■権力のためでなく、愛国のために
1980年4月10日、李鍾賛は、情報処長の権正達から保安司令部に来るよう通報を受けた。
権正達はこう言った。
「保安司令官は、いまの職を維持されたまま、中央情報部長を兼任されることになる。就任と同時に情報部の組織改編と人事の刷新に取りかからなければならないので、陸士出身で情報部の主(ぬし)であるおまえを総務局長に任命なさるという。(1期後輩の)陸士17期の金容甲も監察室の副室長としていくことになっている」
4月14日、全斗煥が情報部長を兼任するとの報道が流れると、南山(中央情報部の本部)はひっくり返るほどの大騒ぎとなった。ライバル機関である保安司令部のトップが情報部長も兼ねるとなると、恐ろしいことが起こりそうだ…。そんな予感のなかで、みな、引き継ぎ書や現況報告書の作成で大忙しとなった。
▽「サバクでなく、モサドに」
翌日、全斗煥は、すっきりとしたスーツ姿で就任式に現れた。
「中央情報部はこの間、越権や利権介入で物議をかもしてきたのは事実だ。かつて部長だった者が外国で醜態をさらしたり(金炯旭[米国議会で、韓国政府の不正なロビー活動や金大中拉致事件の真相を暴露した])
、国家元首を殺害したり(金載圭)した。それなのに反省する雰囲気がないのは、まったく遺憾だ」
水を打ったように静まり返るなか、全斗煥は続けた。
「これからの中央情報部はサバクではなく、モサドになるべきだ」
このくだりは李鍾賛が書いたスピーチ原稿そのままだった。
「サバク(SAVAK)」はイランのパフラヴィー朝を支えた秘密警察である。中央情報部は、そのような国内権力保衛のための機関ではなく、イスラエルの国際情報収集機関「モサド(Mossad)」のように国際的な舞台で国益に奉仕すべきだというのだった。
▽課長級以上は全員辞表
全斗煥は、尹鎰均、全在徳の2人の次長を呼んで指示した。
「(中央情報部長の金載圭が朴正煕大統領を暗殺した)10・26事件の責任を取らせ、課長級以上全員から辞表を取り付けなさい」
だいたいの改編案がまとまると、全斗煥は崔圭夏大統領のもとへ報告に上がった。
2人の次長を1人に減らし、金永先将軍[金載圭の軍事裁判(軍法会議)で裁判長を務め、金に死刑を言い渡した。新軍部にとっては「功労者」だった]だけの「次長1人制」を進言した。ところが、崔大統領の反応は意外なものだった。内務部次官の徐廷和を入れて、これまで通り2人制にしろというのだった。情報部長は民間人から任命を、とする申鉉碻総理の進言を参考にしたのか、あるいは文民出身の自分の息のかかった者を1人送り込もうというのか、真意のほどは分からない。
▽深謀遠慮、抜け目なさ…
李鍾賛・総務局長は、原案が変えられることに失望の表情を浮かべた。すると、全斗煥は李鍾賛をなだめた。
「李鍾賛! 理想もいいが、現実も考えないと、な。そうだろう」
現実だって?
崔圭夏のメンツを立ててやることで、この先もずっと面倒をみてもらえるだろう、という妄想を崔に抱かせようという意味なのか。全斗煥は決して頭が悪くはなかった。深謀遠慮、虚々実々の駆け引きをしながらうまく相手に食い込んでいくところがあった。野蛮な、反対勢力一掃の「5・17クーデター」前夜にも全斗煥は、彼なりの抜け目のない布石を打っていた。駐韓米大使のグライスティーンも回顧録で、全斗煥のことを「わたしが出会った指導者のなかで最も抜け目がなく、機敏な人物」と書いている。
▽許文道の登場
崔大統領の裁可を受けて幹部を発令した。
企画調整室長に金聖鎮(陸士11期首席卒業、のちに逓信部長官)▽監察室長に金満基(ソウル分室長、元憲兵監)▽秘書室長に許文道▽監督官に許三守(崔礼燮の後任)。
続いて局長級以上の幹部40人中33人の辞表が受理された。生き残ったのは金満基ら7人だけだった。
ここに、許文道が秘書室長として登場してくる。
東京駐在の海外公報官だった許文道(元朝鮮日報記者)は80年1月、本国での会議(海外公報官定例会合)出席のために帰国し、同窓の食事会の場で、釜山高校同期の金振永[陸士17期、のちに陸軍参謀総長]や許三守らと旧交を温めた。日本の右派を信奉して勉強してきた「憂国の士」許文道がそこで披瀝した対北朝鮮安保観や愛国心は、大佐クラスの友人たちに深い印象を残した。
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| 全斗煥政権で権勢をふるった「3許」。左から、許文道、許和平、許三守 |
かれの華麗な弁舌による鋭い情勢分析に新軍部の実力者らは感服し、全斗煥と会ってみるよう勧めた(朴正煕の甥の元国会議員朴在鴻は、自分が最初に許文道を許和平に紹介し、許三守と同窓であることは後で知った、と筆者を含む記者たちに話していた。しかし許文道は1995年、検察の「12・12反乱」関連の取り調べで、同窓の金振永らと会ったのがきっかけで全斗煥のところへ行ったと供述している)。
文民である許文道のきらびやかな話術と、初めて聞くその憂国衷情論に全斗煥は感化された。
全斗煥・中央情報部長は、許文道を情報部長秘書室長に抜擢した。許文道はここに、軍出身の許三守、許和平とともに全斗煥の最側近である俗称「スリー許」の一角を占めることになったのである。許文道は「5・17クーデター」の後、6月から国保委(国家保衛非常対策委員会)の文化公報委員として前面に出てマスメディアの統廃合を強行し、さらには第5共和国(全斗煥政権)の文化政策を思いのままに操るようになっていく。
▽情報部の構造改革
全斗煥部長の指示によって情報部の構造改革案が作られた。
金聖鎮・企画調整室長、李鍾賛・総務局長、金容甲・監察室副室長の3人が顔を突き合わせて国内情報部門の要員を大幅に削減した結果、約600人の余剰人員が生じた。全員を退職させる第1案と、半数の300人を退職させる第2案を作って部長室に持っていった。
全斗煥は聞いた。
「この600人もの余った人員をどうするんだ?」
中央情報部職員法、公務員法にしたがって退職させることになる、と答えた。
「なら、300人だけを切る第2案の方がいいな。で、切られる300人は全員退職しないといけないのか」(全斗煥)
それなら、100人は辞めさせ、100人を自宅待機または再教育、あとの100人は当分の間、定員オーバーのままで運用――とする3つのグループに分けて1年ほどやってみる、という案も用意していると報告した。
▽「他人の目に涙を流させれば、いずれ自分にも…」
「では、50人だけを切る、ということで、どうだ」(全斗煥)
全斗煥が後退させていくと、横にいた許三守監督官(大佐)が割って入ってきた。
「部長、雑草は抜き取らないと、いい草花は育ちません。いま、この改革の時に、手あかのついた者たちを置いておけば、内部の士気が却って落ちるということにもなりかねません」
果敢にナタをふるって切り捨てるべきだ、とする進言に全斗煥は言い返した。
「許三守! 他人(ひと)の目に涙を流させれば、いずれ自分の目からは血の涙が流れるというものだ。肝に銘じておけ。そういう気持ちで100人を整理することにしよう」
自信、ただ溢れんばかりの自信、指導者然とした振る舞い、殺気――。
このころ全斗煥と会っていたグライスティーン米大使やウィッカム米8軍司令官、さらに李姫鎬(金大中氏夫人)や文洪球、申鉉碻らは、回顧録のあちこちで、当時の彼のことをそのように描いている。
訳:波佐場 清






