■「ひっくり返そうとしていたら、軍は全滅」
当時は、陸軍参謀総長の李熺性戒厳司令官さえも、全斗煥の新軍部の手中にある「お飾り司令官」に過ぎず、監視される身だった。李熺性は、こう吐露している。
「わたしは参謀総長として、あの12・12の下克上劇を正すべき立場ではあったが、調査機関も補佐陣もみんな、あちら側(保安司令部)に押さえられていた。もし、そのことを問題にしようものなら、軍全体がめちゃくちゃになっていただろう。そういう状態が惰性的に固まっていってしまった」(2010年9月、MBCインタビュー)
「全斗煥の言うことを聞かなかったら、初めから戒厳司令官は務まらなかった。保安司令部の通信傍受や盗聴が怖かった。参謀総長を放りだし、辞めてしまおうか、と思ったりもした」(検察の「12・12」捜査で)
▽米軍も監視対象
全斗煥率いる保安司令部の包囲網は、駐韓米軍司令官ウィッカムにたいしても例外ではなかった。
「80年1月末の逆クーデター騒動(ウィッカムのところへ李範俊が逆クーデターの情報を持ち込んだ事件)のあと、全斗煥の保安司令部は、幹部将校らの批判的な言動は即刻報告せよ、との指示を出した。米第8軍や米大使館の関係者と接触する高官らは、すべて保安司令部の許可を得なければならないようにした。あらゆる幹部級会合で、密かに録音テープが回された。また、全斗煥にたいする警護・警備が強化され、公用車の窓ガラスはすべて黒く塗りつぶされ、仮に街なかに暗殺を狙う者がいたとしても、車内をうかがうことができないようにした」(ウィッカム回顧録)
さらには、新軍部が常々「植民地の総督気取りなのか」と皮肉っていたウィッカムにたいしてはスパイまで付けた。
「米韓連合軍司令部に韓国軍の副官(中佐)が新しく来た。ところが、その新任副官は事務室の外にある書類棚を漁っていた。情報収集をしていることは明らかだった。調べてみると、かれは保安司令部の将校であり、収集した内容を機密として報告していた事実が明らかになった。それ以来、わたしはそのスパイに事務室のいかなる書類にも一切手を触れさせなかった。そのスパイがいるときは車内であれ、ヘリコプター内であれ、話を交わさないようにした」(同)
▽自信満々
全斗煥の口からは、自信たっぷりの言葉が出ていた。
ある日、申鉉碻総理の息子である申哲植に言った。「ソウルの春」がピークを迎えようとしていたころだ。経済企画院に勤めていた申哲植にたいし全斗煥は、さも、よく知っているかのような顔で、近寄ってきた。
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| 1980年3月、全斗煥(右)は少将から中将に破格の昇進をした。 左は崔圭夏大統領 |
「あ、はい」
「ワシだ、全斗煥だ」
「近ごろの情勢、大丈夫なのでしょうか? デモが深刻になってきているようですが…」
「な~に、心配するな。ワシがしっかりと掌握している」
全斗煥は明るい表情で、自信たっぷりに答えた。
▽米側の不安と計算
80年1月29日付の2級秘密電文で、米大使のグライスティーンは、微妙なニュアンスの報告を付け加えていた。
「現在、韓国経済は近年(朴正煕政権末期)の楽観論から大きく逸脱してきている。(崔圭夏による)民政政権には、このような経済的難局を扱う能力はないと見なければならない。このまま政治的な空白が続けば、軍部による新たなクーデターや政治的反乱が再び起こるリスクは、ますます増大するだろう」
米国は5月のソウルの大規模なデモと「5・18光州抗争」のあと、急速に全斗煥の新軍部に傾いていったのだが、その予兆をここに垣間見ることができる。
80年2月中旬、ウィッカム司令官が全斗煥と初めて会ったあとに書いた記録がある。
ウィッカムは本国に送った報告書の中で「全斗煥は自ら、最高権力者になるのが『運命』だと信じている。しかし、米国についての知識や、韓国の政治不安が国際社会に及ぼす影響の重大性に関する知識は、幼児レベルに留まっていることを発見した」と書いていた。ここで、目を引くのは「運命」という言葉だ。米国は不安を抱きながらも、一方で、全斗煥の野心に注目し、全斗煥を通して米国の国益を実現すべきかどうか、天秤にかけている。
訳;波佐場 清

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