■「大統領は天が決める」
陸軍保安司令官・全斗煥の中央情報部長兼任が1980年4月14日に発令されてから何日かして正式にその座についた全斗煥が尹潽善元大統領を自宅に訪問した日のことである。「権勢の誇示」を兼ねた、意気揚々たるお出ましだった。そのころは日々、警護部隊を厳重につけ、ものものしく出歩いていた。
保安司令部の韓鏞源課長は、全斗煥をソウル安国洞の尹潽善宅へ案内するため延禧洞にある全斗煥宅へ出かけた。折から、兄の家に立ち寄っていた全斗煥の弟の全敬煥がどこか面白がるように、冗談めかして兄に一言、こう聞いた。
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| 総理や長官を従えてテープカットをする全敬煥(中央)。大統領の兄の下、絶大な権力をふるった=1987年4月 |
「兄さん、きょう、尹潽善先生がいきなり自分を大統領にしてくれと言いだしたら、どうする?」
兄の全斗煥はためらうようすもなく、こう答えた。
「大統領は天が決めるものだ。なりたいからといって、なれるものではないのだ」
▽「K―工作」始動
この世は自分のものだ、と全斗煥は確信していた。
かれはそのころ、唯我独尊、天運は自分に味方している――と信じて疑わないかのように振舞っていた。愛唱歌「男の決心」の歌詞のように、心を決めて進む道、行く手を阻む嵐には断固としてぶつかっていく、という覚悟だった。
すでに保安司令部の李相宰(別名「姜基徳補佐官」)は、全斗煥の戴冠式に向け、新聞・放送世論を操作する「K―工作計画」を始動させていた。
▽保安司令部の情報で、中央情報部員を解雇
中央情報部長を兼任した全斗煥は、情報部要員の解雇者数を減らし、慈悲と融通性のあるところをみせた。許三守を宥(なだ)めすかしながら解雇者の数を減らしたのだった。
ところが、李鍾賛がこの部長決済を次長の徐廷和のところへ持っていくと、徐は顔をしかめて不平を言った。海外担当の次長である金永先は大満足だったが、徐廷和は自分の部下の国内要員が大幅に減らされることにどうしても納得できないのだった。
「情報部はこれからも安保に責任を負わなければならないというのに、国内部門がこんな編成では、だれと、どうやって仕事をしていけるというのですか。わたしがいまいちど、部長と話し合ってみます」
人員と組織の大きさが、そのままリーダーの力である。そのことが分かっているからこその発言だった。
そうしている間にも保安司令部の許三守大佐は、何人かの情報部員の問題点を次々と指摘して随時、解雇対象者にねじ込んでいた。保安司令部の情報で中央情報部にメスを入れると、ともすれば「悪貨が良貨を駆逐する」ということにもなりかねなかった。李鍾賛は人事課長の尹碩淳を使ってそこをカバーした。尹は許三守と釜山高校の同期生だったので、よく話が通じた。
そのようにして情報部改編の人事案が練り上げられる間に、「ソウルの春」は、花が咲き開く前にしおれていったのだった。
▽拡大し、激しさ増すデモ
全斗煥の情報部長兼任は、野党や在野勢力、学生らの反発を大きくした。
そんなところへ、全斗煥側に記者出身者が合流したという噂――「李振羲[元京郷新聞主筆。全斗煥政権下でMBC社長や文化公報部長官となり、メディア統制を主導]が新軍部側についた」とか、「許文道[元朝鮮日報記者。全斗煥政権下で言論統廃合を主導]が南山(情報部)についた」といった話が言論界に広まった(もちろん、こうしたニュースは検閲によって新聞には1行も載らなかった)。
「非常戒厳、解除しろ」
「全斗煥、退陣せよ」
「政治日程を早めろ」
5月に入ると、大学街のデモは激しさを増していった。熱を帯びた学生たちのデモ隊は、ソウル市内へと繰り出し始めた。また、江原道舎北炭鉱の労働者たちの闘争や暴力沙汰が連日、新聞紙面を飾った。激しい労使紛争や街頭デモは、新軍部が待っていたとばかりに、戒厳令下の検閲も無条件でパスした。大見出しが付いたデモの記事が紙面を埋め尽くした。世の中が不穏、不安な空気に、じわじわと包まれていった。
▽「9月1日に大統領に就任」
そのころ、国会職員(専門委員)だった朴寛用(のちに国会議長)は、三星(サムスン)グループの秘書室に勤務する友人の李某氏と会った。かれは「全斗煥将軍は学生デモを口実に軍を動員して政治家らを一掃し、体育館選挙[政権の息のかかった者たちを体育館に集めておこなう、形ばかりの選挙という皮肉を込めた言い方]で大統領に就任する」といい、その日付までを「9月1日だ」とまで断定して教えてくれた。
▽金泳三の楽観
朴寛用はソウル麻浦の新民党本部に金泳三総裁を訪ね、そのことを報告した。金泳三は悠然と構えていた。
「奴らは一時、そんなことを考えていたが、いまは違うようだ。滔々と流れる河の流れは手のひらで塞き止められるものではない」
そのように自信満々だった金泳三だったが、何日かしてまた、朴寛用を呼んで尋ねた。あの情報はどこで聞いたんだ、というのである。
「三星の秘書室にいる友人からです」
「その情報、当たっているようだ。悪い奴らだ。しかし、そう易々と、奴らの思い通りにはさせん。民主化の滔々たる流れは銃剣では塞げないのだ」(朴寛用の回顧)
しかし、金泳三のそんな思いをよそに、「5・17クーデター」による反対勢力一掃のその時は、音もなく忍び寄る戦車のように刻一刻と迫ってきていた。
▽中東訪問切り上げ、帰国
5月10日、崔圭夏大統領は、そんな渦中にあってもサウジアラビアなど中東歴訪を強行した。
出国前、崔大統領が金泳三総裁に電話で出国のあいさつをした際、金泳三は強く反対した。それでもあえて飛行機に乗り込んで出発したのだが、学生らの街頭デモがさらに激化すると、急遽、歴訪日程を切り上げて5月16日夜に帰国した。
空港に着くと、そのまま青瓦台に向かい、会議を開いた。深夜の11時だった。
大統領が主宰し、崔侊洙秘書室長、高建政務首席秘書官、申鉉碻総理のほか各部(省庁)の長官、そして全斗煥保安司令官兼中央情報部長代理(現役軍人の身分であるため「代理」が付いた)が出席した。申総理が国内のデモに関して報告し、30分ほどで会議は終わった。
5月17日の朝が明けた。
土曜日でもあり、また、崔大統領が急遽帰国したばかりということもあって、大学の学生会長らも梨花女子大に集結したまま、青瓦台の決断を沈黙のうちに見守っていた。
訳:波佐場 清






