2026年11月7日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(75)

 本ブログで翻訳連載している金忠植著『5共 南山の部長たち』(全2巻)は、前回で上巻の第1巻が終わり、今回から下巻の第2巻に入っていく。下巻を始めるに当たり、金忠植氏は改めて、本書を著した目的や感慨などを「序文」として載せている。今春、訳者に寄せていただいた一文と併せ、ここに紹介しておきたい。(訳:波佐場 清)

金忠植氏

<第2巻の序文>

■歴史の大平原に逃げ場はない

▽権力という致命的な誘惑

本書は、第5共和国(5共)で国家安全企画部長(中央情報部長)を歴任した5人が、権力という、その致命的な誘惑の前で踊り、もがいた軌跡を追跡したドキュメンタリーである。主人公の5人は、全斗煥、兪学聖、盧信永、張世東、安武赫で、その一人ひとりについて、傲慢な権勢、権力乱用、忠誠競争、不法行為、そして自分なりの「憂国の熱情」のドラマや、埋もれていた秘話を掘り起こして記録した。 

全斗煥時代とも呼ばれる5共は、3段階に区分できる。

▽第1段階

第1段階は1980~82年半ばの概ね2年余である。軍事反乱(「12・12反乱」)を画策し、5共政権という「お膳立て」(全斗煥の表現)をした全斗煥少将や許和平、許三守両大佐らの「反乱実行チーム」が天下を意のままに動かした時期である。反乱に成功し、「南山」(情報部)を占領して指揮を執ったのは、国軍保安司令官の全斗煥と、かれの軍の先輩である兪学聖だった。

<全斗煥>

朴正煕時代最後の中央情報部長だった金載圭と李熺性・臨時情報部長の後任として「お手盛り就任」した(1980年4月14日)。多くの反対を押し切って中央情報部長を兼ねた保安司令官の全斗煥は、朴正煕大統領暗殺犯の金載圭を処刑し(同年5月24日)、情報部の予算(国庫)120億ウォンを「撒き餌」としてばら撒(ま)いて5共時代を切り開いた。全斗煥は、金大中の逮捕や光州民主化運動の押さえ込みや既存の政治家に対する粛清といった、獰猛な反対勢力一掃作戦を主導し、大統領に昇りつめた。政治の過渡期を血まみれのなかで統治し、5共の「創業オーナー」となった。

<兪学聖>

「12・12軍反乱」(1979年)における「看板5人組」[全斗煥、盧泰愚、兪学聖、黄永時、車圭憲]の一人として情報部長に就任した(1980年7月)。実力者である大佐の許和平、許三守らを宥めながら情報部を率い、情報部を国家安全企画部(安企部)と改称した。しかし、5共を創出した捜査権力の保安司令部があまりにも強力な時期であり、若干、その引き立て役に甘んじた感がある。1982年春の李哲煕・張玲子夫婦による手形詐欺事件をめぐり、「全斗煥の親族にたいする断罪」を求めた「2許」(許和平、許三守)に同調して全斗煥の不興を買い、更迭された。

▽第2段階

第2段階は、1982年後半から85年2月12日の総選挙までだ。国家統治に自信を深めた全斗煥は、頭が痛かった創業同志である大佐の「2許」(許和平、許三守)を放逐する。全斗煥は、「2許」と密接な関係にあった安企部長の兪学聖を叩きつぶし、文官(外交官)の盧信永を安企部長に据えた。意表を突く、突発的な起用だった。そして、「2許」が煙たがっていた「2許」の陸士先輩である張世東を青瓦台の警護室長に据えたかと思うと、1982年12月には、とうとう「2許」を「宮廷の外」へ追い払ってしまう。

<盧信永>

中央情報部から安企部へと続く歴史において、初の文民出身の部長だった。外務部長官の時代、日本から100億ドルの外資を導入(韓日経済協力)しようという交渉を誠実にバックアップして全斗煥の信任を得た。安企部長時代、死刑囚だった金大中の釈放と渡米、在野宗教界との接触、野党の大物である崔炯佑の懐柔工作(離間策)など、あまり目立たない水面下の裏工作で全斗煥を感服させた。安企部長からそのまま国務総理に昇進、「5共最強の文官」として一時期、後継者の隊列にまで昇ったが、そこまでだった。

▽第3段階

第3段階は、1985年から88年にかけての、民心(民意)が離れ、「6月抗争」を経て大統領直選制が導入されていく移行期だ。強圧的な統治が限界に達し、野党、大学街、宗教界の闘争が激しくなる。ソウル・オリンピック(1988年)という国家的目標の前に、軍隊を動員して戒厳令というわけにもいかず、代わりに警察、検察、裁判所を押し立てた防衛戦を展開、それを背後から安企部が操った。不義の手先となった司法権力は、嘲(あざけ)りの対象として修羅場と化した。次から次へと噴き出す政権の矛盾に、鉄拳の腹心である張世東も右往左往するばかりでどうにもならず、自滅する。「6月抗争」で大統領直選制の導入が確定すると、安武赫が次の安企部長を引き継ぐことになる。

<張世東>

1985年2月12日の総選挙で金泳三と金大中が率いる新民党が躍進するや、黄昏(たそがれ)へと傾く5共政権の抑えの切り札として登板した。しかし、「強烈パンチの腹心」とされた張世東といえども、燃え上がる野党、在野、大学街の闘争の熱気には敵わず、無理筋を連発。ソウル大女学生にたいする富川警察署性拷問事件、政治ゴロを雇って野党の結成を妨害した「ヨンパリ事件」、スパイ捏造事件、ソウル大生朴鍾哲君拷問致死および捏造・隠蔽事件など、歴史に刻まれる汚点を残した。結局のところ、1987年5月、権力の舞台から退場していった。

<安武赫>

盧泰愚が5共の後継者として与党民正党の大統領候補に決まるころになって登場してきた。全斗煥と盧泰愚が額を突き合わせ、5共から6共(第6共和国/盧泰愚政権)への橋渡し役を果たす安企部長として安武赫を選んだ。安武赫は、李春九(民正党事務総長)とともに盧泰愚大統領時代を切り開いた「功臣」だった。しかし、6共が軌道に乗ると、盧泰愚の妻のいとこにあたった実力者の朴哲彦と、安企部内でぶつかるようになり、自ら辞めていった。

▽永眠の地、定まらぬ全斗煥

2021年秋にこの世を去った全斗煥は、この拙文を書いている今この瞬間もまだ、永眠の地が決まっていない。それなりに一時代を風靡した軍人、8年余にわたって一国を統治した元大統領としては、たとえそれが自らの業報なのだとしてもあまりにも虚しく、悲惨である。

いま、改めて思うのは、歴史の大平原に逃げ場はない、ということだ。全斗煥と、かれを護っていた南山の権力者たちが、いつかは歴史という名の果てしない大平原に凍える裸で立たされることになる、という厳然たる事実を前もって知っていたとしたなら、どうだっただろうか。今日の、そして未来の権力の担い手たちが、そのような「定められた運命」を直視できたなら、「愚か者たちの行進」も変わるのではあるまいか。

                      2022年5月   金忠植

                           

<訳者に寄せられた文章>

■自宅に安置されたままの遺骨――分かれる評価

全斗煥(1931~2021)は、大統領として韓国を8年間にわたって統治した。しかし、没した後も永眠できる墓地を見いだせずにいる。2021年、波乱万丈の生涯を閉じたが、火葬された遺骨は今なお、生前に住んでいたソウル・延禧洞の自宅に置かれたままである。韓国の葬儀慣習としてはまったく、異例のことである。


▽さまよえる魂

国立墓地には埋葬することができない。歴代大統領たちと違い、反乱罪と内乱罪が確定していて埋葬資格がないからである。このため遺族らは2023年、やっとの思いで北朝鮮に近い京畿道・坡州の丘に墓地をいったん確保はした。

生前、「北の地が見える最前線の高台に、白骨となってでも留まり、統一の日を迎えたい」と遺言していたからである。

しかし、現地の坡州住民や自治体の反対により、この計画は霧散した。遺族は、他の地域でも同様の拒否運動や、報復的な墓の掘り起こしのようなことが起こらないかと恐れている。それで、かれの魂は安住できず、彷徨(さまよ)い続けているのである。

▽米紙は評価

全斗煥が1988年2月、韓国の大統領(第11代、12代)を退任した当時の米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の記事を見てみよう。そこでは好評を得ていた。
 「韓国の全斗煥大統領は、実に不可思議な人物だ。在任中、成長・物価・国際収支という経済政策の三大目標を同時に達成した大統領だった。多くの国の指導者が一羽のウサギ(一兎)さえ捕まえられずにもがいているというのに、かれは三羽のウサギ(三兎)を同時に捕まえたのだ。それなのに奇妙なのは、これほど驚異的な業績をあげたというのに、かれほど国民に人気のない大統領はかつていなかったという事実である」(WSJ報道、イ・ジャンギュ(이장규)著『経済は、君が大統領であってこそ』)

▽リー・クアンユーも評価

外国の指導者の評価も悪くない。

シンガポールのリー・クアンユー首相(1923〜2015)も高く評価していた。リーは1996年、金泳三政権の全斗煥への断罪について、回顧録にこう記している。

「金泳三政権下でおこなわれた1996年の『歴史の立て直し』裁判は、全斗煥と盧泰愚を破滅させただけでなく、現代韓国を創ることに貢献した人物たちを傷つけた。そうして韓国人はすべての権威にたいして幻滅を感じたり、冷笑したりするようになった。全斗煥と盧泰愚は、当時の韓国の基準にかなう行動をしただけであり、決して悪党ではなかった」(『リー・クアンユー回顧録』)

▽ジェットコースター人生

全斗煥は悪党以上の罰を受けた。1996年、金泳三政権下で、次のような恐るべき罪状により一審で死刑を宣告された。二審で無期懲役に減刑され、それが大法院で確定した。   

罪状は以下の通りである。

反乱首魁、反乱謀議参与▽反乱重要任務従事▽不法進退▽指揮官戒厳地域守所離脱▽上官殺害▽上官殺害未遂▽哨兵殺害(以上、1979年の「12・12クーデター」事件)

内乱首魁▽内乱謀議参与▽内乱重要任務従事▽内乱目的殺人(以上、1980年「5・17内乱陰謀事件」)
 特定犯罪加重処罰法違反(収賄)(賄賂2205億ウォンを追徴された事件)

ドラマ以上の暗転ではないか。

経済成長において輝かしい業績を残した大統領としての全斗煥と、退任後に反乱罪・内乱罪・収賄罪で死刑判決を受け、二審でようやく無期懲役となって生き長らえた全斗煥。筆者はその極端な浮沈、まるでジェットコースターのような人生を掘り下げてきた。本書は、その興味深くも不可解な波瀾万丈の軌跡を取材し、記録した「全斗煥一代記」でもある。

 

2026年11月4日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(74)

  ■李姫鎬夫人の前でズボンの裾をまくり、足を掻く全斗煥

金大中夫人の李姫鎬には、全斗煥大統領の図太さとその口達者ぶりが印象的だった。

「死刑にしようとしていた内乱陰謀の『首魁』の妻にたいし、街の不動産屋のおじさんがそこらのおばさんに接するように、ごく普通に対応した。時どき、ズボンの裾をめくり上げて足を掻きながら気楽に話すユニークな人だった」(『李姫鎬自伝』)


▽獄中生活2年

この面談があったあと、1982年の「3・1節」の特別赦免で、金大中は無期懲役から懲役20年に減刑された。無期であれ、20年であれ、一生監獄で果てるということでは同じなので、李姫鎬は大きく失望した。

金大中の清州刑務所での監獄生活はほぼ2年に及んだ。

その間、読書で時間を過ごし、600冊近くを深く読み漁った。哲学、神学、歴史、政治、経済関係の本を手あたりしだいに読んだ。アルビン・トフラーの『第三の波』で新しい時代の潮流に目を開いたのも、その時のことだったと自伝に書いている(『金大中自伝』)。

刑務所で見る夢のなかに時計が出てくると釈放されるという俗説がある。

それで、金大中も時計が出てくる夢を見ることを切に願った。そんなある日、ついに時計の夢を見た。どの壁にも時計がいっぱいに掛けてある時計屋の夢だった。金大中は心中、これは大変な夢だと思い、釈放を待った。しかし、何の効果もなく、釈放の日は来なかった。自らを振り返り、みじめな境遇に苦笑いするばかりだった(同)。

 「本を読み、精神の倉庫に知識はたまっていったが、肉体的には非常に苦しかった。神経障害が生じ、左の耳に耳鳴りが始まった。持病の股関節の痛みがひどくなり、脚がしょっちゅう腫れて、つった。妻は何度も法務部に、外部で治療を受けられるよう許可してほしいと要請書を送ったが、受け入れてもらえなかった」(同)

 ▽「米国で治療を受けませんか」

 1982年12月初め、全斗煥は盧信永に指示した。

「全斗煥大統領は82年の『8・15光復節』の特別赦免のときも金大中の釈放を考えていたが、周り(新軍部)の反対で実現しなかった。そうしているうちに大統領は12月に入って、わたし(盧信永安企部長)を呼び、近日中に李姫鎬と会って話し合うよう命じた」(『盧信永回顧録』)

12月10日、安企部の幹部が獄中の金大中を訪ね、「体の具合もよろしくないのですから、米国へ行って治療を受けられませんか」と探りを入れた。

金大中は、光州抗争の関連者など、まだ数えきれないほど多くの身柄拘束者がいるなかで、すぐに応じることはできなかった。とはいえ、股関節の痛みで苦しんでいたこともあり、「そうまで言うなら、国内で治療を受けられるようにでもしてもらいたい」と答えた。

それから何日かして、安企部長の盧信永は李姫鎬と会った。

12月14日、盧信永の方から直接李姫鎬に会いたいといい、安企部幹部が「エスコート」した。プラザホテルの21階に来い、というので李姫鎬がそこへ行くと、景福宮近くの秘密の施設に連れて行かれた。

盧信永は、李姫鎬に言った。

「わたしが安企部長でいるうちにこの問題を解決したいと思っています。2~3年、米国に行って病気の治療を受けるよう(金大中に)勧めてみてください。返事をいただければ、大統領閣下に進言して家族もいっしょに出国できるようにします。ただ、これはわたし個人の考えなので、内密にお願いします」(『李姫鎬自伝』)

 大統領の指示だったが、自身のアイデアだといって「緩衝地帯」を設ける――これが盧信永の慎重さだった。

 ▽上申書

 何日か後に清州刑務所へ面会に行った李姫鎬は、夫にたいして米国に行って治療を受けよう、と勧めた。金大中は、拘束されたままの同志たちがまだいるというのに、自分だけが米国へ行くことはできないではないか、と言うのだった。

 力が抜けた足取りでいったん、面会の場を出た李姫鎬は、こんどは安企部幹部といっしょに戻ってきて、もう一度説得を試みた。「わたしたちが米国へ行ってこそ、拘束された同志たちも出て来られるようになるのだそうです」。側にいた安企部幹部もその通りだと口添えをした。そう言いながら上申書を一通書くよう求めるのだった。

 「米国では病気の治療に専念し、政治活動はおこなわない」という趣旨だった。金大中は安企部幹部が望む通りのことを書いた。ところが、家に帰り、息子の金弘一にそれを見せたところ、「拘束者の釈放」という内容が抜けていることに気が付いた。

 李姫鎬は慌てて盧信永部長と会って事情を話し、修正しなければならないのでもう一度夫に会わせてもらいたいと頼み込んだ。

 しかし、盧信永安企部長はたいしたことでもなさそうに受け流した。

 「この上申書は大統領閣下に上げるためのものであって、とくにどこかに発表するようなものではありません。そういうことなら、心配なさらないでください。何なら、わたしが証人になります」(『李姫鎬自伝』)

 李姫鎬は「盧信永部長の人格を信じます」と言って引き下がった。ところが、その内容がそっくりそのままメディアに公開されてしまった。どんなことがあろうと2度と政治に関われないよう足枷をはめておこうとする5共のやり口だった。

 ▽盧信永の謀略

 『李姫鎬自伝』には、盧信永部長の「活躍」がさらに出てくる。

 金大中の渡米にあたり、安企部が旅費を与えた、と言いふらして在野の関係者らとの間を裂こうとした、というのである。こう書いている。

 「朴英淑さん(のちに平民党副総裁や国会議員を歴任)がやってきて、わたしに尋ねた。『おかしな噂が出回っています。朴炯圭、金寛錫、李海東牧師が盧信永安企部長と会ったところ、金大中氏に15万ドルを渡した、というのです。それって、ほんとうでしょうか』と言うのだった」

 李姫鎬はあきれ果ててしまった。

 証拠を見せてやった。自費で換金した6万8000ドルと、飛行機のチケット代234万2400ウォンの領収証を見せてあげると朴英淑は、安心して帰っていった。

 李姫鎬の記録はさらに続く。

 盧信永部長が詩人の金芝河に外遊を勧めながら、金大中を陥れるくだりである。

 金芝河の著書『白い陰の道』を、ある人物が持ってきてくれたので読んだのだという。

 「盧信永は(金芝河に)言った。『金大中をよくご存じでしょう。愛国の方向がお互いに違うのだから、何をとやかく言うことがありましょう。けど、このところ、国の外貨事情がとても悪いのです。それなのに、自分の全動産をドルに換金してくれないなら、米国に行かないという。米国に行かないと、どうなりますか。大変なことです。それで換金してやったのですが、どこにそんな大金があったのか。それをすべてドルに換金しようというのだから……。ちょっと釈然としないものを感じましたよ』(金芝河『白い陰の道』)

 李姫鎬は「相手によって言葉を変える盧信永の老獪さにはゾッとした」と言い、こうも付け加えている。

 「米国で夫が股関節の手術を受けるとなると相当なお金がかかるだろうと思うと、家族としてずいぶんと心配だった。義弟が銀行に勤める妹に特別に頼んで工面したお金を、かれら(安企部)を通して換金を頼んでいた。そもそも、2回にもわたって家中をひっくり返して現金や若干のドルまで押収していったのは、いったい誰だったというのか。その後も、わたしたちは『李姫鎬は(全斗煥の妻の)李順子から20万ドルをもらった』だとか、『金大中は、全斗煥が提供した特別機で米国に行き、豪華な亡命生活を送っている』といった、わたしたちに関する悪質な噂が日本の新聞などで報道された。そのようにして民主化運動を共にした人たちとの間を引き裂こうとする卑劣さには、耐えがたいものがあった」(『李姫鎬自伝』)

 ▽全斗煥の絶賛

 文民(外交官)出身の安企部長の必死な「忠誠工作」は、常に青瓦台を感動させていたようだ。

 1983年10月にも全大統領は、盧信永安企部長の執念と熱意、そしてその忠誠に賛辞を送った。

 「宗教の問題で、盧信永部長は献身的に飛び回っている。高永根、尹攀熊、文益煥、咸世雄、李文永といった宗教界や学界の人物と会い、それぞれ7~8時間ずつも寝食を忘れて何度も説得し、話し合っている。結果、少しずつ懐柔されているという報告を受けた(盧信永の誇張した報告だった可能性もある)。強硬策だけで問題が解決できるというものでもないのだ。過去、強硬策が却って奴らをのさばらせることになったりもした。盧信永は国際問題に明るく、そちらの方は報告を受けなくても十分に分かっているので、国内の問題だけに全力を注いでいるのだそうだ。許文道(文公部次官)も、宗教家たちとしょっちゅう会うべきだ。下の者たちからは『安企部長が直接出てきているのでやりにくい』といった話も聞くが、下にいる者たちがやるべきことをやらないから、部長が直接乗り出しているのではないのか」(1983年10月27日、朴哲彦の証言)

 ▽「金大中を釈放、米国に送る」

 盧信永部長は「金大中釈放」発表の2日前、ウォーカー駐韓米大使およびCIAのソウルの責任者であるケネディ支部長と会って事前に知らせた。

盧信永(当時外務部長官)とウォーカー駐韓米大使=1981年8月

 米国が待ちに待ったその吉報にウォーカー大使は「冗談じゃないでしょうね」と聞き返した。盧信永が「米国はビザを出してくれるのか」と言うと、「そうなれば、どれほどいいでしょうか。今日すぐにでも発給しますよ」と喜んだ(『盧信永回顧録』)。

 1983年12月15日午後6時、大統領の全斗煥は、盧信永部長や関係長官(閣僚)、側近らを青瓦台の会議室に呼んだ。集まった者たちとお茶を一杯飲み交わしたあと、立ち上がり、出がけに厳粛にこう言い放った。

 「金大中を釈放して米国に送ることにしました」

 たったの一言、いっさいの反論は聞かない、とばかりの一方的な通告だった。

 つい1年前までを考えても、「金大中」という言葉さえ聞けば、目を三角につり上げていた新軍部の同志たちはただ驚き、呆然となった。まさに政治とは生き物なのだ――そう実感させる瞬間だった。

 ▽出国

 1983年12月16日、金大中はソウル大学病院へ移送された。

 1週間後の12月23日に出国、という通告に金大中は驚いた。米国行きを許した理由について、金大中はこう分析した。

 「全斗煥政権が急いで出国させたのは、鉄拳統治で民主勢力を抹殺したことによって国内外の逆風を受けていたところへ、李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件のような悪材料が重なったため、イメージ転換をはかろうとしたものだった。さらには、拘禁されたわたしの釈放を求める国内外からの圧力に耐えきれなくなったのだろう」(『金大中自伝』)

 金大中が出国する時間、ソウルの金浦空港に続く道路は、街灯がすべて消され、漆黒のような闇だった。

 米国行きの飛行機も、大韓航空のチケットを渡されていたのだが、実際に乗せられたのはノースウエスト機だった。記者たちの同乗取材を防ぐための陽動作戦だった。

 飛行機の座席に座ると、清州刑務所の副所長を名乗る人物が近寄って来て、ポケットから何か紙を取り出して読み上げた。

 「刑の執行停止により、釈放する」

 飛行機はワシントンのナショナル空港に向けて飛び立った。李姫鎬と2人の息子も乗せられていた。770日間にわたる米国滞留の始まりだった。

                    訳:波佐場 清

            

 

 

2026年11月1日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(73)

  ■替え歌の風刺曲は著作権法違反?

1982年夏、盧信永率いる安企部は、流行歌を労働運動の替え歌にして歌うことに不審の目を向けた。

反政府・反政権ムードの広がりについて詳細かつ深く観察した結果だった。盧信永体制の安企部は、保安司令部やかつての中央情報部、あるいは兪学聖時代の安企部とは、また違う知能的なアプローチを見せた。

▽貧民運動の牧師

震源を探ってみると、民青学連事件[1974年4月、朴正煕政権下で起きた民主化運動弾圧事件。金芝河、尹潽善氏らが逮捕された]の擁護者として知られ、貧民運動の先頭に立ってきた許炳燮牧師(2012年、71歳で没)だった。かれは小説『ドヤ街の人びと(꼬방동네 사람들)』(李東哲著)の実際の主人公であり、労働現場で闘ってきていた。

 

  眠たくてたまらないのに 眠ることもできず

  睡魔と闘って 働く この身の上

 社長が分かってくれようか 奥様が分かってくれようか

  回っておくれ ミシンよ 夜を徹して

 

歌手の李美子[国民的女性歌手。「韓国の美空ひばり」ともいわれた]が歌った「泣けよ 熱風」(울어라 열풍아 - Google 検索)の替え歌である。許炳燮牧師は、こんな具合に労働現場で風刺的に歌われる「抵抗の替え歌」を集め、『労働と歌』と題する本にして配布していた。

▽著作権法違反で起訴

安企部が許牧師を連行(ソウル中部警察署が代行)し、そのような歌が広がるのを阻止しようとした。ところが、いざ処罰するとなると、当然のことながら、検察にも適用する法規が見当たらなかった。ソウル地検公安部は窮余の策として「著作権法違反」で起訴した。

著作権法違反事件を公安部でやるという奇異なことが生じたのである。

2審の弁護を担当した韓勝憲弁護士(のちに金大中政権で監査院長)は、詩人の申庚林氏[1936~2024/民衆的叙情詩人として知られ、日本の谷川俊太郎との親交もあった]を裁判の証人として呼んだ。

「申庚林証人は、テレビの替え歌番組を見たことがありますか」

「はい、あります」

「その番組では、上手に歌った人に、賞をあげていたでしょうか、罰を与えていたでしょうか」

「豪華な賞品をあげているのは見ましたが、罰を受けるのは見たことがありません」

「では、どうしてこの事件の被告人は裁判を受けることになったのでしょうか」

「労働者たちが喜んで歌う替え歌が現実に批判的だからで、政府が弾圧しているのだと思います」

▽2審無罪、最終判決は有罪

この2審の裁判は無罪となり、大成功を収めた。

著作権の侵害には当たらない、という判決だった。

しかし、安企部はだまってはいなかった。兪泰興・大法院長率いる大法院に手を回し、最後にはひっくり返して破棄・差戻しから有罪に持ち込んでしまった。韓勝憲弁護士は「大法院判事らの見識と、ものを見る目に失望した」と述懐している。

歌の歌詞一ついい加減に見逃さず、裁判所も裏で操った。

 ▽金大中の救命運動

金大中は、依然として全斗煥政権の喉に引っかかったトゲだった。

1981年1月に死刑から無期、その後さらに懲役20年へと減刑されたが、米国や日本で釈放を求める運動や嘆願が止まなかった。

清州刑務所に収監された金大中(手前)と面会する家族たち(中央が李姫鎬夫人)=1982年

82年2月初め、政務首席秘書官の許和平が、金大中夫人の李姫鎬に電話してきた(以下、『李姫鎬自伝』)。

ソウルのプラザホテルの21階で会おう、という。3・1節(独立運動記念日)に合わせて特別赦免でもしてくれるのだろうか…。

「どうして、海外で救命(釈放)運動をするのですか」(許)

「あの方たちが自ら進んでやってくれているのでしょう」(李)

「国内で救命運動は、なされないのでしょうか」

「……」

「(大統領)閣下に会われたいと思いませんか」

「会わせていただけるというなら、お目にかかります」

「では、のちほど、時間と場所を連絡します」

▽李姫鎬夫人、全斗煥と面会

何日かして許和平が、今日がその日だ、と連絡してきた。

そして、公衆電話からまた、かけ直してほしいという。青瓦台の人間も盗聴は嫌なのだろうか。公衆電話から電話をすると、許は言った。

「タクシーで、午後6時に博物館の西門のほうへお越しいただければ、チョン(정)秘書官がご案内します」

小さな平屋の建物に案内された。全斗煥は入って来るなり、こう口を開いた。

「李夫人もご苦労が多いでしょう」

「釈放していただきたく存じます」

「それは、わたし一人では決められません。他の者たちもいることなので難しいのです。しかし、こんご、よくなっていくでしょう」

口達者な全斗煥は2時間余り、李姫鎬と話した。

                     訳:波佐場 清

 

2026年10月29日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(72)

  ■崔炯佑を誘惑、「長官をやってみないか」

1982年6月2日、兪学聖が安企部長を退いた。

兪学聖は、「最後の工作」として金泳三の2回目の自宅軟禁について署名し、盧信永に後を引き継いだ。

盧信永は、緻密でスマートな文官の特長を生かし、精力的に仕事をした。

 全斗煥大統領は「安企部長として100メートルを走破できないというなら、70メートルだけでもやれ」と言ったのだが、盧信永はその及ばない30メートル分を「忠誠心」で埋めようとするかのように奮闘した。

 ▽懐柔工作

 金泳三の部下の崔炯佑(のちに金泳三政権で内務部長官)を寝返らせる懐柔工作も繰り広げた。よりにもよって、野性味にあふれ、気も強い崔炯佑を標的に選んだのは、盧信永・玄鴻柱(安企部次長)チームの大胆かつ奇抜な離間策だった。

崔炯佑(左)は金泳三(右)の最側近で、「斬り込み隊長」と言われた

 うまくいけば、世間の話題となり、「大ヒット」になるはずである。

 盧信永はまず、玄鴻柱次長に崔炯佑と会うよう指示した。

 玄鴻柱の「会いたい」という申し出に崔炯佑は、軟禁状態にあるボス(金泳三)に相談したところ、「会って、向こうの話を聞いてみろ」というのだった。

 プラザホテルで会った玄鴻柱について、学者タイプの人物だ、と崔炯佑は感じた。

 「印象もよく、大学教授みたいな方なのに、われわれ野党の政治を翻弄するつもりですか。あなたはずいぶんと悪質だという噂だが、立派なポストに就いているんだから、いい仕事をたくさんやってくださいよ」(崔)

 「お噂はずいぶんと聞いております。大活躍のようですね。この間、申し訳なかったことも多かったと思いますが、政治をやっているとやむを得ないようなことも生じてしまうようです」(玄)

 ▽「政府に入って仕事をしては…」

 言葉をはぐらかしていた玄鴻柱だったが、本題に入った。

 「崔先生、政府のほうに入ってきて仕事をしてみてはいかがでしょうか。第5共和国の理念や政策は、そう悪いものではありませんよ」(玄)

 崔炯佑は即座に断った。

 玄鴻柱はこの後も、さらに何度か連絡してきた。崔炯佑や金泳三としては敵情について知ることも必要だったため、会うこと自体は断らなかった。北朝鮮との南北会談にしても、成果がどうのというより、敵情探索の意味合いが大きいのではないか。

 引き続き誘いを断り続けると、こんどは崔炯佑の東国大学の同窓である政務長官の鄭在哲を送ってきた。保健社会部長官か建設部長官をやってみないか、というのだった。鄭在哲は「おいおい、ご先祖様のおかげでいま、運が向いてきているんだ。せっかくのチャンスなんだから、ひとつ、出世してみろよ。この運が冷めてしまえば、それまでだぞ」と、とぼけながら愛嬌たっぷりに誘惑した。それでも、崔は揺るがなかった。

 すると、こんどは安企部長の盧信永が直接、乗り出してきた。執拗だった。

 ▽「野党だけが愛国ではありません」

 ソウル宮井洞の秘密の施設で盧信永と会った崔炯佑は、こう言った。

 「盧部長は合理的で、何ごとも理にかなったやり方で進めて行かれる方だと聞いています。そのポストにおられる間に良い仕事をたくさんなさり、歴史の上で高く評価されますよう願っています」(崔)

 「わたしの若いころの夢は、大学教授になることでした。こんな仕事をすることになるとは夢にも思っていませんでした。ところで、崔先生。大統領閣下は先生のことが、ずいぶんと気に入っておられるのです」(盧)

 盧信永はポケットからメモ紙1枚を取り出し、それを見せながらこう続けた。

 「閣下からの、あなたを説得して政府でいっしょに仕事ができるようにしろ、という特別な指示です。わたしたちが身辺調査をしてみたところ、あなたは清廉潔白であり、あなたこそがわたしたちの追い求める理念にそのままぴったりの政治家だ、と閣下は繰り返しおっしゃっています。野党をすることだけが愛国ではありません。大統領の側(そば)にいて、あの方が正しい道を歩まれるよう、国家と民族のためにいちど力を合わせてみましょうよ」

 崔炯佑は首を横に振りながら言った。わたしにそのような能力はない、同志を裏切ることはできない、わたしは民主主義をやろうというのであって、出世に関心はない――と。

 ▽「危うく、寝返るところだった」

それでも盧信永部長は頑なに食い下がってきた。崔炯佑は、こう回顧している。

「盧信永の説得が繰り返されると、わたしも心が揺らぎ始めた。『どんな大木であっても、何度も斧を入れると必ず倒れる』ということなのだろうか。すべてをなげうって苦労ばかりをしてきた妻に少しは贅沢でもさせてやろうか、という思いもよぎった。ひとつ、いいポストでももぎ取り、この間自分をいじめてきた奴らを見返してやろうかという、とんでもない思いにまで駆られた。妻が『義理は守らないといけない』と言って、しっかりと引き止めてくれなかったなら、危うく寝返ってしまうところだった」

盧信永は「長官が嫌なら、民正党公認で総選挙に出馬したらいい」と勧めたりもした。

「将来、2金氏(金泳三、金大中)の新党ができると思いますか? おそらく駄目でしょう。金泳三氏の政治生命は、もう終わりました」(盧)

ソフトで落ち着いたもの言いだったが、棘が潜んだ言い方だった。

「どういうことなの? わたしは金泳三総裁に20年も仕えてきた人間だ。あなたたちが言うように、仮にあの方の政治生命は終わっているとしよう。そうなのだとしたら、その死体を踏みにじり、変節してあなたのところを手伝え、ということなのか。わたしは、民正党に行くくらいなら、むしろ国会議員などやらないでおこうと思う」(崔)

▽妻にも工作

安企部長の盧信永は、まことにしぶとかった。

崔炯佑には内緒で、崔の妻(元英一)まで宮井洞の秘密の施設に呼び出して説得し、崔炯佑を取り込もうとした。ところが、意外にも、妻は夫の崔炯佑以上に断固とした態度で拒み、誘惑をはねのけたのだった。崔炯佑はのちに筆者のインタビューにこんなことを言っていた。

「あのとき、踏みとどまったのは、どれほどよくやったことか。下手をして変節し、寝返ったりしていたら、全斗煥大統領の海外歴訪に随行し、ビルマのアウンサン廟爆破テロ事件(1983年10月9日)で、あの世行きということにもなりかねなかった」

 そのころ、全大統領は、盧信永のこのような真面目な粘り強さと忠誠に感心しきりで、絶賛していた。そこには前任の安企部長兪学聖が、許和平と許三守という2人の実力者の顔色をうかがっていたことにたいする無念さも滲んでいるように見えた。

 全斗煥はこんなことを言っていた、という。

「歴代の情報部長は、無学な石頭どもだった。それに比べると、盧信永部長は責任感が強く、熱心だ。いまに至るも、ずい分とたくさんの本を読んでいる。在野の咸世雄神父のような人物にたいしても、6時間も食事もせずに説得し続けるなど、自分から進んで積極的に仕事に取り組んでいる」(1982年10月22日、朴哲彦の記録)

                        訳:波佐場 清

2026年10月26日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(71)

  ■「金融実名制は副作用が多く、実効性に乏しい」

 1982年7月中旬、当選1回の国会議員金鍾仁[1940~/のちに韓国政界で「キングメーカー」といわれた経済学者]は、夏季休暇で江原道束草の海に出かけた。海辺でくつろいでホテルに帰る途中、交通警察官に捕まった。交通違反も犯していないのに「どういうことだ」と尋ねると、治安本部[現在の警察庁。当時は内務部(省)内部にあった]から「手配中」なのだという。


 ▽実名制放棄で、大統領を説得

 「どういう容疑があるというのか」(金鍾仁)

 「発見したらすぐに議員をキャッチし、民正党代表に電話するように、という指示なのです」(警察官)

 携帯電話も電子メールもなかった頃の話だ。連絡が途切れたら、そのようにして捜していた時代だった。

 急いで電話をすると、「明日午後、大統領に金融実名制について報告しなければならないので、急ぎ、青瓦台の会議に出席するように」というのだった。

 そうして、すでに大統領が署名までしていた金融実名制の導入を保留させる「猫の首への鈴付け役」を果たすことになったのだった。

 この問題の厄介さについて金鍾仁は、よく理解していた。

 青瓦台の御前会議で、こう説いた。

 「金融実名制とはいったい、何なのでしょうか。完全なかたちで総合所得税を徴収しようというものです。しかし、その副作用は明らかであり、実効性も乏しいものです。いま、わが国の国税庁は、400万人にも満たない自営業者の付加価値税(1978年に導入)すらまともに徴収できていません。そんな行政能力でもって1000万人をも対象とする総合所得税を、いったいどうやって管理できるというのでしょうか。初めから話になりません。よく分からないものをどうして強行しようとなさるのでしょうか」

 ▽白紙化、13年後に実現

 全斗煥は初めて反対論を聞いたように顔色を変えたかと思うと、こう言って、あっさりと引き下がった。

 「以後、この問題に経済首席秘書官(金在益)は関わってはならない。党のほうで、政務首席秘書官(許和平)と相談するように」

 金在益を外し、実名制に反対してきた許和平(それも当時、すでに大統領から遠ざけられていた)と相談せよ、ということは、実名制というカードを棄てることを意味していた。

 こうして後退した金融実名制は1987年、盧泰愚によって大統領選の公約として掲げられたが、当選後、盧泰愚大統領の経済首席秘書官となった金鍾仁によって白紙化された。そんな曲折をへて金融実名制は93年8月、金泳三政権の電撃的な宣言によって導入されることになった。金在益、姜慶植の「経済クーデター」によって持ち出されてから13年、金融実名制は、ここにようやく結実をみたのだった。

 ▽政治資金と矛盾

 後日、許和平はこう語っている。

 「あの当時、金融実名制は政治の現実を無視したものだった。(裏で企業から政治献金を受け取るという)政治の矛盾をほったらかしにしておいて「企業の矛盾を解決しろ」だなんて言えるだろうか。順番が間違っている。わたしも反対だったし、民正党も反対した。結局、大統領も考えを変えたわけだが、政治資金の問題を考えると実名制の導入は難しいということが分かったのだと思う」

 いずれにしろ、大統領がいったん署名までしていた政策が覆ったのは、韓国現代史で唯一、この第5共和国における金融実名制のケースだけである。

 手形詐欺事件で「2許」と袂(たもと)を分かつことになった李鶴捧は、かれらについてこう批判した。

 「金融実名制は、すべてを透明化しようというものだ。ところが、(許氏らは)改革や正義社会の実現を主張しながら実名制に反対した。これは自家撞着であり、矛盾ではないのか」

 ▽歴史のアイロニー

だれ知ろう、これは歴史のアイロニーである。

第5共和国は青史に正義あふれる政権として輝かなければならない、と言っていた許氏らが、仮にあの時、実名制を支持していたとしたら、どうだったろうか。

「もし、革命的な実名制をそのままやり抜いていたとしたら、(のちに金融実名制を導入した金泳三政権下で暴かれた)全斗煥と盧泰愚による天文学的な額の秘密資金事件は起きていなかっただろう。裏金づくり自体、不可能だったはずだ。その場合、金泳三政権が眠りから急に目覚めたように『5・18特別法』[1995年12月に制定。光州事件(5・18民主化運動)の首謀者らを処罰するため、控訴の時効停止を盛り込んでいた]をつくって全斗煥と盧泰愚を反乱の首隗として監獄に放り込むようなこともなかったのではないか」(経済ジャーナリスト・李璋圭)

「歴史にIF(もしも)はない」という。

 しかし、許和平や許三守、そして盧泰愚が必死になって実名制に反対せずに、そのまま認めていたとしたら、どうだったろうか。ずっと後(1996年)になって「『12・12』は軍事反乱だった」とする判決が確定し、老後の軍人年金までを吹っ飛ばしてしまうようなことはなかったのではないか。全斗煥と盧泰愚の秘密資金がなかったなら、「成功したクーデター」として、そのまま無事に済んでいたのではないか。

 ▽金泳三と金大中の息子、そして盧武鉉

 金泳三政権が全斗煥と盧泰愚の秘密資金に狙いをつけ、まるでクーデターのように強行した金融実名制の(資金の流れを追跡できる)機能は結局のところ、金泳三の息子の金賢哲を逮捕させることになった。さらに金大中の息子「弘3トリオ」[「ホンサム(홍삼)トリオ」。弘一、弘業、弘傑の3人の息子のことを、発音が同じ韓国名産「紅参」と引っかけて、一部の韓国人はそう呼んだ]を監獄に送り、盧武鉉を自殺に追い込む罠ともなったのだった。歴史のアイロニーには、ただ言葉を失うばかりである。

                      訳:波佐場 清

2026年10月23日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(70)

 ■「金融実名制クーデター」

 前代未聞の金融詐欺事件(李哲煕・張玲子手形詐欺事件)で鼻をへし折られた全斗煥大統領は、経済首席秘書官の金在益を呼んで聞いた。

 ――何かいい手立てはないのか、どうしたらいいだろうか?

全斗煥大統領に金融実名制を進言した金在益・経済首席秘書官(左)。
一度は導入が決まったものの、「
3許」らの強い反対で流れた

 金首席秘書官にとっては胸の内に温めてきていた「金融の実名化」なるものについて打ち明けるチャンスだった。財務部長官の姜慶植とも密かに心を通わせてきていた話だった。

 ▽アングラマネーの透明化

 「閣下、いま、市中銀行の資本金はどことも700億ウォン程度です。そんなところへ、こんどの手形詐欺の額は実に6000億ウォンを超えています。庶民が一生をかけて稼ぐ額などとはまるっきり桁が違う大金を李・張夫婦は湯水のごとく使っていたわけです。これは単に個人の不正がどうのということではなく、社会の構造的な問題です」

 「根本的な解決策はあるのか」

 「地下経済で流通しているアングラマネーを透明化することです。すべての金融取引を実名化することです」

 金首席補佐官が、(全斗煥政権が掲げていた最大のスローガンである)「正義社会の実現」のためにも是非とも実名制が必要だと訴えると、全大統領はうなずいた。政権の根幹を揺るがしていた詐欺事件だった。ただでさえ正統性に欠ける政権に大きな痛手を与えた、そんなうんざりとするトンネルから抜け出し、メンツを取り戻すためなら、できないことなど何があるというのか。

 金在益は財務部長官の姜慶植を味方につけた。姜長官も同じ考えであり、2人は極秘のうちに作業を進めた。2人は、明らかに大きな抵抗が予想される難航路になると直感していた。

 ▽電撃発表

 電光石火――。事は一気に運ばなければならなかった。

 財務部から、ごく少人数の実務担当者を選りすぐって極秘で作業にあたり、計画案をまとめた。

1982年7月3日、電撃的に金融実名制が発表された。

奇襲的な発表の中身は、以下のようなものだった。

1)1年後の1983年から、すべての金融取引を実名化する(架空の名義などは許さない)。

2)金融所得を総合課税の対象とする。

 3)実名でない3000万ウォン以上の金融資産については、5%の課徴金を課す。納付しない場合は、資金の出所調査を行う(これは「自首すれば許す」というものでなく、「自首しても処罰する」とする、いくぶん過激な改革案だった)。

 ▽「スリー許」の反発

 第5共和国をスタートさせて「開国功臣」を自負していた許和平、許三守らは、「とんでもない内容だ」と飛び上がった。

 大それたことに、「スリー許」も知らないところで「経済クーデター」を起こそうというのか――。大統領が署名するまでまったく知らされていなかったことに許氏らは怒りを爆発させた。

 許和平は、大統領補佐官になって以来、続く政務首席秘書官の在任期間を通して、秘書室長以上の実力者としてならしていた。秘書室長は「鞘」に過ぎず、「刀身」は許和平という権力構造だった。そんな政務首席秘書官に一言の相談もないまま、大統領の署名までもらってしまうということがあっていいというのか――。

 もちろん、全斗煥の本音は「煙たいスリー許を外して進めろ」というものだったが、そんなことは口にできない。

 金在益首席秘書官に向けて容赦ない罵詈雑言が浴びせられた。のちに全大統領が「和平と三守にずいぶんと無礼な扱いを受けたそうだが、どうしてワシには一言も言ってくれなかったんだ」と金在益にねぎらいの言葉をかけるほどだった。

 ▽政権中枢勢力が反対

 「クーデター並みの力技」だったといえば、その通りである。

 姜慶植が財務長官に就任したのが1982年6月25日であり、金融実名制の発表は、そのわずか1週間後の7月3日だったのだから……。

 金融実名制は、手形詐欺事件の後遺症で苦しんでいた全斗煥大統領のために、財務部長官の姜慶植と経済首席秘書官の金在益が密室で編み出した劇薬の処方箋だった。虚を突かれて煮え湯を飲まされた「スリー許」は激昂し、反対の旗を振って出た。政権中枢の盧泰愚や与党事務総長の権翊鉉らも、経済の現実や資本が海外に逃避する恐れがあることを名分に「スリー許」に同調し、政権全体が反対する方向へと流れていったのだった。

                      訳:波佐場 清

2026年10月20日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(69)

  ■金淇春、許和平へ「忠誠の手紙」

 李哲煕・張玲子夫婦による手形詐欺事件の「流れ弾」が金淇春にも飛んでいった。

 1982年6月、法務部の検察局長だった金淇春がいきなり、法務研修院の研修部長に飛ばされた。「検察の花」である検察局長が、辛うじて首がつながっているような研修院だなんて……。この左遷人事は、ソウルで大きな話題となった。


 ▽「法匪」

 今日、「法の網をヌルヌルすり抜けるドジョウ」とか「法匪」といった悪名で通る金淇春ではある[朴槿恵政権で大統領秘書室長をしていた2016年、大統領の弾劾につながった「崔順実事件」(私人による国政介入事件)に関連して国会聴聞会に呼ばれた際、その圧倒的な法知識を駆使して追及をかわし続けたことから、そのようなあだ名がついた]。巨済島(慶尚南道)の寒村で育ち、検事になった。駆け出し検事のころ、法務部長官だった申稙秀に注目されたく、早朝から長官宅前の坂道を登っていって挨拶するなど、その勤勉さをアピールしていた、と沈在淪・元高検検事長は話す(2019年11月27日付「時事N」)。

 朴正煕政権後半、維新時代の1974年、中央情報部長になっていた申稙秀の目に留まり、玄鴻柱[検事から外交官になり、駐米大使や国連大使を歴任]とともに抜擢される。若くして中央情報部対共捜査局長となり、バリバリ仕事をしていた。そんなとき、軍事境界線を挟んで北朝鮮と向き合う前線部隊の大隊長だった柳雲鶴中佐が通信兵を連れて北へ逃げ込む(越北)事件が起きた。

 ▽保安司令部に大ナタ

 朴正煕大統領が逃亡の理由を探ったところ、(軍の監視役として、この前線部隊に張り付いていた)保安司令部の横暴(いじめ)に原因があることが分かった。

 大統領は激怒し、金載圭率いる中央情報部に、保安司令部にたいする特別監査を指示した。その際、中央情報部から現地に乗り込んだ「凄腕の仕事人」が、対共捜査局長の金淇春だったのである。そのころ、保安司令部には陳鍾埰司令官のもと、許和平、許三守、李鶴捧らの将校がいた。かれらは、容赦なく大ナタを振るう金淇春のそのやり方にしてやられ、恨みを抱いた。保安司令部に置かれていた民間情報を収集する情報処が廃止されたのも、その時のことだったのである。

 「金淇春め! やるにしても、あまりにもひどすぎる」

 恐れられた保安司令部だといっても、民間情報を収集できないとなると、たいした存在ではなくなってしまう。軍の兵舎の中だけでふんぞり返っていたとしても、去勢されたも同然だ。情報処は1979年3月、全斗煥が第一師団長から保安司令官になってようやく復活したのだった(『全斗煥回顧録』)。

 ▽全斗煥の「頭脳プレー」

 朴正煕大統領が、「わが子(養子)」のように可愛がっていた全斗煥の次のような論理を受け入れたのだった。

 「閣下、情報機関は互いに競い合い、監視し合いながら、質の良い、正確な情報を上げなければなりません。それでこそ、閣下もクロスチェックができ、バランスも保たれます。客観性、真実性、正確性の面で情報の質を高めるべきです。保安司令部が民間の情報を収集できるよう、情報処を復活していただきたいのです」

 全斗煥の話を聞いた朴正煕大統領は、その問題は金載圭・中央情報部長の建議(金淇春が起案していた)によってそういうことになったのだから、直接、情報部長と話し合ってみるように、と言ったのだった。とはいえ、そのままストレートに中央情報部側に持ちかけたとしても金載圭は応じるはずがなかった。情報部は、情報の独占を楽しみ、謳歌していたのである。

 全斗煥は頭を使った。

 朴大統領との単独面談を終えたその足で、秘書室長の金桂元と大統領警護室長の車智澈のところへ行き、大統領との話の内容について話し、協力を求めた。

 朴大統領が了承したということについて両室長が異議を唱えようはずもない。

 そのような挟み撃ちの作戦をとったうえで金載圭のところへ行くと、さすがの金載圭としても、どうしようもなかった。快諾するように、これを受け入れた。こうして数年間にわたって去勢されていた保安司令部が再び、思う存分に民間情報を収集できるようになったのだった(『全斗煥回顧録』)。全斗煥司令官は部下の処長たちから「さすが、ハナ会の会長であられる」と尊敬され、保安司令部の士気は大いに上がったのだった。

 ▽報復

 臥薪嘗胆――。金淇春にしてやられた保安司令部は1980年に政権をとり、青瓦台を乗っ取った。保安司令部の時代が来たのである。

 金淇春は息を潜めていなければならなかった。

 しかし、許和平は昔の恨みを忘れられずにいた。1981年、許和平は仕返しとして金淇春を検事の座から引きずり下ろしにかかった。金淇春は当時、ソウル地検の公安部長をしていて検事長[検事正]に昇進する時期を迎えていた。それを昇進リストから外し、そのまま辞職に追い込もうとしたのである。

 気配を察して不安に駆られた金淇春は、ずっと年下の後輩検事である朴哲彦秘書官を訪ね、助けを求めた。話を一通り聞いた朴哲彦は、金淇春に「許和平補佐官に手渡したいので、心を込めて許しを請うような手紙を一通書いてください」と求めた。

 それを受けて金淇春は、真摯に膝を屈し、一言一句に必死の思いを込めた「忠誠の誓い」(朴哲彦の表現)を手紙に書いて朴哲彦に託した。この手紙が金淇春を救い、歴史を変えていった。金淇春は、艱難辛苦の末に許和平の恩赦によってなんとか検事長に昇進することができたのだった。そして、その後すぐに検察局長に栄転した。

 ▽大統領のホンネ見抜き、早とちり

しかし、かれの「ジェットコースター人生」は、そのまますんなりといった、というわけではなかった。

 1982年に起きた李哲煕・張玲子手形詐欺事件の際、あまりにも回転が速すぎるその頭脳が問題になった。

 同年5月31日、全斗煥大統領は朴哲彦を呼びつけ、こう指示した。

 「李鍾賛・院内総務から聞いた話なのだが、金淇春が国会のある席で、李・張事件について『李哲煕が主犯だという点に焦点を合わせろというのは、上からの指示なんだ』と(「全大統領の親族である張玲子への追及が甘い」という世間の批判に対する)言い逃れをしたそうだ。法務部長官に命じて、検察局長の金淇春を直ちに調べるようにするんだ」(朴哲彦の証言)

 折から、全斗煥は「(自身の妻の叔父である)李圭光の義妹にすぎない張玲子にどんな力があって詐欺を働くというのか。元中央情報部次長の李哲煕がやったことだ」と声を張り上げているところだった。そんななかで金淇春に痛いところを突かれたというわけである。

 82年6月9日、真っ青に青ざめた金淇春がまた、朴哲彦秘書官に泣きついた。

 「だれかが大統領に間違った報告をしたようなのです。あの怒りをなんとか鎮めていただけないものでしょうか」

 朴哲彦は、またしても矢面に立った。

 「金淇春は、後輩検事たちの信望も厚く、国会から出てきた話も事実とはちょっと違うようなのです」と、全斗煥に進言した。こうして金淇春は辛うじて命だけは助かったものの、前述した通り、法務研修院の研修部長に追いやられたのである。

 ▽臥薪嘗胆

 そんな金淇春だったが、臥薪嘗胆である。時代が第6共和国(盧泰愚政権)に変わるまで、じっと耐え抜いた。

 その間、かれは葬家の弔問などでだれかと出くわしても――例えば、憐れみの目で見る後輩たちの視線にもじっと耐えた。骨の髄まで「官職主義者」だった、という。例えば、かれは公職を失って「浪人」をしていた時代も、「朝食を食べ終えるとネクタイを締めて正装し、自宅2階に上がって現役の公務員のようにして過ごしながら時機が来るのを待った」と、しばしば自慢していたという(朴柱宣[金淇春の後輩の検察官で、のちに国会副議長]らの証言)。

 第5共和国の時代、ある法務部長官が金淇春のことを不憫に思い、地検長[日本の検事正に相当]に発令しようとすると、青瓦台の首席秘書官から電話がかかった。

 「法務長官の首を賭けるおつもりですか」

 金淇春と「保安司令部政権」の悪縁は、それほどまでにしぶとく、根深いものだったのである。

 金淇春は、そんな忍苦の歳月をはねのけ、第6共和国(盧泰愚政権)で初代の検察総長に就任した。そして、そこで第5共和国の安企部長だった張世東をはじめとする全斗煥政権の元将校や一般の兵士を、実に49人も拘束したのだった。一やられたら十を返すのが金淇春流の報復だと人々は評した。

そうした「5共清算」という血の嵐の功労ということなのかどうか、金淇春は、泰愚政権下で法務部長官にまで昇り詰めた。

 ▽金淇春を警戒した金泳三

 そんな金淇春と金泳三は、共に巨済島(慶尚南道)出身の同郷であり、慶南高校の同窓(金淇春は後輩)という関係にあった。金泳三が野党統一民主党総裁(1987年5月~90年2月)だったころ、検察総長の金淇春を一時期、とても憎んでいた。

 金淇春と慶南高校の同期だった金光一[釜山で人権弁護士として活躍していて金泳三にスカウトされ、野党統一民主党の国会議員になった。1990年、金泳三が盧泰愚らと手を組む「3党合同」で与党に転じると、合流を拒否。その後、金泳三政権(1993~98年)で大統領秘書室長などを務めた]は1989年ごろ、国会の野党総裁室で筆者にたいして、ひそやかにこう聞いてきたことがある。

 「金泳三総裁が金淇春を(政治的に)抹殺しろと命令してくるんだ。何かいい手立てはないものだろうか。初当選組のわたしのような者には、政治の勘所が分からなくて……」

 記者のわたしは、クスッと笑いながら金光一に尋ねた。

 「総裁が、どうして金淇春を抹殺しろと言うのか、心当たりはないのでしょうか」

 こんな問いかけに金光一は「盧泰愚大統領に忠誠を尽くそうとして金泳三総裁の拠点である上道洞の周辺を探り、司法の面で噛みつこうとしているようなんだ」と答えたのだった。

 ▽没落

 筆者は後日、金泳三の側近であった李源宗(2021年死去、金泳三政権で政務首席秘書官などを歴任)に、金泳三が金淇春を嫌った理由について尋ねたが、「詳しいことはよく覚えていない」という返事だった。ただ、「金泳三総裁は金淇春に好感を持っていなかったことだけは確かだ」と答えていた。

 そのように金淇春に歯ぎしりし、激怒していた金泳三だったが、金泳三が大統領になったあとも、その間に巨済島選挙区選出の国会議員となっていた金淇春はどういうわけか、そのまま健在だった。その選挙区を金泳三の息子の金賢哲が狙っているという報道もあったが、議席を奪われることなく、この選挙区で3回も国会議員を務め上げたのだった。

 そんな金淇春だったが、遂に、没落の日が訪れる。2015年、朴槿恵政権下で大統領の右腕、大統領秘書室長になり、「ブラックリスト」という権力遊びに酔いしれたのである。金淇春は自らが掘った墓穴に転げ落ちた。文化体育観光部長官の趙允旋とともに監獄に収監されたのである[金淇春は、朴槿恵政権に批判的な文化人や芸術家を公的資金支援から排除する目的で「ブラックリスト」の作成を主導、趙允旋がその執行などに関わったとして2017年、ともに職権乱用などの容疑で逮捕された]。

                       訳:波佐場 清