■「民族」外し、「民主・福祉」
保安司令部の裏手にある2階建ての建物に陣取った新党結党チームは、対外秘密を守ることを誓約し、人物の選定にかかった。いったん、仕事を分担し、李相宰(保安司令部)がメディア関係者、李相淵(同)が予備役および現役軍人、李鍾賛と郭煕正(中央情報部)は旧政治家、教授、著名人を担当し、斬新な人材を選ぶことにした。
一方で、金潤煥(維政会議員)が、盧泰愚や鄭鎬溶と慶北高校の同窓という縁故をつてに与野党の政治家らと接触して回った。全斗煥、盧泰愚らと同期の陸士11期で、尹必鏞事件に絡んで軍服を脱いだあと三星(サムスン)グループにいた権翊鉉も結党の手伝いをして回った。しかし、実力者の大佐である許和平は、この2人をひどく嫌った。
「新しい時代を切り拓いていくに当たり、昔の人間たちがのさばっていてはイメージが損なわれます」
▽正義派の元記者
許和平が「斬新な第3勢力[旧軍部・保守(第1勢力)や既成の野党(第2勢力)以外の勢力]を糾合しよう」というのには、李鍾賛も同感だった。
李鍾賛は友人の任在慶[ジャーナリスト、のちにハンギョレ新聞編集人]や蔡賢国[実業家、教育者]に相談したところ、記者出身の南載熙[1934~2024/金泳三政権で労働部長官]を推薦された。南載熙は政治記者として駆け出しの時代、革新系を取材していた正義派だった。
自由党政権[李承晩政権]下、ソウル大法学部の学生だった頃には、李承晩大統領の養子となっていた李康石[実父は有力政治家の李起鵬]のソウル大法学部編入に反対する運動の先頭に立ったりもした。韓国日報、朝鮮日報、ソウル新聞を渡り歩く間、朴正煕大統領の面前で「苦言」を呈したことによって却って抜擢され、第10代国会議員(79年3月~80年10月)も務めた。
李鍾賛の提案に南載煕は二つ返事で応じ、2人は疎外された在野勢力を抱き込もうということで意気投合した。
▽独立運動家の孫
李鍾賛は、上海臨時政府の創設に関わった独立運動家、李会栄の家系[李会栄の孫に当たる]であり、南載煕は、曺奉岩[1899~1959/進歩党党首。李承晩を相手に大統領選で善戦。のちに、スパイとして処刑された]や尹吉重[1916~2001/曺奉岩と共に進歩党で活躍。全斗煥政権下では与党民正党に参加した]が活躍した1950年代末、革新系政治家を担当していた。そんなところに在野の政治家が合流すれば、新軍部政権の正統性を補い、斬新性も加わって新党のイメージアップにつながるはずである。というわけで、軍の実力者たちも、これを拒まなかった。
一方で、新党の理念や綱領、政策もつくらなければならなかった。
そんなとき、京郷新聞編集局長の鄭求浩(全斗煥の高校の先輩)が研究報告書を持って権正達・保安司令部情報処長の部屋を訪れてきた。
▽「学生革命」の元闘士
鄭求浩はもともと、1960年の「4・19学生革命」直後、ソウル大学文理学部在学中に崔永喆[東亜日報政治部長などをへて全斗煥政権で統一部長官などを歴任]や柳根一[朝鮮日報のコラムニストとして名を馳せ、のちに同紙主筆]らといっしょに進歩的なサークル「新進会」で活動した、目覚めた青年だった。学生革命の後、民族統一に向けた板門店での南北会談を求め、「行こう北へ、来たれ南に!」と叫んだ疾風怒濤のメンバーである。ところが、いつの間にか、その時から20年の歳月が流れ、全斗煥と同郷の縁により、新軍部のブレーンとして現れたのだった。
▽「民主福祉国家の建設」
鄭求浩は「民族福祉国家」というテーマを掲げた。
「新たに建設する国家のブランドは『民族』福祉国家であるべきです。韓国政治にあって最も脆弱であった部分こそ、まさに民族問題でした。それで、米国の植民地だという声が若者たちの間から出てくるのです。そして、経済発展に見合う福祉の恩恵がなければなりません。朴正煕大統領も福祉に着目していたが、実現できずに逝去してしまいました」
しかし権正達は、たしなめるように言った。
「民族、民族と、それをあまり前面に押し出さないでもらいたい」
それでなくとも米国は、民族主義を掲げた新軍部の動きを「ヤング・カーネル(若手大佐)たちのクーデターだ」と白眼視してきたところだ。
李鍾賛は、鄭求浩に加勢した。とはいえ、「福祉国家の建設」だけでは地味すぎるのではないか、と…。
そのうえで、「民主福祉国家としましょう」と修正案を出した。
権正達は、鄭求浩が「民族」と書いた部分をすべてサインペンで「民主」と修正していった。このあと鄭求浩が清書し直した報告書は、全斗煥の裁可を得て「民主福祉国家の建設」ということで決着した。これが、第5共和国のキャッチフレーズとなっていったのである。
とはいえ、それでも「民族主義」という言葉を完全に捨て去ってしまうのは惜しかった。そこで、創造的(creative)という修飾語を付けて米国の警戒心を和らげることにした。結局、「創造的民族主義」とし、改革の意志も込めてそれを綱領・政策に反映させていくことにした。それには許和平も積極的に支持した。
▽大統領任期は「1期6年間だけ」
1980年7月15日、憲法改定について新軍部の中心メンバーたちが話し合った。全斗煥、盧泰愚、鄭度永(保安司令部参謀長)、権正達、許和平、許三守、李鶴捧、李鍾賛が出席した。
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| 盧泰愚(下)と権正達(上)は、現役軍人のまま憲法改定論議に加わった =1980年7月 |
首都警備司令官の盧泰愚は、軍服の正装で身を固め、乗馬用鞭を手にして入ってくると、友人であると同時に自分の上に立つ指導者となった全斗煥に向かって厳粛に敬礼をした。全斗煥は満足そうに微笑んだ。
だれもが浮き立ち、得意になっていた。
会合は権正達のブリーフィングで始まり、真っ先に話し合われたのは大統領の任期についてだった。4年重任(再選あり)とする意見も出たが、(重任を認めたことでさらに長期政権に欲望を燃やした)李承晩や朴正煕による無理な改憲を反省材料として、1期だけに限ることにした。任期は6年と決められた。
訳:波佐場 清






