第6章 処刑台とば口で、むせび泣く金大中
■「耐えがたきを耐えるのが真の忍耐」
盧泰愚のスタイルは、確実に全斗煥とは違っていた。
1980年8月22日、盧泰愚が全斗煥の後任の保安司令官になって何日もたたないこの日、ソウル新門路にある保安司令部の秘密の施設に金鍾泌を招いた。盧泰愚は「(「不正蓄財」で連行するなど)あそこまでやらなくてよかったのに本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「先輩として何か、ご忠告いただけることはありませんでしょうか」
▽金鍾泌の2つの忠告
盧泰愚の丁重な姿勢に少し気持ちの和らいだ金鍾泌は、こう言った。
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| 保安司令部から釈放され、家族と抱き合って喜ぶ金鍾泌 |
「見るところ、あなたはナンバー2のようだが、権力を握るナンバー1は常にナンバー2を仲間外れや骨抜きにしようとするものだ。二点だけ話してあげよう。一つは絶対にナンバー1をみくびってはならない。卑屈になる必要はないが、品格を保ちつつも頭を低くしているべきだ。もう一点は、誠意を尽くしてナンバー1を支えているという印象を持たせなさい。疑われるようなことは決してしてはならない」(『金鍾泌証言録』)
金鍾泌は最後に一言、こうも付け加えた。
「耐えられないことを耐えるのが、真の忍耐というものだ」
盧泰愚は重ねて感謝の言葉を伝え、こう述べた。
「だれがわたしにそのようなことを言ってくださるでしょうか。肝に銘じてしっかりやりたいと思います」
▽メディア統廃合
80年10月、メディアの統廃合は、盧泰愚率いる保安司令部で担当することが決まった。この当時、中央情報部[翌81年4月から国家安全企画部(安企部)と名称変更]より保安司令部の方が実力が上だった。大統領の全斗煥は、何かと頭が痛く、文句の多い新聞や放送の統廃合については、情報部よりも保安司令部に任せる方がよい、と考えた。
保安司令部と情報部という2つの情報機関のトップを経験している全斗煥には、情報部は要員数も少なく、パワーの面でも劣っていて心もとなかった。ここはとくに、電撃的な速度戦を展開すべき局面だ。保安司令部の手を借りないことには、とてもやれない仕事だと考えた。天下の保安司令部が揺さぶりをかけてこそ、メディアをぐうの音も出ないように黙らせることができるだろう。
▽許文道の執念
これは、「スリー許」のうちの一人、政務秘書官だった許文道の「作品」だった。
許文道は、このメディア統廃合に一種使命感を持っているかのように動いた。
80年4月下旬に南山の中央情報部秘書室長になっていた許文道は着任早々、特戦司令官の鄭鎬溶[全斗煥、盧泰愚と同期の陸士11期]にたいして、特戦司令部とは直接関係のない「メディア統廃合」の立法についてブリーフィングをおこなった。鄭鎬溶はいま一つ、乗り気になれなかった。
「聞いてみたが、いい内容のもののようには思えない。うちの特戦司令部保安班長(金忠立少佐)の意見も聞いてみられたうえで、もう一度新しいものを作り直してみてください」
▽「ヤング・カーネル」の傍若無人
許文道が帰った後、突然、許三守大佐[陸士17期]から屈辱的な電話がかかってきた。
「つまらぬことに首を突っ込んだら、タダでは済みませんよ」
全斗煥の「親友」である鄭鎬溶――この豪快な先輩にたいしても、突っかかってくるのだった。鄭鎬溶は年下の者の警告にひどく不愉快だったが、そんなことは恥ずかしくてだれにも言えなかった。
命懸けの「反乱実行者」である若き大佐たち(「ヤング・カーネル」と言われていた)には、「どうせ(クーデターで一度は死んだ)おまけの人生」という思いがあったのだろうか。それで、そのように傍若無人に振舞えたのかもしれない。
許文道は6月、国保委(国家保衛非常対策委員会)の文化公報委員を務めていて再び、「メディアの整備・浄化計画」なるものを作成した。しかし、これも鄭鎬溶や盧泰愚らの反対で保留にされると、さらにその後、青瓦台に入ってから[許文道は、全斗煥が大統領に就任したあと、80年9月から大統領政務秘書官になっていた]、許和平と手を組んでこれを本格的に推進した。
▽盧泰愚の抵抗
保安司令部の情報処長だった権正達はこうした気配を察知していて、8月22日に盧泰愚が保安司令官に就任すると、直ちに「許文道がメディアの統廃合をやろうとしています」と報告した。
盧泰愚も乗り気になれなかった。覆さないといけないと思った(『盧泰愚回顧録』)。
権正達を連れて全斗煥大統領のもとに赴き、報告した。
「メディアにはいろいろと問題が多く、とくに地方メディアの不正や腐敗が深刻なのは事実です。しかし、統廃合より、問題点を正していくほうが望ましいと思います」
大統領はすんなりと受け入れた。
盧泰愚司令官は、厄介なコブが一つ取れた、という思いで青瓦台を出た。
ところが何日かして、盧泰愚が江陵(江原道)地域を巡視中、「至急にソウルに戻れ」という大統領からの指示が下った。保安司令部に着くと、文化公報部[当時、メディアの管理や政府の広報などを統括していた官庁]の李光杓長官が待ち構えていて、こう言うのだった。
「大統領閣下の特命です。メディアの統廃合をやれ、という指示です。閣下も2度も却下されたのですが、許文道秘書官が執拗に食い下がり、決心を覆されました。これを迅速に処理できるのは、保安司令部をおいてほかにない、とおっしゃっています」
盧泰愚は、許文道にしてやられたと思うと無性にイライラした。
▽耐えがたきを耐え…
「わたしの所管するところでもないので、李光杓長官の判断でお好きなようにやってください」
李光杓は青ざめ、盧泰愚にすがりつくように頼み込んだ。
「わたしはもう、どうしようもないのです。そうでなかったら、どうしてわたしがここで待っていたりするでしょうか。すでに保安司令部は内部の通達ですべての準備が整っています。ここは、ことを荒立てずに、部下にたいして『指示通りにやれ』と一言だけ言っていただければ、いいのです」
許文道が保安司令部を動かしたということなのか――。盧泰愚は、激しい怒りがこみあげてきた。
情報処長の権正達を呼んで聞いてみると、案の定、司令官が席を空けている間に、そのようなことがあったというのだった。盧泰愚は、許文道の手のひらの上で弄(もてあそ)ばれているのかと思うと、むかつき、はらわたが煮えくり返った。
それでも耐えた。あの時、金鍾泌と二人きりで会った際、あの先輩が諭してくれたではないか。
「耐えがたきを耐えることこそが、真の忍耐というものだ」
盧泰愚は深呼吸をして怒りを鎮め、保安司令部の参謀たちに命じた。
「命令なので、やむを得ない。実行せよ」
その一言だけを言うと、盧泰愚は司令部を立ち去った。
▽権勢振るう許文道
80年11月14日、新聞協会と放送協会は、メディア機関の統廃合を発表した。
表面的には自発的な決定に見えたが、裏で李光杓率いる文化公報部が操った、他律かつ強制的な統廃合だった。盧泰愚ものちに「メディア統廃合という強制的な手法を用いたことは、歴史を逆戻りさせる行為だった。恥ずかしい」と書いている(『盧泰愚回顧録』)。保安司令部はその日の夜から、ソウルと地方で同時進行のかたちで実行に乗り出した。統廃合の対象になったメディアの社主や経営のトップらを呼び出して権利放棄の誓約書に次々と判を押させた。
東洋放送(TBC)[三星系/KBSに吸収された]の権利放棄誓約書を書いて保安司令部から出てきた三星(サムスン)グループの李秉喆会長は、盧泰愚司令官がいっさい姿を見せなかったことに不満を漏らした。
「言われるままに署名をし、国家の発展に貢献する用意もあるというのに、保安司令官はなぜ、顔も見せないのか。こんなことって、あっていいのか」
のちに盧泰愚は、三星グループ系列の新聞社である中央日報社長の洪璡基を通じて李秉喆会長に丁重に謝罪した(『同回顧録』)。
東亜放送(DBS) [東亜日報系ラジオ放送局/KBSに吸収]の放送終了(11月30日)や新亜日報[独立系/京郷新聞に吸収]の廃刊(11月25日)が相次いだ。許文道の構想通りだった。
「スリー許」の権力はそれほどまでに強大だった。3人の「許」のうち、クーデターに加わってもいない民間人出身(元朝鮮日報記者)の許文道が、天下のナンバー2である盧泰愚を完全に押さえつけ、引きずり回したのである。
▽政治活動に専念
80年9月、兪学聖率いる中央情報部は、人事異動で2人の次長を新たに迎えた。
それまでの徐廷和次長が内務部長官に栄転し、金永先次長も京畿道楊平から国会議員に立候補するために辞任した。新しい次長には玄鴻柱局長、そして金聖鎮企画調整室長がそれぞれ昇進した。
李鍾賛は総務局長の肩書きで内部改革の先頭に立っていたが、企画調整室長に昇格した。しかし、李鍾賛は新党づくりの準備や国会に代わる立法会議の議員選びなど、外部の仕事も重なり、一人三役で多忙を極めた。
兪学聖情報部長は、情報部の改革よりも政治の動向のほうに、より大きな関心があるようだった。新党づくりに余念がなく、野党づくりにも注力しているようだった。
10月に入ると、結党の作業にいっそう人手がかかるようになり、大統領は、権正達と李鍾賛を立法会議の議員に任命して結党に専念させた。兪学聖部長は、毎日のようにせっついてきた。情報部の改革のようなものは放っておいて政治活動に専念しろ、というのだった。それで、李鍾賛は10月31日、情報部を辞めた。
訳:波佐場 清






