■特戦隊員50余人、漢拏山に散る
1982年、第5共和国(全斗煥政権)の新年は残酷な事故で明けた。
2月6日に予定されていた全斗煥大統領の新年の済州島巡視を前に、大きな事故が起きたのである。
▽悪天候で墜落
特戦司令部の将兵53人全員(うち空軍6人)が漢拏山で死亡した惨事だった。大統領警護のためと称して特戦司令部直属の第707部隊を動員したのだが、悪天候のなか、輸送機(C123)が漢拏山中腹に墜落して惨事を招いたのである。
この大惨事は、強力な報道統制によって「訓練中の事故」とだけ、簡単に報じられた。
しかし、訓練中の事故というのは嘘だった。
▽「12・12反乱」教訓に創設
この部隊は、前任の鄭柄宙特戦司令官が「12・12反乱」の夜、部下の崔世昌旅団長に逮捕されたことを踏まえ、司令部防衛の弱点を補うために81年3月に創設された。朴正煕時代、一騎当千を叫んできた特戦部隊だったが、その司令官が部下の反乱によって無残に踏みにじられてしまっていた。護衛部隊がなく、司令官本人が手首を撃ち抜かれて気を失い、秘書室長の金五郎少佐は射殺されたのだった。
そのような最悪の事態に備えて第707部隊はつくられた。
特戦司令官を守るための近衛部隊を、米国のデルタフォース(陸軍第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)をモデルに創設したのである。しかし、いくら精鋭部隊であっても悪天候の前には、なす術がなかった。
▽お咎めなし
飛行機は、飛ばすべきではなかったのである。
空軍の戦術空輸飛行団は「気象の悪化で一般の航空機運航も中止されており、離陸は不可」と2度にわたって上申したが、それを無視して警護室長の張世東は強行を指示した。警護室には、北朝鮮にいったん拉致され、韓国に帰ってきた漁民たちから得た情報があったという。「北では、大統領の済州島内での宿泊先や済州空港の警備状況、道路事情について聞かれた」というのだった。それで、済州島の警護を強化し、対テロ部隊を動員したのだという。
結果は、大惨事に終わった。貴重な将兵をあまりにも多く失った。
しかし、張世東には大統領の厚い信任があり、お咎(とが)めなしだった。「旧軍部」の文洪球将軍の回顧録にはこんなシーンが描かれている。
――1970年代、全斗煥率いる空挺特戦団のデモンストレーション訓練が両水里(京畿道楊平郡)でおこなわれ、朴正煕大統領や米第8軍の将官らが参観した。そんな折、何度も訓練を重ねてきたはずのヘリコプターが二重三重に衝突したかと思うと、後続のヘリコプターが撃った銃弾が先行のヘリコプターに飛んでいくとか、爆薬の取り扱いを誤った兵士が即死する、といった事故が相次いだ。そのような場合、全斗煥は当然、臨席している大統領に報告し、訓練を中止すべきなのに、全斗煥はそのまま強行した。
▽「運命共同体」
漢拏山で起きた特戦司令部の惨事の真相は、事故から6年余が経った88年になってようやく分かった。遺族らの嘆願によっておこなわれた国政監査で全貌が明らかにされたのだった。全斗煥が張世東をどれほど庇(かば)っていたのかを示す、一つの事例である。
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| 1985年2月、全斗煥(左端)は張世東(右端)を警護室長に任命した。その際、大統領の全が宣誓し、 張が任命状を読み上げるという「主客転倒」のパフォーマンスで、互いの信頼関係の強さを誇示した。 |
そして1977年末までの間、全斗煥のもとで5つのポストにあって全を補佐した。
全斗煥が首都警備司令部の第30大隊長をしていたときは作戦将校(大尉)として、陸軍参謀総長首席副官のときは人事参謀部の将校(同)、さらに白馬部隊[ベトナム戦争に派遣された韓国陸軍第9歩兵師団の通称]第29連隊長のときには情報主任(少佐)として、それぞれ全に仕えたのだった。全斗煥が張世東に送った手紙には「世東よ、ワシらが黄金バットの時代からひたすら追い求めて続けてきたのは、ただ、愛国愛族の名誉と義理ではなかったのか――」と書いているものがある。敵陣に奇襲浸透する白馬第29連隊の別称が「コウモリ部隊」であり、その作戦名は「コウモリ25、26、27号」だった。「黄金バット(コウモリ)」とは、そこに由来していた。
張世東はさらに、全斗煥が金浦の第1空挺特戦旅団長のときの大隊長(中佐)だったし、警護室次長補の時代には、その下で作戦補佐官および首都警備司令部第30警備団長だった。
こうして、「世東」と全斗煥は「運命共同体」になる。
張世東大佐は、新軍部による「12・12クーデター」とき、そのアジトとして第30警備団(景福宮の敷地内)を提供し、「赫々たる有功者」として将官に昇進して第3空挺旅団長(准将)になった。そうして81年7月、大統領警護室長となり(前任者は鄭東鎬で、張は事実上、崔圭夏大統領を見張る「監視室長」の役目を果たした)、またまた全斗煥に仕えることになったのだった。
1985年、張世東は遂に安企部長のポストに登りつめ、2年余にわたって東奔西走することになる。針の行くところ、糸がついて行くかのように、互いが互いの運命となり、そして一緒に没落していったのだった。
訳:波佐場 清







