■李鍾賛、全斗煥と会う
ここでしばし、中央情報部の国際局副局長(理事官)だった李鍾賛が新軍部による新党結成に巻き込まれていった経緯について、本人に聞いてみよう。
民主正義党(民正党)結党の主役となった李鍾賛は、陸士16期だが、もともと全斗煥とは、これといった縁はなかった。陸士を出て中央情報部に公募採用1期生として入り、主に海外部署で勤務していたからだ。全斗煥を取り巻いて「ハナ会」がのさばっていることには反感も覚えていた。
ところが、人生、分からないものである。奇妙な縁から、そこに巻き込まれていった。
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| 李鍾賛氏は現在、独立運動に関わった人たちの子孫らでつくる「光復会」の会長を務めている =光復会HP |
1979年春、中央情報部の海外関連部署にいた李鍾賛に一本の電話がかかってきた。
組織のトップ金載圭部長の随行秘書、朴興柱大佐からだった。
▽ベトナム抑留の韓国公使
ソウル里門洞の庁舎にいた李鍾賛は、内密に南山の部長室に立ち寄るように、との秘密指令を受け、「市内に用事がある」という口実を設けて金載圭に会いに行った。
それより4年前の75年4月30日、サイゴン(現在のホーチミン)陥落の日に現地脱出に失敗して抑留された情報部の李大鎔公使に関する話だった。
北ベトナム軍によるサイゴン制圧後、逮捕された李大鎔公使、安煕完書記官(情報部員)、徐丙鎬警務官の3人は、危うく北朝鮮に連れて行かれそうになった。ベトナム共産党は朝鮮労働党と兄弟党の関係にあり、朝鮮労働党3号庁舎(韓国の中央情報部にあたる)要員のクン・サンヒョン(궁상현)らが現地に乗り込んできて平壌に連れて行こうと執拗に懐柔、説得した。しかし3人ともそれを拒み、最後まで耐え抜いた。
3人はチーホア刑務所に収監され、漁網を編む労働の日々を送っていた。
情報部は、行方が分からなくなった3人の消息を聞いて回っているうちに、サイゴン駐在のフランス大使館を通して現地に残留していた居留民会長の李順興と連絡がとれた。
その李順興を通して李大鎔と接触することができた。李大鎔は漁網を編んで余った紐(ひも)で小さな籠を一つ作り、そこに救いを求めるメモを忍ばせてソウルに送っていた。
▽救出作戦
金載圭部長は、李大鎔からのそんなメッセージを朴正煕大統領に見せると、朴大統領は目に涙を浮かべながら言った。
「どんな代償を払ってでも、3人を救出しなさい」
金載圭の情報部に非常がかかり、外交ルートを通した送還交渉が始まった。タイのベトナム大使館の門をたたき、「戦後復興に必要な物資を支援する」という餌を撒いた。結果、前向きの回答を得た。ただ、「友邦(北朝鮮)の同意が必要」という但し書きが問題だった。
南北関係が最悪の時期だった。72年の「7・4南北共同宣言」は破綻し、韓国はインドシナ半島の共産化で緊張していたところへ、さらに――これは後で明らかになったことだが――北朝鮮が休戦ライン一帯で南侵トンネルを掘っていた時期でもあった。
▽南北間の協議
統一ベトナム政府は「北朝鮮が要求する、韓国に収監されている非転向囚を北に返すなら3人を解放してやることができる」と提案してきた。非転向囚送還のためにベトナム政府の仲介で南北間の当局者協議を開け、というのである。
非転向囚の送還をめぐる協議が始まった。
北朝鮮側はなんと500人もの名簿(すでに亡くなった人物まで含まれていた)を突きつけてきたが、押し問答の末、11人にまで絞り込まれた。しかし、話し合いはそれ以上、進展しなかった。
▽大物ロビイスト
79年春、金載圭部長が李鍾賛を呼んで指示したのは、イスラエル国籍の国際ロビイスト、シャウル・アイゼンバーグ(オーストリア生まれ)を通じた秘密工作だった。
この人物はテルアビブに事業拠点を置くユダヤ人で、専用機で世界中を飛び回って大型プロジェクトを仲介し借款の斡旋をおこなう、有名なやり手だった。慶州市の月城原発1号機の加圧重水炉(CANDU)導入を仲介し、韓国の財閥トップらとも深く通じていた。
李鍾賛は情報部内で、非常に居心地の悪い立場となった。
李大鎔の問題を、指揮系統上の直属の上司である局長には内密にしてトップの情報部長と直にやり取りをしようというのだから、周りの目が気になった。まるで人事の面で取り入ろうとでもして部長室に出入りしているかのように誤解され、監察室で身辺調査をしているという話まで聞こえてきた。
そうしているうちにタイ駐在の韓国大使館から朗報が届いた。
ベトナムの外交担当国務相が駐タイ韓国大使に、こう話したというのである。
「韓国市民(citizen)3人の釈放はもう、時間の問題だ。オーストリア人のアイゼンバーグを通して連絡する。このことについては最大限保安を維持してほしい」
訳:波佐場 清

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