2026年4月7日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(7)

■首都警備司令官しのぐ権勢

大隊長の全斗煥は引き下がらなかった。

堂々と大きな態度で、時の実力者である朴鐘圭警護室長のもとを訪ねていった。朴正煕大統領を後ろ盾に持つ全斗煥中佐は、朴鐘圭に兄貴分のように仕えていた。遠慮することなど、なかった。尹必鏞事件のとばっちりで、あわや軍服を脱がされかねない危機に陥った時も、「兄貴」の朴鐘圭がかばってくれた。そのおかげで、軍で生き残ることができていたのである(恩返しとして朴鐘圭は80年代、IOC委員としていい思いをさせてもらうことになる)。

「砲兵出身の大統領閣下ならきっと、お分かりいただけると思います。81ミリ迫撃砲を配備し、有事の際には照明弾を撃てるようにしてください」

朴大統領は許可した。大隊長の権勢が首都警備司令官をしのいだのである。

▽北のゲリラ、青瓦台に迫る

その日から第30警備大隊は毎日30分間ほど、迫撃砲の発射訓練をおこなった。部隊員らは大変な思いをしたが、全斗煥中佐は「いざという時は寝ていても飛び起き、まず照明弾を撃て」と厳しく訓練した。

案の定だった。

1968121日、武装共産ゲリラの金新朝一味が潜入してきた。ひそかに休戦ラインを突破し、ソウル西部の恩平区にある津寛寺の野山を越え、夜の闇にまみれて低く匍匐しながら青瓦台の裏山にまで迫ったのだ。武装襲撃部隊である。

その日、全斗煥大隊長は久しぶりにいったん早く帰宅したが、また、部隊に戻っていた。その間、非常がかかって何日間も苦労しっぱなしの部隊員らをねぎらうために酒とつまみを用意し、大隊長室に部下たちを呼んで一杯やろうとしていた、まさにその時に突然、銃声が響いた。

紫霞門[青瓦台のすぐ北西の北岳山にある彰義門の別名]の哨所付近で、鍾路警察署警部の崔圭植(殉職後、警視長に追叙)らの班と金新朝一味の間で、銃撃戦が繰り広げられたのである。

▽訓練通りに照明弾

30大隊の砲撃手らは、照明弾を撃ちあげた。

実況見分で、同僚の遺体を確認する金新朝(中央)

訓練通りだった。青瓦台裏の北岳山一帯がパーッと明るくなり、武装ゲリラたちは仰天して逃げた。警備部隊はその日、現場で5人を射殺、その後10日余りにわたって軍と警察が協力して28人を殺害、金新朝の身柄を確保した(そんななかにあっても、武装ゲリラ3人は北へ逃げ帰ったと見られている。そのうちの1人、パク・ジェギョン(박재경)は1985年、南北会談でソウルへ北側代表団の随行員としてやってきた。鉄条網の地雷畑を匍匐で北に戻り、こんどは車で、板門店経由で韓国に来たというわけである)。

▽朴正煕夫人が直接、感謝

陸英修女史[朴正煕大統領夫人]が直接、電話をかけてきて恩人の全斗煥に感謝の言葉を伝えた。

朴正煕はその後、この殊勝な全斗煥の部隊を前触れもなく、いきなり訪ねた。

まだ薄暗い明け方、全斗煥中佐と部隊員は、上半身裸で練兵場を走っていた。朴大統領は「部隊のふろ場をちょっと見せてくれ」と言い、ざっと見まわった後で、こう言った。

「まったくひどいな」

朴大統領は警備大隊の建物の壊れた部分と浴場施設を特別予算で補修してやった。

▽運命変えた出会い

1969年、全斗煥は第30警備大隊長から、徐鐘喆参謀総長の首席副官に異動した。

そこで、運命を変えることになる人物と出会うことになる。

参謀次長の盧載鉉である(10年後の79年の「1212」、つまり「ハナ会」による反乱のその日、盧載鉉は決定的なカギを握る国防部長官という立場にいて、全斗煥ら反乱軍の側に立つことになる)。

参謀次長と参謀総長の部屋はくっ付いていて、盧載鉉と全斗煥は毎日、顔を合わせていた。釜山近郊の馬山(盧載鉉)と慶尚南道陜川(全斗煥)という同郷、つまりPK[釜山地域(P)と慶尚南道地域(K)のこと]2人は兄弟のように親しくなった。

この時点ですでに、徐鐘喆-盧載鉉-朴熙東(陸士3期)-全斗煥とつながる濃密な軍人脈ができ上っていた。

これが10年後、1970年代後半の維新末期に、参謀総長の人事をめぐって妙な具合になった。結果から言うと、鄭昇和[全斗煥らのグループと対立関係にあった]7921日に参謀総長になった時点から、目に見えない権力衝突の火花が飛び散っていた。そんなしこりが、その年暮れの「1212反乱」につながっていったのである。

▽朴煕東vs鄭昇和

李世鎬参謀総長[ベトナム派兵軍司令官などを経て753月~791月、参謀総長]の後任をめぐって暗闘が繰り広げられた。

国防部長官の盧載鉉[参謀次長から参謀総長を経て7712月から国防長官]は、第3軍司令官の朴煕東を参謀総長に推した。陸士3期の同期であり同郷という、特別に親しい間柄だった。朴煕東は、慶尚南道密陽の出身だった。

「閣下! 陸士2期の李世鎬総長の後任には、3期の朴煕東が行くべきではないでしょうか」

盧載鉉長官が朴正煕大統領に報告する際、たまたま、そこに秘書室長の金桂元が居合わせた。金桂元は、2人の人事をめぐるやり取りに、席を外そうとしたが、大統領はそのまま座っていろ、と言うものだから同席した。

盧載鉉長官は、朴煕東一人に絞って推薦していた。

大統領はあまり乗り気でない様子だった。金桂元は、砲兵の後輩でもある盧載鉉長官に言った。「閣下に推薦を申し上げるのなら、複数の候補を示すべきではないのか」

すると、盧載鉉長官は鄭昇和のカードを出した。大統領は「そっちの方がいいな」と言って、鄭昇和を指名した。金桂元氏が推測するに、盧載鉉長官はすでに車智澈警護室長との間で「朴煕東参謀総長」で一致しており、それで、一人だけの推薦となったようだというのである。

▽鄭昇和参謀総長

金載圭-金桂元-鄭昇和

車智澈-盧載鉉-朴煕東

このような対決構図のなか、金桂元はこう主張した。

「閣下! いまの陸軍参謀総長の李世鎬は陸士2期なので、3期(朴煕東)が後任になるのは間違ってはいませんが、同じ3期の盧載鉉長官はすでに参謀総長をやっているではありませんか。5期(鄭昇和)への世代交代が必要です」(3期と5期の間の4期は1948年の麗順反乱事件のあおりで、とくに人材はいなかった)

鄭昇和は陸士の校長をしていて朴大統領の息子の朴志晩[陸士37]の面倒をみるなど、朴大統領の信認が厚いTK[大邱地域(T)と慶尚北道地域(K]の人物(慶尚北道金泉出身)だった。

こうして鄭昇和陸軍参謀総長が誕生する。

▽「二重の立ち回り」

自ら描いた人事構想がひっくり返された車智澈は、頭をひねった。

部下の李在田中将(警護室次長)を呼び、盧載鉉長官が鄭昇和本人に参謀総長任命を正式に伝える前に、鄭昇和に直接電話をして次のように祝ってやれ、と命じた。

「当然、鄭昇和参謀総長で決まりなのに、盧載鉉長官が朴煕東を推すなんて、お話にもなりません。大統領閣下が快く鄭総長を選ばれたとのこと、何よりです。ほんとうにおめでとうございます」

車智澈の裏表のある「二重の立ち回り」だった。

車智澈からこのような伝言を聞いた鄭昇和は「警護室長は、国防長官と参謀総長の間を裂こうとしている」と感じたという。もちろん、警護室次長からの電話を受ける前に鄭昇和は、金載圭情報部長から、恩着せを兼ねた「ホンモノ」の祝賀の電話をもらっていた。

▽ベトナムの戦場へ

全斗煥は1970年、ベトナム戦争に参戦した駐ベトナム白馬部隊第29連隊長になった。

徐鐘喆参謀総長の首席副官からベトナムに赴任するにあたって全斗煥は、自分の後任に友人の盧泰愚を指名して進言した。しかし、徐鐘喆総長は「盧泰愚はきびきびしておらず、瞬発力も劣る。首席副官には向かない」と手を左右に振って強く拒んだ。

すると、全斗煥は隣の部屋の参謀次長盧載鉉のところへ行き、盧泰愚への援護射撃を頼んだ。

「同じ盧氏同士なのだから徐総長を説得し、なんとか盧泰愚を引き受けるよう、助けてやってください」

                      訳:波佐場 清

2026年4月4日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(6)

  ■「5・16」助けた支持デモ

1961年、朴正煕が「516クーデター」を起こした。

朴正煕や金鍾泌らが、張勉政権を3600人の軍人と戦車でひっくり返した。しかし、米軍の反発や李翰林第1軍司令官らの抵抗で、成功するかどうか不透明だった。まかり間違えば、かつての開化派金玉均の「三日天下」[1884年の甲申事変。クーデターで新政権を立てたが、3日後に清軍の介入で失敗、金玉均は日本に亡命]のように反乱軍にされてしまう。そうなると、銃殺される恐れがあった。

その点、金鍾泌は後に「革命であれクーデターであれ、3日間が勝負だ。それは古今東西を問わず、同じことだ」と筆者に語っている。

ソウル市民らも不安を募らせていた。

クーデターが起き、張都暎[当時、陸軍参謀総長。朴正煕らに擁立されたが、2カ月足らずで失脚]と朴正煕の戒厳軍が入ってきたものの、どうなるか、まだ闇の中だった。カーター・マグルーダー米第8軍司令官をはじめとする在韓米軍や張勉政権派の将官たちの反発にクーデター軍は焦り、冷や汗をかいていた。

▽「革命は軍全体の意思」

この時、大尉の全斗煥は、ソウル大学で学軍団(ROTC[学生軍事教育団。大学に通いながら将校を目指す制度]の教官をしていた。

朴正煕将軍の革命はなんとしても成功させなければならない!

全斗煥は陸士同期の李相薰(盧泰愚政権で国防部長官)らと連絡を取り、陸士の生徒で「クーデター支持デモ」をすることにした。折から、クーデターに加わった金鍾泌、呉致成 らもそのことを待ち望んでいた。

「陸士出身の将校と陸士の現役生徒がいっしょになって支持デモをおこなうことで、革命が軍全体の意思であり期待なのだ、ということをソウル市民や国民の前に示すべきだ」

全斗煥はそのように煽った。李相薰大尉らはデモのコースと時間を決め、放送用のメッセージや決議文を作った。張勉政権の擁護に回った姜英勲陸士校長(中将。のちに盧泰愚政権で国務総理)が懸命に全斗煥、李相薰大尉らを止めようとしたが、及ばなかった。

▽成功への分水嶺

3日目の61518日、陸士の生徒らは、正装してソウル泰陵の陸軍士官学校を出発、東大門~半島ホテル(現ロッテホテル)~市庁のコースを街頭行進した。その後に「革命軍」の腕章を巻いたクーデター軍が続いた。ソウル市民らは沿道で歓呼し、拍手を送った。もう世論は完全にクーデター軍の側についていた。

陸士生による「クーデター支持デモ」=1961年5月18日

「陸士生徒の市街行進が、クーデター成功の分水嶺となった」と張勉首相の秘書官だった鮮于宗源は、筆者に話した。金大中もその点、疑いの余地はない、と筆者に語った。米国も、政権擁護派の軍部も、すでにもう、朴正煕のクーデター軍をひっくり返す力はなくなっていた。全斗煥も「陸士の支持行進が、不確実で、まだ流動的だった(クーデター成功の)流れを決定的なものにしたと自信を持って言える」と述べたとする記録も残っている。

 

■「政治をやらないか」

516」の朝、自らの人生を賭けた「最後の株券」1枚を引っつかんだ全斗煥大尉は、革命勢力の末席に割り込んだ。そうした言動が、同郷の朴正煕の目に留まり、国家再建最高会議[朴正煕らがクーデター直後に設立した最高統治機関]の民願秘書官に抜擢された。

秘書官をしていたその頃、陸軍上級将校課程(OAC)への入校命令を受けた。全斗煥は引っ越し荷物をまとめたあと、最高会議議長朴正煕のところへあいさつに行った。朴正煕は手放しで喜び、こんなことを言った。

「おまえ、退役しないか。共和党に入って政治をやってみろ」

「閣下、自分は、政治のことは分かりません。いちども考えてみたこともありません。自分には向いていないと思います」

「他の者はみんな、政治をやりたいというのに、おまえは、やれというのにできない、と?」

「陸軍大尉で、金もなく、政治は難しいのではありませんか。どう考えてみても、自分には分不相応なようです」

▽「軍に残るのがいいようです」

全斗煥は、家族と相談してみたいと言って、その場の返事を避けた。

すると、朴正煕は急に怒り出し、「どうしてそんなことを家の者と相談したいというんだ。 そうか、それなら分かった。もう帰れ」と逆情した。そうして追い出されるように出てきたが、その日は、よく眠れなかった。ところが翌朝、朴正煕議長の秘書室長に呼ばれてまた、そこへ行くと、朴正煕は意外にも、あっさりしていた。

「いまいちど考え直してみたんだが、全大尉の言い分もわかった。軍に戻って正統なコースを歩み、立派な指揮官になるのも、国に忠誠を尽くす道だ。きのうワシが何かと怒ったことは、すまなかった。気にしないで、帰ってしっかりと勉強し、軍生活をうまくやれよ」

「はい。どう考えてみても自分は軍に残るのがいいようです」

こうして朴正煕と全斗煥は、互いに堅い信頼の握手を交わして別れた。これが2度目の出会いだった。全斗煥はこの時のことをよく、こう自慢していた。

「朴大統領はそんなわたしのことが気に入り、殊勝だと思ったんだ。みんな政治にかぶれて権力を握りたいと騒いでいる。それなのに軍に残りたいというのが、気に入れられたようだ。5・16のあの時、そのまま政治の世界に入っていたら、せいぜい、どこかの省(部)庁の長官一つなりともやって、終わっていたことだろう」

 ▽3人の恩人

1963年、朴正煕の軍政が民政に移行した直後、全斗煥大尉は大隊長として出ることになり、朴正煕議長のところへあいさつに行った。ちょうど、そこに中央情報部長の金容珣がいた。金鍾泌のあとを継いで2代目の情報部長になったばかりだった。金容珣部長が「では、全大尉を連れて行きます」と言うと、朴大統領はうなずいた。

全斗煥は初め、何のことだかよく分からなかったが、金容珣部長が「全斗煥を情報部で使いたい」といい、朴大統領は「そうしろ」と裁可したのだった。こうして全斗煥は大隊長に出る代わりに、中央情報部に勤務することになった。ところがその後、金容珣はすぐに情報部長を辞めてしまい、後を継いだ第3代部長の金在春にもしばらく仕えることになった。

こうして全斗煥は南山の情報部で、人事課長として半年余りを過ごした。このとき、全斗煥が情報部に提出した人事記録カードの身元保証人は、李圭東、朴鐘圭の2人。これに朴正煕をあわせると、かれの生涯を左右した「3人の恩人」ということになる。

▽ライバル失脚

 全斗煥は少佐に昇進し、陸軍本部の人事参謀部や陸軍大学を経て、第1空挺特戦団の大隊長代理として赴任した。さらに中佐に昇進し、第1空挺特戦団副団長から、67年ごろには首都警備司令部[のちの首都防衛司令部]の第30大隊長になった。第30大隊(のちに第30警備団)は青瓦台を警備する部隊で、後日、「1212クーデター」の現場となるところだ(1979年の1212クーデターのその時は、全斗煥の右腕、張世東大佐が第30警備団長だった)。

全斗煥の前任の第30大隊長は孫永吉中佐だった。

孫永吉は、朴正煕少将が師団長だった時期の専属副官で、陸士11期の全斗煥、盧泰愚、金復東らと同期だった。「朴正煕の忠僕」として知られていたが、73年に「尹必鏞不忠事件」[当時、首都警備司令官として絶大な権力を握っていた尹必鏞少将が、朴正煕大統領の「後継者」に言及したことが逆鱗に触れ、処罰された事件]に巻き込まれて、軍服を脱いだのだった。

▽青瓦台警備で大手柄

朴俊炳、張世東、許和平らによると、全斗煥中佐は青瓦台の周りを警備する第30大隊長をしていた時期に大手柄を立て、朴正煕の厚い信任をさらに積み重ねることになった。

全斗煥は、北岳山[青瓦台の後ろにあり、標高342メートル]に向けて迫撃砲を配備する計画を立てた。夜間にスパイでも現れたりしたら青瓦台の背後一帯に照明弾を撃ち、真昼のように明るくして撃滅すべきだ、とする構想だった。ふつうの場合、歩兵大隊は3個の小銃中隊と火器中隊1個で編成するのだが、当時、第30警備大隊は迫撃砲を倉庫にしまい込み、遊ばせている状態だった。

とはいえ、その迫撃砲が向けられる北岳山方向には、まさに至尊の大統領がおられる青瓦台があり、「不忠」にもなりかねない構想だった。首都警備司令官の崔宇根将軍でさえ、そのアイディアに首を横に振った。大統領閣下に礼を欠くというのだった。

                          訳:波佐場 清

2026年4月1日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(5)

「騒ぎを起こし、後始末はできない」

佐官級に昇進するまで、妻の実家に身を寄せていた。その時期、義理の両親を実の親のように大切にしながら、いっしょに暮した。全斗煥はそんな日々をよく振り返った。

▽妻の実家に10年間

「妻の実家に10年間、3人の子どもを授かるまでいた。わが国のことわざに『粟の3粒もあれば、妻の実家に身を寄せるな』というのがあるが、(妻の実家がよくしてくれたものだから)ワシは今、良心に照らして言うが、やましいことは何一つない。義父や義母に嫌な思いをしたことはなかった。いま米国にいる2番目の息子まで妻の実家で育てた。ワシはちょっと、タチの悪い男なので、少しでも疎まれているような気配を感じていたら、たとえ飢え死にしようと、そこを出ていただろう。居候をするにしても、でっかい顔をしていないと、な。あそこでは、本当に情が深く通い合っていたんだ」(1986111日)

実の父母以上の恩を受けたのである。

▽「副官という柄ではありません」

1960年ごろ、全斗煥が中尉のとき、義父の李圭東将軍は、陸士同期の朴正煕のところに全を連れて行って紹介した。朴正煕がソウル永登浦の第6管区司令官だった頃で、義父は朴正煕司令官に、この自慢の娘婿の将来を頼んだ。

朴正煕司令官は、いきなり、全斗煥に言った。

「おまえ、ここに来てワシの副官にならんか」

全斗煥は辞退した。

「自分は、副官という柄ではありません」

全斗煥が「ありがたく、光栄ではありますが、申し訳ありません」と言うと、朴正煕はうなずいた。こうして朴正煕少将と全斗煥中尉の2人は、李圭東を仲立ちに、初めて顔を合わせたのだった。

▽物おじしない図太さ

副官という柄ではない、という全斗煥。

全斗煥の物おじしない、外向的な性格について、そのころ近くで見ていた李瑛珍(陸士12期、在米の事業家)の回顧が興味深い。

1958年ごろ、全斗煥先輩から、ビリヤードでもしようと誘われれば、しばしば、いっしょに付き合ったりしていた。1年ほどして、かれはソウル鍾路区桂洞の夫人宅で新婚生活に入ったが、その後も、かれの部屋で食事したりして親しく過ごした。実際のところ、かれの物おじしない図太さには、一目置くべきものがあった。自分が好きになりさえすれば、相手が女性であれ、後輩であれ、当然、相手も自分を好きになるものだ、と決めてかかる自信――それはまさに、そんな男らしい図太さからきていたのだと思う」

▽事を起こしておいて、後始末ができず…

全斗煥、盧泰愚といっしょに米国の特殊戦学校(ノースカロライナ州フォートブラッグ)に行っていた時の、李瑛珍の思い出――。

米国留学時代の全斗煥(中央)、盧泰愚(右端)、李瑛珍(左端)=1959年8月

1959年に全斗煥、盧泰愚と私(李瑛珍)の3人でニューヨーク見物に行ったことがある。特殊戦教育の前期課程を終え、空いた時間を利用して私が運転する車で出かけた。ニューヨークに近づくと、車線が多くなり、行き交う車も多くなったが、そこで、全斗煥先輩がどうしても自分で運転したいというものだから(その時は運転免許の取りたてだった)やむなくハンドルを譲った。不安になった盧泰愚先輩が、後部座席にいて止めさせようとしたが、全斗煥先輩は頑固で、お構いなしだった。ところが、全先輩はうっかり道を間違えてしまった。マンハッタンの方へ入ろうとしていたのに、また、高速道路に出てしまうかと思うと、マンハッタン北部のハーレムに迷い込んでしまった。そこのガソリンスタンドで給油をして出ようとしたところで、黒人の車にぶつかり、押し問答になってしまったりもした。事を起こしておいて後始末ができず、周りを不安がらせる。そんな彼の性格の一面がよくあらわれていた」

▽仲たがい

そんな無鉄砲なやり方が合わず、李瑛珍は全斗煥から離れていった。その経緯――。

「実際、全斗煥先輩と近しくなる機会は多かった。しかし彼といっしょにいようとすれば、予測困難なその行動が不安になり、なんの説得力もなく、ただ、後輩は先輩に無条件で従うべきだという、とんでもないプライドと自信が嫌だった。良いにつけ、悪いにつけ、ともかく私生活を共にするほかない米国で、わたしたちは、お互いに遠ざけようとしたのだが、ごく些細なことでも衝突は避けられなかった。帰国するころには、わたしと全先輩の間は相当に悪くなっていた」

米国留学を終えて帰国すると、李瑛珍中尉は、陸軍本部の特戦監室に発令された。特戦監の李贄衡将軍への転入申告を終えて出てくると、全斗煥はちょっと離れたところから見ていて、一言投げつけた。そばにいた盧泰愚も聞いていた。

李瑛珍、貴様、同窓会の名簿から除名してやるからな!」

なんということを言うのか…。

おそらく後輩の李瑛珍が先輩を差し置き、ひとり、陸軍本部特戦監室に発令されたのが不満だったようだ。こんなとき、何も言い返さなかったら、まるで裏でロビーでもしたのではないか、と疑われてしまう。

「全先輩、誤解しないでください。この発令はわたしも知らなかったことなんです」

李瑛珍中尉は、全斗煥先輩につっけんどんな口ぶりで弁明せざるを得なかった。

                              訳:波佐場 清

2026年3月29日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(4)

 ■朴正煕と陸士同期の義父

 全斗煥と朴正煕大統領の「根深く長い因縁」(許和平)は1950年代にまで遡ることができる。

 ここで、全斗煥の義父李圭東が登場してくる。

 朴俊炳の述懐や張世東のインタビュー記録、許和平の記録『私の考え、私の回答』などが伝える壮大な「全斗煥物語」は、韓国近現代史のひとコマであり、そのまま一編のドラマである。

 ▽ビリから3番で陸士合格

 全斗煥が陸軍士官学校(陸士)に入学したのは1951年だった。

 砲声まだ止まぬ戦乱[朝鮮戦争]のさなか、北緯38度線をめぐって一進一退の緊迫した状況だった。サクラが咲き誇る後方の鎮海(慶尚南道)で4年間生活が保障される将校養成コース、陸士は大変な人気だった。200人の募集に1400人が出願、7倍の競争率だった。大学生から入隊した学徒兵など下士官兵の応募が多く、合格者の3分の1がそういう者たちだった。盧泰愚、鄭鎬溶、白雲澤も下士官兵から陸士に進んだ。28人の補欠を含め、計228人が選抜されたが、全斗煥の成績は正確に言ってビリから3番目の226番だった。

 ぎりぎり、滑り込みの合格だった。 

全斗煥は1951年、陸軍士官学校に入学した
 228人はこのあと、20日間の基礎軍事訓練と称した厳しい体力テストを受け、28人が振るい落とされた。最後まで残った200人は成績順に25人ずつ、8班に編成された。鄭鎬溶はのちに「全斗煥将軍とわたし(鄭鎬溶)は8班だった。ところが、8班から将官が最も多く出た。後輩たちの期数も似たような結果になっており、陸士では『8班は将官班だ』と言われていた」(7912月、記者たちの前で)。

 ▽満州たたき上げの軍人

 全斗煥らが陸士に入ったとき、陸士の参謀長[旧日本軍でいうと、陸士の幹事に相当]は李圭東将軍だった。李は満州でたたき上げられた軍人で、同じく満州出身で韓国陸士2期の朴正煕や金載圭らといっしょに韓国軍に合流した。

 全斗煥はサッカー部に入り、ゴールキーパーやキャプテンとして活躍した。

 折から陸海空3軍士官学校体育大会の開催責任者が李圭東だった。かれは、勇ましくも気さくな全斗煥に注目し、娘の李順子を託して19591月、娘婿にした。結婚式の祝辞は盧泰愚中尉にしてもらったのだが、その盧泰愚は披露宴で見事な口笛を披露し、拍手喝采を浴びた(その5カ月後に盧泰愚も結婚するが、司会は全斗煥が受け持った)。

 この結婚が田舎青年の人生を変えた。

 一躍、将軍家の婿養子になったのである。貧しかった田舎出身の青年の輝かしい成功神話――それは、かれが生涯、親族という足かせに苦しめられるという、影をも落とすことになる。

 ▽せめて面長ぐらいには

かれは慶尚南道陜川で、着るものもなく、腹を空かせていた少年時代のことをこう振り返っている。

 「田舎で法事のとき、豚一頭を潰すと村の子どもたちがどっと寄って来て列をつくり、肉をもらって食べるんだ。様子をうかがっていて、もう一度並び直して、ご馳走にありついたりもした。豚肉二切れほどを手に入れて家に帰ると、それを豚汁にして家族全員で食べた。肉をもらってきたからといって、その子だけが特別よけいに食べるだけのご飯もない。そのように貧しかったころ、親たちはしっかり勉強して、せめて面長[村長]くらいになって食べていけと、まあ、そんな具合だ。金持ちになれ、なんて大それたことは言わない」(1986523日)

 「ワシは、ムク[/ドングリの粉でつくった「こんにゃく」]が大好きだ。農村出身ならテンジャンチゲ[味噌鍋]が嫌いなわけがない。食べるものといえば、それだけだったんだから。ワシらの子どものころは、味噌にマクワウリの皮だとか、スイカの皮とかを入れて煮ると、汁物とも味噌煮ともつかないものになり、みんな、うまそうに食べたもんだ」(86323日)

 ▽8歳で、満州へ

 全斗煥が8歳の時、一家は満州へ引っ越した。

 父親の全相禹が問題を起こした。

慶尚南道陜川の故郷の村で、遊び人の借金の保証人になって先祖代々の土地を形(かた)にとられてしまったのだ。それで、その土地のことが問題になり、駐在所の巡査部長(日本人で「シオヅキ・カツヤ」といった)に出頭を求められたが、応じなかった。そんなとき、村の入り口の川の土手で巡査部長と出くわした。巡査部長が捕縄で縛ろうとすると、父は巡査部長の腰のあたりをつかんで堤防の下に投げ飛ばしてしまった、という。

それで、逮捕を恐れて満州へ逃れ、家族も後を追って満州へ行ったのだった。

満州では、吉林省磐石県呼蘭鎮に身を隠した。

▽2年で戻り、大邱で間借り

少年全斗煥はそこで、呼蘭普通小学校1年生として学校に通った。しかし、母親が故郷に帰りたがり、2年後の1941年、家族で故郷に戻ってきて大邱に落ち着いた。全斗煥の回顧――。

「大邱でのわが家は不遇だった。父は日本語がよくできるわけでもなく、特別に仕事ができるわけでもなかった。それで、何の基盤もない大邱で貧乏暮らしをするほかなかった。娘が一人いる老人の家に間借りをして住んだ。食べるものがなく、週に麦飯を2度食べればいい方で、昼食は抜く日の方が多かった」

▽「掘っ立て小屋の子」

翌年、大邱の内唐洞の山の斜面に掘っ立て小屋を建て、そこに移り住んだ。

何本かの柱を立てて藁(わら)束で周りを囲った、いわば旧式ビニールハウスといったようなものだった。床に藁(わら)を敷いて寝るので、朝起きると、叩(はた)いても叩いても藁屑がくっついており、村の子どもたちからは「掘っ立て小屋の子」とからかわれた。背負子(しょいこ)で水を運び、裏山でたきぎを拾い集める日々だった。家族全員、草の粥で命をつないだ。全斗煥は後年になっても、決してご飯にお湯を注いで食べたりはしなかったという。草粥の時代を思い出すのが嫌だったからだった。

▽「記憶力に富み、責任感旺盛」

全斗煥少年は、正規の小学校に入学することすらできなかった。

金剛学園というところに入って非正規の教育を受けていて、喜道小学校の5年生に編入した。教師は学籍簿に「すべてに熱意あり。注意深さ、記憶力に富み、責任感旺盛」と記した。

6年制の大邱公立工業中学校の機械科に入学、サッカー部でゴールキーパーとして活躍した。貧しい家庭事情から、学校に通いながら新聞配達、漢方薬配達、納豆配達のようなこともしたが、配達先の家々で犬に吠えられ、飛びかかって来られたりもして、ひどい目に遭った。そんなトラウマから、かれは生涯、犬を嫌った。

▽日本人の納豆工場をクビ

大邱での中学時代も悲惨だった。

「日帝の強占(植民地)期、10歳のときに、大邱に住んでいた日本人の納豆工場に就職したんだ。それを食べる日本人の家に配達するのが仕事だった。そこの人たちはひどかった。学校が休みの日曜日に配達を終えると昼ご飯の時間になっていたが、かれらは自分たちだけで食べていて、ワシには食べろという声一つ、かけてくれなかった。

ある日、ワシが納豆を荷車に載せて一人で坂道を下っていた時のことだ。ワシの体重が軽いものだから、ひっくり返る事故を起こしてしまった。納豆にすっかり泥がついて食べられなくなると、工場を辞めろと通告された。首になったのだ。ワシの不手際だったとはいえ、お金を一銭ももらえないまま、追い出された」

▽「今に見ておれ」

「新聞配達もしてみた。大邱の漢方薬局通りで薬の運搬もやってみた。しかし、どれもこれも、うまくいかなかった。ワシはずっと、そこでがんばりたかったのだが、主人が出て行けという。まだ年が若すぎるというんだ。そんななかでも、ワシは不幸だと思ったことはない。いつかはおまえたちより、きっと、よくなってやる、いまに見ていろ、という気持ちだった。日本語で『よおーし!』と、な」(1986711日)

そんな少年が陸士に入り、将軍の娘婿になったのである。

                       訳:波佐場 清

2026年3月26日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(3)

 ■車智澈への牽制役

 車智澈には金鍾泌が言っていたように、どこか「間抜け」のようなところがあった。そんな人物を晩年に重用した朴大統領も判断力が鈍っていた、と申鉉碻(当時の副総理)は酷評している。

 1977年、文洪球首都軍団長が警護室長の車智澈に、かしづいていた時のことだ。

 ▽「青瓦台を網で覆え」

 車が、文将軍はじめ警護室幹部らを集合させておいて、一席、こんな訓示を垂れた。

 「北朝鮮の空からの浸透は、休戦ラインからの風を利用すれば、パラシュートで青瓦台本館の屋上に降り立つことも可能だ。よって、本館全体を昌慶苑(動物園)の鳥類保護網のように覆う計画をつくれ」

 文は、ためらいながら反論した。

 「ほかの方法ならいざ知らず、本館全体に網をかぶせるというのは、ちょっと難しいと思います。国民の家は放っておいて、いくら差し迫った事情があるからといって、大統領の家だけをあんなふうにするのか、と言われたら、何と答えたらいいのでしょうか。青瓦台は、外国の元首や外交官がしょっちゅう出入りするところでもありますし…」

 車智澈はそれでも、まともに聞こうとせず、ほかの将官に任せたが、結局のところ、とんでもない発想であったため、うやむやになった。

 ▽90度の礼

 文洪球の回顧は続く。

76年に初めて警護室に入ると、車智澈が室長だった。車に会うと、専属の副官を呼んだ。その時、副官は90度に深く腰を折って礼をした。「まるで天皇陛下にでもしていたような最高の礼だ」と旧日本軍で訓練を受けていた文は思った。車は、こう言った。

「われわれ警護室の人間は全員、あのようにしなければなりません。文将軍もあのように室長に礼をすべきです」

警護室の要員には、ドイツのナチ親衛隊の服装に似た制服を着させていた。そうして迎賓館の大ホールに整列させ、大統領に忠誠を誓う杯を挙げるのだった。

「車智澈が朗々とした声で大統領万歳の音頭を取り、『命をかけて閣下を守る』というスローガンを声の限りに叫ぶ。その様子は真面目なようでもあり、また、見ようによっては偽善のようにも見えた。そんなことを言っておきながらも1026の大統領暗殺現場ではトイレに逃げ込んだ車智澈のではなかったのか」(文洪球回顧録)

▽非難の的

そのころの車智徹の振る舞いのひどさは、まったく目に余り、非難の的となっていた。

青瓦台の秘書室では、午前7時半に首席秘書官会議が始まり、8時~8時半の間に秘書室長がその内容をまとめて大統領に報告していた。報告案件で説明が必要なときは、担当の首席秘書官が秘書室長についていく。ある日、政務首席秘書官の高建が金桂元秘書室長のあとについて朴大統領の執務室に入った。

 そこに警護室長の車智徹が先に、来ていた。

 警護上の緊急の懸案など、あろうはずもないだろうに、車智澈は譲ることもなく、後ろ手に組んだまま立っていた。大尉出身の警護室長が、特別に急ぐこともない報告を、陸軍大将出身の秘書室長金桂元に譲らないというのか? 1026の大統領暗殺事件が起きると、青瓦台の内外あちこちから「車智澈の奴(やつ)、とうとう、やらかしてしまったな」との陰口が聞かれた(高建の証言)。

 車智澈は口のきき方も横柄だった。

 ▽「老いぼれ、死んでしまえ」

 国会議長の白斗鎮(190893)は車智澈より26歳も年上だったが、部下のように扱った(実際、白斗鎮は国会で車智澈系だったとする記録は多い)。金桂元79年に合同捜査本部でおこなった陳述の記録にも車智澈の図に乗った言動のことが出てくる。

 79620日――つまり、1026の約4カ月前のことだ。

 朴正煕大統領は、ソウルを訪れた日本の福田赳夫元首相と京畿道・器興の冠岳ゴルフ場(現在のリベラ・カントリークラブ)でゴルフをした。そこに金桂元、車智澈白斗鎮もいっしょに加わった。プレーの後、風呂に入ったのだが、シャワー室の数が少なく、最初に入った白斗鎮を裸のままで待っていた車智澈が、たまりかねて、言い放った。

 「おい、早く出ろよ。老いぼれは、さっさと死ぬべきだ」(車智澈)

 「申し訳ありません」(白斗鎮)

77年ごろ、国防部長官の盧載鉉は、首都軍団長の文洪球を呼んで慨嘆した。

 「車智澈は最近、あまりにも我儘(わがまま)が過ぎる。どう思いますか。このようなこと、大統領閣下はご存知なのでしょうか」

朴正煕政権最後の国防長官盧載鉉(左)と朴大統領=19793

そんな盧載鉉の鬱憤を見ていた青瓦台作戦次長補の盧泰愚も回顧録の中で「盧載鉉長官は、車智澈室長が軍に干渉するのを苦々しく思っていたし、車室長は、金載圭情報部長とは昔から関係がよくなかった」と書いている。

 ▽「抑え役」全斗煥

 国防長官の盧載鉉は、全斗煥少将は自分の味方であると確信していた。

 全斗煥が保安司令官になれば、車智澈室長を牽制できるとみていた。そんなところへ、情報部長の金載圭と秘書室長の金桂元は、盧載鉉と「グル」ではなかったにせよ、車智澈には、ほとほと愛想をつかしていた(実際のところは、保安司令官の後任として金載圭は首都軍団長の文洪球(中将)を、車智澈は警護室次長の李在田(中将)を、それぞれ密かに望んでいたと盧載鉉は後日、全斗煥に話している)。

 車智澈を抑え込むには、全斗煥しかいない!

 国防長官盧載鉉のアイディア――大統領閣下が十数年にわたって可愛がり、南侵トンネルも発見した全斗煥なら、きっとうまくいくだろう、という計算は当たった。

 ▽大統領への街道

 しかし車智澈だけは、この決済が出ると、盧載鉉長官に不満をぶちまけた。

車は「閣下も最初は、あまりにも早すぎる、と否定的だった人事ではないか」と盧載鉉に厳しく当たった。ただでさえ、朴大統領に可愛がられている全斗煥を警戒し、迫害してきた車智澈である。

そんな紆余曲折のなかで、全斗煥は保安司令官になり、翌年、だれも想像することすらできなかった、大統領への街道を歩んでいく。嵐が吹き荒れる、流血の、おどろおどろしい道ではあったが、1026の変乱に乗じて「ハナ会」という軍閥は、全斗煥を押し立て、一糸乱れぬ進撃をしていったのである。

                            訳:波佐場 清 

2026年3月23日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(2)

 ■全斗煥の3人の恩人

 全斗煥には生涯、3人の恩人がいた。

 李東圭(義父)、朴正煕、そして朴鐘圭(元大統領警護室長)である。

 朴正煕は、第3共和国および維新政権(第4共和国)の大統領として軍人全斗煥を異例の抜擢で育て上げた。朴大統領は全斗煥大佐を、第1空挺特戦旅団長▽73年の将官進級▽75年の青瓦台警護室勤務▽78年の師団長赴任▽793月の国軍保安司令官――と、その節目、節目で特別に面倒をみてやった。

 ▽「朴正煕の養子」

 それで、「朴正煕の養子」と呼ばれたりしていた。

 東亜日報の故姜聲才記者(元青瓦台担当、2002年死去)は「全斗煥と金復東[全斗煥と陸軍士官学校(陸士)同期、妹は盧泰愚夫人]は、朴大統領の養子と言われている」と言っていた。全斗煥が第1師団長の時、その管轄区域の京畿道坡州を選挙区とする国会議員朴命根(共和党)が、党の公認取り付けに力添えしてほしいと師団衛兵所[詰所]の前で跪(ひざまず)いたというから、なるほど、その陸軍少将としての威勢ぶりは察しもつこうというものである。当時の駐韓米大使グライスティーンの回顧録にも全斗煥に関し、「父親のような朴正煕」とするくだりが出てくる。

 「70年代以降、全斗煥大佐をはじめとする『ハナ会』[全斗煥らが軍内部につくっていた秘密組織]の何人かの将校は(朴大統領からもらった貴重な)日本車のクラウンセダンを持っていた。将官クラスでもジープか、韓国車のコロナだったのに、かれらは違っていた。ハナ会の会長は全斗煥で、会員らは活動費をもらっていた。財閥からも支援金をもらい、大統領からも活動費をもらっていた。役職によっては『一心』[ハナ会の「ハナ」を意味した]という文字が入った指揮棒をもらっていた」(1979年当時の合同参謀本部長、文洪球の回顧)

 ▽保安司令官に大抜擢

 そんな全斗煥の「ハナ会」を後援した先輩グループに尹必鏞、朴鐘圭、徐鐘喆、黃永時、車圭憲、 兪学聖陳鍾埰らがいた。

 維新政権末期の793月、第1師団長全斗煥の保安司令官への抜擢は軍隊社会にあって、まさに驚天動地といえる事件だった。

 少将の階級で「天下の第1師団長」になったのも早かったが、その師団長も12カ月で卒業し、中将が赴任するポストである保安司令官というのだから、みな、驚くほかなかった。

 そのパズルから解いていかなければなるまい。

 保安司令官というポストにいたからこそ、その1年半後に、大統領にまで上り詰めることができたのだから……。

 全斗煥の前任の保安司令官である陳鍾埰まで、保安司令官は三つ星(中将)以上のポストだった。陳鍾埰の前任の保安司令官金載圭も、朴正煕の陸士同期かつ中将だった。ところが、二つ星、それもまだ若造の四十代の少将が、前任の陳鍾埰が第2軍司令官に出たあとを引き継いだのである。

 ▽維新末期の「パワーゲーム」

 陳鍾埰司令官は、大統領警護室長の車智澈 [中央情報部長の金載圭と対立、朴大統領と共に金載圭に暗殺された]が中傷したせいで、追い払われた。

1961年5月のクーデター直後の朴正煕(中央)、朴鐘圭(左)、車智澈(右)

 陳鍾埰司令官は、車智澈
の指揮下にいた警護室の某将官を呼んで賄賂容疑で調べた。しばらくして陳鍾埰は、警護室のある警護官の思想問題について朴大統領に直接報告した。そんなこともあって陳鍾埰は車智澈に睨まれ、第2軍司令官に左遷された。

 アイロニーというほかない。

 かつて車智澈室長のもとで警護室作戦次長補として、あれほどまでに気苦労を重ねていた全斗煥少将が、朴大統領の暗殺という車智澈の敷いたレールに乗り、遂には権力の頂点にまで駆け上がったのである。いかにも摩訶不思議な人生物語の一断面といえる。

 全斗煥の保安司令官抜擢には、黄昏に差しかかった維新政権末期の凄まじい「パワーゲーム」が影を落としていた。そこからは長期政権に酔いしれた朴正煕の権力欲、忠誠独占欲を読み取ることができる。筆者は、朴大統領の最後の秘書室長だった金桂元氏(1923~2016)から生前、全斗煥が保安司令官に昇進した背景について聞いたことがある。

彼は笑いながら、こう答えた。

「朴大統領の抜擢人事でした。全斗煥が好きだったのです」

 ▽国防長官盧載鉉が推挙

 全斗煥を保安司令官に推挙したのは、国防部長官の盧載鉉だった。

 金鍾泌、金桂元、鄭昇和、朴俊炳、張世東、許和平らの証言や記録を総合してみても、その点は完全に一致している。

 それにしても、なぜ、全斗煥だったのか?

 当時、大統領警護室長の車智澈は数々の越権行為や横暴で、軍部と権力中枢にあって、みんなの「共通の敵」であり、憎悪と指弾の的になっていた。

                            訳:波佐場 清

 


2026年3月20日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(1)  

 韓国が民主化して40年になろうとしている。軍事独裁政権下、大統領を直接選ぶことなどを求めて立ち上がった民衆の抗争は1987年、血涙で現行の民主憲法を勝ち取ったのだった。以来、この国の民主主義は順調とばかりもいえなかった。大きな危機もあった。一昨年12月の尹錫悦前大統領による非常戒厳の発令はその最たるものだった。現職大統領が軍事力で国会の機能を止めようとした、この「上からのクーデター」の企ては、すんでのところで食い止められたのだった。そんななか、語られたのは軍事政権下の「80年代の教訓」だった。市民、政治家、そして戒厳で動員された一部兵士までもが、その教訓を生かし、体を張ったのである。

 一方でこの間、「不断の努力」も続けられてきた。あの時代の歴史の掘り起こしも、その一つである。先頭に立つ一人に元東亜日報記者の金忠植さんがいる。韓国が民主化されて間もない1990年代初め、金さんは、朴正煕政権(1961~79年)の暗部を抉(えぐ)った「政治工作司令部KCIA――南山の部長たち」を同紙に連載。大反響を呼び、単行本として出版されると50万部を超すベストセラーとなった(日本語版は『実録KCIA』講談社)。KCIAとは、朴正煕政権の独裁権力を支え、その所在地から「南山」の隠語で呼ばれた韓国中央情報部のことである。

 その連載から30余年――。金忠植さんは新たに、その続編を書き下ろした。韓国で「第5共和国(5共)」といわれる全斗煥政権(198088年)の権力内部に切り込んだ『5共 南山の部長たち』(全2巻、2022年出版)である。ここでは全斗煥政権下5人の「南山の部長」(中央情報部長1人と、名称変更した後身の国家安全企画部長4人)を軸に、その軍事政権の闇を暴いている。その内容をここに、訳出したい。

 日本の民主主義が危うくなってきている。韓国では、自らが「たたかい取った」その民主主義と比べ、日本の「与えられた」民主主義の脆(もろ)さを指摘する声がある。韓国の民主主義とは、どんなものなのか――。

            立命館大学コリア研究センター上席研究員  波佐場 清 



金忠植(キム・チュンシク)

1953年、全羅北道生まれ。

77年、高麗大卒。

東亜日報に30年間在職し、主に政治部で国会、政党、青瓦台、外務部を担当。文化部長、社会部長、東京支社長など。

慶応大学博士。

現在、嘉泉大学教授。

  1章 男が行く権力街道、そこをどけろ

48日間の「お手盛り」情報部長

中央情報部(KCIA)の第10代部長は全斗煥である。

1961610日、ソウルの南山中腹に中央情報部を創設したのは金鍾泌だった。

目的は、朴正煕政権の「革命公約を遂行するうえで障害となる要因を除去し、安全保障(反共、北朝鮮)に関する国内外の情報を収集すること。また、安保関連の犯罪を捜査し、軍を含む国家各機関の情報・捜査活動を調整、監督すること」とされた。 

▽超法規的「スーパーパワー」

欧米の自由民主先進国でこのような例はなかった。

大統領直属の機関とし、その捜査権を検察の指揮下に置くのではなく、その上位に置いた。また、業務遂行に必要な協力と支援を全国家機関から受けられるようになっていた。組織の構成、所在地、定員、予算や決算などは秘密であり、さらには予算も他の省(部)庁の予算に上乗せして計上する特殊な組織だった。

米国の中央情報局(CIA)をモデルにしたのだが、それとは比べものにならないほど強力な権限を持っていた。

南山の中央情報部はまさに万能、超法規的な「スーパーパワー」だった。仮に米国にたとえるなら、連邦捜査局(FBI)、検察、警察、軍の捜査機関をすべてCIAの下に置いたかたちの、あり得ないような権力機関が韓国の中央情報部だった。 

▽9人の部長

初代の金鍾泌部長に続き、金容珣、金在春、金炯旭、金桂元、李厚洛、申稙秀、金載圭、尹鎰均(職務代行)、李熺性(代理)の9人が順繰りに部長をつとめた。

朴正煕時代の第3共和国と第4共和国(維新政権)は、これら9人の政権操舵手兼政治工作司令部トップに牛耳られ、挙句の果てに1979年、金載圭情報部長の銃撃によって朴正煕の18年間は幕を下ろしたのだった。 

▽「故郷に錦」

全斗煥が中央情報部長に就任したのは1980414日のことだった。

遡ると、全斗煥がまだ大尉だった63年、中央情報部長が金容珣から金在春に交代した時期に、その情報部長の下で人事課長を務めていた(その前に大尉として国家再建最高会議[訳注:1961年の軍事クーデター直後に発足した軍事政権の最高統治機関]の民情秘書官も務めた)。したがって、17年後に古巣の組織にトップとして戻ってきたというわけである。「現場組」がトップに上り詰めるのは情報部では初めてのことだった。それまでの部長はいずれも朴正煕の指名による落下傘人事だった。

金忠植著『5共 南山の部長たち』

全斗煥は、大尉から将官となり、部長として故郷に錦を飾った、ということになる。 

▽ゴリ押し

 全斗煥は現役軍人の中将(国軍保安司令官[軍内の防諜や保安、情報収集を担当した国軍保安司令部のトップ])でありながら中央情報部長を兼任したため、正式な肩書は「部長代理」ということになった。法的には、現役軍人はなれなかったのだが、彼とその参謀たちが強く求めたのである。

 時の大統領、崔圭夏が反対したばかりでなく、国務総理の申鉉碻も戒厳司令官の李熺性も、さらには青瓦台政務首席秘書官の髙建も、こぞって引き止めたのだが、とうとう「お手盛り兼任」を強行してしまったのである。そこまで無理をして押し通した理由と経過については、のちほど詳しく記録することになるだろう。

 そうして1カ月半余りの間、全斗煥は中央情報部長をつとめた。 

 ▽大金を流用

8062日、全斗煥は中央情報部長の辞表を出した。前日、反対勢力を一掃して発足させた統治機構、国家保衛非常対策委員会(国保委)のトップ(常任委員長)になり、大統領同様の権力をふるえる立場になったからだ。それで、もう情報部長を続ける余裕も、必要もなくなったのである。

全斗煥の情報部長としての任期は短かったが、その権力は強大で、大きな足跡を残した。

79年末に朴正煕が暗殺された後、漂流していた中央情報部を安着させ、リストラによって組織を整え直した。そして何よりも、中央情報部の予算120億ウォン(韓国の年間国家予算総額の約15%に相当)を新しい政権づくりに必要な国家保衛非常対策員会(国保委/全斗煥政権を支えた民主正義党の産婆役ともなった)の創設や運営資金に流用した。政治資金をとくに集める必要はなかったのである。 

間接選挙で大統領就任

中央情報部長を辞めた全斗煥は、空席となったその座を、軍の先輩である兪学聖中将(1979年の「1212クーデター」[全斗煥少将らを中心とした新軍部勢力が軍の実権を掌握した反乱]に加わった一人)に譲った(80718日)。

全斗煥(左)から兪学聖へバトンタッチ(80年7月)


全斗煥は国保委常任委員長という中継ぎのイスを8月末に蹴り、80年9月1日、大統領に就任する。こうして、とり急ぎ、朴正煕の維新憲法に基づいた代議員による間接選挙で大統領になった後、その年秋に憲法を改正し、新たな第5共和国(5共)憲法の下で812月、5共の大統領として就任し直したのだった。 

▽5人の部長

 5共では中央情報部を国家安全企画部(安企部)と改称し、5人がその部長をつとめた。

 全斗煥、兪学聖、盧信永、張世東、安武赫である。

 このうち、盧信永だけが外交官出身の民間人であり、あとの4人はいずれも軍の将官出身だ。全斗煥は、憲法上では5共が始まる前に情報部長に就任しているが、大きく見て5共に分類していいだろう。兪学聖は、全斗煥の次の中央情報部長となったが、8111日、中央情報部が国家安全企画部(安企部)と改称されたのに伴い、そのまま安企部長となった。 

 ▽第10代中央情報部長

 5共の部長5人について語るには、まず、第10代情報部長となった全斗煥の成長過程や、朴正煕が急死した79年の「1026暗殺事件」のことを振り返らなければならない。そして、その直後に起きた「1212クーデター」、80年の「517反対勢力一掃」[80517日に全斗煥ら新軍部がおこなった非常戒厳令の全国拡大と、それに伴う有力政治家や民主運動家らの一斉検挙]、「518光州抗争」[80年5月18日から27日にかけて光州市内で起きた民主化要求の大規模な市民蜂起/光州事件]について見ておくべきだろう。

 なぜなら、「5共鉄拳統治」の右腕となった「南山の部長」(安企部長)たちは、5共スタート期の非道な下克上による流血クーデターと光州抗争、そしてそこからくる正統性の欠如のために全斗煥政権期の8年間を通してずっと凄絶な戦いを繰り広げなければならなかったからである。その相手は、学生、野党、在野勢力、労働者、民主化勢力、そして国民世論だった。

 5共の「南山の部長」たちは、その誕生に根源を発する限界と戦いながら、8年という歳月の日々を、リレーのようにバトンを引き継いでいったのでる。その凄絶な戦いは、情報部長、安企部長たちの使命であり、運命でもあった。

 <訳者コメント>

 訳文中の小見出しは、訳者が入れました。 軍の情報機関である保安司令部のトップだった全斗煥は、国全体の情報を統括する中央情報部のトップを兼任することで情報を独占。権力奪取の第一歩はそこから始まったのでした。