■新党づくり
大統領の選出方法についての話し合いは長引いた。許和平は「直接選挙で、国民的な祝祭ムードの中で選ぶのがよい」と強く主張した。すると、盧泰愚は「社会が安定してからでないと直接選挙はできない」と間接選挙にこだわった。全斗煥が間接選挙の方に軍配を上げ、許和平を抑え込んで決着させた。
▽国会議員選は1区定数2、兼職も容認
国会議員選挙は1区につき定数2でいくことにした。朴正煕時代に柳赫仁・政務首席秘書官が、総選挙の過熱化を防ぐために検討していた案がそのまま採用された。維新政友会[朴正煕政権下、選挙を経ずに大統領の任命で国会議員になった者たちの会派]を廃止して比例代表制を導入することにしたが、第1党に有利な配分とした。
比例代表の議員には、政治屋や無職のならず者ばかりでなく、専門職も進出させるという趣旨から兼職も認めることにした。待遇は名誉職とし、次官補クラスと定めた。
この日の会議では、年内に憲法改定を終え、新憲法に基づく政治日程を1981年から始めていくことも決めた。
▽全斗煥の後継は盧泰愚
これに伴って、新党の組織づくりも急がなければならなかった。
全斗煥は「党組織づくりでは、とくにソウルと全羅道を念頭に置くように」と指示して急かせた。李鍾賛はこうした過程を見守りながら、政権奪取に向けた準備が早くから進められてきていたものと確信した。
新軍部は政権奪取へ向けて加速のペダルを踏んだ。
全斗煥による国保委(国家保衛非常対策委員会)の掌握と、兪学聖の中央情報部長就任(7月18日)。それによって、もはや「お飾り」となった崔圭夏を大統領から引きずり下ろし、全斗煥がそれに代わって権力の座に就く「戴冠式」まで、あと1カ月となっていた。そのころ(80年6月27日)にはもう、全斗煥が任期を終えれば盧泰愚が後を継ぐ、という方針も新軍部の有力者の間で決められていたと後日、兪学聖は李鍾賛に語っている。
▽「3金討伐」
金泳三についても、最後の障害物として片づけておかなければならなかった。
金大中は内乱陰謀ですでに収監した。金鍾泌は不正蓄財で政界を引退させ、葬り去った。
7月30日、李鶴捧大佐は、保安司令官の全斗煥に呼び出された。情報処長の権正達を傍らに座らせておいて全斗煥は命じた。
「金泳三とは、慶南高校の同窓なんだから、政治活動をやめろ、と言ってもらわないと、な。上道洞[金泳三の自宅のある場所で、金泳三陣営の代名詞として使われた]と連絡を取り、『金大中も金鍾泌も捕まったというのにYS(金泳三)だけが活動を続けているというのもちょっとヘンに思われるから、自ら潔く引退するのがいいのではないか』と、そう言ってみろ」
李鶴捧は、上道洞の秘書の文正秀(のちに国会議員、釜山市長)と会った。
二人は慶南高校の同期だった。文秘書に全斗煥の指示を伝えて、金泳三に政界引退を進言してもらいたいと頼んだ。すると、金泳三は文秘書を通して「数日間、猶予がほしい」と答えてきた。
何日か待ったが、返事がない。気が急(せ)いた李鶴捧は、再び文正秀を問い詰めた。すると、8月13日、政界引退が発表された。
「3金」[金泳三、金大中、金鍾泌]の討伐が完結した。
▽新党の「顔」に元野党幹部
次は、新党の「顔」をだれにするか、だった。
李載灐[イ・ジェヒョン(이재형)/1914~92/日本の中央大卒。野党幹部の経歴もあった]を推したのは晋州(慶尚南道)出身の政治家、安秉珪[学生運動のリーダーから記者を経て金大中の秘書も務めた。のちに長男の安祥勲は尹錫悦政権の首席秘書官]だった。当時、保安司令官だった盧泰愚[全斗煥の後任として1980年8月~81年7月、保安司令官を務めた]の「9・9人脈」(盧泰愚が指揮した第9師団、第9空挺旅団出身)の安秉浩大佐が保安司令部秘書室長として権勢を振るっていた時期である。安秉珪はそんな安秉浩の従兄で、李載灐に仕えたことがあった。
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| 民正党の「顔」となった李載灐(左)と推薦した安秉珪 |
盧泰愚がその提案を受け入れて全斗煥に上げたため、有力候補として名前が挙がっていた高麗大総長の金相浹や李用熙[国際政治学者、朴正煕政権で国土統一院長官などを歴任]といった学者らは、外された(金相浹は2年後に国務総理に起用された)。
▽標的に大学総長
金相浹にまつわるエピソードがある。
1980年8月、保安司令部秘書室長の許和平が、同情報課長の韓鎔源を呼び出して指示した。
「近々、国保委の立法会議(5共の憲法改正案を確定させる機関)を発足させるが、主要大学の総長を参加させなければならない。高麗大の金相浹総長と延世大の金明会総長をうまく取り込むんだ」
流血の軍事クーデター政権であっても、体裁は整える必要があった。名士や文化人、学者たちが支持する政権であるかのように見せかけなければならない。刀を輝かせるには、鞘(さや)も華麗でなければならなかった。
韓鎔源課長は慎重に2人の大学総長に近づき、提案した。
しかし、2人は共に、一言の下に拒絶した。血を流した全斗煥将軍の走狗とみなされるのはご免だ、ということだ。
▽主要大学の総長全員が協力
「なら、ほかに何か、いい知恵はないものでしょうか」
韓鎔源が金相浹総長にすがるように尋ねた。すると、一つのアイデアをくれた。
「何人かの総長と交渉するんだったら、いっそのこと主要5大学[ソウル、高麗、延世、梨花女子、西江大学]の総長全員を一人残らず選ぶというのはどうだろうか。そういうやり方をすれば、反対する人など、出てくるでしょうか」
金相浹は「托鉢僧に施しは与えられないまでも、托鉢の鉢を割るようなことはするな」[韓国のことわざで、「与えることはできなくても、人を傷つけたり、困らせたりしてはいけない」という意]とばかりに政治学者らしい知恵を授けた。
韓鎔源は快哉を叫んで許和平に報告すると、許もやはり「卓見だ」と膝を打った。こうして主要大学の総長たちを前面に立てて学界の立法議員13人が誕生したのだった。
▽大物政治家
9月初め、青瓦台の全斗煥大統領から、李載灐を新党の代表として検討しろとの指示が保安司令部の権正達に下った。権は李鍾賛に「李載灐を知っているか」と聞いた。
「知っています。大林産業を創業した李載濬の兄で、わたしの友人の李埈鎔[当時、大林産業社長]の伯父にあたります」
李載灐は、京畿道始興出身の制憲議員[1948年に韓国の憲法を制定した最初の国会議員]で、自由党時代[李承晩政権下]に商工部長官を務めていた。西北青年会出身、朝鮮民族青年団[解放直後に結成された極右団体]系の首領だった李範奭将軍[1900~72/独立運動家。日本の統治下、中国で組織された臨時政府の光復軍で参謀長を務め、解放後、初代国務総理兼国防部長官]と近く、自由党が李範奭を排除すると、彼といっしょに野党に転じた。その後、1972年に維新クーデターが起こると政界を引退し、野に下っていた。
権正達と李鍾賛は2人で、ソウル社稷洞の自宅へ李載灐を訪ねた。かれは、老練かつ緻密な「プロ」だった。全斗煥から与えられた抱き込み工作の任務に追われる権正達が、焦ってタバコを取り出して口にくわえると、ライターを出して火をつけてやりながらも最後まで、走り使いの彼らがせっかちに求める回答を示さなかった。
▽直談判
李載灐は、あれこれ余計なことは言わず、全斗煥大統領に直接会わせろ、というのだった。
のちに、李載灐は全斗煥大統領と会い、談判するかのようにこう聞いた。
「わたしがお役に立てるとすれば、民主主義だけだが、閣下はほんとうに民主主義をなさるおつもりでしょうか」
全斗煥は、こう答えた。
「まさに、そのことです。この地に民主主義を植え付けたいのです」
この面談が終わったところで、新党の顔が確定した。
訳:波佐場 清






