第2章 反乱軍のピンチ、そしてチャンス
■南侵トンネル発見
第1師団長時代の全斗煥にとってラッキーだったことの一つに、南侵トンネルの発見がある。
北朝鮮が休戦ライン一帯でトンネルを掘っているという話が、逮捕されたスパイの口から出てきた。それで、全斗煥がその地域の師団長に赴任する数年前から、西部戦線一帯でトンネルを探すボーリング調査が続けられていた。しかし簡単には見つからず、トンネル自体、そもそもないのではないか、という懐疑論も持ち上がっていた。
前任の師団長である禹鍾淋は発見できず、苦労ばかりで離任していった。前任者の蒔いた種は、全斗煥のところに実となって転がり込んだのである。
全斗煥は「粘りと幸運のたまものだった。トンネルの有無に関する論争を抑え込み、最後まで米軍の掘削協力を得たことが功を奏した」と語った。その功労で「5・16民族賞」も受賞した。
▽独裁正当化の口実
トンネルが持つ政治的な意味合いは大きかった。
78年ごろ、米国のカーター政権は、人権弾圧を理由に朴正煕の維新体制に圧力をかけていた。朴正煕の核兵器開発を牽制し、在韓米軍撤退カードで脅すなど、韓米関係は激動の渦中にあった。外務部長官の朴東鎮までもが「ぎこちない関係(inconvenient relation)」と吐露していた時期だった。米国の政界やメディアでは、朴東宣によるロビー活動[韓国人実業家の朴東宣がKCIAの指示で米国会議員らに多額の賄賂を渡してロビー活動をした事件]や金炯旭の証言[元KCIA部長の金炯旭が米下院委員会でおこなった朴正熙政権の対米ロビーに関する暴露証言]といった「コリアゲート」で、韓国バッシングが流行っていた。
トンネルの発見は、そんな中にあって北朝鮮による南侵の企みを世界に知らしめ、維新独裁を正当化する口実にされた。朴大統領にとって「孝行息子の全斗煥」は、ありがたくないはずがなかった(許和平の回顧)。
▽幸運重なり、全斗煥の天下に
振り返ってみると、1979年は何かに取り憑(つ)かれたかのようだった。神がかりな運命のいたずらは、ほかにもあった。戒厳下や戦時には「保安司令部が中央情報部の上位に立つ」とする大統領令に朴正煕が署名を済ませたところで、「10・26」を迎えたのである。戒厳令下にあっては、保安司令部(合同捜査本部)が情報部や検察、警察などすべての捜査権力を統制することになっていた。このことは全斗煥にとって、まさに驚くべき幸運だった。
70年代後半は、情報部が圧倒的な力をふるった時代だった。
国防部と保安司令部は、前々から主張してきていた。「いくら情報部が捜査機関の調整権限を持っているからといって、戒厳令下や戦時にあっては当然、軍令権者の諮問・参謀としての役割にとどまるべきだ」というのである。正論だった。しかし、情報部のパワーに押されて苦汁をなめるばかりで、進展はなかった。ところが79年3月に全斗煥が保安司令官になり、朴正煕の信任を勝ち得たおかげで、朴正煕は亡くなる間際に、この大統領令改正案に署名していたのである。
こうして戒厳令下、合同捜査本部長となった全斗煥の天下が来たのである。
▽「朴正煕の遺志」
「(大統領を暗殺した)犯人は中央情報部です」
「10・26」の翌27日、軍・検察・警察からなる合同捜査本部で発した全斗煥の第一声がこれだった。
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| 「10・26」事件について発表する合同捜査本部長の全斗煥保安司令官=1979年10月28日 |
すべての捜査機関を保安司令部の下に服従させ、その「捜査権力」によって、上官である鄭昇和戒厳司令官まで急襲して軍の主導権を握ることができた。そして、80年には戒厳令を全国に拡大する「5・17クーデター」によって政権まで奪取した。この保安司令部への捜査権力一元化こそが、朴正煕の遺志だと新軍部が言い張るポイントなのである。全斗煥もまた、「朴大統領は、ご自身の最期とその後のことをわたしに託そうとして、あんなにも早く、わたしを保安司令官に任命されたのだなあ、と思うと、因縁の恐ろしさを感じた」と言っている。(『全斗煥回顧録』)
▽経済を勉強
全斗煥が経済を勉強していた、というのも突飛な話だ。
79年3月に全斗煥が保安司令官になって何カ月かすると、唐突にも経済を勉強すると言い出した。経済科学審議会事務局長の朴鳳煥(のちに財務部次官、動力資源部長官)を三清洞入り口の保安司令部にこっそりと呼んで経済を教えてほしい、と願い出た。
「経済を知らなくては軍の情報機関も務まらないと思うようになりました。先生は財務部で理財局長もやられ、大統領閣下の信認も厚い。わたしに経済をすこし教えていただけないものでしょうか」
軍の将官にしてはすこし入れ込み過ぎといえる、この経済学習の意欲はどこからきたものかは謎である。
どうして朴鳳煥だったのか? 彼は、のちに盧泰愚政権の経済首席秘書官となる金宗仁の義弟だが、全斗煥とのつながりは、なかなか思い浮かばない。
エコノミストの李璋圭(元中央日報編集局長)の解説――。
「経済科学審議会常任委員長の張徳鎮が推薦したのだ。朴正煕大統領は大きな経済イシューが生じると、経済企画院、韓国開発研究院(KDI)、韓国銀行、経済科学審議会の4カ所から報告を受けて最終決定を下した。張徳鎮委員長が率いた審議会に朴鳳煥は、生え抜きの財務官僚として派遣されていた。それで、全斗煥司令官は張徳鎮に頼み、張が朴鳳煥を推薦したというわけだ」
▽バタフライ効果
全斗煥の経済勉強――。スパイを捕まえる保安司令官には似つかわしくない向学心だが、後日、かれ自身と第5共和国に大変なバタフライ効果を生むことになる。
全斗煥は一生懸命に勉強したという。
朴鳳煥は週に2回ほど保安司令部を訪れた。そうして、経済政策とは何であり、物価の安定がどうして重要なのかを教え、「インフレはヒトラーの養子」だとか、「資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだ」(レーニン)といった比喩で、この軍人の頭に経済学を植え付けた。
これが、全斗煥が第5共和国の期間を通して、物価の安定に異常な執念を持つことになったきっかけである。
こうして始まった経済の勉強だったが、その後、家庭教師として金在益、金基桓、司空壹、車秀明、劉甲寿らが登場してくる。かれらは後に全斗煥政権の「経済ブレーン」として抜擢され、経済首席秘書官(金在益)、KDI院長(金基桓)、商工部次官補(車秀明)、金融通貨委員(劉甲寿)などを務めることになる。
訳:波佐場 清





