2016年10月3日月曜日

「満州」への旅⑫――金日成の母校

「列車から降りて私が真っ先に向かったのは、吉林毓文中学という学校だった。父親に連れられて中国に亡命した故金日成主席が学んだところである」。小林慶二さんが『観光コースでない「満州」』でそう書いたのと同じように、私たちも吉林駅に着くと、車でまず、その吉林毓文中学校に直行した。

■吉林毓文中学
中学校は市の中心部をS字にくねって流れる松花江のほとりにあった。

松花江側に面した正門に「吉林毓文中学」と刻んだ大きな石の門標。あいにくの日曜日で門が閉まり、がらんとしている。鉄筋、高層の校舎はまだ新しく、最近建て替えられたようだ。

横手に回ると、ガラスケースの掲示板と、かつて使っていたとみられる古い門標のついた塀がみえてきた。瓦を載せた塀の門標は、この学校の歴史と伝統を物語っているようで、なかなかの趣である。実際、毓文中学は1917年に創立されたという私立の名門校なのである。
 

掲示板を覗いてみると、校訓や校風、学風のほか、教育理念などが書かれている。「中学」といっても日本の高校に相当する高等中学校で、「過去6年間の進学実績」といったものも張り出されている。

北京大学16人、清華大学4人、復旦大学7人、浙江大学4人、中山大学31人、南開大学16人、北京師範大学23人、中国人民大学40人……。中国の名門大学がずらりと並んでいる。

「中朝友誼の紐帯」と書いた掲示が目を引いた。
192730年、朝鮮民主主義人民共和国の元国家主席金日成同志はここで学び、革命運動に身を投じた。これによって毓文中学は中朝友誼の架け橋となり、国際的な名門校になった。金正日国家主席(ママ)は2010年にわが校を訪問、記念の揮毫をした」
校内に「金日成学習記念堂」が設けられているとも記している。

■中国語をマスター
1912年生まれの金日成少年がこの学校に入ったのは1927年、生年から計算すると15歳の時だった。当時、吉林は省都。その年の1月中旬、初めて吉林に出てきた時のことを『金日成回顧録 世紀とともに』(雄山閣)は次のように書いている。

《古い歴史を誇る大都市の盛況は一目見た瞬間から、静寂な農村地帯で過ごしたわたしを威圧するかのようだった。わたしは改札口を出てからも、こみあげる興奮で歩みを移すことができず、わたしを新しい生活へといざなう新天地の躍動する姿に長いこと見入っていた》

とはいえ、金日成は当時、中国の生活にはすっかり慣れていたと思われる。『回顧録』によれば、平壌で生まれた金日成は、独立運動をしていた父に連れられて7歳のときに朝鮮の「北のさいはて」の地、鴨緑江沿いの中江(現在の慈江道)に移り住んだ。そこでも日本の警察当局の監視が強まると、一家は対岸の中国・臨江に逃れ、さらに中国東北部の八道溝、撫松へと転居した。

その間、1923年春から2年間、朝鮮に「逆留学」もしたが、中国では現地の小学校に通い、中国語をしっかりとマスターしている。『回顧録』は書く。

《あのころ父がわたしに中国語を習わせなかったとしたら、四半世紀を中国で過ごしたわたしは、行く先々で大きな言語の障害にぶつかっていたであろう。正直な話、われわれの闘争舞台はほとんど満州地方であったので、もしわたしが中国語を知らなかったなら、中国人と親しく交われなかったはずであり、彼らとの反日連合戦線も成功裏に実現できなかったであろう》

■「(トゥ・ドゥ)」結成
吉林に出る半年前の19266月、金日成は、撫松にいた父親が病死したのをきっかけに武官学校に通うことになった。撫松から120キロほど離れた樺甸の華成義塾という独立軍の幹部を養成する、授業料のいらない学校だった。母の手一つで学費の工面が難しかったことも大きかった。

しかしそこも半年で中退した。民族主義一点張りの学校で、共産主義の書籍を読むことすら禁じられたことに失望したからだという。そんな中にあってその樺甸で2610月、社会主義・共産主義を志向する新しい世代の青年組織「打倒帝国主義同盟」=略称「(トゥ・ドゥ)」=を結成。金日成はその責任者に推薦されたという。生年から計算すると金日成14歳。今日、北朝鮮では、この「トゥ・ドゥ」を朝鮮労働党のルーツとみなし、その結成を朝鮮共産主義運動と朝鮮革命の新たな出発点になったとしているのである。

華成義塾を中退し、吉林へ出ようと決心したのは、そこが満州各地から朝鮮の反日独立運動家や共産主義者が集まる政治的中心地だったからで、その決断は「私の生涯における最初の大勇断であった」と『回顧録』は書いている。

■「朝鮮共産主義青年同盟」
吉林毓文中学は2学年に編入した。母からの送金はあったが、十分でなく、登校するときだけズック靴をはき、帰宅してからはほとんど裸足で過ごした。書物を買う金はなかった。図書館などで、『共産党宣言』『資本論』『国家と革命』『賃労働と資本』といったマルクス・レーニン主義の古典とその解説書を読みあさり、ゴーリキーや魯迅も読んだという。

《わたしの世界観は吉林時代に確立して揺るぎないものとなり、生涯の思想的、精神的糧となった。吉林での蓄積と体験はその後、わたしの自主的革命思想の骨組みをつくる礎となった》

毓文中学校在学中の19278月、「トゥ・ドゥ」を「反帝青年同盟」に再編するとともに、その中核メンバーで「朝鮮共産主義青年同盟(共青)」を結成。これは、民族解放と共産主義をめざす非合法の青年組織だった。

《「トゥ・ドゥ」を結成した華成義塾の時代が、わたしの青年学生運動の出発点であったとすれば、共青と反帝青年同盟を組織し拡大していった吉林毓文中学校時代は、学生の枠を離れて労働者、農民をはじめ各階層の大衆のなかに深く浸透し、いたるところに革命の種を播いた、わたしの青年運動の全盛期であったと思う》

金日成は吉林毓文中学に3年間通った。その間、中国軍閥当局の手にかかり、監獄暮らしも強いられた。以上は『金日成回顧録』に書かれていることをそのまま紹介したまでだが、それらはひとつの「革命叙事詩」といってもよいものだろう。

■金正日総書記の訪問
金日成が吉林毓文中学で学んだ時から80年の歳月を経て2010年、そのことが改めてクローズアップされることとなった。この年8月、時の北朝鮮トップ、金正日総書記がこの学校を訪れたのである。

826日~30日の中国東北部非公式訪問初日の26日のことだった。北朝鮮の公式報道は、これに関連して同30日、次のような内容を伝えた。

▽金正日同志は、教職員や生徒の熱烈な歓迎を受けて同校に到着。校庭に建てられた金日成主席の銅像に花かごを捧げて敬意を表したあと、原状のままに保存されている校舎の内部を見て回った。金正日同志は主席の体臭が染み込んだ机や椅子など貴重な事跡物に感懐を禁じ得なかった。
▽毓文中学校の合唱団は、金日成主席への敬慕の情を抱き、「金日成将軍の歌」と毓文中学校歌を歌った。

▽金正日同志は同校訪問を終えるにあたり、「朝中親善の象徴であり、長い歴史と伝統を有している毓文中学校が立派な活動家をさらに多く育てることを望む」という内容の親筆を残した。
▽金正日同志は続いて、主席が革命活動の初期に頻繁に利用した秘密の場所の一つである吉林市内の北山公園薬王廟を参観、秘密会議を開いた地下室などを見て回った。

3代目世襲の正当化
金正日総書記のこの時の中国東北部訪問をめぐっては当時、さまざまな憶測がなされたが、いま振り返ると、そこには最高指導者の後継問題が深く絡んでいたとみて間違いない。金正日氏は前々年の2008年夏、病で倒れたあと、衰弱ぶりが痛々しかった。そして、この訪中の翌9月に党最高機関選挙のための党代表者会を開くことはすでに予告済みだった。

毓文中学校訪問翌日の827日、金正日総書記は省都・長春で胡錦濤総書記との朝中首脳会談に臨んだ。この時、中国側の報道が核問題をめぐる6者協議の早期再開問題に焦点を合わせていたのに対し、北朝鮮側は「朝中親善は、歳月が流れ、世代が代わっても変わることはない」といった金正日氏の発言を伝えていた。

さらに、首脳会談に続く宴席のあいさつで金正日氏は「今日、複雑な国際情勢のなかで、朝中の革命先輩らが貴い財産として譲ってくれた伝統的な朝中親善のバトンを後代にしっかりと譲り渡し、それを代を継いで強化、発展させていくことは、われわれが負った重大な歴史的使命である」と述べた、とも北朝鮮側は伝えた。

恐らく、こうした席を通して金正日氏は三男金正恩氏(現・党委員長)への3代目世襲後継を正当化し、中国側の了解を求めていたとみていいだろう。

北朝鮮はこのあと、9月に予定通り党代表者会を開き、金正恩氏を党中央軍事委員会副委員長のポストに就けて後継を公式化する手順を踏んでいったのだった。

■不透明
金正日氏が死去したのは、この中国訪問から14カ月後の20111217日だった。金正恩氏が予定通り、直ちに後を継ぎ、以後、北朝鮮を統治してきている。とはいえ、それは金正日氏が生前に思い描いていたかたちとは相当に隔たりがあるもののようにみえる。

金正恩・党委員長は、金正日氏が「後見役」として準備した叔父の張成沢氏ら側近幹部を次々と粛清。一方で、国際世論に抗して強引に核・ミサイル実験を繰り返している。当然、中国との関係もくしゃくする。金正恩氏が先代から権力を継いでもう5年近くになるが、朝中間の首脳会談はいまだに見通せない。

金正恩委員長が祖父の母校、吉林毓文中学校を訪れることはあるのか。あるとすれば、いつなのか。金正恩委員長の足元の問題を含め、いま、それを占うにはあまりにも不透明な要素が多すぎる。


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