2026年9月5日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(57)

  政権と国家目標を変えた五輪

ソウルへのオリンピック誘致が企画されたのは朴正煕政権末期だった。

記憶もおぼろげな話になるが、19799月、時の「維新政府」は、第24回夏季オリンピック(1988年)をソウルに誘致したいと発表していた。

しかしすぐそのあと、1026日に朴大統領が暗殺され、新軍部が2度にわたる流血のクーデターで政権をとるという疾風怒濤のなか、オリンピックは一場の春夢のように忘れ去られていった。

▽甦った春夢

そんなオリンピックが甦ったのは、19812月のことだった。

韓国政府が国際オリンピック委員会(IOC)に正式に誘致を申請したのである。813月には国際調査団も韓国に来ていった。とはいえ、オリンピックは実際のところ、鶏のあばら骨のようなものだった。他人にやってしまうには惜しいが、かといって、別に食べるところもない、あまり気の進まない代物(しろもの)だった。

▽総理が猛反対

まず、国務総理の南悳祐が猛反対した。

五輪誘致に猛反対した南悳祐総理(左端)

几帳面な経済学者である南総理は、毎年1千億ウォン、(開催までの8年間で)総額8千億ウォンもかかるオリンピックなどやろうものなら、国が滅んでしまうと主張した。それでなくとも、インフレに政治不安も加わり、経済状態は最悪だった。実際のところ、これまでのオリンピックの歴史を振り返ってみても、成功をおさめたケースは1964年の東京五輪、1972年の札幌冬季五輪、そして1988年のソウル五輪の3回だけだというのが定説だ。カナダ・モントリオール五輪では10億ドルの赤字を出すなど、ほとんどの誘致国はオリンピック後、深刻な後遺症で苦しんでいるのである。

南総理の判断は、各閣僚の指針となった。

▽強敵・名古屋

経済も経済だが、日本の名古屋がずいぶんと前から並々ならぬ意気込みで準備を進めてきているというのに、どうやって票決で勝てるのか、というのである。韓国のIOC委員である金澤寿(元国会議員)も戦意を喪失しており、お手上げの状態だった。とくに展望があるわけでもなく、万一、奇跡的に誘致に成功したとしても、それに伴う経済破綻にだれが責任を負うというのか。

▽「名誉ある撤退」論

それでも、大統領の全斗煥が意欲的に指示した事項だということで、対策会議が開かれた。

1981416日に開かれた第1回会議――

国務総理の南悳祐、安企部長の兪学聖、外務部長官の盧信永のほか、経済企画院、文教部[日本の文科省に相当]、文化公報部の長官らが出席した。しかし、オリンピックを誘致することが果たして正しいのかどうかを巡り、南総理を中心に反対論が優勢で、大統領の再決断を仰ごうということで意見がまとまった。続く4月28日の2回目の会議では「静かで、名分の立つ後退のために、日本のほうから韓国に譲歩を求めてくるよう、日本と水面下の交渉をしよう」とする敗北主義的な意見まで出た。

南悳祐は、真剣に反対論を述べた。

「大統領閣下も毎年1千億ウォンの資金がかかるという報告に、それなら諦めざるを得ないというお考えだ。そうだとすると、諦めることを原則に、身を引く名分をどう立てるかを考えないといけない」

▽外相が賛成論 

しかし全斗煥は、行きつ戻りつ、諦めてしまうにはあまりにも惜しいという様子だった。そんななか、意外にも外務部長官の盧信永が賛成の側に立った。

盧信永は、こう主張した。

「第一に、韓国の知名度を高めるうえでいい機会になる。世界には、いまだにコリアを知らない国も多い。2週間のオリンピック大会を通して中進国に発展した韓国の姿を世界の人びとに見せる絶好のチャンスになる。第二に、オリンピックを通してコリアの経済発展と国力の伸長ぶりを世界に示せば、国交のない非同盟国との関係改善が期待でき、国民の一体感も高めることができる。第三に、1988年のオリンピックを逃せば、20世紀のうちに2度と、このような機会は巡って来ない」

金澤寿が盧信永に「票決に自信はあるのか」と確認した。

盧信永は「勝つという大それたことは言えないが、われわれはこの間、国際舞台における北朝鮮との競争で、何度も票決を戦い抜いてきた経験を積んできている」と後に引かなかった。

516日の3回目の会議では「いったん行けるところまで、行ってみよう」ということになった。これといった名分もなく撤退するのは国家の威信に傷がつき、国民の士気にもかかわる、という結論だった。決戦まで残り4カ月という土壇場になってようやく「やってみよう」ということで話がまとまったのである。

▽鄭周永氏の登場

それから何日かたった5月下旬のある日、文教部の体育局長が全経連[全国経済人連合会。日本の経団連に近い]の鄭周永会長[1915~2001。財閥現代グループの創業者で、当時同グループ会長]のオフィスに姿を現した。「オリンピック誘致民間推進委員長」という任命書を手にしていた。

「名古屋との競争で、どうせ恥をかくことになるだろうが、政府の恥を民間で代って引き受けてもらえないでしょうか」と、その間の事情についても説明した。鄭周永会長には前もって一言の耳打ちもしておらず、関係長官(閣僚)会議において鄭会長が誘致の責任者に決まったのだと一方的に通報したのだった。

鄭周永はあまりいい気がしなかった。

しかし、新軍部政権の威勢に逆らうこともできず、最初の会議を招集した。

▽「確保は1票だけ」

組織図の上では、委員長の下に政府の各部長官(閣僚)が並んでいたが、現れたのは文教部長官の李奎浩ひとりだけで、ソウル市長の朴英秀も、IOC委員の金澤寿も、顔さえ見せなかった(二人は9月下旬、決戦の票決がおこなわれたIOCバーデンバーデン総会の開幕式にさえも現れなかった)。

鄭周永が文教部長官に不快な表情をみせて確認すると、「オリンピック誘致は全斗煥大統領の指示事項であり、兪学聖・安企部長にたいしても特別な指示が下りています。積極的にバックアップすることになっております」と答えるのだった。

盧泰愚(当時、政務長官)は、当時の冷めた雰囲気について、こう書き残している。

「金澤寿は、『41票が必要なところへ、われわれが獲得できるのは、私の1票だけしかない』と難色を示していた。朴英秀市長は『大統領に累が及ばないようにするなら、何か名分を見つけて撤退する方法を考えるのがいい』と言っていた。ところが、兪学聖安企部長と盧信永外務部長官だけは、『努力もしてみないまま、白旗を上げるのはよくない。努力だけでもしてみよう』と反論していた」(『盧泰愚回顧録』)

                       訳:波佐場 清

 

 

2026年9月2日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(56)

 贈賄騒動で、「一掃」の妄想再発

198194日、野党の林在正議員(民主韓国党)が「高級敷物事件」を暴露した。

そうでなくても全斗煥をはじめ許和平ら新軍部の中心メンバーらは「非生産的な国会」にいら立ちを募らせていた。年初に、総選挙に向けて政党を軍隊の中隊のように再編。それによって、反骨心ある闘士型の政治家567人をふるい落とし、政治の土俵を新たにつくり直したというのに、国会は軍隊の基本教練のようにテキパキとは動かなかった。

▽与党役員らを入れ替え

この「敷物事件」が、実力派将官たちの鬱屈した気持ちに油を注ぐところとなった。

学校教員の全国組織である大韓教連(現・韓国教員団体総連合会の前身)が、教育公務員法の審議を前に、国会文化公報委員会の委員9人に高級敷物(1人当たり138千ウォン相当)を配っていた問題について、林在正議員は「賄賂だ」と追及したのである。

大検察庁[日本の最高検察庁に相当]が捜査に乗り出し、国会文公委員長は、李興洙から韓柄寀に代った。「クリーンな政治、正義社会の実現」というスローガンを掲げる与党の民正党は、政策委議長[日本の自民党でいうと、政調会長に相当]や政策室長ら主要党役員5人を交代させた。

この後に起きた「手形詐欺事件」や、第5共和国(全斗煥政権)の不正腐敗をめぐる騒動のことを思えば、(事件の規模の割には)ずいぶんと大騒ぎをしたものである。

▽「解散―国民投票で、国会を再構成」

定期国会が開会した921日、許和平補佐官は、朴哲彦秘書官のところへ行った。

許和平。「5共の企画者」を自任した

「こんどの定期国会を見守り、いざとなったら来年、国会を解散して国民に信任を問う国民投票をおこない、国会を根本から構成し直す案も検討しているところです」

総選挙からまだ半年しか経っていないというのに、また、80年の「517クーデター」でおこなった反対勢力一掃のようなことを企んでいるという話だった。

許和平は、その2日後にまた、こんなことも言った。

「国会を見ていると、改革の意志や統治理念がいい加減になってきているのではないか。国会議員一人ひとりの政治傾向の分析も必要です。今年の定期国会は、傍から見ているだけにして、わざと好きなようにさせておく。そうして、果たして自律的に運営できるかどうかを見守り、それでもって国会解散の名分とすべきです。国民の意志に基づいた、強力な統治基盤をつくり上げるうえで、フランスのドゴール大統領がおこなった国民投票の例を研究してみる必要があります」(朴哲彦の証言)

そんな許和平に感化されたかのように、全斗煥大統領もいっしょになって国会に対する不信を募らせていった。

▽再号令

9月26日、全斗煥大統領は、朴哲彦秘書官を呼び、改革立法の趣旨とその広報の必要性を強調した。

「民正党の幹部ですら、改革の趣旨が十分に分かっていない」

全斗煥の督促によって、即、非常がかかった。

改革の意志と統治の理念を改めて確立せよ――

すぐにソウルのプラザホテル1770号室で対策会議が開かれた。青瓦台から崔昌潤(政務第一秘書官)と朴哲彦、民正党から事務総長[日本の自民党でいうと、幹事長に相当]の権正達、事務次長[副幹事長に相当]の尹碩淳、院内総務[国会対策委員長に相当]の李鍾賛、政策委議長[政調会長に相当]の羅碩昊、政策調整室長[政調副会長に相当]の朴鉉兌が出席した。

▽オリンピック誘致で転換

ところが、この2度目の「全面一掃」の企みは、あっけなく霧散した。

9月30日、ドイツ・バーデンバーデンで、ソウルへのオリンピック誘致に成功したことがその分水嶺となったのである。

スタート時点では、なんともみすぼらしかった五輪誘致活動だったが、結局のところ、「過去のあなたは小さなものであったが、未来のあなたは非常に大きくなるであろう」(旧約聖書「ヨブ記」からの引用)ということなのだろうか。いざ、五輪誘致が確定すると、このスポーツイベントは国政の最優先課題に浮上し、第5共和国の国政運営の基本方針を根本から変えていってしまったのである。

                      訳:波佐場 清

 

2026年8月30日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(55)

  朴世直、「次はオレだ」で失脚

全斗煥は権力の頂点から世の中を見下ろして号令をかける快感を覚え始めた。そんな全斗煥の逆鱗に触れてカッとさせ、流れ弾に当たってしまったのが首都警備司令官の朴世直だった。

▽予備役編入

198186日、朴世直少将の予備役編入が発表された。

朴世直はソウル五輪組織委員長としても活躍した

――軍の捜査機関(保安司令部)は、在米実業家の李圭煥(陸士12期、大佐で予備役編入)について、個人事業のために朴世直・首都警備司令官を通して高官らに請託行為をおこなった容疑で去る731日、捜査に着手し、85日に捜査を終えた。朴世直将軍は「請託排除運動」で率先垂範すべき立場にありながらも、越権と本分逸脱によって軍の威信を失墜させたことにより、ここに補職を解任し、予備役編入の措置を取る(朴鍾植・国防部スポークスマン)。

「ハナ会」会長である全斗煥大統領の直系、陸士12期の先頭ランナーだった朴世直が「越権・本分逸脱」という理由で突然、失脚したのである。

▽「不忠事件」の類推

1973年の「尹必鏞不忠事件」のことを思い起こさせた[この事件は、当時首都警備司令官だった尹必鏞が中央情報部長の李厚洛に向かって「朴正煕大統領閣下もお年を召されたのだから、兄貴(李厚洛のこと。朴正煕に次ぐナンバー2とみられていた)が後継者になられたら」などと言っていたことが分かって朴正煕の逆鱗に触れ、失脚した事件。尹必鏞が背後で支援していた全斗煥らのハナ会にまで捜査の手が伸びた]。新たに起きた朴世直事件では、捜査を担当したのは朴世直と陸士同期で、格別に親しい間柄にあった朴俊炳・保安司令官だった。これは、なにか特別な理由があってのことだったのだろうか――。

これといったウラ事情のようなものがあったというわけではなかった。

朴俊炳は保安司令官になってから、まだ1週間しか経っていなかった。そんなところへ大統領の指示が下りてきたものだから、ともかく急いで真相をつかみ、大統領にそのままを報告しただけだった。朴世直が陸士同期の実業家のためにソウル市長らに圧力をかけた、ということだったのだが、実際に金品を受け取っていたわけでもなく、請託の内容もたいしたことではなかった。

しかし、青瓦台としては「ハナ会出身といえども、調子に乗ってしゃしゃり出、小生意気な態度をとる者は許さない」という見せしめをしたかったのだ、という説が流れた。全斗煥が自ら「お膳立てをした者が別にいるというのに、いったい、どこのどいつが勝手に箸を付けようとしているんだ」と言って怒った、という話も漏れ伝わってきた。

▽軽率な舌禍

この事件の捜査結果を大統領に報告した後、保安司令官の朴俊炳は、大いに困り果てることとなった。青瓦台が急遽、「来い」というものだから息せき切って駆けつけると、すでに国防長官の周永福と陸軍参謀総長の李熺性が全斗煥大統領の前に座っていた。朴世直を予備役に編入させる――という通報だった。朴俊炳は大統領に善処を乞い、「副軍団長ぐらいに出すのはいかがなものでしょうか」と懇願したが、周永福がかれの服の裾をつかんで引っ張った。予備役編入はもう、決裁が済んだことなのだからやめておけ、という合図だった。朴俊炳はそれでもなお、朴世直の首都警備司令官退役式だけはやってほしい、と進言し、その式に直接、挨拶文も準備して出席するという友情を示したのだった。

朴俊炳は後日、インタビューに答え、朴世直退役の真相についてこう語った。

「実のところ、当時、朴世直将軍が各界の人たちと活発に接触しながら『次期大統領は自分だ』と言わんばかりの言動をしていたことが問題になったのだ。あとで知ったのだが、全斗煥大統領は首都警備司令部の作戦参謀、金振永大佐らを呼んで朴世直将軍の日ごろの言動について直接確認したうえで、そのような措置を取ったのだ」(『月刊朝鮮』20133月号)

朴世直は、1973年の尹必鏞と同じように軽率な舌禍で飛ばされたのである。

▽復権

ところが、それからわずか6カ月余で、大統領の怒りはおさまった。

全斗煥は19823月、朴世直を韓国電力の副社長に据え、続いて安企部の第2次長に起用した。その後、朴世直は総務処長官、体育部長官、オリンピック組織委員長と次々に要職を歴任し、名誉を回復していった。動力資源部長官だった李宣基によると、全大統領は李に韓国電力に朴世直のポストを見つくろうよう指示した際、「実際のところ、あいつ(朴世直)は参謀総長の器なんだが、途中で不幸なことになった。分かってみると、別にどうということでもなかったんだが」と言っていたという(中央日報1993212日付)。第5共和国における全斗煥人事の一つのパターンではあった。

▽勉強家

もともと朴世直は、軍人にしては顔が広く、人付き合いを楽しむタイプだった。

筆者は1986年、総務処長官時代のかれが長官室で、その忙しい最中にあってもフランス語の録音テープを聞いて会話の勉強をしているのを目にしたことがある。

夭折した詩人の奇亨度から一時期、週1回、定期的に文章の書き方について教わったりもしていた。総務処の長官室はソウル世宗路の政府総合庁舎9階にあったのだが、当時、奇亨度は中央日報の政治部記者として総合庁舎内にある総理室と総務処を担当していた。奇亨度の、その飛び抜けた文才について報告を受けた朴世直は、奇に直接頼み込んだのだった。

▽大望

朴世直は軍人には珍しく社交的で、実業家や大学教授、キャリア官僚、外国の大使ら、軍隊外にも交友関係を広めていた。ハナ会の中心メンバーであり、全斗煥政権の実力者として首都警備司令官に座っていたかれには「カッコいい、粋な人物」として慕うファンも多かった。

また当時、一部の政治記者たちは、そうした朴世直の行動や身のこなしから、まだ消えてはいない、かれの野望を認めたりもしていた。ある時期、大統領の座を狙う胸中をうっかり吐露して痛い目に遭ったが、いぜん、その夢を捨てきれず、軍人から文民に転身すべく必死に勉強していたというわけではあった

                       訳:波佐場 清

 

2026年8月27日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(54)

  公安勢力vs許和平

1981年に入ると、青瓦台の許和平は「鄭道伝気取りだ」と陰口を叩かれるようになった。

朝鮮王朝建国の功臣である鄭道伝(134298)のように、第5共和国の設計者として、あまりにものさばり過ぎているとする反発だった。とくに盧泰愚の親戚である朴哲彦や、大統領の妻の叔父の李圭光らと敵対し始めた。

▽許和平に弱み

814月、法務部長官の人事をめぐり、許和平と朴哲彦がぶつかった。

許和平には弱みがあった。弟の許和南がスパイとして捕まり、服役していたのだ。

許和平は第5共和国の実力者となり、国政を全面的に采配しながら、改革の名のもと、すべてをあまりにも急進的、一方的に推し進めた。それは許和平が社会主義的な意識を持っているからではないか、と公安部門の関係者らは囁き合った。

▽法務長官人事巡り、確執

朴哲彦は、そんな許和平を意識し、公安検事の大ボス株である李鐘元(大邱高検長)を次期法務部長官として推した。現職長官は呉鐸根で、朴正煕大統領によって1976年に検察総長に抜擢され、805月以来、法務部長官を務めていた。

許和平は、骨の髄まで反共で凝り固まった南山(中央情報部)の要員たちからも深い恨みを買っていた。

許和平は、保安司令部秘書室長としてのさばり、(中央情報部長の座にいて朴正煕大統領を暗殺した)金載圭のせいで「反逆者集団」になった南山の牙を抜き、情報部の者たちを、まるで罪人扱いしてきたではないか――

「スリー許」が、李鐘元に反対し始めた。

許三守率いる司正首席秘書官室を動員して李鐘元と夫人の私生活についてまで身辺調査をしているような気配だった。そして夫人は高利貸しまでやっていると大統領に報告した。

朴哲彦も大統領に訴えた。

「自由民主主義の哲学に疑念があったり、前歴が疑わしかったりする人物には留意すべきです」。もちろん、許和平を念頭に置いてのことだった。

結局、李鐘元が法務部長官になり、この神経戦は朴哲彦の勝利で終わった。

▽政権に忠誠誓う大法院長

81416日、兪泰興が大法院長に抜擢された。

兪泰興は大法院長退任後、国政諮問委員に委嘱された=1986

兪は、1979年の「1026事件」、つまり金載圭による朴正煕暗殺事件の審理で主審判事を務め、金載圭に内乱目的殺人罪を適用して死刑を言い渡した大法院判事として有名だった。保安司令部の督促と兪泰興の迅速な裁判進行により、金載圭は、事件からわずか7カ月後の80524日、光州民主化抗争のさなかに死刑が執行された。

大法院長任命を前に、全斗煥大統領の指示を受けて政務首席秘書官の禹炳奎と秘書官の朴哲彦、孫晋坤が、兪泰興宅を訪れて面談した。記録として残っている兪判事の「忠誠の誓い」は異様なものだった。

 「個人的な親交もない私を大法院長候補として考えてくださっているだけでも光栄なことですが、任命されれば最善を尽くして任命権者(大統領)と国民に奉仕致します。分断国家の現実に照らし、司法府のトップは政治的な公安事件では政府に協力すべきであり、一般事件については所信に基づき、独立して判断しなければなりません。判事たちの任用に当たっては、国家観がしっかりせず、品位に欠ける人物は排除するほかありません」(兪泰興の書簡)

 ▽判事の堕落

 兪泰興大法院長のその後の行動は、このいじましいばかりの一途(いちず)さから寸分たりとも外れるものではなかった。大法院を担当した当時の安企部情報官の次のような評価が興味深い。

 「1980年末、金大中内乱陰謀事件が3カ月という超スピードで12審とも死刑判決が下され、続く大法院でも上告棄却というかたちで金大中の死刑が確定したでしょう。それは、金載圭の迅速な死刑確定に協力した大法院判事(兪泰興)が大法院長に上り詰めたからなのです。在野のほうで金大中に対する100日間の不法拘束について問題を提起していたが、法院(裁判所)は見て見ぬふりをしていました。その時、司法府の卑劣さを直接、目の当たりにしたのです」(のちの盧泰愚政権下、安企部改革を掲げて内部に設けられた安企部政策研究官を務めた厳相益弁護士が安企部情報官から聞いた話をまとめた記録からの引用)

 具体的に、どう卑劣だったのか。その安企部情報官は、こう語っている。

 「金大中の死刑確定に協力した裁判官の一人が権力内部の実力者をこっそり訪ね、全国区議員のポストを要求していたことが、わたしたち安企部のアンテナに引っかかりました。上のほうでその判事に、全国区議員の代わりに大法院判事のポストを推薦してやったといいます。そんな人物が大法院判事になって何カ月かしてのことでした。全斗煥政権がつくった社会浄化委員会に1通の投書が投げ込まれたのです。その人物の裁判官時代の女性問題に関するものでした。それで密かに内偵してみたのですが、大法院判事になる前、裁判所の女性職員2人と不倫関係にあったことが分かったんです。女性職員は、結婚後も関係を続けていたのでした。そんな事実を報告すると、上のほうで、その大法院判事を内々に依願退職させたといいます」

 ▽コネ人事

 5共時代の裁判所の人事は、安企部要員の目から見ても、あきれ返るばかりのものだった。

 「裁判官の中にも出世主義者が何人かいました。安企部のアンテナに引っかかった三流の裁判官たちに多かった。裁判所内部では実力もなく、無視されているような裁判官が、大統領の弟や兄のツテを頼って大法院判事にしてほしいと頼み込むようなこともありました。それで全大統領が大法院長を呼び出し、食事をいっしょにしながら、その裁判官を大法院判事にするよう指示したこともありました。『ソウル大出身者だけでなく、他の者たちにも大法院判事をやらせてみてもいいのではないのか』といった論理でした。裁判官らには冷笑するような雰囲気がありました。大統領の側近に手を回し、適当な名分さえ立てれば、実力がなくても大法院判事になれる――そんな自嘲の混じったもの言いが法曹界で流行っていました」

 ▽安企部が弱みを握る

 軍隊式に身内の頼みごとを聞いてやる人事にあっては、破格の出世もあった。

 「とんでもない出世をした裁判官もいました。あるとき、全斗煥大統領が大法院長に、地方裁判所のある裁判官をすぐに裁判所長クラスに昇進させたうえで青瓦台の秘書官として送り込むよう命じたことがあります。わたしたちの情報機関で調べてみると、その裁判官は大統領の弟にいろいろと働きかけていたことが分かりました。それで、そのような命令が下ったのでした」(以上、いずれも『月刊朝鮮』20216月号)

兪泰興体制となった裁判所は、その翌年の1982年、「27万ドルの不法搬出」事件[ソウルの金浦空港で大量の外貨が隠されたカバンが見つかった事件。これをきっかけに、大法院と検察のトップ幹部らが、高級料亭の女将たちによる賄賂工作などに深く関わっていたことが発覚した]で安企部に弱みを握られてさんざんな目に遭い、第5共和国時代の全期間を通してますます、権力の言いなりになっていったのだった。

                       訳:波佐場 清

2026年8月25日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(53)

 「カラスに代わるシロサギはいない」

国家安全企画部(安企部)が新聞小説の隅をほじくって作家を連行し暴行を加えたということは、それだけ部長の兪学聖が暇だったということでもあった。そんな合間を縫って兪学聖は訪米の旅に出た。

▽安企部長の米CIA訪問

19815月、米CIAへの公式訪問だった。

安企部から政治情報局長の金根洙、海外情報局長の李相悦、北韓(北朝鮮)局長の金泰叙が同行した。これは第5共和国(5共)がレーガン米政権と蜜月関係に入ったことの一つの証左でもあった。というのも、両国情報機関の公式交流は1961年に韓国に中央情報部(KCIA)ができて以来、初めてのことだったからである。

兪学聖は、新軍部が権力を奪取していった「1212軍反乱」や「517戒厳令拡大」の時期、ソウルで米CIA韓国支部長をしていたロバート・ブリュースターを、病気見舞いも兼ねて訪ねた。ブリュースターは、ワシントン郊外で癌と闘っていた。兪は、そんなかれに全斗煥大統領からの感謝状を手渡した。

▽新軍部の恩人

ブリュースターは、新軍部の政権から破格のもてなしを受けるに十分な資格があった。

かれは「1212反乱」に際し、米国人の中では真っ先に全斗煥に電話をした。

そして深夜、国防部長官の盧載鉉にも電話して崔圭夏大統領のところへ行くよう促した。夜が明け、グライスティーン米大使と全斗煥が初めて会うように仕向けたのもブリュースターだった。かれは「情報マン」らしく、まず現実を認めるというのが哲学であり、全斗煥の新軍部は、かれが間に入ってくれたおかげで、そっぽを向いた米国を説得することに成功したのだった。

全斗煥らの新軍部が韓米連合軍司令部の指揮下にある韓国軍第9師団第29連隊などを勝手にクーデターに動員した問題で、ジョン・ウィッカム駐韓米軍司令官(兼韓米連合軍司令官)が激怒した際にも、ブリュースターはグライスティーン大使とウィッカム司令官を相手に事態の収拾に乗り出し、波風を立てぬよう2人を説得した。

ブリュースターはとくに、金潤鎬(歩兵学校長をしていて「1212反乱」の翌日、いきなり対米窓口役として呼び出され、その後、合同参謀本部議長も務めた)と親しかった。金潤鎬に「ボボ(Bobo)」という英語のニックネームを付けてやったのもブリュースターであり、2人は家族ぐるみの付き合いをするほどの仲だった(『ウィッカム回顧録』)。

得意の英語を生かし、新軍部の対米国パイプ役を務めた金潤鎬

ウィッカムは、「1212」の直後、全斗煥、盧泰愚、黄永時を軍法会議にかけてやると息まき、クーデター成功後も2カ月以上にわたって全斗煥との面会を許可しなかった強硬な原則主義者だった。

そんなウィッカムが「クーデターを主導した者たちも、金潤鎬についてだけはすぐれた人物を選んだものだ」と回顧録に書いている。金潤鎬がブリュースターをそれほどまでにうまく丸め込んで新軍部の利益を実現していた、ということでもある。

▽「最善ならずとも…」

ブリュースターは、ウィッカムとグライスティーンを新軍部の側へ引っぱり込んでいった。

ブリュースターは2人に「全斗煥とは距離を置くべきだが、われわれ(米国)は、かれといっしょにやるしかない。ほかにやりようがないではないか」とずっと説得し続け、とうとう、そちらの方向に心を傾かせてしまったのである(『ウィッカム回顧録』)。

ブリュースターは1980年の「ソウルの春」に際し、グライスティーン大使に次のようなことまで言っていた。

「もし、全斗煥が(文民政権をひっくり返して)政権を完全に奪取しようと考えているのだとしても、それは国の安全保障を危うくしたり、北朝鮮の介入を挑発したりということではなく合法的になされるべきだ、ということをかれに納得させるべく、われわれとしてはベストを尽くすべきだ」

全斗煥は最善ではないにしても、米国にとっては「次善」だということだ。

ウィッカムのブリュースターについての回顧は続く。

「ブリュースターは全斗煥と個人的に親しくなったと言っていた。1212反乱についてまではあらかじめ知らされていたわけではなかったにせよ、2人は重要な問題について頻繁に意見を交わすまでの仲になっていた。ブリュースターはわたしに、自分と全斗煥の親密さを利用してもらっても結構だとも言っていた」

▽「誰が全斗煥に代われるのか」

801月、全斗煥らの新軍部に対して李範俊将軍らが逆クーデターを起こそうとしているとの情報にカーター米政権が未練を捨てきれないでいる時期があった。米本国では、米国主導による全斗煥排除を模索していた(『グライスティーン回顧録』)。ところが、ソウルでは、ブリュースターCIA支部長、グライスティーン米大使、そしてウィッカム駐韓米軍司令官がこの逆クーデター情報を握りつぶすことにした。

この時のブリュースターの立場と、大使の電文はこうだった。

「全斗煥にたいする軍部内の支持勢力が強く、かれを排除すること自体が難しいだけでなく、たとえそれに成功したとしても、だれがかれに取って代わるべきなのか、それが問題なのだ」(『グライスティーン回顧録』)

結局、グライスティーン大使は次のような電文を送ることになる。

「われわれ(米国)が排除しようとするカラス(全斗煥)に代わる、信頼するに足るだけのシラサギ(政治家)は見いだせない」(19804月)

 ▽北方外交へ布石

いずれにせよ、ブリュースターはソウルのCIA支部長時代、殺伐とした状況にあって、グライスティーン大使とウィッカム司令官を積極的に宥(なだ)めすかし、米国の立場が「現実容認・現状維持」となるようリードしたのだった。

そのブリュースターをパイプ役にすることで新軍部は米国を引き込み、第5共和国の発足へと突き進むことができたのである。反乱軍にすれば、ブリュースターは恩人そのものではないか。

兪学聖部長は米国で、駐米公使の孫長来(安企部要員)とドナルド・グレッグ(ブッシュ副大統領の補佐官)との間の水面下のチャンネルづくりもおこなった。兪学聖はまた、元CIA局長の経歴を持つブッシュ副大統領とも会って北朝鮮との南北高位級会談を後押ししてもらい、さらにはソウル-モスクワ、ソウル-北京間に水面下のチャンネルを設けるべく、米国に仲介してもらいたいと要請した。

このようにして兪学聖安企部長が交流の突破口を開くと、834月には米CIA長官のケーシーがソウルを公式訪問したりもした。この時の安企部長は盧信永に交代していたが、ケーシーは盧信永の案内で青瓦台も訪れた。ケーシーは情報分析官を同行させ、全斗煥大統領の前で北朝鮮に関する情報について詳細なブリーフィングをおこなった。

▽広がる民主山岳会

 1981年夏に入ると、金泳三の「民主山岳会」の同志は毎月、その数が増えていった。政治活動が縛られていた政治家たちだったが、暇つぶしがてらの山登りに興味を覚え始めたのだった。

登山の参加者が引き続き増えていくと、安企部は、会員にたいする監視はもちろん、脅しや暴行、懐柔といった弾圧で会の活動を妨害した。地方では不法な連行や軟禁がいよいよひどくなっていったが、それでも全国的に山岳会の組織は広がっていった(『金泳三回顧録』)。

厳しい政治の冬を解かす「登山の予熱」は、野党の同志たちに希望と自信を植え付けた。登山に始まったその温もりの広がりに、安企部は頭を悩ませた。

ただならぬ動きは食い止めておかなければならない。しかし、難癖をつけようにも、その取っ掛かりは見いだせなかった。

そうして1年ほどが経つうちに、その口実が見つかった。

▽金泳三、2度目の自宅軟禁

1982416日付ニューヨーク・タイムズに金泳三と山岳会に関する特集記事が載った。東京支局長のヘンリー・ストークスが「春の北漢山・大南門〜牛耳洞コース」の登山に同行して書いたルポだった。記事は次のように締めくくられていた。

「登山を終えた50人ほどの山岳会会員らは、こう叫んだ。『民・主・光・復』と――」

この記事を口実に、金泳三は82531日、2回目の軟禁となって自由を奪われた。

最初の軟禁が解かれてから1年でまた、自宅に閉じ込められることになったのである。

政治活動禁止の措置に背いたというのが表向きの理由だった。

しかし実のところは、山岳会と金泳三の活動によって民主化熱が広がるのを恐れたのだった。だからといって、山岳会員全員を締め上げ、コントロールすることは困難だった。会員たちはすでに準備運動を終えた状態にあり、山登りがしたくてうずうずしている彼らの活動を一挙に止めてしまうことはできなかった。

                       訳:波佐場 清

 

2026年8月22日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(52)

連載小説に難癖をつけ、拷問

金泳三が自宅軟禁されて1年になろうとしていた198151日、安企部(部長・兪学聖)の次長、玄鴻柱がソウル上道洞の金泳三宅を訪れた。

「きょうから兵力を撤収させます。もう、自由です」

その間、金泳三は自宅に閉じ込められ、ほとんど鬱病に近い状態になっていた。

▽足踏みランニング

毎朝5時に起きるのだが、行くところがなかった。活動できる空間といえば、広さ45坪の狭い庭だけだった。そこで毎日30分ほど足踏みのようなランニングをすることから一日を始めた。右回りに15分ほど走り、目が回ってくると、こんどは左回りに15分、といった具合だった。そんなことを狂ったように繰り返していると、芝生が剥がれて狭い庭は踏み固められ、まるで脱穀場のようにツルツルに光っていた(『金泳三回顧録』)。

金泳三は軟禁を解かれ、安企部の尾行と監視を意識しながら、李敏雨、金命潤、洪英基、金東英、崔炯佑、金徳龍、尹赫杓らと会い始めた。

 8169日からは金東英、崔炯佑、金徳龍らと北漢山へ登山にも行った。

「民主山岳会」の始まりだった。

金泳三に登山こそ許したものの、安企部のやることは相変わらずだった。

▽作家や新聞部長に拷問

奉斗玩(ニュースキャスター出身の元民正党国会議員)の話を聞いてみよう。

19816月のある日、三星(サムスン)グループの李健煕・副会長が国会議員の奉斗玩にたいしていきなり悪態をつき始めた。

「ひどい奴らだ。純真な作家や何の罪もない新聞の文化部長(中央日報文化部長の鄭圭雄)を電気拷問にかけるんだから。ほんとうに悪い奴らだ」

李健煕は怒りを爆発させていた。

奉斗玩と李健煕は、奉がワシントンで韓国日報の特派員をしていたときからの知り合いで、奉が東洋放送のニュースキャスターに移籍したのも李健煕の取り持ちがあったからだった。

▽軍事政権を風刺

19815月、兪学聖率いる安企部からむごい拷問を受けた小説家、韓水山のケース――

作家の韓水山(右)。左はバスケットボール選手の金裕宅
 安企部が問題にしたのは、中央日報の連載小説「欲望の街」の1981514日付と同22日付に掲載された一節だった。

「時どきテレビのニュースで見かける顔――。政府の高官がヘンに田舎臭い帽子をかぶって炭鉱町のようなところを訪ねて行っては、そこのおばさんたちと握手をする。おばさんたちは、自分たちのことをいろいろ聞いてもらえるのが、ただ恐れ多く、高官の差し出す手を握って恥ずかしそうに笑っている、そんな顔……」(514日付)

「世の中、ろくでもない男には何種類かあるものだ。その第一は、制服を着た者たちなんだから…。そのなかには軍隊に行ってきたこと以外、話すことがない者たちが必ずいるもんだ」(522日付)

▽後遺症

「ヘンに田舎臭い帽子をかぶった政府の高官」「ろくでもない、制服を着た男たち」というくだりが青瓦台や軍出身者らの神経を逆なでした[「田舎臭い帽子をかぶった」はズバリ、全斗煥大統領を皮肉ったとみられた]。かれらの過剰な反応、過剰な忠誠心がもたらした権力の乱用だった(奉斗玩の回顧)。

韓水山をはじめ、中央日報文化部の鄭規雄部長、同李殷允次長ら7人が23日ないし35日間にわたってボコボコに殴りつけられた。

この事件の巻き添えで捕まり拷問を受けた詩人の朴正萬(当時、出版社「高麗院」の編集長)は、その後遺症で何年か後に亡くなってしまった。韓水山とは出版の仕事で何度か会っただけで、ほかになんの関係もなかった朴正万だったが、「反政府人物」として生涯を終えたのである。

韓水山は作家の道を諦めなければならず、精神的に苦しんだ末に結局、1988年、日本に移住し、一時期をそこで過ごした。

▽作家の呻き

韓水山の呻きが記録として残っている。

「引き裂かれ、砕かれるわたしの全裸に降り注いだ棍棒、水、電気、拳と足蹴り、吊し上げ。そして、干し魚(イシモチ)を縄で連ねるかのように芋づる式に引っ張ってきて、なにか、同じゴルフコースでもいっしょに回わらせられているような、わたしの情愛深かった先輩や友人たち。わたしにはまだ、わからない。一人の作家――『散文詩のような言語と、愛と死の美学』を描き出すという、批評的な修飾語を名前の上にくっ付けて生きる、そんな一人の作家を絞りに絞って、いったい彼らは何を得ようとしたというのか」(奉斗玩『ニュースキャスター』より)

                     訳:波佐場 清

2026年8月19日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(51)

 「市民を虐殺した銃剣権力を審判しよう」

19813月の総選挙への立候補が厳しく制限される中、野党民韓党の公認審査にパスしたとの連絡を受けた朴寛用が党本部に出かけていくと、第1次公認者名簿の中の2人に赤線が引かれていた。朴寛用と金炯国(金大中の元秘書)だった。

▽公認名簿を軍が検閲

2人は公認審査委員長である辛相佑(のちに7選され、金泳三政権で海洋水産部長官)の部屋に怒鳴り込んでいって質した。辛相佑の反応は意外だった。

全斗煥政権初の総選挙は厳しい規制下、19813月におこなわれた

「静かにしていろ、身の安全を考えろというんだ」(辛相佑)

野党の公認者名簿を軍部が押さえ、検閲しているのだった。新聞の政治ゴシップ欄には「見えざる手が働く民韓党の釜山東萊支部」という記事が載った。辛相佑は再び、朴寛用を呼んだ。

「複数公認であっても受け入れる気はあるか」

こうして全国の地方区で唯一、その東萊選挙区だけに同一党から複数の公認候補が認められたのだった[当時、地方区は各選挙区定数2の中選挙区制で、与野党各1議席が指定席のようになっていた]。競争相手となる同じ民韓党の朱某という候補は、新軍部の実力者である李鶴捧(保安司令部の大佐)の近所の住人だった。ところがその朱某は、地方区の選挙運動が負担になりすぎたのか、(比例代表制の)全国区に回ると言って東萊選挙区からの立候補を辞退した。こうして事実上の対戦相手は野党国民党の梁燦宇に替わった。

 ▽「韓国のブルータスになる」

 コップの中の嵐ともいえた、この第5共和国の選挙――第11代総選挙も、選挙は選挙だった。

これは、釜山東萊選挙区から立候補した朴寛用の物語である。

事実上、与党民正党の1人(金鎮載が公認され、当選した)と、野党の1人を選ぶ選挙だった。与党候補は最初から当選が決まったようなものだったが、野党の国民党候補である梁燦宇(第710代議員、内務部長官などを歴任)と民韓党の朴寛用は、血みどろの戦いを繰り広げることになった。資金もバックもない無名の朴寛用は、迫力あふれる演説をして名前を売り込むしかなかった。

「政権は民意から生まれたものでなければなりません。ところが、いまの政権は銃口から生まれたのです。光州で、戦車で市民を虐殺して権力を握ったのです」「全斗煥が民主主義をやらないなら、シーザーにブルータスが短剣を突きつけたように、わたしが短剣を手に取り、韓国のブルータスになってみせます」

釜山の市民らはどよめき、朴寛用に拍手を送った。

 ▽圧力、官権介入

 そんなある日、商売をやっている兄が、朴寛用にメモの紙切れを見せながら言った。

「南川洞(安企部釜山支部の所在地)に呼び出されて行ってきた。おまえ、いまのような演説はやめてくれないか」

 メモには7項目か8項目の「注意・警告事項」が書かれていた。

 官権の介入もひどかった。

 東萊警察署長の許某という総警[日本の警視正クラスに相当]の指揮の下、朴寛用の運動員は名刺を配っただけで道交法違反で連行された。一方で、民正党と国民党の運動員は、現金入りの封筒をばらまいても目をつむってやっていた。

 東萊選挙区にある42の洞[行政区の単位。日本の町内に相当]では、洞長たちがまるで秤(はかり)で測ったかのように、きれいに半分ずつに票割りをし、それぞれ民正党と国民党の候補を応援した。ただ、あきれるばかりだった。この選挙で初当選した朴寛用は選挙後、国会内で民正党の有力議員となっていた権正達の話を聞き、謎が解けた[新軍部の中心人物の一人だった権正達はこの選挙に向けて陸軍准将で退役。民正党の結党を主導して初代事務総長(幹事長)になり、自らもこの選挙で初当選していた]

 ▽政治工作

 権正達は、朴寛用にたいし「すべてが政治工作によるものだった」と、こう明かした。

 「今だから率直に言うんだけど、国民党には総裁を担えるだけの人材がおらず、梁燦宇氏を当選させて総裁にしようとしたんですよ。それで、わたしが東萊に1週間ほど滞在してテコ入れをしたんだが、朴議員がしぶとく当選したおかげで、こちらの計画が狂ってしまったというわけです」(『朴寛用回顧録』)

                         訳:波佐場 清