■「全斗煥を軍法会議にかけろ」
1979年の「12・12」事態は軍事反乱であると究明された。
大法院[日本の最高裁に相当]で確定した裁判結果(1997年)でもある。
しかし、第5共和国政権と全斗煥をありのままに正しく理解するには、法の判断だけでなく、重層的な資料や証言、回顧録(駐韓米大使や駐韓米軍司令官のものを含む)を通した立体的な再点検が必要だ。
▽「5・16」と重なる「12・12」
あの日夜、盧載鉉国防部長官が見せた無責任な逃亡と優柔不断な振る舞い(当時の国務総理申鉉碻の記憶)が結果として反乱軍を助けることになったことは、指弾を免れ得ない。「5・16」の際、張勉政権と、朴正煕らが率いる反乱軍の間で二股をかけた張都暎陸軍参謀総長のことを彷彿とさせるのである。
文洪球中将(当時、合同参謀本部本部長)の証言――。
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| 文洪球中将(左)とウィッカム米第8軍司令官=1976年 |
「12・12決起の数週間前、米第8軍司令官のジョン・ウィッカム将軍が、『陸士出身の将官らを中心に、ただならぬ政治的な動きがある』との情報をくれた。その時、盧載鉉・国防部長官の執務室へ行ってそのことを話した。すると盧長官は『わたしも全斗煥将軍を呼んで確かめてみたんだが、そのようなことは絶対にないと言っているので安心しろ』と言っていた」
ウィッカム司令官は、その情報ソースを回顧録で公開している。
韓国軍の長老格だった李亨根(1920~2002/陸軍参謀総長、合同参謀会議議長を歴任)将軍から聞いた情報だった。
李亨根は軍事反乱が起きる半月ほど前の79年11月末、ウィッカムを訪ね、「陸士11、12、13期の連中に不満がたまっている。(昇進が停滞して)軍の経歴が危うくなってきている中佐、大佐クラスの不満はとくに大きい」と心配していた。
当時流れていた情報や噂には、大きく二通りあった。
▽人事停滞で不満
一つは、軍部の人事停滞で積もった陸士出身らの不満だった。
反乱が成功した後、実力派の大佐は言った。
「鄭昇和が実権を握り続けていれば、こんご10年は居座っていただろう。そうなると、陸士の11期から17期まではさらに10年待たなければならなかった。(決起に成功し)われわれ12・12に加わった大佐クラスが、先輩らの軍服を脱がすことに乗り出したのは事実だ。朴正煕政権の18年間、軍が肥大化しないよう巧妙に手なずけていたので、佐官クラスに不満がたまっていた。ワシは、軍生活18年間というのに、月給は17万ウォンにしかならない」
これは、この大佐が記者たちの前で公言したことである。朴正煕がいなくなった後の権力の空白を陰湿に狙っていた、という話である。
▽「ハナ会と陸士の時代」狙う
いま一つは、鄭昇和の逮捕によって「ハナ会と陸士の時代」を開こうというものだった(とはいえ、現実問題として相手の鄭昇和が戒厳司令官とあっては、そう容易なことではなかった)。
目に見えない鄭昇和と全斗煥の対立・葛藤構図のなか、反乱組は鄭昇和を引きずり下ろしたかった。根っからの朴正煕派である全斗煥の保安司令部(合同捜査本部)は「鄭昇和は10・26事件の日の夜、ソウル宮井洞の大統領暗殺現場近くにいた。金載圭の犯行を知りながら何時間も躊躇していた」と言いがかりをつけ、内乱幇助の罪を着せようとした。ところが、合同捜査本部捜査第1局長の白東林大佐と李健介検事は「筋が通らない」とそれに反対した。すると、全斗煥らハナ会側は「魚釣り(暗殺)はいっしょにしなかったとはいえ、鍋料理(権力)にはあずかろうと考えていた」(李鶴捧捜査局長)という論理で反論をかわした。
▽陰謀知っていた国防長官
文洪球中将は国防長官の盧載鉉から「全斗煥は疑わないでいい。安心しろ」と言われても半信半疑だった。
文洪球は、合同参謀本部情報局長の金容金将軍を呼び、さらに調べて分析するよう命じた。果せるかな、全斗煥一味が陸士出身者と「ハナ会」を使って何かを画策しているような気配があった。文と金の二人は再び、国防部長官の執務室へ行った。
すると、盧載鉉長官は激昂し、老眼鏡を投げ飛ばしながら怒鳴り散らした。
「違うんだ。それなのに、どうしてまだ、そういうことを言うんだ」
18年前の朴正煕らによる軍事クーデターの際、二股をかけていた陸軍参謀総長の張都暎は、国務総理張勉の秘書室長だった鮮于宗源にたいしてイラつきながら、こう言い返していた。
「朴正煕が、そのようなこと(クーデター)はやらないと言っているのに、どうしてそう騒ぐのですか? わたしがみんな調べてみたんです」
あの時と、そっくりそのままではないか。
盧載鉉は全斗煥の陰謀を知っていたのである。
しかし、知ってはいたものの、「まさか」とでも思っていたのだろうか。あとで、新軍部の大佐が記者ブリーフィング(80年1月中旬)で率直に明かした。
「全斗煥司令官は、盧載鉉国防部長官に鄭昇和の逮捕を3回も進言していた。2回はすげなく拒否され、3回目は、面と向かってこっぴどく怒鳴られた。そうしているうちに、逆に全斗煥司令官は東海(日本海)防衛司令官に追い出されるとの噂が聞こえてきた。さらに鄭昇和は12月13日の内閣改造にあわせて自分の勢力である崔世寅か朴英洙将軍を後釜に据えようとしていることが分かり、全斗煥は決起を決心した。どちらが先手を打つかは双方、3日か4日の差しかなかった」
盧載鉉長官は双方の動きを、手に取るように把握していた。それでいながら、知らぬふりを決め込んでいた。内心、悶々としていたというべきか。
▽国防長官頼みに決起
全斗煥は盧載鉉長官を頼みの綱にしていた。
反乱を起こしたからといって、まさか自分(全斗煥)を銃で撃ち、討伐することはあるまい。まだ若造だった自分を保安司令官に推挙してくれた盧長官ではないか。そして、69年に陸軍参謀次長(盧載鉉)―参謀総長首席副官(全斗煥)として出会って以来10年にわたって培ってきた同郷人(慶尚南道)としての、実の兄弟以上の太い絆があるではないか。
▽総理の本心を探索
申鉉碻(当時、国務総理)の証言も客観的で、耳を傾けるに値する。申総理は新軍部の中心メンバーたちと同郷であり、TK[大邱・慶尚北道]人脈のゴッドファーザーとも言われていた。
そんな申鉉碻に全斗煥が80年春、「崔圭夏に代わって大統領を引き受けてください」と頼んだことがある。
「お前が何さまだと思って、一国の総理に向かって大統領をやれとか、やるなとか、と言うんだ。生意気な奴(やつ)」
申鉉碻は後輩の全斗煥に向かって、こう言い放った。
それは探索だった。全斗煥は一喝されても内心、ほくそ笑んでいたことだろう。
当時、首都警備司令官だった盧泰愚も、申鉉碻の弟と慶北高校の同期という関係にあり、それを頼りに申総理に近づいて大統領に担ごうとしたことがある。そのときも申鉉碻は断固として首を縦に振らなかった。
12・12反乱から20余年後、申鉉碻(2007年に死去)が残した肉声のテープ40余本を、息子の申喆湜(国務調整室次長などを歴任)が整理して『申鉉碻の証言』として出版した。この本は、反乱の真相と本質を知るうえで参考になる。
訳:波佐場 清





