2026年5月3日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(15)

  「春なのに春らしくない」

 保安司令部捜査分室(ソウル西氷庫洞)に連行された陸軍本部将官らは、過酷な冬を過ごさなければならなかった。

 陸軍大将鄭昇和も酷(ひど)い扱いを受けた。その呻(うめ)き、慟哭が伝わってくるような悲痛な記録――

 ▽拷問

 捜査官らに打ちのめされ、絶叫した。

 「おまえたちが拷問するというなら、予備役編入願いでも何でも書こう。陸軍大将として、こんな扱いを受けるわけにはいかない。そう言うと、『そんなもの、書かなくていい。もう予備役になっており、参謀総長でもなんでもない、心配するな』と。ツルハシの柄のような棒で太腿や脛(すね)、首の後ろを殴られた。狂ったように、そして、互いに鼓舞し合うように殴ってきた。『この野郎、正直に言え。金載圭と共謀したんだろ。みんな、分かってるんだ。嘘をついても無駄だ』。わたしは朝鮮戦争のときに死ぬべきだったんだ。生き長らえたせいで、今、このように部下の拷問を受け、悔しい濡れ衣を着せられたまま、殴り殺されようとしている…」(鄭昇和の手記)

 反乱に成功した全斗煥らの新軍部は、意気揚々としていた。

 李建永[3軍司令官]、張泰玩[首都警備司令官]、鄭柄宙[特戦司令官]、文洪球[合同参謀本部本部長]、金晋基[陸軍憲兵監]を、「国家反乱罪」で起訴しようとしていた[首謀者は死刑のみ]。西氷庫の捜査官らは法典を突きつけ、「保安司令部に検事何人かを呼び出し、おまえらを国家反乱罪で起訴してやる」と言い放った。

 盗っ人猛々しいとは、こういうことだ。

 彼らこそ、休戦ラインを守る前線師団の兵力をソウルに呼び入れた者たちではなかったのか――。

 ▽「金鍾泌大統領」

 19801月は、政局混迷のなかで明けた。

 新しい年が来たというのに、先が見えない五里霧中の日々だった。

 金鍾泌は「春なのに春らしくない(春来不似春)」と嘆いた。

 金鍾泌の使いが全斗煥と会ったものの、門前払いされた後で投げかけた「禅問答」である。使者は崔栄喜だった。

 栄喜は、朴正煕大統領の下で陸軍参謀総長を務め、国会議員(維新政友会)になっていた。全斗煥にたいし、金鍾泌を新しい大統領に擁立していっしょにやろうと提案する腹づもりだった。

 ▽主礼先生

 崔栄喜は1958年、全斗煥と李順子の結婚式で主礼[日本の媒酌人に近い]をつとめていた。

元陸軍参謀総長・崔栄喜

 全斗煥の義父、李圭東に頼まれてのことだった。

 李圭東は3人兄弟で、日帝強占期[日本の植民地時代]に全員満州に渡り、そこで軍隊に入って暮らしを立てていた。解放後に故郷に戻ると、兄弟3人とも軍人の道に進んだ。

 そして、崔栄喜が韓国軍で第2軍司令官をしていた時、その下で、長兄の圭東は管理参謀部長、次男の圭承は輸送課長、三男の圭光は憲兵部長として仕えるという数奇な縁があった。のちに3兄弟はいずれも将官にまで昇進し、圭東は経理監、圭光は憲兵監になる。全斗煥青年は出自が貧しく、将官の「入り婿」という境遇だった。それで、若手将校のころは義父を実の父のように仰ぎ、妻の実家に身を寄せていた。「10年も妻の実家にいた。一つ屋根の下に住む義父にはトイレを使ううえでも不自由な思いをさせてしまった」と、全斗煥はしばしば、そんなことを口にしていた。

 そういったこともあり、崔栄喜は大いに期待していた。「主礼先生」がわざわざ、訪ねて行くのだ。メンツのうえからも、また、義父李圭東のことを考えても耳を傾けてくれるものと期待していた。

 ▽新しい政権を…

 しかし、まったく期待外れだった。

 崔栄喜は、全斗煥に向かって「金鍾泌以外、いないではないか。維新体制が崩壊し、いくら野党の2金[金大中、金泳三]が勢いづいているとはいえ、金鍾泌を立てれば、われわれは勝てる」と説いた。

 全斗煥は首を横に振った。

 「金鍾泌に限らず、3金[金大中、金泳三、金鍾泌]は、みんなだめです。金鍾泌にたいする国民の評価は、不正・腐敗分子であり、腐っているというものです」

 なら、ほかにどんな選択肢があるというのか?

 崔栄喜は問い返した。3金のうちからだれか一人を選ぶか、そうでなければ全斗煥司令官が自ら、直接名乗りを上げるか――その二つのうちの一つではないか、と。すると、全斗煥は答えた。

 「だから、悩んでいるんです。いろいろと考えているところです」

 全斗煥らの新軍部はすでに、もう一つの道、つまり、新たに政権を創出しようと決めていた。ただ、さすがにそんなことを崔栄喜に対して露骨に言うことはできなかった。爪を隠し、さらに機が熟すのを待たなければならなかった。

                        訳:波佐場 清

 

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