぐいっとハンコを押しながら言った。
「ワシが推薦した者と知りながら整理の対象に含めたというんだから、この審査は公正なものだと認めよう。なら、退職する者たちが食っていけるよう、生活の問題についても気を遣ってやってくれ」(李鍾賛の記録)
▽シナリオと寸分の狂いもなく…
すでに国会解散と国保委創設のシナリオはつくられていた。
光州の鮮血がまだ乾かぬうちから、新軍部は自らの進む道を急いだ。
5月31日 国保委の設置および全斗煥の国保委常任委員長就任
6月 2日 全斗煥中央情報部長(代理)辞任
27日 全斗煥と盧泰愚が順番に大統領になることで新軍部の実力者らが密室で合意
28日 李鶴捧、拘禁中の金大中と初の面談(降伏を要求)
7月18日 兪学聖、中央情報部長に就任
8月13日 金泳三、政界引退を発表
16日 崔圭夏大統領、退任
27日 全斗煥の大統領(当選)確定
9月1日 全斗煥、大統領に就任
反乱の主役たちの描いたシナリオが寸分の狂いもなく、一糸乱れぬ作戦のように遂行されていった。
▽最高権力機関
5月31日、ソウルの三清洞で、国保委の看板かけの儀式があった。
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| 「国保委」の看板かけ儀式に出た全斗煥(左端)と盧泰愚(右端)=1980年5月31日 |
目的はただ一つ、全斗煥が全権を掌握し、思うままにその権力を振るおうというものだった。保安司令官と中央情報部長を兼ね、「天下無双の権力者」であったとしても、法の上では、戒厳令下にあるため、戒厳司令官の指揮を受けなければならない。その限界を回避するための手立てが国保委だった。
国保委は19年前、1961年の「5・16クーデター」の直後、金鍾泌がつくった「国家再建最高会議」をそっくりそのまま焼き直したものだった。形のうえでは崔圭夏大統領の諮問・補佐機関だったが、その実、全斗煥が革命的に全権を振るえるようにした最高権力機関だった。
▽「軍事革命委員会」
国保委は常任委員長の全斗煥をトップに、それを下から30人の常任委員が支える構造だった。傘下に13の分科委員会も設けた。常任委員30人のうち18人が現役の将官であり、13分科委の幹事も全員佐官級将校で、文字通り新軍部の「軍事革命委員会」(許三守)そのものだった。
看板かけ儀式4日前の5月27日、国保委を大統領直属の機関とする設置令に崔圭夏大統領は、やむなく署名していた。5月17日夜、申鉉碻総理が命がけで閣議での議決に反対した「屋上屋」の機関である国保委――つまりは民政政権を形骸化させるこの革命機関を、崔大統領を脅して遂に、つくり上げたのである。
▽コピー
国保委という大きな剣は、「5・16クーデター」でつくった軍部による「最高会議」のコピーだった。
その意味で、新軍部の「5・17」と朴正煕の「5・16」は、「正常化したなら、軍に復帰する」という虚偽の煙幕作戦も含め、最初のスタート時点から、まさに「一卵性の双生児」だったのである。
訳:波佐場 清








