2026年8月13日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(49)

  「嘆願書を書いたら、助けてやる」

獄中の金大中は、全斗煥政権と米国との間でこのような緊迫した綱引きがおこなわれているとは知る由もなく、ただ、悲しく取り乱して泣いた。

レーガンが当選したことで、もう死ぬしかないのか――。

その米大統領選の結果についてすら、だれも教えてくれず、やきもきしたかれが清掃員に聞いてやっと分かるという始末だった。カトリック信者の金大中は、昼夜を問わず天主(神)に助けてほしいと祈り、すがった。(『金大中自伝』)

▽「嘆願書を書いてほしい」

祈りのおかげだったのだろうか。

新しい年が明けて1981118日、安企部(中央情報部は811月、国家安全企画部と改称された)の幹部が金大中の前に現れた。いきなり、大統領に減刑を嘆願する文書を書いてくれというのだった。新軍部は、レーガン・全斗煥会談を通して全斗煥政権の国際的な承認を得ようと金大中減刑の手続きを急いでいた。

金大中が「嘆願書は書けない」と拒むと、重ねて要求した。

金大中が書いた嘆願書(部分)

「あなたはいま、死刑囚なのです。死刑を免れるには、国務会議の議決が必要です。『これまでのことに責任を感じており、これからは政治活動をしない』と書くだけでいいのです。すべては形式上の手続きに過ぎません。政府内にも減刑に反対する勢力が厳然と存在するので、これが必要なのです。この嘆願の事実が公にされることは絶対にありません」

▽罠

安企部長の兪学聖が直接乗り出し、自らカトリック信者だといい、外部に公表しないことを神の前に誓う、とまで言った(『李姫鎬自伝』)。

金大中は嘆願書を書いてやった。

ところが、よく考えてみると、新軍部の罠にはまり、命乞いをしているように思えた。嘆願書を返してほしい、と頼んだ。すると、兪学聖は「そのように処理したい」と言っていたのだが、何日かして約束を破り、メディアに公表してしまった。謀られたと思ったが、もう、どうしようもなかった。

▽死刑確定、即日無期に減刑

1981123日、大法院で上告が棄却となり、死刑が確定した。

しかし、同じ日の午後、無期懲役に減刑となった。

水面下では、米国と全斗煥の間で、首脳会談をめぐり、息詰まるような裏取引がおこなわれていた。レーガン当選に机を叩いて歓呼する「スリー許」に驚いた駐韓米大使のグライスティーンが米国に発った8011月から数えると、ほぼ50日間にわたる緊迫したドラマだった。

金大中は劇的に、九死に一生を得たのだった。

                        訳:波佐場 清

 

2026年8月10日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(48)

  「特戦司令官より私の方が強い」

金大中救命の問題で困り果てた米国のリチャード・アレン(レーガン政権引き継ぎチームの国家安全保障担当補佐官)は、頭を使った。

▽新聞記者と連携

米国大手の新聞記者に、記者懇談の場で金大中の死刑について質問しもらうようにしたのである。打ち合わせ通りにその質問が出ると、アレンは「もし、金大中を殺すようなことがあれば、韓国にとって極めて重大な結果をもたらすことになるだろう」と、用意していた通りに答えた。匿名の警告だったのだが、それがアレンの発言であることは、ワシントンの韓国大使館には分からないはずはない。

リチャード・アレン米補佐官

ソウルから、アレンに会うための特使がワシントンに飛び立った。

韓国軍合同参謀本部議長の柳炳賢(のちに全斗煥政権で駐米大使)だった。

▽「処刑は道徳的破滅」

 198011月下旬、アレンが米陸軍参謀次長から朝食の招待を受けて行ってみると、そこに柳炳賢大将が来ていた。柳炳賢は自ら、全斗煥大統領から派遣されてきた特使であると名乗り、金大中の問題について政権引き継ぎチームとアレンの考えを聞きたいという。

アレンは、冷たく言い返した。一つの戦略だった。

「あなたが全斗煥大統領の特使だということをどうやって証明するのか。いったんソウルに戻り、2週間以内に全斗煥の特使であることを証明する確実な何かを持ってくるか、さもなければ、ほかの人にでも特使だということを証明するものを持ってこさせなさい」

そう言いながらアレンは、金大中の処刑は「道徳的破滅」である、と指摘した。柳炳賢もうなずいた。アレンは「金大中を殺せば、レーガン政権と全斗煥政権の関係は困難な局面に陥ることになる」と警告した(グライスティーンの回顧)。

柳炳賢と別れたアレンは、レーガン次期大統領に金大中問題について報告した。

 カリフォルニアで静養中のレーガンに一部始終を説明し、どう対応すべきかを聞いた。レーガンは、アレンに処理権限を全面的に一任した。俳優出身のレーガンは、仕事の処理は専門家に大らかに任せるスタイルだった。

 ▽「国外追放も…」

柳炳賢は、大統領の全斗煥に訪米結果を報告した。

全斗煥は盧泰愚を呼び、米国がどんなことがあっても命を救えという金大中の(減刑)問題について話し合った。

米国に譲歩するのはやむを得ないとしても、金大中という名前が出るだけでムキになる新軍部内の共通認識も問題だった。こんなときには盧泰愚がうってつけだった。

保安司令官の盧泰愚は8012月ごろ、秘書室長の安秉浩と情報処長の韓鏞源を呼んでこう言った。

「閣下(全斗煥大統領)は、金大中は軍法会議で死刑判決を受けたものの、(無期懲役に減刑するか、あるいは)国外追放という形で海外に送り出したうえで恩赦してやろう、というお考えだ。軍部の反発を憂え、深く心を痛めておられると思う。国防大学院の金宗輝教授(のちに盧泰愚政権で外交安保首席秘書官)と連絡をとり、知恵を絞ってみてくれ」(『韓鏞源回顧録』)

▽新軍部内の合意づくり

韓鏞源と金宗輝は、額を突き合わせて考え抜いた。

結果、金大中を死刑から無期懲役に減刑し、その見返りとして米国から韓米首脳会談を取りつけ、日本とは対日借款(100億ドル)の問題を妥結させる、という打開策をまとめた[日本へは当初、「安保経済協力」の名目で100億ドルを要求。のちに中曽根政権が「経済協力」の名目で40億ドルの支援をおこなうことで政治的妥結をみた]。当時、日本の全港湾労組(全日本港湾労働組合)は、金大中の死刑判決に抗議して韓国製品の荷役を拒否していて、これが全斗煥政権にとって頭の痛い問題になっていた(『韓鏞源回顧録』)。

 盧泰愚は、この打開策を新軍部の実力者たちを集めた非公開の会議に諮った。

 安全企画部長の兪学聖をはじめ、車圭憲、黄永時、鄭鎬溶、許和平、許三守、李鶴捧、権正達、柳興洙、玄鴻柱、鄭寛溶、裵命仁らをソウル宮井洞のアジトに招き、金大中を減刑する案についてブリーフィングをしながら新軍部内部の共通認識を広げたのだった。

 全斗煥は、打開策に困って保安司令官の盧泰愚に知恵を求めたわけではなかった。新軍部の実力者らにたいし、米国と日本からの外交や経済面への圧力を理由に、金大中の死刑を免じてやらなければならないことを説得する必要があったのである(同回顧録)。

 ▽「天罰が下る」

ほどなく、ワシントンのアレンは、全斗煥の特使である特戦司令官の鄭鎬溶一行を迎えた。

 ホワイトハウス近くのアレンのオフィスを、駐米大使の金溶植と同公使の孫章来(安企部)、そして全斗煥の親友である鄭鎬溶が訪れた。金溶植大使が席を外すと、鄭鎬溶特使は「金大中の問題は韓国の国内問題であり、米国の問題ではない。国内の問題については、韓国は自分で解決できる」と敢えて強気に出てみた。内政干渉をしないでくれ、という口ぶりだった。

 するとアレンは、待っていたとばかりに言い放った。

 「もし、あなたたちが金大中を殺すなら、とんでもない天罰が下ることになるでしょう」

 鄭鎬溶は顔色を失い、その真意を繰り返し問うたが、アレンはそれには答えず、こう応酬した。

「(大韓民国の特殊戦司令官よ)あなたはとても強い人のように見えます。しかし、わたしにはかなわないだろう」

 ▽「大統領就任式後に会見」

断固としたそのいくつかの言葉で、勝負は決した。

意気消沈した鄭鎬溶は引き返して本国と協議した。翌日、再び出直し、(金大中を生かす代わりに)レーガン大統領の就任式に全斗煥を招待してもらいたいという妥協案を出した。

アレンは「米国の大統領の就任式には外国の元首は招待しない、ということを韓国政府は知らないのか。慣例上、就任式に招待することはできない」と答え、就任式の後、早い時期に会見の場を設けることはできると伝えた。それも、金大中の死刑判決が大幅に減刑されなければならない、という前提条件付きだった(グライスティーン元駐韓米大使の記録)。

金大中の減刑と全斗煥の訪米をめぐる交渉の細部は、アレンと孫章来公使が煮詰めた。

実務訪問

その間も米国は、全斗煥の気勢を削ぐようなことを繰り返した。

「外交儀礼上、外国の元首がワシントンを訪問する際には、直接ワシントンD.C.に乗り込むか、バージニア州のウィリアムズバーグに着陸することになっている。しかし全斗煥大統領はソウルからワシントンに直接入ることは許されず、まずロサンゼルスに寄港し、ニューヨークを経由してからワシントンD.C.に入ることになった。国賓晩餐会もなかった。外交儀礼上の国賓訪問ではなく、実務訪問(Working Visit)になるようにしたのだった。そして、全斗煥大統領との会見に先立ち、ジャマイカの首相がレーガン大統領と会い、それが新大統領への最初の訪問客となった」(元西江大経商学部長の金炳国教授)のだった。

198122日、全斗煥はレーガン米大統領と会談した

全斗煥の新軍部はそれほどまでに韓米首脳会談を切望していた。

1212反乱」で武力を使い、5月の光州を血で鎮圧して政権を奪取した新軍部にとって米国の信任、国際的な承認は国内、国外の両面において切実なものだった。それを得るためには、米国の新任大統領レーガンとの会談と、その場面を証明する写真がどうしても必要だった。

 ▽カーターのバックアップ

そこにすべてを賭けなければならなかった。

 韓米首脳会談は「金大中の減刑(死刑免除)」が前提条件だった。

 前任の米大統領カーターは回顧録の中で「われわれは韓国の金大中の命を救うためにカーター政権がそれまでに何をしてきたのかを、レーガン大統領に説明した。そして、レーガン大統領が全斗煥大統領にたいして金大中の生命を保証するよう、メッセージを送ったことに感謝の意を表する」と書いている。

                        訳:波佐場 清

2026年8月7日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(47)

 「金大中を殺しても、時間が経てば忘れる」

金大中は死刑場のとば口に立っていた。グライスティーン元駐韓米大使の回顧――

「全斗煥の最側近(許和平、許三守、許文道、李鶴捧)をはじめ、韓国の若手将校(ヤング・カーネル)たちの間に「反金大中」感情が広がっていることがよく分かっていたわたしたちは、(カーターが敗北し)レーガンが当選した米大統領選(1980114日)の結果を彼らがどう受け止めるか、深く憂慮していた。新軍部内では驚くほど多くの者が金大中の処刑を求めていた。もし、ここで金大中を殺しておかなければ、また、政治の舞台に甦ってきて、彼らのこの間の『救国の努力』が無駄になってしまう、という主張だった。ひどいのになると、金大中をいったん処刑さえしてしまえば、外国人はいまは非難していても、そのうち時間が経てば忘れるだろう、などと公然と処刑を叫んでいた」

グライスティーンは急ぎ、米国へと飛び立った。

いや、米国に発つ前、ソウルにいるときから八方手を尽くして走り回っていた。

▽米国の救命努力

1980517日夜に金大中が逮捕され、南山の地下室に連行されたあと、米国は、ワシントン駐在韓国大使の金溶植やソウルの戒厳司令官・李熺性および(ただのお飾りとなった)崔圭夏大統領に強力に抗議した。それ以来、金大中のことは、グライスティーン大使またはジョン・モンジョ副大使が全斗煥と十数回にわたって面会した際の最重要、あるいは唯一の議題となっていた。ワシントンでも米国の当局者らは、韓国の主要人物と会う際には必ず、金大中のことを取り上げていた(『グライスティーン回顧録』)。

グライスティーン大使は、金大中救命のために保安司令官の盧泰愚とも会った。新軍部の中心的な人物であり、全斗煥が最も信頼を寄せる人物だったので会ったのだという。また、外務部長官の盧信永とも会った。盧信永は崔圭夏大統領よりも新軍部に近く、信頼されていると大使は感じていた。

グライスティーン大使、モンジョ副大使、そして米第8軍のジョン・ウィッカム司令官や高級将校らは、彼らが知っている限りの影響力のある韓国軍将校や民間人当局者らに、金大中処刑という「極端に単純化された考え方」は誤りであることを納得させようと、組織的に奔走した。

大法院の確定判決を前に、状況は切迫していた。

▽北朝鮮カード

朴正煕軍事政権には、大法院の死刑判決からわずか18時間後に8人を処刑[19754月に判決が下された第2次人民革命党事件]した歴史がある。朴正煕1人の決定が8人を殺したのだが、いま、金大中1人を、8人よりずっと多い数の実力派の大佐や将官らが殺そうと息巻いている。

801113日、グライスティーン米大使は外務部長官の盧信永と会い、爆弾発言をおこなった。

「金大中を殺せば国際社会でのけ者にされ、米国のメディアや議会で非難が高まるだろう。それ以上に深刻なのは米国の対北朝鮮政策が変わりうるという点だ」

意外なカードだった。盧信永は驚いた。

「ずいぶんと前から米国には、北朝鮮との関係を打開しようとする米国人が存在してきたことは盧信永長官もご存知のことと思う。そんな彼らが金大中の死刑を口実に、長い時間をかけて温めてきたその野望(韓国を孤立させて北朝鮮と直取引をすること)を正当化することだろう」(米大使)

そうなると、最悪である。

▽米国防長官の訪韓

 盧信永は、驚いたそぶりを見せず、わざと共感してみせながら「大統領と金瓊元秘書室長に、大使のお言葉を報告する必要がありそうです」と答えた。

全斗煥大統領(左)は19801213日、ブラウン米国防長官(中央)と会談した。右端はグライスティーン駐韓米大使

そう言いながら、盧信永は一つの交渉カードを持ち出した。

折から、ハロルド・ブラウン国防長官が日米間の協議で東京に立ち寄ることになっていた。そこで、そのついでにソウルにも足を延ばしていただくわけにはいかないものかと頼んだのである。

「そうすれば、金大中の問題について大統領を説得するうえで役立つのか」(米大使)

「その通りだ」(盧信永)

この妙案は「神の一手」だった。

▽ターニングポイント

全斗煥はブラウンの訪韓を手放しで喜んだ。こうして、ブラウン長官が12月中旬にソウルにしばし立ち寄ったことがターニングポイントとなった。全斗煥はグライスティーン大使に会ってブラウン訪韓への力添えに感謝した。それより前、大使はカーター大統領の「金大中救命親書」を大法院の判決直前に、牽制用として全斗煥側に手渡していたのだが、そのことについて不平を言うこともなかった。金大中について「悪い政治家だ」などと、それまで毒づいていたような悪口も言わなかった。それほどまでにブラウン訪韓を強く望んでいて、うれしかったようだ。

▽「米国への借り」に言及

1213日、ブラウン国防長官は会談の終わりに、全斗煥に静かに語りかけた。グライスティーン大使に言われた通りに言ったのである。

「金大中を処刑するようなことになれば、将来、わたしたちの安保と経済関係に深刻な影響が及ぶことになるでしょう」(ブラウン)

「裁判所の決定を尊重するほかありません。大法院が死刑を確定すれば、執行するほかありません」(全斗煥)

全斗煥はいったん、突っぱねてみせた。

しかし、そう言いながらも、「米国にたいする韓国の歴史的な借りや経済および安全保障関係の重要性もある。米国の勧告について慎重に考慮してみたい」と付け加えた。そばで聞いていたグライスティーン大使は、そんな言葉の最後の部分に注目した。「全斗煥が『借り』について話し、米国の見解を念頭に置くと語ったのは成果だ」と、本国に送る報告書に書いた。

一筋の希望を感じたのである。

▽「金大中の死を傍観するのか」

グライスティーンは、ワシントンに帰ってからも奔走した。

グライスティーンの急報を受けたカーター政権のエドマンド・マスキー国務長官は、レーガン次期政権の発足に向けた政権引き継ぎチームのリチャード・アレン国家安全保障担当補佐官と連絡をとった。そして、「レーガンの当選によって金大中が殺されることになる」「米国は金大中を何としても助けなければならない」と訴えた(『李姫鎬自伝』)。

国務長官のマスキーは、金大中の救命が米国の国益であると確信していた。

レーガン次期大統領側のアレン補佐官にたいして「金大中救命のために、任期末のカーター政権と次期レーガン政権で共同声明を出そう」と提案した(民主韓国日報)。

しかし、アレンはこれを拒んだ。いや、受け入れることはできなかった。

というのも、81120日にレーガン新政権が発足するまでは「カーター政権の外交問題に口出ししない」という政権引き継ぎチームの内部決定があったからだ。アレンの反応が冷ややかなことが分かると、マスキーはこう言い放った。

「金大中は、あなたと同じカトリック教徒だ。このまま金大中が死ぬのをただ傍観しているつもりなのか」

                       訳:波佐場 清

2026年8月4日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(46)

「大法院など、大砲で吹っ飛ばしてしまえ」

 朴正煕大統領を殺害した金載圭(元中央情報部長)への内乱罪適用に異議を唱えた大法院判事6人はいったん、新軍部の粛正圧力をうまくかわしたかにも見えたが、金大中の内乱陰謀事件の裁判が目前に迫ると、新軍部の態度は変わった。

 6人の判事を大法院にそのまま残した状態で、金大中にたいして内乱陰謀罪をでっち上げるのは無理だった。

▽判事を連行、拷問

1980年7月末から6人の判事にたいし、辞表を出すよう露骨に圧力をかけ始めた。

しかし、判事たちはおとなしく引き下がらなかった。

そのうちの一人、梁炳皓判事は、辞表の提出を拒否して夏休みに出かけた。

8月3日夜、自宅に戻って夕食をとっていると、2人組の暴漢が押し入って来て梁判事を連れ去った。夫人は泣き叫びながら李英燮大法院長に「大変なことになった」と訴えた。行方不明になった梁判事は、悪名高いソウル西氷庫の保安司令部分室で拷問を受けた。暴行とともに「おまえが法服を脱ぐまでこの件は収まらないんだ」と脅され、白紙の用紙に辞表を書かされた(梁炳皓氏が199678日、「1212および518事件」の第20回公判でおこなった証人陳述)

辞表提出

保安司令部が力づくで書かせた辞表が、法院行政処長の徐壱教のもとへ送られた。

 徐処長は李英燮大法院長に「院長が辞表を受理してくださらないと、梁炳皓判事は釈放されません」と言って、梁判事が自筆で署名した辞表を突き出した。李英燮大法院長が辞表を受理して1時間ほどすると、梁判事は釈放されて大法院長室に現れた。

梁判事は力なく笑いを浮かべながら、ほんとうに何事もなかったというふうにコーヒーを飲もうとした。コーヒーは口に入らず、胸元やワイシャツを濡らした。しかし、梁判事はそのことに気付いてすらいなかったという。目の焦点が定まっていなかった。

酷い目に遭わされて戻ってきたのである。

梁判事だけではなかった。「少数意見」を出した他の判事――閔文基、任恒准、金潤行、徐潤弘の4人も辞表を叩きつけて法服を脱いだ。かれらは89日、「依願退職」という形で大法院を去った。梁炳皓らは弁護士開業すら思うに任せず、その秘書や運転手までもが、「浄化」の名のもとに首を切られた。鄭泰元判事はこの時は辞表を出さなかったが、翌814月、第5共和国憲法に基づいて大法院が再構成された際、再任用から脱落したのだった。

▽「全判事の自宅を調べておいた」

全斗煥率いる保安司令部が大法院を暴力で制圧した19808月末、全斗煥は「新時代の指導者」を自任し、大統領の座に就いた。

全斗煥は、李英燮大法院長が挨拶がてらに青瓦台に赴くと、「金載圭事件の処理を大法院があんなに遅らせてしまったせいで、光州で起きた、あのような予想もできなかった国家的騒擾が起きてしまった」と浴びせかけた。

全斗煥(左端)の大統領就任祝いで、李英燮大法院長(全斗煥のすぐ横)は青瓦台を訪れた=1980年9月

 全斗煥は、ほかの将官たちが「大砲を一発ぶっ放して大法院を吹っ飛ばしてしまおう」というのを、なんとか自分で宥めたのだといい、「国事犯について、少数意見などとはどういうことだ」と怒鳴り散らした。80年暮れ、全斗煥が青瓦台近くの秘密の施設で開いた忘年会では、席上、李英燮大法院長が全斗煥に杯を勧めると、全斗煥はいきなり大法院長の腕をぎゅっと掴み、一言、「あの時は大法院の判事全員の自宅を調べておいたんですよ」と言い放ったという。

▽司法府ならぬ「司法部」

 そのような「暴力政治」のなか、司法府は「司法部」[部は、省庁の意。韓国語ではともに사법부となり、同音の「司泡部」も連想させる]も同然だった。

これは李英燮大法院長の「退任の辞」のなかに出てくる表現だが、司法府が新軍部の一行政部局のようだったという自嘲的な造語だった。かれは「司法府トップのポストを引き受けるときは抱負や理想も大きく、高かったが、いま、過去を振り返ってみると、すべてが悔恨と屈辱にまみれたものでした」と回顧した(1981415日の「退任の辞」)。

1981123日、大法院は「金大中内乱陰謀事件」の上告審において、「全員一致」で被告12人の上告を棄却し、金大中の死刑が確定した。

▽レーガン当選に欣喜雀躍

ここで、いまいちど、2審で「死刑」の判決が下された1980113日に戻ろう。

その2日後の115日、金大中にとっては死刑判決以上に落胆させられ、絶望的になることが起きた。

米国の大統領選で「人権大統領」のジミー・カーター(民主党)が敗北し、ロナルド・レーガン(共和党)が当選したのである。

青瓦台では「スリー許」が、レーガン当選の報に机をたたいて欣喜雀躍し、万歳を叫んだ(グライスティーン駐韓米大使がワシントンに送った報告)。

「レーガンが勝った」

保守派のレーガンが勝ったということはそのまま、「癌(がん)的存在」である金大中の処刑を意味した。

もう、米国の人権問題への口出しに気遣う必要はない。「障害物」の金大中を処刑し、思い通りにやれる――5共の実力者たちは歓喜に沸いた(グライスティーンが後日、米国で金大中にそう語った)。許和平も、金大中は米国の介入がなければ死んでいただろうと記録している。

                      訳:波佐場 清

 

2026年8月1日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(45)

 米韓首脳会談実現のために金大中を生かす

韓米首脳会談は、死刑囚・金大中の命と引き換えに実現したものだった。

ここでいま一度、半年前の1980年夏に時計の針を戻し、金大中が収監された南山の地下室を覗(のぞ)いてみよう(2004年、金大中の内乱陰謀事件は24年後に無罪が確定した)。

▽懐柔

中央情報部の地下室にいた金大中が光州抗争[光州事件]について知ったのは80710日のことだった。

当時、全斗煥は中央情報部長の辞表を出してはいたものの、依然として合同捜査本部捜査団長の李鶴捧を通じて情報部を支配していた(後任の情報部長・兪学聖は、7月18日に就任)。

その李鶴捧が地下室に来て、新軍部に協力するよう求めた。

「(1980年)2月に、あなたがわたしと権正達に会った時、我々に協力するという、あの誓約書に署名すべきだったのです。そうしていれば、こういうことにはならなかった。いまからでも、あなたが我々といっしょにやるというなら、大統領職以外のどんなポストでも提供します。拒否するというなら生かしておくことはできない。必ず死ぬことになります。裁判は形式的なものにすぎません。協力すれば助かり、拒否すれば死ぬのです」(『金大中自伝』)

50日以上に及ぶ地下室での監禁・取り調べに疲れ果てていた金大中は、即答できなかった。

「よく考えてみてください。23日後にまた来ます」

▽光州の報道見て覚悟

李鶴捧が帰っていくと、捜査官が新聞の束を差し入れてきた。

光州抗争の5月の何日間かの凄惨な状況が、そこでは伝えられていた。

光州抗争の犠牲者たちは光州市郊外の望月洞につくられた墓地に運ばれた=19805
 金大中は意識が薄れていき、活字が霞んでよく見えなくなったと思うと、そのまま気を失った。意識を取り戻すと、医師の姿が目に入り、リンゲル注射を受けていた。

3日後、李鶴捧が再び来ると、金大中は言った。抗争の犠牲者たちを裏切ることはできないという覚悟から出た言葉だった。

 「協力することはできない。おまえたちが殺すというなら、それはもう、どうしようもないことだ。死ぬことが、すなわち生きることだと思っている」(金大中)

 李鶴捧はやや慌てた様子で帰ると、2日後にまた、やってきた。

 金大中はそれでも拒絶した。李鶴捧は怒りながら立ち去った。

 ▽刑務所長も「尊敬」

 80年7月15日、中央情報部の地下室から城南市の陸軍刑務所に移送された。

 懐柔は、陸軍刑務所に移送されてからも続いた。現役大佐の所長が、金大中の顔色をうかがいながら監房の周りをそわそわしながら回っているのだった。

 「所長がなぜ、ここに来ているのか、分かっているつもりです。しかし、わたしの心は変わらないので、そのように上に報告しなさい」

 すると刑務所長は、「よく分かりました。尊敬いたします」と答えたかと思うと、すぐに金大中が求める本やコーヒー、タバコを差し入れてくれた(『金大中自伝』)。

金大中は死刑がいったん確定し、
無期懲役に減刑されたあとも、
刑務所内で精力的に読書を続けた

 ▽死刑求刑に愛国歌

 8月14日、「金大中内乱陰謀事件」にたいする戒厳軍法会議(軍事裁判)の初公判が開かれた。

罪名は「反国家団体の首魁」――。

その公判で文益煥、芮春浩、李文永、高銀、韓完相、李海瓚、薛勲ら、事件に巻き込まれた24人と初めて再会した。蘇宗八弁護士は次のように抗弁した。

「内乱だというが、被告人たちが火炎瓶や角材どころか、火かき棒(火箸)一本、バッカス[日本のリポビタンに似た栄養ドリンク]の瓶一個を手にした、ということさえ、起訴状には書かれていない。いたい、何を持って内乱を起こそうとしたというのか」

9月11日、検察の求刑は「金大中に死刑」――

最終陳述で金大中は1時間40分にわたり、一つひとつ理路整然と反論し、このように締めくくった。

「わたしはもう死ぬことになるだろうが、死刑は覚悟してきたところだ。しかし、政治的な報復がこの地でもう二度とおこなわれないよう、願いたい。これがわたしの最後の望みであり、神の名において遺す、わたしの遺言だ」

その瞬間、愛国歌が法廷に響き渡った。

韓完相教授は後日、こう回顧している。

「法廷で聞いた金大中の最終陳述は忘れられない。それを聞き、わたしたちは愛国歌をうたった。法廷騒乱罪になるかもしれないと思ったが、義憤を抑えきれず、正真正銘、生涯初めて腹の底から湧き上がってくる愛国歌をうたった」

▽二審判決も死刑

9月17日、判決公判――。

金大中は、裁判長の口の形に自分の生死がかかっていると考えた。「死刑」の発音は口が横に広がり、「無期懲役」は口をすぼめることになる。固唾をのんで見守った文応植裁判長の口は、横に広がった。

「金大中 死刑」

113日の二審判決でも死刑を言い渡された。予定通りの筋書きだった。

▽少数意見判事に暴力

残るは三審の大法院だけだった。そんななか、金大中処刑に向けて全斗煥の新軍部は大法院をも陥落させ、すでに手の者を潜り込ませていた。

大法院判事をボコボコに殴りつけて辞表を出させた「5共式のやり口」は、歴史に記録として残しておくに値する。

新軍部にとっては、この年5月24日に処刑された金載圭の三審判決が問題だった。大法院判事14人のうち、ここで少数意見を出した6人が標的にされた。金載圭が「(朴正煕を)殺害したことは事実だが、『内乱目的』はなかった」とした梁炳皓、閔文基、任恒准、徐潤弘、金潤行、鄭泰元の6人の判事である。かれらは殺気だった新軍部の脅しや圧力にも屈せず、言うべきことを言ったのだった。

新軍部としてはいま、金載圭の処刑に続く第2ステージとして金大中を内乱陰謀に追い込んでいかなければならない。しかし、「少数意見」を述べた6人の判事たちが異議を唱えることは分かりきっていた。

▽粛正

それで、前もってこの6人にたいし、思い知らせてやろうとしたのが、7月のことだった。

5月末に光州抗争を鎮圧した新軍部は、6月から国保委(国家保衛非常対策委員会)を動かし、いわゆる「社会浄化」を掲げて2級以上の公務員にたいする粛正(退職強要)を開始した。それに紛れ込ませて、少数意見を出した大法院判事たちを一掃しようとしたのである。

ところが、国保委に派遣されていた判事たち(金憲武ら)が実務レベルで新軍部を宥めすかした結果、いったん、7月中旬の粛正のヤマ場は乗り切った。

                      訳:波佐場 清

2026年7月29日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(44)

  弟は北のスパイ…

 世の中をかき回す天下の許和平にも隠しておきたい過去があった。

 保安司令部の大尉の時代(1968年)に、危うく軍服を脱がされそうになっていたのである。

 スパイの弟、許和南(2017年に死去)のせいだった。

 ▽日本に密航、平壌から南派

 貧困にあえいでいた時代、弟は19672月、日本に密航した。同年8月、北朝鮮の平壌に潜入し、完全隔離の特殊教育を受けた。そして同年11月、韓国の慶尚北道迎日郡長沙面[現在の浦項市]に南派されたが逮捕され、無期懲役囚(国家保安法違反)となった。

 弟の和南は、兄の和平が青瓦台とこの世を思いのままにしていた1982年末まで大邱刑務所に無期囚として収監されていたが、全斗煥大統領の配慮で釈放された。仮釈放で保護観察者となり、5年ほどして8711月、その保護観察も解かれた。その後は浦項製鉄(1992年入社、のちに浦項コイル常務)や三星(サムスン)グループなどの大企業でサラリーマンをしていたが、2017年に病死した。兄の和平は弟の早世について「拷問の後遺症」と記録している。

 ▽許和平を救った金載圭

 弟の事件は、許和平にとって人生最大の危機だった。

 許和平は、悪名高い西氷庫の拷問室で対共捜査官から調べを受けた。普通の場合、このような「身元特異者」は、軍隊では生き残ることはできない。それも、他ならぬ保安司令部に所属する人間ではないか。

 しかし、この時の保安司令官が、まさに金載圭[のちに中央情報部長、朴正煕大統領を暗殺]その人だった。快く、救ってくれた。

 金載圭を説得したのは、ハナ会先輩の全斗煥や盧泰愚をはじめ陸士11期の権翊鉉、金復東らだった。同郷の先輩たちが「優秀な許和平は思想的になんの問題もなく、まじめに服務している」とかばってやったのだった。

 そんな特別扱いに保安司令部の第506部隊[ソウル地区でのスパイ摘発(対共捜査)や軍内部の不純分子の監視・治安維持を担当]の捜査官らは「スパイを匿(かくま)っていた者を助けてやる保安司令部など、これからどうやってスパイを捕まえるというのか。大変なことになった」と嘆いたという(元保安司令部将校・金忠立の証言)

 新聞の1面トップにも値するこのスキャンダルは、全斗煥政権が終わるまで闇に伏されていた。1993年になって許和南に関する刑事記録そのものが完全に隠滅されていた事実が明らかになり、検察が捜査に乗り出すことにもなったのだった。

 ▽金載圭を逮捕した許和平

 金載圭が助けてやった許和平は、保安司令部の将校として破竹の勢いで昇進していく。

 そんな許和平大佐が、全斗煥保安司令官のもとで秘書室長をしていた時に起きたのが1979年の「1026事件」[金載圭による朴正煕大統領暗殺]だった。事件当日の深夜、許和平はかつて自分を救ってくれた金載圭を逮捕することになる。金載圭を捕まえ、西氷庫へ連行する実行チーム(対共捜査官の申東基ら)を指揮した人物こそ、まさに許和平だったのである。

 ▽5共の設計者

 許和平は1980年春、金載圭の死刑判決から執行に至る全過程を合同捜査本部長(保安司令官)としてリードした全斗煥の右腕となり、そのまま第5共和国の設計者となっていく。歴史の凄まじいばかりのアイロニーである。

 そんな許和平だったが、スパイだった弟のせいで、5共の公安検事たちから疑いの目を向けられていた。

 80年下半期の憲法改定にあたって許和平が「連座制の禁止」を強く主張したため、「思想が疑わしい」との非難を浴びたのである。連座制は「親族の罪に絡んで刑事責任を負わされる制度」で、スパイ罪にあっては、その家族や親戚らが大きな不利益を被ることを意味していた。

 それまでの憲法には連座制に関する何らの規定もなかった。

 それで公安勢力は、連座制を禁ずる憲法の条文にアレルギー反応を示した。彼らは「スパイの弟(許和南)のせいで苦労した許和平のことだから、やっぱり」と囁(ささや)き合った。

 しかし、青瓦台の実力者である許和平は、そのまま押し切った。論理は、堂々たるものだった。

 「王朝時代に3族とか9族とかを滅ぼし処罰した、そんな反文明的な連座制を廃止してこそ先進国になれる。連座制は野蛮な悪法だ。そんな連座制をなくすには、法律をつくるだけではだめだ。それだと、政権が代わるとまた、復活させられる恐れがある。この際、憲法でしっかりとクギを刺しておく必要がある」

 ▽連座制廃止

 公安部門からは、こうした危険な(?)やり口に、白い目が向けられた。

 そうでなくても、彼らの間には、許和平のような者がどうして青瓦台に勤務できるのか、という雰囲気があった、と朴哲彦は記録している。

 それでも、国会の憲法改正特別委員会ぐらいは、許和平の手中にあり、思いのままだった。許は、自らの意志を貫いた。

 「すべての国民は、自己の行為ではない、親族の行為によって不利益な処遇を受けることはない」(第5共和国憲法第133項)

それまで、スパイや思想犯の家族、または親族であることが身元照会で分かると、キャリア官僚に任命されなかったり、海外旅行に行こうにも出国が制限されたりしていた。そうした慣行にブレーキがかかったのである。警句が一つ――。

正義は、常に弱者から生まれる。それが歴史というものだ。強者からは同情や寛容、配慮は生まれても、正義は生まれてこない。

許和平は、スパイの弟のせいで西氷庫に連行され、すんでのところで奈落の底に突き落とされそうになった。そんな凄絶、悲惨な弱者としての経験のなかから、連座制の撤廃という正義が憲法において実現したのであろうか――。

▽民正党の結党と官制野党

 明けて翌1981115日には、権正達と李鍾賛が半年間にわたり息をひそめるようにして水面下で構築してきた民主正義党(民正党)が、新党結党という形でその顔を現す。戒厳令解除の発表に続く措置だった。この民正党結党の発表のあと、「第2中隊」「第3中隊」と呼ばれた官制野党の民韓党、国民党、民社党、民権党が次つぎと頭をもたげてきたのである。

1981115日、新党民正党の結党大会が開かれた

  115日 民主正義党結党(総裁 全斗煥)

   17日 民主韓国党結党(総裁 柳致松)

   20日 民主社会党結党(党首 高貞勲)

   23日 韓国国民党結党(総裁 金鍾哲)

 

これらは、まるで軍隊で中隊別の点呼にでも応じるかのように、一糸乱れぬかたちで旗掲げをしていった。

見せかけではあったが、政治の季節が甦っていた。

▽訪米、レーガンとの会談へ

1981年1月21日(現地時間120日)、ロナルド・レーガンが米国の第40代大統領に就任し、翌122日未明、米韓両国は全斗煥の訪米を正式に発表する。全斗煥がレーガン大統領と会談する写真を撮り、米国の公認を得ようというのである。

                      訳:波佐場 清

2026年7月26日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(43)

  全斗煥、「3許」を牽制

 5共和国(全斗煥政権)の「創業功臣」として威張りまくり、「共同経営者」と自負さえしてきた許和平と許三守の「2許」や李鶴捧といった保安司令部出身の首席秘書官たち――。全斗煥大統領は、煙たくなってきていた彼らを19811222日の人事で巧妙に遠ざけた。

 ▽許和平を追い出す

 政務第1首席秘書官の禹炳奎を国会事務総長として転出させ、許和平をその後釜に据えた。一見、昇進のように見えたが、事実上、追い出したのだった。全斗煥大統領の執務室の目と鼻の先で「補佐官」の名刺を使い、漢方薬における甘草のように何にでも事あるごとに首を突っ込んでいた許和平だったが、以後、政務首席秘書官室だけに籠らざるを得なくなった。

 ▽法曹エリートを抜擢

 一方で、頭の回転が速く機転の利く文民出身の法曹エリートの3人を抜擢した。朴哲彦(検事)を政務首席秘書官室に、孫晋坤(裁判官)を司正首席秘書官室に、金栄(検事)を民情首席秘書官室に、それぞれ配置した。偶然にも、これら3人の秘書官は、いずれも大邱の名門・慶北高校の同期生だった。全斗煥の人材登用の妙であり、権力の座に就いて1年半の経験と自信がにじみ出た、驚くべき一手だった。

 それからさらに1年後、許和平と許三守が追い出されて青瓦台を去ることになろうとは、その時はまだ、だれも知る由がなかった。

 本館にあった秘書室長室も、金瓊元室長を国連大使に転出させて後任に李範錫・統一部長官を据えるのと同時に、室長室そのものを本館からずっと離れた別館に追い払った。

 ▽朴槿恵に代わり、李順子

 1981年の新しい年が明けると、全斗煥大統領夫人の李順子が「新世代育英会」[財団法人]の会長に就任する。

 この組織の母体となったのは朴正煕の長女である朴槿恵が率いていた「セマウム奉仕団」[社団/旧・救国奉仕団/セマウムは「新しい心」の意]だった。全斗煥がこれを解散させるよう許和平に指示したため、許はソウル新堂洞にある朴槿恵の自宅を訪ねて行った。

 許和平は、こう言って朴槿恵を説得した。

 「(全斗煥政権は奉仕団にたいする財政援助はできないので)もう、財力のある側(財閥)の援助を受けて(財団法人として)運営するほかありません。しかし、もしそういうことになれば、(財閥との癒着が非難されてきた)反維新(反朴正煕政権)の風当たりが強い今のような状況にあっては、在野勢力[市民団体など]の恰好の標的になりかねません」

 「朴槿恵には無念の表情がありありだった。要請を受け入れるとも、拒否するとも言わなかった。そうならざるを得なかった。陸英修女史[朴正煕夫人、朴槿恵の母親]が亡くなった後、ずっと自分が『セマウム奉仕団』を率いてきていたのだから」(許和平の回顧)[1974年に母親の陸英修女史が暗殺され、さらに79年、父親の朴正煕も暗殺されて両親を失った朴槿恵にとって、「セマウム奉仕団」は心の拠り所だったといわれる。それが全斗煥政権によって奪い取られたのだった]

 ▽百潭寺幽閉への火種

 そのように、奪い取る時の名分はもっともらしかったが、李順子がそれを引き継ぐとなると、辻褄が合わず、格好もつかなくなる。そんなことを心配する青瓦台の参謀たちをよそに、全斗煥は強引に押し切った。

 「一部の首席秘書官らは、問題の火種になりかねないと反対しているが、とんでもない話だ。朴槿恵の『セマウム奉仕団』は、崔太敏の不正もあって問題だった[新興宗教の指導者だった崔太敏は、陸英修女史の死後、朴槿恵の精神を完全に支配したとされる。娘の崔順実は、のちに朴槿恵政権(20132月~173月)下で国家権力を私物化し、それが国民の反発を招いて朴槿恵大統領は弾劾・罷免に追い込まれた]。しかし、これからは、国家百年の大計のために大統領夫人が会長になって責任を負い、運営に当たるのが正しいやり方なのだ」

 全斗煥大統領は、軍の指揮官が訓示するような口調で、こう正当化したのだった。それが、長い歳月を経たのちに「新世代育英会会長・李順子」もまた、百潭寺に幽閉されことになる一つの口実にされるとは、この時点では、だれも知る由がなかった[李順子は、全斗煥大統領退任後の1988年秋、全斗煥とともに人里離れた江原道の山寺・百潭寺に籠り、約2年間にわたる事実上の「幽閉・隠遁生活」を強いられた]

 ▽絶頂の「3許」

 1981110日、戒厳令の解除が発表された。

 1979年の「1026」(朴正煕暗殺事件)で戒厳令が出されて以来、実に456日ぶりのことだった。2月に大統領選出、3月に国会議員総選挙――という政治日程に合わせた戒厳令解除だった。

 当時、青瓦台の秘書室は許和平の天下だった。

 肩書こそ、「補佐官」という、たいしたこともないものだったが、大統領への報告や情報は、すべて許和平を通さなければならなかった。かれを筆頭に、司正首席秘書官の許三守、民情首席秘書官の李鶴捧、政務第1秘書官の許文道が突出し、軍の大先輩である安企部長の兪学聖までもが、かれらの顔色をうかがうという、まさに「スリー許」人脈の絶頂期であった(当時の安企部局長・金根洙の証言)。

 秘書室長の金瓊元(1974年、高麗大教授から朴正煕大統領の政治特別補佐官となった)も、ただの「木偶の坊」に過ぎなかった。かれは微妙な問題には「あいまいな態度」(朴哲彦の表現)をとることで、「3許」らとの衝突を巧みに避けた。そんな世渡り上手な立ち回りで、金瓊元はのちに駐米大使を務めることになったのだった。

カークパトリック米国連大使と話す金瓊元(左)=19839

 ▽権力闘争

 1981年の新年を迎え、青瓦台では戒厳令をめぐり、「いま、解除すべきだ」「いや、まだ早い」という激しい論争が巻き起こった。小さな権力闘争だった。

 政務第1首席秘書官の禹炳奎と法律秘書官の朴哲彦は、解除を主張した。

 「3月末までには大統領選挙をおこなわなければならず、続いて国会議員選挙もやらなければなりません。だとすると、戒厳令下の選挙というのは格好がつかないので、避けるべきです。政党を立ち上げ、政治活動を解禁するためには集会も許可しなければなりませんが、戒厳令下では、それは不可能なのではないでしょうか」

 全斗煥は、これを了とした。

 しかし、許和平補佐官をはじめとする軍出身の参謀らは、色をなして猛反発した。

 安企部長の兪学聖や同次長の玄鴻柱まで動員して「世間知らず」の文民出身の参謀である禹炳奎と朴哲彦を攻撃した。

 「大統領閣下はすぐに、1月末にはもう、レーガン米大統領に会うためにソウルを留守にされるのですよ。何が起こるか分からないときに戒厳令を解除するだなんて、話になるでしょうか。政治家にたいする規制も解いて国会議員選挙もやらなければならないというのに、ここで野放しにしたら、世の中はまた、大変なことになってしまいます」

 ▽逆転

 そんな軍出身参謀らの反論が、いったん「了」とした全大統領の決心をひっくり返した。

 戒厳令の解除は、なかったことになった。戦車を出動させておいて選挙をおこなうというのか――。

 禹炳奎と朴哲彦は、援軍を求めて金瓊元秘書室長の部屋へと向かった。

 ソウル大法学部卒業、ハーバード大学国際政治学博士、高麗大教授出身という立派な肩書の文民、金瓊元室長なら助けてくれるものと期待した。

 「戒厳令を出したままで大統領が米国に行かれ、国際舞台にデビューするというのは滑稽な話ではありませんか」

 「一理あるお話です」(金瓊元)

 2人は、共感する金瓊元秘書室長の前に大統領への報告書を差し出し、サインをしてほしいと頼んだ。大統領のもとに出す報告書に秘書室長のサインがないというのでは、お話にならない。しかし金瓊元は、補佐官の許和平を怖がっているようだった。政権の黒幕たちが反対していることはとうに分かっていたのだ。

 「サインはできない」

 2人は、秘書室長が目を通したという証拠だけでも記してほしい、と署名を促した。すると、金瓊元はしぶしぶペンをとった。

「見ました」と書いた。

 ▽再逆転

 そんな「目を通した」というだけの、卑怯なまでに中立的な報告書を持って2人は再び、全大統領の執務室に入った。そして、その結果、なんとまた方針がひっくり返り、「大統領訪米前の戒厳令解除」ということになったのである。

 この再逆転劇には、保安司令官の盧泰愚も一役買っていた。盧泰愚は、朴哲彦の「従兄(いとこ)」にあたった。朴哲彦がそんな従兄を背後から動かしていたことは、言うまでもない。

これによって許和平と朴哲彦の間にわだかまりが残った。青瓦台で「向かうところ敵なし」だった許和平と、のちの「盧泰愚時代」を見据えた朴哲彦との間の「避けられない一戦」(朴哲彦の表現)だった。

 戒厳令が正式に解除されたのは124日だった。朴正煕暗殺直後から456日間、実に長い戒厳ではあった。

                         訳:波佐場 清