《「深さは一・六メートルほど、幅はもう少しありました。もう、ばたばたと死ぬ。日本人の居留民会などが奔走、この丘が埋葬地と決まったのです。初めは土をかぶせていましたが、冬になり凍土が掘れなくなってからは、薪のように投げ込むだけでした。二、三千体は…」》
■遺骨はどこへ…
訪ねてみると、たしかに、山というよりは小高い丘だった。夏草がうっそうと茂り、荒れ果てて一部、ゴミ捨て場のようになっていた。死者への畏敬や弔いといった雰囲気とはほど遠い風景である。
小屋の中にいた人に通訳を通して聞くと、「遺骨のことは聞いたことがない。ここら一帯は来年、公園として新しく整備されることになっている」という返事だった。私はただ、心の中で黙祷を捧げ、ここを離れた。
■白頭山→松花江→アムール川→オホーツク
私たちは市内を流れる松花江を遡り、上流のダムを見ることにした。満州国時代、日本の満鉄が手がけた豊満ダムである。市の中心部から20キロほど。松花江沿いの舗装道路を走ると、この大河は圧倒的な重量感で迫ってくる。水量豊かに、まさに滔々の流れである。
アムール川はそこからさらに北東へ流れてロシアの極東地域に入り、ついにはユーラシア大陸と樺太を隔てる間宮海峡(タタール海峡、韃靼海峡)に至る。その先は、北はオホーツク海、南は日本海である。いま、松花江のほとりに立ってそのスケールに思いを致した時、私はそこに地球そのものを感じてしまったという思いだった。
■豊満ダム
やがて、豊満ダムのコンクリート壁が見えてきた。その近くで車を降り、しばらく歩くと、まったく別の光景が広がってきた。人造のダム湖、松花湖。遊覧船が何艘も浮かび、のどかに初夏の陽光を浴びていた。
▽松花江を堰き止めたコンクリート製の重力式ダム。貯水量100億立方メートル。東北地方を占領統治していた日本が、水豊ダムに次ぐ極東第2の水力発電所とする計画を立てて1937年着工。45年8月の第二次大戦終結までにダムの87%、発電機据え付けの25%が完成したが、この間中国人労働者を酷使し、多数の死者を出した。
▽日本敗戦後の内戦で国民党軍によって大破されたが、新中国成立後再建され、56年には出力56万7000キロワットと、当時の中国では最大の発電所となった。吉林省の重工業建設に大きな役割を果たし、また松嫩(ソンネン)平原の低地の洪水防止や広い面積の灌漑に役立っている。
ここに出てくる水豊ダムとは、中朝国境を流れる鴨緑江に戦前、この地域を支配していた日本が建設した多目的巨大ダムで、1941年に送電を始め、出力64万キロワットで竣工。朝鮮戦争中、米軍に爆撃されたが、戦後復旧し、北朝鮮と中国で電力を分け合っている。
豊満ダムは着工以来80年近くが経ち、いま、老朽化が問題になってきているようだ。私たちを案内してくれた車の運転手によると、いまのダムの下流100メートルほどのところに新しいダムを建設する計画が進んでいるという。
■万人抗
ここまで来たからには、もう一カ所、やはり、ここを素通りするわけにはいかない場所があった。吉林市労工記念館。豊満ダムの建設工事で過酷な労働を強いられ、多くの中国人作業員が亡くなったことを「歴史の教訓」として今に伝えようという場所である。
記念館は松花江を見下ろす小高い丘の上にあった。構内に入ると正面に「資料館」が見えてきた。中に入ると、女性の係員が案内してくれた。「日本人の蛮行」を告発する写真が多数展示してあり、思わず目を背けてしまった。
すぐ近くの別棟が強制労働で亡くなり埋められたという人たちの「遺骨館」だった。「万人抗」である。何体のも遺骨が埋められた時の状態のままで展示してある。無造作に捨てられたような遺骨も多数散らばっている。あまりの生々しさに私は目がくらむ思いだった。
「万人抗」には日本で異論もあることは、私も知っている。なら、私が見たものは何だったのか。かつてこの地が日本の支配下にあった時代、多くの中国人がここで過酷な労働を強いられ、酷使されたのは事実だろう。中国の人たちが負った「歴史のキズ」は深く、いぜんとして癒えていないことを改めて知らされたという思いである。
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