第3章 天下の急所を握る
■愛唱歌「男の決心」
全斗煥が巡らせた「いろいろな考え」の断片は、あちこちに残っている。
80年1月末、全斗煥は金大中に手を伸ばした。
金大中側近の国会議員、李龍熙を通してだった。「全斗煥将軍が会いたがっている」という、そんな誘いに乗り、金大中は、ソウル安国洞の裏通りにある合同捜査本部の「アジト」に出かけて行った。謀略やいらぬ噂に巻き込まれる恐れもあったが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と、決断した。
そのころ、金大中は敵情を探るうえからも新軍部の連中と会ってみたいと思っていた。
戒厳司令官の李熺性にも「会おう」と申し入れた。また、張泰玩少将の後を継いで首都警備司令官になっていた新軍部「ナンバー2」の実力者、盧泰愚にも、韓完相教授[ソウル大教授などを歴任]を通して、会いたいと伝えていた。しかし、そのだれからも、なんの返事もなかった。そんなところへ、全斗煥から「会いたい」と言ってきたのである。
▽金大中の自宅軟禁
それより前、李龍熙議員は、前年の79年11月末、国会の予算決算特別委員会で、こう質していた。
「朴正煕大統領の死去によって維新体制も終わったというのに、金大中氏が自宅軟禁のまま、というのはあまりにもひどすぎる。5月30日の新民党大会以来、なぜ半年にもわたって外出すらできないようにしているのか。なにも、今すぐに赦免・復権しろと要求しているわけではない。不法に行われている自宅軟禁を解くべきだ、と言っているだけなのだ」(李龍熙の発言)
そんな李龍煕のところへ、意外にも、新軍部の李学峰大佐から電話がかかってきた。
「国会での今年度予算の処理に協力してほしい」というのだった。もうすでに、保安司令部の大佐が「国政」への協力を求めてくるまでになっていることに、李はただ、呆(あき)れ果てるばかりだった。ともかく、こうして2人の間にパイプができた。
そんな李学峰が2月初め、金大中との面談を求めてきたのだった。李龍煕が「金大中氏を大佐クラスと会わせるわけにはいかない。全斗煥なら会えるだろう」と言うと、李は、そのように手配すると答えた。
▽「復権の代わりに誓約書を」
こうして約束通りに金大中と李龍煕が内資ホテル(保安司令部のアジト)に行くと、全斗煥は現れず、李学峰と保安司令部情報処長の権正達だけが出てきた。金大中は騙されたという気持になった。
「全斗煥司令官は急な用事ができ、私たちだけで来ました。私たちに協力すると誓約書を書くなら、復権させて差し上げましょう」(権正達)
誓約書だと?
その内容は、次のようなものだった。
▼時局の安定に協力する。
▼社会不安を引き起こさない。
▼6月末まで、外国に出ない。
金大中は、誓約書の紙を押しのけて、言った。
「あなたたちが公民権を制限すること自体が、不法、不当なのに、なぜ覚書まで書いて、物乞いをするようなことをしなければならないのか。書けません。どうしてもというなら、復権させてもらわなくて結構だ」(金大中)
金大中は拒否し、李龍煕とともに席を立った。
▽「ソウルの春」
崔載夏大統領は傀儡になりつつある、と金大中は感じた。
大統領を差し置き、新軍部はもう、権力を掌握するためになりふり構わぬ動きをしている、と。
金大中は復権を期待したのは間違いだったと、がっくりきた。
ところが、意表を突くように2月29日、金大中をはじめ在野の678人に赦免・復権の決定が下された。「ソウルの春」が来るかと思えた。しかし、それは錯覚であり、新軍部の計略だった。社会が混乱状態に陥るまで待とう――と計算していたのだった。
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| 赦免・復権がなった金大中(左)を祝う金泳三=1980年2月、金大中氏の自宅 |
▽「放浪詩人 金サッカ」
「ソウルの春」の会同。右から金鍾泌、金泳三、金相万(東亜日報会長)、金大中、丁一権(国会議長)
=1980年2月、仁村記念館
80年1月、新軍部は浮足立ち、得意になっていた。
崔栄喜や金大中のことは眼中になく、「マイ・ウェイ」を謳歌していた。
1月23日、全斗煥は、ホテルで保安司令部幹部らと、夫人同伴の大宴会を開いた。反乱の成功を内輪で祝うものだった。
もう、この世は保安司令部を中心とした、われわれ新軍部のものだ。諸君と家族(妻たち)の内助の功で、ここまで来た。と、そう言わんばかりに、司令官の全斗煥は「放浪詩人 金サッカ」を一曲、朗々と歌い上げた[방랑시인 김삿갓 - Google 検索]
かれは最後の部分を替え歌にして「〽去りゆく 全サッカ~」と歌い、万雷の拍手を浴びた。TBC(東洋放送)のタレントとバンドが動員され、機嫌をとった。
全斗煥には「これぞ、ワシの十八番」と言っていた愛唱歌があった。興に乗ると歌った「男の決心」(作詞・金草香、作曲・李鳳龍)だ[사나이 결심 조용필]。ユーチューブでは金載圭の写真が出てくるが、実のところ、全斗煥が好んだ歌だった。人生、この歌のように生きて行こうと決めていたのだろうか。いかにも全斗煥らしくはある。
心を決めて進む道 阻む嵐は どこにあろう
青雲の夢 胸に抱き
発った故郷に 再び 帰る日
曲がりくねった 道々に 花びらを撒き散らそう
[1949年に発表され、韓国で流行した。1940年代、満州の独立軍の心情を歌ったのが元歌ともされる]
▽反乱直後から決意
新軍部の政権構想はいったい、いつの時点で決められたのか?
結論から言うと、79年12月下旬、「12・12反乱」の直後に、すでに決められていたことが分かっている。
後日、全斗煥、盧泰愚、許和平ら新軍部の中心メンバーらは「政権を取るつもりはなかった。偶然、運命のように政権を任されるようになった」と異口同音に強弁した。いまもそれは変わらない。風向きと時流に乗っているうちに、偶然にも権力を握ることになっていた、というのである。
しかし、歴史という広野に身を隠す場所はない。
李鍾賛(当時、中央情報部副局長)は、かれらの目と鼻の先で新党(民主正義党<民正党>)を立ち上げた当事者の立場から、そのような主張は辻褄が合わない、と反論する。李鍾賛はのちに民正党の院内総務、事務総長をへて金大中政権で国家情報院長(中央情報部、安企部の後身)をつとめことになる人物だ。李鍾賛はこう書いている。
「わたしが目撃した80年初春の政権掌握へのシナリオは、かれらの意中をはっきりと示していた。正直に『政権奪取の意思も欲望も抱いていた。あの時期、権力を任せられるだけの準備ができていた勢力や人物は、ほかには存在していなかった。われわれが引き受けるのは当然だった』と言うのが、堂々たる態度というものではないのか」
▽歓呼と焚きつけ
かれらは「12・12反乱」の流血で、すでに退路を断っていた。
もう、引き返せない橋を渡ってしまっていた。
鄭昇和打倒と旧軍部の粛清によって、「ハナ会」中心の「陸士の軍部」を構築し、軍内部における多数の支持を固めたのである。「12・12反乱が起こると、陸士出身の将官らは手を叩いて歓呼した。旧軍部が追放され、自分たちの昇進も早まって新勢力として浮上し、第5共和国の主力として出世の道が開けたわけなのだから」(文洪球・元合同参謀本部本部長)
あとは、政治勢力を一掃して政権を握るだけではないのか。
新軍部と親しい同郷の文民たちも焚きつけた。
全斗煥の大邱工業学校の後輩である鄭求浩(のちに京郷新聞社長)や、ソウル新聞政治部長や維新政友会所属の国会議員をつとめた李振羲(のちに文化公報部長官)ら、文民の後輩らが「政権を取れ、機会を逃すな」と励まし、後押しをした。
情勢が不安定なところへもって、かれらは「赤い金大中や、無能な金泳三に政権を渡すわけにはいかない。金鍾泌も旧態依然ではないか」などと、「3金」をこき下ろし、「このまま一気に進め」と熱烈なエールを送った(李鍾賛の述懐)。
すでに保安司令官全斗煥の接見室は、長官や次官らが先を争って「謁見」しようと門前市を成す、という様相だった。
▽権力への憧れ
金鍾泌は、全斗煥の心理と当時の状況について、こう読み解いている。
「全斗煥は警護室次長補の時代、車智澈(警護室長)の下にいて、あんな間抜けな男が天を突くほどの権勢をふるうのを横で見ながら、『ああ、権力というものは、いちどは手にしてみるに値するもんだ』と思ったことだろう。下克上の12・12反乱のあの時、新軍部の者たちに、国家観や使命感といったようなものはなかった。ひたすら権力への欲望だけだった。彼らの銃口と威勢を前に、権力の周辺にいた者たちは、顔色をうかがいながら、ただひれ伏すばかりだった。不当な権力に立ち向かって意味ある抵抗をしたり、歯向かったりした者は、一人としていなかった」
訳:波佐場 清

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