2026年4月21日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(11)

  ■「これ、内乱ではないか?」

1212反乱」の夜だった。

崔圭夏大統領の指示で内閣改造案をまとめた申鉉碻総理は午後8時ごろ、三清洞の総理公邸へと向かった。崔大統領はまだ青瓦台に入らず、総理公邸にいた。それで、申総理は自宅から通勤していた[19791026日、朴正煕大統領が暗殺されると、憲法の規定により国務総理の崔圭夏が即座に大統領権限代行に就任。126日、旧憲法に基づく間接選挙で大統領に選出されていた]

崔大統領と申総理が組閣の話し合いを終えようとしていた矢先、全斗煥合同捜査本部長(保安司令官)が「大統領に決裁をいただくことがある」と言って入ってきた。黄永時(第1軍団長)、車圭憲(首都軍団長)、兪学聖(軍需次官補)、朴煕道(第1空挺旅団長)が軍服姿で、ぞろぞろと押しかけるさまは、まさに武力示威そのものだった。

▽申鉉碻総理が抵抗

「何の決裁ですか?」

「鄭昇和参謀総長逮捕の件です」

申鉉碻がすっくと立ち上がった。

「全本部長、正気ですか? 上官の鄭総長を逮捕するというのですか?」

「朴大統領殺害事件に結末をつけるうえで、やむを得ないことです。逮捕班が出動したので、いまごろはもう終わっているでしょう。遅れましたが、ここにサインしてください」

「どうして、事前の決裁も受けずに、こうなんですか。問題を起こしておいてから、事後に決裁を受けたいなんて、話になるとでも思っているのか」

二人は押し問答し、激しく言い争った。崔圭夏大統領が一言いった。

「国防部長官の決済もない。手続きを無視して、まず、連行から始めるなんて…。本末転倒にも、程があるというものです」

この時以来、秘書室から、ただならぬ報告が入り始めた。

「国防部で銃撃戦が繰り広げられ、ソウル市内某所を○○部隊が占領しました!」 

崔大統領と申総理はその間、軍部でこのような反乱の芽が育っていようとは夢にも思わなかった。

1026」の朴正煕大統領暗殺現場から50メートルほど離れた別棟に鄭昇和参謀総長が呼ばれていたのは事実だ。しかし、軍部や外国勢力がそこに介入していなかったことは、すでに明らかになっているのではないのか。

▽参謀総長公邸で銃撃戦

申鉉碻総理が崔大統領に向かって言った。

「このままでは大変なことになります。絶対に決済されてはなりません。ところで、おまえたち、国防部長官の決済はどうしてないのだ?」(申鉉碻

「いま、連絡が取れません。どこにおられるのか、分かりません」(全斗煥)

全斗煥は、国防部長官の決裁がなくても大統領に直接報告して承認を得た前例も多い、と言い逃れた。1950年代、自由党政権時代に特務隊長の金昌龍が李承晩大統領に、さらに70年代には保安司令官の姜昌成が朴正煕大統領に、それぞれ長官を飛び越えて報告し実行に移してきた、と詭弁を並べ立てた。事を起こしてしまったからには、決裁を受けなければならなかった。すでに漢南洞の参謀総長公邸では銃撃戦が繰り広げられ、流血の事態となっていた。崔大統領もまた、そんなクーデター組の将官たちの腹の内を見抜いていた。

▽「北が攻め込んできたら…」

「いま、状況はどうなっているんだ?」(申)

「鄭昇和総長はすでに逮捕されていますが、陸軍本部の指揮部で反発が起きているようです」(全)

「反発だと? 状況をありのままに報告しなさい」(申)

「鄭総長が逮捕されたので、陸軍指揮部で抵抗が生じました。それを鎮圧するために、わが方の首都警備司令部と第9師団がすでにソウルに入りました。陸軍本部では銃撃戦がおこなわれています」(全)

「これは内乱ではないか。こんなことをしていて北朝鮮が攻め込んで来たりでもしたら、どうするつもりなんだ」(申)

1212反乱」で出動した戦車

申鉉碻は、崔大統領と二言三言ことばを交わしたあと、○○師団を電話で呼び出すよう命じた。

師団長はソウルに向かっている途中だという。

「どうして事前承認もなく移動しているんだ。ここに大統領閣下が、わたしの横に座っておられる。国軍統帥権者の指示もなく、どうして動くんだ。元の部隊に戻れ! これは大統領の命令だ。即刻、戻れ」

それでも、部隊は景福宮に置いた第30警備団の反乱指揮部の指示通り、ソウルに入って来ていた。

申総理が反乱軍の出動を阻止しようとしていたその間に、反乱を制圧すべき陸軍本部側の兵力動員は国防長官の盧載鉉によって制止されてしまう。

▽反乱軍を「容認」

国防長官の盧載鉉は午前零時ごろ、合同参謀本部本部長の文洪球に、こう指示した。

「全斗煥と電話で話したが、鄭昇和将軍を逮捕するだけで、ほかに何の目的もない。今後も軍内部に変化はないはずだから、安心しろ。首都警備司令部の中にいる将軍たちにもうまく話して、興奮しないようにさせろ。景福宮の第30警備団にいる黄永時、兪学聖、車圭憲将軍らも皆、道理の分からない人間ではないのだから、静かに事を処理するようにしなさい」 

合同参謀会議議長の金鍾煥、中央情報部長の李熺性からも同じような電話が来た。

「兵力の出動はしなかっただろうね?」

しかし、この時刻、決起部隊は、第1空挺旅団をはじめ、次々とソウル市内に入って来ていた。

陸軍本部側の敗色が濃くなっていた。

▽首都警備司令官らの抵抗

首都警備司令官の張泰玩は、戦車何台かを動員して西氷庫[保安司令部捜査分室があった]の鄭昇和総長を救出しようと試みたが、無駄だった。戦車長や操縦士らは、司令官の命令だと言っても、言うことを聞かないというのだ。配下の第30警備団長である張世東に「すぐに来い」と命令しても「行けない」と抗命するのだった。「ハナ会」の結束が、軍の命令系統を破壊していたのである。

張泰玩は、陸軍特戦司令官の鄭柄宙にも電話をしてみた。

特戦司令部の1個大隊の兵力だけでも、首都警備司令部に送ってもらえないか、と聞いた。しかし鄭柄宙も「(部下たちが)決起軍に取り込まれてみな、部隊を離脱していて言うことを聞かないので自信がない」という。鄭柄宙はその直後、部下の崔世昌が率いる第3空挺旅団員のM16小銃に撃たれ、腹部貫通傷を負って倒れた(目を開けて見ると、順天郷病院だった)。かれの秘書室長だった金五郎少佐は反乱軍によって射殺された。

▽ごみ箱に隠れた国防長官

国防長官の盧載鉉は、全斗煥が計算した通り、反乱軍の側についた。

盧載鉉は「1212」の夜10時ごろ、全斗煥と電話で話した。

その際、盧は全斗煥を通して緊迫した状況を把握した。しかし、陸軍本部系統(鄭昇和側)と反乱軍の武力衝突の真っ最中で、巻き込まれて撃たれないかと急に怖じ気づいた。盧載鉉は午前1時、第1空挺旅団と国防部の屋上にいた首都警備司令部の兵力との間で起きた銃撃戦の音に怯え、国防部庁舎の地下1階にある薄暗い階段に身を潜めていた(保安司令部の実力者の一人によると、階段下のごみ箱の中だった、という)。

そのまま、なんと午前3時ごろまで隠れていて、捜索兵に見つかると、「わたしだ、国防長官だ」と言って、ひょっこりと首を出した。

▽反乱を追認

1213日午前3時ごろ、絶望に陥った張泰玩首都警備司令官に盧載鉉長官が電話をかけてきて、こう言った。隠れていた長官にしては、堂々としていた。

「おい、張泰玩! おまえ、どうして戦うことばかり考えるんだ。言葉で解決しろ、言葉で…。血を流してはいけない、というんだ」

「血を流すも何も、もう、終わりかけています。指示を出してください」

「兵力を撤収させ、終わらせるようにしろ」

張泰玩は記録を残している。

「漢南洞の参謀総長公邸で銃撃戦が始まってから8時間も姿を見せなかった盧長官が、戦勢が合同捜査本部(反乱軍)側に完全に傾いたあとになってようやく現れ、『中止』の命令を出したのだ。かれの真意に疑問がわき、はらわたが煮えくり返るような痛みを感じた」

それより前、盧載鉉長官は、陸軍参謀次長の尹誠敏が鄭昇和総長に代わって指揮権者となり、反乱軍に対抗しようとすると、その尹に命じていた。

「各部隊を掌握し、絶対に動けないようにしろ。兵力の出動は、あってはならない」

第3軍司令官の李建栄中将[非ハナ会。反乱成功後、強制的に予備役に編入された]にも同じような指示を出していた。

▽騙し討ち

こうなる直前、参謀次長の尹誠敏は、(「ハナ会」とは繋がりのない、短期の幹部候補生教育を受けた甲種出身の)尹興起旅団長が率いる第9空挺旅団に出動を命じていた。この第9空挺旅団が出動すると、反乱軍の指揮部は驚愕した。もし、第9空挺旅団が、反乱軍の第1空挺旅団よりも先にソウルに着いたとしたら、大きな衝突と銃撃戦が予想されたからだ。

この時、尹誠敏は盧載鉉長官と兪学聖からの電話を受け、ソウルに向かっていた第9空挺に引き返しを命じる。

事態を円満に解決するため、双方の部隊が原隊に引き返すと約束し合ったというのだった。この約束にしたがって第9空挺旅団は引き返した。ところが、朴煕道の第1空挺旅団はこの約束に背いて出動し、陸軍本部と国防部を占領してしまった。張泰玩や文洪球ら鄭昇和総長側の勢力は、完全に騙し討ちに遭ったというわけだった。

午前零時が過ぎ、第135の各空挺旅団のほかにも、第9師団第29連隊など決起部隊が続々とソウルに入ってきているとの報告が陸軍本部に入ってきた。安鍾勲将軍[当時の陸軍本部軍需参謀部長]は、こう言った。

「これは綿密に計画されたクーデターだ。こちらはもう、お手上げだ」

通信傍受系統を握っていた保安司令部の全斗煥一味は、陸軍本部の動きを手に取るように掌握しながら反乱軍を出動させ、クーデターを成功させた。そのような反乱軍に協力した金鍾換(合同参謀議長)はその後、内務部長官に、そして李喜性(中央情報部長)は陸軍参謀総長に、それぞれ栄転していった。反乱軍を助けた見返りであり、論功行賞だった。

                        訳:波佐場 清

2026年4月18日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(10)

  ■「全斗煥を軍法会議にかけろ」

 1979年の「1212」事態は軍事反乱であると究明された。

 大法院[日本の最高裁に相当]で確定した裁判結果(1997年)でもある。

 しかし、第5共和国政権と全斗煥をありのままに正しく理解するには、法の判断だけでなく、重層的な資料や証言、回顧録(駐韓米大使や駐韓米軍司令官のものを含む)を通した立体的な再点検が必要だ。

 ▽「516」と重なる「1212

あの日夜、盧載鉉国防部長官が見せた無責任な逃亡と優柔不断な振る舞い(当時の国務総理申鉉碻の記憶)が結果として反乱軍を助けることになったことは、指弾を免れ得ない。「5・16」の際、張勉政権と、朴正煕らが率いる反乱軍の間で二股をかけた張都暎陸軍参謀総長のことを彷彿とさせるのである。

 文洪中将(当時、合同参謀本部本部長)の証言――。

文洪球中将(左)とウィッカム米第8軍司令官=1976

1212決起の数週間前、米第8軍司令官のジョン・ウィッカム将軍が、『陸士出身の将官らを中心に、ただならぬ政治的な動きがある』との情報をくれた。その時、盧載鉉・国防部長官の執務室へ行ってそのことを話した。すると盧長官は『わたしも全斗煥将軍を呼んで確かめてみたんだが、そのようなことは絶対にないと言っているので安心しろ』と言っていた」

 ウィッカム司令官は、その情報ソースを回顧録で公開している。

 韓国軍の長老格だった李亨根(1920~2002/陸軍参謀総長、合同参謀会議議長を歴任)将軍から聞いた情報だった。

 李亨根は軍事反乱が起きる半月ほど前の7911月末、ウィッカムを訪ね、「陸士111213期の連中に不満がたまっている。(昇進が停滞して)軍の経歴が危うくなってきている中佐、大佐クラスの不満はとくに大きい」と心配していた。

 当時流れていた情報や噂には、大きく二通りあった。

 ▽人事停滞で不満

 一つは、軍部の人事停滞で積もった陸士出身らの不満だった。

 反乱が成功した後、実力派の大佐は言った。

 「鄭昇和が実権を握り続けていれば、こんご10年は居座っていただろう。そうなると、陸士の11期から17期まではさらに10年待たなければならなかった。(決起に成功し)われわれ1212に加わった大佐クラスが、先輩らの軍服を脱がすことに乗り出したのは事実だ。朴正煕政権の18年間、軍が肥大化しないよう巧妙に手なずけていたので、佐官クラスに不満がたまっていた。ワシは、軍生活18年間というのに、月給は17万ウォンにしかならない」

これは、この大佐が記者たちの前で公言したことである。朴正煕がいなくなった後の権力の空白を陰湿に狙っていた、という話である。

▽「ハナ会と陸士の時代」狙う

いま一つは、鄭昇和の逮捕によって「ハナ会と陸士の時代」を開こうというものだった(とはいえ、現実問題として相手の鄭昇和が戒厳司令官とあっては、そう容易なことではなかった)。

目に見えない鄭昇和と全斗煥の対立・葛藤構図のなか、反乱組は鄭昇和を引きずり下ろしたかった。根っからの朴正煕派である全斗煥の保安司令部(合同捜査本部)は「鄭昇和は1026事件の日の夜、ソウル宮井洞の大統領暗殺現場近くにいた。金載圭の犯行を知りながら何時間も躊躇していた」と言いがかりをつけ、内乱幇助の罪を着せようとした。ところが、合同捜査本部捜査第1局長の白東林大佐と李健介検事は「筋が通らない」とそれに反対した。すると、全斗煥らハナ会側は「魚釣り(暗殺)はいっしょにしなかったとはいえ、鍋料理(権力)にはあずかろうと考えていた」(李鶴捧捜査局長)という論理で反論をかわした。

▽陰謀知っていた国防長官

文洪球中将は国防長官の盧載鉉から「全斗煥は疑わないでいい。安心しろ」と言われても半信半疑だった。

 文洪球は、合同参謀本部情報局長の金容今将軍を呼び、さらに調べて分析するよう命じた。果せるかな、全斗煥一味が陸士出身者と「ハナ会」を使って何かを画策しているような気配があった。文と金の二人は再び、国防部長官の執務室へ行った。

 すると、盧載鉉長官は激昂し、老眼鏡を投げ飛ばしながら怒鳴り散らした。

 「違うんだ。それなのに、どうしてまだ、そういうことを言うんだ」

 18年前の朴正煕らによる軍事クーデターの際、二股をかけていた陸軍参謀総長の張都暎は、国務総理張勉の秘書室長だった鮮于宗源にたいしてイラつきながら、こう言い返していた。

 「朴正煕が、そのようなこと(クーデター)はやらないと言っているのに、どうしてそう騒ぐのですか? わたしがみんな調べてみたんです」

 あの時と、そっくりそのままではないか。

 盧載鉉は全斗煥の陰謀を知っていたのである。

 しかし、知ってはいたものの、「まさか」とでも思っていたのだろうか。あとで、新軍部の大佐が記者ブリーフィング(801月中旬)で率直に明かした。

 「全斗煥司令官は、盧載鉉国防部長官に鄭昇和の逮捕を3回も進言していた。2回はすげなく拒否され、3回目は、面と向かってこっぴどく怒鳴られた。そうしているうちに、逆に全斗煥司令官は東海(日本海)防衛司令官に追い出されるとの噂が聞こえてきた。さらに鄭昇和は1213日の内閣改造にあわせて自分の勢力である崔世寅か朴英洙将軍を後釜に据えようとしていることが分かり、全斗煥は決起を決心した。どちらが先手を打つかは双方、3日か4日の差しかなかった」

 盧載鉉長官は双方の動きを、手に取るように把握していた。それでいながら、知らぬふりを決め込んでいた。内心、悶々としていたというべきか。

 ▽国防長官頼みに決起

 全斗煥は盧載鉉長官を頼みの綱にしていた。

 反乱を起こしたからといって、まさか自分(全斗煥)を銃で撃ち、討伐することはあるまい。まだ若造だった自分を保安司令官に推挙してくれた盧長官ではないか。そして、69年に陸軍参謀次長(盧載鉉)―参謀総長首席副官(全斗煥)として出会って以来10年にわたって培ってきた同郷人(慶尚南道)としての、実の兄弟以上の太い絆があるではないか。

 総理の本心を探索

申鉉碻(当時、国務総理)の証言も客観的で、耳を傾けるに値する。申総理は新軍部の中心メンバーたちと同郷であり、TK[大邱・慶尚北道]人脈のゴッドファーザーとも言われていた。 

そんな申鉉碻に全斗煥が80年春、「崔圭夏に代わって大統領を引き受けてください」と頼んだことがある。

 「お前が何さまだと思って、一国の総理に向かって大統領をやれとか、やるなとか、と言うんだ。生意気な奴(やつ)」

 申鉉碻は後輩の全斗煥に向かって、こう言い放った。

 それは探索だった。全斗煥は一喝されても内心、ほくそ笑んでいたことだろう。

 当時、首都警備司令官だった盧泰愚も、申鉉碻の弟と慶北高校の同期という関係にあり、それを頼りに申総理に近づいて大統領に担ごうとしたことがある。そのときも申鉉碻は断固として首を縦に振らなかった。

 1212反乱から20余年後、申鉉碻2007年に死去)が残した肉声のテープ40余本を、息子の申喆湜(国務調整室次長などを歴任)が整理して『申鉉碻の証言』として出版した。この本は、反乱の真相と本質を知るうえで参考になる。

                           訳:波佐場 清

2026年4月15日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(9)

  第2章 反乱軍のピンチ、そしてチャンス

 ■南侵トンネル発見

1師団長時代の全斗煥にとってラッキーだったことの一つに、南侵トンネルの発見がある。

北朝鮮が休戦ライン一帯でトンネルを掘っているという話が、逮捕されたスパイの口から出てきた。それで、全斗煥がその地域の師団長に赴任する数年前から、西部戦線一帯でトンネルを探すボーリング調査が続けられていた。しかし簡単には見つからず、トンネル自体、そもそもないのではないか、という懐疑論も持ち上がっていた。

前任の師団長である禹鍾淋は発見できず、苦労ばかりで離任していった。前任者の蒔いた種は、全斗煥のところに実となって転がり込んだのである。

全斗煥は「粘りと幸運のたまものだった。トンネルの有無に関する論争を抑え込み、最後まで米軍の掘削協力を得たことが功を奏した」と語った。その功労で「5・16民族賞」も受賞した。

▽独裁正当化の口実

トンネルが持つ政治的な意味合いは大きかった。

78年ごろ、米国のカーター政権は、人権弾圧を理由に朴正煕の維新体制に圧力をかけていた。朴正煕の核兵器開発を牽制し、在韓米軍撤退カードで脅すなど、韓米関係は激動の渦中にあった。外務部長官の朴東鎮までもが「ぎこちない関係(inconvenient relation)」と吐露していた時期だった。米国の政界やメディアでは、朴東宣によるロビー活動[韓国人実業家の朴東宣がKCIAの指示で米国会議員らに多額の賄賂を渡してロビー活動をした事件]や金炯旭の証言[KCIA部長の金炯旭が米下院委員会でおこなった朴正熙政権の対米ロビーに関する暴露証言]といった「コリアゲート」で、韓国バッシングが流行っていた。

トンネルの発見は、そんな中にあって北朝鮮による南侵の企みを世界に知らしめ、維新独裁を正当化する口実にされた。朴大統領にとって「孝行息子の全斗煥」は、ありがたくないはずがなかった(許和平の回顧)。

▽幸運重なり、全斗煥の天下に

振り返ってみると、1979年は何かに取り憑(つ)かれたかのようだった。神がかりな運命のいたずらは、ほかにもあった。戒厳下や戦時には「保安司令部が中央情報部の上位に立つ」とする大統領令に朴正煕が署名を済ませたところで、「1026」を迎えたのである。戒厳令下にあっては、保安司令部(合同捜査本部)が情報部や検察、警察などすべての捜査権力を統制することになっていた。このことは全斗煥にとって、まさに驚くべき幸運だった。

 70年代後半は、情報部が圧倒的な力をふるった時代だった。

 国防部と保安司令部は、前々から主張してきていた。「いくら情報部が捜査機関の調整権限を持っているからといって、戒厳令下や戦時にあっては当然、軍令権者の諮問・参謀としての役割にとどまるべきだ」というのである。正論だった。しかし、情報部のパワーに押されて苦汁をなめるばかりで、進展はなかった。ところが793月に全斗煥が保安司令官になり、朴正煕の信任を勝ち得たおかげで、朴正煕は亡くなる間際に、この大統領令改正案に署名していたのである。

 こうして戒厳令下、合同捜査本部長となった全斗煥の天下が来たのである。

 ▽「朴正煕の遺志」

 「(大統領を暗殺した)犯人は中央情報部です」

 「1026」の翌27日、軍・検察・警察からなる合同捜査本部で発した全斗煥の第一声がこれだった。

「10・26」事件について発表する合同捜査本部長の全斗煥保安司令官=1979年10月28日

 すべての捜査機関を保安司令部の下に服従させ、その「捜査権力」によって、上官である鄭昇和戒厳司令官まで急襲して軍の主導権を握ることができた。そして、80年には戒厳令を全国に拡大する「517クーデター」によって政権まで奪取した。この保安司令部への捜査権力一元化こそが、朴正煕の遺志だと新軍部が言い張るポイントなのである。全斗煥もまた、「朴大統領は、ご自身の最期とその後のことをわたしに託そうとして、あんなにも早く、わたしを保安司令官に任命されたのだなあ、と思うと、因縁の恐ろしさを感じた」と言っている。(『全斗煥回顧録』)

 ▽経済を勉強

全斗煥が経済を勉強していた、というのも突飛な話だ。

793月に全斗煥が保安司令官になって何カ月かすると、唐突にも経済を勉強すると言い出した。経済科学審議会事務局長の朴鳳煥(のちに財務部次官、動力資源部長官)を三清洞入り口の保安司令部にこっそりと呼んで経済を教えてほしい、と願い出た。

「経済を知らなくては軍の情報機関も務まらないと思うようになりました。先生は財務部で理財局長もやられ、大統領閣下の信認も厚い。わたしに経済をすこし教えていただけないものでしょうか」

軍の将官にしてはすこし入れ込み過ぎといえる、この経済学習の意欲はどこからきたものかは謎である。

どうして朴鳳煥だったのか? 彼は、のちに盧泰愚政権の経済首席秘書官となる金宗仁の義弟だが、全斗煥とのつながりは、なかなか思い浮かばない。

  エコノミストの李璋圭(元中央日報編集局長)の解説――。

「経済科学審議会常任委員長の張徳鎮が推薦したのだ。朴正煕大統領は大きな経済イシューが生じると、経済企画院、韓国開発研究院(KDI)、韓国銀行、経済科学審議会の4カ所から報告を受けて最終決定を下した。張徳鎮委員長が率いた審議会に朴鳳煥は、生え抜きの財務官僚として派遣されていた。それで、全斗煥司令官は張徳鎮に頼み、張が朴鳳煥を推薦したというわけだ」

▽バタフライ効果

全斗煥の経済勉強――。スパイを捕まえる保安司令官には似つかわしくない向学心だが、後日、かれ自身と第5共和国に大変なバタフライ効果を生むことになる。

全斗煥は一生懸命に勉強したという。

 朴鳳煥は週に2回ほど保安司令部を訪れた。そうして、経済政策とは何であり、物価の安定がどうして重要なのかを教え、「インフレはヒトラーの養子」だとか、「資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだ」(レーニン)といった比喩で、この軍人の頭に経済学を植え付けた。

 これが、全斗煥が第5共和国の期間を通して、物価の安定に異常な執念を持つことになったきっかけである。

 こうして始まった経済の勉強だったが、その後、家庭教師として金在益金基桓、司空壹、車秀明、劉甲寿らが登場してくる。かれらは後に全斗煥政権の「経済ブレーン」として抜擢され、経済首席秘書官(金在益)、KDI院長(金基桓)、商工部次官補(車秀明)、金融通貨委員(劉甲寿)などを務めることになる。

                           訳:波佐場 清

 

2026年4月10日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(8)

 ■車智澈と盧泰愚への、おせっかい

全斗煥の世話焼きのおかげで盧泰愚は、ベトナム派遣が決まった全斗煥から陸軍参謀総長の首席副官というポストを引き継ぐことになった。

全斗煥はベトナム派遣中、朴正煕大統領から情愛たっぷりの直筆の慰問の手紙をたびたび受け取っていた。1971年にベトナムから帰ると、全斗煥はまたしても第1空挺特戦旅団長に抜擢された。破格の人事だった。そして、さらに驚いたことに73年、同期で最も早く准将に昇進して将官の星をつけたのだった。

76年には、青瓦台警護室作戦次長補に補される。陸英修女史が暗殺された後[朴正煕大統領夫人の陸女史は74年、在日韓国人の文世光によって殺害された]75年に朴鍾圭が警護室長を退き、その後任として車智澈が警護室長になっていた。

▽「軍を辞めます」

全斗煥は、この人事に不満を爆発させた。

車智澈室長の方が年も若く、陸士出身の先輩でもない。それなのに、その下で働けというのだから自尊心が傷ついた。後輩の朴世直(陸士12期、ハナ会。のちにソウル五輪組織委員長)が国防部長官徐鐘喆の補佐官だったので、そんな彼を通して徐長官に会いにいった。

「軍を辞めて、予備役に退きます」

すると、徐鐘喆長官は朴大統領直筆の署名(煕)が入った決裁書類を見せながら、宥(なだ)めた。全斗煥はすでに、大統領が特別に目をかけ、長官が宥めなければならないほどの将軍になっていたのである。

▽車智澈のコンプレックス

全斗煥は、車智澈警護室長の下、顎で使われる辛い日々を送った。

全斗煥が警護室作戦次長補に発令されると、車警護室長も緊張した。大統領閣下の寵愛を一身に受ける全斗煥のことが気になって仕方がなかった。

全斗煥はよく、こう振り返った。

車智澈は、ワシが警護室長のポストを横取りするのではないかと戦々恐々としていた。大統領の信任が奪われるのではないか、と恐れていた。ともかく、軍の司令官クラスの中将を次長に置いているところへ、さらに准将のワシまで部下扱いだ。

車は、もともと陸士の試験に落ちて将校になったことに大きなコンプレックスがあった。60年代初め、ワシが少佐だった時のことだ。米国の特殊戦(レインジャー)訓練部隊に一緒に委託教育を受けに行ったことがある。崔世昌、張基梧[ともに陸士出身で、後に「ハナ会」の主要メンバーとなる]もいっしょだった。その時、車智澈は失敗をしでかし、本国送還になるところを、ワシが助けてやったんだ。そのさい、車智澈はワシに『兄貴分として仕えたい。実のところ、陸士12期の試験に落ち、歩兵学校を出て将校になったんだ』と言っていた。それ以来、ワシには頭が上がらず、這いつくばるようにしていたもんだ」(全斗煥の肉声証言)

▽全斗煥に忠誠誓う

「ハナ会」の全斗煥の後輩らは、車智澈の本国送還の危機について、こんなことを言っていた。

全斗煥少佐は、米国でいっしょに訓練を受けるときまで、車智澈大尉が空挺団の一員として「516」に加わったということを知らなかった。

米国では、南部の湿地帯を横断する訓練があった。

米国で特殊訓練を受ける全斗煥

個人の装備と、やたらと重い機関銃のような重火器を背負って徹夜の行軍をした。重たい重火器は何人かで交代して担いだ。車大尉に順番が回り、それを担いで沼地をかき分けて進まなければならなかった。ところが、小柄な彼は沼地でもがき、泥水を飲んでしまう。それなのに、だれも手を貸そうとはしなかった。ようやく代わってもらえたのは、ほとんど沼地を渡り切ったころだった。車大尉は、はらわたが煮えくり返り、拳を振り上げて米兵に殴りかかった。 

この事件で、車智澈は懲戒委員会にかけられた。このとき、全斗煥少佐は韓国軍の先任将校として懲戒委に呼び出された。崔世昌と張基梧も同じ訓練課程にいたが、先任として全斗煥が呼ばれたのだった。全斗煥はそこで、米兵らを前に拙い英語で熱弁をふるった。

「米軍の兵卒が韓国軍の将校を監督するというのは、自尊心が傷つけられる。そんなところへ、小柄な者に重たい重火器を担がせ、交代してやらないというのは、韓国ではあり得ないことだ。だから、あんな不祥事が起きてしまったのだ」

車智澈は「退校―即刻本国送還」となるところを、全斗煥のおかげで罰点をもらうだけで済んだ。それで、車智澈は全斗煥に自分の過去を打ち明け、「兄貴分として仕える」と忠誠を誓ったというのである。

▽屈辱の査閲式

そんな車智澈だったが、いざ、上司となった途端に変身し、全斗煥をいじめた。

766月、車智澈警護室長としては、過去に負い目があって気まずい存在だった全斗煥を部下に持つことになった。車は、全斗煥を萎縮させるため、「のけ者」にした。そんな下心を見透かしていた全斗煥は、苦しんだ。

友人の盧泰愚に、心の内を打ち明けたりもしていた。盧泰愚は書いている。

「全斗煥将軍にとって最もプライドを傷つけられ、耐え難かったのは、車智澈室長が土曜日ごとに、降旗式[韓国の軍隊や役所などで、始業時に掲揚した国旗を業務終了時に降ろす儀式]をおこなうと言って、景福宮の第30警備団練兵場に来賓(陸軍参謀総長や将官、長官、国会議員ら)を招いて、査閲と分列式をやらせることだった。車室長が臨席上官[閲兵の主役]になり、作戦次長補の全将軍は、練兵場で部隊の指揮をとらなければならなかった。全斗煥将軍は、何度かそのことだけは勘弁してほしいと頼んだが、車室長は一言の下に、はねつけた。車は、査閲式に出るのを最上の喜びにしていたという。わたしは内心、車智澈って人は、ほんとうに意地悪なんだな、と思った」(盧泰愚回顧録)

▽盧泰愚には、親切に

しかし車智澈は、全斗煥の後任として盧泰愚が作戦次長補に赴任すると、聞いていたのとは違い、とても親切に接した。盧泰愚は、全斗煥から聞いていた不満や「警告」とはまるで違っていて感動した。盧泰愚は競争相手ではない、と考えたのだろうか。

あるいは、「爪を隠す鷹」である盧泰愚を見くびり、さらには朴大統領に可愛がられている盧泰愚を自分の味方にしようとしたのか。ともかく、盧泰愚は「車室長はわたしに特別によくしてくれたので、人間的にありがたかった」と回顧録に書き残している。

まったく、相対的なのが人間関係というものなのだろうか。

                        訳:波佐場 清

2026年4月7日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(7)

■首都警備司令官しのぐ権勢

大隊長の全斗煥は引き下がらなかった。

堂々と大きな態度で、時の実力者である朴鐘圭警護室長のもとを訪ねていった。朴正煕大統領を後ろ盾に持つ全斗煥中佐は、朴鐘圭に兄貴分のように仕えていた。遠慮することなど、なかった。尹必鏞事件のとばっちりで、あわや軍服を脱がされかねない危機に陥った時も、「兄貴」の朴鐘圭がかばってくれた。そのおかげで、軍で生き残ることができていたのである(恩返しとして朴鐘圭は80年代、IOC委員としていい思いをさせてもらうことになる)。

「砲兵出身の大統領閣下ならきっと、お分かりいただけると思います。81ミリ迫撃砲を配備し、有事の際には照明弾を撃てるようにしてください」

朴大統領は許可した。大隊長の権勢が首都警備司令官をしのいだのである。

▽北のゲリラ、青瓦台に迫る

その日から第30警備大隊は毎日30分間ほど、迫撃砲の発射訓練をおこなった。部隊員らは大変な思いをしたが、全斗煥中佐は「いざという時は寝ていても飛び起き、まず照明弾を撃て」と厳しく訓練した。

案の定だった。

1968121日、武装共産ゲリラの金新朝一味が潜入してきた。ひそかに休戦ラインを突破し、ソウル西部の恩平区にある津寛寺の野山を越え、夜の闇にまみれて低く匍匐しながら青瓦台の裏山にまで迫ったのだ。武装襲撃部隊である。

その日、全斗煥大隊長は久しぶりにいったん早く帰宅したが、また、部隊に戻っていた。その間、非常がかかって何日間も苦労しっぱなしの部隊員らをねぎらうために酒とつまみを用意し、大隊長室に部下たちを呼んで一杯やろうとしていた、まさにその時に突然、銃声が響いた。

紫霞門[青瓦台のすぐ北西の北岳山にある彰義門の別名]の哨所付近で、鍾路警察署警部の崔圭植(殉職後、警視長に追叙)らの班と金新朝一味の間で、銃撃戦が繰り広げられたのである。

▽訓練通りに照明弾

30大隊の砲撃手らは、照明弾を撃ちあげた。

実況見分で、同僚の遺体を確認する金新朝(中央)

訓練通りだった。青瓦台裏の北岳山一帯がパーッと明るくなり、武装ゲリラたちは仰天して逃げた。警備部隊はその日、現場で5人を射殺、その後10日余りにわたって軍と警察が協力して28人を殺害、金新朝の身柄を確保した(そんななかにあっても、武装ゲリラ3人は北へ逃げ帰ったと見られている。そのうちの1人、パク・ジェギョン(박재경)は1985年、南北会談でソウルへ北側代表団の随行員としてやってきた。鉄条網の地雷畑を匍匐で北に戻り、こんどは車で、板門店経由で韓国に来たというわけである)。

▽朴正煕夫人が直接、感謝

陸英修女史[朴正煕大統領夫人]が直接、電話をかけてきて恩人の全斗煥に感謝の言葉を伝えた。

朴正煕はその後、この殊勝な全斗煥の部隊を前触れもなく、いきなり訪ねた。

まだ薄暗い明け方、全斗煥中佐と部隊員は、上半身裸で練兵場を走っていた。朴大統領は「部隊のふろ場をちょっと見せてくれ」と言い、ざっと見まわった後で、こう言った。

「まったくひどいな」

朴大統領は警備大隊の建物の壊れた部分と浴場施設を特別予算で補修してやった。

▽運命変えた出会い

1969年、全斗煥は第30警備大隊長から、徐鐘喆参謀総長の首席副官に異動した。

そこで、運命を変えることになる人物と出会うことになる。

参謀次長の盧載鉉である(10年後の79年の「1212」、つまり「ハナ会」による反乱のその日、盧載鉉は決定的なカギを握る国防部長官という立場にいて、全斗煥ら反乱軍の側に立つことになる)。

参謀次長と参謀総長の部屋はくっ付いていて、盧載鉉と全斗煥は毎日、顔を合わせていた。釜山近郊の馬山(盧載鉉)と慶尚南道陜川(全斗煥)という同郷、つまりPK[釜山地域(P)と慶尚南道地域(K)のこと]2人は兄弟のように親しくなった。

この時点ですでに、徐鐘喆-盧載鉉-朴熙東(陸士3期)-全斗煥とつながる濃密な軍人脈ができ上っていた。

これが10年後、1970年代後半の維新末期に、参謀総長の人事をめぐって妙な具合になった。結果から言うと、鄭昇和[全斗煥らのグループと対立関係にあった]7921日に参謀総長になった時点から、目に見えない権力衝突の火花が飛び散っていた。そんなしこりが、その年暮れの「1212反乱」につながっていったのである。

▽朴煕東vs鄭昇和

李世鎬参謀総長[ベトナム派兵軍司令官などを経て753月~791月、参謀総長]の後任をめぐって暗闘が繰り広げられた。

国防部長官の盧載鉉[参謀次長から参謀総長を経て7712月から国防長官]は、第3軍司令官の朴煕東を参謀総長に推した。陸士3期の同期であり同郷という、特別に親しい間柄だった。朴煕東は、慶尚南道密陽の出身だった。

「閣下! 陸士2期の李世鎬総長の後任には、3期の朴煕東が行くべきではないでしょうか」

盧載鉉長官が朴正煕大統領に報告する際、たまたま、そこに秘書室長の金桂元が居合わせた。金桂元は、2人の人事をめぐるやり取りに、席を外そうとしたが、大統領はそのまま座っていろ、と言うものだから同席した。

盧載鉉長官は、朴煕東一人に絞って推薦していた。

大統領はあまり乗り気でない様子だった。金桂元は、砲兵の後輩でもある盧載鉉長官に言った。「閣下に推薦を申し上げるのなら、複数の候補を示すべきではないのか」

すると、盧載鉉長官は鄭昇和のカードを出した。大統領は「そっちの方がいいな」と言って、鄭昇和を指名した。金桂元氏が推測するに、盧載鉉長官はすでに車智澈警護室長との間で「朴煕東参謀総長」で一致しており、それで、一人だけの推薦となったようだというのである。

▽鄭昇和参謀総長

金載圭-金桂元-鄭昇和

車智澈-盧載鉉-朴煕東

このような対決構図のなか、金桂元はこう主張した。

「閣下! いまの陸軍参謀総長の李世鎬は陸士2期なので、3期(朴煕東)が後任になるのは間違ってはいませんが、同じ3期の盧載鉉長官はすでに参謀総長をやっているではありませんか。5期(鄭昇和)への世代交代が必要です」(3期と5期の間の4期は1948年の麗順反乱事件のあおりで、とくに人材はいなかった)

鄭昇和は陸士の校長をしていて朴大統領の息子の朴志晩[陸士37]の面倒をみるなど、朴大統領の信認が厚いTK[大邱地域(T)と慶尚北道地域(K]の人物(慶尚北道金泉出身)だった。

こうして鄭昇和陸軍参謀総長が誕生する。

▽「二重の立ち回り」

自ら描いた人事構想がひっくり返された車智澈は、頭をひねった。

部下の李在田中将(警護室次長)を呼び、盧載鉉長官が鄭昇和本人に参謀総長任命を正式に伝える前に、鄭昇和に直接電話をして次のように祝ってやれ、と命じた。

「当然、鄭昇和参謀総長で決まりなのに、盧載鉉長官が朴煕東を推すなんて、お話にもなりません。大統領閣下が快く鄭総長を選ばれたとのこと、何よりです。ほんとうにおめでとうございます」

車智澈の裏表のある「二重の立ち回り」だった。

車智澈からこのような伝言を聞いた鄭昇和は「警護室長は、国防長官と参謀総長の間を裂こうとしている」と感じたという。もちろん、警護室次長からの電話を受ける前に鄭昇和は、金載圭情報部長から、恩着せを兼ねた「ホンモノ」の祝賀の電話をもらっていた。

▽ベトナムの戦場へ

全斗煥は1970年、ベトナム戦争に参戦した駐ベトナム白馬部隊第29連隊長になった。

徐鐘喆参謀総長の首席副官からベトナムに赴任するにあたって全斗煥は、自分の後任に友人の盧泰愚を指名して進言した。しかし、徐鐘喆総長は「盧泰愚はきびきびしておらず、瞬発力も劣る。首席副官には向かない」と手を左右に振って強く拒んだ。

すると、全斗煥は隣の部屋の参謀次長盧載鉉のところへ行き、盧泰愚への援護射撃を頼んだ。

「同じ盧氏同士なのだから徐総長を説得し、なんとか盧泰愚を引き受けるよう、助けてやってください」

                      訳:波佐場 清

2026年4月4日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(6)

  ■「5・16」助けた支持デモ

1961年、朴正煕が「516クーデター」を起こした。

朴正煕や金鍾泌らが、張勉政権を3600人の軍人と戦車でひっくり返した。しかし、米軍の反発や李翰林第1軍司令官らの抵抗で、成功するかどうか不透明だった。まかり間違えば、かつての開化派金玉均の「三日天下」[1884年の甲申事変。クーデターで新政権を立てたが、3日後に清軍の介入で失敗、金玉均は日本に亡命]のように反乱軍にされてしまう。そうなると、銃殺される恐れがあった。

その点、金鍾泌は後に「革命であれクーデターであれ、3日間が勝負だ。それは古今東西を問わず、同じことだ」と筆者に語っている。

ソウル市民らも不安を募らせていた。

クーデターが起き、張都暎[当時、陸軍参謀総長。朴正煕らに擁立されたが、2カ月足らずで失脚]と朴正煕の戒厳軍が入ってきたものの、どうなるか、まだ闇の中だった。カーター・マグルーダー米第8軍司令官をはじめとする在韓米軍や張勉政権派の将官たちの反発にクーデター軍は焦り、冷や汗をかいていた。

▽「革命は軍全体の意思」

この時、大尉の全斗煥は、ソウル大学で学軍団(ROTC[学生軍事教育団。大学に通いながら将校を目指す制度]の教官をしていた。

朴正煕将軍の革命はなんとしても成功させなければならない!

全斗煥は陸士同期の李相薰(盧泰愚政権で国防部長官)らと連絡を取り、陸士の生徒で「クーデター支持デモ」をすることにした。折から、クーデターに加わった金鍾泌、呉致成 らもそのことを待ち望んでいた。

「陸士出身の将校と陸士の現役生徒がいっしょになって支持デモをおこなうことで、革命が軍全体の意思であり期待なのだ、ということをソウル市民や国民の前に示すべきだ」

全斗煥はそのように煽った。李相薰大尉らはデモのコースと時間を決め、放送用のメッセージや決議文を作った。張勉政権の擁護に回った姜英勲陸士校長(中将。のちに盧泰愚政権で国務総理)が懸命に全斗煥、李相薰大尉らを止めようとしたが、及ばなかった。

▽成功への分水嶺

3日目の61518日、陸士の生徒らは、正装してソウル泰陵の陸軍士官学校を出発、東大門~半島ホテル(現ロッテホテル)~市庁のコースを街頭行進した。その後に「革命軍」の腕章を巻いたクーデター軍が続いた。ソウル市民らは沿道で歓呼し、拍手を送った。もう世論は完全にクーデター軍の側についていた。

陸士生による「クーデター支持デモ」=1961年5月18日

「陸士生徒の市街行進が、クーデター成功の分水嶺となった」と張勉首相の秘書官だった鮮于宗源は、筆者に話した。金大中もその点、疑いの余地はない、と筆者に語った。米国も、政権擁護派の軍部も、すでにもう、朴正煕のクーデター軍をひっくり返す力はなくなっていた。全斗煥も「陸士の支持行進が、不確実で、まだ流動的だった(クーデター成功の)流れを決定的なものにしたと自信を持って言える」と述べたとする記録も残っている。

 

■「政治をやらないか」

516」の朝、自らの人生を賭けた「最後の株券」1枚を引っつかんだ全斗煥大尉は、革命勢力の末席に割り込んだ。そうした言動が、同郷の朴正煕の目に留まり、国家再建最高会議[朴正煕らがクーデター直後に設立した最高統治機関]の民願秘書官に抜擢された。

秘書官をしていたその頃、陸軍上級将校課程(OAC)への入校命令を受けた。全斗煥は引っ越し荷物をまとめたあと、最高会議議長朴正煕のところへあいさつに行った。朴正煕は手放しで喜び、こんなことを言った。

「おまえ、退役しないか。共和党に入って政治をやってみろ」

「閣下、自分は、政治のことは分かりません。いちども考えてみたこともありません。自分には向いていないと思います」

「他の者はみんな、政治をやりたいというのに、おまえは、やれというのにできない、と?」

「陸軍大尉で、金もなく、政治は難しいのではありませんか。どう考えてみても、自分には分不相応なようです」

▽「軍に残るのがいいようです」

全斗煥は、家族と相談してみたいと言って、その場の返事を避けた。

すると、朴正煕は急に怒り出し、「どうしてそんなことを家の者と相談したいというんだ。 そうか、それなら分かった。もう帰れ」と逆情した。そうして追い出されるように出てきたが、その日は、よく眠れなかった。ところが翌朝、朴正煕議長の秘書室長に呼ばれてまた、そこへ行くと、朴正煕は意外にも、あっさりしていた。

「いまいちど考え直してみたんだが、全大尉の言い分もわかった。軍に戻って正統なコースを歩み、立派な指揮官になるのも、国に忠誠を尽くす道だ。きのうワシが何かと怒ったことは、すまなかった。気にしないで、帰ってしっかりと勉強し、軍生活をうまくやれよ」

「はい。どう考えてみても自分は軍に残るのがいいようです」

こうして朴正煕と全斗煥は、互いに堅い信頼の握手を交わして別れた。これが2度目の出会いだった。全斗煥はこの時のことをよく、こう自慢していた。

「朴大統領はそんなわたしのことが気に入り、殊勝だと思ったんだ。みんな政治にかぶれて権力を握りたいと騒いでいる。それなのに軍に残りたいというのが、気に入れられたようだ。5・16のあの時、そのまま政治の世界に入っていたら、せいぜい、どこかの省(部)庁の長官一つなりともやって、終わっていたことだろう」

 ▽3人の恩人

1963年、朴正煕の軍政が民政に移行した直後、全斗煥大尉は大隊長として出ることになり、朴正煕議長のところへあいさつに行った。ちょうど、そこに中央情報部長の金容珣がいた。金鍾泌のあとを継いで2代目の情報部長になったばかりだった。金容珣部長が「では、全大尉を連れて行きます」と言うと、朴大統領はうなずいた。

全斗煥は初め、何のことだかよく分からなかったが、金容珣部長が「全斗煥を情報部で使いたい」といい、朴大統領は「そうしろ」と裁可したのだった。こうして全斗煥は大隊長に出る代わりに、中央情報部に勤務することになった。ところがその後、金容珣はすぐに情報部長を辞めてしまい、後を継いだ第3代部長の金在春にもしばらく仕えることになった。

こうして全斗煥は南山の情報部で、人事課長として半年余りを過ごした。このとき、全斗煥が情報部に提出した人事記録カードの身元保証人は、李圭東、朴鐘圭の2人。これに朴正煕をあわせると、かれの生涯を左右した「3人の恩人」ということになる。

▽ライバル失脚

 全斗煥は少佐に昇進し、陸軍本部の人事参謀部や陸軍大学を経て、第1空挺特戦団の大隊長代理として赴任した。さらに中佐に昇進し、第1空挺特戦団副団長から、67年ごろには首都警備司令部[のちの首都防衛司令部]の第30大隊長になった。第30大隊(のちに第30警備団)は青瓦台を警備する部隊で、後日、「1212クーデター」の現場となるところだ(1979年の1212クーデターのその時は、全斗煥の右腕、張世東大佐が第30警備団長だった)。

全斗煥の前任の第30大隊長は孫永吉中佐だった。

孫永吉は、朴正煕少将が師団長だった時期の専属副官で、陸士11期の全斗煥、盧泰愚、金復東らと同期だった。「朴正煕の忠僕」として知られていたが、73年に「尹必鏞不忠事件」[当時、首都警備司令官として絶大な権力を握っていた尹必鏞少将が、朴正煕大統領の「後継者」に言及したことが逆鱗に触れ、処罰された事件]に巻き込まれて、軍服を脱いだのだった。

▽青瓦台警備で大手柄

朴俊炳、張世東、許和平らによると、全斗煥中佐は青瓦台の周りを警備する第30大隊長をしていた時期に大手柄を立て、朴正煕の厚い信任をさらに積み重ねることになった。

全斗煥は、北岳山[青瓦台の後ろにあり、標高342メートル]に向けて迫撃砲を配備する計画を立てた。夜間にスパイでも現れたりしたら青瓦台の背後一帯に照明弾を撃ち、真昼のように明るくして撃滅すべきだ、とする構想だった。ふつうの場合、歩兵大隊は3個の小銃中隊と火器中隊1個で編成するのだが、当時、第30警備大隊は迫撃砲を倉庫にしまい込み、遊ばせている状態だった。

とはいえ、その迫撃砲が向けられる北岳山方向には、まさに至尊の大統領がおられる青瓦台があり、「不忠」にもなりかねない構想だった。首都警備司令官の崔宇根将軍でさえ、そのアイディアに首を横に振った。大統領閣下に礼を欠くというのだった。

                          訳:波佐場 清

2026年4月1日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(5)

「騒ぎを起こし、後始末はできない」

佐官級に昇進するまで、妻の実家に身を寄せていた。その時期、義理の両親を実の親のように大切にしながら、いっしょに暮した。全斗煥はそんな日々をよく振り返った。

▽妻の実家に10年間

「妻の実家に10年間、3人の子どもを授かるまでいた。わが国のことわざに『粟の3粒もあれば、妻の実家に身を寄せるな』というのがあるが、(妻の実家がよくしてくれたものだから)ワシは今、良心に照らして言うが、やましいことは何一つない。義父や義母に嫌な思いをしたことはなかった。いま米国にいる2番目の息子まで妻の実家で育てた。ワシはちょっと、タチの悪い男なので、少しでも疎まれているような気配を感じていたら、たとえ飢え死にしようと、そこを出ていただろう。居候をするにしても、でっかい顔をしていないと、な。あそこでは、本当に情が深く通い合っていたんだ」(1986111日)

実の父母以上の恩を受けたのである。

▽「副官という柄ではありません」

1960年ごろ、全斗煥が中尉のとき、義父の李圭東将軍は、陸士同期の朴正煕のところに全を連れて行って紹介した。朴正煕がソウル永登浦の第6管区司令官だった頃で、義父は朴正煕司令官に、この自慢の娘婿の将来を頼んだ。

朴正煕司令官は、いきなり、全斗煥に言った。

「おまえ、ここに来てワシの副官にならんか」

全斗煥は辞退した。

「自分は、副官という柄ではありません」

全斗煥が「ありがたく、光栄ではありますが、申し訳ありません」と言うと、朴正煕はうなずいた。こうして朴正煕少将と全斗煥中尉の2人は、李圭東を仲立ちに、初めて顔を合わせたのだった。

▽物おじしない図太さ

副官という柄ではない、という全斗煥。

全斗煥の物おじしない、外向的な性格について、そのころ近くで見ていた李瑛珍(陸士12期、在米の事業家)の回顧が興味深い。

1958年ごろ、全斗煥先輩から、ビリヤードでもしようと誘われれば、しばしば、いっしょに付き合ったりしていた。1年ほどして、かれはソウル鍾路区桂洞の夫人宅で新婚生活に入ったが、その後も、かれの部屋で食事したりして親しく過ごした。実際のところ、かれの物おじしない図太さには、一目置くべきものがあった。自分が好きになりさえすれば、相手が女性であれ、後輩であれ、当然、相手も自分を好きになるものだ、と決めてかかる自信――それはまさに、そんな男らしい図太さからきていたのだと思う」

▽事を起こしておいて、後始末ができず…

全斗煥、盧泰愚といっしょに米国の特殊戦学校(ノースカロライナ州フォートブラッグ)に行っていた時の、李瑛珍の思い出――。

米国留学時代の全斗煥(中央)、盧泰愚(右端)、李瑛珍(左端)=1959年8月

1959年に全斗煥、盧泰愚と私(李瑛珍)の3人でニューヨーク見物に行ったことがある。特殊戦教育の前期課程を終え、空いた時間を利用して私が運転する車で出かけた。ニューヨークに近づくと、車線が多くなり、行き交う車も多くなったが、そこで、全斗煥先輩がどうしても自分で運転したいというものだから(その時は運転免許の取りたてだった)やむなくハンドルを譲った。不安になった盧泰愚先輩が、後部座席にいて止めさせようとしたが、全斗煥先輩は頑固で、お構いなしだった。ところが、全先輩はうっかり道を間違えてしまった。マンハッタンの方へ入ろうとしていたのに、また、高速道路に出てしまうかと思うと、マンハッタン北部のハーレムに迷い込んでしまった。そこのガソリンスタンドで給油をして出ようとしたところで、黒人の車にぶつかり、押し問答になってしまったりもした。事を起こしておいて後始末ができず、周りを不安がらせる。そんな彼の性格の一面がよくあらわれていた」

▽仲たがい

そんな無鉄砲なやり方が合わず、李瑛珍は全斗煥から離れていった。その経緯――。

「実際、全斗煥先輩と近しくなる機会は多かった。しかし彼といっしょにいようとすれば、予測困難なその行動が不安になり、なんの説得力もなく、ただ、後輩は先輩に無条件で従うべきだという、とんでもないプライドと自信が嫌だった。良いにつけ、悪いにつけ、ともかく私生活を共にするほかない米国で、わたしたちは、お互いに遠ざけようとしたのだが、ごく些細なことでも衝突は避けられなかった。帰国するころには、わたしと全先輩の間は相当に悪くなっていた」

米国留学を終えて帰国すると、李瑛珍中尉は、陸軍本部の特戦監室に発令された。特戦監の李贄衡将軍への転入申告を終えて出てくると、全斗煥はちょっと離れたところから見ていて、一言投げつけた。そばにいた盧泰愚も聞いていた。

李瑛珍、貴様、同窓会の名簿から除名してやるからな!」

なんということを言うのか…。

おそらく後輩の李瑛珍が先輩を差し置き、ひとり、陸軍本部特戦監室に発令されたのが不満だったようだ。こんなとき、何も言い返さなかったら、まるで裏でロビーでもしたのではないか、と疑われてしまう。

「全先輩、誤解しないでください。この発令はわたしも知らなかったことなんです」

李瑛珍中尉は、全斗煥先輩につっけんどんな口ぶりで弁明せざるを得なかった。

                              訳:波佐場 清