2026年9月26日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(61)

 ■「聖堂はデモ隊の聖域なのか」

 1982年3月18日、全斗煥政権に衝撃を与えた釜山の米文化センター放火事件が起きる。白昼の午後3時、若い男女3人が文化センターの建物の中に入って引火物質をまき、火を放った。

 「米国が問題なのだ。絶えず、反米闘争を展開しよう」

 現場に散らばっていたビラの見出しである。火は1時間ほどで消えたが、大学生1人が死亡、3人が重軽傷を負った。在韓米大使館が憂慮していた通り、全斗煥にたいする反発と憎悪の火の粉は、その「庇護勢力」である米国(文化センター)へ飛び火した。

 ▽政府VSカトリック

 3月30日、高神大生の李美淑が捕まり、同大学の文富軾、金恩淑が公開手配された。文と金は江原道で、咸世雄神父に付き添われて自首した。そして放火事件を背後で操っていた、「5・18光州抗争」で指名手配中の金鉉奨という人物が原州(江原道)のカトリック聖堂で検挙された。これによって事件は、政府とカトリックの衝突という様相を帯びていった。

 80年5月末に光州を抜け出た金鉉奨は、原州の崔基植神父のもとを訪ねて行き、そこで2年ほど潜んでいて釜山の大学生たちと接触したのだった。

検察に呼ばれ、記者たちの質問に答える崔基植神父(右下〇印)=1982年4月1日

 鉄拳統治下にあったそのころ、カトリック教会は手配者が身を隠すにあたっての聖地だった。

 ▽手配者と記者

 80年の「ソウルの春」の後、逃亡した高麗大生の朴啓東(のちに国会議員)も大邱のカトリック系障害者収容施設「希望院」に潜んでいた。東亜日報記者の金忠植は81年5月、マザー・テレサが訪韓した際に訪れた「希望院」へ同行取材し、そこで、かねて知り合いの間柄だった朴啓東と鉢合わせをした。

 朴啓東は、外来客の目を避けるようにうつむいたまま、ほうきで庭を掃いていた。金記者はそれに気づき、2人は便所の中で息を殺しながら近況を話し合った。別れ際、朴は名刺を1枚ほしいといい、金記者はそれを渡して握手を交わし合った。その際、朴啓東は、時どきソウルへも行き来していると言っていたのだが、その後、何の連絡もなかった

 そんなとき、意外にも電話は治安本部の情報課長(朱炳徳総警[警視正クラス])からかかって来た。真相はこうだった――。

朴啓東は、日本に密航しようと全羅南道・高興の海岸に船を準備していたところを安企部に見つかった。朴自身は逮捕直前に逃げたが、密航船に残された荷物の風呂敷包みの中から記者たちの名刺が出てきた。金忠植記者は、安企部の指揮を受ける治安本部で一部始終を説明しなければならなかった(朴啓東は、のちに逮捕された)。[金忠植氏は本書の著者。朴啓東とは高麗大学の同窓で、金は1年後輩だった。当時、学生運動の拠点となった高麗大の政治外交学科で学んでいた朴は、有名な活動家だった。一方の金は哲学科の文学青年で、互いに顔見知りだった。マザー・テレサの取材で偶然知った朴の施設潜伏は特ダネだったが、金記者は記事にせず、朴を守ったのだった]

 ▽隠蔽された光州の放火事件

 実際のところ、1980年代の反米運動の序幕は、光州で切って落とされていた。

 釜山の米文化センター放火事件の1年余り前、光州の米文化センターが放火されていたのだが、ひた隠しにされていた。その事件というのはこうだ。

 1980年12月9日午後9時半ごろのことだった。カトリック農民会の林鍾洙らが闇に紛れて、瓦ぶき平屋の光州米文化センターの屋根に上がった。瓦を剥がして油を注ぎ、そこに火の付いた紙を投げ込んだのである。林らは、風のように姿を消した。

「5・18光州抗争の精神はまだ生きているのだ、ということを示してやりたかった。しかし、何をやるにも、まったく能力不足ということがあり、少人数でやれることを探さなければならなかった。結論として得たのは、5・18の黒幕である米国を糾弾しよう、ということだった。簡単にできて、人目を引く――そんな対象として、警備が手薄な米文化センターを狙うアイデアが採用された」(林鍾洙)

全斗煥政権はこれをなかったものとして隠し、そのまま時が流れ過ぎていた。

▽反米闘争

民主化を求める反体制の活動家たちは、本丸である第5共和国の鉄拳統治の壁が強固な「鉄の要塞」に変わると、窮余の策としてその外郭(米国)を攻め始めたのである。しかし当局もメディアも、まさかこれが「5・18」への憤りからくる「背信者・米国」を狙った放火事件だとは確信を持てずにいた。「漏電による火災」と報道された。さらに言えば、放火した林鍾洙が警察に引き立てられて現場検証に立ち会った際も、文化センターの職員たちでさえ、そこで何がおこなわれているのか、よく分からないでいた。それほど無関心だった。そうこうしているうちに林鍾洙が密かにまた、別の農民大会を開こうと企てていることが分かり、捕まった。そこで初めて、根っこに反米の闘争があることが分かったのである。

▽「聖堂は治外法権地域ではない」

そんな光州の放火とは違い、釜山の文化センター事件のほうは死傷者が出ていた。

1982年4月5日、カトリック原州教区の崔基植神父が逮捕された。

逮捕された崔基植神父=82年4月

80年5月に指名手配され、2年近く身を潜めながら放火事件を背後で操った金鉉奨を匿った犯人蔵匿・隠避の容疑だった。カトリックは「たとえ犯罪の容疑者であっても、聖堂に救いを求めて来たのなら、教会法に従って助けてやるべきだ。それが司祭の義務だ」と対抗した。

「天主教(カトリック)正義実現司祭団」が声明を出し、各教区からも崔神父の拘束に抗議する声明が相次いだ。全斗煥政権とカトリックの全面戦争の様相となったのである。

全大統領は激怒した。

「聖堂は決して、治外法権地域でも、聖域でもない」

 82年4月14日、青瓦台では全斗煥大統領主宰の非常対策会議が開かれた。秘書室長の李範錫、政務首席秘書官の許和平、司正首席秘書官の許三守、民情首席秘書官の李鶴捧、そして秘書官の朴哲彦が出席した、その席で全大統領はそう断言したのである。大統領のそんな指針に従い、安企部、文化公報部(宗教担当)とも話し合って青瓦台が総合対策を立てることになった(朴哲彦の証言)。

 ▽キリスト教界が声明

翌4月15日、韓国教会社会宣教協議会[社会運動に取り組むキリスト教(主にプロテスタント進歩派)関係の諸団体が結集した連合体。1976年結成。あとで出てくる都市産業宣教会(都産)は、その傘下にあって現場で労働運動を担った]に所属する牧師ら42人が声明を出した。そこでは「放火事件は反米感情の具体的な現れだ。米政府は駐韓大使と駐韓米軍司令官を本国に召還せよ」と求めていた。光州抗争をめぐる軍の弾圧についての米国の容認、駐韓米軍司令官ジョン・ウィッカムと駐韓米大使リチャード・ウォーカーによる韓国人蔑視発言、韓米間の不平等な関係――といったことが放火事件の背景にある、と指摘していた。

「韓国人は野ネズミのようなもので、だれが指導者になっても従うだろう。体質的に民主主義は合わない」(ウィッカム司令官)

「韓国民は民主主義を享受する資格がない。分別のない子どもたちが危険なナショナリズムごっこをしている」(ウォーカー大使)

このような屈辱的な言辞にたいする韓国社会の反発は強かった。

野党や3金(金大中、金泳三、金鍾泌)は政権によって捕縛され、死んだように静まり返っていても、キリスト教界は「教会法」と「良心法」を盾に政権に立ち向かっていった。1988年のオリンピック、86年のアジア競技大会という巨大な国策の課題を前に、ローマ教皇庁や国際世論に真っ向から立ち向かうのは賢明であろうはずがない。

このキリスト教界挙げての声明の背後には池学淳司教、朴炯圭牧師(共に韓国教会社会宣教協議会顧問)、金勝勲神父(同協議会会長)らがいた。

▽「政治的な宗教者は、革命家だ」

82年4月18日、全斗煥大統領はまた、対策会議を開いた。

この日は、安企部長の兪学聖、同次長の玄鴻柱、治安本部長の安応模、文化公報部次長の許文道らも会議に出た。全大統領は「左傾化した宗教勢力の跋扈は食い止めなければならない」と、こう説いた。

「(韓国教会社会宣教協議会傘下の)都市産業宣教会(都産)に関しては、ワシが保安司令官だった1979年8月、朴正煕大統領の指示を受けてその実態をつかみ、報告を上げたことがある。そのころ、検察のほうでも大統領の指示で都産について調べたが、理論武装がうまくいかず、正体を突き止めることができなかった。それで、朴大統領は情報部長の金載圭を厳しく叱責したのだ。しかしこんどこそ、都産の正体を解明できる、いいチャンスだ。問題の宗教者たちは政治的な宗教者であり、革命家たちなのだ。解放神学をうんぬんし、教会法を口にするなど、とんでもないことだ。国法で処断すべきだ」(朴哲彦の証言)

[当時の韓国では高度経済成長下、労働者、とくに若い女性たちが長時間労働、低賃金など過酷な環境に置かれていた。都産の若い牧師や活動家たちは工場地帯に入り込み、夜間学校を開いて労働法を教えるなどの活動をおこなった。1979年8月、女子工員たちが立ち上がって悲惨な結果(1人死去)を招いたソウルの「YH貿易事件」もそんな中で起きた。この事件は同年10月の金載圭による朴正煕暗殺事件につながったともいわれる。都産は、政権からは「共産主義の温床」とみられていた]

▽光州抗争焚き付けを警戒

全斗煥大統領の剣幕に出席者はみな、硬い表情で会議室を出た。

しかし、初めのうちこそ強硬な態度をとったものの、時間が経つにつれ、宗教者たちは全員、釈放するほかなかった。放火事件の根っこにあった光州抗争の問題に、再び火を焚きつけることになるからであった(『金大中自伝』)。

                      訳:波佐場 清

2026年9月23日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(60)

  ■特戦隊員50余人、漢拏山に散る

1982年、第5共和国(全斗煥政権)の新年は残酷な事故で明けた。

2月6日に予定されていた全斗煥大統領の新年の済州島巡視を前に、大きな事故が起きたのである。

▽悪天候で墜落

特戦司令部の将兵53人全員(うち空軍6人)が漢拏山で死亡した惨事だった。大統領警護のためと称して特戦司令部直属の第707部隊を動員したのだが、悪天候のなか、輸送機(C123)が漢拏山中腹に墜落して惨事を招いたのである。

この大惨事は、強力な報道統制によって「訓練中の事故」とだけ、簡単に報じられた。

しかし、訓練中の事故というのは嘘だった。

▽「12・12反乱」教訓に創設

 この部隊は、前任の鄭柄宙特戦司令官が「12・12反乱」の夜、部下の崔世昌旅団長に逮捕されたことを踏まえ、司令部防衛の弱点を補うために81年3月に創設された。朴正煕時代、一騎当千を叫んできた特戦部隊だったが、その司令官が部下の反乱によって無残に踏みにじられてしまっていた。護衛部隊がなく、司令官本人が手首を撃ち抜かれて気を失い、秘書室長の金五郎少佐は射殺されたのだった。

そのような最悪の事態に備えて第707部隊はつくられた。

 特戦司令官を守るための近衛部隊を、米国のデルタフォース(陸軍第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊)をモデルに創設したのである。しかし、いくら精鋭部隊であっても悪天候の前には、なす術がなかった。

 ▽お咎めなし

 飛行機は、飛ばすべきではなかったのである。

 空軍の戦術空輸飛行団は「気象の悪化で一般の航空機運航も中止されており、離陸は不可」と2度にわたって上申したが、それを無視して警護室長の張世東は強行を指示した。警護室には、北朝鮮にいったん拉致され、韓国に帰ってきた漁民たちから得た情報があったという。「北では、大統領の済州島内での宿泊先や済州空港の警備状況、道路事情について聞かれた」というのだった。それで、済州島の警護を強化し、対テロ部隊を動員したのだという。

 結果は、大惨事に終わった。貴重な将兵をあまりにも多く失った。

 しかし、張世東には大統領の厚い信任があり、お咎(とが)めなしだった。「旧軍部」の文洪球将軍の回顧録にはこんなシーンが描かれている。

 ――1970年代、全斗煥率いる空挺特戦団のデモンストレーション訓練が両水里(京畿道楊平郡)でおこなわれ、朴正煕大統領や米第8軍の将官らが参観した。そんな折、何度も訓練を重ねてきたはずのヘリコプターが二重三重に衝突したかと思うと、後続のヘリコプターが撃った銃弾が先行のヘリコプターに飛んでいくとか、爆薬の取り扱いを誤った兵士が即死する、といった事故が相次いだ。そのような場合、全斗煥は当然、臨席している大統領に報告し、訓練を中止すべきなのに、全斗煥はそのまま強行した。

 ▽「運命共同体」

漢拏山で起きた特戦司令部の惨事の真相は、事故から6年余が経った88年になってようやく分かった。遺族らの嘆願によっておこなわれた国政監査で全貌が明らかにされたのだった。全斗煥が張世東をどれほど庇(かば)っていたのかを示す、一つの事例である。

1985年2月、全斗煥(左端)は張世東(右端)を警護室長に任命した。その際、大統領の全が宣誓し、
張が任命状を読み上げるという「主客転倒」のパフォーマンスで、互いの信頼関係の強さを誇示した。

 張世東は1960年代、ベトナム戦争に二度、参戦した。

 そして1977年末までの間、全斗煥のもとで5つのポストにあって全を補佐した。

 全斗煥が首都警備司令部の第30大隊長をしていたときは作戦将校(大尉)として、陸軍参謀総長首席副官のときは人事参謀部の将校(同)、さらに白馬部隊[ベトナム戦争に派遣された韓国陸軍第9歩兵師団の通称]第29連隊長のときには情報主任(少佐)として、それぞれ全に仕えたのだった。全斗煥が張世東に送った手紙には「世東よ、ワシらが黄金バットの時代からひたすら追い求めて続けてきたのは、ただ、愛国愛族の名誉と義理ではなかったのか――」と書いているものがある。敵陣に奇襲浸透する白馬第29連隊の別称が「コウモリ部隊」であり、その作戦名は「コウモリ25、26、27号」だった。「黄金バット(コウモリ)」とは、そこに由来していた。

 張世東はさらに、全斗煥が金浦の第1空挺特戦旅団長のときの大隊長(中佐)だったし、警護室次長補の時代には、その下で作戦補佐官および首都警備司令部第30警備団長だった。

 こうして、「世東」と全斗煥は「運命共同体」になる。

 張世東大佐は、新軍部による「12・12クーデター」とき、そのアジトとして第30警備団(景福宮の敷地内)を提供し、「赫々たる有功者」として将官に昇進して第3空挺旅団長(准将)になった。そうして81年7月、大統領警護室長となり(前任者は鄭東鎬で、鄭は事実上、崔圭夏大統領を見張る「監視室長」の役目を果たした)、またまた全斗煥に仕えることになったのだった。

 1985年、張世東は遂に安企部長のポストに登りつめ、2年余にわたって東奔西走することになる。針の行くところ、糸がついて行くかのように、互いが互いの運命となり、そして一緒に没落していったのだった。

                    訳:波佐場 清

 

2026年9月20日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(59)

  第8章 「2許」沈み、張世東・盧信永が浮上

 ■「5・18光州」1周年

 光州抗争1周年のころ、「国風81」なるフェスティバルがソウルの汝矣島を埋め尽くした。

「国風81」で繰り出した伝統の「チャジョンノリ(차전놀이)」
=1981年5月、汝矣島広場
 新軍部の許文道が先頭に立ち、御用メディアや広報手段、さらには文化・芸術界の関係者を総動員してつくり上げたこの出し物には1千万人もが詰めかけた。

 当時、民正党の事務総長(幹事長)だった権正達の回顧――。

 「あの時、許文道は『国風』なるものをつくって政権の宣伝に熱を上げ、KBS(韓国放送公社)、MBC(文化放送)という2大放送局の社長(李元洪、李振羲)の忠誠競争に火をつけた。両放送局の競争が過熱するなか、イベントは一定の成果を収めたものの、一方で(予算の無駄遣いだという)悪評も買った」(2013年11月18日付『日曜ソウル』紙インタビュー)

 ▽「国風81」

 「国風」は、1981年5月28日から5日間、汝矣島広場で開かれた。韓国新聞協会が主催し、KBSが主管した大がかりな芸術祭であり、全斗煥政権による官製のイベントだった。

 光州抗争1周年が近づくにつれて反政府的な追慕集会やデモの機運が高まるのに先手を打っておく必要があった。国民の目を他に逸らさせるには、それなりのイベントが必要だった。許文道が日本滞在中に見た「まつり」にヒントを得たのだった。

 1970年代後半から大学街ではマダン劇や仮面劇、プンムル(農楽)が流行し、そこで打ち鳴らされるケンガリ(小鉦)やチン(銅鑼)といった楽器は、たいがいの場合、反政府の「抵抗の道具」とみなされていた。80年代初頭になると、それらは、全斗煥の軍事独裁に抗う民族主義や社会主義的な知的風潮ともあいまって、「民族民衆の芸術」を掲げた「反権力運動の文化」として定着していく。

 ▽詩人の金芝河らを懐柔

 許文道は、そんな風潮を象徴する人物だった金芝河[「五賊」などの作品で知られる抵抗詩人]や金敏基[抵抗歌「朝露」の作者]、林珍澤[「マダン劇の父」といわれるパンソリ歌手]らを全員「国風81」に参加させて威勢を示そうとした。林珍澤を青瓦台に直接呼んで懐柔したりもした。また、原州(江原道)に住んでいた金芝河に会うために1980年の暮れごろから、酒瓶を手にわざわざ、そこにまで足を運んだりもした。

 そのころ、許文道は筆者らと夕食を共にし、一杯入った席で、こんなことを言ったりもしていた。

 「原州に行って金芝河と会い、ソウルに帰って来る途中、高速道路沿い一帯に大雪が降っていたことがあった。限りなく降り積もる雪で白一色に覆われた世界――。ああ、あの雪原の中で横になっていたい、と思ったもんだよ」

 許文道は独り、自己陶酔に陥り、じっと目をつむりながら、そう言った。そんなかれのことをロマンチストだという者もいた。

 ▽「5共のラッパ吹き」

 許文道と共に第5共和国の「ラッパ吹き」を自任していたのが、それぞれKBS、MBCの社長になった李元洪と李振羲だった。

 権正達の回顧――。

 「(MBC社長となった)李振羲は、釜山の高校(東莱高校)を出ていて(同郷の)許三守と親しく、1980年初め、ソウル新聞の主筆として第5共和国の正当性についてコラムを書いたりしていた。それを読んだ新軍部の内部で、かれをMBC・京郷新聞グループの社長にしようということが話し合われた。そこで、わたしの事務所にかれを呼んで会った後、全斗煥・保安司令官に会わせてやったんだ。李振羲は小柄で、顔色も浅黒く、最初の印象はこれといって良いものではなかった。それで、果たして困難な仕事をやり遂げられるのだろうか、と心配もした。しかし、よく見るに、自己主張がはっきりしていて所信を持っているようだったし、声もよく通り、仕事をしっかりとやってくれそうに思えた。それで、全司令官に『ポストさえ与えれば、ちゃんとやってのけるだけの人物』と紹介し、直接会ってみるよう進言した。全司令官は李振羲と会った後、『いい』と言い、MBC・京郷新聞の社長に任命した」

 ▽「新時代の新指導者」

 80年7月、李振羲は、更迭された李桓儀社長の後を継いだ。

 翌8月になって全斗煥が大統領に就任することがはっきりしてくると、李振羲はメディアの社長として、やる気に燃え、いきなり保安司令部に全斗煥司令官を訪ねていって直接インタビューしたいと申し出た。

新しい時代、新しい波、新しい歴史――これが李振羲のキャッチフレーズだった。

「全斗煥司令官が出勤するのを待ち構えていたので、保安司令部に入って行きながらインタビューに応じるというかたちになった。その時はまだ、全司令官にとって新聞や放送は初めてということもあり、ちょっと野暮ったく、横に問答集のようなものを用意するなど、ぎこちなく見えた。しかし、それが京郷新聞の1面全面とMBCで大々的に報道され、『新しい時代における新しい指導者の登場』を国民に宣伝するうえで効果が大きかったと記憶している。これには、裏で許文道秘書室長が関わっていたと聞いている」(権正達の回顧)

▽忠誠競争

(KBS社長となった)李元洪の場合も、忠誠心においては似たりよったりだった。

韓国日報記者の出身で、1974年から駐日広報館長兼文化院長として東京に赴任していた。帰国後、朴正煕大統領の暗殺をへて崔圭夏大統領のときに青瓦台で民情首席秘書官として勤務した。それ以来、保安司令部の権正達処長との縁ができ、とくに国保委(国家保衛非常対策委員会)を立ち上げるさいには、大統領令発布の手続きに関する問題で、法律秘書官の金有厚も交え、3人でしょっちゅう会っていた。権正達の証言――。

「李元洪がKBSの社長になったのは、わたしが冗談半分でかれに『青瓦台にいるよりも野戦軍の司令官(KBS社長)を一度やってみるのはどうか』と持ちかけたのがきっかけだった。かれは、目を輝かせ、乗り気なようだったので、翌日、全斗煥司令官との面談の場を設けてやったんだ。李元洪も、KBS社長(1980年7月、崔世卿の後任として就任した)になると、意欲的に仕事に取り組んだ。必然の成り行きとして、MBCの李振羲社長との間で激しい忠誠競争となり、2人の間は悪くなっていった」

▽「テン・チョン・ニュース」

権正達の証言は続く。

「李元洪社長は放送局の生ぬるい空気に緊張感を吹き込む一方で、大統領の広報を強化していった。夜9時のニュースは必ず全斗煥に関するもので飾り、『テン・チョン(땡전)ニュース』という言葉も生まれた[全斗煥大統領の動向が必ずトップニュースで扱われ、「テン(チン)」という9時の時報とともに、「全(チョン)斗煥大統領は…」というアナウンサーの発声でニュースが始まったことから、こう皮肉られた]。

李振羲と李元洪は、ともに文化公報部長官を務め、許文道も同次官を歴任した。この3人は、正当性も人気もまったくない第5共和国のトップランナーにしゃしゃり出た挙句に結局のところ、浴びるほどの罵声を受ける、という憐れな「ラッパ吹き」たちだったのである。

                       訳:波佐場 清

2026年9月8日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(58)

  ■ミス・コリアやスチュワーデスまで動員

 安企部長の兪学聖が乗り出すという話は、オリンピック誘致民間推進委員長を任された現代グループ会長の鄭周永にとって慰めとなった。鄭周永はまず、兪安企部長に、実業家の動員に責任を負ってもらいたい、と頼んだ。

鄭周永会長 現代自動車HP

 実業家らも、安企部といえば、恐れるはずである。

 ▽企業の現地駐在員を動員

 鄭周永はまず、第一段階として、韓国企業と取引のある国にいる現地駐在員の支援を受けて、その国のIOC委員にアプローチすることにした。それが短期戦では最善の策のように思えた。兪学聖率いる安企部が腕まくりをして取り組むと、それまで高みの見物を決め込んでいた実業家らも、「どうせやるなら」と本気で動き始めた。

 決戦の舞台はドイツ・バーデンバーデン、1981年9月30日がその決戦の日だ。

 IOC委員82票のうち、当初、韓国が確信を持てたのは3票――米国、台湾、そして韓国……。それだけだった。

 外務部は盧信永長官と全祥振大使[この時期、韓国の外務部特使や巡回大使として活躍した。大韓体育会副会長や大韓オリンピック委員会副会長も兼ねていた]を先頭に、在外公館を督励して票の獲得に乗り出した。途中、外務部が中間集計してみると、韓国の推定得票は支持24票、前向き15票。目標の半分を達成しており、「可能性は十分ある」と士気は上がった。

 ▽「色仕掛け」作戦も

 決戦までの3~4カ月、その間に広報館を建て、広報映画をつくり、実業家らを督励して大急ぎで得票活動をおこなった。ミス・コリアや大韓航空の女性客室乗務員までをPRのための「色仕掛け」作戦に動員した。投票日が迫ってからは、五輪関係者が宿泊するホテルの部屋という部屋に花籠を差し入れ、バーデンバーデンの街中の花屋がすっかり品切れになるほどだった。

 安企部要員たちは、現地で妨害工作に出た北朝鮮の工作員らを監視する一方で、韓国の実業家らが自分に割り当てられた役目を十分に果たしているかをチェック、監督する役割も担った。そうする間、鄭周永をはじめとする韓国の誘致団は、先進国のIOC委員よりも、中東やアフリカの委員を集中的に攻略した。その戦略が見事に的中した。

 ▽逆転、「52対27」

 決戦の日の午後3時45分――。

 IOCのサマランチ会長が投票結果を発表した。

 「Seoul(ソウル)!」

 強敵・名古屋を破ったのである。3票から始めた得票工作は、52対27という、劇的な逆転勝ちで終わった。

 鄭周永の功も大きかったが、全斗煥にとっては外務部長官の盧信永を見直すきっかけとなった。

 ▽外相・盧信永の浮上

 中央庁の大会議室でオリンピック誘致の祝賀宴が開かれた日、総務処長官の金容烋はマイクを手に「大統領閣下より、祝賀の宴は盧信永外務部長官が帰国したあとで開くようにとの格別の指示がありました」と公表した。盧信永が後日、安企部長や国務総理へと破竹の勢いで昇進していくシグナルだったというわけである。

 ソウル五輪は冗談のように始まり、運命のようになっていった。

ソウル五輪組織委の看板上掲式。
中央で握手している
2人は南悳祐総理(右)と金溶植ソウル五輪組織委員長。
右端は盧泰愚政務長官

 最初は恥かきを押し付け合う「爆弾ゲーム」のように始まった五輪誘致だったが、1981年9月30日に誘致が確定すると、やがて政権と国家の運命がかかったイベントへと変わっていった。

 ▽歴史を変えた五輪

 オリンピックの成功が第5共和国国政の最優先課題に浮上し、86年のアジア競技大会の誘致にもつながった。この両イベントのために、全斗煥政権はラングーンのアウンサン廟爆弾テロ(1983年)に遭っても耐え忍ぶなど、それは対北朝鮮関係においても重大な変数となっていった。グローバルなスポーツ祭典を成功裏に開催するためには国内政治の安定と朝鮮半島の緊張緩和、そして国際協力が必要だった。

 オリンピックは第5共和国の暴走を抑え、その運命を握る軛(くびき)となっていく。

 いくらデモや抵抗が激しくても、国内において軍隊式に鉄拳を徹底的に振り回すようなことはできず、外部にあっても中国をはじめソ連や東欧の共産圏にまで目配りをするほかなかった。オリンピックは国の歴史を変えたのである。

 ▽放送プロデューサーの不正腐敗

 1982年初め、兪学聖の安企部は再び、「万能の司令部」として君臨し始めた。

 安企部は、放送局のプロデューサーの不正腐敗に関する情報を収集・整理して大統領に報告した。「プロデューサーたちが女性タレントらに金銭や肉体関係を要求しており、被害者は400人にものぼる」という諜報に、全斗煥大統領は朴哲彦秘書官を呼び、検察に捜査させるよう指示した。

 「具体的な情報は安企部の金根洙局長が持っている。李光杓・文化公報部長官からも資料が入手できる。そうした放送局関係の資料を入手して検察総長に渡すんだ」(朴哲彦の証言)

 82年1月22日、鄭致根・検事総長は朴哲彦秘書官から大統領の厳命の伝達を受けた。検察は内偵に乗り出し、韓国放送公社(KBS)25人、文化放送(MBC)20人、キリスト教放送(CBS)1人の計46人の不正を確認した、との報告を上げた。全斗煥大統領は報告を受けたものの、公表せず、各放送局が社長の責任のもとに自らの判断で懲戒するように、との指針を下した。

                         訳:波佐場 清

 

2026年9月5日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(57)

  ■政権と国家目標を変えた五輪

ソウルへのオリンピック誘致が企画されたのは朴正煕政権末期だった。

記憶もおぼろげな話になるが、1979年9月、時の「維新政府」は、第24回夏季オリンピック(1988年)をソウルに誘致したいと発表していた。

しかしすぐそのあと、10月26日に朴大統領が暗殺され、新軍部が2度にわたる流血のクーデターで政権をとるという疾風怒濤のなか、オリンピックは一場の春夢のように忘れ去られていった。

▽甦った春夢

そんなオリンピックが甦ったのは、1981年2月のことだった。

韓国政府が国際オリンピック委員会(IOC)に正式に誘致を申請したのである。81年3月には国際調査団も韓国に来ていった。とはいえ、オリンピックは実際のところ、鶏のあばら骨のようなものだった。他人にやってしまうには惜しいが、かといって、別に食べるところもない、あまり気の進まない代物(しろもの)だった。

▽総理が猛反対

まず、国務総理の南悳祐が猛反対した。

五輪誘致に猛反対した南悳祐総理(左端)

几帳面な経済学者である南総理は、毎年1千億ウォン、(開催までの8年間で)総額8千億ウォンもかかるオリンピックなどやろうものなら、国が滅んでしまうと主張した。それでなくとも、インフレに政治不安も加わり、経済状態は最悪だった。実際のところ、これまでのオリンピックの歴史を振り返ってみても、成功をおさめたケースは1964年の東京五輪、1972年の札幌冬季五輪、そして1988年のソウル五輪の3回だけだというのが定説だ。カナダ・モントリオール五輪では10億ドルの赤字を出すなど、ほとんどの誘致国はオリンピック後、深刻な後遺症で苦しんでいるのである。

南総理の判断は、各閣僚の指針となった。

▽強敵・名古屋

経済も経済だが、日本の名古屋がずいぶんと前から並々ならぬ意気込みで準備を進めてきているというのに、どうやって票決で勝てるのか、というのである。韓国のIOC委員である金澤寿(元国会議員)も戦意を喪失しており、お手上げの状態だった。とくに展望があるわけでもなく、万一、奇跡的に誘致に成功したとしても、それに伴う経済破綻にだれが責任を負うというのか。

▽「名誉ある撤退」論

それでも、大統領の全斗煥が意欲的に指示した事項だということで、対策会議が開かれた。

1981年4月16日に開かれた第1回会議――。

国務総理の南悳祐、安企部長の兪学聖、外務部長官の盧信永のほか、経済企画院、文教部[日本の文科省に相当]、文化公報部の長官らが出席した。しかし、オリンピックを誘致することが果たして正しいのかどうかを巡り、南総理を中心に反対論が優勢で、大統領の再決断を仰ごうということで意見がまとまった。続く4月28日の2回目の会議では「静かで、名分の立つ後退のために、日本のほうから韓国に譲歩を求めてくるよう、日本と水面下の交渉をしよう」とする敗北主義的な意見まで出た。

南悳祐は、真剣に反対論を述べた。

「大統領閣下も毎年1千億ウォンの資金がかかるという報告に、それなら諦めざるを得ないというお考えだ。そうだとすると、諦めることを原則に、身を引く名分をどう立てるかを考えないといけない」

▽外相が賛成論 

しかし全斗煥は、行きつ戻りつ、諦めてしまうにはあまりにも惜しいという様子だった。そんななか、意外にも外務部長官の盧信永が賛成の側に立った。

盧信永は、こう主張した。

「第一に、韓国の知名度を高めるうえでいい機会になる。世界には、いまだにコリアを知らない国も多い。2週間のオリンピック大会を通して中進国に発展した韓国の姿を世界の人びとに見せる絶好のチャンスになる。第二に、オリンピックを通してコリアの経済発展と国力の伸長ぶりを世界に示せば、国交のない非同盟国との関係改善が期待でき、国民の一体感も高めることができる。第三に、1988年のオリンピックを逃せば、20世紀のうちに2度と、このような機会は巡って来ない」

金澤寿が盧信永に「票決に自信はあるのか」と確認した。

盧信永は「勝つという大それたことは言えないが、われわれはこの間、国際舞台における北朝鮮との競争で、何度も票決を戦い抜いた経験を積んできている」と後に引かなかった。

5月16日の3回目の会議では「いったん行けるところまで、行ってみよう」ということになった。これといった名分もなく撤退するのは国家の威信に傷がつき、国民の士気にもかかわる、という結論だった。決戦まで残り4カ月という土壇場になってようやく「やってみよう」ということで話がまとまったのである。

▽鄭周永氏の登場

それから何日かたった5月下旬のある日、文教部の体育局長が全経連[全国経済人連合会。日本の経団連に近い]の鄭周永会長[1915~2001。財閥現代グループの創業者で、当時同グループ会長]のオフィスに姿を現した。「オリンピック誘致民間推進委員長」という任命書を手にしていた。

「名古屋との競争で、どうせ恥をかくことになるだろうが、政府の恥を民間で代って引き受けてもらえないでしょうか」と、その間の事情についても説明した。鄭周永会長には前もって一言の耳打ちもしておらず、関係長官(閣僚)会議において鄭会長が誘致の責任者に決まったのだと一方的に通報したのだった。

鄭周永はあまりいい気がしなかった。

しかし、新軍部政権の威勢に逆らうこともできず、最初の会議を招集した。

▽「確保は1票だけ」

組織図の上では、委員長の下に政府の各部長官(閣僚)が並んでいたが、現れたのは文教部長官の李奎浩ひとりだけで、ソウル市長の朴英秀も、IOC委員の金澤寿も、顔さえ見せなかった(二人は9月下旬、決戦の票決がおこなわれたIOCバーデンバーデン総会の開幕式にさえも現れなかった)。

鄭周永が文教部長官に不快な表情をみせて確認すると、「オリンピック誘致は全斗煥大統領の指示事項であり、兪学聖・安企部長にたいしても特別な指示が下りています。積極的にバックアップすることになっております」と答えるのだった。

盧泰愚(当時、政務長官)は、当時の冷めた雰囲気について、こう書き残している。

「金澤寿は、『41票が必要なところへ、われわれが獲得できるのは、私の1票だけしかない』と難色を示していた。朴英秀市長は『大統領に累が及ばないようにするなら、何か名分を見つけて撤退する方法を考えるのがいい』と言っていた。ところが、兪学聖安企部長と盧信永外務部長官だけは、『努力もしてみないまま、白旗を上げるのはよくない。努力だけでもしてみよう』と反論していた」(『盧泰愚回顧録』)

                       訳:波佐場 清

 

 

2026年9月2日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(56)

 ■贈賄騒動で、「一掃」の妄想再発

1981年9月4日、野党の林在正議員(民主韓国党)が「高級敷物事件」を暴露した。

そうでなくても全斗煥をはじめ許和平ら新軍部の中心メンバーらは「非生産的な国会」にいら立ちを募らせていた。年初に、総選挙に向けて政党を軍隊の中隊のように再編。それによって、反骨心ある闘士型の政治家567人をふるい落とし、政治の土俵を新たにつくり直したというのに、国会は軍隊の基本教練のようにテキパキとは動かなかった。

▽与党役員らを入れ替え

この「敷物事件」が、実力派将官たちの鬱屈した気持ちに油を注ぐところとなった。

学校教員の全国組織である大韓教連(現・韓国教員団体総連合会の前身)が、教育公務員法の審議を前に、国会文化公報委員会の委員9人に高級敷物(1人当たり13万8千ウォン相当)を配っていた問題について、林在正議員は「賄賂だ」と追及したのである。

大検察庁[日本の最高検察庁に相当]が捜査に乗り出し、国会文公委員長は、李興洙から韓柄寀に代った。「クリーンな政治、正義社会の実現」というスローガンを掲げる与党の民正党は、政策委議長[日本の自民党でいうと、政調会長に相当]や政策室長ら主要党役員5人を交代させた。

この後に起きた「手形詐欺事件」や、第5共和国(全斗煥政権)の不正腐敗をめぐる騒動のことを思えば、(事件の規模の割には)ずいぶんと大騒ぎをしたものである。

▽「解散―国民投票で、国会を再構成」

定期国会が開会した9月21日、許和平補佐官は、朴哲彦秘書官のところへ行った。

許和平。「5共の企画者」を自任した

「こんどの定期国会を見守り、いざとなったら来年、国会を解散して国民に信任を問う国民投票をおこない、国会を根本から構成し直す案も検討しているところです」

総選挙からまだ半年しか経っていないというのに、また、80年の「5・17クーデター」でおこなった反対勢力一掃のようなことを企んでいるという話だった。

許和平は、その2日後にまた、こんなことも言った。

「国会を見ていると、改革の意志や統治理念がいい加減になってきているのではないか。国会議員一人ひとりの政治傾向の分析も必要です。今年の定期国会は、傍から見ているだけにして、わざと好きなようにさせておく。そうして、果たして自律的に運営できるかどうかを見守り、それでもって国会解散の名分とすべきです。国民の意志に基づいた、強力な統治基盤をつくり上げるうえで、フランスのドゴール大統領がおこなった国民投票の例を研究してみる必要があります」(朴哲彦の証言)

そんな許和平に感化されたかのように、全斗煥大統領もいっしょになって国会に対する不信を募らせていった。

▽再号令

9月26日、全斗煥大統領は、朴哲彦秘書官を呼び、改革立法の趣旨とその広報の必要性を強調した。

「民正党の幹部ですら、改革の趣旨が十分に分かっていない」

全斗煥の督促によって、即、非常がかかった。

改革の意志と統治の理念を改めて確立せよ――。

すぐにソウルのプラザホテル1770号室で対策会議が開かれた。青瓦台から崔昌潤(政務第一秘書官)と朴哲彦、民正党から事務総長[日本の自民党でいうと、幹事長に相当]の権正達、事務次長[副幹事長に相当]の尹碩淳、院内総務[国会対策委員長に相当]の李鍾賛、政策委議長[政調会長に相当]の羅碩昊、政策調整室長[政調副会長に相当]の朴鉉兌が出席した。

▽オリンピック誘致で転換

ところが、この2度目の「全面一掃」の企みは、あっけなく霧散した。

9月30日、ドイツ・バーデンバーデンで、ソウルへのオリンピック誘致に成功したことがその分水嶺となったのである。

スタート時点では、なんともみすぼらしかった五輪誘致活動だったが、結局のところ、「過去のあなたは小さなものであったが、未来のあなたは非常に大きくなるであろう」(旧約聖書「ヨブ記」からの引用)ということなのだろうか。いざ、五輪誘致が確定すると、このスポーツイベントは国政の最優先課題に浮上し、第5共和国の国政運営の基本方針を根本から変えていってしまったのである。

                      訳:波佐場 清

 

2026年8月30日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(55)

  ■朴世直、「次はオレだ」で失脚

全斗煥は権力の頂点から世の中を見下ろして号令をかける快感を覚え始めた。そんな全斗煥の逆鱗に触れてカッとさせ、流れ弾に当たってしまったのが首都警備司令官の朴世直だった。

▽予備役編入

1981年8月6日、朴世直少将の予備役編入が発表された。

朴世直はソウル五輪組織委員長としても活躍した

――軍の捜査機関(保安司令部)は、在米実業家の李圭煥(陸士12期、大佐で予備役編入)について、個人事業のために朴世直・首都警備司令官を通して高官らに請託行為をおこなった容疑で去る7月31日、捜査に着手し、8月5日に捜査を終えた。朴世直将軍は「請託排除運動」で率先垂範すべき立場にありながらも、越権と本分逸脱によって軍の威信を失墜させたことにより、ここに補職を解任し、予備役編入の措置を取る(朴鍾植・国防部スポークスマン)。

「ハナ会」会長である全斗煥大統領の直系、陸士12期の先頭ランナーだった朴世直が「越権・本分逸脱」という理由で突然、失脚したのである。

▽「不忠事件」の類推

1973年の「尹必鏞不忠事件」のことを思い起こさせた[この事件は、当時首都警備司令官だった尹必鏞が中央情報部長の李厚洛に向かって「朴正煕大統領閣下もお年を召されたのだから、兄貴(李厚洛のこと。朴正煕に次ぐナンバー2とみられていた)が後継者になられたら…」などと言っていたことが分かって朴正煕の逆鱗に触れ、失脚した事件。尹必鏞が背後で支援していた全斗煥らのハナ会にまで捜査の手が伸びた]。新たに起きた朴世直事件では、捜査を担当したのは朴世直と陸士同期で、格別に親しい間柄にあった朴俊炳・保安司令官だった。これは、なにか特別な理由があってのことだったのだろうか――。

これといったウラ事情のようなものがあったというわけではなかった。

朴俊炳は保安司令官になってから、まだ1週間しか経っていなかった。そんなところへ大統領の指示が下りてきたものだから、ともかく急いで真相をつかみ、大統領にそのままを報告しただけだった。朴世直が陸士同期の実業家のためにソウル市長らに圧力をかけた、ということだったのだが、実際に金品を受け取っていたわけでもなく、請託の内容もたいしたことではなかった。

しかし、青瓦台としては「ハナ会出身といえども、調子に乗ってしゃしゃり出、小生意気な態度をとる者は許さない」という見せしめをしたかったのだ、という説が流れた。全斗煥が自ら「お膳立てをした者が別にいるというのに、いったい、どこのどいつが勝手に箸を付けようとしているんだ」と言って怒った、という話も漏れ伝わってきた。

▽軽率な舌禍

この事件の捜査結果を大統領に報告した後、保安司令官の朴俊炳は、大いに困り果てることとなった。青瓦台が急遽、「来い」というものだから息せき切って駆けつけると、すでに国防長官の周永福と陸軍参謀総長の李熺性が全斗煥大統領の前に座っていた。朴世直を予備役に編入させる――という通報だった。朴俊炳は大統領に善処を乞い、「副軍団長ぐらいに出すのはいかがなものでしょうか」と懇願したが、周永福がかれの服の裾をつかんで引っ張った。予備役編入はもう、決裁が済んだことなのだからやめておけ、という合図だった。朴俊炳はそれでもなお、朴世直の首都警備司令官退役式だけはやってほしい、と進言し、その式に直接、挨拶文も準備して出席するという友情を示したのだった。

朴俊炳は後日、インタビューに答え、朴世直退役の真相についてこう語った。

「実のところ、当時、朴世直将軍が各界の人たちと活発に接触しながら『次期大統領は自分だ』と言わんばかりの言動をしていたことが問題になったのだ。あとで知ったのだが、全斗煥大統領は首都警備司令部の作戦参謀、金振永大佐らを呼んで朴世直将軍の日ごろの言動について直接確認したうえで、そのような措置を取ったのだ」(『月刊朝鮮』2013年3月号)

朴世直は、1973年の尹必鏞と同じように軽率な舌禍で飛ばされたのである。

▽復権

ところが、それからわずか6カ月余で、大統領の怒りはおさまった。

全斗煥は1982年3月、朴世直を韓国電力の副社長に据え、続いて安企部の第2次長に起用した。その後、朴世直は総務処長官、体育部長官、オリンピック組織委員長と次々に要職を歴任し、名誉を回復していった。動力資源部長官だった李宣基によると、全大統領は李に韓国電力に朴世直のポストを見つくろうよう指示した際、「実際のところ、あいつ(朴世直)は参謀総長の器なんだが、途中で不幸なことになった。分かってみると、別にどうということでもなかったんだが…」と言っていたという(中央日報1993年2月12日付)。第5共和国における全斗煥人事の一つのパターンではあった。

▽勉強家

もともと朴世直は、軍人にしては顔が広く、人付き合いを楽しむタイプだった。

筆者は1986年、総務処長官時代のかれが長官室で、その忙しい最中にあってもフランス語の録音テープを聞いて会話の勉強をしているのを目にしたことがある。

夭折した詩人の奇亨度から一時期、週1回、定期的に文章の書き方について教わったりもしていた。総務処の長官室はソウル世宗路の政府総合庁舎9階にあったのだが、当時、奇亨度は中央日報の政治部記者として総合庁舎内にある総理室と総務処を担当していた。奇亨度の、その飛び抜けた文才について報告を受けた朴世直は、奇に直接頼み込んだのだった。

▽大望

朴世直は軍人には珍しく社交的で、実業家や大学教授、キャリア官僚、外国の大使ら、軍隊外にも交友関係を広めていた。ハナ会の中心メンバーであり、全斗煥政権の実力者として首都警備司令官に座っていたかれには「カッコいい、粋な人物」として慕うファンも多かった。

また当時、一部の政治記者たちは、そうした朴世直の行動や身のこなしから、まだ消えてはいない、かれの野望を認めたりもしていた。ある時期、大統領の座を狙う胸中をうっかり吐露して痛い目に遭ったが、いぜん、その夢を捨てきれず、軍人から文民に転身すべく必死に勉強していたというわけではあった

                       訳:波佐場 清