■「特戦司令官より私の方が強い」
金大中救命の問題で困り果てた米国のリチャード・アレン(レーガン政権引き継ぎチームの国家安全保障担当補佐官)は、頭を使った。
▽新聞記者と連携
米国大手の新聞記者に、記者懇談の場で金大中の死刑について質問しもらうようにしたのである。打ち合わせ通りにその質問が出ると、アレンは「もし、金大中を殺すようなことがあれば、韓国にとって極めて重大な結果をもたらすことになるだろう」と、用意していた通りに答えた。匿名の警告だったのだが、それがアレンの発言であることは、ワシントンの韓国大使館には分からないはずはない。
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| リチャード・アレン米補佐官 |
ソウルから、アレンに会うための特使がワシントンに飛び立った。
韓国軍合同参謀本部議長の柳炳賢(のちに全斗煥政権で駐米大使)だった。
▽「処刑は道徳的破滅」
1980年11月下旬、アレンが米陸軍参謀次長から朝食の招待を受けて行ってみると、そこに柳炳賢大将が来ていた。柳炳賢は自ら、全斗煥大統領から派遣されてきた特使であると名乗り、金大中の問題について政権引き継ぎチームとアレンの考えを聞きたいという。
アレンは、冷たく言い返した。一つの戦略だった。
「あなたが全斗煥大統領の特使だということをどうやって証明するのか。いったんソウルに戻り、2週間以内に全斗煥の特使であることを証明する確実な何かを持ってくるか、さもなければ、ほかの人にでも特使だということを証明するものを持ってこさせなさい」
そう言いながらアレンは、金大中の処刑は「道徳的破滅」である、と指摘した。柳炳賢もうなずいた。アレンは「金大中を殺せば、レーガン政権と全斗煥政権の関係は困難な局面に陥ることになる」と警告した(グライスティーンの回顧)。
柳炳賢と別れたアレンは、レーガン次期大統領に金大中問題について報告した。
カリフォルニアで静養中のレーガンに一部始終を説明し、どう対応すべきかを聞いた。レーガンは、アレンに処理権限を全面的に一任した。俳優出身のレーガンは、仕事の処理は専門家に大らかに任せるスタイルだった。
▽「国外追放も…」
柳炳賢は、大統領の全斗煥に訪米結果を報告した。
全斗煥は盧泰愚を呼び、米国がどんなことがあっても命を救えという金大中の(減刑)問題について話し合った。
米国に譲歩するのはやむを得ないとしても、金大中という名前が出るだけでムキになる新軍部内の共通認識も問題だった。こんなときには盧泰愚がうってつけだった。
保安司令官の盧泰愚は80年12月ごろ、秘書室長の安秉浩と情報処長の韓鏞源を呼んでこう言った。
「閣下(全斗煥大統領)は、金大中は軍法会議で死刑判決を受けたものの、(無期懲役に減刑するか、あるいは)国外追放という形で海外に送り出したうえで恩赦してやろう、というお考えだ。軍部の反発を憂え、深く心を痛めておられると思う。国防大学院の金宗輝教授(のちに盧泰愚政権で外交安保首席秘書官)と連絡をとり、知恵を絞ってみてくれ」(『韓鏞源回顧録』)
▽新軍部内の合意づくり
韓鏞源と金宗輝は、額を突き合わせて考え抜いた。
結果、金大中を死刑から無期懲役に減刑し、その見返りとして米国から韓米首脳会談を取りつけ、日本とは対日借款(100億ドル)の問題を妥結させる、という打開策をまとめた[日本へは当初、「安保経済協力」の名目で100億ドルを要求。のちに中曽根政権が「経済協力」の名目で40億ドルの支援をおこなうことで政治的妥結をみた]。当時、日本の全港湾労組(全日本港湾労働組合)は、金大中の死刑判決に抗議して韓国製品の荷役を拒否していて、これが全斗煥政権にとって頭の痛い問題になっていた(『韓鏞源回顧録』)。
盧泰愚は、この打開策を新軍部の実力者たちを集めた非公開の会議に諮った。
安全企画部長の兪学聖をはじめ、車圭憲、黄永時、鄭鎬溶、許和平、許三守、李鶴捧、権正達、柳興洙、玄鴻柱、鄭寛溶、裵命仁らをソウル宮井洞のアジトに招き、金大中を減刑する案についてブリーフィングをしながら新軍部内部の共通認識を広げたのだった。
全斗煥は、打開策に困って保安司令官の盧泰愚に知恵を求めたわけではなかった。新軍部の実力者らにたいし、米国と日本からの外交や経済面への圧力を理由に、金大中の死刑を免じてやらなければならないことを説得する必要があったのである(同回顧録)。
▽「天罰が下る」
ほどなく、ワシントンのアレンは、全斗煥の特使である特戦司令官の鄭鎬溶一行を迎えた。
ホワイトハウス近くのアレンのオフィスを、駐米大使の金溶植と同公使の孫章来(安企部)、そして全斗煥の親友である鄭鎬溶が訪れた。金溶植大使が席を外すと、鄭鎬溶特使は「金大中の問題は韓国の国内問題であり、米国の問題ではない。国内の問題については、韓国は自分で解決できる」と敢えて強気に出てみた。内政干渉をしないでくれ、という口ぶりだった。
するとアレンは、待っていたとばかりに言い放った。
「もし、あなたたちが金大中を殺すなら、とんでもない天罰が下ることになるでしょう」
鄭鎬溶は顔色を失い、その真意を繰り返し問うたが、アレンはそれには答えず、こう応酬した。
「(大韓民国の特殊戦司令官よ)あなたはとても強い人のように見えます。しかし、わたしにはかなわないだろう」
▽「大統領就任式後に会見」
断固としたそのいくつかの言葉で、勝負は決した。
意気消沈した鄭鎬溶は引き返して本国と協議した。翌日、再び出直し、(金大中を生かす代わりに)レーガン大統領の就任式に全斗煥を招待してもらいたいという妥協案を出した。
アレンは「米国の大統領の就任式には外国の元首は招待しない、ということを韓国政府は知らないのか。慣例上、就任式に招待することはできない」と答え、就任式の後、早い時期に会見の場を設けることはできると伝えた。それも、金大中の死刑判決が大幅に減刑されなければならない、という前提条件付きだった(グライスティーン元駐韓米大使の記録)。
金大中の減刑と全斗煥の訪米をめぐる交渉の細部は、アレンと孫章来公使が煮詰めた。
▽実務訪問
その間も米国は、全斗煥の気勢を削ぐようなことを繰り返した。
「外交儀礼上、外国の元首がワシントンを訪問する際には、直接ワシントンD.C.に乗り込むか、バージニア州のウィリアムズバーグに着陸することになっている。しかし全斗煥大統領はソウルからワシントンに直接入ることは許されず、まずロサンゼルスに寄港し、ニューヨークを経由してからワシントンD.C.に入ることになった。国賓晩餐会もなかった。外交儀礼上の国賓訪問ではなく、実務訪問(Working Visit)になるようにしたのだった。そして、全斗煥大統領との会見に先立ち、ジャマイカの首相がレーガン大統領と会い、それが新大統領への最初の訪問客となった」(元西江大経商学部長の金炳国教授)のだった。
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| 1981年2月2日、全斗煥はレーガン米大統領と会談した |
全斗煥の新軍部はそれほどまでに韓米首脳会談を切望していた。
「12・12反乱」で武力を使い、5月の光州を血で鎮圧して政権を奪取した新軍部にとって米国の信任、国際的な承認は国内、国外の両面において切実なものだった。それを得るためには、米国の新任大統領レーガンとの会談と、その場面を証明する写真がどうしても必要だった。
▽カーターのバックアップ
そこにすべてを賭けなければならなかった。
韓米首脳会談は「金大中の減刑(死刑免除)」が前提条件だった。
前任の米大統領カーターは回顧録の中で「われわれは韓国の金大中の命を救うためにカーター政権がそれまでに何をしてきたのかを、レーガン大統領に説明した。そして、レーガン大統領が全斗煥大統領にたいして金大中の生命を保証するよう、メッセージを送ったことに感謝の意を表する」と書いている。
訳:波佐場 清







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