■「大統領選遅らせた」
1980年、ソウルの早い春。当時、「政治日程」といえば、維新憲法の改正と新しい大統領を選ぶ選挙のことを意味していた。
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「ソウルの春」の会同。右から金鍾泌、金泳三、金相万(東亜日報会長)、金大中、丁一権(国会議長)=1980年2月、仁村記念館
1月18日、崔圭夏大統領は記者会見で「政府が約束した政治日程を守る」と表明した。しかし、新民党総裁の金泳三は、政治日程を大幅に前倒しすべきだと主張し、活動を本格化させていった。金大中も2月29日、尹潽善[初代ソウル市長。李承晩大統領下野の後、議院内閣制下で第4代大統領]らとともに復権し、集会への参加や要人らとの面会といった政治活動を再開した。
振り返ってみるに、崔圭夏は政治日程を思い切り前倒しし、一刻も早く過渡期を終わらせておくべきだった。
崔圭夏の判断ミスについて、金泳三、申鉉碻、盧泰愚はそろって、回顧録のなかで叩きだしの太鼓のように崔圭夏を厳しく批判しているのが目を引く。
▽「早急に大統領選をやるべきだった」
まず、金泳三の回顧――。
「崔圭夏は過渡期の政権担当者として早急に選挙をやり、国民の手に民主主義を取り戻すべきだった。わたしはかねてより、80年に選挙さえ早くやっていたなら、(全斗煥らによる「5・17」の)クーデターはなかっただろうと考えている。「10・26」[朴正煕暗殺事件]直後に崔圭夏と会った際、『軍部に機会と名分を与えてはいけない。時間を引き延ばすと、混乱が大きくなるだけだ。あなたに課せられた任務は、3カ月以内に大統領選挙をおこなうことだ』と説き、かれの口からその了解も得ていた。ところが、かれは政治日程を遅らせ、国に不幸を招いた。「4・19」[1960年春に李承晩政権を倒した「学生革命」]のあと、許政の過渡政権が混乱の中でも選挙によって民主党への政権交代をなしたのとは対照的な、間違った身の処し方をした」(『金泳三回顧録』)
当時の国務総理、申鉉碻に聞いてみよう。
「崔圭夏大統領とうまく呼吸が合っていれば、民政移管がうまくいっていた可能性もあった。しかし、崔圭夏氏は(新軍部が自分を担いでくれるだろうと期待していて)新軍部による反対勢力一掃の5・17クーデターを呼び込み、民政の開始という国民との約束を破った」と言い切った。
▽盧泰愚も批判
この点、新軍部の盧泰愚までもが崔圭夏を非難している。
盧泰愚は金泳三とは反対の側にいたが、「崔圭夏は能力もないのに時間だけを引き延ばした」と、回顧録のなかで次のように書いている。
「崔圭夏大統領があの時期に国政を担当されたのは、ご自身にとっても、また、国家にとっても不幸なことだった。あの方は政治スケジュールをあまりにも長く設定しすぎた。国政を率いる自信と信念があったのなら、余裕をもって日程を組み、混乱を収拾してから安定と秩序を取り戻したうえで政権を移管しても、とくに問題はなかっただろう。しかし、そうした能力もないくせに、政治日程を長く取りすぎたせいで、混乱がいっそう深まった」
そう指摘しながら盧泰愚は、「これは仮定の話だが、もし申鉉碻であったなら、違っていたことだろう。あの方は崔大統領の欠点を補って余りある能力と決断力を備えていたので、多分、状況は変わっていたはずだ」と記録している。
当時、青瓦台の政務首席秘書官だった高建も同じ考えだった。やはり、政治日程を早めるべきだったと書き残している。
「街のデモ隊が『政治日程を早めろ』『非常戒厳令を解除しろ』と叫んでいる以上、時局収拾を急ぐべきだった。そこで、『政治日程を早め、透明にすべきだ。戒厳令の条件付き解除の時期を発表し、全面的な内閣改造をおこなって雰囲気を一新すべきだ』という内容の進言書を作成した。安致淳秘書官にも手伝ってもらい、各界の世論をまとめたものだった。ところが、大統領はそれとは正反対の対応をとった」(『高建回顧録』)
▽タイム誌にリーク
申鉉碻の回顧談に登場する崔圭夏の「黒い下心」に関して、2点――。
申総理は崔大統領に、中央情報部長を民間から急いで任命するよう進言した。
「崔圭夏氏に話したんだ。情報部は(朴大統領を殺害した)金載圭のせいで、めちゃくちゃになってしまっている。こういう過渡期だからこそ、情報が決定的なのだから(金載圭の)後任の部長を早く、密かに任命してください。軍人ではなく、民間人を任命して保安司令官(全斗煥)と両立させ、相互に牽制させるべきです。2つの機関を併存させて情報をコントロールしていくべきです、と」
それでも反応はなく、何日かしてまた、催促したが、崔圭夏は黙りこくったままだった。
ところが、崔大統領の反応は、あろうことか突然、米週刊誌『タイム』から出てきた。
「タイム誌が届いたので見ると、『崔大統領は情報部長を軍人から任命しようとしているが、申総理が民間人にすべきだと反対していて任命できず、遅れている』と出ている。大統領と2人きりで、ほかにだれもいないところで交わした話なのに、どうしてこのような記事が出るのか。それで、あちら(崔圭夏)でわざとリークしているんだ、と考えるほかなかった。崔圭夏は、軍人たちとグルになりつつあるんだなあ、と…」(『申鉉碻の証言』)
▽退陣に抵抗
80年4月24日、申鉉碻総理は、新聞各社の編集局長を三清洞の総理公邸に招いて夕食会を持った。その席で申総理は、こう話した。
「わたしたち過渡期の管理政府は、使命をまっとうして退くつもりだ」
世間のデマ(政治日程が長引いていること関し、政権延期の野心がある、とするもの)を払拭し、申鉉碻の退陣を叫ぶデモ隊のスローガンにたいする回答を示したものだった。
翌日、青瓦台の人間がやって来て、申総理に「わたしたち」とはどういう意味なのか、と聞いた。申氏は語る。
「わたしは怒りがこみ上げ、怒鳴りつけた。青瓦台に住んでいる人間どもは韓国人ではないのか。『わたしたち』という言葉も知らないのか。つまらぬことを言っていないで帰れ、と怒鳴りつけてしまったよ。わたしが過渡政府の責任を果たして退陣すると言っていることに異存がないのなら、どうして『わたしたち』という言葉に異議を唱えるのか。聞くまでもないことだ。大統領のイスに座ってみて、考えが変わったという意味だった」
崔圭夏と申鉉碻の過渡政権は、こうして足並みが乱れ、こじれて行った。
そんな隙を突き、全斗煥の新軍部は政権に向かって猛烈な勢いで突き進んでいった。
訳:波佐場 清






