2026年5月18日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(20)

  「大統領選遅らせた」

1980年、ソウルの早い春。当時、「政治日程」といえば、維新憲法の改正と新しい大統領を選ぶ選挙のことを意味していた。

「ソウルの春」の会同。右から金鍾泌、金泳三、金相万(東亜日報会長)、金大中、丁一権(国会議長)19802月、仁村記念館

 118日、崔圭夏大統領は記者会見で「政府が約束した政治日程を守る」と表明した。しかし、新民党総裁の金泳三は、政治日程を大幅に前倒しすべきだと主張し、活動を本格化させていった。金大中も229日、尹潽善[初代ソウル市長。李承晩大統領下野の後、議院内閣制下で第4代大統領]らとともに復権し、集会への参加や要人らとの面会といった政治活動を再開した。

振り返ってみるに、崔圭夏は政治日程を思い切り前倒しし、一刻も早く過渡期を終わらせておくべきだった。

崔圭夏の判断ミスについて、金泳三、申鉉碻、盧泰愚はそろって、回顧録のなかで叩きだしの太鼓のように崔圭夏を厳しく批判しているのが目を引く。

▽「早急に大統領選をやるべきだった」

まず、金泳三の回顧――

「崔圭夏は過渡期の政権担当者として早急に選挙をやり、国民の手に民主主義を取り戻すべきだった。わたしはかねてより、80年に選挙さえ早くやっていたなら、(全斗煥らによる「517」の)クーデターはなかっただろうと考えている。「1026[朴正煕暗殺事件]直後に崔圭夏と会った際、『軍部に機会と名分を与えてはいけない。時間を引き延ばすと、混乱が大きくなるだけだ。あなたに課せられた任務は、3カ月以内に大統領選挙をおこなうことだ』と説き、かれの口からその了解も得ていた。ところが、かれは政治日程を遅らせ、国に不幸を招いた。「419[1960年春に李承晩政権を倒した「学生革命」]のあと、許政の過渡政権が混乱の中でも選挙によって民主党への政権交代をなしたのとは対照的な、間違った身の処し方をした」(『金泳三回顧録』)

当時の国務総理、申鉉碻に聞いてみよう。

「崔圭夏大統領とうまく呼吸が合っていれば、民政移管がうまくいっていた可能性もあった。しかし、崔圭夏氏は(新軍部が自分を担いでくれるだろうと期待していて)新軍部による反対勢力一掃の5・17クーデターを呼び込み、民政の開始という国民との約束を破った」と言い切った。

▽盧泰愚も批判

この点、新軍部の盧泰愚までもが崔圭夏を非難している。

 盧泰愚は金泳三とは反対の側にいたが、「崔圭夏は能力もないのに時間だけを引き延ばした」と、回顧録のなかで次のように書いている。

 「崔圭夏大統領があの時期に国政を担当されたのは、ご自身にとっても、また、国家にとっても不幸なことだった。あの方は政治スケジュールをあまりにも長く設定しすぎた。国政を率いる自信と信念があったのなら、余裕をもって日程を組み、混乱を収拾してから安定と秩序を取り戻したうえで政権を移管しても、とくに問題はなかっただろう。しかし、そうした能力もないくせに、政治日程を長く取りすぎたせいで、混乱がいっそう深まった」

そう指摘しながら盧泰愚は、「これは仮定の話だが、もし申鉉碻であったなら、違っていたことだろう。あの方は崔大統領の欠点を補って余りある能力と決断力を備えていたので、多分、状況は変わっていたはずだ」と記録している。

当時、青瓦台の政務首席秘書官だった高建も同じ考えだった。やはり、政治日程を早めるべきだったと書き残している。

「街のデモ隊が『政治日程を早めろ』『非常戒厳令を解除しろ』と叫んでいる以上、時局収拾を急ぐべきだった。そこで、『政治日程を早め、透明にすべきだ。戒厳令の条件付き解除の時期を発表し、全面的な内閣改造をおこなって雰囲気を一新すべきだ』という内容の進言書を作成した。安致淳秘書官にも手伝ってもらい、各界の世論をまとめたものだった。ところが、大統領はそれとは正反対の対応をとった」(『高建回顧録』)

▽タイム誌にリーク

申鉉碻の回顧談に登場する崔圭夏の「黒い下心」に関して、2――

申総理は崔大統領に、中央情報部長を民間から急いで任命するよう進言した。

 「崔圭夏氏に話したんだ。情報部は(朴大統領を殺害した)金載圭のせいで、めちゃくちゃになってしまっている。こういう過渡期だからこそ、情報が決定的なのだから(金載圭の)後任の部長を早く、密かに任命してください。軍人ではなく、民間人を任命して保安司令官(全斗煥)と両立させ、相互に牽制させるべきです。2つの機関を併存させて情報をコントロールしていくべきです、と」

それでも反応はなく、何日かしてまた、催促したが、崔圭夏は黙りこくったままだった。

ところが、崔大統領の反応は、あろうことか突然、米週刊誌『タイム』から出てきた。

「タイム誌が届いたので見ると、『崔大統領は情報部長を軍人から任命しようとしているが、申総理が民間人にすべきだと反対していて任命できず、遅れている』と出ている。大統領と2人きりで、ほかにだれもいないところで交わした話なのに、どうしてこのような記事が出るのか。それで、あちら(崔圭夏)でわざとリークしているんだ、と考えるほかなかった。崔圭夏は、軍人たちとグルになりつつあるんだなあ、と…」(『申鉉碻の証言』)

▽退陣に抵抗

 80424日、申鉉碻総理は、新聞各社の編集局長を三清洞の総理公邸に招いて夕食会を持った。その席で申総理は、こう話した。

「わたしたち過渡期の管理政府は、使命をまっとうして退くつもりだ」

 世間のデマ(政治日程が長引いていること関し、政権延期の野心がある、とするもの)を払拭し、申鉉碻の退陣を叫ぶデモ隊のスローガンにたいする回答を示したものだった。

 翌日、青瓦台の人間がやって来て、申総理に「わたしたち」とはどういう意味なのか、と聞いた。申氏は語る。

 「わたしは怒りがこみ上げ、怒鳴りつけた。青瓦台に住んでいる人間どもは韓国人ではないのか。『わたしたち』という言葉も知らないのか。つまらぬことを言っていないで帰れ、と怒鳴りつけてしまったよ。わたしが過渡政府の責任を果たして退陣すると言っていることに異存がないのなら、どうして『わたしたち』という言葉に異議を唱えるのか。聞くまでもないことだ。大統領のイスに座ってみて、考えが変わったという意味だった」

 崔圭夏と申鉉碻の過渡政権は、こうして足並みが乱れ、こじれて行った。

 そんな隙を突き、全斗煥の新軍部は政権に向かって猛烈な勢いで突き進んでいった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月15日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(19)

 「ひっくり返そうとしていたら、軍は全滅」

当時は、陸軍参謀総長の李熺性戒厳司令官さえも、全斗煥の新軍部の手中にある「お飾り司令官」に過ぎず、監視される身だった。李熺性は、こう吐露している。

「わたしは参謀総長として、あの1212の下克上劇を正すべき立場ではあったが、調査機関も補佐陣もみんな、あちら側(保安司令部)に押さえられていた。もし、そのことを問題にしようものなら、軍全体がめちゃくちゃになっていただろう。そういう状態が惰性的に固まっていってしまった」(20109月、MBCインタビュー)

「全斗煥の言うことを聞かなかったら、初めから戒厳司令官は務まらなかった。保安司令部の通信傍受や盗聴が怖かった。参謀総長を放りだし、辞めてしまおうか、と思ったりもした」(検察の「1212」捜査で)

▽米軍も監視対象

全斗煥率いる保安司令部の包囲網は、駐韓米軍司令官ウィッカムにたいしても例外ではなかった。

801月末の逆クーデター騒動(ウィッカムのところへ李範俊が逆クーデターの情報を持ち込んだ事件)のあと、全斗煥の保安司令部は、幹部将校らの批判的な言動は即刻報告せよ、との指示を出した。米第8軍や米大使館の関係者と接触する高官らは、すべて保安司令部の許可を得なければならないようにした。あらゆる幹部級会合で、密かに録音テープが回された。また、全斗煥にたいする警護・警備が強化され、公用車の窓ガラスはすべて黒く塗りつぶされ、仮に街なかに暗殺を狙う者がいたとしても、車内をうかがうことができないようにした」(ウィッカム回顧録)

 さらには、新軍部が常々「植民地の総督気取りなのか」と皮肉っていたウィッカムにたいしてはスパイまで付けた。

「米韓連合軍司令部に韓国軍の副官(中佐)が新しく来た。ところが、その新任副官は事務室の外にある書類棚を漁っていた。情報収集をしていることは明らかだった。調べてみると、かれは保安司令部の将校であり、収集した内容を機密として報告していた事実が明らかになった。それ以来、わたしはそのスパイに事務室のいかなる書類にも一切手を触れさせなかった。そのスパイがいるときは車内であれ、ヘリコプター内であれ、話を交わさないようにした」(同)

▽自信満々

全斗煥の口からは、自信たっぷりの言葉が出ていた。

ある日、申鉉碻総理の息子である申喆湜に言った。「ソウルの春」がピークを迎えようとしていたころだ。経済企画院に勤めていた申喆湜にたいし全斗煥は、さも、よく知っているかのような顔で、近寄ってきた。

19803月、全斗煥(右)は少将から中将に破格の昇進をした。
左は崔圭夏大統領
「申総理の子息の喆湜君、そうだろう?」

「あ、はい」

「ワシだ、全斗煥だ」

「近ごろの情勢、大丈夫なのでしょうか? デモが深刻になってきているようですが…」

「な~に、心配するな。ワシがしっかりと掌握している」

全斗煥は明るい表情で、自信たっぷりに答えた。

 ▽米側の不安と計算

 80129日付の2級秘密電文で、米大使のグライスティーンは、微妙なニュアンスの報告を付け加えていた。

「現在、韓国経済は近年(朴正煕政権末期)の楽観論から大きく逸脱してきている。(崔圭夏による)民政政権には、このような経済的難局を扱う能力はないと見なければならない。このような状況が続けば、軍部による新たなクーデターや政治的反乱が再び起こる危険性は、ますます高くなるだろう」

米国は5月のソウルの大規模なデモと「518光州抗争」のあと、急速に全斗煥の新軍部に傾いていったのだが、その予兆をここに垣間見ることができる。

 802月中旬、ウィッカム司令官が全斗煥と初めて会ったあとに書いた記録がある。

ウィッカムは本国に送った報告書の中で「全斗煥は自ら、最高権力者になるのが『運命』だと信じている。しかし、米国についての知識や、韓国の政治不安が国際社会に及ぼす影響の重大性に関する知識は、幼児レベルに留まっていることを発見した」と書いていた。ここで、目を引くのは「運命」という言葉だ。米国は不安を抱きながらも全斗煥の野心に注目し、その一方で、全斗煥を通して米国の国益を実現すべきかどうかを天秤にかけている。

                       訳;波佐場 清

 

2026年5月12日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(18)

  「逆クーデター」

 そのころ、米国も頭を悩ませていた。

 駐韓米大使の秘密電文(1993年解除)は、そのことを物語っている。

 「(米国が)動けば非難され、動かなくても非難される。やるべきことをしっかりやらなければ危険なことになるだろうし、逆に、介入しすぎても(新軍部の)国粋主義者らの強い反発を招くだろう」

 80129日の2級秘密電文で、ウィリアム・グライスティーン大使はサイラス・ヴァンス国務長官にこう打電した。「1212反乱」の後、ジレンマに陥った米国の困惑をそのまま物語っている。

 あっちにも、こっちにもつけず、不安に怯えるばかりの米国――

 驚くべきことに、グライスティーン大使はこの時、旧軍部から「逆クーデター」を提案される。韓国軍の将官30余人を代表するという「ある将官」が訪ねてきて、「不人気な反乱軍の全斗煥一味をひっくり返したいので、助けてもらいたい」と米国に支援を求めたのである。

 ▽秘密解除外交文書

 その将官とは、李範俊中将(19282007/当時、国防部防衛産業次官補)だった。

 米国務省が2021916日に韓国外交部に伝達した882ページに及ぶ光州事件関連の秘密解除外交文書で、その名前が初めて明らかになった。198021日、グライスティーン大使がワシントンに報告した「韓国軍の不安定性に関する追加の証拠」と題する電文に出てくる「情報提供者」である。

 そこには、米大使が、李範俊(General Rhee Bomb June)将軍から「1212反乱をひっくり返そうという韓国軍内の反全斗煥クーデター情報」を入手した、という内容が書かれている。

 「李範俊から逆クーデター情報を入手した。ウィッカム駐韓米軍司令官も軍内部にさらなるクーデターの兆候があることを確認した」

 後日出版されたグライスティーン大使の回顧録とウィッカム司令官の回顧録、そしてこの秘密文書を突き合わせてみると、ジグソーパズルが完成する。当時、米国が入手していた情報の全貌というのは、こうだ。

  ▼全斗煥の計画は、1212反乱で軍権を掌握したあと、民政政権を奪取しようとするものだが、米国の拒否反応を前に、まだ様子をうかがっている。

▼陸士出身でない将官の90%と陸士出身将校の半数が、全斗煥の反乱に反感を抱いている。

30余人の将官クラスの将校が、全斗煥の排除を計画している。

 ▽揉み消し

グライスティーン大使とウィッカム司令官は、逆クーデターを嫌っていたわけではなかった。道徳的にも、それは正当なものだった。

 しかし、それにもかかわらず、それを拒否した。現実的にみて、限界があったからだ。

 まず第一に、逆クーデター勢力の主役たちの正体と、その実力のほどがよく分からなかった。米国の立場を積極的に支持するとは言っているものの、「もう一人の全斗煥」ではない、という確信が持てなかった。さらに、逆クーデターの動員兵力がどれほどのものになり、流血事態を起こさずに全斗煥勢力を駆逐できるのかも不透明だった。米国が最も恐れていたのは「1212反乱」のような安全保障上の混乱が再び繰り返されることだった。

 ワシントンは、逆クーデターに反対の意思を表明する一方で、全斗煥にもその事実を知らせ、「こんご、民政政権を乗っ取るようなことをしたら、不幸な結果を招くことになるだろう」と警告することで、「逆クーデター事件」を闇に葬った。

 ▽偽装工作?

 この過程において、米CIA韓国支部長のブリュースターが大きな役割を果たした。

 全斗煥ら新軍部と親密な関係にあった彼は、グライスティーン大使とウィッカム司令官に「すでに軍の統治権者になってしまった全斗煥を排除できる有効な手段は、米国にはない」と指摘し、ワシントンは韓国の民主主義よりも安保の方を重視すべきだ、とアドバイスしたという。

 「逆クーデター」の情報が入ったあとの展開は、驚くべきものだった。

 新軍部は問題の幹部将校15人を排除(粛清)したのだが、そのことについて、ウィッカムは回顧録の中で「あろうことか、逆クーデター計画を持って訪ねてきた当の将官(李範俊)は排除の対象に含まれておらず、計画の全容は謎に包まれたままとなった」と書いている。

 

ウィッカム駐韓米軍司令官(右)は19816月、離任した

つまり、その将官は、全斗煥側が送り込んだ偽装工作のための人物だった可能性があることを示唆しているのである。全斗煥が逆クーデターという芝居を打ち、米国がうっかり食いついてきて罠にはまれば、逆に、それを弱みとして握ろうとしていたというのだ。

情報提供者の李範俊のその後の経歴を見たなら米国は、身の毛もよだつ思いをしたはずだ。

彼は全斗煥の権力下、中将で予備役に編入して81年から故郷の江陵(江原道)から2回も民正党の国会議員に当選し、さらに盧泰愚政権で交通部長官までつとめた。ウィッカムが疑っていたように、もし、これが新軍部の偽装工作だったのだとしたら、それはもう、『三国志』顔負けの奇抜な策略というしかない。

▽「あり得ない、不可能」

新軍部の一員で、当時保安司令部にいた将官の呉日郎(金載圭を逮捕した人物で、のちに青瓦台安全処長)に最近、筆者は逆クーデターについて聞いてみた。

結果から言うと、そのような試み自体、不可能だっただろう、という答えだった。

「一時、逆クーデターの噂があったのは事実だ。しかし、全斗煥保安司令官は当時、戒厳司令部を含む全軍の神経網(通信網)や急所を完全に掌握していた。そんななか、現実問題として、そのようなことは決して起こり得なかった。米国がそのような提案を断固払いのけたのは、韓国軍の内部を正確に把握していて賢明な判断を下したというわけだ」

                        訳:波佐場 清

 

2026年5月9日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(17)

  新党づくりに情報部の予算

 1980年2月初め、保安司令官の全斗煥は、親友である特戦司令官の鄭鎬溶に新党づくりについて話した。「政治家らが、禁止されてきた活動を再開すると騒々しくなり、ややこしくなる。参謀たち(権正達、許和平、許三守)は、政党をつくろうとしているようだが、どこで資金を調達できるか、調べてみてくれ」というのだった。

鄭鎬溶(右)は198312月、陸軍参謀総長に昇進した

 200億ウォン

200億ウォンという額だった。

そのころ、戒厳司令官の李熺性は記者会見で、こんなことを言っていた(8025日)。

「記者たちは、軍部は新党をつくるのかと聞くが、そんなことはしない。新しく党をつくろうとすれば200億ウォンほどかかるという。新党はつくらない」

200億ウォンというのは保安司令部の中心メンバーが見積もった額だった。

李熺性は、意味深長な言葉を付け加えた。

20年前(朴正煕らによる516軍事クーデター)とは違い、経済は経済の専門家、行政は行政の専門家がやらないとうまく回らない。それほど社会は複雑かつ、大きくなってきている。軍人のわたしが政権を握ったとして、当座は受け入れられるかもしれないが、後世には逆賊呼ばわりされることになるだろう。たとえ、わたしの代でうまくいったとしても、息子は逆賊と呼ばれてしまう」

当座は通用するかもしれないが、後世には逆賊――。いま振り返ってみると、まさに名言である。

のちに明らかになったところだが、李熺性のこの言葉は、全斗煥らに対して、のちのち逆賊になってはいけないという、本心からの忠告だった。かれは力のない、ただの引き立て役にすぎなかった。けっして、反乱グループの手先となって政権奪取をそそのかしていたわけではなかった。

▽旧統一教会関係者らが資金約束

ともあれ、鄭鎬溶は特戦司令部に戻って保安班長の金忠立少佐に全斗煥の話を伝え、資金の工面先について調べてみるよう、指示した。

金忠立は答えた。

「朴正煕大統領の甥の朴在鴻(のちに民正党国会議員)が汝矣島のビルを売却して80億ウォンを工面し、新党づくりの準備を進めているという噂があったけど、やはり資金を必要としているようですね。調べてみます。ところで、打診はわたしがするとして、資金提供者には司令官が直接会っていただかなければなりません」

金忠立は1週間ほど時間がほしいと言い、それから何日かして鄭鎬溶司令官に報告した。

「許萬基氏(のちに民主党国会議員)と朴普煕総裁[旧統一教会総裁。教祖文鮮明の右腕として知られていた]に会い、それぞれ50億ウォンずつ、計100億ウォンを出してもらう約束を取り付けました。さらに、ライフ住宅の趙乃璧会長から50億ウォン、新元通商の朴聖哲会長からも30億ウォンの約束を得たので、総計180億ウォンは可能です」

▽「噂」を怖れる秘書室長

翌日、鄭鎬溶が全斗煥に会いに行く際、金忠立少佐は募金額を記した名簿を手渡しながら言った。

 「全斗煥保安司令官に直接お渡しください。決して、秘書室長の許和平大佐に渡してはなりません」

 「なぜだ?」

 「外部資金がいらなくなることも考えられます。その場合、企業家の立場からすれば、資金を受け取ってもらえれば『忠臣』になれるが、もし献金すると言っても受け取ってもらえないとなると、『逆賊』扱いされるのではないかと不安がる恐れがあります。その点、とくに心すべきです」

 鄭鎬溶はしかし、これをいい加減に聞き流した。

 全斗煥が求めるのは当然、腹心の秘書室長許和平を助けてやってほしい、ということだと考えていた。それで、名簿と金額が書かれたメモをそのまま秘書室長の許和平に手渡し、こう伝えた。

 「全斗煥司令官に頼まれて調べてみたものです。政治資金が必要なら、これらの企業家と連絡をとって、受け取ったらいいでしょう。わたしの方で、すでに話をつけてあります」

 ▽「国外追放」

 ところが、それから3時間ほどして朴普煕から鄭鎬溶に電話がかかってきた。いまにも死にそうな声だった。

 「大変です。保安司令部の許和平秘書室長がわたしに、明日朝10時までに国外に出ろ、出ないと逮捕する、容疑は政治資金法違反だ、取り調べの結果によっては反国家陰謀罪にもなり得る、というのです」

 許和平は、極秘に進める新党づくりが噂になることを警戒しているようだった。困った鄭鎬溶は金忠立と対策を話し合った。

二人は、許和平の言う通り、朴普煕を出国させることが最善の策と判断した。翌朝7時、金忠立は、出国準備をする朴普煕と、漢南洞の「国一館」[旧統一教会の教祖文鮮明が住んでいた]で会った。

 「まったく弁解の余地もなく、申し訳ありません。誤解が生じてしまいました。こうなったからには、しばらく避難するほかないでしょう。鄭鎬溶司令官もそのように考えています」

 鄭鎬溶はこのハプニングを経て、許和平は新党づくり計画を握りつぶしたのだと見ている。

 一石三鳥

なら、政権づくりのための組織に必要な200億ウォンはどこで工面するというのか。

 だれかが、機能停止状態になっている中央情報部に残っている予算がある、とアイディアを出した。

 当時の新軍部の中心メンバーが、2005年にメディアのインタビューで、こう明らかにした。

 「政権掌握の準備に入って資金の問題にぶつかると、まず、中央情報部の統治資金的な予算を流用することにし、国保委(国家保衛非常対策委員会)づくりの資金をそこから持ってきて使った」(ハンギョレ新聞200531日)

 そのようにして中央情報部の予算から120億ウォンを引き出し、国保委創設の資金に100億ウォンを充て、残りの20億ウォンは保安司令官室に送り、合同捜査本部で使った。

 保安司令部が情報部の予算を流用するには、保安司令官が自ら情報部長になるほかない(保安司令部は「516クーデター」の研究を通じて、政党の新設とそれに必要な資金規模をすでに把握していた。それで、全斗煥、鄭鎬溶、李熺性の口から、結党に180億、200億といった数字が出てきていたのである)。

 情報部長のポストが空いているのだから、保安司令官の全斗煥がそれを兼任してしまえば、それで済むことではないか。兼任さえできれば、将官の星(階級章)を付けたままで国務会議(情報部長は国務委員クラス)にも出入りできる。

全斗煥は31日、少将から中将に「お手盛り昇進」(陸軍参謀総長李熺性の反対を強引に押し切った)したが、それでもまだ満足しない。長官たちの前で力を誇示したい。そして、情報部長だった金載圭による朴正煕殺害の後、機能停止状態になっている情報部の人事を刷新し、新しい政権創出のための政治捜査の道具として再活用しなければならない(実際、全斗煥が情報部長兼任となって1カ月後に起きた「517クーデター」では、内乱陰謀のでっち上げや反対勢力一掃の捜査に情報部が動員されたのだった)

 全斗煥による情報部長兼任は、まさに一石三鳥[資金確保、情報独占、政治捜査権の掌握]ではないか――。

 ▽情報部改編案

 新軍部の「アウトサイダー」として、最初に、この全斗煥の情報部長兼任の動きに勘付いたのは李鍾賛だった。全斗煥が、崔圭夏大統領と申鉉碻総理に、情報部長を兼任したいと食い下がる前のことだ。

 2月9日、李鍾賛は保安司令部の情報処長、権正達大佐に呼ばれて瑞麟(ソリン)ホテルの昼食の席に行くと、許和平、許三守、李鶴捧らが集まっていた。

 「本日の議題は、中央情報部の改革に関する件です」

 秘書室長の許和平が、相当に整理された情報部改編案について説明した。李鍾賛は、全斗煥が情報部長を兼任しようとしている、と悟った。この会議のあと、李鍾賛は、許和平、許三守、金容甲(いずれも陸士17期、金容甲はのちに総務処長官)と頻繁に会って情報部改編案を作り、312日、権正達処長を通して全斗煥司令官に上げたのだった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月6日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(16)

  第3章 天下の急所を握る

 愛唱歌「男の決心」

全斗煥が巡らせた「いろいろな考え」の断片は、あちこちに残っている。

801月末、全斗煥は金大中に手を伸ばした。

金大中側近の国会議員、李龍熙を通してだった。「全斗煥将軍が会いたがっている」という、そんな誘いに乗り、金大中は、ソウル安国洞の裏通りにある合同捜査本部の「アジト」に出かけて行った。謀略やいらぬ噂に巻き込まれる恐れもあったが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と、決断した。

 そのころ、金大中は敵情を探るうえからも新軍部の連中と会ってみたいと思っていた。

 戒厳司令官の李熺性にも「会おう」と申し入れた。また、張泰玩少将の後を継いで首都警備司令官になっていた新軍部「ナンバー2」の実力者、盧泰愚にも、韓完相教授[ソウル大教授などを歴任]を通して、会いたいと伝えていた。しかし、そのだれからも、なんの返事もなかった。そんなところへ、全斗煥から「会いたい」と言ってきたのである。

▽金大中の自宅軟禁

それより前、李龍熙議員は、前年の7911月末、国会の予算決算特別委員会で、こう質していた。

「朴正煕大統領の死去によって維新体制も終わったというのに、金大中氏が自宅軟禁のまま、というのはあまりにもひどすぎる。530日の新民党大会以来、なぜ半年にもわたって外出すらできないようにしているのか。なにも、今すぐに赦免・復権しろと要求しているわけではない。不法に行われている自宅軟禁を解くべきだ、と言っているだけなのだ」(李龍熙の発言)

 そんな李龍煕のところへ、意外にも、新軍部の李鶴大佐から電話がかかってきた。

 「国会での今年度予算の処理に協力してほしい」というのだった。もうすでに、保安司令部の大佐が「国政」への協力を求めてくるまでになっていることに、李龍煕はただ、呆(あき)れ果てるばかりだった。ともかく、こうして2人の間にパイプができた。

 そんな李鶴2月初め、金大中との面談を求めてきたのだった。李龍煕が「金大中氏を大佐クラスと会わせるわけにはいかない。全斗煥なら会えるだろう」と言うと、李鶴は、そのように手配すると答えた。

 ▽「復権の代わりに誓約書を」

 こうして約束通りに金大中と李龍煕が内資ホテル(保安司令部のアジト)に行くと、全斗煥は現れず、李鶴と保安司令部情報処長の権正達だけが出てきた。金大中は騙されたという気持になった。

「全斗煥司令官は急な用事ができ、私たちだけで来ました。私たちに協力すると誓約書を書くなら、復権させて差し上げましょう」(権正達)

誓約書だと?

その内容は、次のようなものだった。

▼時局の安定に協力する。

▼社会不安を引き起こさない。

6月末まで、外国に出ない。

金大中は、誓約書の紙を押しのけて、言った。

「あなたたちが公民権を制限すること自体が、不法、不当なのに、なぜ覚書まで書いて、物乞いをするようなことをしなければならないのか。書けません。どうしてもというなら、復権させてもらわなくて結構だ」(金大中)

金大中は拒否し、李龍煕とともに席を立った。

▽「ソウルの春」

崔圭夏大統領は傀儡になりつつある、と金大中は感じた。

大統領を差し置き、新軍部はもう、権力を掌握するためになりふり構わぬ動きをしている、と。

金大中は復権を期待したのは間違いだったと、がっくりきた。

ところが、意表を突くように2月29日、金大中をはじめ在野の678人に赦免・復権の決定が下された。「ソウルの春」が来るかと思えた。しかし、それは錯覚であり、新軍部の計略だった。社会が混乱状態に陥るまで待とう――と計算していたのだった。

赦免・復権がなった金大中(左)を祝う金泳三=19802月、金大中氏の自宅


 ▽「放浪詩人 金サッカ」

 801月、新軍部は浮足立ち、得意になっていた。

崔栄喜や金大中のことは眼中になく、「マイ・ウェイ」を謳歌していた。

123日、全斗煥は、ホテルで保安司令部幹部らと、夫人同伴の大宴会を開いた。反乱の成功を内輪で祝うものだった。

もう、この世は保安司令部を中心とした、われわれ新軍部のものだ。諸君と家族(妻たち)の内助の功で、ここまで来た。と、そう言わんばかりに、司令官の全斗煥は「放浪詩人 金サッカ」を一曲、朗々と歌い上げた[방랑시인 김삿갓 - Google ]

かれは最後の部分を替え歌にして「〽去りゆく 全サッカ~」と歌い、万雷の拍手を浴びた。TBC(東洋放送)のタレントとバンドが動員され、機嫌をとった。

全斗煥には「これぞ、ワシの十八番」と言っていた愛唱歌があった。興に乗ると歌った「男の決心」(作詞・金草香、作曲・李鳳龍)だ[사나이 결심 조용필]。ユーチューブでは金載圭の写真が出てくるが、実のところ、全斗煥が好んだ歌だった。人生、この歌のように生きて行こうと決めていたのだろうか。いかにも全斗煥らしくはある。

  男の行く道 笑いだけだろうか

心を決めて進む道 阻む嵐は どこにあろう

青雲の夢 胸に抱き

発った故郷に 再び 帰る日 

曲がりくねった 道々に 花びらを撒き散らそう

[1949年に発表され、韓国で流行した。1940年代、満州の独立軍の心情を歌ったのが元歌ともされる]

 ▽反乱直後から決意

 新軍部の政権構想はいったい、いつの時点で決められたのか?

 結論から言うと、7912月下旬、「1212反乱」の直後に、すでに決められていたことが分かっている。

 後日、全斗煥、盧泰愚、許和平ら新軍部の中心メンバーらは「政権を取るつもりはなかった。偶然、運命のように政権を任されるようになった」と異口同音に強弁した。いまもそれは変わらない。風向きと時流に乗っているうちに、偶然にも権力を握ることになっていた、というのである。

 しかし、歴史という広野に身を隠す場所はない。

 李鍾賛(当時、中央情報部副局長)は、かれらの目と鼻の先で新党(民主正義党<民正党>)を立ち上げた当事者の立場から、そのような主張は辻褄が合わない、と反論する。李鍾賛はのちに民正党の院内総務、事務総長をへて金大中政権で国家情報院長(中央情報部、安企部の後身)をつとめることになる人物だ。李鍾賛はこう書いている。

 「わたしが目撃した80年初春の政権掌握へのシナリオは、かれらの意中をはっきりと示していた。正直に『政権奪取の意思も欲望も抱いていた。あの時期、権力を任せられるだけの準備ができていた勢力や人物は、ほかには存在していなかった。われわれが引き受けるのは当然だった』と言うのが、堂々たる態度というものではないのか」

 ▽歓呼と焚きつけ

かれらは「1212反乱」の流血で、すでに退路を断っていた。

 もう、引き返せない橋を渡ってしまっていた。

 鄭昇和打倒と旧軍部の粛清によって、「ハナ会」中心の「陸士の軍部」を構築し、軍内部における多数の支持を固めたのである。「1212反乱が起こると、陸士出身の将官らは手を叩いて歓呼した。旧軍部が追放され、自分たちの昇進も早まって新勢力として浮上し、第5共和国の主力として出世の道が開けたわけなのだから」(文洪球・元合同参謀本部本部長)

 あとは、政治勢力を一掃して政権を握るだけではないのか。

 新軍部と親しい同郷の文民たちも焚きつけた。

 全斗煥の大邱工業学校の後輩である鄭九鎬(のちに京郷新聞社長)や、ソウル新聞政治部長や維新政友会所属の国会議員をつとめた李振羲(のちに文化公報部長官)ら、文民の後輩らが「政権を取れ、機会を逃すな」と励まし、後押しをした。

 情勢が不安定なところへもって、かれらは「赤い金大中や、無能な金泳三に政権を渡すわけにはいかない。金鍾泌も旧態依然ではないか」などと、「3金」をこき下ろし、「このまま一気に進め」と熱烈なエールを送った(李鍾賛の述懐)。

 すでに保安司令官全斗煥の接見室は、長官や次官らが先を争って「謁見」しようと門前市を成す、という様相だった。

 ▽権力への憧れ

金鍾泌は、全斗煥の心理と当時の状況について、こう読み解いている。

 「全斗煥は警護室次長補の時代、車智澈(警護室長)の下にいて、あんな間抜けな男が天を突くほどの権勢をふるうのを横で見ながら、『ああ、権力というものは、いちどは手にしてみるに値するもんだ』と思ったことだろう。下克上の1212反乱のあの時、新軍部の者たちに、国家観や使命感といったようなものはなかった。ひたすら権力への欲望だけだった。彼らの銃口と威勢を前に、権力の周辺にいた者たちは、顔色をうかがいながら、ただひれ伏すばかりだった。不当な権力に立ち向かって意味ある抵抗をしたり、歯向かったりした者は、一人としていなかった」

                          訳:波佐場 清

2026年5月3日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(15)

  「春なのに春らしくない」

 保安司令部捜査分室(ソウル西氷庫洞)に連行された陸軍本部将官らは、過酷な冬を過ごさなければならなかった。

 陸軍大将鄭昇和も酷(ひど)い扱いを受けた。その呻(うめ)き、慟哭が伝わってくるような悲痛な記録――

 ▽拷問

 捜査官らに打ちのめされ、絶叫した。

 「おまえたちが拷問するというなら、予備役編入願いでも何でも書こう。陸軍大将として、こんな扱いを受けるわけにはいかない。そう言うと、『そんなもの、書かなくていい。もう予備役になっており、参謀総長でもなんでもない、心配するな』と。ツルハシの柄のような棒で太腿や脛(すね)、首の後ろを殴られた。狂ったように、そして、互いに鼓舞し合うように殴ってきた。『この野郎、正直に言え。金載圭と共謀したんだろ。みんな、分かってるんだ。嘘をついても無駄だ』。わたしは朝鮮戦争のときに死ぬべきだったんだ。生き長らえたせいで、今、このように部下の拷問を受け、悔しい濡れ衣を着せられたまま、殴り殺されようとしている…」(鄭昇和の手記)

 反乱に成功した全斗煥らの新軍部は、意気揚々としていた。

 李建永[3軍司令官]、張泰玩[首都警備司令官]、鄭柄宙[特戦司令官]、文洪球[合同参謀本部本部長]、金晋基[陸軍憲兵監]を、「国家反乱罪」で起訴しようとしていた[首謀者は死刑のみ]。西氷庫の捜査官らは法典を突きつけ、「保安司令部に検事何人かを呼び出し、おまえらを国家反乱罪で起訴してやる」と言い放った。

 盗っ人猛々しいとは、こういうことだ。

 彼らこそ、休戦ラインを守る前線師団の兵力をソウルに呼び入れた者たちではなかったのか――。

 ▽「金鍾泌大統領」

 19801月は、政局混迷のなかで明けた。

 新しい年が来たというのに、先が見えない五里霧中の日々だった。

 金鍾泌は「春なのに春らしくない(春来不似春)」と嘆いた。

 金鍾泌の使いが全斗煥と会ったものの、門前払いされた後で投げかけた「禅問答」である。使者は崔栄喜だった。

 栄喜は、朴正煕大統領の下で陸軍参謀総長を務め、国会議員(維新政友会)になっていた。全斗煥にたいし、金鍾泌を新しい大統領に擁立していっしょにやろうと提案する腹づもりだった。

 ▽主礼先生

 崔栄喜は1958年、全斗煥と李順子の結婚式で主礼[日本の媒酌人に近い]をつとめていた。

元陸軍参謀総長・崔栄喜

 全斗煥の義父、李圭東に頼まれてのことだった。

 李圭東は3人兄弟で、日帝強占期[日本の植民地時代]に全員満州に渡り、そこで軍隊に入って暮らしを立てていた。解放後に故郷に戻ると、兄弟3人とも軍人の道に進んだ。

 そして、崔栄喜が韓国軍で第2軍司令官をしていた時、その下で、長兄の圭東は管理参謀部長、次男の圭承は輸送課長、三男の圭光は憲兵部長として仕えるという数奇な縁があった。のちに3兄弟はいずれも将官にまで昇進し、圭東は経理監、圭光は憲兵監になる。全斗煥青年は出自が貧しく、将官の「入り婿」という境遇だった。それで、若手将校のころは義父を実の父のように仰ぎ、妻の実家に身を寄せていた。「10年も妻の実家にいた。一つ屋根の下に住む義父にはトイレを使ううえでも不自由な思いをさせてしまった」と、全斗煥はしばしば、そんなことを口にしていた。

 そういったこともあり、崔栄喜は大いに期待していた。「主礼先生」がわざわざ、訪ねて行くのだ。メンツのうえからも、また、義父李圭東のことを考えても耳を傾けてくれるものと期待していた。

 ▽新しい政権を…

 しかし、まったく期待外れだった。

 崔栄喜は、全斗煥に向かって「金鍾泌以外、いないではないか。維新体制が崩壊し、いくら野党の2金[金大中、金泳三]が勢いづいているとはいえ、金鍾泌を立てれば、われわれは勝てる」と説いた。

 全斗煥は首を横に振った。

 「金鍾泌に限らず、3金[金大中、金泳三、金鍾泌]は、みんなだめです。金鍾泌にたいする国民の評価は、不正・腐敗分子であり、腐っているというものです」

 なら、ほかにどんな選択肢があるというのか?

 崔栄喜は問い返した。3金のうちからだれか一人を選ぶか、そうでなければ全斗煥司令官が自ら、直接名乗りを上げるか――その二つのうちの一つではないか、と。すると、全斗煥は答えた。

 「だから、悩んでいるんです。いろいろと考えているところです」

 全斗煥らの新軍部はすでに、もう一つの道、つまり、新たに政権を創出しようと決めていた。ただ、さすがにそんなことを崔栄喜に対して露骨に言うことはできなかった。爪を隠し、さらに機が熟すのを待たなければならなかった。

                        訳:波佐場 清

 

2026年4月30日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(14)

■「剖棺斬屍の運命」

 「1212」の夜、反乱の主役たちはまさに「生きるか死ぬか」だった。

 反乱軍の指揮部となった景福宮の第30警備団と保安司令官室の息詰まる雰囲気について、反乱軍の中心人物の一人である許和平はそのように表現し、次のように記録している。

 「口の中がカラカラに乾いた。怖くなかったといえば、噓になる。座っていることさえできず、立ったまま電話にかじりついていた。親しい連隊長や参謀らに電話をかけ、『たとえ師団長が反乱軍の射殺を命じたからと言っても、今はこういう状況なんだ。おまえたちがむやみに動いたら、複雑なことになってしまう(お互い、死んでしまう)』と夜通し説得しつづけた。だれに電話したのか、思い出せないくらいだ。刻一刻と緊張が波のように押し寄せてきていた」

 ▽混乱、緊迫のなかの躊躇

恐怖の夜だった。

鄭昇和・陸軍総参謀長の側についた首都警備司令官の張泰玩は「反乱軍の奴らのどたまを砲撃でぶっ飛ばしてやる」と息巻いていた。

反乱軍の陣地では、車圭憲、黄永時、兪学聖らが前面に出て、命がけで電話にかじりついていた。陸軍本部側に制圧の兵力を出させまいと、ツテをたどっては電話をかけまくり、喉も裂けんばかりに説得していたのだった。そんな、蜂の巣をつついたような大混乱と緊迫のなかにあって、最後まで躊躇していた将官がいた。

20師団長の朴俊炳(のちに保安司令官、大将で予備役編入)だった。許和平が苛立ち、「電話をちょっとかけてください」と怒鳴っても、彼は、最後まで受話器を手に取ることができなかった。

朴俊炳は、何も知らされていなかった。3日前に全斗煥から「12日夕方6時半、景福宮の第30警備団で夕食でもいっしょにしよう」という連絡を受けたのがすべてだった。当日、第30警備団に到着して初めて「鄭昇和襲撃」作戦のことを知った。

実際、全斗煥は機密が漏れるのを怖れ、反乱のことは当日まで、だれにも話していなかったようだ。第9師団長の盧泰愚だけは、知っていたようだった。

516」時の記憶

漢南洞の参謀総長公邸で流血の銃撃戦が繰り広げられ、陸軍本部側の強硬対応によって事態が急を告げると、全斗煥は朴俊炳師団長を別室に呼びつけた。

 全斗煥は、切羽詰まった様子で朴俊炳に頼んだ。

 「第20師団の兵力を出動させ、国防部と陸軍本部を掌握してほしい」

 瞬間、朴俊炳は苦悶した。

 1961年の「516クーデター」の時のことが走馬灯のように頭をよぎった。当時、彼は朴正煕のクーデターに反対した第1軍司令官、李翰林の副官だった。李翰林が「反革命」で捕らえられて行く時、この上官といっしょについて行った。

「ワシは死ぬために行くんだ。おまえ、どうしてついて来るんだ。来るな」(李翰林)

「いいえ、わたしは司令官の副官です」(朴俊炳)

 朴俊炳が護送ジープに無理やり乗り込んでくることまでは、拒めなかった。そうして原州(江原道)からソウルまでついて行き、李翰林司令官といっしょに20余日間、鉄格子の中で過ごした。そんな苦(にが)い過去があった。

 ▽兵力出動を拒否

 朴俊炳師団長は、全斗煥の要求を拒んだ。

 「第20師団は、戦争が起これば戦場に行かなければならない部隊です。そんな部隊を、指揮系統の外におられる方の命令にしたがって出動させるわけにはいきません」

 全斗煥はその言葉を聞くと、それ以上は何も言えなかった。

 全斗煥は即座に、盧泰愚少将に第9師団を、朴煕道准将には第1空挺特戦旅団をそれぞれ出動させるよう命じた。国防部と陸軍本部には、この朴煕道の空挺旅団が突入していって占拠したのだった。

あの日夜、許和平が「電話をかけてください」といくら叫んだからといって、朴俊炳としては聞き入れられるはずもなかったのである(朴俊炳は、のちの内乱罪を問われた裁判で無罪判決を受け、2016年、国立大田顕忠院の将官墓域に葬られた)

▽恐怖と不安

 だれもが皆、失敗と銃殺を怖れていた。

 翌日から「改革主導勢力」としてデビューした将官の一人も、その夜はハムレットのように逡巡し、苦悩のなかで過ごした。作家の千金成がインタビューしたところによると、その将官はその夜、全斗煥や盧泰愚の要請を受けてソウルに向かいはしたものの、明け方までの長い時間をどうやって「浪費」したのか、うまく説明ができなかった。また、「成功したクーデター」を仲間うちで祝った13日朝、保安司令部に現れた時間についても、「7時だった」「いや9時だった」などと、言うことが二転三転した。

 憲法上のちゃんとした指揮系統である陸軍参謀総長の鄭昇和を逮捕するという反乱は、それほど恐ろしいことだった。首謀者同士でさえ、義理と犯罪意識と恐怖が入り混じった一夜を耐え抜かなければならなかったのである。

 夜が明けると、米国大使のグライスティーンはこの反乱を非難し、米8軍司令官ウィッカムも「反乱軍の将官らを軍法会議にかける」と息巻いた。「全斗煥は一時気を失い、食事も喉を通らない状態だ、と夫人の李順子が言っていた」と噂されるような状況だった。

 銃声は止んだが、まだ、クーデターが成功したというわけではない。

 反乱軍の運命など、だれに分かるというのか――。

 ▽運命鑑定士の登場

 19791214日早朝、四柱推命の鑑定士として有名な柳忠燁(2008年没)は、一本の電話を受けた。

 「老石[柳忠燁の号]か? ワシだ、ワシ…」

 大田市に住む陶渓・朴在[陶渓は号]からの電話だった。

運命鑑定士の朴在玩

 朴は、当代最高の運命鑑定士として名をとどろかせていた(朴在玩が19929月に90歳で亡くなると、朝鮮日報や聯合ニュースは訃報記事を書いた)。

 「朝早くから、どうなされましたか」

 「いま、ソウルに来ているんだ。急いでいて万年暦を持ってくるのを忘れた。ちょっと貸してくれんか」

 万年暦は、四柱推命をみる「暗号解読コード」のようなものだ。

 「いいですよ。いま、どこにおられるのですか」

 「ここがどこなのか、ワシにも分からんのだ。そっちに人を送るから…」

 10分余で、秘苑前の柳忠燁の家の前に一人の青年が現れた。万年暦を渡すと、丁重に受け取り、そそくさと消えていった。そんなにも近い距離なら、保安司令部辺りだろう。大田から「占い師の朴」を連れては来たものの、四柱推命をみる「コード(万年暦)」がなくてはどうしようもないということを知らなかったのである。

 40年前に運勢見通す?

 午後、朴在玩からまた、電話がかかった。会っている時間もないので、ソウルに来たときの車で、そのまま帰らなければならないといい、万年暦は、またの機会に返すというのだった。

 後日、大田で2人が会ったとき、その日のことが話題になった。

 「国家の大事(?)について聞きたいことがあるという何人かによって、まだ暗いうちにソウルに拉致されたんだ」(朴在玩)

 どこか、よく分からない奥の部屋で、5人の運勢を占った。

 かれらの身元は分からなかったが、奇しくも全員、「金水従旺格」だったという。5人は全斗煥、盧泰愚、黄永時、車圭憲、兪学聖だったのだろうか?

 「国に大きな変乱をもたらそうとする人たちだ。来年(庚申年)からは「大運」「旺運」だが、10年ほど経つと「木火運」が巡って来るため急激な墜落が始まり、昔であれば、「剖棺斬屍」[墓が暴かれて遺体が切り刻まれる]だと大騒ぎになる…」

 全斗煥は2021年冬に亡くなったが、いまだに魂が横たわる場所さえ定まっていない。40年も前にすでに、そのことを見通していたというのか。「金水従旺格」は成功も早いが、衰退も早く、その勢いもまた、旺盛から衰退へと極端に動く運勢だという。

 ▽「財越嶺即 為災而還」

後日、朴在玩は後輩の柳忠燁に意味深長なことを言っていた。

「財越嶺即 為災而還」

財物が過度に膨れ上がって、それが山より高くなれば、却って災いの始まりになる――という意味である。1990年半ばの金泳三政権下、全斗煥と盧泰愚はそれぞれ数千億ウォンの裏金問題で拘束された。そういうことも、その時点ですでに予見していたということなのか。

                       訳:波佐場 清