2026年6月17日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(30)

  「いっしょに退陣しよう」

長い、実に長い一日だった。

新軍部にとっても、過渡政権にとっても、そして暴力に呑み込まれ、流されていった政治家たちにとっても、ほんとうに長く、緊迫した24時間――歴史に、そう記録されている。

▽最後の逆転画策

国務総理の申鉉碻は、新軍部のむき出しの権力欲に対抗して最後の逆転を試みた。

1980517日朝、青瓦台に赴き、崔圭夏大統領とともに壮烈に一蓮托生の「心中退陣」をしよう、と提案した。武力で反対勢力を一掃しようとする新軍部にたいする最後の一手、大統領と国務総理の「心中退陣」宣言で衝撃を与え、情勢をひっくり返そうというのだった。

 一種、政治的「投身自殺」である。

新軍部への対応で対立した申鉉碻総理(左)と崔圭夏大統領

 崔大統領にたいして「わたしたちが死後も永遠に生きる(名誉を保つ)には、ここは、いっしょに退陣するほかありません」と説いた。

 「軍部が出て来るつもりなら、民政の(過渡)政権を倒し、踏みつけていってみろ」

 大統領と国務総理がいっしょに退陣すれば、新軍部の登場は不法なものとなる。

 まさに、大胆な逆転の発想だった。

 横暴な新軍部の腕力に抵抗する過渡政権の最後のカード、乾坤一擲の勝負だった。死即生――死ぬつもりで絶壁から身を投じれば、軍人らはどう出るか。奴らが死にもの狂いで挑んでくるように、われわれ文民の方もどっちみち死ぬのなら、どんな死に方をしようと同じではないか、という覚悟でやるべきだ。

 ▽国の責任者の器

「崔大統領に言ったんだ。『あなたが引き続き大統領のイスにしがみついてばかりいたら、生きていたとしても、それは死んだも同然のことだ。それは軍の登場を合法化してやるだけだ』とまで言ってやったんだが、大統領は首を縦に振らなかった。結局、新軍部におんぶされて生き残る道を選んだのだ」(申鉉碻の証言)

 それで、申鉉碻は517日朝のことを振り返っては、よく、「崔圭夏氏は民政に移管するとの公約を裏切った男だ」と批判していた。

「崔圭夏氏は国の責任者になるような器ではなかった。全斗煥はそんな崔大統領を利用したのだ」(申鉉碻)

いざ、乾坤一擲というときに、勝負の一手に打って出たのは逆に、全斗煥一派の方だったのである。

▽第2次クーデターの幕開け

 517日午前10時、新軍部の「1212反乱」につづく第2次の静かなクーデターが幕を開ける(政治学者たちは、全斗煥らの新軍部は79年の「1212クーデター」と80年の「517クーデター」の2段階のクーデター<Two-phased coup d’etat>を経て権力を奪取したとする)。

国防部の第1会議室で、全軍主要指揮官会議が開かれた。シナリオ通りに、国防部長官の周永福、合同参謀本部議長の柳炳賢をはじめとする出席者らが着席した。

 李熺性、陳鍾埰、尹誠敏、黄永時、車圭憲、盧泰愚、鄭鎬溶、朴俊炳といった実力者たちの硬い表情が見えた。ほかに、金潤鎬、尹興正、金洪基、金相台、崔永九、崔永植、全成珏、姜英植、朴魯栄、安鍾勲、鄭鉉澤、具得賢、金鍾淑、権翊倹、全昌禄、金鍾坤、李鍾浩、丁元民、金正浩、李銀秀、李相海、崔徳、崔重夏、尹子重、李熺根、金容洙、金仁基らの将官が、重苦しい表情で席に着いた。

517クーデター」当日の午前、国防部で開かれた全軍主要指揮官会議

 だれもがみな、全斗煥一味が何を企んでいるかは予感できていた。

 ▽新軍部のシナリオ

 これに先立ち、国防部長官の周永福には、朝早くに保安司令部処長の権正達を通して全斗煥(中央情報部長兼保安司令官)ら新軍部が描くシナリオが通知されていた。国務会議(閣議)にたいして戒厳令の全国拡大国会解散「国家保衛非常対策委員会(国保委)」の設置――を議決するよう迫る、というものだった。加えて、その国務会議での議論も形だけのものとし、白紙委任の署名だけをもらう、という筋書きだった。

周永福は、同じ国防部庁舎にいた合同参謀本部議長の柳炳賢を呼んで、これを通報するとともに根回しを試みた。

▽憲法破壊

ところが、柳炳賢議長は細かな点についてまで、しつこく問い詰めてきた。

「それは崔圭夏大統領の意志なのか、申鉉碻総理の指示なのか。それとも、周永福長官、あなた独りの個人的な発想なのか?」

しかし周永福は、ぐにゅぐにゅと言葉を濁し、答えをはぐらかした。

明確に答える代わりに、保安司令部の指針通りに、ひたすら「学生デモなど国内の混乱を収拾するためには国会の解散が必要だ。そして、国会に代わる非常機関をつくらなければならない。それを法的に裏付けるには戒厳令を全国に拡大する必要がある」という言葉を繰り返すばかりだった。

 柳炳賢議長は、崔大統領に随行して中東を歴訪し、前夜に帰国したばかりだったが、全斗煥一味のやり口をすでに見抜いていた。

 傀儡に過ぎない国防長官の周永福にたいして柳議長はこう言った。

 「国会解散の決議などすれば、会議の主宰者であるあなたは後日、憲法を破壊したという憲法違反の罪を追及されることになる。歴史に汚点を残してはならない。非常統治機構(国保委)を進言するのも軍の権限を越えている」

 ▽厳重警戒

 柳炳賢の警告があったにもかかわらず、周永福は躊躇しているわけにはいかなかった。部屋を出た。

 一刻も早く、シナリオ通りに全軍主要指揮官会議を主宰しなければならない……。

 国防部の会議場周辺は、殺気立っていた。

 新軍部の実力者たちが命懸けで「1212反乱」に続くクーデターの第2ラウンドを繰り広げている真っ最中なのだ。保安司令部と憲兵隊の要員らが辺りにびっしりと張り付いていた。将官たちさえ、その殺伐とした雰囲気に思わず身をすくめるほどだった。

 ▽反対意見

 周永福長官は、将官らに向かって言った。

 「本日の戒厳令拡大の進言は、国務会議の議決を経ることになる。そうして合法化されれば、政治風土を刷新し、政界の問題人物どもを完全に排除しなければならない」という趣旨のものだった。これは反対勢力の一掃に初めて触れた発言だった。

安鍾勲将軍(軍需基地司令官)が発言した。

 この人物は、もともと鄭昇和参謀総長の側近だった。「1212反乱」当時、かれの副官将校だった柳仁相・嘉泉大教授によると、あの夜、安鍾勲は配下の将官を非常招集し、決然とした表情で「クーデター軍に協力するな。わたしの指示だけに従え」と、鄭参謀総長の側に忠誠を誓うよう強いた。しかし今、鄭総長が罪人となってしまった以上、彼も敗軍の将の一人に過ぎず、辛うじて首がつながっているだけという状態だった。それでも、言うべきことは言わなければならない。

 「わが軍が政治に直接介入するのは、重大な問題だ。国民全体の世論がこうなのか? 全国民がそうだとは思えない。国民的な合意と全体の意思統一が必要だ。会議をこのようなかたちで開くのは問題だ。対策を講じるための会議といいながら、前もってあらかじめ結論を出しておいて、それに合わせて開く会議なんぞ、何の意味があるというのか」

 ▽「軍が政治を助けるべき」

 全斗煥の盟友、特戦司令官の鄭鎬溶が反論した。

「国民のだれにいちいち聞いて回って、そんなことを言っているんだ。ここでは、各自の考えだけを述べればいいんだ。国民の大多数は、非常戒厳を支持している。あす、あさって(520日)国会が開かれると、国を誤った方向に導くような動きが多くなる。学生たちの過激なデモで国が案じられる今、非常対策機関を設けることが求められている」

首都警備司令官の盧泰愚もこのシナリオに加勢した。

「政治は完全に信頼を失っている。政府の力が及ばないのなら、軍が出て助けてやるべきだ。大学街は無政府状態だ。わが軍が政府を助けるべきときがきた。企業家らも国のことを心配し、訴えている。生存と安定のために、国民が望む通りに障害要素を取り除くべきだ」

▽白紙委任

盧泰愚や鄭鎬溶がどれほど大きな力を持つ実力者であるか、将官たちにはよく分かっていた。シナリオをつくっておいて、その通りにやろうとしているところへ、いったい何ができるというのか。大勢に従うのが軍隊というものではないのか。

反論していた安鍾勲も、もう何も言えなくなった。意気消沈した安鍾勲を見て周永福は止めを刺すように「異議はないか」と質し、署名を取り始めた。周長官が回す白紙に将官たち全員が署名をした。

中身を知る必要すらない「問答無用」の白紙委任――。

それまで反対していた柳炳賢や安鍾勲も署名した。さらには崔圭夏大統領の実弟、崔重夏将軍(海軍第5海域司令官)までもが署名に応じた。

「その日の全軍主要指揮官会議は、軍を去る覚悟なしには、反対意見など、とても言い出せないような雰囲気だった」と3軍団長の全成は、記録に残している。

▽「如意棒」

この白紙署名(進言書)の威力は、想像を超えた。

 全軍主要指揮官会議の「白紙委任」は、崔圭夏大統領と申鉉碻総理を締め上げ、米国を脅して新軍部の側に引き込む「白紙小切手」となった。大統領や総理の前で言葉に窮すれば、「北朝鮮の脅威や社会混乱に対処する大韓民国軍部の一致団結した意思だ」と、この決議文を突きつければ、それまでだった。米国にたいしてもこれを突きつけて自分たちの行動を合理化した。それは、保安司令部のとんでもない「如意棒」となった。

 反乱軍の作戦は用意周到だった。

 全斗煥は、国防部の主要指揮官会議とまったく同時刻の午前10時、崔圭夏大統領と会うために青瓦台に上がっていった。国防部の将官らの決議のほうは周永福、鄭鎬溶、盧泰愚に任せ、全斗煥本人は崔大統領を動かして裁可を受け、反対勢力一掃の土台固めをしようというのであった。

 ▽「革命は516だけでいい」

 しかし、崔圭夏も一筋縄ではいかなかった。

 戒厳令の全国拡大は、内閣の機能停止を意味した。その間の地域戒厳令(済州島を除外していた)の下では、指揮系統は「大統領-国防部長官-戒厳司令官」だった。それが全国戒厳となると、国防部長官は姿を消し、戒厳司令官が国家権力を事実上掌握することになる。傀儡(大統領)一人だけを意のままに操れば、それで済むということになるのだ。それだけでも許しがたいことだが、その上さらに国会まで解散し、「革命評議会」(許三守の表現)のような国保委をつくるというのは、あまりにもひどすぎるではないか。「憲政の中断はいけない」と崔大統領は抵抗した。

 崔大統領は「革命は516ひとつでたくさんだ。軍の名誉のためにも二度と憲政中断が繰り返されてはならない」と全斗煥に言った。

 ▽「総理のところに行こう」

 崔圭夏は5カ月前の「1212クーデター」の際、「陸軍参謀総長を逮捕したいなら、国防部長官の裁可をもらって来い」と言い放ったときと同じように、手続き論を説いて拒否した。「全軍主要指揮官会議の進言は、大統領が裁可することがらではない。国務会議の方で確認してみろ」と申鉉碻総理に下駄を預けた。

 「総理のところへ行こう」

すでに午後6時ごろになっていた。

 全斗煥は抜け、国防長官の周永福と戒厳司令官の李熺性が、指揮官会議の決議書(白紙に署名だけをもらい、保安司令官が細部を書き入れたもの)を持って申鉉碻総理のとこへ行った。

 しかし、申総理も甘くはなかった。

                         訳:波佐場 清

 

2026年6月14日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(29)

  「大統領は天が決める」

 陸軍保安司令官・全斗煥の中央情報部長兼任が1980414日に発令されてから何日かして正式にその座についた全斗煥が尹潽善元大統領を自宅に訪問した日のことである。「権勢の誇示」を兼ねた、意気揚々たるお出ましだった。そのころは日々、警護部隊を厳重につけ、ものものしく出歩いていた。

 保安司令部の韓鏞源課長は、全斗煥をソウル安国洞の尹潽善宅へ案内するため延禧洞にある全斗煥宅へ出かけた。折から、兄の家に立ち寄っていた全斗煥の弟の全敬煥がどこか面白がるように、冗談めかして兄に一言、こう聞いた。

総理や長官を従えてテープカットをする全敬煥(中央)。大統領の兄の下、絶大な権力をふるった=19874

 「兄さん、きょう、尹潽善先生がいきなり自分を大統領にしてくれと言いだしたら、どうする?」

 兄の全斗煥はためらうようすもなく、こう答えた。

 「大統領は天が決めるものだ。なりたいからといって、なれるものではないのだ」

 ▽「K―工作」始動

 この世は自分のものだ、と全斗煥は確信していた。

 かれはそのころ、唯我独尊、天運は自分に味方している――と信じて疑わないかのように振舞っていた。愛唱歌「男の決心」の歌詞のように、心を決めて進む道、行く手を阻む嵐には断固としてぶつかっていく、という覚悟だった。

 すでに保安司令部の李相宰(別名「姜基徳補佐官」)は、全斗煥の戴冠式に向け、新聞・放送世論を操作する「K―工作計画」を始動させていた。

 ▽保安司令部の情報で、中央情報部員を解雇

中央情報部長を兼任した全斗煥は、情報部要員の解雇者数を減らし、慈悲と融通性のあるところをみせた。許三守を宥(なだ)めすかしながら解雇者の数を減らしたのだった。

 ところが、李鍾賛がこの部長決済を次長の徐廷和のところへ持っていくと、徐は顔をしかめて不平を言った。海外担当の次長である金永先は大満足だったが、徐廷和は自分の部下の国内要員が大幅に減らされることにどうしても納得できないのだった。

 「情報部はこれからも安保に責任を負わなければならないというのに、国内部門がこんな編成では、だれと、どうやって仕事をしていけるというのですか。わたしがいまいちど、部長と話し合ってみます」

人員と組織の大きさが、そのままリーダーの力である。そのことが分かっているからこその発言だった。

そうしている間にも保安司令部の許三守大佐は、何人かの情報部員の問題点を次々と指摘して随時、解雇対象者にねじ込んでいた。保安司令部の情報で中央情報部にメスを入れると、ともすれば「悪貨が良貨を駆逐する」ということにもなりかねなかった。李鍾賛は人事課長の尹碩淳を使ってそこをカバーした。尹は許三守と釜山高校の同期生だったので、よく話が通じた。

そのようにして情報部改編の人事案が練り上げられる間に、「ソウルの春」は、花が咲き開く前にしおれていったのだった。

 ▽拡大し、激しさ増すデモ

全斗煥の情報部長兼任は、野党や在野勢力、学生らの反発を大きくした。

そんなところへ、全斗煥側に記者出身者が合流したという噂――「李振羲[元京郷新聞主筆。全斗煥政権下でMBC社長や文化公報部長官となり、メディア統制を主導]が新軍部側についた」とか、「許文道[元朝鮮日報記者。全斗煥政権下で言論統廃合を主導]が南山(情報部)についた」といった話が言論界に広まった(もちろん、こうしたニュースは検閲によって新聞には1行も載らなかった)。

「非常戒厳、解除しろ」

「全斗煥、退陣せよ」

「政治日程を早めろ」

5月に入ると、大学街のデモは激しさを増していった。熱を帯びた学生たちのデモ隊は、ソウル市内へと繰り出し始めた。また、江原道舎北炭鉱の労働者たちの闘争や暴力沙汰が連日、新聞紙面を飾った。激しい労使紛争や街頭デモは、新軍部が待っていたとばかりに、戒厳令下の検閲も無条件でパスした。大見出しが付いたデモの記事が紙面を埋め尽くした。世の中が不穏、不安な空気に、じわじわと包まれていった。

▽「9月1日に大統領に就任」

そのころ、国会職員(専門委員)だった朴寛用(のちに国会議長)は、三星(サムスン)グループの秘書室に勤務する友人の李某氏と会った。かれは「全斗煥将軍は学生デモを口実に軍を動員して政治家らを一掃し、体育館選挙[政権の息のかかった者たちを体育館に集めておこなう、形ばかりの選挙という皮肉を込めた言い方]で大統領に就任する」といい、その日付までを「9月1日だ」とまで断定して教えてくれた。

▽金泳三の楽観

 朴寛用はソウル麻浦の新民党本部に金泳三総裁を訪ね、そのことを報告した。金泳三は悠然と構えていた。

「奴らは一時、そんなことを考えていたが、いまは違うようだ。滔々と流れる河の流れは手のひらで塞き止められるものではない」

そのように自信満々だった金泳三だったが、何日かしてまた、朴寛用を呼んで尋ねた。あの情報はどこで聞いたんだ、というのである。

「三星の秘書室にいる友人からです」

「その情報、当たっているようだ。悪い奴らだ。しかし、そう易々と、奴らの思い通りにはさせん。民主化の滔々たる流れは銃剣では塞げないのだ」(朴寛用の回顧)

しかし、金泳三のそんな思いをよそに、「517クーデター」による反対勢力一掃のその時は、音もなく忍び寄る戦車のように刻一刻と迫ってきていた。

▽中東訪問切り上げ、帰国

510日、崔圭夏大統領は、そんな渦中にあってもサウジアラビアなど中東歴訪を強行した。

出国前、崔大統領が金泳三総裁に電話で出国のあいさつをした際、金泳三は強く反対した。それでもあえて飛行機に乗り込んで出発したのだが、学生らの街頭デモがさらに激化すると、急遽、歴訪日程を切り上げて516日夜に帰国した。

空港に着くと、そのまま青瓦台に向かい、会議を開いた。深夜の11時だった。

 大統領が主宰し、崔侊洙秘書室長、高建政務首席秘書官、申鉉碻総理のほか各部(省庁)の長官、そして全斗煥保安司令官兼中央情報部長代理(現役軍人の身分であるため「代理」が付いた)が出席した。申総理が国内のデモに関して報告し、30分ほどで会議は終わった。

517日の朝が明けた。

土曜日でもあり、また、崔大統領が急遽帰国したばかりということもあって、大学の学生会長らも梨花女子大に集結したまま、青瓦台の決断を沈黙のうちに見守っていた。

                       訳:波佐場 清

 

2026年6月11日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(28)

  権力のためでなく、愛国のために

1980410日、李鍾賛は、情報処長の権正達から保安司令部に来るよう通報を受けた。

権正達はこう言った。

「保安司令官は、いまの職を維持されたまま、中央情報部長を兼任されることになる。就任と同時に情報部の組織改編と人事の刷新に取りかからなければならないので、陸士出身で情報部の主(ぬし)であるおまえを総務局長に任命なさるという。(1期後輩の)陸士17期の金容甲も監察室の副室長としていくことになっている」

414日、全斗煥が情報部長を兼任するとの報道が流れると、南山(中央情報部の本部)はひっくり返るほどの大騒ぎとなった。ライバル機関である保安司令部のトップが情報部長も兼ねるとなると、恐ろしいことが起こりそうだ…。そんな予感のなかで、みな、引き継ぎ書や現況報告書の作成で大忙しとなった。

▽「サバクでなく、モサドに」

翌日、全斗煥は、すっきりとしたスーツ姿で就任式に現れた。

「中央情報部はこの間、越権や利権介入で物議をかもしてきたのは事実だ。かつて部長だった者が外国で醜態をさらしたり(金炯旭[米国議会で、韓国政府の不正なロビー活動や金大中拉致事件の真相を暴露した]国家元首を殺害したり(金載圭)した。それなのに反省する雰囲気がないのは、まったく遺憾だ」

水を打ったように静まり返るなか、全斗煥は続けた。

「これからの中央情報部はサバクではなく、モサドになるべきだ」

このくだりは李鍾賛が書いたスピーチ原稿そのままだった。

「サバク(SAVAK)」はイランのパフラヴィー朝を支えた秘密警察である。中央情報部は、そのような国内権力保衛のための機関ではなく、イスラエルの国際情報収集機関「モサド(Mossad)」のように国際的な舞台で国益に奉仕すべきだというのだった。

▽課長級以上は全員辞表

全斗煥は、尹鎰均、全在徳の2人の次長を呼んで指示した。

「(中央情報部長の金載圭が朴正煕大統領を暗殺した)1026事件の責任を取らせ、課長級以上全員から辞表を取り付けなさい」

 だいたいの改編案がまとまると、全斗煥は崔圭夏大統領のもとへ報告に上がった。

 2人の次長を1人に減らし、金永先将軍[金載圭の軍事裁判(軍法会議)で裁判長を務め、金に死刑を言い渡した。新軍部にとっては「功労者」だった]だけの「次長1人制」を進言した。ところが、崔大統領の反応は意外なものだった。内務部次官の徐廷和を入れて、これまで通り2人制にしろというのだった。情報部長は民間人から任命を、とする申鉉碻総理の進言を参考にしたのか、あるいは文民出身の自分の息のかかった者を1人送り込もうというのか、真意のほどは分からない。

 ▽深謀遠慮、抜け目なさ…

 李鍾賛・総務局長は、原案が変えられることに失望の表情を浮かべた。すると、全斗煥は李鍾賛をなだめた。

 「李鍾賛! 理想もいいが、現実も考えないと、な。そうだろう」

 現実だって?

 崔圭夏のメンツを立ててやることで、この先もずっと面倒をみてもらえるだろう、という妄想を崔に抱かせようという意味なのか。全斗煥は決して頭が悪くはなかった。深謀遠慮、虚々実々の駆け引きをしながらうまく相手に食い込んでいくところがあった。野蛮な、反対勢力一掃の「517クーデター」前夜にも全斗煥は、彼なりの抜け目のない布石を打っていた。駐韓米大使のグライスティーンも回顧録で、全斗煥のことを「わたしが出会った指導者のなかで最も抜け目がなく、機敏な人物」と書いている。

 ▽許文道の登場

崔大統領の裁可を受けて幹部を発令した。

 企画調整室長に金聖鎮(陸士11期首席卒業、のちに逓信部長官)監察室長に金満基(ソウル分室長、元憲兵監)秘書室長に許文道監督官に許三守(崔礼燮の後任)。

続いて局長級以上の幹部40人中33人の辞表が受理された。生き残ったのは金満基ら7人だけだった。

 ここに、許文道が秘書室長として登場してくる。

 東京駐在の海外公報官だった許文道(元朝鮮日報記者)は801月、本国での会議(海外公報官定例会合)出席のために帰国し、同窓の食事会の場で、釜山高校同期の金振永[陸士17期、のちに陸軍参謀総長]や許三守らと旧交を温めた。日本の右派を信奉して勉強してきた「憂国の士」許文道がそこで披瀝した対北朝鮮安保観や愛国心は、大佐クラスの友人たちに深い印象を残した。

全斗煥政権で権勢をふるった「3許」。左から、許文道、許和平、許三守

 かれの華麗な弁舌による鋭い情勢分析に新軍部の実力者らは感服し、全斗煥と会ってみるよう勧めた(朴正煕の甥の元国会議員朴在鴻は、自分が最初に許文道を許和平に紹介し、許三守と同窓であることは後で知った、と筆者を含む記者たちに話していた。しかし許文道は1995年、検察の「1212反乱」関連の取り調べで、同窓の金振永らと会ったのがきっかけで全斗煥のところへ行ったと供述している)。

 文民である許文道のきらびやかな話術と、初めて聞くその憂国衷情論に全斗煥は感化された。

 全斗煥・中央情報部長は、許文道を情報部長秘書室長に抜擢した。許文道はここに、軍出身の許三守、許和平とともに全斗煥の最側近である俗称「スリー許」の一角を占めることになったのである。許文道は「517クーデター」の後、6月から国保委(国家保衛非常対策委員会)の文化公報委員として前面に出てマスメディアの統廃合を強行し、さらには第5共和国(全斗煥政権)の文化政策を思いのままに操るようになっていく。

 ▽情報部の構造改革

全斗煥部長の指示によって情報部の構造改革案が作られた。

 金聖鎮・企画調整室長、李鍾賛・総務局長、金容甲・監察室副室長の3人が顔を突き合わせて国内情報部門の要員を大幅に削減した結果、約600人の余剰人員が生じた。全員を退職させる第1案と、半数の300人を退職させる第2案を作って部長室に持っていった。

全斗煥は聞いた。

 「この600人もの余った人員をどうするんだ?」

 中央情報部職員法、公務員法にしたがって退職させることになる、と答えた。

 「なら、300人だけを切る第2案の方がいいな。で、切られる300人は全員退職しないといけないのか」(全斗煥)

 それなら、100人は辞めさせ、100人を自宅待機または再教育、あとの100人は当分の間、定員オーバーのままで運用――とする3つのグループに分けて1年ほどやってみる、という案も用意していると報告した。

「他人の目に涙を流させれば、いずれ自分にも

 「では、50人だけを切る、ということで、どうだ」(全斗煥)

 全斗煥が後退させていくと、横にいた許三守監督官(大佐)が割って入ってきた。

 「部長、雑草は抜き取らないと、いい草花は育ちません。いま、この改革の時に、手あかのついた者たちを置いておけば、内部の士気が却って落ちるということにもなりかねません」

 果敢にナタをふるって切り捨てるべきだ、とする進言に全斗煥は言い返した。 

 「許三守! 他人(ひと)の目に涙を流させれば、いずれ自分の目からは血の涙が流れるというものだ。肝に銘じておけ。そういう気持ちで100人を整理することにしよう」

 自信、ただ溢れんばかりの自信、指導者然とした振る舞い、殺気――

 このころ全斗煥と会っていたグライスティーン米大使やウィッカム米8軍司令官、さらに李姫鎬(金大中氏夫人)や文洪球、申鉉碻らは、回顧録のあちこちで、当時の彼のことをそのように描いている。

                        訳:波佐場 清

2026年6月8日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(27)

  送還決裁の日、大統領暗殺

ベトナムに抑留されていた李大鎔公使らの釈放が韓国側に伝えられたのは19791026日――まさに、その日の朝のことだった。

 李鍾賛は電文を情報部の尹鎰均・海外次長に報告した。情報部は噂になることを心配し、外務部に電文の配布を止めさせた。外務部の金太智アジア局長[のちに駐日大使]にも、特別な保安措置を取るよう求めた。

南ベトナム大統領グエン・バン・チュー(左)と李大鎔公使

 ▽「機密事項」

 報告を受けた金載圭部長は、満足そうな表情を浮かべた。

 朴大統領が大いに満足すると思える内容だった。

 ところがまさにその日、1026日の夜に朴正煕は金載圭の銃弾を受けて亡くなり、金載圭は暗殺犯として逮捕されたのである。統治ラインの、この不測の事態によって李大鎔救出作戦は宙に浮いてしまった。

 情報部の幹部たちがごっそり捕まり、反逆容疑で取り調べを受ける。

 李鍾賛は、「1212反乱」によって全斗煥の新軍部が実権を握った後も、この機密を李熺性部長代理(戒厳司令官)[朴正煕が暗殺された後、陸軍参謀次長だった李熺性が中央情報部長代理になり、その後さらに参謀総長となって戒厳司令官を兼務していた]にすら報告しなかった。ただ、抑留された3人の身に何ごとも起こらないよう、東京の工作ラインに頼んでおき、時が来るのを待っていた。

 ▽全斗煥に報告

 そんななかで7912月下旬、保安司令部に電話をかけ、全斗煥司令官との面会を求めた。

秘書室長の許和平大佐は何ごとかと気をもんだが、「司令官にお会いしたあとで説明したい」と答えた。陸士17期で李鍾賛より1年後輩の許は、あっさりと引き下がった。全斗煥は李を歓待した

 「李鍾賛、久しぶりだな。元気にしていたのか?」

李鍾賛は李大鎔に関する一部始終を説明した。全斗煥もベトナム戦争で派兵された韓国軍の白馬部隊第29連隊長をしていたので、李大鎔のことはよく知っていた。

 「で、ワシにどうしろというのか」

 李鍾賛は、獄中の金載圭部長に会わせてほしい、と頼んだ。朴正煕大統領に報告することにしていた事案だったので、その日、どんな方針が下されていたのか、知っておかねばならなかった。

 ▽権力掌握を直に確認

 「金載圭との面会はダメだ」

 それなら、報告書のファイルだけでも捜さないといけない、と李鍾賛は食い下がった。というのも、情報部は「保安維持のため」と言って、李鍾賛にさえ、そのコピーを持たせないようにしていたからだ。

 全斗煥は、状況をよく把握してからまた、連絡すると答えた。

 そう言いながら、崔圭夏大統領にも報告しなければならないので、この間のことを詳細に書いた報告書を一つ作ってくれ、と言った。

その面談の15分ほどの間にも、全斗煥はひっきりなしに電話を受け、対話が途切れたりもした。長官をはじめ主要幹部からの電話が相次ぎ、人事の問題であれ、政策の決定であれ、全斗煥はすでに権力の中心に確固として上り詰めていることを、李鍾賛はその目で直接、確認した。

ファイルは南山の部長の寝室横の書類箱にあり、詳しいことは秘書室長の将官金甲洙が知っているとのことだった。合同捜査本部が獄中の金載圭から聞き出した情報であることに間違いない。

▽外交ルートと工作ルート

崔圭夏大統領はこの件を公式外交ルートで解決しようとした。

外交官出身でもあり、アイゼンバーグにはよくない先入観もあった(のちにアイゼンバーグに産業勲章の授与が決まってからも崔大統領は会うのを嫌がり、全斗煥が代わって授与した)。

朴東鎮外務部長官が乗り出し、中立国であるスウェーデンの外交ルートを使って交渉を進めた。李鍾賛は、アイゼンバーグの工作ルートとスウェーデン・ルートがぶつかって交渉が決裂するのではないかと心配したが、ベトナムは意外と賢明だった。

表向き中立国スウェーデンの顔を立て、実際にはアイゼンバーグの要求を呑むやり方を取ったのである。

▽無事生還

こうして80412日、サイゴン(ホーチミン)のタンソンニャット空港で、大団円の幕が下りる。

韓国政府の要請でベトナムを訪れたスウェーデンの外務次官、そしてアイゼンバーグ・グループのハノイ支社長らの一行が、李大鎔、徐丙鎬、安熙完の3人をアイゼンバーグ専用ジェット機に乗せてソウルに向かった。

そして、それから2日後の4月14日、全斗煥は中央情報部長代理を兼任することになる。

李鍾賛はこうして偶然にも「サイゴン抑留事件」に巻き込まれたことで全斗煥との縁ができ、のちに民主正義党(民正党)結成の秘密の産婆役となり、政治の舞台にデビューしていったのだった。

                         訳:波佐場 清

2026年6月5日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(26)

  李鍾賛、全斗煥と会う

 ここでしばし、中央情報部の国際局副局長(理事官)だった李鍾賛が新軍部による新党結成に巻き込まれていった経緯について、本人に聞いてみよう。

 民主正義党(民正党)結党の主役となった李鍾賛は、陸士16期だが、もともと全斗煥とは、これといった縁はなかった。陸士を出て中央情報部に公募採用1期生として入り、主に海外部署で勤務していたからだ。全斗煥を取り巻いて「ハナ会」がのさばっていることには反感も覚えていた。

 ところが、人生、分からないものである。奇妙な縁から、そこに巻き込まれていった。

李鍾賛氏は現在、独立運動に関わった人たちの子孫らでつくる「光復会」の会長を務めている
=光復会
HP

 1979年春、中央情報部の海外関連部署にいた李鍾賛に一本の電話がかかってきた。

 組織のトップ金載圭部長の随行秘書、朴興柱大佐からだった。

 ベトナム抑留の韓国公使

 ソウル里門洞の庁舎にいた李鍾賛は、内密に南山の部長室に立ち寄るように、との秘密指令を受け、「市内に用事がある」という口実を設けて金載圭に会いに行った。

それより4年前の75430日、サイゴン(現在のホーチミン)陥落の日に現地脱出に失敗して抑留された情報部の李大鎔公使に関する話だった。

 北ベトナム軍によるサイゴン制圧後、逮捕された李大鎔公使、安煕完書記官(情報部員)、徐丙鎬警務官の3人は、危うく北朝鮮に連れて行かれそうになった。ベトナム共産党は朝鮮労働党と兄弟党の関係にあり、朝鮮労働党3号庁舎(韓国の中央情報部にあたる)要員のクン・サンヒョン(궁상현)らが現地に乗り込んできて平壌に連れて行こうと執拗に懐柔、説得した。しかし3人ともそれを拒み、最後まで耐え抜いた。

 3人はチーホア刑務所に収監され、漁網を編む労働の日々を送っていた。

 情報部は、行方が分からなくなった3人の消息を聞いて回っているうちに、サイゴン駐在のフランス大使館を通して現地に残留していた居留民会長の李順興と連絡がとれた。

 その李順興を通して李大鎔と接触することができた。李大鎔は漁網を編んで余った紐(ひも)で小さな籠を一つ作り、そこに救いを求めるメモを忍ばせてソウルに送っていた。

 ▽救出作戦

 金載圭部長は、李大鎔からのそんなメッセージを朴正煕大統領に見せると、朴大統領は目に涙を浮かべながら言った。

 「どんな代償を払ってでも、3人を救出しなさい」

 金載圭の情報部に非常がかかり、外交ルートを通した送還交渉が始まった。タイのベトナム大使館の門をたたき、「戦後復興に必要な物資を支援する」という餌を撒いた。結果、前向きの回答を得た。ただ、「友邦(北朝鮮)の同意が必要」という但し書きが問題だった。

 南北関係が最悪の時期だった。72年の「74南北共同宣言」は破綻し、韓国はインドシナ半島の共産化で緊張していたところへ、さらに――これは後で明らかになったことだが――北朝鮮が休戦ライン一帯で南侵トンネルを掘っていた時期でもあった。

 ▽南北間の協議

 統一ベトナム政府は「北朝鮮が要求する、韓国に収監されている非転向囚を北に返すなら3人を解放してやることができる」と提案してきた。非転向囚送還のためにベトナム政府の仲介で南北間の当局者協議を開け、というのである。

 非転向囚の送還をめぐる協議が始まった。

 北朝鮮側はなんと500人もの名簿(すでに亡くなった人物まで含まれていた)を突きつけてきたが、押し問答の末、11人にまで絞り込まれた。しかし、話し合いはそれ以上、進展しなかった。

 ▽大物ロビイスト

 79年春、金載圭部長が李鍾賛を呼んで指示したのは、イスラエル国籍の国際ロビイスト、シャウル・アイゼンバーグ(オーストリア生まれ)を通じた秘密工作だった。

 この人物はテルアビブに事業拠点を置くユダヤ人で、専用機で世界中を飛び回って大型プロジェクトを仲介し借款の斡旋をおこなう、有名なやり手だった。慶州市の月城原発1号機の加圧重水炉(CANDU)導入を仲介し、韓国の財閥トップらとも深く通じていた。

 李鍾賛は情報部内で、非常に居心地の悪い立場となった。

 李大鎔の問題を、指揮系統上の直属の上司である局長には内密にしてトップの情報部長と直にやり取りをしようというのだから、周りの目が気になった。まるで人事の面で取り入ろうとでもして部長室に出入りしているかのように誤解され、監察室で身辺調査をしているという話まで聞こえてきた。

 そうしているうちにタイ駐在の韓国大使館から朗報が届いた。

 ベトナムの外交担当国務相が駐タイ韓国大使に、こう話したというのである。

 「韓国市民(citizen3人の釈放はもう、時間の問題だ。オーストリア人のアイゼンバーグを通して連絡する。このことについては最大限の保安を維持してほしい」

                          訳:波佐場 清

 

2026年6月2日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(25)

 第4章 「死即生」に、崔圭夏「ノー」

 情報部の予算120億ウォン

 19804月初旬、全斗煥を担ぎ上げる動きが本格化していたある日、青瓦台の秘書室長、崔侊洙が首席秘書官会議で、こう問いかけた。

 「全斗煥保安司令官が中央情報部長を兼任したいと要請してきているが、意見を聞きたい」

 ▽保安司令官と中央情報部長の兼任

 情報機関と権力機関は互いに牽制し合うべきものだというのが常識なのに、それを一手に握ろうというのか。まして現役軍人(将官)の情報部長兼任は、法のうえからも制限されている。政務首席秘書官の高建は、きっぱりと言い切った。

 「法的に許されません」

 ほかの首席秘書官らの意見も似たようなものだった。もちろん、崔侊洙室長がそんなわかり切ったことを知らずにいたはずがない。

 軍のトップも反対論

崔侊洙は、戒厳司令官[陸軍参謀総長が兼務]の李熺性に「内密に相談したいことがある」と連絡をとった。

「全斗煥保安司令官(合同捜査本部長)が、空席になっている中央情報部長を兼任したい旨を大統領閣下に進言されました。どう思われますか」

李熺性は初めて聞く話に驚いた。

そうでなくとも、少将の全斗煥が中将に昇進させてほしいと言うので苦労させられていた。また、全斗煥の「お出まし」時には、まるで大統領にでもなったかのように警護隊を派手に連れ回すのにも神経をとがらせていたところだった。断固とした口調で、きっぱりと反対した。

 「二つの情報機関を一人の人間が兼任し、一手に握るのは不適切です」

 801月、新しい年が明けてからというもの、少将だった全斗煥は、中将の階級章を付けたがった。実権に見合った権勢をふるいたかったのである。言いなりになっている周永福・国防部長官や趙文煥次官を前面に押し立てて中将への進級をしつこく迫った。

 国防部長官と次官が戒厳司令官の李熺性を説得したが、断わられた。「名分の立たない進級はなりません。第1師団長を終えてから、まだ1年にもなりません。軍全体のバランスがとれないではないですか。いくら保安から捜査、情報までを統括する業務を担っていることを名分にしているからといって、少将であれば、それで十分であり、中将に補するのは時期尚早です」

 李熺性としては他の将官たちの厳しい視線も意識せざるを得ない。

 ▽お手盛り昇進

 陸軍のトップとしては、最低限の服務期間も満たしておらず、戦時や非常事態でもないのに、特別な功績もない者を異例のスピードで昇進させるわけにはいかない。公平性の問題だ。参謀総長のメンツの問題でもある。他の将官たちに申し訳も立たない。

 焦った全斗煥は、自ら李熺性のもとへ訪ねていって、しつこく迫ったが、李熺性は、はねつけた。そのように2度、3度と、がんばったものの、限界があった。全斗煥はあちこちを突き回し、とうとう31日、「お手盛り中将」の座に登りついたのである。

「お飾り司令官」(のちの金泳三政権下での「1212反乱」に関する取り調べで、検事は李熺性のことをそうに呼んで追及した)は結局、無気力だった。

▽「やめておきなさい」

全斗煥は、情報部長兼任にたいする反対は初めから予想していた。

反対する李熺性や青瓦台首席秘書官らを差し置き、全斗煥は申鉉碻総理のもとを訪ねていた。きまりの悪い話だが、かれは、そんなことは意に介しない。

「どうあっても(中央情報部長を)兼任しなければならない状況なので、了解願います」

申総理は答えた。

「第一に、この件はわたしの所管ではない。大統領直属機関の人事なので、国務総理が受け持つところではない。わたしに了解を求める必要などない。大統領が一存で決めることなのだ」

そう言って、全斗煥の頼みをきっぱりと断った。

「第二に、(わたしの所管ではないが)わたしをわざわざ訪ねてきて話をしてくれたのだから、答えは出そう。やめておきなさい。わたしは崔大統領にも兼任を認めないように、と言っておきました」

全斗煥はあらかじめ用意してきた通り、「重要な情報機関である中央情報部の空白があまりにも長くなって」などと言いながら兼任させてほしいと頼んだ。もちろん、国保委(国家保衛非常対策委員会)や政党を新たにつくるための資金を中央情報部の予算から流用するつもりだ、といったことには一切触れずに、せがんだ。

申総理は首を横に振った。

「あなたの言うことに一理があるとしても、あなた自身のためにも、また国家のためにもそうしないほうがいい。マイナス要因だ」

▽崔圭夏大統領が承認

ところが、1週間後に兼任の発令が出た。

崔圭夏大統領が認めたのである。

保安司令官の全斗煥(左端)は中央情報部長を兼任し、同部幹部らに任命状を手渡した=198054

 
 それどころか、法的な制限の隙間を突き、中央情報部長「代理」というおまけまで付けてやった。全斗煥は、ついに414日、中央情報部長兼任の発令を受けた。

朝日新聞など海外のメディアは「全斗煥が権力トップの座を掌握した」と解説した。まさに、岡目八目である。

▽予算流用

新軍部が狙っていた通り、中央情報部の予算から国保委の創設や運営の名目で100億ウォン、保安司令官室用に20億ウォンをそれぞれ引き出して使った。

兼任の発令を受けて全斗煥が中央情報部の予算から流用した120億ウォンは、情報部の年間予算の15%に相当する額だった。

 「5・16軍事政権」の産婆役を担った金鍾泌は、中央情報部を通して共和党結成の資金をつくった。それから20年近くを経て「517クーデター」を起こした新軍部は、その中央情報部の最後の予算を国保委づくりの資金として流用したのである。2大クーデター政権の、まさに首尾相関の姿といえるのではないか。

いま、全斗煥は両翼を得た。

 2大情報機関を掌握したその威勢を駆っていよいよ、政権奪取へと乗り出していくのである。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月30日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(24)

  「庶民的、素朴、慈愛の民主主義者」

 大学生の模擬裁判でも無期懲役刑を言い渡される、そんな人気のない全斗煥をメディアを通じて持ち上げる「K-工作計画」[Kは、King(王)の頭文字とされた]が推進された。

 ▽世論操作と検閲

 保安司令部は19803月、メディアにたいする懐柔と工作、全斗煥のイメージアップ、そして非協力者の排除を柱とする「K-工作計画」を立てた。そして、新聞社や放送局の社長、主筆、編集局長、報道局長、政治部長、社会部長らを通じて世論操作に乗り出した。

 責任者は、保安司令部の李相宰准尉(通称「姜基徳補佐官」、のちに国会議員)だった。元もと「対共」(北朝鮮のスパイにたいする転向工作)の専門家だったが、1979年の「1026」(朴正煕大統領暗殺事件)直後、つまり鄭昇和戒厳司令官の時代から言論検閲チームの責任者としてソウル市庁に常駐し、新聞社や放送局では絶大な権力を持つ人物として知られていた。捜査機関独特の習慣として、かれは「姜補佐官」という通称で呼ばれていた。

      言論工作は1988年、国会聴聞会で追及された。証言台に立った(左から)李源洪(元KBS社長)、許文道(元大統領公報秘書官)、文太甲(元ソウル新聞社長)、李相宰(元保安司令部言論対策班長)


   


   



   検閲チームは、文化公報部[当時の省庁の一つ。文化・芸術の振興のほか、政府の広報やメディア統制も担っていた]、中央情報部、保安司令部、経済企画院、陸海空軍から引き抜かれた50人ほどで構成されていた。かれらは戒厳法に基づいて、すべての新聞・放送の記事を事前に読み、検閲指針に沿って削除していった。その指針を下す最高責任者が李相宰だった。

 ▽持ち上げ

 李相宰は、保安司令官である全斗煥の決裁を受けて新たに設けた「言論操作班」(言論対策班)の班長として「K-工作」をおこなった。

 この班には14人の分析官と収集官がいた。

 かれらは、新軍部が社会安定のための唯一の選択肢であり、同時に全斗煥がそのリーダーであることを印象付ける任務を遂行した。全斗煥を「正義感が強く、包容力のある、太っ腹な人物」「憂国の情に燃え立つ、私心のない、清廉潔白で理想的な軍人」「農村出身で、庶民的、素朴、慈愛に満ちた、広く国民に愛される人物」「海外留学や視察経験もある、文武を兼ね備えた民主主義の信奉者」「困難な時代に国家の運命を担い、いばらの道を歩む愛国者」などと思いっきり持ち上げたのである。

 ▽記者をランク付け

 そのような言論工作はうまくいった。

 記者を新軍部に協力的か否かで分類し、「良好」、「協力の見込みあり」、「積極的に協力」、「警戒」、「協力に消極的」などと格付けした。言論対策班の分析で「国是否定」、「制作拒否(ストライキ)」、「不正腐敗」など、非協力的または反政府的といったレッテルを張られれば、解雇へと追い込まれた。

 ▽報道社に圧力

 808月、解雇対象の記者約100人の名簿を保安司令部言論対策班長の李相宰がまとめた。そして、それを情報処長の権正達を通して李光杓文化公報部長官に上げた。文化公報部は報道各社にこの強制解雇対象者リストを送り、実行に移させた。

 もし、報道各社で強制解雇に応じないところがあれば、新軍部は国税庁や監査院[日本の会計検査院に相当]を動員してその社に対し、税務調査や経営監査で圧力をかける計画を立てていたことが後日、明らかになった(「真実和解調査員会」)。

                            訳:波佐場 清

2026年5月27日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(23)

  崔圭夏の姑息な策謀

 1980314日、崔圭夏大統領の発言で、ひとしきり騒動が起きた。

 大統領制にすこし揺さぶりをかけ、二元執政制の可能性について探ろうとするものだった。

 「新憲法における政府の形態としては、大統領中心制と議院内閣制の折衷型が望ましい。大統領に過度に権力を集中させると、大統領に万一のことがあった場合には危機を招くし、選挙も激しくなって混乱をもたらす」(改憲審議委員会開会式での発言)

 ▽二元執政制

 この一言が過渡期の政権を非難する世論に油を注ぐ結果を招いた。

 折衷型の政府とは?

 崔圭夏は、大統領は外交など象徴的な役割を担い、総理が実質的な権限を行使する、とする二元執政制について語ったのである。ところが、世間は、これを申鉉碻総理のくわだてであると誤解した。

 いま、申鉉碻の証言などを基に整理してみると、これは崔圭夏の野心から生まれたものだった。申鉉碻は一貫して大統領中心制を主張していた。要するに、「崔圭夏大統領は、自分が大統領で居続けることに汲々とし、新軍部ともたれ合いながらその地位を維持したいという思いが強かった」というのが、申鉉碻の回顧である。

 ▽総理に非難の矛先

 ところが当時、誤解は申鉉碻に向けて集中していた。

 この世の出来事や人生は、その半分以上が誤解のうえに成り立っている面がある、ということなのだろうか。

 二元執政制のために、申総理は「3金」[金大中、金泳三、金鍾泌]をはじめとする政界、そして政権奪取を決意した新軍部、さらには街頭や大学街のデモ隊から十字砲火を浴びることになる。

ソウル大学では「二元執政制」構想に反対する討論会が「アクロポリス広場」で開かれた

 崔圭夏は、ほくそ笑んでいたことだろう。

 尹錫悦「裁判長」、総理に「死刑」の判決

 「申鉉碻は退陣しろ」

 ふざけ半分でおこなわれたソウル大学の模擬裁判でも、申鉉碻総理に「死刑」が言い渡された。裁判長役を務めたのは、ソウル大法学部の学生、尹錫悦(第20代大統領、元検察総長)だった。尹錫悦はこう振り返っている。

 「198058日に学生会館2階のラウンジで、夜を徹しての模擬裁判がおこなわれました。518[光州事件]の直前のことで、検閲と報道管制で正確な情報がなく、漠然と全斗煥、盧泰愚が軍事反乱を起こしたという噂だけを聞いていたときでした。当時、東亜日報に入社した先輩から情報を聞いてきた法学部の4年生らが被告人不在の欠席模擬裁判を企画し、わたしが裁判長役を務めたというわけです。間違った情報のせいで、あの方(申鉉碻)をクーデターの首謀者と思い込み、死刑の判決を下したのです。全斗煥は『無期懲役』でした。いま思うと、申鉉碻総理には大変申し訳ないことをしてしまいました」(20217月、京郷新聞のインタビューに答えて)

 ▽検挙逃れ、避難

 翌日、キャンパスに号外のビラが出回った。

 裁判長役の学生尹錫悦が、新軍部勢力にたいする欠席模擬裁判で死刑や無期の判決を下した、と伝えていた。

 軍による反対勢力の一斉検挙がおこなわれれば、捕まるところだった。

 ところが、検挙が始まった517日の前夜、保安司令部に勤務する遠い親戚から自宅に電話があり、「尹錫悦を早く避難させろ」というのだった。それで尹錫悦は、江陵(江原道)の母方の親戚の家に3カ月間身を隠し、もう大丈夫だという知らせを聞いてから、ソウルに戻ってきたのだった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月24日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(22)

  「大韓陸軍万歳」と叫んで逝く

 新軍部の政権奪取に向けたキャタピラーに金載圭の部下、朴興柱が押しつぶされていこうとしていた。

 「1026決起」[1979年の朴正煕暗殺事件]の失敗で、中央情報部長金載圭の秘書室長だった朴興柱大佐の運命は尽きてしまった。1審だけしかない軍事裁判(791220日)で死刑が決まった。軍事裁判にあって2審、3審は贅沢すぎるのだ。

 9丁のうち、3丁は空砲

 198036日午前、第33師団の射撃場には処刑台の杭3本が立てられていた。

 朴興柱大佐のほかにも2人の死刑囚がいた。一人は安東の映画館に手榴弾を投げ込んだ軍人、もう一人は内務班で発砲して同僚を殺害した軍人で、合わせて3人だった。

 3人を標的とする3カ所の射台にはそれぞれ3丁ずつ、計9丁の16自動小銃を持つ射手が配置された。9人のうち6人の銃には実弾が込められていたが、各射台で1人ずつ、計3人の銃は空砲で、音だけしか出ないようになっていた。そうすることによって射手らは、自分が撃った銃では死ななかったのだ、と自らを慰めることができ、その夜もぐっすり眠ることができるのだという。

 執行官は陸士出身の大尉が務めることになっている。

しかし、どういうわけか、担当の執行官はこの日、射撃場に現れなかった。陸士の先輩である朴興柱のあまりにも無念な事情を察してのことだった、と思われる。それで、代わりに曹長が立ち会うことになった。

朴正煕暗殺事件で「内乱陰謀幇助」を問われ、法廷に立つ鄭昇和元参謀総長。民主化後、無罪が確定した

▽とどめの射撃

 射撃開始の命令が下る。「射撃用意」、それに続く「開始!」の命令がまだ下らない、その刹那であった。朴興柱は、白い布で目を覆われた状態で、声を限りに叫んだ。

 「大韓民国万歳! 大韓陸軍万歳!」

 その瞬間、「開始!」の命令が下り、銃声が空を切り裂いた。2人の死刑囚はぐったりと首をうなだれた。しかし朴興柱はどうしたわけか、首をもたげたままだった。手続き通りに検分が始まった。

 軍医官は、朴興柱の番になると、「まだだ…」と低い声で言った。すると、曹長は腰の大型コルト回転式拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく頭部に向けて引き金を引いてしまった。

 ▽因果応報…

 その銃撃の部位はまさしく頭頂部だった。頭蓋骨の上から下顎に向けた発射――。それは金載圭が朴正煕大統領を撃った際、1発目の銃撃で血を流して倒れた大統領に、とどめの一発を撃った部位・方向と、寸分の違いもなかった。

 見守っていた保安司令部の派遣官は鳥肌が立った。

 ああ、冤魂と悪業のカルマ(業)は空(くう)に漂うものなのか。

 朴大統領がとどめの一撃を受けた銃は、まさしく朴興柱の拳銃ではなかったのか。

 「1026」の夜、1発目を発砲した後、拳銃が故障した金載圭は部屋の外に飛び出してきて朴興柱の拳銃を奪い、頭部への銃撃でとどめを刺していたのである。

 あの夜、朴大統領を検分した保安司令部構内にある首都病院の院長金秉洙大佐は、頭部のひどい銃傷のためにそれが朴大統領のものであるかどうか明確に判別できなかった。遺体の腹部にある特有の痣(あざ)を見て、それが見覚えのある「コード・ワン(大統領)」であることを確認した。曹長の銃撃を受けた朴興柱の顔も、それと同様だった。

 ▽家族の願い届かず

 死刑囚の妻は、布で覆われた夫、朴興柱の顔をめくってみてそのまま気を失ってしまった。「顔かたちが無残につぶれた夫を見て気絶したのです」と当時の派遣官は証言している。

 当時、新聞記事を通して「お父さんを助けてほしい」と泣きながら訴えていた朴興柱の妻と息子、娘らの願いは遂に、かなえられることはなかった(息子は後年、大学の神学部を卒業し、いまは牧師になって京畿道・一山の教会で、牧会を担っているという)。

                      訳:波佐場 清

 

2026年5月21日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(21)

  「大統領になられるお方」

全斗煥が国家元首になるだろう。そんな話を最初に耳にしたのは意外にも、西氷庫の保安司令部捜査分室[当時、朴正煕暗殺事件の合同捜査本部の取調室として使われていた]に拘束されていた鄭昇和派の将官たちだった。

802月初め、全斗煥が初めて西氷庫に現れた。

李建栄、張泰玩、文洪球、金晋基ら一人ひとりと個別に面談した。

西氷庫の捜査官は、あらかじめ警告していた。

「すぐに国家元首になられる方なのだから、必ず敬語で接しなければなりません」

保安司令部の捜査官らは、全斗煥が大統領になることをすでに既定の事実として話した。

とはいえ長い間、全斗煥に対して先輩という立場で接してきた将官たちではないか。話しているうちについ、かつての口調そのままに「おまえ、全将軍」といった言葉が口をついて出た。その度に捜査官らは「尊敬語を使え」と注意した。世の中がひっくり返っていた。

▽靴下を手袋代わりに…

全斗煥が来ていった後すぐに、西氷庫の中庭で運動してもよろしい、という「恩恵」が施された。

 厳冬の収容所の「敗軍の将」たちは、交代で中庭に出て徒手体操などの運動をした。氷点下10度の超す寒波が襲ったある日、手袋がなかったために各自、靴下を手にはめた奇妙ないでたちで、狭い中庭をランニングした。将官というにはあまりにも惨めな格好だったが、30~40分間だけでもそのように運動できるということは、涙が出るほどありがたかった、という。

 ▽「軍は出るべきでない」

803月、全斗煥は保安司令官の先輩である姜昌成を招待した。

姜昌成(右)は19722月、金載圭(左/のちに中央情報部長として朴正煕大統領を殺害)から保安司令官を引き継いだ。

 姜は、全斗煥から秘かに連絡を受け、保安司令官室で会った。

1時間ほどの面談で全斗煥は、自分が政権をとるのを手伝ってほしいといった趣旨のことを話した。

「金鍾泌はキズ疑惑)が多くて軽率だし、金泳三は能力が不足しているようだ。金大中は思想が疑わしい」

姜昌成は首を横に振り、維新体制が終わったところへ軍が再び出るべきではない、と忠告した。全斗煥は反論して言い張った。

「先輩、みんながわたしのところに来ては、当分の間、軍が政権を引き受けてくれないといけないと、せがむんです。朴鐘圭(元警護室長)の兄貴など、わたしのところへ来て『もし、全将軍でなく、ほかの奴が政権をとろうと言いだしたら、だれにも知られぬやり方で自分で始末してやる』と言うんです」

朴鐘圭のこのような熱い焚き付けは、全斗煥にとってさぞかし満足のいくものであったはずだ。全斗煥はさらに、こう続けた。

「崔圭夏は、まったく間抜けな人間です。あんな者に政権を任せることはできません。そのまま傀儡として立てておき、軍部で実権を握っていくのがよさそうです」

姜がそれでも納得しないと、全斗煥は苛立ったように秘書室長の許和平を呼び、「次に待っている者はいないのか?」と言い、追い出すように立ち上がった。

▽報復

このあと、姜昌成は報復を受ける。

全斗煥が大統領に就任(80年9月1日)するころ、保安司令部は、姜昌成の海運港湾庁[現在の海洋水産部の前身]長官時代の不正をほじくり出して永登浦刑務所に収監した。そこで姜は、一般の刑法犯らといっしょに容赦のない三清教育隊に4回も連行され、悪名高い棒体操[重い丸太を繰り返し担がせる過酷な訓練]で死ぬ思いをさせられることになる(黄龍熙刑務官の記録)。

▽「いっそのこと、大統領まで…」

 80年春。そのころの保安司令官の接見室は、まちの市場のようなにぎわいぶりだった。

 政治、行政、経済の司令塔となった保安司令部の秘書室には、あれこれと口実を設けて幹部クラスが競うように押しかけた。顔を覚えてもらおうという者たちで、まさに「門前市を成す」ありさまだった。秘書室長の許和平はすでに「一人の下、万人の上」[つまり、全斗煥に次ぐナンバー2]の地位を存分に味わっていた。

 そんな彼に、財務長官の李承潤が進言するように言った。

 「全斗煥司令官がいっそのこと、すべてを(大統領まで)引き受けてしまえば、このように(青瓦台に行ったり、総理室に行ったりといった)煩わしい思いをしなくてもいいものを」と。

 ▽阿諛追従

反対勢力の一掃を急かす声も聞こえてきたという(元国情院長の目撃談)。

 駐韓米軍司令官ウィッカムの回顧録にも「ゴマすり」たちの話が出てくる。

 国会の文亨泰国防委員長はウィッカムに繰り返し、こう言ったという。「政府高官たちが全斗煥のところへ群れをなして押しかけて阿諛追従(あゆついしょう)し、全斗煥がそれを楽しんでいる。そのせいで事態はますます歪んでいっている」と。

 ウィッカムの、その次のくだり、皮肉を込めた言い方が、おぞましい。

 「ところで、文亨泰自身もまた、頻繁に全斗煥と接触しているではないか。それで、わたしは文亨泰も全斗煥の自宅詣(もう)でをする高官のうちの一人である、という事実に注目せざるを得なかった」(『ウィッカム回顧録』)

                           訳:波佐場 清

2026年5月18日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(20)

  「大統領選遅らせた」

1980年、ソウルの早い春。当時、「政治日程」といえば、維新憲法の改正と新しい大統領を選ぶ選挙のことを意味していた。

「ソウルの春」の会同。右から金鍾泌、金泳三、金相万(東亜日報会長)、金大中、丁一権(国会議長)19802月、仁村記念館

 118日、崔圭夏大統領は記者会見で「政府が約束した政治日程を守る」と表明した。しかし、新民党総裁の金泳三は、政治日程を大幅に前倒しすべきだと主張し、活動を本格化させていった。金大中も229日、尹潽善[初代ソウル市長。李承晩大統領下野の後、議院内閣制下で第4代大統領]らとともに復権し、集会への参加や要人らとの面会といった政治活動を再開した。

振り返ってみるに、崔圭夏は政治日程を思い切り前倒しし、一刻も早く過渡期を終わらせておくべきだった。

崔圭夏の判断ミスについて、金泳三、申鉉碻、盧泰愚はそろって、回顧録のなかで叩きだしの太鼓のように崔圭夏を厳しく批判しているのが目を引く。

▽「早急に大統領選をやるべきだった」

まず、金泳三の回顧――

「崔圭夏は過渡期の政権担当者として早急に選挙をやり、国民の手に民主主義を取り戻すべきだった。わたしはかねてより、80年に選挙さえ早くやっていたなら、(全斗煥らによる「517」の)クーデターはなかっただろうと考えている。「1026[朴正煕暗殺事件]直後に崔圭夏と会った際、『軍部に機会と名分を与えてはいけない。時間を引き延ばすと、混乱が大きくなるだけだ。あなたに課せられた任務は、3カ月以内に大統領選挙をおこなうことだ』と説き、かれの口からその了解も得ていた。ところが、かれは政治日程を遅らせ、国に不幸を招いた。「419[1960年春に李承晩政権を倒した「学生革命」]のあと、許政の過渡政権が混乱の中でも選挙によって民主党への政権交代をなしたのとは対照的な、間違った身の処し方をした」(『金泳三回顧録』)

当時の国務総理、申鉉碻に聞いてみよう。

「崔圭夏大統領とうまく呼吸が合っていれば、民政移管がうまくいっていた可能性もあった。しかし、崔圭夏氏は(新軍部が自分を担いでくれるだろうと期待していて)新軍部による反対勢力一掃の5・17クーデターを呼び込み、民政の開始という国民との約束を破った」と言い切った。

▽盧泰愚も批判

この点、新軍部の盧泰愚までもが崔圭夏を非難している。

 盧泰愚は金泳三とは反対の側にいたが、「崔圭夏は能力もないのに時間だけを引き延ばした」と、回顧録のなかで次のように書いている。

 「崔圭夏大統領があの時期に国政を担当されたのは、ご自身にとっても、また、国家にとっても不幸なことだった。あの方は政治スケジュールをあまりにも長く設定しすぎた。国政を率いる自信と信念があったのなら、余裕をもって日程を組み、混乱を収拾してから安定と秩序を取り戻したうえで政権を移管しても、とくに問題はなかっただろう。しかし、そうした能力もないくせに、政治日程を長く取りすぎたせいで、混乱がいっそう深まった」

そう指摘しながら盧泰愚は、「これは仮定の話だが、もし申鉉碻であったなら、違っていたことだろう。あの方は崔大統領の欠点を補って余りある能力と決断力を備えていたので、多分、状況は変わっていたはずだ」と記録している。

当時、青瓦台の政務首席秘書官だった高建も同じ考えだった。やはり、政治日程を早めるべきだったと書き残している。

「街のデモ隊が『政治日程を早めろ』『非常戒厳令を解除しろ』と叫んでいる以上、時局収拾を急ぐべきだった。そこで、『政治日程を早め、透明にすべきだ。戒厳令の条件付き解除の時期を発表し、全面的な内閣改造をおこなって雰囲気を一新すべきだ』という内容の進言書を作成した。安致淳秘書官にも手伝ってもらい、各界の世論をまとめたものだった。ところが、大統領はそれとは正反対の対応をとった」(『高建回顧録』)

▽タイム誌にリーク

申鉉碻の回顧談に登場する崔圭夏の「黒い下心」に関して、2――

申総理は崔大統領に、中央情報部長を民間から急いで任命するよう進言した。

 「崔圭夏氏に話したんだ。情報部は(朴大統領を殺害した)金載圭のせいで、めちゃくちゃになってしまっている。こういう過渡期だからこそ、情報が決定的なのだから(金載圭の)後任の部長を早く、密かに任命してください。軍人ではなく、民間人を任命して保安司令官(全斗煥)と両立させ、相互に牽制させるべきです。2つの機関を併存させて情報をコントロールしていくべきです、と」

それでも反応はなく、何日かしてまた、催促したが、崔圭夏は黙りこくったままだった。

ところが、崔大統領の反応は、あろうことか突然、米週刊誌『タイム』から出てきた。

「タイム誌が届いたので見ると、『崔大統領は情報部長を軍人から任命しようとしているが、申総理が民間人にすべきだと反対していて任命できず、遅れている』と出ている。大統領と2人きりで、ほかにだれもいないところで交わした話なのに、どうしてこのような記事が出るのか。それで、あちら(崔圭夏)でわざとリークしているんだ、と考えるほかなかった。崔圭夏は、軍人たちとグルになりつつあるんだなあ、と…」(『申鉉碻の証言』)

▽退陣に抵抗

 80424日、申鉉碻総理は、新聞各社の編集局長を三清洞の総理公邸に招いて夕食会を持った。その席で申総理は、こう話した。

「わたしたち過渡期の管理政府は、使命をまっとうして退くつもりだ」

 世間のデマ(政治日程が長引いていること関し、政権延期の野心がある、とするもの)を払拭し、申鉉碻の退陣を叫ぶデモ隊のスローガンにたいする回答を示したものだった。

 翌日、青瓦台の人間がやって来て、申総理に「わたしたち」とはどういう意味なのか、と聞いた。申氏は語る。

 「わたしは怒りがこみ上げ、怒鳴りつけた。青瓦台に住んでいる人間どもは韓国人ではないのか。『わたしたち』という言葉も知らないのか。つまらぬことを言っていないで帰れ、と怒鳴りつけてしまったよ。わたしが過渡政府の責任を果たして退陣すると言っていることに異存がないのなら、どうして『わたしたち』という言葉に異議を唱えるのか。聞くまでもないことだ。大統領のイスに座ってみて、考えが変わったという意味だった」

 崔圭夏と申鉉碻の過渡政権は、こうして足並みが乱れ、こじれて行った。

 そんな隙を突き、全斗煥の新軍部は政権に向かって猛烈な勢いで突き進んでいった。

                          訳:波佐場 清

 

2026年5月15日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(19)

 「ひっくり返そうとしていたら、軍は全滅」

当時は、陸軍参謀総長の李熺性戒厳司令官さえも、全斗煥の新軍部の手中にある「お飾り司令官」に過ぎず、監視される身だった。李熺性は、こう吐露している。

「わたしは参謀総長として、あの1212の下克上劇を正すべき立場ではあったが、調査機関も補佐陣もみんな、あちら側(保安司令部)に押さえられていた。もし、そのことを問題にしようものなら、軍全体がめちゃくちゃになっていただろう。そういう状態が惰性的に固まっていってしまった」(20109月、MBCインタビュー)

「全斗煥の言うことを聞かなかったら、初めから戒厳司令官は務まらなかった。保安司令部の通信傍受や盗聴が怖かった。参謀総長を放りだし、辞めてしまおうか、と思ったりもした」(検察の「1212」捜査で)

▽米軍も監視対象

全斗煥率いる保安司令部の包囲網は、駐韓米軍司令官ウィッカムにたいしても例外ではなかった。

801月末の逆クーデター騒動(ウィッカムのところへ李範俊が逆クーデターの情報を持ち込んだ事件)のあと、全斗煥の保安司令部は、幹部将校らの批判的な言動は即刻報告せよ、との指示を出した。米第8軍や米大使館の関係者と接触する高官らは、すべて保安司令部の許可を得なければならないようにした。あらゆる幹部級会合で、密かに録音テープが回された。また、全斗煥にたいする警護・警備が強化され、公用車の窓ガラスはすべて黒く塗りつぶされ、仮に街なかに暗殺を狙う者がいたとしても、車内をうかがうことができないようにした」(ウィッカム回顧録)

 さらには、新軍部が常々「植民地の総督気取りなのか」と皮肉っていたウィッカムにたいしてはスパイまで付けた。

「米韓連合軍司令部に韓国軍の副官(中佐)が新しく来た。ところが、その新任副官は事務室の外にある書類棚を漁っていた。情報収集をしていることは明らかだった。調べてみると、かれは保安司令部の将校であり、収集した内容を機密として報告していた事実が明らかになった。それ以来、わたしはそのスパイに事務室のいかなる書類にも一切手を触れさせなかった。そのスパイがいるときは車内であれ、ヘリコプター内であれ、話を交わさないようにした」(同)

▽自信満々

全斗煥の口からは、自信たっぷりの言葉が出ていた。

ある日、申鉉碻総理の息子である申喆湜に言った。「ソウルの春」がピークを迎えようとしていたころだ。経済企画院に勤めていた申喆湜にたいし全斗煥は、さも、よく知っているかのような顔で、近寄ってきた。

19803月、全斗煥(右)は少将から中将に破格の昇進をした。
左は崔圭夏大統領
「申総理の子息の喆湜君、そうだろう?」

「あ、はい」

「ワシだ、全斗煥だ」

「近ごろの情勢、大丈夫なのでしょうか? デモが深刻になってきているようですが…」

「な~に、心配するな。ワシがしっかりと掌握している」

全斗煥は明るい表情で、自信たっぷりに答えた。

 ▽米側の不安と計算

 80129日付の2級秘密電文で、米大使のグライスティーンは、微妙なニュアンスの報告を付け加えていた。

「現在、韓国経済は近年(朴正煕政権末期)の楽観論から大きく逸脱してきている。(崔圭夏による)民政政権には、このような経済的難局を扱う能力はないと見なければならない。このような状況が続けば、軍部による新たなクーデターや政治的反乱が再び起こる危険性は、ますます高くなるだろう」

米国は5月のソウルの大規模なデモと「518光州抗争」のあと、急速に全斗煥の新軍部に傾いていったのだが、その予兆をここに垣間見ることができる。

 802月中旬、ウィッカム司令官が全斗煥と初めて会ったあとに書いた記録がある。

ウィッカムは本国に送った報告書の中で「全斗煥は自ら、最高権力者になるのが『運命』だと信じている。しかし、米国についての知識や、韓国の政治不安が国際社会に及ぼす影響の重大性に関する知識は、幼児レベルに留まっていることを発見した」と書いていた。ここで、目を引くのは「運命」という言葉だ。米国は不安を抱きながらも全斗煥の野心に注目し、その一方で、全斗煥を通して米国の国益を実現すべきかどうかを天秤にかけている。

                       訳;波佐場 清