■送還決裁の日、大統領暗殺
ベトナムに抑留されていた李大鎔公使らの釈放が韓国側に伝えられたのは1979年10月26日――まさに、その日の朝のことだった。
李鍾賛は電文を情報部の尹鎰均・海外次長に報告した。情報部は噂になることを心配し、外務部に電文の配布を止めさせた。外務部の金太智アジア局長[のちに駐日大使]にも、特別な保安措置を取るよう求めた。
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| 南ベトナム大統領グエン・バン・チュー(左)と李大鎔公使 |
▽「機密事項」
報告を受けた金載圭部長は、満足そうな表情を浮かべた。
朴大統領が大いに満足すると思える内容だった。
ところがまさにその日、10月26日の夜に朴正煕は金載圭の銃弾を受けて亡くなり、金載圭は暗殺犯として逮捕されたのである。統治ラインの、この不測の事態によって李大鎔救出作戦は宙に浮いてしまった。
情報部の幹部たちがごっそり捕まり、反逆容疑で取り調べを受ける。
李鍾賛は、「12・12反乱」によって全斗煥の新軍部が実権を握った後も、この機密を李熺性部長代理(戒厳司令官)[朴正煕が暗殺された後、陸軍参謀次長だった李熺性が中央情報部長代理になり、その後さらに参謀総長となって戒厳司令官を兼務していた]にすら報告しなかった。ただ、抑留された3人の身に何ごとも起こらないよう、東京の工作ラインに頼んでおき、時が来るのを待っていた。
▽全斗煥に報告
そんななかで79年12月下旬、保安司令部に電話をかけ、全斗煥司令官との面会を求めた。
秘書室長の許和平大佐は何ごとかと気をもんだが、「司令官にお会いしたあとで説明したい」と答えた。陸士17期で李鍾賛より1年後輩の許は、あっさりと引き下がった。全斗煥は李を歓待した
「李鍾賛、久しぶりだな。元気にしていたのか?」
李鍾賛は李大鎔に関する一部始終を説明した。全斗煥もベトナム戦争で派兵された韓国軍の白馬部隊第29連隊長をしていたので、李大鎔のことはよく知っていた。
「で、ワシにどうしろというのか」
李鍾賛は、獄中の金載圭部長に会わせてほしい、と頼んだ。朴正煕大統領に報告することにしていた事案だったので、その日、どんな方針が下されていたのか、知っておかねばならなかった。
▽権力掌握を直に確認
「金載圭との面会はダメだ」
それなら、報告書のファイルだけでも捜さないといけない、と李鍾賛は食い下がった。というのも、情報部は「保安維持のため」と言って、李鍾賛にさえ、そのコピーを持たせないようにしていたからだ。
全斗煥は、状況をよく把握してからまた、連絡すると答えた。
そう言いながら、崔圭夏大統領にも報告しなければならないので、この間のことを詳細に書いた報告書を一つ作ってくれ、と言った。
その面談の15分ほどの間にも、全斗煥はひっきりなしに電話を受け、対話が途切れたりもした。長官をはじめ主要幹部からの電話が相次ぎ、人事の問題であれ、政策の決定であれ、全斗煥はすでに権力の中心に確固として上り詰めていることを、李鍾賛はその目で直接、確認した。
ファイルは南山の部長の寝室横の書類箱にあり、詳しいことは秘書室長の将官金甲洙が知っているとのことだった。合同捜査本部が獄中の金載圭から聞き出した情報であることに間違いない。
▽外交ルートと工作ルート
崔圭夏大統領はこの件を公式外交ルートで解決しようとした。
外交官出身でもあり、アイゼンバーグにはよくない先入観もあった(のちにアイゼンバーグに産業勲章の授与が決まってからも崔大統領は会うのを嫌がり、全斗煥が代わって授与した)。
朴東鎮外務部長官が乗り出し、中立国であるスウェーデンの外交ルートを使って交渉を進めた。李鍾賛は、アイゼンバーグの工作ルートとスウェーデン・ルートがぶつかって交渉が決裂するのではないかと心配したが、ベトナムは意外と賢明だった。
表向き中立国スウェーデンの顔を立て、実際にはアイゼンバーグの要求を呑むやり方を取ったのである。
▽無事生還
こうして80年4月12日、サイゴン(ホーチミン)のタンソンニャット空港で、大団円の幕が下りる。
韓国政府の要請でベトナムを訪れたスウェーデンの外務次官、そしてアイゼンバーグ・グループのハノイ支社長らの一行が、李大鎔、徐丙鎬、安熙完の3人をアイゼンバーグ専用ジェット機に乗せてソウルに向かった。
そして、それから2日後の4月14日、全斗煥は中央情報部長代理を兼任することになる。
李鍾賛はこうして偶然にも「サイゴン抑留事件」に巻き込まれたことで全斗煥との縁ができ、のちに民主正義党(民正党)結成の秘密の産婆役となり、政治の舞台にデビューしていったのだった。
訳:波佐場 清






