■手形詐欺事件で安企部長に危機
1982年4月27日、小雨がそぼ降るその日の明け方、またしても驚天動地の事件が起きた。
慶尚南道・宜寧警察署の巡査、禹範坤がカービン銃と手榴弾を武器庫から奪い、近隣5カ所の村を荒らしまわりながら、理由もなく住民56人を射殺、35人にケガを負わせて自爆するという事件だった。
▽盧泰愚、内務長官に
直ちに内務部長官の徐廷和が更迭され、後任に盧泰愚が起用された。
盧泰愚はそのわずか1カ月前に体育部長官になったばかりだった。
前年の81年7月に陸軍大将(保安司令官)で予備役編入となり、民間人の身分になった。以来、「第二人者」との呼び声はあったものの、その間、許和平と許三守が大きな声で号令をかけるなかにあって、政務長官、体育部長官として息を潜めてきていた。
世の中、何が起こるか分からないものである。ピンチはチャンスを孕んでいた。
盧泰愚は、ちょっと意地悪な春雨の降る宜寧の田舎の村むらを、住民の心を慰めるため、へいこらと頭を下げてさまよわなければならなかった。しかし、だれ知ろう、これが、のちに大統領の座へ登っていくうえで、いい勉強の機会になったのだ、ということを――。
「突然、内務部長官になった盧泰愚としては、結果的に、これをきっかけに全国の市、郡、区の行政と警察組織について把握・掌握することとなり、大統領への道を歩むうえで大きな力となった」(朴哲彦の証言)
「人間万事塞翁が馬」とは、こういうことなのか。
▽大型手形詐欺事件
兪学聖・安企部長に危機が迫っていた。
82年4月の禹範坤巡査の銃乱射事件が外傷であったとしたら、それ以上にもっと世間を騒がせた李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件は、内部で膿んで破裂した内傷だった。
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| 大型手形詐欺事件を起こした李哲煕・張玲子夫婦=1981年6月、ロッテ・ホテル |
李哲煕は、金大中拉致事件(1973年)当時の中央情報部次長で、国会議員(維新政友会)も務めた人物だ。妻の張玲子は、全斗煥の妻(李順子)の叔父にあたる鉱業振興公社社長、李圭光の義妹である。この夫婦は、その政治的な思惑が透けてみえる結婚式からしてあまりにも派手なもので、ソウルの街の噂になった[結婚式場となったのは、当時最高級だった新羅ホテル近くの超高級メンバーズ・クラブ「サファリ・クラブ」。全斗煥政権が国民に贅沢を禁じるなか、政財界の超大物を大勢招いて超豪華な結婚披露宴を開いた]。
李・張の夫婦は、「大華産業」という会社を立ち上げ、銀行の無担保融資を利用して資金を引き出したあと、自己資金の乏しい建設業者に近づいてその資金で詐欺を働いたのだった。
▽国家予算額の1割相当を詐取
手形詐欺の手口はそう複雑なものではなかった。資金繰りにあえぐ企業を見つけては「現金を融通してやる」と持ちかけ、代わりにその何倍もの手形(見返り手形)を受け取る。その手形を銀行に持ち込んで即座に現金化し、その現金を別の企業に貸し付けては、また新たな手形を受け取って次々と現金化していく、というやり方だった。このごろの言葉で言えば、一種のデリバティブ(金融派生商品)をつくり出して流通させたというわけである(当時は違法だった)。
こうして騙し取った額は実に6400億ウォン[当時の日本円で2千余億円に相当し、韓国の国家予算の7%、見方によってはほぼ1割に匹敵した]にものぼった。
金鍾仁・元青瓦台経済首席秘書官はこう指摘する。
「そのような大型詐欺事件は、2人が元中央情報部次長(李哲煕)と現職大統領夫人の叔父(李圭光)の義妹(張玲子)――という夫婦だからこそ起こり得た。かつての肩書がどうだとか、青瓦台の親族を笠に着て特殊資金がうんぬんかんぬんなどと言えば、まかり通ってしまうのが昔も今も変わらない現実なのだ」
検察の調べをより詳細に説明すると、この夫婦は81年2月から1年ほどの間に、銀行から総額6404億ウォンを調達して企業に貸し付け、その担保名目で貸与額の2~9倍に達する手形を受け取っていた。
「見返り手形」として市中に流通させないという条件で受け取った手形を私債市場で売ったり株式に投資したりして、手形詐欺を働いていたという。そのあおりで、日新製鋼や公栄土建といったちゃんとした企業が倒産し、朝興銀行と商業銀行の頭取を含む30余人が拘束されたのだった。
▽湯水のごとく…
李と張の夫婦は、騙し取った金を湯水のように使っていた。
そのころ、元中央情報部捜査局長の国会議員、李龍澤(慶尚北道星州・達城・高霊選出)は、慶州でこの夫婦とばったり出会った。李哲煕がうれしそうに声をかけてきた。
「お久しぶりです。このごろ、いかがお過ごしですか」(李哲煕)
「はい、国会の仕事のほかにも、わたしがずっと前から関わってきている太平洋戦争の戦没同胞の慰霊のことで、忙しくしています。霊を慰める鎮魂碑をサイパン島に建てようかと思っています」(李龍澤)
李龍澤がこんな話をすると、李哲煕は張玲子を呼んだ。
「おい、おまえ。李議員は良いことをしているんだから、ちょっと力になってやろうよ」
張玲子はその場でハンドバッグを開き、封筒に何かを入れて渡してくれた。あとで開いて見てびっくり、なんと1000万ウォンもの大金だった。当時、大企業や総合商社の社員で月給20~30万ウォンだったから、いまの金でいうと1億ウォンくらいになる額だった。驚いた李龍澤は「なにかの間違いではないか。あまりにも大金なので返したい」と申し出ると、張玲子はこう言うのだった。
「そのぐらいの金で何をおっしゃるのですか。良いことに使いなさいよ」
それでも李議員は返したという。こんな具合だったので、中央情報部出身の者たちも、あれこれ理由をつけては李哲煕のもとを訪れ、小遣いをもらっているという噂が広がった。
▽国民の憤怒を煽った「スリー許」
資金繰りにあえいでいた公栄土建のような建設会社が餌食になった。
公栄土建のオーナーは当時、実力者だった民正党の権正達事務総長と友人関係にあった。
公栄土建が罠にかかったという報道とともに、張玲子の義兄である鉱業振興公社社長の李圭光や権正達の名前が新聞をにぎわせた。クーデターを起こして「正義社会の実現」を掲げた第5共和国政権と、そんな政権にたいする記者たちの反感と冷笑、そしてそこに全斗煥の親族を蛇蝎のごとく嫌った実力者の「スリー許」(許和平、許三守、許文道)のサポートも加わった。国民の憤怒は、炎となって燃え上がった。
「スリー許」は、メディア工作によってこれを煽った、と朴哲彦は次のように証言している。
「朝鮮日報東京特派員出身の許文道は、古巣の朝鮮日報の崔秉烈編集局長らの協力を得て大統領周辺に批判的な世論づくりをしているようだった。かれらのメディア工作によって全斗煥大統領は裸の王様になった。国民はもちろん、青瓦台の参謀たちまでが、この事件の裏には大統領夫妻がいるのではないかと疑うような雰囲気になった。許和平、許三守の2人の首席秘書官はあからさまに大統領夫妻に圧力をかけ、大統領を怒らせた。下手をすると、大統領は操り人形になりかねなかった。スリー許らのそのような凄まじい剣幕に、次に予定されている盧泰愚の時代は、もう永遠に来ることはないのではないか、とさえ心配になった」[朴哲彦は盧泰愚の親族で、盧とは義理の甥という関係にあった]
▽横柄に振る舞う「スリー許」
許和平と許三守――この「2許」の大佐は、ハナ会と保安司令部で同志という関係にあった民情首席秘書官の李鶴捧にも詰め寄り、「民情首席秘書官の本来の業務である大統領の親族の管理を怠ったために、こういうことになったのだ」とやり込めた。
李鶴捧はカッとなって辞表を出し、荷物をまとめて青瓦台を出て行くという一幕もあった。大統領も、かれら「建国功臣」である「ヤング・カーネル」(若い大佐)たちの、こうした「いがみ合い」を見守りながらじっと鬱憤を抑え込んでいた。
大統領をコーナーに追い詰める「スリー許」のこうしたやり方は内部に敵もつくった。
「その時点まで国政全般を思いのままに弄んでいたスリー許は、この李哲煕・張玲子事件を自分たちの影響力をさらに強める、いいチャンスととらえていたようだ。大統領の親族管理を問題にし、これを機に大統領までコントロールしてやろうとしたことが事件をいっそう大きくさせていった」(朴哲彦の証言)
朴正煕暗殺事件後の「12・12クーデター」で、鄭昇和・陸軍参謀総長を逮捕した「一等功臣」だったとはいえ、その「大株主」たる大佐たちも度を過ごしている、という不満が秘書室内に広がっていった。
訳:波佐場 清








