2026年7月23日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(42)

  三清教育隊

 198084日、「三清教育」なるものが始まった。

 新軍部は516軍事クーデター時の「暴力団掃討・国土建設団」をモデルに、「三清教育隊純化教育」を強行した。

 ▽見せしめ

 朴正煕の軍部は、1950年代に跋扈した政治ゴロの李丁載や林和秀らを死刑に処したほか、兵役忌避者や組織暴力団員らを集めて国土建設団をつくり、気合を入れ直させた。その国土建設団は済州島の漢拏山を貫通する「516道路」を建設した。クーデター軍が広く国民の心をつかみ、恐怖の雰囲気を醸し出すことも狙って、暴力団員らにたいして軍隊の物理的な力による見せしめをおこなったのである。

 全斗煥と「ヤング・カーネル(実力派大佐)」らが操る戒厳司令部は84日、「社会悪の一掃および戒厳布告令」を発表し、ゴロツキどもや社会秩序を乱す不届き者を一掃するという名目のもと、かれらをやみくもに逮捕していった。

三清教育隊では「丸太棒体操」など、過酷な「訓練」が強制された

 「社会悪の一掃」という名目だったが、捕らえて拘禁する基準自体が、曖昧だった。

 現行犯および再犯の恐れがある者▼不健全な生活を営む者▼ならず者や組織暴力団組長ら、改悛の情がなく住民の非難を受けている者▼泥棒・強盗▼反政府・無政府主義者、または不穏なアジテーター▼社会秩序を害する犯罪者――などと、列挙されていた。

 ▽詩人・朴労解

 こうなると、町内会長や班長と日ごろ、折り合いが悪かったというだけで、通報さえあれば、たいした確認もなく連行された。それで、ときには頼母子講の元締めや高利貸し、さらには、当局に睨まれた記者や詩人までもが捕らえられていった。詩人・朴労解[1957年生まれ。反政府活動で無期懲役刑を受け、金大中政権下で特赦された。16歳の時から過酷な肉体労働をしながら書きためた詩集『労働の夜明け』は、全斗煥政権下で発禁処分となったが、地下ルートでコピーされ、大ベストセラーとなった]の一文――

 

  金さんは、未払い賃金を要求して抗議の座り込みをしている最中に、

  社長の奴の胸ぐらをひっ掴んだ、と告発されて捕まってきた。

  15歳の宋君は、土方の仕事に出た

  母親を迎えに行く途中、不良に仕立て上げられて連れて来られた。

  ドル建ての闇の借金がたまって捕まってきた奴。

  市場の露店の場所取りをめぐり、言い争いをしていて捕まってきた奴。

  酒を一杯ひっかけ、大声をだしていて捕まってきた奴。

  ダンスのパートナーが高官夫人だったから、といって捕まってきた奴。

                ――朴勞解『三清教育隊』から抜粋

 ▽過酷な訓練

捕まえられていった人たちは、「純化教育」、「勤労奉仕」、「軍法会議」にそれぞれ振り分けられた。

19811月までに計6755人が逮捕され、保安司令部、中央情報部、憲兵隊、検察、警察、地域浄化委員で構成する審査委員会にかけて、ABCD4等級に振り分けられた。A級の3252人は軍法会議に回された。BC級の39786人は4週間の教育のあと6カ月間服役し、さらに2週間の教育を受けて訓放(釈放)となった。D級の17717人は警察署から訓放された。

三清教育隊は、刑務所と変わるところがなかった。

 「純化教育」は、有刺鉄線が張り巡らされた刑務所のような収容所に閉じ込め、憲兵が監視する運動場で過酷な肉体的訓練をさせて苦痛を与えるやり方だった。

 

吹雪のなか、練兵場を匍匐し、

  元山爆撃 ウサギ跳び PTPhysical Training)体操 先着順

[元山爆撃は、両手を使わず、頭を地面につけて臀部を高く上げさせる罰。朝鮮戦争時の米軍機による北朝鮮の元山への激しい爆撃に由来し、爆撃機が急降下する様子を模しているとされた。PT体操は、過酷な腹筋運動など軍隊式の集団シゴキ。先着順は、集団で競走ダッシュをさせ、一定の順位に入るまでそれを繰り返させる体罰]

  遅れれば、さらに走らされ、倒れれば踏みつけられ、

  もがけば、角材で殴られ、血まみれになり、

  内務班(寝舎)に入れば、

  漢江鉄橋 手榴弾 尖った鉄兜 

[漢江鉄橋は、寝舎の寝棚間に収容者自身の体で「橋」を架けさせ、その状態を維持させる体罰。下には手榴弾や尖った鉄兜が置いてあり、落ちればそれに触れたり、突き突き刺さったりする]

  軍靴で、脛(すね)を生皮がむけるほど蹴られて転げ回り、

  熱くなったペチカの壁に立たされて拳と足蹴りを食らい、

カニの泡をふいて、沈没していく。

  ああ、ここは強制収容所なのか、生き地獄なのか。

                   ――朴勞解『三清教育隊』から抜粋

 ▽武術刑務官

刑務所内でも「不良受刑者」の烙印を押されれば、「純化教育」を受けなければならなかった。当時、ソウルの永登浦刑務所で刑務官をしていた黄龍煕が書いた『棘の檻の証言』(メントプレス刊行)の一節――

 「三清教育隊が猛威を振るっていた1980年下半期、全国の刑務所に法務部から一つの指示が下された。それを受け、末端の拘置所や刑務所では「純化教育教官団」が組織された。そこに、若くて逞(たくま)しい武術(格闘技)刑務官を選抜して組み込み、軍部隊に送り込んで2週間の特別軍事訓練を受けさせた。純化教育の教官として駆り出され、軍隊の飯を食って帰ってきた刑務官たちは、厳しい訓練でしごかれ、どの顔もげっそりとやつれ果てていた」

 ▽死傷者3千余人

 そんな武術刑務官たちが「純化教育」に乗り出したのだ。黄龍煕は、こう書いている。

――「動作、止めっ。左右にセーレツ(整列)。もう一回、丸太棒体操だ。丸太体操、始めっ!」。教官の命令に従って丸太の棒が頭の上でうごめきながら舞を舞う。すこし離れた場所では、砂のカマスを背負ってアヒル歩き[しゃがんだ姿勢で後ろ手を組ませ、尻を振るようにして歩かせるシゴキ。日本の「ウサギ跳び」に近い]をする群れがいる。アヒル歩きで運動場を1周させ、あとは砂のカマスを肩に担いで地面を這う匍匐訓練だ。そうした低い姿勢で運動場を何周かすると、肘や膝がすりむけて血が出、落後者が続出する。動きがのろかったり、カマスを地面に落としたりすると、棍棒や軍靴の足蹴りが飛んできた。「こいつ、死にたいのか。さっさとやれ、と言うんだよ」。

 第5共和国が終わったあとの1988年の国会国政監査資料によると、三清教育隊では、現場における死者54人、後遺症による死者397人、精神障害などの負傷者2678人を数えた。

 ▽全斗煥の報復

 このような生き地獄の「純化教育」訓練場に、元保安司令官の姜昌成中将(2006年没、中央情報部次長補や国会議員も歴任)も送り込まれ、死ぬ思いをさせられた。

 全斗煥の姑息な報復だった。

 姜昌成は70年代初めの保安司令官時代、尹必鏞事件について調べろ、との朴正煕の特命を遂行するなかで、尹必鏞の庇護下にあった全斗煥、権翊鉉、孫永吉[3人とも陸士11期の同期]らの軍閥「ハナ会」を抉(えぐ)り出そうとした。さらには80年春、全斗煥に呼び出された際には、「軍部が政治に乗り出してはいけない」と忠告していた。

 そんな、全斗煥にとっては「不届き」な姜昌成を、三清教育隊に放り込んで虐待したのである。

 ▽二重の処罰

 姜昌成は、全斗煥流の「懲らしめ」によって悲惨な目に遭った。

 1980年夏、外国為替管理法違反容疑で捕まって懲役3年の刑を受け、永登浦刑務所に2年ほど入っている間に、服役者の「特別純化教育」に4回も引っ張り出され、苦労させられたのである。監獄暮らしの苦しみのなかにあって、さらに「丸太棒体操」の訓練に4回も駆り出されたのは二重の処罰だった。黄龍煕刑務官は、こう記録している。

全斗煥の「懲らしめ」で苦しんだ姜昌成(左)は民主化後、国会議員となって全斗煥政権の不正などを追及した。
全斗煥らの「
1212クーデター」に最後まで抵抗した張泰玩・元首都警備司令官(右)と打ち合わせもしていた

 「姜昌成将軍は54歳という若くない年齢なのに軍人特有の気骨で、あの過酷な訓練を耐え抜いたのだ。さすがに、後になってから『年には勝てない』と吐露し、ひどく辛そうにしていた。当時の刑務所内での生活ぶりについて言えば、昼は園芸作業をして働き、夜は独房(07坪)だった。部屋の整理整頓は、軍の内務班(寝舎)並みだった。毛布やタオル、下着などをきちんと折りたたんで整理し、壁は白い画用紙できれいに壁紙をし、そこに週刊誌から切り抜いた朴正煕大統領の写真を貼りつけて朝夕、礼拝するように挨拶を捧げていた。刑務官が朴正煕暗殺事件の話を持ち出すと、とても嫌がり、『閣下・朴正煕』にたいする忠誠の心を露わにした。刑務官らは彼のことを『朴正煕教信者』と呼んでいた」

姜昌成はその時期のことについて、筆者にたいしても「過酷な試練で体重が10キロも減った」と語っていた。

 ▽「モンテ・クリスト伯」

 姜昌成は、「巌窟王」(アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の主人公)のように、死の淵から生還した。

 そして1988年、金泳三の統一民主党から公認を受けて国会議員になり、国会の壇上から改めて「517クーデター」と全斗煥政権の不正を追及、断罪する主役となった。

 そんなある日、ハナ会の一員だった申宰基議員(陸士13期)と国会駐車場で鉢合わせをし、危うく取っ組み合いのけんかになるところだった、と記者たちに話したこともある。ハナ会への敵愾心に燃える姜昌成議員に向かって、申宰基議員が悪態をついたというのである。姜議員はすかさず激しく言い返し、取っ組み合いになろうとした。すんでのところで、周りが止めたので思いとどまったという。

 5共の三清教育隊は、歴史の審判を免れることができなかった。

 20181228日、大法院は「三清教育隊設置の根拠となった戒厳布告令(第13号)は、憲法および法律上の要件を満たしておらず、国民の基本権侵害に当たり、無効」として、違憲の最終判決を下したのである。

                        訳:波佐場 清

 

2026年7月20日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(41)

 6章 処刑台とば口で、むせび泣く金大中

 ■「耐えがたきを耐えるのが真の忍耐」

 盧泰愚のスタイルは、確実に全斗煥とは違っていた。

 1980822日、盧泰愚が全斗煥の後任の保安司令官になって何日もたたないこの日、ソウル新門路にある保安司令部の秘密の施設に金鍾泌を招いた。盧泰愚は「(「不正蓄財」で連行するなど)あそこまでやらなくてよかったのに本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

 「先輩として何か、ご忠告いただけることはありませんでしょうか」

 ▽金鍾泌の2つの忠告

 盧泰愚の丁重な姿勢に少し気持ちの和らいだ金鍾泌は、こう言った。

保安司令部から釈放され、家族と抱き合って喜ぶ金鍾泌

 「見るところ、あなたはナンバー2のようだが、権力を握るナンバー1は常にナンバー2を仲間外れや骨抜きにしようとするものだ。二点だけ話してあげよう。一つは絶対にナンバー1をみくびってはならない。卑屈になる必要はないが、品格を保ちつつも頭を低くしているべきだ。もう一点は、誠意を尽くしてナンバー1を支えているという印象を持たせなさい。疑われるようなことは決してしてはならない」(『金鍾泌証言録』)

 金鍾泌は最後に一言、こうも付け加えた。

 「耐えられないことを耐えるのが、真の忍耐というものだ」

 盧泰愚は重ねて感謝の言葉を伝え、こう述べた。

 「だれがわたしにそのようなことを言ってくださるでしょうか。肝に銘じてしっかりやりたいと思います」

 ▽メディア統廃合

 8010月、メディアの統廃合は、盧泰愚率いる保安司令部で担当することが決まった。この当時、中央情報部[814月から国家安全企画部(安企部)と名称変更]より保安司令部の方が実力が上だった。大統領の全斗煥は、何かと頭が痛く、文句の多い新聞や放送の統廃合については、情報部よりも保安司令部に任せる方がよい、と考えた。

保安司令部と情報部という2つの情報機関のトップを経験している全斗煥には、情報部は要員数も少なく、パワーの面でも劣っていて心もとなかった。ここはとくに、電撃的な速度戦を展開すべき局面だ。保安司令部の手を借りないことには、とてもやれない仕事だと考えた。天下の保安司令部が揺さぶりをかけてこそ、メディアをぐうの音も出ないように黙らせることができるだろう。

▽許文道の執念

 これは、「スリー許」のうちの一人、政務秘書官だった許文道の「作品」だった。

 許文道は、このメディア統廃合に一種使命感を持っているかのように動いた。

804月下旬に南山の中央情報部秘書室長になっていた許文道は着任早々、特戦司令官の鄭鎬溶[全斗煥、盧泰愚と同期の陸士11]にたいして、特戦司令部とは直接関係のない「メディア統廃合」の立法についてブリーフィングをおこなった。鄭鎬溶はいま一つ、乗り気になれなかった。

「聞いてみたが、いい内容のもののようには思えない。うちの特戦司令部保安班長(金忠立少佐)の意見も聞いてみられたうえで、もう一度新しいものを作り直してみてください」

▽「ヤング・カーネル」の傍若無人

 許文道が帰った後、突然、許三守大佐[陸士17]から屈辱的な電話がかかってきた。

 「つまらぬことに首を突っ込んだら、タダでは済みませんよ」

 全斗煥の「親友」である鄭鎬溶――この豪快な先輩にたいしても、突っかかってくるのだった。鄭鎬溶は年下の者の警告にひどく不愉快だったが、そんなことは恥ずかしくてだれにも言えなかった。

 命懸けの「反乱実行者」である若き大佐たち(「ヤング・カーネル」と言われていた)には、「どうせ(クーデターで一度は死んだ)おまけの人生」という思いがあったのだろうか。それで、そのように傍若無人に振舞えたのかもしれない。

許文道は6月、国保委(国家保衛非常対策委員会)の文化公報委員を務めていて再び、「メディアの整備・浄化計画」なるものを作成した。しかし、これも鄭鎬溶や盧泰愚らの反対で保留にされると、さらにその後、青瓦台に入ってから[許文道は、全斗煥が大統領に就任したあと、809月から大統領政務秘書官になっていた]、許和平と手を組んでこれを本格的に推進した。

盧泰愚の抵抗

 保安司令部の情報処長だった権正達はこうした気配を察知していて、8月22日に盧泰愚が保安司令官に就任すると、直ちに「許文道がメディアの統廃合をやろうとしています」と報告した。

 盧泰愚も乗り気になれなかった。覆さないといけないと思った(『盧泰愚回顧録』)。

権正達を連れて全斗煥大統領のもとに赴き、報告した。

「メディアにはいろいろと問題が多く、とくに地方メディアの不正や腐敗が深刻なのは事実です。しかし、統廃合より、問題点を正していくほうが望ましいと思います」

大統領はすんなりと受け入れた。

盧泰愚司令官は、厄介なコブが一つ取れた、という思いで青瓦台を出た。

ところが何日かして、盧泰愚が江陵(江原道)地域を巡視中、「至急にソウルに戻れ」という大統領からの指示が下った。保安司令部に着くと、文化公報部[当時、メディアの管理や政府の広報などを統括していた官庁]の李光杓長官が待ち構えていて、こう言うのだった。

「大統領閣下の特命です。メディアの統廃合をやれ、という指示です。閣下も2度も却下されたのですが、許文道秘書官が執拗に食い下がり、決心を覆されました。これを迅速に処理できるのは、保安司令部をおいてほかにない、とおっしゃっています」

盧泰愚は、許文道にしてやられたと思うと無性にイライラした。

▽耐えがたきを耐え…

「わたしの所管するところでもないので、李光杓長官の判断でお好きなようにやってください」

李光杓は青ざめ、盧泰愚にすがりつくように頼み込んだ。

「わたしはもう、どうしようもないのです。そうでなかったら、どうしてわたしがここで待っていたりするでしょうか。すでに保安司令部は内部の通達ですべての準備が整っています。ここは、ことを荒立てずに、部下にたいして『指示通りにやれ』と一言だけ言っていただければ、いいのです」

許文道が保安司令部を動かしたということなのか――。盧泰愚は、激しい怒りがこみあげてきた。

情報処長の権正達を呼んで聞いてみると、案の定、司令官が席を空けている間に、そのようなことがあったというのだった。盧泰愚は、許文道の手のひらの上で弄(もてあそ)ばれているのかと思うと、むかつき、はらわたが煮えくり返った。

それでも耐えた。あの時、金鍾泌と二人きりで会った際、あの先輩が諭してくれたではないか。

「耐えがたきを耐えることこそが、真の忍耐というものだ」

盧泰愚は深呼吸をして怒りを鎮め、保安司令部の参謀たちに命じた。

「命令なので、やむを得ない。実行せよ」

その一言だけを言うと、盧泰愚は司令部を立ち去った。

▽権勢振るう許文道

801114日、新聞協会と放送協会は、メディア機関の統廃合を発表した。

表面的には自発的な決定に見えたが、裏で李光杓率いる文化公報部が操った、他律かつ強制的な統廃合だった。盧泰愚ものちに「メディア統廃合という強制的な手法を用いたことは、歴史を逆戻りさせる行為だった。恥ずかしい」と書いている(『盧泰愚回顧録』)。保安司令部はその日の夜から、ソウルと地方で同時進行のかたちで実行に乗り出した。統廃合の対象になったメディアの社主や経営のトップらを呼び出して権利放棄の誓約書に次々と判を押させた。

東洋放送(TBC[三星系/KBSに吸収された]の権利放棄誓約書を書いて保安司令部から出てきた三星(サムスン)グループの李秉喆会長は、盧泰愚司令官がいっさい姿を見せなかったことに不満を漏らした。

「言われるままに署名をし、国家の発展に貢献する用意もあるというのに、保安司令官はなぜ、顔も見せないのか。こんなことって、あっていいのか」

のちに盧泰愚は、三星グループ系列の新聞社である中央日報社長の洪璡基を通じて李秉喆会長に丁重に謝罪した(『同回顧録』)。

東亜放送(DBS[東亜日報系ラジオ放送局/KBSに吸収]の放送終了(1130日)や新亜日報[独立系/京郷新聞に吸収]の廃刊(1125日)が相次いだ。許文道の構想通りだった。

「スリー許」の権力はそれほどまでに強大だった。3人の「許」のうち、クーデターに加わってもいない民間人出身(元朝鮮日報記者)の許文道が、天下のナンバー2である盧泰愚を完全に押さえつけ、引きずり回したのである。

▽政治活動に専念

809月、兪学聖率いる中央情報部は、人事異動で2人の次長を新たに迎えた。

それまでの徐廷和次長が内務部長官に栄転し、金永先次長も京畿道楊平から国会議員に立候補するために辞任した。新しい次長には玄鴻柱局長、そして金聖鎮企画調整室長がそれぞれ昇進した。

李鍾賛は総務局長の肩書きで内部改革の先頭に立っていたが、企画調整室長に昇格した。しかし、李鍾賛は新党づくりの準備や国会に代わる立法会議の議員選びなど、外部の仕事も重なり、一人三役で多忙を極めた。

兪学聖情報部長は、情報部の改革よりも政治の動向のほうに、より大きな関心があるようだった。新党づくりに余念がなく、野党づくりにも注力しているようだった。

10月に入ると、結党の作業にいっそう人手がかかるようになり、大統領は、権正達と李鍾賛を立法会議の議員に任命して結党に専念させた。兪学聖部長は、毎日のようにせっついてきた。情報部の改革のようなものは放っておいて政治活動に専念しろ、というのだった。それで、李鍾賛は1031日、情報部を辞めた。

                      訳:波佐場 清

 

2026年7月17日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(40)

  崔圭夏の退陣

崔圭夏大統領の下野(1980818日)には秘められたエピソードがある。

盧泰愚は、実権をつかみ取った盟友全斗煥の「戴冠式」に向けて何か一仕事をしておかなければならなかった。それで、総理を辞めた申鉉碻に、崔圭夏が下野するよう働きかけてほしい、とそれとなく頼んでみた。

「総理、この非常時にあって崔大統領のままでは到底、やっていけません。難しいでしょうが、申総理のほうから、そのことを崔大統領にうまく伝えていただけたら、助かるのですが…」(盧泰愚)

きっぱり、断わられてしまった。

「分からん人たちだ。わたしが517日に、あれだけいっしょに退陣しようと説得しても辞めなかった人だ。いま、どうやって辞めさせろというんだ」(申鉉碻)

申鉉碻が一喝したため、盧泰愚は顔も上げられないまま引き下がってしまった、という。

▽金貞烈の登場

それなら、だれに頼めば、この猫の首に鈴を付けることができるというのか。ここで、金貞烈(空軍参謀総長や国防部長官を歴任。1987年、全斗煥政権最後の国務総理)というカードが浮上してきた。

金貞烈は、全斗煥や盧泰愚らと陸士同期11期の閔錫源が早くに退役し、建設会社「正友開発」を立ち上げて社長となった際、同社の会長になっていた経緯があり、陸士11期の者たちと親しく付き合ってきていた。金貞烈は日本の統治時代、崔圭夏といっしょに京畿高等普通学校[ソウルの名門京畿高校の前身]で学んだ同期生であり、留学先の東京でもそれぞれ陸軍士官学校(金貞烈は日本陸士15期)と東京高等師範学校[筑波大学の前身](崔圭夏)の生徒として親交を深めた関係だった。

▽李承晩、そして崔圭夏…

崔圭夏の首に鈴を付けてほしい、という難しい依頼に、金貞烈は言った。

崔圭夏大統領は新軍部に退陣を迫られ、青瓦台を去った

「わたしの運命の巡り合わせも数奇なものだな。あれから、もう20年にもなるのか。わたしが李承晩の下野に際してそれを進言したのだが、今また、同じように青瓦台に入っていって崔圭夏大統領に下野しろと言え、というのか」

1960426日、あの李承晩下野の瞬間を、金貞烈は記録に残している。

「国防部長官として、景武台[当時の大統領官邸。現・青瓦台]に入っていった。外部のことを知らない李承晩にたいして緊迫した状況について報告した。大統領は深刻な表情で『きょうは一人もけがをしてはいけない。どうしたらいいのか』と聞いたが、わたしは黙ったままでいた。すると、大統領は『おまえの考えでは、わたしが辞めたら、もう一人のけが人も出ない、ということなんだろうな』と言った。夢にも思わなかった重大事なので驚き、答えに窮して立ち尽くしていると、大統領は重ねて同じことを聞いてきたが、わたしはただ、頭を深く下げるばかりだった。『そうか、そうしよう。このこと(下野)を速やかに人びとに知らせるんだ』」

5時間余の説得

戒厳令を全国に広め、反対勢力の一掃に動いた「517クーデター」に関する検察の捜査結果によると、金貞烈氏は1980730日に青瓦台を訪れ、崔圭夏大統領と5時間にわたる談判の末に下野に追い込んだことになっている。

その日、金貞烈は青瓦台本館1階の大統領執務室で、義兄弟のように付き合ってきた崔圭夏大統領と向き合って座った。まだ日の明るい午後6時に始まった対話は、午後9時の夕食で終わるかと思いきや、大接見室から小接見室、書斎などを行き来しながら午後11時が過ぎるまで、なんと5時間以上にわたった。

崔圭夏はあっさりとは身を引かなかった。

▽2度にわたる説得

その後何日かして申鉉碻は、長年の親友である金貞烈の訪問を受けた。

2人はかつて、自由党政権(李承晩政権)でいっしょに長官を務めた大の親友であり、しょっちゅう囲碁も打つ間柄だった。そんななかで実は、金貞烈が崔大統領のもとを訪れたのは1度ではなく2度にわたっていたことが分かった。申鉉碻の証言――

「金貞烈氏が、わたしに言うんだ。新軍部の人間がやって来て『崔圭夏大統領に退陣を勧告する役を引き受けてほしい』というものだから、崔圭夏のところへ行ったというんだ。崔氏にそのことを話すと、崔氏は最初、『何を言うんだ』と…。『軍部がわたしを支持しているのに、どうしてわたしが辞めなければならないのか』と。それでもう1度行った、というんだ。そうしてようやく辞任することになったと…」

崔大統領のもとを2度目に訪れた際には、「名誉ある退陣をして穏やかに余生を過ごされるか。それとも、不名誉な退陣で、不幸な余生を送られますか」と迫ったという。

▽下野声明

 崔圭夏大統領のスポークスマンだった徐基源(小説家、記者出身)のメモ――

「(1980年)730日、金貞烈氏が青瓦台本館に来ていった。その後、大統領は雪岳山(江原道)へ行かれ、83日、帰京。大統領の選択肢は狭まり、窮地に陥っているのだろう。

86日、全斗煥将軍に四つ星(大将)の階級を授与。KBSテレビのスポット広告では『新時代、新しい波に、みんなで合流しよう』というCMが流れている。率直な表現だ。もう、記者たちの間では『大統領の辞任の日程が前倒しされる』という噂が広がっている」

8月12日、MBCテレビで全斗煥将軍のインタビュー(聞き手:李振羲・京郷新聞社長)を放送。

「過渡期は早く終わるべきだ。政治日程は前倒しされるだろう。80年代に民主、福祉、正義社会を実現」というのが主な内容だった。

崔圭夏の下野声明を、金大中の裁判日程と重ならないよう2日間延期。

815日、光復節の行事で会った金潤煥議員(維新政友会)が、徐基源に声をかけてきた。

「明日、発表されるんだそうで…。この間、ご苦労さん」

徐基源はただ、ニヤリと笑って済ませた。

 818日、下野。崔圭夏大統領は、青瓦台を去って行った。

                      訳:波佐場 清

 

2026年7月14日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(39)

  新党づくり

大統領の選出方法についての話し合いは長引いた。許和平は「直接選挙で、国民的な祝祭ムードの中で選ぶのがよい」と強く主張した。すると、盧泰愚は「社会が安定してからでないと直接選挙はできない」と間接選挙にこだわった。全斗煥が間接選挙の方に軍配を上げ、許和平を抑え込んで決着させた。

▽国会議員選は1区定数2、兼職も容認

  国会議員選挙は1区につき定数2でいくことにした。朴正煕時代に柳赫仁・政務首席秘書官が、総選挙の過熱化を防ぐために検討していた案がそのまま採用された。維新政友会[朴正煕政権下、選挙を経ずに大統領の任命で国会議員になった者たちの会派]を廃止して比例代表制を導入することにしたが、第1党に有利な配分とした。

比例代表の議員には、政治屋や無職のならず者ばかりでなく、専門職も進出させるという趣旨から兼職も認めることにした。待遇は名誉職とし、次官補クラスと定めた。

この日の会議では、年内に憲法改定を終え、新憲法に基づく政治日程を1981年から始めていくことも決めた。

▽全斗煥の後継は盧泰愚

これに伴って、新党の組織づくりも急がなければならなかった。

全斗煥は「党組織づくりでは、とくにソウルと全羅道を念頭に置くように」と指示して急かせた。李鍾賛はこうした過程を見守りながら、政権奪取に向けた準備が早くから進められてきていたものと確信した。

新軍部は政権奪取へ向けて加速のペダルを踏んだ。

全斗煥による国保委(国家保衛非常対策委員会)の掌握と、兪学聖の中央情報部長就任(718日)。それによって、もはや「お飾り」となった崔圭夏を大統領から引きずり下ろし、全斗煥がそれに代わって権力の座に就く「戴冠式」まで、あと1カ月となっていた。そのころ(80627日)にはもう、全斗煥が任期を終えれば盧泰愚が後を継ぐ、という方針も新軍部の有力者の間で決められていたと後日、兪学聖は李鍾賛に語っている。

▽「3金討伐」

金泳三についても、最後の障害物として片づけておかなければならなかった。

金大中は内乱陰謀ですでに収監した。金鍾泌は不正蓄財で政界を引退させ、葬り去った。

730日、李鶴捧大佐は、保安司令官の全斗煥に呼び出された。情報処長の権正達を傍らに座らせておいて全斗煥は命じた。

「金泳三とは、慶南高校の同窓なんだから、政治活動をやめろ、と言ってもらわないと、な。上道洞[金泳三の自宅のある場所で、金泳三陣営の代名詞として使われた]と連絡を取り、『金大中も金鍾泌も捕まったというのにYS(金泳三)だけが活動を続けているというのもちょっとヘンに思われるから、自ら潔く引退するのがいいのではないか』と、そう言ってみろ」

李鶴捧は、上道洞の秘書の文正秀(のちに国会議員、釜山市長)と会った。

二人は慶南高校の同期だった。文秘書に全斗煥の指示を伝えて、金泳三に政界引退を進言してもらいたいと頼んだ。すると、金泳三は文秘書を通して「数日間、猶予がほしい」と答えてきた。

何日か待ったが、返事がない。気が急(せ)いた李鶴捧は、再び文正秀を問い詰めた。すると、8月13日、政界引退が発表された。

3金」[金泳三、金大中、金鍾泌]の討伐が完結した。

 ▽新党の「顔」に元野党幹部

 次は、新党の「顔」をだれにするか、だった。

李載[イ・ジェヒョン(이재형191492/日本の中央大卒。野党幹部の経歴もあった]を推したのは晋州(慶尚南道)出身の政治家、安秉珪[学生運動のリーダーから記者を経て金大中の秘書も務めた。のちに長男の安祥勲は尹錫悦政権の首席秘書官]だった。当時、保安司令官だった盧泰愚[全斗煥の後任として19808月~817月、保安司令官を務めた]の「99人脈」(盧泰愚が指揮した第9師団、第9空挺旅団出身)の安秉浩大佐が保安司令部秘書室長として権勢を振るっていた時期である。安秉珪はそんな安秉浩の従兄で、李載に仕えたことがあった。

民正党の「顔」となった李載(左)と推薦した安秉珪

盧泰愚がその提案を受け入れて全斗煥に上げたため、有力候補として名前が挙がっていた高麗大総長の金相浹や李用熙[国際政治学者、朴正煕政権で国土統一院長官などを歴任]といった学者らは、外された(金相浹は2年後に国務総理に起用された)。

▽標的に大学総長

金相浹にまつわるエピソードがある。

1980年8月、保安司令部秘書室長の許和平が、同情報課長の韓鎔源を呼び出して指示した。

「近々、国保委の立法会議(5共の憲法改正案を確定させる機関)を発足させるが、主要大学の総長を参加させなければならない。高麗大の金相浹総長と延世大の金明会総長をうまく取り込むんだ」

流血の軍事クーデター政権であっても、体裁は整える必要があった。名士や文化人、学者たちが支持する政権であるかのように見せかけなければならない。刀を輝かせるには、鞘(さや)も華麗でなければならなかった。

韓鎔源課長は慎重に2人の大学総長に近づき、提案した。

しかし、2人は共に、一言の下に拒絶した。血を流した全斗煥将軍の走狗とみなされるのはご免だ、ということだ。

 ▽主要大学の総長全員が協力

「なら、ほかに何か、いい知恵はないものでしょうか」

韓鎔源が金相浹総長にすがるように尋ねた。すると、一つのアイデアをくれた。

 「何人かの総長と交渉するんだったら、いっそのこと主要5大学[ソウル、高麗、延世、梨花女子、西江大学]の総長全員を一人残らず選ぶというのはどうだろうか。そういうやり方をすれば、反対する人など、出てくるでしょうか」

金相浹は「托鉢僧に施しは与えられないまでも、托鉢の鉢を割るようなことはするな」[韓国のことわざで、「与えることはできなくても、人を傷つけたり、困らせたりしてはいけない」という意]とばかりに政治学者らしい知恵を授けた。

韓鎔源は快哉を叫んで許和平に報告すると、許もやはり「卓見だ」と膝を打った。こうして主要大学の総長たちを前面に立てて学界の立法議員13人が誕生したのだった。

▽大物政治家

9月初め、青瓦台の全斗煥大統領から、李載を新党の代表として検討しろとの指示が保安司令部の権正達に下った。権は李鍾賛に「李載を知っているか」と聞いた。

「知っています。大林産業を創業した李載濬の兄で、わたしの友人の李埈鎔[当時、大林産業社長]の伯父にあたります」

李載は、京畿道始興出身の制憲議員[1948年に韓国の憲法を制定した最初の国会議員]で、自由党時代[李承晩政権下]に商工部長官を務めていた。西北青年会出身、朝鮮民族青年団[解放直後に結成された極右団体]系の首領だった李範奭将軍[190072/独立運動家。日本の統治下、中国で組織された臨時政府の光復軍で参謀長を務め、解放後、初代国務総理兼国防部長官]と近く、自由党が李範奭を排除すると、彼といっしょに野党に転じた。その後、1972年に維新クーデターが起こると政界を引退し、野に下っていた。

権正達と李鍾賛は2人で、ソウル社稷洞の自宅へ李載を訪ねた。かれは、老練かつ緻密な「プロ」だった。全斗煥から与えられた抱き込み工作の任務に追われる権正達が、焦ってタバコを取り出して口にくわえると、ライターを出して火をつけてやりながらも最後まで、走り使いの彼らがせっかちに求める回答を示さなかった。

▽直談判

李載は、あれこれ余計なことは言わず、全斗煥大統領に直接会わせろ、というのだった。

のちに、李載は全斗煥大統領と会い、談判するかのようにこう聞いた。

 「わたしがお役に立てるとすれば、民主主義だけだが、閣下はほんとうに民主主義をなさるおつもりでしょうか」

全斗煥は、こう答えた。

「まさに、そのことです。この地に民主主義を植え付けたいのです」

この面談が終わったところで、新党の顔が確定した。

                   訳:波佐場 清

 

2026年7月11日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(38)

「民族」外し、「民主・福祉」

保安司令部の裏手にある2階建ての建物に陣取った新党結党チームは、対外秘密を守ることを誓約し、人物の選定にかかった。いったん、仕事を分担し、李相宰(保安司令部)がメディア関係者、李相淵(同)が予備役および現役軍人、李鍾賛と郭煕正(中央情報部)は旧政治家、教授、著名人を担当し、斬新な人材を選ぶことにした。

一方で、金潤煥(維政会議員)が、盧泰愚や鄭鎬溶と慶北高校の同窓という縁故をつてに与野党の政治家らと接触して回った。全斗煥、盧泰愚らと同期の陸士11期で、尹必鏞事件に絡んで軍服を脱いだあと三星(サムスン)グループにいた権翊鉉も結党の手伝いをして回った。しかし、実力者の大佐である許和平は、この2人をひどく嫌った。

「新しい時代を切り拓いていくに当たり、昔の人間たちがのさばっていてはイメージが損なわれます」

▽正義派の元記者

許和平が「斬新な第3勢力[旧軍部・保守(第1勢力)や既成の野党(第2勢力)以外の勢力]を糾合しよう」というのには、李鍾賛も同感だった。

李鍾賛は友人の任在慶[ジャーナリスト、のちにハンギョレ新聞編集人]や蔡賢国[実業家、教育者]に相談したところ、記者出身の南載熙[19342024/金泳三政権で労働部長官]を推薦された。南載熙は政治記者として駆け出しの時代、革新系を取材していた正義派だった。

自由党政権[李承晩政権]下、ソウル大法学部の学生だった頃には、李承晩大統領の養子となっていた李康石[実父は有力政治家の李起鵬]のソウル大法学部編入に反対する運動の先頭に立ったりもした。韓国日報、朝鮮日報、ソウル新聞を渡り歩く間、朴正煕大統領の面前で「苦言」を呈したことによって却って抜擢され、第10代国会議員(793月~8010月)も務めた。

李鍾賛の提案に南載煕は二つ返事で応じ、2人は疎外された在野勢力を抱き込もうということで意気投合した。

▽独立運動家の孫

李鍾賛は、上海臨時政府の創設に関わった独立運動家、李会栄の家系[李会栄の孫に当たる]であり、南載煕は、曺奉岩[1899~1959/進歩党党首。李承晩を相手に大統領選で善戦。のちに、スパイとして処刑された]や尹吉重[1916~2001/曺奉岩と共に進歩党で活躍。全斗煥政権下では与党民正党に参加した]が活躍した1950年代末、革新系政治家を担当していた。そんなところに在野の政治家が合流すれば、新軍部政権の正統性を補い、斬新性も加わって新党のイメージアップにつながるはずである。というわけで、軍の実力者たちも、これを拒まなかった。

一方で、新党の理念や綱領、政策もつくらなければならなかった。

そんなとき、京郷新聞編集局長の鄭九浩(全斗煥の高校の後輩)が研究報告書を持って権正達・保安司令部情報処長の部屋を訪れてきた。

▽「学生革命」の元闘士

鄭九浩はもともと、1960年の「419学生革命」直後、ソウル大学文理学部在学中に崔永喆[東亜日報政治部長などをへて全斗煥政権で統一部長官などを歴任]や柳根一[朝鮮日報のコラムニストとして名を馳せ、のちに同紙主筆]らといっしょに進歩的なサークル「新進会」で活動した、目覚めた青年だった。学生革命の後、民族統一に向けた板門店での南北会談を求め、「行こう北へ、来たれ南に!」と叫んだ疾風怒濤のメンバーである。ところが、いつの間にか、その時から20年の歳月が流れ、全斗煥と同郷の縁により、新軍部のブレーンとして現れたのだった。

▽「民主福祉国家の建設」

鄭九浩は「民族福祉国家」というテーマを掲げた。

「新たに建設する国家のブランドは『民族』福祉国家であるべきです。韓国政治にあって最も脆弱であった部分こそ、まさに民族問題でした。それで、米国の植民地だという声が若者たちの間から出てくるのです。そして、経済発展に見合う福祉の恩恵がなければなりません。朴正煕大統領も福祉に着目していたが、実現できずに逝去してしまいました」

しかし権正達は、たしなめるように言った。

「民族、民族と、それをあまり前面に押し出さないでもらいたい」

それでなくとも米国は、民族主義を掲げた新軍部の動きを「ヤング・カーネル(若手大佐)たちのクーデターだ」と白眼視してきたところだ。

李鍾賛は、鄭九浩に加勢した。とはいえ、「福祉国家の建設」だけでは地味すぎるのではないか、と…。

そのうえで、「民主福祉国家としましょう」と修正案を出した。

権正達は、鄭九浩が「民族」と書いた部分をすべてサインペンで「民主」と修正していった。このあと鄭九浩が清書し直した報告書は、全斗煥の裁可を得て「民主福祉国家の建設」ということで決着した。これが、第5共和国のキャッチフレーズとなっていったのである。

とはいえ、それでも「民族主義」という言葉を完全に捨て去ってしまうのは惜しかった。そこで、創造的(creative)という修飾語を付けて米国の警戒心を和らげることにした。結局、「創造的民族主義」とし、改革の意志も込めてそれを綱領・政策に反映させていくことにした。それには許和平も積極的に支持した。

▽大統領任期は「16年間だけ」

1980年7月15日、憲法改定について新軍部の中心メンバーたちが話し合った。全斗煥、盧泰愚、鄭永(保安司令部参謀長)、権正達、許和平、許三守、李鶴捧、李鍾賛が出席した。

盧泰愚(下)と権正達(上)は、現役軍人のまま憲法改定論議に加わった
19807

首都警備司令官の盧泰愚は、軍服の正装で身を固め、乗馬用鞭を手にして入ってくると、友人であると同時に自分の上に立つ指導者となった全斗煥に向かって厳粛に敬礼をした。全斗煥は満足そうに微笑んだ。

だれもが浮き立ち、得意になっていた。

会合は権正達のブリーフィングで始まり、真っ先に話し合われたのは大統領の任期についてだった。4年重任(再選あり)とする意見も出たが、(重任を認めたことでさらに長期政権に欲望を燃やした)李承晩や朴正煕による無理な改憲を反省材料として、1期だけに限ることにした。任期は6年と決められた。

       訳:波佐場 清

2026年7月8日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(37)

  金鍾泌の「516」と同じ手口

 全斗煥らの国保委(国家保衛非常対策委員会)は、朴正煕らが「5・16クーデター」で設けた「国家再建最高会議」のコピーにすぎない――在韓米軍のウィッカム司令官はすでに1980年2月の時点で、そのことを見抜いていた。ウィッカムは80216日、全斗煥との正式な面会を許した。

 「1212軍事反乱」から2カ月余を経て、初めて設定された面談だった。その間ずっと米CIA韓国支部長のブリュースターから全斗煥と会うよう勧められていたのだが、反乱に不快感を示してやろうと、わざと会うのを引き延ばしてきていた。

 ▽既視感

 ウィッカムは、全斗煥と会うのに先立ち、1961年の「516」直後に金鍾泌が駐韓米軍司令官のカーター・マグルーダーと面談した際の対話録を読んでいた。参考資料として補佐官らが持って来たのだった。

 目がくらむほどの、驚くべきデジャヴ(既視感)――

記録を読めば読むほど、ウィッカムは、自分が知らない時代のことなのに、まるでタイムマシンに乗ってその時代に飛び、自らがマグルーダーとなってそこにいるかのような錯覚に陥った(『ウィッカム回顧録』)。記録は以下のようなものだった。

――金鍾泌は、米第8軍司令官の承認なしに韓国の兵力(3600人)を移動させて指揮統制系統を乱したことについて、マグルーダーに丁重に謝った。金鍾泌はまた、クーデターを主導した者たちには、「政治的な目的」など、まったくないことを強調した。クーデター軍は、より有能な将官たちが昇進する機会を阻んでいる、古くて腐敗した軍の参謀陣を追い出し、さらには、国民に何の恩恵も与えられない無能で腐敗した政府の「浄化」を断行するのだ、と弁明した。

「直ちに原隊に復帰します」

金鍾泌はマグルーダーに、軍部は限定された目的さえ達成すれば、即刻、軍に戻ると確約した。「わたしを信じてください」と金鍾泌は言った。

この記録を読んでいたウィッカムは「マグルーダーの記録を日付さえ20年後に変えれば、そのまま、わたしと全斗煥の対話録になる」と思った(同回顧録)。

▽「1026」直後から研究

かつての詐欺の手口に、米国はまたしても、みすみすやられてしまうのか。かといって、ほかに何かやりようがあるとでもいうのか。ウィッカムはあきれ果ててしまうばかりだった。

 全斗煥はそれほどまでに徹底して「5・16」のことを頭に入れてウィッカムに向き合っていた。

保安司令部捜査第1局長の白東林は「許和平、許三守、李鶴捧は、79年の1026の捜査の時から516や海外のクーデターに関する資料を持ち歩いてクーデターのことを研究していた」と証言している(1995年の検察調書)。79年当時、保安司令部の課長だった韓鏞源も「保安司令部は、1026の直後から合同捜査本部の仕事(戒厳の業務)に没頭する一方で、5・16を研究して新軍部政権を樹立していった」と記録している(『韓鏞源回顧録』)。

▽丸ごと盗用

金鍾泌もまた、「全斗煥は1026の直後から、保安司令部の中心的な参謀ら(許和平、許三守、李鶴捧)にたいして516を研究するよう指示していたということを、あとになって知った」と証言録のなかで語っている(『金鍾泌証言録』)。

米国大使や米軍司令官への言いつくろい、原隊に復帰するという約束、国保委のような革命機関づくり…。このほかにも、20年近く前の手口をそのまま真似たものが多かった。

516クーデター」(1961年)

1026」後(1979年)

李丁載や林和秀ら暴力団の掃討

三清教育隊

旧政治家活動規制法

政治風土刷新法

中央情報部と共和党を事前に組織

国保委新設と、秘密裏の新党結成

腐敗した幹部公職者らの財産没収

金鍾泌、李厚洛らの財産没収

すべてが、許和平、許三守、李鶴捧(3人は、いずれも「ハナ会」のメンバー)に権正達(非「ハナ会」)を加えた4人組が「516」の手口を丸ごと真似たものだった。かれらは金鍾泌先輩の「知的財産権」までも無視し、そっくりそのまま丸写しで盗用したのだった。

許和平は第5共和国の企画者として4人組をリードし、政権奪取を狙うやり方やスピードの管理を受け持った。許三守は世論の見極めや連絡役を担った。李鶴捧は、金載圭や金大中の捜査を指揮し、「(朴正煕大統領暗殺という)不幸な過去の出来事を(自分たちの新しい政権をつくる)幸運な現代史として解釈する楽天性と大胆性」(韓鏞源の表現)を見せた。権正達は新党(民正党)づくりを担当した(『韓鏞源回顧録』)。

▽米国の苦悩

その頃の米国の呻(うめ)きが、記録に残っている。

光州の流血を踏み台に、国民が後ろ指を指すなかで権力奪取へ血眼になって突き進む全斗煥だったが、そんなかれを排除することも、それに代わる他の選択肢もないのが米国の悩みだった。1980528日、駐韓大使のグライスティーンがワシントンに送った報告書――

「全斗煥を除去することの危険性は、今さら強調するまでもない。われわれが拙速で動く場合、全斗煥は対抗のために軍を固く団結させ、国民の反米感情を煽って米国の国内政治問題にしてしまうこともあり得る。もちろん、われわれは、かれが韓国国内で(流血クーデターを起こしたことによって)最も評判の悪い人物であるという点は分かっている。しかし、かれが本当に韓国国内の各種利益団体の利害と相反する立場にいるのかどうかは、まだよく分からない。加えて、われわれが留意しなければならないのは、われわれが支持するに値するだけの、真に理想的な指導者がいないということだ」(グライスティーン大使)

▽「カラスに代わるシラサギもいない」

グライスティーンがこの報告書を書く1カ月前の4月にワシントンに送った、次のような報告通りに事態は進んでいった。

「われわれ(米国)が排除しようしているカラス(全斗煥)に代わりうるシラサギ(代わりの指導者)は見当たらない」

かれは、全斗煥をひどく嫌うカーター政権が、何らかの逆クーデターを企て、それが失敗に終わることになりはしないか、と怖れた。そんななかで結局、「いっそのこと全斗煥の軍事反乱を認めてしまおう」と現状維持論を唱えるブリュースターCIA韓国支部長と気脈が通じるようになり、ウィッカム司令官もそこに飲み込まれていったのだった。このあと、第5共和国(全斗煥政権)の期間を通して続いた学生たちによる反米闘争や米文化センター放火事件といった悲劇は、そのような判断の結果だったのであり、自業自得というわけだった。

▽新党結成へ秘密会議

8073日、国保委で開かれた新党結成に向けた保安司令部の秘密会議――。

常任委員長の全斗煥は、権正達、李相淵、李鍾賛、李相宰(メディア担当)を前に座らせ、厳かな口調で切り出した。

新党民正党の結成を受け持った権正達(右)と李鍾賛=1980年12月

「これからは権正達(情報)処長を中心に、新たな歴史をつくっていく仕事をしっかりとやってもらいたい」

それだけだった。それ以上の具体的な指示はなく、李鍾賛はなにか釈然としない思いで部屋を出ようとしていると、権正達が「保安司令部に行こう」と声をかけてきた。その保安司令部の廊下で、李鍾賛は中央情報部秘書室長の許文道と鉢合わせた。

許文道は李鍾賛にこう言った。

「先輩、今朝、新党結成のタスクフォース・チームの一員として、部長[当時の中央情報部長(正式には代理)は全斗煥だった]に(拝命の)挨拶をしましたよね?」

そう言われて初めて、李鍾賛は、先ほどの集まりが新党結成のための会合だった、と悟ったのだった。許文道は続けた。

「新党結成の作業に、南山の尹碩淳(19372021年、第11代国会議員)も入れてみてはいかがでしょうか」

▽結党本格化

当時、中央情報部副局長だった尹碩淳は、許文道、許三守と釜山高校の同期生だった。それを聞いて、すでに綿密に練られたシナリオ通りに事が進んでいるのだな、と李鍾賛は思った。そのようにして尹碩淳も合流した。

崔圭夏大統領を青瓦台から引きずり下ろしたのは816日、全斗煥が大統領になったのは827日だった。それから考えると、新党結成はその1カ月半前からすでに本格化していたというわけである。

                    訳:波佐場 清

                     

2026年7月5日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(36)

少数意見の判事を追放

 正論であった大法院判事の少数意見は、過酷な代償を伴った。

 全斗煥らの新軍部は、これを許すわけにはいかなかった。

 金載圭を内乱犯に仕立てて「生け贄」にしなければならないというのに、それにケチをつけたからである。新軍部には初めからそんな心配もあり、1980年の年初来、保安司令部の全斗煥とその実力者である李鶴捧・対共処長(大佐)は、金載圭の裁判を前に、早くから大法院に手を回していた。

 ▽下工作

801月、全斗煥は大法院判事全員を陸軍会館に招き、夕食会を催した。

 李英燮大法院長は3月のある日、李熺性戒厳司令官から『金載圭の事件がそちらにいくので、よろしく』と言われた。同じころ、陸軍法務監を名乗る人物が大法院長のもとを訪ねてきて「1カ月以内に裁判を終わらせてほしい」と、とんでもない催促をした。

 そして李鶴捧は、大法院判事の梁炳皓が大法院の任用序列ナンバー2として金載圭の裁判を担当することが確実視されると、梁判事を訪ね、『被告人らの上告を棄却してほしい』と頼み込んだ。

 414日に中央情報部長を兼任した全斗煥も使いの者を送って李英燮大法院長に「金載圭事件の早急な処理」を求めるとともに「一度会いたい」と伝えた。ところが、大法院長は当然、情報部長の方から訪ねてくるものだと思い、一方の全斗煥のほうも、李英燮が自分を訪ねてくるものと考えているうちに時間が経ち、会うことができなかったというのだった。

朴正煕大統領を暗殺した金載圭について「内乱目的はなかった」と、
梁炳皓(左端)ら6人の判事が少数意見を述べた。
   梁判事は保安司令部に連行され、ひどい暴行を受けた

 いずれにせよ、少数意見を述べた6人はいたものの、8人の多数意見によって金載圭ら5人の死刑が確定し、光州への見せしめでもするかのように524日、急いで処刑をおこなった。

 ▽排除対象者は288

 529日、光州に再び戒厳軍が入った直後のことだ。

 中央情報部長の全斗煥と総務局長の李鍾賛は、中央情報部の改編案を持って崔圭夏大統領のもとに向かった。全斗煥は情報部改編業務の仕上げを急いでいた。もう、シナリオ通りに国保委(国家保衛非常対策委員会)に行って国の統治に当たらなければならない。そこには大統領秘書室長の崔侊洙も同席した。

 崔大統領は、かなり入念に、細部についてまで問い質した。

 李鍾賛は情報部に入って15年余になり、その間あらゆる部署を一通り経験していたのでよどみなく答えることができた。崔大統領は外交官出身らしく、「海外工作局」という名称を「渉外局」に改めるよう求めただけで、あとは、とくに何も言わずに裁可した。

 こうしてなされた組織改編によって排除された脱落者は288人にのぼった。

 ほとんどが幹部クラスで、一般職員は少なかった。19616月、朴正煕が統治権強化のために中央情報部をつくって以来、歴代部長らが恩着せがましくねじ込んできた者たちがそれほどに上層部を支配し、頭でっかちの「仮分数」組織になっていたということだ。総務処[日本の内閣府に相当]は「公務員年金の構造が中央情報部出身者のせいで歪められている」と不平を漏らしてきてもいた。

 ▽公平性

 288人のうち、100人を退職させるつもりで解雇者リストを作った。

 全斗煥部長はそれについて決裁している途中、うち1枚の人事カードだけを引き抜いて中身を確かめていた。イム某という人物のものだった。全斗煥は総務局長の李鍾賛に聞いた。

 「この者はどうして、だめなんだ?」

 「慎重に何度も検討してみたのですが、米軍PX(売店)に出入りして取引[物資の横流し]をしていたことも分かり、担当課長が残すのはとても無理だ、と判断したのです」 

 「もともと、だれが推薦した人物なのか、分かっているのか」

 「知っております。人事資料にも、部長(全斗煥)が推薦された人物と書いてあるので、ことさら慎重に調べてみました。この者だけを外せば、公平性のうえから問題になりかねないと思い、悩んだ末に…」

 全斗煥は顔をしかめながらも、ぐいっぐいっとハンコを押しながら言った。

 「ワシが推薦した者と知りながら整理の対象に含めたというんだから、この審査は公正なものだと認めよう。なら、退職する者たちが食っていけるよう、生活の問題についても気を遣ってやってくれ」(李鍾賛の記録)

 ▽シナリオと寸分の狂いもなく…

 すでに国会解散と国保委創設のシナリオはつくられていた。

 光州の鮮血がまだ乾かぬうちから、新軍部は自らの進む道を急いだ。

 531日 国保委の設置および全斗煥の国保委常任委員長就任

6月 2日 全斗煥中央情報部長(代理)辞任

27日 全斗煥と盧泰愚が順番に大統領になることで新軍部の実力者らが密室で合意

28日 李鶴捧、拘禁中の金大中と初の面談(降伏を要求)

718日 兪学聖、中央情報部長に就任

813日 金泳三、政界引退を発表

16日 崔圭夏大統領、退任

27日 全斗煥の大統領(当選)確定

91日 全斗煥、大統領に就任

 反乱の主役たちの描いたシナリオが寸分の狂いもなく、一糸乱れぬ作戦のように遂行されていった。

 ▽最高権力機関

 531日、ソウルの三清洞で、国保委の看板かけの儀式があった。

「国保委」の看板かけ儀式に出た全斗煥(右端)と盧泰愚(左端)=1980531

 目的はただ一つ、全斗煥が全権を掌握し、思うままにその権力を振るおうというものだった。保安司令官と中央情報部長を兼ね、「天下無双の権力者」であったとしても、法の上では、戒厳令下にあるため、戒厳司令官の指揮を受けなければならない。その限界を回避するための手立てが国保委だった。

 国保委は19年前、1961年の「516クーデター」の直後、金鍾泌がつくった「国家再建最高会議」をそっくりそのまま焼き直したものだった。形のうえでは崔圭夏大統領の諮問・補佐機関だったが、その実、全斗煥が革命的に全権を振るえるようにした最高権力機関だった。

 ▽「軍事革命委員会」

国保委は常任委員長の全斗煥をトップに、それを下から30人の常任委員が支える構造だった。傘下に13の分科委員会も設けた。常任委員30人のうち18人が現役の将官であり、13分科委の幹事も全員佐官級将校で、文字通り新軍部の「軍事革命委員会」(許三守)そのものだった。

 看板かけ儀式4日前の527日、国保委を大統領直属の機関とする設置令に崔圭夏大統領は、やむなく署名していた。517日夜、申鉉碻総理が命がけで国務委員会(閣議)での議決に反対した「屋上屋」の機関である国保委――つまりは民政政権を形骸化させるこの革命機関を、崔大統領を脅して遂に、つくり上げたのである。

 ▽コピー

 国保委という大きな剣は、「516クーデター」でつくった軍部による「最高会議」のコピーだった。

 その意味で、新軍部の「517」と朴正煕の「516」は、「正常化したなら、軍に復帰する」という虚偽の煙幕作戦も含め、最初のスタート時点から、まさに「一卵性の双生児」だったのである。

                        訳:波佐場 清