■首都警備司令官しのぐ権勢
大隊長の全斗煥は引き下がらなかった。
堂々と大きな態度で、時の実力者である朴鐘圭警護室長のもとを訪ねていった。朴正煕大統領を後ろ盾に持つ全斗煥中佐は、朴鐘圭に兄貴分のように仕えていた。遠慮することなど、なかった。尹必鏞事件のとばっちりで、あわや軍服を脱がされかねない危機に陥った時も、「兄貴」の朴鐘圭がかばってくれた。そのおかげで、軍で生き残ることができていたのである(恩返しとして朴鐘圭は80年代、IOC委員としていい思いをさせてもらうことになる)。
「砲兵出身の大統領閣下ならきっと、お分かりいただけると思います。81ミリ迫撃砲を配備し、有事の際には照明弾を撃てるようにしてください」
朴大統領は許可した。大隊長の権勢が首都警備司令官をしのいだのである。
▽北のゲリラ、青瓦台に迫る
その日から第30警備大隊は毎日30分間ほど、迫撃砲の発射訓練をおこなった。部隊員らは大変な思いをしたが、全斗煥中佐は「いざという時は寝ていても飛び起き、まず照明弾を撃て」と厳しく訓練した。
案の定だった。
1968年1月21日、武装共産ゲリラの金新朝一味が潜入してきた。ひそかに休戦ラインを突破し、ソウル西部の恩平区にある津寛寺の野山を越え、夜の闇にまみれて低く匍匐しながら青瓦台の裏山にまで迫ったのだ。武装襲撃部隊である。
その日、全斗煥大隊長は久しぶりにいったん早く帰宅したが、また、部隊に戻っていた。その間、非常がかかって何日間も苦労しっぱなしの部隊員らをねぎらうために酒とつまみを用意し、大隊長室に部下たちを呼んで一杯やろうとしていた、まさにその時に突然、銃声が響いた。
紫霞門[青瓦台のすぐ北西の北岳山にある彰義門の別名]の哨所付近で、鍾路警察署警部の崔圭植(殉職後、警視長に追叙)らの班と金新朝一味の間で、銃撃戦が繰り広げられたのである。
▽訓練通りに照明弾
第30大隊の砲撃手らは、照明弾を撃ちあげた。
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| 実況見分で、同僚の遺体を確認する金新朝(中央) |
訓練通りだった。青瓦台裏の北岳山一帯がパーッと明るくなり、武装ゲリラたちは仰天して逃げた。警備部隊はその日、現場で5人を射殺、その後10日余りにわたって軍と警察が協力して28人を殺害、金新朝の身柄を確保した(そんななかにあっても、武装ゲリラ3人は北へ逃げ帰ったと見られている。そのうちの1人、パク・ジェギョン(박재경)は1985年、南北会談でソウルへ北側代表団の随行員としてやってきた。鉄条網の地雷畑を匍匐で北に戻り、こんどは車で、板門店経由で韓国に来たというわけである)。
▽朴正煕夫人が直接、感謝
陸英修女史[朴正煕大統領夫人]が直接、電話をかけてきて恩人の全斗煥に感謝の言葉を伝えた。
朴正煕はその後、この殊勝な全斗煥の部隊を前触れもなく、いきなり訪ねた。
まだ薄暗い明け方、全斗煥中佐と部隊員は、上半身裸で練兵場を走っていた。朴大統領は「部隊のふろ場をちょっと見せてくれ」と言い、ざっと見まわった後で、こう言った。
「まったくひどいな」
朴大統領は、警備大隊の建物の壊れた部分と浴場施設を特別予算で補修してやった。
▽運命変えた出会い
1969年、全斗煥は第30警備大隊長から、徐鐘喆参謀総長の首席副官に異動した。
参謀次長の盧載鉉である(10年後の79年の「12・12」、つまり「ハナ会」による反乱のその日、盧載鉉は決定的なカギを握る国防部長官という立場にいて、全斗煥ら反乱軍の側に立つことになる)。
参謀次長と参謀総長の部屋はくっ付いていて、盧載鉉と全斗煥は毎日、顔を合わせていた。釜山近郊の馬山(盧載鉉)と慶尚南道陜川(全斗煥)という同郷、つまりPK[釜山地域(P)と慶尚南道地域(K)のこと]の2人は兄弟のように親しくなった。
この時点ですでに、徐鐘喆-盧載鉉-朴熙東(陸士3期)-全斗煥とつながる濃密な軍人脈ができ上っていた。
これが10年後、1970年代後半の維新末期に、参謀総長の人事をめぐって妙な具合になった。結果から言うと、鄭昇和[全斗煥らのグループと対立関係にあった]が79年2月1日に参謀総長になった時点から、目に見えない権力衝突の火花が飛び散っていた。そんなしこりが、その年暮れの「12・12反乱」につながっていったのである。
▽朴煕東vs鄭昇和
李世鎬参謀総長[ベトナム派兵軍司令官などを経て75年3月~79年1月、参謀総長]の後任をめぐって暗闘が繰り広げられた。
国防部長官の盧載鉉[参謀次長から参謀総長を経て77年12月から国防長官]は、第3軍司令官の朴煕東を参謀総長に推した。陸士3期の同期であり同郷という、特別に親しい間柄だった。朴煕東は、慶尚南道密陽の出身だった。
「閣下! 陸士2期の李世鎬総長の後任には、3期の朴煕東が行くべきではないでしょうか」
盧載鉉長官が朴正煕大統領に報告する際、たまたま、そこに秘書室長の金桂元が居合わせた。金桂元は、2人の人事をめぐるやり取りに、席を外そうとしたが、大統領はそのまま座っていろ、と言うものだから同席した。
盧載鉉長官は、朴煕東一人に絞って推薦していた。
大統領はあまり乗り気でない様子だった。金桂元は、砲兵の後輩でもある盧載鉉長官に言った。「閣下に推薦を申し上げるのなら、複数の候補を示すべきではないのか」
すると、盧載鉉長官は鄭昇和のカードを出した。大統領は「そっちの方がいいな」と言って、鄭昇和を指名した。金桂元氏が推測するに、盧載鉉長官はすでに車智澈警護室長との間で「朴煕東参謀総長」で一致しており、それで、一人だけの推薦となったようだというのである。
▽鄭昇和参謀総長
金載圭-金桂元-鄭昇和
車智澈-盧載鉉-朴煕東
このような対決構図のなか、金桂元はこう主張した。
「閣下! いまの陸軍参謀総長の李世鎬は陸士2期なので、3期(朴煕東)が後任になるのは間違ってはいませんが、同じ3期の盧載鉉長官はすでに参謀総長をやっているではありませんか。5期(鄭昇和)への世代交代が必要です」(3期と5期の間の4期は1948年の麗順反乱事件のあおりで、とくに人材はいなかった)
鄭昇和は陸士の校長をしていて朴大統領の息子の朴志晩[陸士37期]の面倒をみるなど、朴大統領の信認が厚いTK[大邱地域(T)と慶尚北道地域(K)]の人物(慶尚北道金泉出身)だった。
こうして鄭昇和陸軍参謀総長が誕生する。
▽「二重の立ち回り」
自ら描いた人事構想がひっくり返された車智澈は、頭をひねった。
部下の李在田中将(警護室次長)を呼び、盧載鉉長官が鄭昇和本人に参謀総長任命を正式に伝える前に、鄭昇和に直接電話をして次のように祝ってやれ、と命じた。
「当然、鄭昇和参謀総長で決まりなのに、盧載鉉長官が朴煕東を推すだなんて、お話にもなりません。大統領閣下が快く鄭総長を選ばれたとのこと、何よりです。ほんとうにおめでとうございます」
車智澈の裏表のある「二重の立ち回り」だった。
車智澈からこのような伝言を聞いた鄭昇和は「警護室長は、国防長官と参謀総長の間を裂こうとしている」と感じたという。もちろん、警護室次長からの電話を受ける前に鄭昇和は、金載圭情報部長から、恩着せを兼ねた「ホンモノ」の祝賀の電話をもらっていた。
▽ベトナムの戦場へ
全斗煥は1970年、ベトナム戦争に参戦した駐ベトナム白馬部隊第29連隊長になった。
徐鐘喆参謀総長の首席副官からベトナムに赴任するにあたって全斗煥は、自分の後任に友人の盧泰愚を指名して進言した。しかし、徐鐘喆総長は「盧泰愚はきびきびしておらず、瞬発力も劣る。首席副官には向かない」と手を左右に振って強く拒んだ。
すると、全斗煥は隣の部屋の参謀次長盧載鉉のところへ行き、盧泰愚への援護射撃を頼んだ。
「同じ盧氏同士なのだから徐総長を説得し、なんとか盧泰愚を引き受けるよう、助けてやってください」
訳:波佐場 清




