2026年10月8日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(65)

 ■盧信永を抜擢

 軍人でなく、クーデターの功績もない文民なら、言うとおりに従うだろう。許和平や許三守との深い縁もないだろうし……。その間、日本との経済協力で無から有を創り出すために粘り強い借款交渉をしてきていた盧信永外務部長官の忠誠心が全斗煥大統領の頭に浮かんだ。

 刑務所に収容している無期懲役囚の金大中のことも喉に刺さったトゲだった。

 米国と日本がいつまでもしつこく食い下がってきているが、そのような外交問題は、軍人では解決できない。いや、全斗煥がひとり、解決しようとしても、目を三角にして睨んでいる大佐たちや、その上の「株主」たる将官たちが黙って見ているはずもないだろう。

 ▽「政治のこと、分かるでしょう」

1982年5月下旬、大統領は、報告のためにやって来た盧信永にそれとなく聞いてみた。 

「盧信永長官も、政治のことは少しは分かるでしょう」

全斗煥政権で重用された盧信永。外務部長官、安企部長、国務総理を歴任した

 

当時、盧長官が取り組んでいた日本から100億ドルの経済協力資金を引き出す「韓日経済協力」の問題は、膠着状態に陥っていた。盧信永長官がそのことに関して大統領に報告しに上がった席で、全大統領が突拍子もなく聞いてきたのである(『盧信永回顧録』)。

 「政治のことは分かりません。大学を出て外務部に入り、これまで公務員一筋でやってまいりました」

 「海外の大使館に勤務していて、その国の政治について勉強したのではないのかね」

 「毎週、情勢について報告はしてまいりました。しかし、そうだからといって、政治のことが分かっているというわけではありません」

 それだけで、終わった。

 ▽兪学聖更迭、後任に盧信永

 何日かしてまた、経済協力の問題で青瓦台に報告に上がると、大統領はまた、話しかけてきた。

 「最近、安企部の兪学聖部長に会っていないのかね」

 「このところ、わたしの仕事で忙しく、ここしばらくは会えないままです」

 盧信永長官は気になり、怪訝に思って帰り道、南山に寄って兪学聖部長と会った。兪部長は喜んで迎えてくれた。

 「おお、これは盧君、いらっしゃい」

 「大統領閣下が、このごろ兪部長と会っているか、とお尋ねになられましてね。この間、なにかあったのでしょうか」

 「なにかって? なにもなかったんだけどね。経済協力の問題は盧長官がずいぶんと苦労なされ、いつも外務部のほうでよくやってくれているので、心強いかぎりです」

 兪学聖は、すっとぼけた。李哲煕・張玲子夫婦の手形詐欺事件に絡んで大統領に「親族の処罰」を進言する一方で、すでに辞表を出していたのだが、まさか、大統領が盧信永を後任に据えることを念頭に自分を更迭しようとしている、というところまでは考えてもみなかったのだろうか。

 ▽破格の人事

 盧信永が第5共和国の外務部長官に抜擢されたこと自体、破格の人事だった。

 1980年9月1日、当時ジュネーブ総領事として勤務していて許和平からの電話を受け取ったときのことについて盧信永は次のように回顧している。思いもよらぬ、夜明け前の電話連絡だった。以下、『盧信永回顧録』から――。

 その日の前日、ソウルから来た元青瓦台政務首席秘書官の柳赫仁と夕食を共にした。そんなとき、別れ際に盧信永は、乗用車のドアに指を挟んで人差し指の爪を剥がすという事故に遭ってしまった。一晩中、ズキズキする痛みをこらえて寝返りを打っていると、未明に電話がかかってきた。

 深夜の電話はたいがい、不快なものが多かった。

うれしくもない事故の報告だったり、あるいは北朝鮮の工作員なのかのどうか、電話に出ても何の応答もなく、受話器を持ち直すと、向こうから一方的に切ってしまったり――といった怪しい電話もかかっていた。だいたい、南北関係の重要な会議がある前日のことが多かった。それで、午前2時ごろにかかってきたこの電話にも、つっけんどんに応じた。

「ソウルの許和平です」

「許和平さんって、どなたですか」

相手はちょっと言い淀み、別の人間に代った。

「大統領秘書室長の金瓊元です」

「えっ、金博士はいつ、ジュネーブに来られたのですか」

盧信永は、金瓊元とは面識はなかった。とはいえ、1970年代半ば、高麗大学政治外交学科教授の金瓊元が朴正煕に抜擢されて青瓦台の特別補佐官になったということは、よく知っていた。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)からも教わったというハーバード大の博士である。

「いえ、ここはソウルです。外務部長官に任命されましたので帰国の準備にかかってください。ソウルでお会いしましょう」

 新軍部にはこれといった知り合いもいないところへ、外務部には能力の傑出した先輩たちが大勢いる。そんななかで、まさか自分に長官の番が回ってくるなんて――。半信半疑でいるうちに夜が明けると、ソウルの放送記者からインタビューを申し込む国際電話がかかってきた。

 前夜会っていた柳赫仁・元首席秘書官に電話で、明け方の電話のことを話した。

 柳は「おめでとう」といい、ソウルの新軍部や許和平大佐の立ち位置などについて詳細に教えてくれた。東亜日報の政治部長をしていて1973年に青瓦台に政務第1首席秘書官として入り、車智澈警護室長と金載圭情報部長の間で火花を散らしたライバル競争など、権力中枢の裏事情に何から何まで通じていた。

 盧信永はそんな柳から、青瓦台奥深くの権力関係について聞くことができた。

 ▽心遣い

 1980年9月8日、盧信永は帰国して外務部長官に就任した。

 新軍部と縁のなかった盧信永をいったい、だれが推挙したのか? 盧に忠実に仕えていた外交官は、筆者にこう語った。

 「実際、新軍部とのツテなど、まったくなかった。ただ、能力とその誠実さでメディアの評価は高かった。次官も務めていたので、いずれ一度は長官をやるだろうと期待されてはいた。それにスイスのジュネーブはソウルの高官たちが外遊の際によく立ち寄るコースなので、そこで4年半、総領事をしている間に食事の接待などで縁ができた人たちに好印象を与えたようだ」(金興洙・元バチカン大使)

たとえば、盧総領事は心のこもった挨拶の葉書をよくソウルに送っていた(筆者も、かれが日本の萩市を旅行した際に短い文章を書き添えて送ってくれた絵葉書1枚をいまも保管している)。軍部の、許氏らをはじめとする実力派の大佐たちもそのような葉書を受け取っていた。コチコチと、ただ硬いだけの「ヤング・カーネル」たちも、そんな心遣いに感動していたのである。

▽「お前が盧信永か…」

 全斗煥は「元来、外交官というものは、きちんとアイロンのかかった服を着、辛い仕事や責任を伴う仕事からは逃れてずる賢く立ち回るものだが、盧信永は違う」と評価していたという。絵葉書という些細なことに感動した大佐や将官たちが口々に盧信永のことを話題にしていたということもあった。

 青瓦台で長官任命状を手渡しながら全斗煥はこう言った。

 「おまえが盧信永か…。情報報告をみると、適任だというので任命するが、しっかりやってくれよ」

 このように後ろ盾もなく起用された、平壌生まれの外交官だったが、やがて全斗煥の厚い信任を得ていったのである。[盧信永(1930~2019)は、平壌近郊の生まれ。解放後の南北分断下、平壌の中学を卒業してすぐに単身で南に入った(越南)。地縁、血縁がないなか、苦学してソウル大に入学。その直後に朝鮮戦争が勃発し、韓国軍に志願入隊。休戦した1953年、軍籍に身を置いたまま外交官試験に合格。韓国の外交官から国連事務総長になった潘基文氏の「師匠」としても知られる]

                        訳:波佐場 清

0 件のコメント:

コメントを投稿