■「剖棺斬屍の運命」
「12・12」の夜、反乱の主役たちはまさに「生きるか死ぬか」だった。
反乱軍の指揮部となった景福宮の第30警備団と保安司令官室の息詰まる雰囲気について、反乱軍の中心人物の一人である許和平はそのように表現し、次のように記録している。
「口の中がカラカラに乾いた。怖くなかったといえば、噓になる。座っていることさえできず、立ったまま電話にかじりついていた。親しい連隊長や参謀らに電話をかけ、『たとえ師団長が反乱軍の射殺を命じたからと言っても、今はこういう状況なんだ。おまえたちがむやみに動いたら、複雑なことになってしまう(お互い、死んでしまう)』と夜通し説得しつづけた。だれに電話したのか、思い出せないくらいだ。刻一刻と緊張が波のように押し寄せてきていた」
▽混乱、緊迫のなかの躊躇
恐怖の夜だった。
鄭昇和・陸軍総参謀長の側についた首都警備司令官の張泰玩は「反乱軍の奴らのどたまを砲撃でぶっ飛ばしてやる」と息巻いていた。
反乱軍の陣地では、車圭憲、黄永時、兪学聖らが前面に出て、命がけで電話にかじりついていた。陸軍本部側に制圧の兵力を出させまいと、ツテをたどっては電話をかけまくり、喉も裂けんばかりに説得していたのだった。そんな、蜂の巣をつついたような大混乱と緊迫のなかにあって、最後まで躊躇していた将官がいた。
第20師団長の朴俊炳(のちに保安司令官、大将で予備役編入)だった。許和平が苛立ち、「電話をちょっとかけてください」と怒鳴っても、彼は、最後まで受話器を手に取ることができなかった。
朴俊炳は、何も知らされていなかった。3日前に全斗煥から「12日夕方6時半、景福宮の第30警備団で夕食でもいっしょにしよう」という連絡を受けたのがすべてだった。当日、第30警備団に到着して初めて「鄭昇和襲撃」作戦のことを知った。
実際、全斗煥は機密が漏れるのを怖れ、反乱のことは当日まで、だれにも話していなかったようだ。第9師団長の盧泰愚だけは、知っていたようだった。
▽「5・16」時の記憶
漢南洞の参謀総長公邸で流血の銃撃戦が繰り広げられ、陸軍本部側の強硬対応によって事態が急を告げると、全斗煥は朴俊炳師団長を別室に呼びつけた。
全斗煥は、切羽詰まった様子で朴俊炳に頼んだ。
「第20師団の兵力を出動させ、国防部と陸軍本部を掌握してほしい」
瞬間、朴俊炳は苦悶した。
1961年の「5・16クーデター」の時のことが走馬灯のように頭をよぎった。当時、彼は朴正煕のクーデターに反対した第1軍司令官、李翰林の副官だった。李翰林が「反革命」で捕らえられて行く時、この上官といっしょについて行った。
「ワシは死ぬために行くんだ。おまえ、どうしてついて来るんだ。来るな」(李翰林)
「いいえ、わたしは司令官の副官です」(朴俊炳)
朴俊炳が護送ジープに無理やり乗り込んでくることまでは、拒めなかった。そうして原州(江原道)からソウルまでついて行き、李翰林司令官といっしょに20余日間、鉄格子の中で過ごした。そんな苦(にが)い過去があった。
▽兵力出動を拒否
朴俊炳師団長は、全斗煥の要求を拒んだ。
「第20師団は、戦争が起これば戦場に行かなければならない部隊です。そんな部隊を、指揮系統の外におられる方の命令にしたがって出動させるわけにはいきません」
全斗煥はその言葉を聞くと、それ以上は何も言えなかった。
全斗煥は即座に、盧泰愚少将に第9師団を、朴煕道准将には第1空挺特戦旅団をそれぞれ出動させるよう命じた。国防部と陸軍本部には、この朴煕道の空挺旅団が突入していって占拠したのだった。
あの日夜、許和平が「電話をかけてください」といくら叫んだからといって、朴俊炳としては聞き入れられるはずもなかったのである(朴俊炳はのちの裁判で無罪判決を受け、2016年、国立大田顕忠院の将官墓域に葬られた)
▽恐怖と不安
だれもが皆、失敗と銃殺を怖れていた。
翌日から「改革主導勢力」としてデビューした将官の一人も、その夜はハムレットのように逡巡し、苦悩のなかで過ごした。作家の千金成がインタビューしたところによると、その将官はその夜、全斗煥や盧泰愚の要請を受けてソウルに向かいはしたものの、明け方までの長い時間をどうやって「浪費」したのか、うまく説明ができなかった。また、「成功したクーデター」を仲間うちで祝った13日朝、保安司令部に現れた時間についても、「7時だった」「いや9時だった」などと、言うことが二転三転した。
憲法上のちゃんとした指揮系統である陸軍参謀総長の鄭昇和を逮捕するという反乱は、それほど恐ろしいことだった。首謀者同士でさえ、義理と犯罪意識と恐怖が入り混じった一夜を耐え抜かなければならなかったのである。
夜が明けると、米国大使のグライスティーンはこの反乱を非難し、米8軍司令官ウィッカムも「反乱軍の将官らを軍法会議にかける」と息巻いた。「全斗煥は一時気を失い、食事も喉を通らない状態だ、と夫人の李順子が言っていた」と噂されるような状況だった。
銃声は止んだが、まだ、クーデターが成功したというわけではない。
反乱軍の運命など、だれに分かるというのか――。
▽運命鑑定士の登場
1979年12月14日早朝、四柱推命の鑑定士として有名な柳忠燁(2008年没)は、一本の電話を受けた。
「老石[柳忠燁の号]か? ワシだ、ワシ…」
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| 運命鑑定士の朴在玩 |
朴は、当代最高の運命鑑定士として名をとどろかせていた(朴在玩が1992年9月に90歳で亡くなると、朝鮮日報や聯合ニュースは訃報記事を書いた)。
「朝早くから、どうなされましたか」
「いま、ソウルに来ているんだ。急いでいて万年暦を持ってくるのを忘れた。ちょっと貸してくれんか」
万年暦は、四柱推命をみる「暗号解読コード」のようなものだ。
「いいですよ。いま、どこにおられるのですか」
「ここがどこなのか、ワシにも分からんのだ。そっちに人を送るから…」
10分余で、秘苑前の柳忠燁の家の前に一人の青年が現れた。万年暦を渡すと、丁重に受け取り、そそくさと消えていった。そんなにも近い距離なら、保安司令部辺りだろう。大田から「占い師の朴」を連れては来たものの、四柱推命をみる「コード(万年暦)」がなくてはどうしようもないということを知らなかったのである。
▽40年前に運勢見通す?
午後、朴在玩からまた、電話がかかった。会っている時間もないので、ソウルに来たときの車で、そのまま帰らなければならないといい、万年暦は、またの機会に返すというのだった。
後日、大田で2人が会ったとき、その日のことが話題になった。
「国家の大事(?)について聞きたいことがあるという何人かによって、まだ暗いうちにソウルに拉致されたんだ」(朴在玩)
どこか、よく分からない奥の部屋で、5人の運勢を占った。
かれらの身元は分からなかったが、奇しくも全員、「金水従旺格」だったという。5人は全斗煥、盧泰愚、黄永時、車圭憲、兪学聖だったのだろうか?
「国に大きな変乱をもたらそうとする人たちだ。来年(庚申年)からは「大運」「旺運」だが、10年ほど経つと「木火運」が巡って来るため急激な墜落が始まり、昔であれば、「剖棺斬屍」[墓が暴かれて遺体が切り刻まれる]だと大騒ぎになる…」
全斗煥は2021年冬に亡くなったが、いまだに魂が横たわる場所さえ定まっていない。40年も前にすでに、そのことを見通していたというのか。「金水従旺格」は成功も早いが、衰退も早く、その勢いもまた、旺盛から衰退へと極端に動く運勢だという。
▽「財越嶺即 為災而還」
後日、朴在玩は後輩の柳忠燁に意味深長なことを言っていた。
「財越嶺即 為災而還」
財物が過度に膨れ上がって、それが山より高くなれば、却って災いの始まりになる――という意味である。1990年半ばの金泳三政権下、全斗煥と盧泰愚はそれぞれ数千億ウォンの裏金問題で拘束された。そういうことも、その時点ですでに予見していたということなのか。
訳:波佐場 清






