■「市民を虐殺した銃剣権力を審判しよう」
1981年3月の総選挙への立候補が厳しく制限される中、野党民韓党の公認審査にパスしたとの連絡を受けた朴寛用が党本部に出かけていくと、第1次公認者名簿の中の2人に赤線が引かれていた。朴寛用と金炯国(金大中の元秘書)だった。
▽公認名簿を軍が検閲
2人は公認審査委員長である辛相佑(のちに7選され、金泳三政権で海洋水産部長官)の部屋に怒鳴り込んでいって質した。辛相佑の反応は意外だった。
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| 全斗煥政権初の総選挙は厳しい規制下、1981年3月におこなわれた |
「静かにしていろ、身の安全を考えろというんだ」(辛相佑)
野党の公認者名簿を軍部が押さえ、検閲しているのだった。新聞の政治ゴシップ欄には「見えざる手が働く民韓党の釜山東萊支部」という記事が載った。辛相佑は再び、朴寛用を呼んだ。
「複数公認であっても受け入れる気はあるか」
こうして全国の地方区で唯一、その東萊選挙区だけに同一党から複数の公認候補が認められたのだった[当時、地方区は各選挙区定数2の中選挙区制で、与野党各1議席が指定席のようになっていた]。競争相手となる同じ民韓党の朱某という候補は、新軍部の実力者である李鶴捧(保安司令部の大佐)の近所の住人だった。ところがその朱某は、地方区の選挙運動が負担になりすぎたのか、(比例代表制の)全国区に回ると言って東萊選挙区からの立候補を辞退した。こうして事実上の対戦相手は野党国民党の梁燦宇に替わった。
▽「韓国のブルータスになる」
コップの中の嵐ともいえた、この第5共和国の選挙――第11代総選挙も、選挙は選挙だった。
これは、釜山東萊選挙区から立候補した朴寛用の物語である。
事実上、与党民正党の1人(金鎮載が公認され、当選した)と、野党の1人を選ぶ選挙だった。与党候補は最初から当選が決まったようなものだったが、野党の国民党候補である梁燦宇(第7~10代議員、内務部長官などを歴任)と民韓党の朴寛用は、血みどろの戦いを繰り広げることになった。資金もバックもない無名の朴寛用は、迫力あふれる演説をして名前を売り込むしかなかった。
「政権は民意から生まれたものでなければなりません。ところが、いまの政権は銃口から生まれたのです。光州で、戦車で市民を虐殺して権力を握ったのです」「全斗煥が民主主義をやらないなら、シーザーにブルータスが短剣を突きつけたように、わたしが短剣を手に取り、韓国のブルータスになってみせます」
釜山の市民らはどよめき、朴寛用に拍手を送った。
▽圧力、官権介入
そんなある日、商売をやっている兄が、朴寛用にメモの紙切れを見せながら言った。
「南川洞(安企部釜山支部の所在地)に呼び出されて行ってきた。おまえ、いまのような演説はやめてくれないか」
メモには7項目か8項目の「注意・警告事項」が書かれていた。
官権の介入もひどかった。
東萊警察署長の許某という総警[日本の警視正クラスに相当]の指揮の下、朴寛用の運動員は名刺を配っただけで道交法違反で連行された。一方で、民正党と国民党の運動員は、現金入りの封筒をばらまいても目をつむってやっていた。
東萊選挙区にある42の洞[行政区の単位。日本の町内に相当]では、洞長たちがまるで秤(はかり)で測ったかのように、きれいに半分ずつに票割りをし、それぞれ民正党と国民党の候補を応援した。ただ、あきれるばかりだった。この選挙で初当選した朴寛用は選挙後、国会内で民正党の有力議員となっていた権正達の話を聞き、謎が解けた[新軍部の中心人物の一人だった権正達はこの選挙に向けて陸軍准将で退役。民正党の結党を主導して初代事務総長(幹事長)になり、自らもこの選挙で初当選していた]。
▽政治工作
権正達は、朴寛用にたいし「すべてが政治工作によるものだった」と、こう明かした。
「今だから率直に言うんだけど、国民党には総裁を担えるだけの人材がおらず、梁燦宇氏を当選させて総裁にしようとしたんですよ。それで、わたしが東萊に1週間ほど滞在してテコ入れをしたんだが、朴議員がしぶとく当選したおかげで、こちらの計画が狂ってしまったというわけです」(『朴寛用回顧録』)
訳:波佐場 清








