2026年6月8日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(27)

  送還決裁の日、大統領暗殺

ベトナムに抑留されていた李大鎔公使らの釈放が韓国側に伝えられたのは19791026日――まさに、その日の朝のことだった。

 李鍾賛は電文を情報部の尹鎰均・海外次長に報告した。情報部は噂になることを心配し、外務部に電文の配布を止めさせた。外務部の金太智アジア局長[のちに駐日大使]にも、特別な保安措置を取るよう求めた。

南ベトナム大統領グエン・バン・チュー(左)と李大鎔公使

 ▽「機密事項」

 報告を受けた金載圭部長は、満足そうな表情を浮かべた。

 朴大統領が大いに満足すると思える内容だった。

 ところがまさにその日、1026日の夜に朴正煕は金載圭の銃弾を受けて亡くなり、金載圭は暗殺犯として逮捕されたのである。統治ラインの、この不測の事態によって李大鎔救出作戦は宙に浮いてしまった。

 情報部の幹部たちがごっそり捕まり、反逆容疑で取り調べを受ける。

 李鍾賛は、「1212反乱」によって全斗煥の新軍部が実権を握った後も、この機密を李熺性部長代理(戒厳司令官)[朴正煕が暗殺された後、陸軍参謀次長だった李熺性が中央情報部長代理になり、その後さらに参謀総長となって戒厳司令官を兼務していた]にすら報告しなかった。ただ、抑留された3人の身に何ごとも起こらないよう、東京の工作ラインに頼んでおき、時が来るのを待っていた。

 ▽全斗煥に報告

 そんななかで7912月下旬、保安司令部に電話をかけ、全斗煥司令官との面会を求めた。

秘書室長の許和平大佐は何ごとかと気をもんだが、「司令官にお会いしたあとで説明したい」と答えた。陸士17期で李鍾賛より1年後輩の許は、あっさりと引き下がった。全斗煥は李を歓待した

 「李鍾賛、久しぶりだな。元気にしていたのか?」

李鍾賛は李大鎔に関する一部始終を説明した。全斗煥もベトナム戦争で派兵された韓国軍の白馬部隊第29連隊長をしていたので、李大鎔のことはよく知っていた。

 「で、ワシにどうしろというのか」

 李鍾賛は、獄中の金載圭部長に会わせてほしい、と頼んだ。朴正煕大統領に報告することにしていた事案だったので、その日、どんな方針が下されていたのか、知っておかねばならなかった。

 ▽権力掌握を直に確認

 「金載圭との面会はダメだ」

 それなら、報告書のファイルだけでも捜さないといけない、と李鍾賛は食い下がった。というのも、情報部は「保安維持のため」と言って、李鍾賛にさえ、そのコピーを持たせないようにしていたからだ。

 全斗煥は、状況をよく把握してからまた、連絡すると答えた。

 そう言いながら、崔圭夏大統領にも報告しなければならないので、この間のことを詳細に書いた報告書を一つ作ってくれ、と言った。

その面談の15分ほどの間にも、全斗煥はひっきりなしに電話を受け、対話が途切れたりもした。長官をはじめ主要幹部からの電話が相次ぎ、人事の問題であれ、政策の決定であれ、全斗煥はすでに権力の中心に確固として上り詰めていることを、李鍾賛はその目で直接、確認した。

ファイルは南山の部長の寝室横の書類箱にあり、詳しいことは秘書室長の将官金甲洙が知っているとのことだった。合同捜査本部が獄中の金載圭から聞き出した情報であることに間違いない。

▽外交ルートと工作ルート

崔圭夏大統領はこの件を公式外交ルートで解決しようとした。

外交官出身でもあり、アイゼンバーグにはよくない先入観もあった(のちにアイゼンバーグに産業勲章の授与が決まってからも崔大統領は会うのを嫌がり、全斗煥が代わって授与した)。

朴東鎮外務部長官が乗り出し、中立国であるスウェーデンの外交ルートを使って交渉を進めた。李鍾賛は、アイゼンバーグの工作ルートとスウェーデン・ルートがぶつかって交渉が決裂するのではないかと心配したが、ベトナムは意外と賢明だった。

表向き中立国スウェーデンの顔を立て、実際にはアイゼンバーグの要求を呑むやり方を取ったのである。

▽無事生還

こうして80412日、サイゴン(ホーチミン)のタンソンニャット空港で、大団円の幕が下りる。

韓国政府の要請でベトナムを訪れたスウェーデンの外務次官、そしてアイゼンバーグ・グループのハノイ支社長らの一行が、李大鎔、徐丙鎬、安熙完の3人をアイゼンバーグ専用ジェット機に乗せてソウルに向かった。

そして、それから2日後の4月14日、全斗煥は中央情報部長代理を兼任することになる。

李鍾賛はこうして偶然にも「サイゴン抑留事件」に巻き込まれたことで全斗煥との縁ができ、のちに民主正義党(民正党)結成の秘密の産婆役となり、政治の舞台にデビューしていったのだった。

                         訳:波佐場 清

2026年6月5日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(26)

  李鍾賛、全斗煥と会う

 ここでしばし、中央情報部の国際局副局長(理事官)だった李鍾賛が新軍部による新党結成に巻き込まれていった経緯について、本人に聞いてみよう。

 民主正義党(民正党)結党の主役となった李鍾賛は、陸士16期だが、もともと全斗煥とは、これといった縁はなかった。陸士を出て中央情報部に公募採用1期生として入り、主に海外部署で勤務していたからだ。全斗煥を取り巻いて「ハナ会」がのさばっていることには反感も覚えていた。

 ところが、人生、分からないものである。奇妙な縁から、そこに巻き込まれていった。

李鍾賛氏は現在、独立運動に関わった人たちの子孫らでつくる「光復会」の会長を務めている
=光復会
HP

 1979年春、中央情報部の海外関連部署にいた李鍾賛に一本の電話がかかってきた。

 組織のトップ金載圭部長の随行秘書、朴興柱大佐からだった。

 ベトナム抑留の韓国公使

 ソウル里門洞の庁舎にいた李鍾賛は、内密に南山の部長室に立ち寄るように、との秘密指令を受け、「市内に用事がある」という口実を設けて金載圭に会いに行った。

それより4年前の75430日、サイゴン(現在のホーチミン)陥落の日に現地脱出に失敗して抑留された情報部の李大鎔公使に関する話だった。

 北ベトナム軍によるサイゴン制圧後、逮捕された李大鎔公使、安煕完書記官(情報部員)、徐丙鎬警務官の3人は、危うく北朝鮮に連れて行かれそうになった。ベトナム共産党は朝鮮労働党と兄弟党の関係にあり、朝鮮労働党3号庁舎(韓国の中央情報部にあたる)要員のクン・サンヒョン(궁상현)らが現地に乗り込んできて平壌に連れて行こうと執拗に懐柔、説得した。しかし3人ともそれを拒み、最後まで耐え抜いた。

 3人はチーホア刑務所に収監され、漁網を編む労働の日々を送っていた。

 情報部は、行方が分からなくなった3人の消息を聞いて回っているうちに、サイゴン駐在のフランス大使館を通して現地に残留していた居留民会長の李順興と連絡がとれた。

 その李順興を通して李大鎔と接触することができた。李大鎔は漁網を編んで余った紐(ひも)で小さな籠を一つ作り、そこに救いを求めるメモを忍ばせてソウルに送っていた。

 ▽救出作戦

 金載圭部長は、李大鎔からのそんなメッセージを朴正煕大統領に見せると、朴大統領は目に涙を浮かべながら言った。

 「どんな代償を払ってでも、3人を救出しなさい」

 金載圭の情報部に非常がかかり、外交ルートを通した送還交渉が始まった。タイのベトナム大使館の門をたたき、「戦後復興に必要な物資を支援する」という餌を撒いた。結果、前向きの回答を得た。ただ、「友邦(北朝鮮)の同意が必要」という但し書きが問題だった。

 南北関係が最悪の時期だった。72年の「74南北共同宣言」は破綻し、韓国はインドシナ半島の共産化で緊張していたところへ、さらに――これは後で明らかになったことだが――北朝鮮が休戦ライン一帯で南侵トンネルを掘っていた時期でもあった。

 ▽南北間の協議

 統一ベトナム政府は「北朝鮮が要求する、韓国に収監されている非転向囚を北に返すなら3人を解放してやることができる」と提案してきた。非転向囚送還のためにベトナム政府の仲介で南北間の当局者協議を開け、というのである。

 非転向囚の送還をめぐる協議が始まった。

 北朝鮮側はなんと500人もの名簿(すでに亡くなった人物まで含まれていた)を突きつけてきたが、押し問答の末、11人にまで絞り込まれた。しかし、話し合いはそれ以上、進展しなかった。

 ▽大物ロビイスト

 79年春、金載圭部長が李鍾賛を呼んで指示したのは、イスラエル国籍の国際ロビイスト、シャウル・アイゼンバーグ(オーストリア生まれ)を通じた秘密工作だった。

 この人物はテルアビブに事業拠点を置くユダヤ人で、専用機で世界中を飛び回って大型プロジェクトを仲介し借款の斡旋をおこなう、有名なやり手だった。慶州市の月城原発1号機の加圧重水炉(CANDU)導入を仲介し、韓国の財閥トップらとも深く通じていた。

 李鍾賛は情報部内で、非常に居心地の悪い立場となった。

 李大鎔の問題を、指揮系統上の直属の上司である局長には内密にしてトップの情報部長と直にやり取りをしようというのだから、周りの目が気になった。まるで人事の面で取り入ろうとでもして部長室に出入りしているかのように誤解され、監察室で身辺調査をしているという話まで聞こえてきた。

 そうしているうちにタイ駐在の韓国大使館から朗報が届いた。

 ベトナムの外交担当国務相が駐タイ韓国大使に、こう話したというのである。

 「韓国市民(citizen3人の釈放はもう、時間の問題だ。オーストリア人のアイゼンバーグを通して連絡する。このことについては最大限の保安を維持してほしい」

                          訳:波佐場 清

 

2026年6月2日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(25)

 第4章 「死即生」に、崔圭夏「ノー」

 情報部の予算120億ウォン

 19804月初旬、全斗煥を担ぎ上げる動きが本格化していたある日、青瓦台の秘書室長、崔侊洙が首席秘書官会議で、こう問いかけた。

 「全斗煥保安司令官が中央情報部長を兼任したいと要請してきているが、意見を聞きたい」

 ▽保安司令官と中央情報部長の兼任

 情報機関と権力機関は互いに牽制し合うべきものだというのが常識なのに、それを一手に握ろうというのか。まして現役軍人(将官)の情報部長兼任は、法のうえからも制限されている。政務首席秘書官の高建は、きっぱりと言い切った。

 「法的に許されません」

 ほかの首席秘書官らの意見も似たようなものだった。もちろん、崔侊洙室長がそんなわかり切ったことを知らずにいたはずがない。

 軍のトップも反対論

崔侊洙は、戒厳司令官[陸軍参謀総長が兼務]の李熺性に「内密に相談したいことがある」と連絡をとった。

「全斗煥保安司令官(合同捜査本部長)が、空席になっている中央情報部長を兼任したい旨を大統領閣下に進言されました。どう思われますか」

李熺性は初めて聞く話に驚いた。

そうでなくとも、少将の全斗煥が中将に昇進させてほしいと言うので苦労させられていた。また、全斗煥の「お出まし」時には、まるで大統領にでもなったかのように警護隊を派手に連れ回すのにも神経をとがらせていたところだった。断固とした口調で、きっぱりと反対した。

 「二つの情報機関を一人の人間が兼任し、一手に握るのは不適切です」

 801月、新しい年が明けてからというもの、少将だった全斗煥は、中将の階級章を付けたがった。実権に見合った権勢をふるいたかったのである。言いなりになっている周永福・国防部長官や趙文煥次官を前面に押し立てて中将への進級をしつこく迫った。

 国防部長官と次官が戒厳司令官の李熺性を説得したが、断わられた。「名分の立たない進級はなりません。第1師団長を終えてから、まだ1年にもなりません。軍全体のバランスがとれないではないですか。いくら保安から捜査、情報までを統括する業務を担っていることを名分にしているからといって、少将であれば、それで十分であり、中将に補するのは時期尚早です」

 李熺性としては他の将官たちの厳しい視線も意識せざるを得ない。

 ▽お手盛り昇進

 陸軍のトップとしては、最低限の服務期間も満たしておらず、戦時や非常事態でもないのに、特別な功績もない者を異例のスピードで昇進させるわけにはいかない。公平性の問題だ。参謀総長のメンツの問題でもある。他の将官たちに申し訳も立たない。

 焦った全斗煥は、自ら李熺性のもとへ訪ねていって、しつこく迫ったが、李熺性は、はねつけた。そのように2度、3度と、がんばったものの、限界があった。全斗煥はあちこちを突き回し、とうとう31日、「お手盛り中将」の座に登りついたのである。

「お飾り司令官」(のちの金泳三政権下での「1212反乱」に関する取り調べで、検事は李熺性のことをそうに呼んで追及した)は結局、無気力だった。

▽「やめておきなさい」

全斗煥は、情報部長兼任にたいする反対は初めから予想していた。

反対する李熺性や青瓦台首席秘書官らを差し置き、全斗煥は申鉉碻総理のもとを訪ねていた。きまりの悪い話だが、かれは、そんなことは意に介しない。

「どうあっても(中央情報部長を)兼任しなければならない状況なので、了解願います」

申総理は答えた。

「第一に、この件はわたしの所管ではない。大統領直属機関の人事なので、国務総理が受け持つところではない。わたしに了解を求める必要などない。大統領が一存で決めることなのだ」

そう言って、全斗煥の頼みをきっぱりと断った。

「第二に、(わたしの所管ではないが)わたしをわざわざ訪ねてきて話をしてくれたのだから、答えは出そう。やめておきなさい。わたしは崔大統領にも兼任を認めないように、と言っておきました」

全斗煥はあらかじめ用意してきた通り、「重要な情報機関である中央情報部の空白があまりにも長くなって」などと言いながら兼任させてほしいと頼んだ。もちろん、国保委(国家保衛非常対策委員会)や政党を新たにつくるための資金を中央情報部の予算から流用するつもりだ、といったことには一切触れずに、せがんだ。

申総理は首を横に振った。

「あなたの言うことに一理があるとしても、あなた自身のためにも、また国家のためにもそうしないほうがいい。マイナス要因だ」

▽崔圭夏大統領が承認

ところが、1週間後に兼任の発令が出た。

崔圭夏大統領が認めたのである。

保安司令官の全斗煥(左端)は中央情報部長を兼任し、同部幹部らに任命状を手渡した=198054

 
 それどころか、法的な制限の隙間を突き、中央情報部長「代理」というおまけまで付けてやった。全斗煥は、ついに414日、中央情報部長兼任の発令を受けた。

朝日新聞など海外のメディアは「全斗煥が権力トップの座を掌握した」と解説した。まさに、岡目八目である。

▽予算流用

新軍部が狙っていた通り、中央情報部の予算から国保委の創設や運営の名目で100億ウォン、保安司令官室用に20億ウォンをそれぞれ引き出して使った。

兼任の発令を受けて全斗煥が中央情報部の予算から流用した120億ウォンは、情報部の年間予算の15%に相当する額だった。

 「5・16軍事政権」の産婆役を担った金鍾泌は、中央情報部を通して共和党結成の資金をつくった。それから20年近くを経て「517クーデター」を起こした新軍部は、その中央情報部の最後の予算を国保委づくりの資金として流用したのである。2大クーデター政権の、まさに首尾相関の姿といえるのではないか。

いま、全斗煥は両翼を得た。

 2大情報機関を掌握したその威勢を駆っていよいよ、政権奪取へと乗り出していくのである。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月30日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(24)

  「庶民的、素朴、慈愛の民主主義者」

 大学生の模擬裁判でも無期懲役刑を言い渡される、そんな人気のない全斗煥をメディアを通じて持ち上げる「K-工作計画」[Kは、King(王)の頭文字とされた]が推進された。

 ▽世論操作と検閲

 保安司令部は19803月、メディアにたいする懐柔と工作、全斗煥のイメージアップ、そして非協力者の排除を柱とする「K-工作計画」を立てた。そして、新聞社や放送局の社長、主筆、編集局長、報道局長、政治部長、社会部長らを通じて世論操作に乗り出した。

 責任者は、保安司令部の李相宰准尉(通称「姜基徳補佐官」、のちに国会議員)だった。元もと「対共」(北朝鮮のスパイにたいする転向工作)の専門家だったが、1979年の「1026」(朴正煕大統領暗殺事件)直後、つまり鄭昇和戒厳司令官の時代から言論検閲チームの責任者としてソウル市庁に常駐し、新聞社や放送局では絶大な権力を持つ人物として知られていた。捜査機関独特の習慣として、かれは「姜補佐官」という通称で呼ばれていた。

      言論工作は1988年、国会聴聞会で追及された。証言台に立った(左から)李源洪(元KBS社長)、許文道(元大統領公報秘書官)、文太甲(元ソウル新聞社長)、李相宰(元保安司令部言論対策班長)


   


   



   検閲チームは、文化公報部[当時の省庁の一つ。文化・芸術の振興のほか、政府の広報やメディア統制も担っていた]、中央情報部、保安司令部、経済企画院、陸海空軍から引き抜かれた50人ほどで構成されていた。かれらは戒厳法に基づいて、すべての新聞・放送の記事を事前に読み、検閲指針に沿って削除していった。その指針を下す最高責任者が李相宰だった。

 ▽持ち上げ

 李相宰は、保安司令官である全斗煥の決裁を受けて新たに設けた「言論操作班」(言論対策班)の班長として「K-工作」をおこなった。

 この班には14人の分析官と収集官がいた。

 かれらは、新軍部が社会安定のための唯一の選択肢であり、同時に全斗煥がそのリーダーであることを印象付ける任務を遂行した。全斗煥を「正義感が強く、包容力のある、太っ腹な人物」「憂国の情に燃え立つ、私心のない、清廉潔白で理想的な軍人」「農村出身で、庶民的、素朴、慈愛に満ちた、広く国民に愛される人物」「海外留学や視察経験もある、文武を兼ね備えた民主主義の信奉者」「困難な時代に国家の運命を担い、いばらの道を歩む愛国者」などと思いっきり持ち上げたのである。

 ▽記者をランク付け

 そのような言論工作はうまくいった。

 記者を新軍部に協力的か否かで分類し、「良好」、「協力の見込みあり」、「積極的に協力」、「警戒」、「協力に消極的」などと格付けした。言論対策班の分析で「国是否定」、「制作拒否(ストライキ)」、「不正腐敗」など、非協力的または反政府的といったレッテルを張られれば、解雇へと追い込まれた。

 ▽報道社に圧力

 808月、解雇対象の記者約100人の名簿を保安司令部言論対策班長の李相宰がまとめた。そして、それを情報処長の権正達を通して李光杓文化公報部長官に上げた。文化公報部は報道各社にこの強制解雇対象者リストを送り、実行に移させた。

 もし、報道各社で強制解雇に応じないところがあれば、新軍部は国税庁や監査院[日本の会計検査院に相当]を動員してその社に対し、税務調査や経営監査で圧力をかける計画を立てていたことが後日、明らかになった(「真実和解調査員会」)。

                            訳:波佐場 清

2026年5月27日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(23)

  崔圭夏の姑息な策謀

 1980314日、崔圭夏大統領の発言で、ひとしきり騒動が起きた。

 大統領制にすこし揺さぶりをかけ、二元執政制の可能性について探ろうとするものだった。

 「新憲法における政府の形態としては、大統領中心制と議院内閣制の折衷型が望ましい。大統領に過度に権力を集中させると、大統領に万一のことがあった場合には危機を招くし、選挙も激しくなって混乱をもたらす」(改憲審議委員会開会式での発言)

 ▽二元執政制

 この一言が過渡期の政権を非難する世論に油を注ぐ結果を招いた。

 折衷型の政府とは?

 崔圭夏は、大統領は外交など象徴的な役割を担い、総理が実質的な権限を行使する、とする二元執政制について語ったのである。ところが、世間は、これを申鉉碻総理のくわだてであると誤解した。

 いま、申鉉碻の証言などを基に整理してみると、これは崔圭夏の野心から生まれたものだった。申鉉碻は一貫して大統領中心制を主張していた。要するに、「崔圭夏大統領は、自分が大統領で居続けることに汲々とし、新軍部ともたれ合いながらその地位を維持したいという思いが強かった」というのが、申鉉碻の回顧である。

 ▽総理に非難の矛先

 ところが当時、誤解は申鉉碻に向けて集中していた。

 この世の出来事や人生は、その半分以上が誤解のうえに成り立っている面がある、ということなのだろうか。

 二元執政制のために、申総理は「3金」[金大中、金泳三、金鍾泌]をはじめとする政界、そして政権奪取を決意した新軍部、さらには街頭や大学街のデモ隊から十字砲火を浴びることになる。

ソウル大学では「二元執政制」構想に反対する討論会が「アクロポリス広場」で開かれた

 崔圭夏は、ほくそ笑んでいたことだろう。

 尹錫悦「裁判長」、総理に「死刑」の判決

 「申鉉碻は退陣しろ」

 ふざけ半分でおこなわれたソウル大学の模擬裁判でも、申鉉碻総理に「死刑」が言い渡された。裁判長役を務めたのは、ソウル大法学部の学生、尹錫悦(第20代大統領、元検察総長)だった。尹錫悦はこう振り返っている。

 「198058日に学生会館2階のラウンジで、夜を徹しての模擬裁判がおこなわれました。518[光州事件]の直前のことで、検閲と報道管制で正確な情報がなく、漠然と全斗煥、盧泰愚が軍事反乱を起こしたという噂だけを聞いていたときでした。当時、東亜日報に入社した先輩から情報を聞いてきた法学部の4年生らが被告人不在の欠席模擬裁判を企画し、わたしが裁判長役を務めたというわけです。間違った情報のせいで、あの方(申鉉碻)をクーデターの首謀者と思い込み、死刑の判決を下したのです。全斗煥は『無期懲役』でした。いま思うと、申鉉碻総理には大変申し訳ないことをしてしまいました」(20217月、京郷新聞のインタビューに答えて)

 ▽検挙逃れ、避難

 翌日、キャンパスに号外のビラが出回った。

 裁判長役の学生尹錫悦が、新軍部勢力にたいする欠席模擬裁判で死刑や無期の判決を下した、と伝えていた。

 軍による反対勢力の一斉検挙がおこなわれれば、捕まるところだった。

 ところが、検挙が始まった517日の前夜、保安司令部に勤務する遠い親戚から自宅に電話があり、「尹錫悦を早く避難させろ」というのだった。それで尹錫悦は、江陵(江原道)の母方の親戚の家に3カ月間身を隠し、もう大丈夫だという知らせを聞いてから、ソウルに戻ってきたのだった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月24日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(22)

  「大韓陸軍万歳」と叫んで逝く

 新軍部の政権奪取に向けたキャタピラーに金載圭の部下、朴興柱が押しつぶされていこうとしていた。

 「1026決起」[1979年の朴正煕暗殺事件]の失敗で、中央情報部長金載圭の秘書室長だった朴興柱大佐の運命は尽きてしまった。1審だけしかない軍事裁判(791220日)で死刑が決まった。軍事裁判にあって2審、3審は贅沢すぎるのだ。

 9丁のうち、3丁は空砲

 198036日午前、第33師団の射撃場には処刑台の杭3本が立てられていた。

 朴興柱大佐のほかにも2人の死刑囚がいた。一人は安東の映画館に手榴弾を投げ込んだ軍人、もう一人は内務班で発砲して同僚を殺害した軍人で、合わせて3人だった。

 3人を標的とする3カ所の射台にはそれぞれ3丁ずつ、計9丁の16自動小銃を持つ射手が配置された。9人のうち6人の銃には実弾が込められていたが、各射台で1人ずつ、計3人の銃は空砲で、音だけしか出ないようになっていた。そうすることによって射手らは、自分が撃った銃では死ななかったのだ、と自らを慰めることができ、その夜もぐっすり眠ることができるのだという。

 執行官は陸士出身の大尉が務めることになっている。

しかし、どういうわけか、担当の執行官はこの日、射撃場に現れなかった。陸士の先輩である朴興柱のあまりにも無念な事情を察してのことだった、と思われる。それで、代わりに曹長が立ち会うことになった。

朴正煕暗殺事件で「内乱陰謀幇助」を問われ、法廷に立つ鄭昇和元参謀総長。民主化後、無罪が確定した

▽とどめの射撃

 射撃開始の命令が下る。「射撃用意」、それに続く「開始!」の命令がまだ下らない、その刹那であった。朴興柱は、白い布で目を覆われた状態で、声を限りに叫んだ。

 「大韓民国万歳! 大韓陸軍万歳!」

 その瞬間、「開始!」の命令が下り、銃声が空を切り裂いた。2人の死刑囚はぐったりと首をうなだれた。しかし朴興柱はどうしたわけか、首をもたげたままだった。手続き通りに検分が始まった。

 軍医官は、朴興柱の番になると、「まだだ…」と低い声で言った。すると、曹長は腰の大型コルト回転式拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく頭部に向けて引き金を引いてしまった。

 ▽因果応報…

 その銃撃の部位はまさしく頭頂部だった。頭蓋骨の上から下顎に向けた発射――。それは金載圭が朴正煕大統領を撃った際、1発目の銃撃で血を流して倒れた大統領に、とどめの一発を撃った部位・方向と、寸分の違いもなかった。

 見守っていた保安司令部の派遣官は鳥肌が立った。

 ああ、冤魂と悪業のカルマ(業)は空(くう)に漂うものなのか。

 朴大統領がとどめの一撃を受けた銃は、まさしく朴興柱の拳銃ではなかったのか。

 「1026」の夜、1発目を発砲した後、拳銃が故障した金載圭は部屋の外に飛び出してきて朴興柱の拳銃を奪い、頭部への銃撃でとどめを刺していたのである。

 あの夜、朴大統領を検分した保安司令部構内にある首都病院の院長金秉洙大佐は、頭部のひどい銃傷のためにそれが朴大統領のものであるかどうか明確に判別できなかった。遺体の腹部にある特有の痣(あざ)を見て、それが見覚えのある「コード・ワン(大統領)」であることを確認した。曹長の銃撃を受けた朴興柱の顔も、それと同様だった。

 ▽家族の願い届かず

 死刑囚の妻は、布で覆われた夫、朴興柱の顔をめくってみてそのまま気を失ってしまった。「顔かたちが無残につぶれた夫を見て気絶したのです」と当時の派遣官は証言している。

 当時、新聞記事を通して「お父さんを助けてほしい」と泣きながら訴えていた朴興柱の妻と息子、娘らの願いは遂に、かなえられることはなかった(息子は後年、大学の神学部を卒業し、いまは牧師になって京畿道・一山の教会で、牧会を担っているという)。

                      訳:波佐場 清

 

2026年5月21日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(21)

  「大統領になられるお方」

全斗煥が国家元首になるだろう。そんな話を最初に耳にしたのは意外にも、西氷庫の保安司令部捜査分室[当時、朴正煕暗殺事件の合同捜査本部の取調室として使われていた]に拘束されていた鄭昇和派の将官たちだった。

802月初め、全斗煥が初めて西氷庫に現れた。

李建栄、張泰玩、文洪球、金晋基ら一人ひとりと個別に面談した。

西氷庫の捜査官は、あらかじめ警告していた。

「すぐに国家元首になられる方なのだから、必ず敬語で接しなければなりません」

保安司令部の捜査官らは、全斗煥が大統領になることをすでに既定の事実として話した。

とはいえ長い間、全斗煥に対して先輩という立場で接してきた将官たちではないか。話しているうちについ、かつての口調そのままに「おまえ、全将軍」といった言葉が口をついて出た。その度に捜査官らは「尊敬語を使え」と注意した。世の中がひっくり返っていた。

▽靴下を手袋代わりに…

全斗煥が来ていった後すぐに、西氷庫の中庭で運動してもよろしい、という「恩恵」が施された。

 厳冬の収容所の「敗軍の将」たちは、交代で中庭に出て徒手体操などの運動をした。氷点下10度の超す寒波が襲ったある日、手袋がなかったために各自、靴下を手にはめた奇妙ないでたちで、狭い中庭をランニングした。将官というにはあまりにも惨めな格好だったが、30~40分間だけでもそのように運動できるということは、涙が出るほどありがたかった、という。

 ▽「軍は出るべきでない」

803月、全斗煥は保安司令官の先輩である姜昌成を招待した。

姜昌成(右)は19722月、金載圭(左/のちに中央情報部長として朴正煕大統領を殺害)から保安司令官を引き継いだ。

 姜は、全斗煥から秘かに連絡を受け、保安司令官室で会った。

1時間ほどの面談で全斗煥は、自分が政権をとるのを手伝ってほしいといった趣旨のことを話した。

「金鍾泌はキズ疑惑)が多くて軽率だし、金泳三は能力が不足しているようだ。金大中は思想が疑わしい」

姜昌成は首を横に振り、維新体制が終わったところへ軍が再び出るべきではない、と忠告した。全斗煥は反論して言い張った。

「先輩、みんながわたしのところに来ては、当分の間、軍が政権を引き受けてくれないといけないと、せがむんです。朴鐘圭(元警護室長)の兄貴など、わたしのところへ来て『もし、全将軍でなく、ほかの奴が政権をとろうと言いだしたら、だれにも知られぬやり方で自分で始末してやる』と言うんです」

朴鐘圭のこのような熱い焚き付けは、全斗煥にとってさぞかし満足のいくものであったはずだ。全斗煥はさらに、こう続けた。

「崔圭夏は、まったく間抜けな人間です。あんな者に政権を任せることはできません。そのまま傀儡として立てておき、軍部で実権を握っていくのがよさそうです」

姜がそれでも納得しないと、全斗煥は苛立ったように秘書室長の許和平を呼び、「次に待っている者はいないのか?」と言い、追い出すように立ち上がった。

▽報復

このあと、姜昌成は報復を受ける。

全斗煥が大統領に就任(80年9月1日)するころ、保安司令部は、姜昌成の海運港湾庁[現在の海洋水産部の前身]長官時代の不正をほじくり出して永登浦刑務所に収監した。そこで姜は、一般の刑法犯らといっしょに容赦のない三清教育隊に4回も連行され、悪名高い棒体操[重い丸太を繰り返し担がせる過酷な訓練]で死ぬ思いをさせられることになる(黄龍熙刑務官の記録)。

▽「いっそのこと、大統領まで…」

 80年春。そのころの保安司令官の接見室は、まちの市場のようなにぎわいぶりだった。

 政治、行政、経済の司令塔となった保安司令部の秘書室には、あれこれと口実を設けて幹部クラスが競うように押しかけた。顔を覚えてもらおうという者たちで、まさに「門前市を成す」ありさまだった。秘書室長の許和平はすでに「一人の下、万人の上」[つまり、全斗煥に次ぐナンバー2]の地位を存分に味わっていた。

 そんな彼に、財務長官の李承潤が進言するように言った。

 「全斗煥司令官がいっそのこと、すべてを(大統領まで)引き受けてしまえば、このように(青瓦台に行ったり、総理室に行ったりといった)煩わしい思いをしなくてもいいものを」と。

 ▽阿諛追従

反対勢力の一掃を急かす声も聞こえてきたという(元国情院長の目撃談)。

 駐韓米軍司令官ウィッカムの回顧録にも「ゴマすり」たちの話が出てくる。

 国会の文亨泰国防委員長はウィッカムに繰り返し、こう言ったという。「政府高官たちが全斗煥のところへ群れをなして押しかけて阿諛追従(あゆついしょう)し、全斗煥がそれを楽しんでいる。そのせいで事態はますます歪んでいっている」と。

 ウィッカムの、その次のくだり、皮肉を込めた言い方が、おぞましい。

 「ところで、文亨泰自身もまた、頻繁に全斗煥と接触しているではないか。それで、わたしは文亨泰も全斗煥の自宅詣(もう)でをする高官のうちの一人である、という事実に注目せざるを得なかった」(『ウィッカム回顧録』)

                           訳:波佐場 清