■政権と国家目標を変えた五輪
ソウルへのオリンピック誘致が企画されたのは朴正煕政権末期だった。
記憶もおぼろげな話になるが、1979年9月、時の「維新政府」は、第24回夏季オリンピック(1988年)をソウルに誘致したいと発表していた。
しかしすぐそのあと、10月26日に朴大統領が暗殺され、新軍部が2度にわたる流血のクーデターで政権をとるという疾風怒濤のなか、オリンピックは一場の春夢のように忘れ去られていった。
▽甦った春夢
そんなオリンピックが甦ったのは、1981年2月のことだった。
韓国政府が国際オリンピック委員会(IOC)に正式に誘致を申請したのである。81年3月には国際調査団も韓国に来ていった。とはいえ、オリンピックは実際のところ、鶏のあばら骨のようなものだった。他人にやってしまうには惜しいが、かといって、別に食べるところもない、あまり気の進まない代物(しろもの)だった。
▽総理が猛反対
まず、国務総理の南悳祐が猛反対した。
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| 五輪誘致に猛反対した南悳祐総理(左端) |
几帳面な経済学者である南総理は、毎年1千億ウォン、(開催までの8年間で)総額8千億ウォンもかかるオリンピックなどやろうものなら、国が滅んでしまうと主張した。それでなくとも、インフレに政治不安も加わり、経済状態は最悪だった。実際のところ、これまでのオリンピックの歴史を振り返ってみても、成功をおさめたケースは1964年の東京五輪、1972年の札幌冬季五輪、そして1988年のソウル五輪の3回だけだというのが定説だ。カナダ・モントリオール五輪では10億ドルの赤字を出すなど、ほとんどの誘致国はオリンピック後、深刻な後遺症で苦しんでいるのである。
南総理の判断は、各閣僚の指針となった。
▽強敵・名古屋
経済も経済だが、日本の名古屋がずいぶんと前から並々ならぬ意気込みで準備を進めてきているというのに、どうやって票決で勝てるのか、というのである。韓国のIOC委員である金澤寿(元国会議員)も戦意を喪失しており、お手上げの状態だった。とくに展望があるわけでもなく、万一、奇跡的に誘致に成功したとしても、それに伴う経済破綻にだれが責任を負うというのか。
▽「名誉ある撤退」論
それでも、大統領の全斗煥が意欲的に指示した事項だということで、対策会議が開かれた。
1981年4月16日に開かれた第1回会議――。
国務総理の南悳祐、安企部長の兪学聖、外務部長官の盧信永のほか、経済企画院、文教部[日本の文科省に相当]、文化公報部の長官らが出席した。しかし、オリンピックを誘致することが果たして正しいのかどうかを巡り、南総理を中心に反対論が優勢で、大統領の再決断を仰ごうということで意見がまとまった。続く4月28日の2回目の会議では「静かで、名分の立つ後退のために、日本のほうから韓国に譲歩を求めてくるよう、日本と水面下の交渉をしよう」とする敗北主義的な意見まで出た。
南悳祐は、真剣に反対論を述べた。
「大統領閣下も毎年1千億ウォンの資金がかかるという報告に、それなら諦めざるを得ないというお考えだ。そうだとすると、諦めることを原則に、身を引く名分をどう立てるかを考えないといけない」
▽外相が賛成論
しかし全斗煥は、行きつ戻りつ、諦めてしまうにはあまりにも惜しいという様子だった。そんななか、意外にも外務部長官の盧信永が賛成の側に立った。
盧信永は、こう主張した。
「第一に、韓国の知名度を高めるうえでいい機会になる。世界には、いまだにコリアを知らない国も多い。2週間のオリンピック大会を通して中進国に発展した韓国の姿を世界の人びとに見せる絶好のチャンスになる。第二に、オリンピックを通してコリアの経済発展と国力の伸長ぶりを世界に示せば、国交のない非同盟国との関係改善が期待でき、国民の一体感も高めることができる。第三に、1988年のオリンピックを逃せば、20世紀のうちに2度と、このような機会は巡って来ない」
金澤寿が盧信永に「票決に自信はあるのか」と確認した。
盧信永は「勝つという大それたことは言えないが、われわれはこの間、国際舞台における北朝鮮との競争で、何度も票決を戦い抜いてきた経験を積んできている」と後に引かなかった。
5月16日の3回目の会議では「いったん行けるところまで、行ってみよう」ということになった。これといった名分もなく撤退するのは国家の威信に傷がつき、国民の士気にもかかわる、という結論だった。決戦まで残り4カ月という土壇場になってようやく「やってみよう」ということで話がまとまったのである。
▽鄭周永氏の登場
それから何日かたった5月下旬のある日、文教部の体育局長が全経連[全国経済人連合会。日本の経団連に近い]の鄭周永会長[1915~2001。財閥現代グループの創業者で、当時同グループ会長]のオフィスに姿を現した。「オリンピック誘致民間推進委員長」という任命書を手にしていた。
「名古屋との競争で、どうせ恥をかくことになるだろうが、政府の恥を民間で代って引き受けてもらえないでしょうか」と、その間の事情についても説明した。鄭周永会長には前もって一言の耳打ちもしておらず、関係長官(閣僚)会議において鄭会長が誘致の責任者に決まったのだと一方的に通報したのだった。
鄭周永はあまりいい気がしなかった。
しかし、新軍部政権の威勢に逆らうこともできず、最初の会議を招集した。
▽「確保は1票だけ」
組織図の上では、委員長の下に政府の各部長官(閣僚)が並んでいたが、現れたのは文教部長官の李奎浩ひとりだけで、ソウル市長の朴英秀も、IOC委員の金澤寿も、顔さえ見せなかった(二人は9月下旬、決戦の票決がおこなわれたIOCバーデンバーデン総会の開幕式にさえも現れなかった)。
鄭周永が文教部長官に不快な表情をみせて確認すると、「オリンピック誘致は全斗煥大統領の指示事項であり、兪学聖・安企部長にたいしても特別な指示が下りています。積極的にバックアップすることになっております」と答えるのだった。
盧泰愚(当時、政務長官)は、当時の冷めた雰囲気について、こう書き残している。
「金澤寿は、『41票が必要なところへ、われわれが獲得できるのは、私の1票だけしかない』と難色を示していた。朴英秀市長は『大統領に累が及ばないようにするなら、何か名分を見つけて撤退する方法を考えるのがいい』と言っていた。ところが、兪学聖安企部長と盧信永外務部長官だけは、『努力もしてみないまま、白旗を上げるのはよくない。努力だけでもしてみよう』と反論していた」(『盧泰愚回顧録』)
訳:波佐場 清






