■「大法院など、大砲で吹っ飛ばしてしまえ」
朴正煕大統領を殺害した金載圭(元中央情報部長)への内乱罪適用に異議を唱えた大法院判事6人はいったん、新軍部の粛正圧力をうまくかわしたかにも見えたが、金大中の内乱陰謀事件の裁判が目前に迫ると、新軍部の態度は変わった。
6人の判事を大法院にそのまま残した状態で、金大中にたいして内乱陰謀罪をでっち上げるのは無理だった。
▽判事を連行、拷問
1980年7月末から6人の判事にたいし、辞表を出すよう露骨に圧力をかけ始めた。
しかし、判事たちはおとなしく引き下がらなかった。
そのうちの一人、梁炳皓判事は、辞表の提出を拒否して夏休みに出かけた。
8月3日夜、自宅に戻って夕食をとっていると、2人組の暴漢が押し入って来て梁判事を連れ去った。夫人は泣き叫びながら李英燮大法院長に「大変なことになった」と訴えた。行方不明になった梁判事は、悪名高いソウル西氷庫の保安司令部分室で拷問を受けた。暴行とともに「おまえが法服を脱ぐまでこの件は収まらないんだ」と脅され、白紙の用紙に辞表を書かされた(梁炳皓氏が1996年7月8日、「12・12および5・18事件」の第20回公判でおこなった証人陳述)
▽辞表提出
保安司令部が力づくで書かせた辞表が、法院行政処長の徐壱教のもとへ送られた。
徐処長は李英燮大法院長に「院長が辞表を受理してくださらないと、梁炳皓判事は釈放されません」と言って、梁判事が自筆で署名した辞表を突き出した。李英燮大法院長が辞表を受理して1時間ほどすると、梁判事は釈放されて大法院長室に現れた。
梁判事は力なく笑いを浮かべながら、ほんとうに何事もなかったというふうにコーヒーを飲もうとした。コーヒーは口に入らず、胸元やワイシャツを濡らした。しかし、梁判事はそのことに気付いてすらいなかったという。目の焦点が定まっていなかった。
酷い目に遭わされて戻ってきたのである。
梁判事だけではなかった。「少数意見」を出した他の判事――閔文基、任恒准、金潤行、徐潤弘の4人も辞表を叩きつけて法服を脱いだ。かれらは8月9日、「依願退職」という形で大法院を去った。梁炳皓らは弁護士開業すら思うに任せず、その秘書や運転手までもが、「浄化」の名のもとに首を切られた。鄭泰元判事はこの時は辞表を出さなかったが、翌81年4月、第5共和国憲法に基づいて大法院が再構成された際、再任用から脱落したのだった。
▽「全判事の自宅を調べておいた」
全斗煥率いる保安司令部が大法院を暴力で制圧した1980年8月末、全斗煥は「新時代の指導者」を自任し、大統領の座に就いた。
全斗煥は、李英燮大法院長が挨拶がてらに青瓦台に赴くと、「金載圭事件の処理を大法院があんなに遅らせてしまったせいで、光州で起きた、あのような予想もできなかった国家的騒擾が起きてしまった」と浴びせかけた。
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| 全斗煥(左端)の大統領就任祝いで、李英燮大法院長(全斗煥のすぐ横)は青瓦台を訪れた=1980年9月 |
▽司法府ならぬ「司法部」
そのような「暴力政治」のなか、司法府は「司法部」[部は、省庁の意。韓国語ではともに사법부となり、同音の「司泡部」も連想させる]も同然だった。
これは李英燮大法院長の「退任の辞」のなかに出てくる表現だが、司法府が新軍部の一行政部局のようだったという自嘲的な造語だった。かれは「司法府トップのポストを引き受けるときは抱負や理想も大きく、高かったが、いま、過去を振り返ってみると、すべてが悔恨と屈辱にまみれたものでした」と回顧した(1981年4月15日の「退任の辞」)。
1981年1月23日、大法院は「金大中内乱陰謀事件」の上告審において、「全員一致」で被告12人の上告を棄却し、金大中の死刑が確定した。
▽レーガン当選に欣喜雀躍
ここで、いまいちど、2審で「死刑」の判決が下された1980年11月3日に戻ろう。
その2日後の11月5日、金大中にとっては死刑判決以上に落胆させられ、絶望的になることが起きた。
米国の大統領選で「人権大統領」のジミー・カーター(民主党)が敗北し、ロナルド・レーガン(共和党)が当選したのである。
青瓦台では「スリー許」が、レーガン当選の報に机をたたいて欣喜雀躍し、万歳を叫んだ(グライスティーン駐韓米大使がワシントンに送った報告)。
「レーガンが勝った」
保守派のレーガンが勝ったということはそのまま、「癌(がん)的存在」である金大中の処刑を意味した。
もう、米国の人権問題への口出しに気遣う必要はない。「障害物」の金大中を処刑し、思い通りにやれる――。5共の実力者たちは歓喜に沸いた(グライスティーンが後日、米国で金大中にそう語った)。許和平も、金大中は米国の介入がなければ死んでいただろうと記録している。
訳:波佐場 清




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