2026年8月30日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(55)

  朴世直、「次はオレだ」で失脚

全斗煥は権力の頂点から世の中を見下ろして号令をかける快感を覚え始めた。そんな全斗煥の逆鱗に触れてカッとさせ、流れ弾に当たってしまったのが首都警備司令官の朴世直だった。

▽予備役編入

198186日、朴世直少将の予備役編入が発表された。

朴世直はソウル五輪組織委員長としても活躍した

――軍の捜査機関(保安司令部)は、在米実業家の李圭煥(陸士12期、大佐で予備役編入)について、個人事業のために朴世直・首都警備司令官を通して高官らに請託行為をおこなった容疑で去る731日、捜査に着手し、85日に捜査を終えた。朴世直将軍は「請託排除運動」で率先垂範すべき立場にありながらも、越権と本分逸脱によって軍の威信を失墜させたことにより、ここに補職を解任し、予備役編入の措置を取る(朴鍾植・国防部スポークスマン)。

「ハナ会」会長である全斗煥大統領の直系、陸士12期の先頭ランナーだった朴世直が「越権・本分逸脱」という理由で突然、失脚したのである。

▽「不忠事件」の類推

1973年の「尹必鏞不忠事件」のことを思い起こさせた[この事件は、当時首都警備司令官だった尹必鏞が中央情報部長の李厚洛に向かって「朴正煕大統領閣下もお年を召されたのだから、兄貴(李厚洛のこと。朴正煕に次ぐナンバー2とみられていた)が後継者になられたら」などと言っていたことが分かって朴正煕の逆鱗に触れ、失脚した事件。尹必鏞が背後で支援していた全斗煥らのハナ会にまで捜査の手が伸びた]。新たに起きた朴世直事件では、捜査を担当したのは朴世直と陸士同期で、格別に親しい間柄にあった朴俊炳・保安司令官だった。これは、なにか特別な理由があってのことだったのだろうか――。

これといったウラ事情のようなものがあったというわけではなかった。

朴俊炳は保安司令官になってから、まだ1週間しか経っていなかった。そんなところへ大統領の指示が下りてきたものだから、ともかく急いで真相をつかみ、大統領にそのままを報告しただけだった。朴世直が陸士同期の実業家のためにソウル市長らに圧力をかけた、ということだったのだが、実際に金品を受け取っていたわけでもなく、請託の内容もたいしたことではなかった。

しかし、青瓦台としては「ハナ会出身といえども、調子に乗ってしゃしゃり出、小生意気な態度をとる者は許さない」という見せしめをしたかったのだ、という説が流れた。全斗煥が自ら「お膳立てをした者が別にいるというのに、いったい、どこのどいつが勝手に箸を付けようとしているんだ」と言って怒った、という話も漏れ伝わってきた。

▽軽率な舌禍

この事件の捜査結果を大統領に報告した後、保安司令官の朴俊炳は、大いに困り果てることとなった。青瓦台が急遽、「来い」というものだから息せき切って駆けつけると、すでに国防長官の周永福と陸軍参謀総長の李熺性が全斗煥大統領の前に座っていた。朴世直を予備役に編入させる――という通報だった。朴俊炳は大統領に善処を乞い、「副軍団長ぐらいに出すのはいかがなものでしょうか」と懇願したが、周永福がかれの服の裾をつかんで引っ張った。予備役編入はもう、決裁が済んだことなのだからやめておけ、という合図だった。朴俊炳はそれでもなお、朴世直の首都警備司令官退役式だけはやってほしい、と進言し、その式に直接、挨拶文も準備して出席するという友情を示したのだった。

朴俊炳は後日、インタビューに答え、朴世直退役の真相についてこう語った。

「実のところ、当時、朴世直将軍が各界の人たちと活発に接触しながら『次期大統領は自分だ』と言わんばかりの言動をしていたことが問題になったのだ。あとで知ったのだが、全斗煥大統領は首都警備司令部の作戦参謀、金振永大佐らを呼んで朴世直将軍の日ごろの言動について直接確認したうえで、そのような措置を取ったのだ」(『月刊朝鮮』20133月号)

朴世直は、1973年の尹必鏞と同じように軽率な舌禍で飛ばされたのである。

▽復権

ところが、それからわずか6カ月余で、大統領の怒りはおさまった。

全斗煥は19823月、朴世直を韓国電力の副社長に据え、続いて安企部の第2次長に起用した。その後、朴世直は総務処長官、体育部長官、オリンピック組織委員長と次々に要職を歴任し、名誉を回復していった。動力資源部長官だった李宣基によると、全大統領は李に韓国電力に朴世直のポストを見つくろうよう指示した際、「実際のところ、あいつ(朴世直)は参謀総長の器なんだが、途中で不幸なことになった。分かってみると、別にどうということでもなかったんだが」と言っていたという(中央日報1993212日付)。第5共和国における全斗煥人事の一つのパターンではあった。

▽勉強家

もともと朴世直は、軍人にしては顔が広く、人付き合いを楽しむタイプだった。

筆者は1986年、総務処長官時代のかれが長官室で、その忙しい最中にあってもフランス語の録音テープを聞いて会話の勉強をしているのを目にしたことがある。

夭折した詩人の奇亨度から一時期、週1回、定期的に文章の書き方について教わったりもしていた。総務処の長官室はソウル世宗路の政府総合庁舎9階にあったのだが、当時、奇亨度は中央日報の政治部記者として総合庁舎内にある総理室と総務処を担当していた。奇亨度の、その飛び抜けた文才について報告を受けた朴世直は、奇に直接頼み込んだのだった。

▽大望

朴世直は軍人には珍しく社交的で、実業家や大学教授、キャリア官僚、外国の大使ら、軍隊外にも交友関係を広めていた。ハナ会の中心メンバーであり、全斗煥政権の実力者として首都警備司令官に座っていたかれには「カッコいい、粋な人物」として慕うファンも多かった。

また当時、一部の政治記者たちは、そうした朴世直の行動や身のこなしから、まだ消えてはいない、かれの野望を認めたりもしていた。ある時期、大統領の座を狙う胸中をうっかり吐露して痛い目に遭ったが、いぜん、その夢を捨てきれず、軍人から文民に転身すべく必死に勉強していたというわけではあった

                       訳:波佐場 清

 

2026年8月27日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(54)

  公安勢力vs許和平

1981年に入ると、青瓦台の許和平は「鄭道伝気取りだ」と陰口を叩かれるようになった。

朝鮮王朝建国の功臣である鄭道伝(134298)のように、第5共和国の設計者として、あまりにものさばり過ぎているとする反発だった。とくに盧泰愚の親戚である朴哲彦や、大統領の妻の叔父の李圭光らと敵対し始めた。

▽許和平に弱み

814月、法務部長官の人事をめぐり、許和平と朴哲彦がぶつかった。

許和平には弱みがあった。弟の許和南がスパイとして捕まり、服役していたのだ。

許和平は第5共和国の実力者となり、国政を全面的に采配しながら、改革の名のもと、すべてをあまりにも急進的、一方的に推し進めた。それは許和平が社会主義的な意識を持っているからではないか、と公安部門の関係者らは囁き合った。

▽法務長官人事巡り、確執

朴哲彦は、そんな許和平を意識し、公安検事の大ボス株である李鐘元(大邱高検長)を次期法務部長官として推した。現職長官は呉鐸根で、朴正煕大統領によって1976年に検察総長に抜擢され、805月以来、法務部長官を務めていた。

許和平は、骨の髄まで反共で凝り固まった南山(中央情報部)の要員たちからも深い恨みを買っていた。

許和平は、保安司令部秘書室長としてのさばり、(中央情報部長の座にいて朴正煕大統領を暗殺した)金載圭のせいで「反逆者集団」になった南山の牙を抜き、情報部の者たちを、まるで罪人扱いしてきたではないか――

「スリー許」が、李鐘元に反対し始めた。

許三守率いる司正首席秘書官室を動員して李鐘元と夫人の私生活についてまで身辺調査をしているような気配だった。そして夫人は高利貸しまでやっていると大統領に報告した。

朴哲彦も大統領に訴えた。

「自由民主主義の哲学に疑念があったり、前歴が疑わしかったりする人物には留意すべきです」。もちろん、許和平を念頭に置いてのことだった。

結局、李鐘元が法務部長官になり、この神経戦は朴哲彦の勝利で終わった。

▽政権に忠誠誓う大法院長

81416日、兪泰興が大法院長に抜擢された。

兪泰興は大法院長退任後、国政諮問委員に委嘱された=1986

兪は、1979年の「1026事件」、つまり金載圭による朴正煕暗殺事件の審理で主審判事を務め、金載圭に内乱目的殺人罪を適用して死刑を言い渡した大法院判事として有名だった。保安司令部の督促と兪泰興の迅速な裁判進行により、金載圭は、事件からわずか7カ月後の80524日、光州民主化抗争のさなかに死刑が執行された。

大法院長任命を前に、全斗煥大統領の指示を受けて政務首席秘書官の禹炳奎と秘書官の朴哲彦、孫晋坤が、兪泰興宅を訪れて面談した。記録として残っている兪判事の「忠誠の誓い」は異様なものだった。

 「個人的な親交もない私を大法院長候補として考えてくださっているだけでも光栄なことですが、任命されれば最善を尽くして任命権者(大統領)と国民に奉仕致します。分断国家の現実に照らし、司法府のトップは政治的な公安事件では政府に協力すべきであり、一般事件については所信に基づき、独立して判断しなければなりません。判事たちの任用に当たっては、国家観がしっかりせず、品位に欠ける人物は排除するほかありません」(兪泰興の書簡)

 ▽判事の堕落

 兪泰興大法院長のその後の行動は、このいじましいばかりの一途(いちず)さから寸分たりとも外れるものではなかった。大法院を担当した当時の安企部情報官の次のような評価が興味深い。

 「1980年末、金大中内乱陰謀事件が3カ月という超スピードで12審とも死刑判決が下され、続く大法院でも上告棄却というかたちで金大中の死刑が確定したでしょう。それは、金載圭の迅速な死刑確定に協力した大法院判事(兪泰興)が大法院長に上り詰めたからなのです。在野のほうで金大中に対する100日間の不法拘束について問題を提起していたが、法院(裁判所)は見て見ぬふりをしていました。その時、司法府の卑劣さを直接、目の当たりにしたのです」(のちの盧泰愚政権下、安企部改革を掲げて内部に設けられた安企部政策研究官を務めた厳相益弁護士が安企部情報官から聞いた話をまとめた記録からの引用)

 具体的に、どう卑劣だったのか。その安企部情報官は、こう語っている。

 「金大中の死刑確定に協力した裁判官の一人が権力内部の実力者をこっそり訪ね、全国区議員のポストを要求していたことが、わたしたち安企部のアンテナに引っかかりました。上のほうでその判事に、全国区議員の代わりに大法院判事のポストを推薦してやったといいます。そんな人物が大法院判事になって何カ月かしてのことでした。全斗煥政権がつくった社会浄化委員会に1通の投書が投げ込まれたのです。その人物の裁判官時代の女性問題に関するものでした。それで密かに内偵してみたのですが、大法院判事になる前、裁判所の女性職員2人と不倫関係にあったことが分かったんです。女性職員は、結婚後も関係を続けていたのでした。そんな事実を報告すると、上のほうで、その大法院判事を内々に依願退職させたといいます」

 ▽コネ人事

 5共時代の裁判所の人事は、安企部要員の目から見ても、あきれ返るばかりのものだった。

 「裁判官の中にも出世主義者が何人かいました。安企部のアンテナに引っかかった三流の裁判官たちに多かった。裁判所内部では実力もなく、無視されているような裁判官が、大統領の弟や兄のツテを頼って大法院判事にしてほしいと頼み込むようなこともありました。それで全大統領が大法院長を呼び出し、食事をいっしょにしながら、その裁判官を大法院判事にするよう指示したこともありました。『ソウル大出身者だけでなく、他の者たちにも大法院判事をやらせてみてもいいのではないのか』といった論理でした。裁判官らには冷笑するような雰囲気がありました。大統領の側近に手を回し、適当な名分さえ立てれば、実力がなくても大法院判事になれる――そんな自嘲の混じったもの言いが法曹界で流行っていました」

 ▽安企部が弱みを握る

 軍隊式に身内の頼みごとを聞いてやる人事にあっては、破格の出世もあった。

 「とんでもない出世をした裁判官もいました。あるとき、全斗煥大統領が大法院長に、地方裁判所のある裁判官をすぐに裁判所長クラスに昇進させたうえで青瓦台の秘書官として送り込むよう命じたことがあります。わたしたちの情報機関で調べてみると、その裁判官は大統領の弟にいろいろと働きかけていたことが分かりました。それで、そのような命令が下ったのでした」(以上、いずれも『月刊朝鮮』20216月号)

兪泰興体制となった裁判所は、その翌年の1982年、「27万ドルの不法搬出」事件[ソウルの金浦空港で大量の外貨が隠されたカバンが見つかった事件。これをきっかけに、大法院と検察のトップ幹部らが、高級料亭の女将たちによる賄賂工作などに深く関わっていたことが発覚した]で安企部に弱みを握られてさんざんな目に遭い、第5共和国時代の全期間を通してますます、権力の言いなりになっていったのだった。

                       訳:波佐場 清

2026年8月25日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(53)

 「カラスに代わるシロサギはいない」

国家安全企画部(安企部)が新聞小説の隅をほじくって作家を連行し暴行を加えたということは、それだけ部長の兪学聖が暇だったということでもあった。そんな合間を縫って兪学聖は訪米の旅に出た。

▽安企部長の米CIA訪問

19815月、米CIAへの公式訪問だった。

安企部から政治情報局長の金根洙、海外情報局長の李相悦、北韓(北朝鮮)局長の金泰叙が同行した。これは第5共和国(5共)がレーガン米政権と蜜月関係に入ったことの一つの証左でもあった。というのも、両国情報機関の公式交流は1961年に韓国に中央情報部(KCIA)ができて以来、初めてのことだったからである。

兪学聖は、新軍部が権力を奪取していった「1212軍反乱」や「517戒厳令拡大」の時期、ソウルで米CIA韓国支部長をしていたロバート・ブリュースターを、病気見舞いも兼ねて訪ねた。ブリュースターは、ワシントン郊外で癌と闘っていた。兪は、そんなかれに全斗煥大統領からの感謝状を手渡した。

▽新軍部の恩人

ブリュースターは、新軍部の政権から破格のもてなしを受けるに十分な資格があった。

かれは「1212反乱」に際し、米国人の中では真っ先に全斗煥に電話をした。

そして深夜、国防部長官の盧載鉉にも電話して崔圭夏大統領のところへ行くよう促した。夜が明け、グライスティーン米大使と全斗煥が初めて会うように仕向けたのもブリュースターだった。かれは「情報マン」らしく、まず現実を認めるというのが哲学であり、全斗煥の新軍部は、かれが間に入ってくれたおかげで、そっぽを向いた米国を説得することに成功したのだった。

全斗煥らの新軍部が韓米連合軍司令部の指揮下にある韓国軍第9師団第29連隊などを勝手にクーデターに動員した問題で、ジョン・ウィッカム駐韓米軍司令官(兼韓米連合軍司令官)が激怒した際にも、ブリュースターはグライスティーン大使とウィッカム司令官を相手に事態の収拾に乗り出し、波風を立てぬよう2人を説得した。

ブリュースターはとくに、金潤鎬(歩兵学校長をしていて「1212反乱」の翌日、いきなり対米窓口役として呼び出され、その後、合同参謀本部議長も務めた)と親しかった。金潤鎬に「ボボ(Bobo)」という英語のニックネームを付けてやったのもブリュースターであり、2人は家族ぐるみの付き合いをするほどの仲だった(『ウィッカム回顧録』)。

得意の英語を生かし、新軍部の対米国パイプ役を務めた金潤鎬

ウィッカムは、「1212」の直後、全斗煥、盧泰愚、黄永時を軍法会議にかけてやると息まき、クーデター成功後も2カ月以上にわたって全斗煥との面会を許可しなかった強硬な原則主義者だった。

そんなウィッカムが「クーデターを主導した者たちも、金潤鎬についてだけはすぐれた人物を選んだものだ」と回顧録に書いている。金潤鎬がブリュースターをそれほどまでにうまく丸め込んで新軍部の利益を実現していた、ということでもある。

▽「最善ならずとも…」

ブリュースターは、ウィッカムとグライスティーンを新軍部の側へ引っぱり込んでいった。

ブリュースターは2人に「全斗煥とは距離を置くべきだが、われわれ(米国)は、かれといっしょにやるしかない。ほかにやりようがないではないか」とずっと説得し続け、とうとう、そちらの方向に心を傾かせてしまったのである(『ウィッカム回顧録』)。

ブリュースターは1980年の「ソウルの春」に際し、グライスティーン大使に次のようなことまで言っていた。

「もし、全斗煥が(文民政権をひっくり返して)政権を完全に奪取しようと考えているのだとしても、それは国の安全保障を危うくしたり、北朝鮮の介入を挑発したりということではなく合法的になされるべきだ、ということをかれに納得させるべく、われわれとしてはベストを尽くすべきだ」

全斗煥は最善ではないにしても、米国にとっては「次善」だということだ。

ウィッカムのブリュースターについての回顧は続く。

「ブリュースターは全斗煥と個人的に親しくなったと言っていた。1212反乱についてまではあらかじめ知らされていたわけではなかったにせよ、2人は重要な問題について頻繁に意見を交わすまでの仲になっていた。ブリュースターはわたしに、自分と全斗煥の親密さを利用してもらっても結構だとも言っていた」

▽「誰が全斗煥に代われるのか」

801月、全斗煥らの新軍部に対して李範俊将軍らが逆クーデターを起こそうとしているとの情報にカーター米政権が未練を捨てきれないでいる時期があった。米本国では、米国主導による全斗煥排除を模索していた(『グライスティーン回顧録』)。ところが、ソウルでは、ブリュースターCIA支部長、グライスティーン米大使、そしてウィッカム駐韓米軍司令官がこの逆クーデター情報を握りつぶすことにした。

この時のブリュースターの立場と、大使の電文はこうだった。

「全斗煥にたいする軍部内の支持勢力が強く、かれを排除すること自体が難しいだけでなく、たとえそれに成功したとしても、だれがかれに取って代わるべきなのか、それが問題なのだ」(『グライスティーン回顧録』)

結局、グライスティーン大使は次のような電文を送ることになる。

「われわれ(米国)が排除しようとするカラス(全斗煥)に代わる、信頼するに足るだけのシラサギ(政治家)は見いだせない」(19804月)

 ▽北方外交へ布石

いずれにせよ、ブリュースターはソウルのCIA支部長時代、殺伐とした状況にあって、グライスティーン大使とウィッカム司令官を積極的に宥(なだ)めすかし、米国の立場が「現実容認・現状維持」となるようリードしたのだった。

そのブリュースターをパイプ役にすることで新軍部は米国を引き込み、第5共和国の発足へと突き進むことができたのである。反乱軍にすれば、ブリュースターは恩人そのものではないか。

兪学聖部長は米国で、駐米公使の孫長来(安企部要員)とドナルド・グレッグ(ブッシュ副大統領の補佐官)との間の水面下のチャンネルづくりもおこなった。兪学聖はまた、元CIA局長の経歴を持つブッシュ副大統領とも会って北朝鮮との南北高位級会談を後押ししてもらい、さらにはソウル-モスクワ、ソウル-北京間に水面下のチャンネルを設けるべく、米国に仲介してもらいたいと要請した。

このようにして兪学聖安企部長が交流の突破口を開くと、834月には米CIA長官のケーシーがソウルを公式訪問したりもした。この時の安企部長は盧信永に交代していたが、ケーシーは盧信永の案内で青瓦台も訪れた。ケーシーは情報分析官を同行させ、全斗煥大統領の前で北朝鮮に関する情報について詳細なブリーフィングをおこなった。

▽広がる民主山岳会

 1981年夏に入ると、金泳三の「民主山岳会」の同志は毎月、その数が増えていった。政治活動が縛られていた政治家たちだったが、暇つぶしがてらの山登りに興味を覚え始めたのだった。

登山の参加者が引き続き増えていくと、安企部は、会員にたいする監視はもちろん、脅しや暴行、懐柔といった弾圧で会の活動を妨害した。地方では不法な連行や軟禁がいよいよひどくなっていったが、それでも全国的に山岳会の組織は広がっていった(『金泳三回顧録』)。

厳しい政治の冬を解かす「登山の予熱」は、野党の同志たちに希望と自信を植え付けた。登山に始まったその温もりの広がりに、安企部は頭を悩ませた。

ただならぬ動きは食い止めておかなければならない。しかし、難癖をつけようにも、その取っ掛かりは見いだせなかった。

そうして1年ほどが経つうちに、その口実が見つかった。

▽金泳三、2度目の自宅軟禁

1982416日付ニューヨーク・タイムズに金泳三と山岳会に関する特集記事が載った。東京支局長のヘンリー・ストークスが「春の北漢山・大南門〜牛耳洞コース」の登山に同行して書いたルポだった。記事は次のように締めくくられていた。

「登山を終えた50人ほどの山岳会会員らは、こう叫んだ。『民・主・光・復』と――」

この記事を口実に、金泳三は82531日、2回目の軟禁となって自由を奪われた。

最初の軟禁が解かれてから1年でまた、自宅に閉じ込められることになったのである。

政治活動禁止の措置に背いたというのが表向きの理由だった。

しかし実のところは、山岳会と金泳三の活動によって民主化熱が広がるのを恐れたのだった。だからといって、山岳会員全員を締め上げ、コントロールすることは困難だった。会員たちはすでに準備運動を終えた状態にあり、山登りがしたくてうずうずしている彼らの活動を一挙に止めてしまうことはできなかった。

                       訳:波佐場 清

 

2026年8月22日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(52)

連載小説に難癖をつけ、拷問

金泳三が自宅軟禁されて1年になろうとしていた198151日、安企部(部長・兪学聖)の次長、玄鴻柱がソウル上道洞の金泳三宅を訪れた。

「きょうから兵力を撤収させます。もう、自由です」

その間、金泳三は自宅に閉じ込められ、ほとんど鬱病に近い状態になっていた。

▽足踏みランニング

毎朝5時に起きるのだが、行くところがなかった。活動できる空間といえば、広さ45坪の狭い庭だけだった。そこで毎日30分ほど足踏みのようなランニングをすることから一日を始めた。右回りに15分ほど走り、目が回ってくると、こんどは左回りに15分、といった具合だった。そんなことを狂ったように繰り返していると、芝生が剥がれて狭い庭は踏み固められ、まるで脱穀場のようにツルツルに光っていた(『金泳三回顧録』)。

金泳三は軟禁を解かれ、安企部の尾行と監視を意識しながら、李敏雨、金命潤、洪英基、金東英、崔炯佑、金徳龍、尹赫杓らと会い始めた。

 8169日からは金東英、崔炯佑、金徳龍らと北漢山へ登山にも行った。

「民主山岳会」の始まりだった。

金泳三に登山こそ許したものの、安企部のやることは相変わらずだった。

▽作家や新聞部長に拷問

奉斗玩(ニュースキャスター出身の元民正党国会議員)の話を聞いてみよう。

19816月のある日、三星(サムスン)グループの李健煕・副会長が国会議員の奉斗玩にたいしていきなり悪態をつき始めた。

「ひどい奴らだ。純真な作家や何の罪もない新聞の文化部長(中央日報文化部長の鄭圭雄)を電気拷問にかけるんだから。ほんとうに悪い奴らだ」

李健煕は怒りを爆発させていた。

奉斗玩と李健煕は、奉がワシントンで韓国日報の特派員をしていたときからの知り合いで、奉が東洋放送のニュースキャスターに移籍したのも李健煕の取り持ちがあったからだった。

▽軍事政権を風刺

19815月、兪学聖率いる安企部からむごい拷問を受けた小説家、韓水山のケース――

作家の韓水山(右)。左はバスケットボール選手の金裕宅
 安企部が問題にしたのは、中央日報の連載小説「欲望の街」の1981514日付と同22日付に掲載された一節だった。

「時どきテレビのニュースで見かける顔――。政府の高官がヘンに田舎臭い帽子をかぶって炭鉱町のようなところを訪ねて行っては、そこのおばさんたちと握手をする。おばさんたちは、自分たちのことをいろいろ聞いてもらえるのが、ただ恐れ多く、高官の差し出す手を握って恥ずかしそうに笑っている、そんな顔……」(514日付)

「世の中、ろくでもない男には何種類かあるものだ。その第一は、制服を着た者たちなんだから…。そのなかには軍隊に行ってきたこと以外、話すことがない者たちが必ずいるもんだ」(522日付)

▽後遺症

「ヘンに田舎臭い帽子をかぶった政府の高官」「ろくでもない、制服を着た男たち」というくだりが青瓦台や軍出身者らの神経を逆なでした[「田舎臭い帽子をかぶった」はズバリ、全斗煥大統領を皮肉ったとみられた]。かれらの過剰な反応、過剰な忠誠心がもたらした権力の乱用だった(奉斗玩の回顧)。

韓水山をはじめ、中央日報文化部の鄭規雄部長、同李殷允次長ら7人が23日ないし35日間にわたってボコボコに殴りつけられた。

この事件の巻き添えで捕まり拷問を受けた詩人の朴正萬(当時、出版社「高麗院」の編集長)は、その後遺症で何年か後に亡くなってしまった。韓水山とは出版の仕事で何度か会っただけで、ほかになんの関係もなかった朴正万だったが、「反政府人物」として生涯を終えたのである。

韓水山は作家の道を諦めなければならず、精神的に苦しんだ末に結局、1988年、日本に移住し、一時期をそこで過ごした。

▽作家の呻き

韓水山の呻きが記録として残っている。

「引き裂かれ、砕かれるわたしの全裸に降り注いだ棍棒、水、電気、拳と足蹴り、吊し上げ。そして、干し魚(イシモチ)を縄で連ねるかのように芋づる式に引っ張ってきて、なにか、同じゴルフコースでもいっしょに回わらせられているような、わたしの情愛深かった先輩や友人たち。わたしにはまだ、わからない。一人の作家――『散文詩のような言語と、愛と死の美学』を描き出すという、批評的な修飾語を名前の上にくっ付けて生きる、そんな一人の作家を絞りに絞って、いったい彼らは何を得ようとしたというのか」(奉斗玩『ニュースキャスター』より)

                     訳:波佐場 清

2026年8月19日水曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(51)

 「市民を虐殺した銃剣権力を審判しよう」

19813月の総選挙への立候補が厳しく制限される中、野党民韓党の公認審査にパスしたとの連絡を受けた朴寛用が党本部に出かけていくと、第1次公認者名簿の中の2人に赤線が引かれていた。朴寛用と金炯国(金大中の元秘書)だった。

▽公認名簿を軍が検閲

2人は公認審査委員長である辛相佑(のちに7選され、金泳三政権で海洋水産部長官)の部屋に怒鳴り込んでいって質した。辛相佑の反応は意外だった。

全斗煥政権初の総選挙は厳しい規制下、19813月におこなわれた

「静かにしていろ、身の安全を考えろというんだ」(辛相佑)

野党の公認者名簿を軍部が押さえ、検閲しているのだった。新聞の政治ゴシップ欄には「見えざる手が働く民韓党の釜山東萊支部」という記事が載った。辛相佑は再び、朴寛用を呼んだ。

「複数公認であっても受け入れる気はあるか」

こうして全国の地方区で唯一、その東萊選挙区だけに同一党から複数の公認候補が認められたのだった[当時、地方区は各選挙区定数2の中選挙区制で、与野党各1議席が指定席のようになっていた]。競争相手となる同じ民韓党の朱某という候補は、新軍部の実力者である李鶴捧(保安司令部の大佐)の近所の住人だった。ところがその朱某は、地方区の選挙運動が負担になりすぎたのか、(比例代表制の)全国区に回ると言って東萊選挙区からの立候補を辞退した。こうして事実上の対戦相手は野党国民党の梁燦宇に替わった。

 ▽「韓国のブルータスになる」

 コップの中の嵐ともいえた、この第5共和国の選挙――第11代総選挙も、選挙は選挙だった。

これは、釜山東萊選挙区から立候補した朴寛用の物語である。

事実上、与党民正党の1人(金鎮載が公認され、当選した)と、野党の1人を選ぶ選挙だった。与党候補は最初から当選が決まったようなものだったが、野党の国民党候補である梁燦宇(第710代議員、内務部長官などを歴任)と民韓党の朴寛用は、血みどろの戦いを繰り広げることになった。資金もバックもない無名の朴寛用は、迫力あふれる演説をして名前を売り込むしかなかった。

「政権は民意から生まれたものでなければなりません。ところが、いまの政権は銃口から生まれたのです。光州で、戦車で市民を虐殺して権力を握ったのです」「全斗煥が民主主義をやらないなら、シーザーにブルータスが短剣を突きつけたように、わたしが短剣を手に取り、韓国のブルータスになってみせます」

釜山の市民らはどよめき、朴寛用に拍手を送った。

 ▽圧力、官権介入

 そんなある日、商売をやっている兄が、朴寛用にメモの紙切れを見せながら言った。

「南川洞(安企部釜山支部の所在地)に呼び出されて行ってきた。おまえ、いまのような演説はやめてくれないか」

 メモには7項目か8項目の「注意・警告事項」が書かれていた。

 官権の介入もひどかった。

 東萊警察署長の許某という総警[日本の警視正クラスに相当]の指揮の下、朴寛用の運動員は名刺を配っただけで道交法違反で連行された。一方で、民正党と国民党の運動員は、現金入りの封筒をばらまいても目をつむってやっていた。

 東萊選挙区にある42の洞[行政区の単位。日本の町内に相当]では、洞長たちがまるで秤(はかり)で測ったかのように、きれいに半分ずつに票割りをし、それぞれ民正党と国民党の候補を応援した。ただ、あきれるばかりだった。この選挙で初当選した朴寛用は選挙後、国会内で民正党の有力議員となっていた権正達の話を聞き、謎が解けた[新軍部の中心人物の一人だった権正達はこの選挙に向けて陸軍准将で退役。民正党の結党を主導して初代事務総長(幹事長)になり、自らもこの選挙で初当選していた]

 ▽政治工作

 権正達は、朴寛用にたいし「すべてが政治工作によるものだった」と、こう明かした。

 「今だから率直に言うんだけど、国民党には総裁を担えるだけの人材がおらず、梁燦宇氏を当選させて総裁にしようとしたんですよ。それで、わたしが東萊に1週間ほど滞在してテコ入れをしたんだが、朴議員がしぶとく当選したおかげで、こちらの計画が狂ってしまったというわけです」(『朴寛用回顧録』)

                         訳:波佐場 清

2026年8月16日日曜日

金忠植『5 共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(50)

  第7章 オリンピック・米国…「国家は軍隊とは違うな」

 安企部・保安司令部が公認と総選挙を操る

 1981225日の大統領選挙で全斗煥が当選した。

全斗煥大統領は81年夏、慶尚南道鎮海沖で魚釣りを楽しんだ

 形式上、5271人の選挙人が全国77の地域選挙区で投票するという体裁をとり、全斗煥はそこで902%にあたる4755票を獲得した。

 ▽一挙に野党党首と大統領候補

 その日、次点で落選した民主韓国党(民韓党)の柳致松候補(党総裁、2006年没)が金哲記者(東亜日報、2011年没)に向かって「プッ」と冷笑してみせた。

 「どうして、笑われるのですか」

 「だって、こっけいだよ。これまで、いちど野党第1党の大統領候補になってみようと命懸けだった者たちがいたかと思うと、党首になろうと、生きるか死ぬかの身悶えをした者もいた。わたしの場合、その2つのことを一挙にやってのけたんだから。こうも易々と、な」

5共和国の初期、新軍部権力の恐るべき剣幕によって567人の政治家が規制によって縛られるという、柳致松らにとっては「棚ぼたのような幸運」もあったのである。世の中、「死んだ者の後釜はちゃんと出てくる」という格言通りなのだろうか。

▽国会議員選挙

国会議員選挙(第11代)は、813月だった。

政治がカチカチに凍りついた厳冬の時代ではあったが、それでも選挙となると熱くなった。

裏取引があり、人事の請託もあった。さまざまな群像が、空席となった議席の後継をめぐり、なかなかの熱戦を繰り広げた。

高貞勲(1988年没、中佐で予備役編入)が党首を務めた民主社会党(民社党)のケース――。

801129日、ソウルのコリアナホテルで民社党発起準備委員会を開くなど、革新政党結党の準備を進めていた。年末、高貞勲は保安司令部の韓鏞源・情報処長を自宅に訪ね、こう訴えた。

「安企部の支援だけでは結党資金が足りません。保安司令部情報処のほうで東亜建設の崔元碩代表と会って民社党を支援するよう言っていただけると、大変助かります」(『韓鏞源回顧録』)

▽「多党制

結党に関することは中央情報部の管轄なので、韓鏞源は気が進まなかった。しかし、断わるわけにもいかず、仕方なく崔元碩に事情を話すと、「その件については、保安司令部の秘書室のほうからも、よろしく、という連絡がすでに入っています」と言うのだった。高貞勲は、保安司令部秘書室長の安秉浩にも同じように働きかけていたようだ。

韓鏞源処長は、適当に遠ざけた。

高貞勲にたいし、「大統領も(体裁を整えるために)革新系野党を育てようとしておられるのだから、民社党担当の安企部要員によく話してみなさい」と助言だけをして適当に距離を置き、手を引いた。80年、全斗煥の新軍部は、民正党を頂点に、その周りにいくつかの衛星政党を配置して格好だけでも多党制を取り繕おうとしていた。

▽コネ候補

与党民正党の候補公認をめぐるエピソード――

812月、民正党の総選挙公認候補名簿を決裁している最中に全斗煥が言った。

「金復東将軍[全斗煥や盧泰愚らと陸士同期(11期)で、盧泰愚の義兄]が、全羅南道の海南選挙区に任永得(立法議員)を是非入れてやってほしいと言ってきていたんだが、入ってないな。あの地域では考試の両科[日本の上級公務員試験に相当する試験の司法科と行政科]に通った天才だとも聞いているので、入れてやろうや」

そう言いながらその場で任永得の名前を書き入れた。

ところが、任永得は落選し、閔丙楚(民韓党)と李成一(国民党)の野党候補2人が当選するという結果になった[各選挙区とも定数2の中選挙区制で、与党の候補が当選しやすい仕組みになっていたのだが、それでも任永得は落ちた]。このあとの85年の総選挙で、全斗煥は、任永得を民正党の全国区(比例代表制)候補として公認して当選させ、意地を通したのだった(『韓鏞源回顧録』)。

▽「政治風土刷新法」

813月の総選挙を3カ月余り後に控えた80115日、いわゆる「政治風土刷新法」が出てきた。

新軍部がこの法によって政治活動を縛り、規制した人員は、先述のように実に567人にものぼっていた[対象者は、国会議員選挙への出馬が禁じられたほか、政治団体の結成や他の候補の応援演説を含め一切の政治活動が禁止された]

朴正煕政権の与党だった旧共和党の具泰会、吉典植、金鍾泌、金昌根、金澤寿、陸寅修、李孝祥、丁一権や、維政会(維新政友会)の白斗鎮、崔栄喜、太完善、そして旧新民党の金泳三、高興門、辛道煥、李哲承、李敏雨、李忠煥、黄珞周ら、政界の大物たちがことごとく網羅されていた。

野党の多くの現職、前職議員のほか、党中央本部の局長級幹部らもそこには含まれていた。

ところが、有能な朴寛用(のちに6選し、国会議長。金泳三政権で大統領秘書室長も歴任)や趙洪奎(のちに3選)、金徳圭(のちに5選)らは、対象者の名簿に入っていなかった。新軍部の無知によって、国会の専門委員を務めていたかれらの役割や実力のほどを見抜けなかったためだった[専門委員は、国会議員の立法や国政チェックをサポートする国家公務員で、高度な専門知識を持っていた。日本の国会における常任委員会調査員に相当]

民韓党の公認審査が始まった日の夜12時半ごろ、金鉉圭・公認審査委員[1012代国会議員。当時まだ、当選1回の若手議員で、規制対象から外れていた。のちに全斗煥政権を激しく攻撃した]は、朴寛用に電話をかけ、「審査にパスした。明朝、公認証書をもらいに党本部に出て来るように」と連絡した。

                          訳:波佐場 清

 

 

2026年8月13日木曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(49)

  「嘆願書を書いたら、助けてやる」

獄中の金大中は、全斗煥政権と米国との間でこのような緊迫した綱引きがおこなわれているとは知る由もなく、ただ、悲しく取り乱して泣いた。

レーガンが当選したことで、もう死ぬしかないのか――。

その米大統領選の結果についてすら、だれも教えてくれず、やきもきしたかれが清掃員に聞いてやっと分かるという始末だった。カトリック信者の金大中は、昼夜を問わず天主(神)に助けてほしいと祈り、すがった。(『金大中自伝』)

▽「嘆願書を書いてほしい」

祈りのおかげだったのだろうか。

新しい年が明けて1981118日、安企部(中央情報部は811月、国家安全企画部と改称された)の幹部が金大中の前に現れた。いきなり、大統領に減刑を嘆願する文書を書いてくれというのだった。新軍部は、レーガン・全斗煥会談を通して全斗煥政権の国際的な承認を得ようと金大中減刑の手続きを急いでいた。

金大中が「嘆願書は書けない」と拒むと、重ねて要求した。

金大中が書いた嘆願書(部分)

「あなたはいま、死刑囚なのです。死刑を免れるには、国務会議の議決が必要です。『これまでのことに責任を感じており、これからは政治活動をしない』と書くだけでいいのです。すべては形式上の手続きに過ぎません。政府内にも減刑に反対する勢力が厳然と存在するので、これが必要なのです。この嘆願の事実が公にされることは絶対にありません」

▽罠

安企部長の兪学聖が直接乗り出し、自らカトリック信者だといい、外部に公表しないことを神の前に誓う、とまで言った(『李姫鎬自伝』)。

金大中は嘆願書を書いてやった。

ところが、よく考えてみると、新軍部の罠にはまり、命乞いをしているように思えた。嘆願書を返してほしい、と頼んだ。すると、兪学聖は「そのように処理したい」と言っていたのだが、何日かして約束を破り、メディアに公表してしまった。謀られたと思ったが、もう、どうしようもなかった。

▽死刑確定、即日無期に減刑

1981123日、大法院で上告が棄却となり、死刑が確定した。

しかし、同じ日の午後、無期懲役に減刑となった。

水面下では、米国と全斗煥の間で、首脳会談をめぐり、息詰まるような裏取引がおこなわれていた。レーガン当選に机を叩いて歓呼する「スリー許」に驚いた駐韓米大使のグライスティーンが米国に発った8011月から数えると、ほぼ50日間にわたる緊迫したドラマだった。

金大中は劇的に、九死に一生を得たのだった。

                        訳:波佐場 清

 

2026年8月10日月曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(48)

  「特戦司令官より私の方が強い」

金大中救命の問題で困り果てた米国のリチャード・アレン(レーガン政権引き継ぎチームの国家安全保障担当補佐官)は、頭を使った。

▽新聞記者と連携

米国大手の新聞記者に、記者懇談の場で金大中の死刑について質問しもらうようにしたのである。打ち合わせ通りにその質問が出ると、アレンは「もし、金大中を殺すようなことがあれば、韓国にとって極めて重大な結果をもたらすことになるだろう」と、用意していた通りに答えた。匿名の警告だったのだが、それがアレンの発言であることは、ワシントンの韓国大使館には分からないはずはない。

リチャード・アレン米補佐官

ソウルから、アレンに会うための特使がワシントンに飛び立った。

韓国軍合同参謀本部議長の柳炳賢(のちに全斗煥政権で駐米大使)だった。

▽「処刑は道徳的破滅」

 198011月下旬、アレンが米陸軍参謀次長から朝食の招待を受けて行ってみると、そこに柳炳賢大将が来ていた。柳炳賢は自ら、全斗煥大統領から派遣されてきた特使であると名乗り、金大中の問題について政権引き継ぎチームとアレンの考えを聞きたいという。

アレンは、冷たく言い返した。一つの戦略だった。

「あなたが全斗煥大統領の特使だということをどうやって証明するのか。いったんソウルに戻り、2週間以内に全斗煥の特使であることを証明する確実な何かを持ってくるか、さもなければ、ほかの人にでも特使だということを証明するものを持ってこさせなさい」

そう言いながらアレンは、金大中の処刑は「道徳的破滅」である、と指摘した。柳炳賢もうなずいた。アレンは「金大中を殺せば、レーガン政権と全斗煥政権の関係は困難な局面に陥ることになる」と警告した(グライスティーンの回顧)。

柳炳賢と別れたアレンは、レーガン次期大統領に金大中問題について報告した。

 カリフォルニアで静養中のレーガンに一部始終を説明し、どう対応すべきかを聞いた。レーガンは、アレンに処理権限を全面的に一任した。俳優出身のレーガンは、仕事の処理は専門家に大らかに任せるスタイルだった。

 ▽「国外追放も…」

柳炳賢は、大統領の全斗煥に訪米結果を報告した。

全斗煥は盧泰愚を呼び、米国がどんなことがあっても命を救えという金大中の(減刑)問題について話し合った。

米国に譲歩するのはやむを得ないとしても、金大中という名前が出るだけでムキになる新軍部内の共通認識も問題だった。こんなときには盧泰愚がうってつけだった。

保安司令官の盧泰愚は8012月ごろ、秘書室長の安秉浩と情報処長の韓鏞源を呼んでこう言った。

「閣下(全斗煥大統領)は、金大中は軍法会議で死刑判決を受けたものの、(無期懲役に減刑するか、あるいは)国外追放という形で海外に送り出したうえで恩赦してやろう、というお考えだ。軍部の反発を憂え、深く心を痛めておられると思う。国防大学院の金宗輝教授(のちに盧泰愚政権で外交安保首席秘書官)と連絡をとり、知恵を絞ってみてくれ」(『韓鏞源回顧録』)

▽新軍部内の合意づくり

韓鏞源と金宗輝は、額を突き合わせて考え抜いた。

結果、金大中を死刑から無期懲役に減刑し、その見返りとして米国から韓米首脳会談を取りつけ、日本とは対日借款(100億ドル)の問題を妥結させる、という打開策をまとめた[日本へは当初、「安保経済協力」の名目で100億ドルを要求。のちに中曽根政権が「経済協力」の名目で40億ドルの支援をおこなうことで政治的妥結をみた]。当時、日本の全港湾労組(全日本港湾労働組合)は、金大中の死刑判決に抗議して韓国製品の荷役を拒否していて、これが全斗煥政権にとって頭の痛い問題になっていた(『韓鏞源回顧録』)。

 盧泰愚は、この打開策を新軍部の実力者たちを集めた非公開の会議に諮った。

 安全企画部長の兪学聖をはじめ、車圭憲、黄永時、鄭鎬溶、許和平、許三守、李鶴捧、権正達、柳興洙、玄鴻柱、鄭寛溶、裵命仁らをソウル宮井洞のアジトに招き、金大中を減刑する案についてブリーフィングをしながら新軍部内部の共通認識を広げたのだった。

 全斗煥は、打開策に困って保安司令官の盧泰愚に知恵を求めたわけではなかった。新軍部の実力者らにたいし、米国と日本からの外交や経済面への圧力を理由に、金大中の死刑を免じてやらなければならないことを説得する必要があったのである(同回顧録)。

 ▽「天罰が下る」

ほどなく、ワシントンのアレンは、全斗煥の特使である特戦司令官の鄭鎬溶一行を迎えた。

 ホワイトハウス近くのアレンのオフィスを、駐米大使の金溶植と同公使の孫章来(安企部)、そして全斗煥の親友である鄭鎬溶が訪れた。金溶植大使が席を外すと、鄭鎬溶特使は「金大中の問題は韓国の国内問題であり、米国の問題ではない。国内の問題については、韓国は自分で解決できる」と敢えて強気に出てみた。内政干渉をしないでくれ、という口ぶりだった。

 するとアレンは、待っていたとばかりに言い放った。

 「もし、あなたたちが金大中を殺すなら、とんでもない天罰が下ることになるでしょう」

 鄭鎬溶は顔色を失い、その真意を繰り返し問うたが、アレンはそれには答えず、こう応酬した。

「(大韓民国の特殊戦司令官よ)あなたはとても強い人のように見えます。しかし、わたしにはかなわないだろう」

 ▽「大統領就任式後に会見」

断固としたそのいくつかの言葉で、勝負は決した。

意気消沈した鄭鎬溶は引き返して本国と協議した。翌日、再び出直し、(金大中を生かす代わりに)レーガン大統領の就任式に全斗煥を招待してもらいたいという妥協案を出した。

アレンは「米国の大統領の就任式には外国の元首は招待しない、ということを韓国政府は知らないのか。慣例上、就任式に招待することはできない」と答え、就任式の後、早い時期に会見の場を設けることはできると伝えた。それも、金大中の死刑判決が大幅に減刑されなければならない、という前提条件付きだった(グライスティーン元駐韓米大使の記録)。

金大中の減刑と全斗煥の訪米をめぐる交渉の細部は、アレンと孫章来公使が煮詰めた。

実務訪問

その間も米国は、全斗煥の気勢を削ぐようなことを繰り返した。

「外交儀礼上、外国の元首がワシントンを訪問する際には、直接ワシントンD.C.に乗り込むか、バージニア州のウィリアムズバーグに着陸することになっている。しかし全斗煥大統領はソウルからワシントンに直接入ることは許されず、まずロサンゼルスに寄港し、ニューヨークを経由してからワシントンD.C.に入ることになった。国賓晩餐会もなかった。外交儀礼上の国賓訪問ではなく、実務訪問(Working Visit)になるようにしたのだった。そして、全斗煥大統領との会見に先立ち、ジャマイカの首相がレーガン大統領と会い、それが新大統領への最初の訪問客となった」(元西江大経商学部長の金炳国教授)のだった。

198122日、全斗煥はレーガン米大統領と会談した

全斗煥の新軍部はそれほどまでに韓米首脳会談を切望していた。

1212反乱」で武力を使い、5月の光州を血で鎮圧して政権を奪取した新軍部にとって米国の信任、国際的な承認は国内、国外の両面において切実なものだった。それを得るためには、米国の新任大統領レーガンとの会談と、その場面を証明する写真がどうしても必要だった。

 ▽カーターのバックアップ

そこにすべてを賭けなければならなかった。

 韓米首脳会談は「金大中の減刑(死刑免除)」が前提条件だった。

 前任の米大統領カーターは回顧録の中で「われわれは韓国の金大中の命を救うためにカーター政権がそれまでに何をしてきたのかを、レーガン大統領に説明した。そして、レーガン大統領が全斗煥大統領にたいして金大中の生命を保証するよう、メッセージを送ったことに感謝の意を表する」と書いている。

                        訳:波佐場 清

2026年8月7日金曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(47)

 「金大中を殺しても、時間が経てば忘れる」

金大中は死刑場のとば口に立っていた。グライスティーン元駐韓米大使の回顧――

「全斗煥の最側近(許和平、許三守、許文道、李鶴捧)をはじめ、韓国の若手将校(ヤング・カーネル)たちの間に「反金大中」感情が広がっていることがよく分かっていたわたしたちは、(カーターが敗北し)レーガンが当選した米大統領選(1980114日)の結果を彼らがどう受け止めるか、深く憂慮していた。新軍部内では驚くほど多くの者が金大中の処刑を求めていた。もし、ここで金大中を殺しておかなければ、また、政治の舞台に甦ってきて、彼らのこの間の『救国の努力』が無駄になってしまう、という主張だった。ひどいのになると、金大中をいったん処刑さえしてしまえば、外国人はいまは非難していても、そのうち時間が経てば忘れるだろう、などと公然と処刑を叫んでいた」

グライスティーンは急ぎ、米国へと飛び立った。

いや、米国に発つ前、ソウルにいるときから八方手を尽くして走り回っていた。

▽米国の救命努力

1980517日夜に金大中が逮捕され、南山の地下室に連行されたあと、米国は、ワシントン駐在韓国大使の金溶植やソウルの戒厳司令官・李熺性および(ただのお飾りとなった)崔圭夏大統領に強力に抗議した。それ以来、金大中のことは、グライスティーン大使またはジョン・モンジョ副大使が全斗煥と十数回にわたって面会した際の最重要、あるいは唯一の議題となっていた。ワシントンでも米国の当局者らは、韓国の主要人物と会う際には必ず、金大中のことを取り上げていた(『グライスティーン回顧録』)。

グライスティーン大使は、金大中救命のために保安司令官の盧泰愚とも会った。新軍部の中心的な人物であり、全斗煥が最も信頼を寄せる人物だったので会ったのだという。また、外務部長官の盧信永とも会った。盧信永は崔圭夏大統領よりも新軍部に近く、信頼されていると大使は感じていた。

グライスティーン大使、モンジョ副大使、そして米第8軍のジョン・ウィッカム司令官や高級将校らは、彼らが知っている限りの影響力のある韓国軍将校や民間人当局者らに、金大中処刑という「極端に単純化された考え方」は誤りであることを納得させようと、組織的に奔走した。

大法院の確定判決を前に、状況は切迫していた。

▽北朝鮮カード

朴正煕軍事政権には、大法院の死刑判決からわずか18時間後に8人を処刑[19754月に判決が下された第2次人民革命党事件]した歴史がある。朴正煕1人の決定が8人を殺したのだが、いま、金大中1人を、8人よりずっと多い数の実力派の大佐や将官らが殺そうと息巻いている。

801113日、グライスティーン米大使は外務部長官の盧信永と会い、爆弾発言をおこなった。

「金大中を殺せば国際社会でのけ者にされ、米国のメディアや議会で非難が高まるだろう。それ以上に深刻なのは米国の対北朝鮮政策が変わりうるという点だ」

意外なカードだった。盧信永は驚いた。

「ずいぶんと前から米国には、北朝鮮との関係を打開しようとする米国人が存在してきたことは盧信永長官もご存知のことと思う。そんな彼らが金大中の死刑を口実に、長い時間をかけて温めてきたその野望(韓国を孤立させて北朝鮮と直取引をすること)を正当化することだろう」(米大使)

そうなると、最悪である。

▽米国防長官の訪韓

 盧信永は、驚いたそぶりを見せず、わざと共感してみせながら「大統領と金瓊元秘書室長に、大使のお言葉を報告する必要がありそうです」と答えた。

全斗煥大統領(左)は19801213日、ブラウン米国防長官(中央)と会談した。右端はグライスティーン駐韓米大使

そう言いながら、盧信永は一つの交渉カードを持ち出した。

折から、ハロルド・ブラウン国防長官が日米間の協議で東京に立ち寄ることになっていた。そこで、そのついでにソウルにも足を延ばしていただくわけにはいかないものかと頼んだのである。

「そうすれば、金大中の問題について大統領を説得するうえで役立つのか」(米大使)

「その通りだ」(盧信永)

この妙案は「神の一手」だった。

▽ターニングポイント

全斗煥はブラウンの訪韓を手放しで喜んだ。こうして、ブラウン長官が12月中旬にソウルにしばし立ち寄ったことがターニングポイントとなった。全斗煥はグライスティーン大使に会ってブラウン訪韓への力添えに感謝した。それより前、大使はカーター大統領の「金大中救命親書」を大法院の判決直前に、牽制用として全斗煥側に手渡していたのだが、そのことについて不平を言うこともなかった。金大中について「悪い政治家だ」などと、それまで毒づいていたような悪口も言わなかった。それほどまでにブラウン訪韓を強く望んでいて、うれしかったようだ。

▽「米国への借り」に言及

1213日、ブラウン国防長官は会談の終わりに、全斗煥に静かに語りかけた。グライスティーン大使に言われた通りに言ったのである。

「金大中を処刑するようなことになれば、将来、わたしたちの安保と経済関係に深刻な影響が及ぶことになるでしょう」(ブラウン)

「裁判所の決定を尊重するほかありません。大法院が死刑を確定すれば、執行するほかありません」(全斗煥)

全斗煥はいったん、突っぱねてみせた。

しかし、そう言いながらも、「米国にたいする韓国の歴史的な借りや経済および安全保障関係の重要性もある。米国の勧告について慎重に考慮してみたい」と付け加えた。そばで聞いていたグライスティーン大使は、そんな言葉の最後の部分に注目した。「全斗煥が『借り』について話し、米国の見解を念頭に置くと語ったのは成果だ」と、本国に送る報告書に書いた。

一筋の希望を感じたのである。

▽「金大中の死を傍観するのか」

グライスティーンは、ワシントンに帰ってからも奔走した。

グライスティーンの急報を受けたカーター政権のエドマンド・マスキー国務長官は、レーガン次期政権の発足に向けた政権引き継ぎチームのリチャード・アレン国家安全保障担当補佐官と連絡をとった。そして、「レーガンの当選によって金大中が殺されることになる」「米国は金大中を何としても助けなければならない」と訴えた(『李姫鎬自伝』)。

国務長官のマスキーは、金大中の救命が米国の国益であると確信していた。

レーガン次期大統領側のアレン補佐官にたいして「金大中救命のために、任期末のカーター政権と次期レーガン政権で共同声明を出そう」と提案した(民主韓国日報)。

しかし、アレンはこれを拒んだ。いや、受け入れることはできなかった。

というのも、81120日にレーガン新政権が発足するまでは「カーター政権の外交問題に口出ししない」という政権引き継ぎチームの内部決定があったからだ。アレンの反応が冷ややかなことが分かると、マスキーはこう言い放った。

「金大中は、あなたと同じカトリック教徒だ。このまま金大中が死ぬのをただ傍観しているつもりなのか」

                       訳:波佐場 清

2026年8月4日火曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(46)

「大法院など、大砲で吹っ飛ばしてしまえ」

 朴正煕大統領を殺害した金載圭(元中央情報部長)への内乱罪適用に異議を唱えた大法院判事6人はいったん、新軍部の粛正圧力をうまくかわしたかにも見えたが、金大中の内乱陰謀事件の裁判が目前に迫ると、新軍部の態度は変わった。

 6人の判事を大法院にそのまま残した状態で、金大中にたいして内乱陰謀罪をでっち上げるのは無理だった。

▽判事を連行、拷問

1980年7月末から6人の判事にたいし、辞表を出すよう露骨に圧力をかけ始めた。

しかし、判事たちはおとなしく引き下がらなかった。

そのうちの一人、梁炳皓判事は、辞表の提出を拒否して夏休みに出かけた。

8月3日夜、自宅に戻って夕食をとっていると、2人組の暴漢が押し入って来て梁判事を連れ去った。夫人は泣き叫びながら李英燮大法院長に「大変なことになった」と訴えた。行方不明になった梁判事は、悪名高いソウル西氷庫の保安司令部分室で拷問を受けた。暴行とともに「おまえが法服を脱ぐまでこの件は収まらないんだ」と脅され、白紙の用紙に辞表を書かされた(梁炳皓氏が199678日、「1212および518事件」の第20回公判でおこなった証人陳述)

辞表提出

保安司令部が力づくで書かせた辞表が、法院行政処長の徐壱教のもとへ送られた。

 徐処長は李英燮大法院長に「院長が辞表を受理してくださらないと、梁炳皓判事は釈放されません」と言って、梁判事が自筆で署名した辞表を突き出した。李英燮大法院長が辞表を受理して1時間ほどすると、梁判事は釈放されて大法院長室に現れた。

梁判事は力なく笑いを浮かべながら、ほんとうに何事もなかったというふうにコーヒーを飲もうとした。コーヒーは口に入らず、胸元やワイシャツを濡らした。しかし、梁判事はそのことに気付いてすらいなかったという。目の焦点が定まっていなかった。

酷い目に遭わされて戻ってきたのである。

梁判事だけではなかった。「少数意見」を出した他の判事――閔文基、任恒准、金潤行、徐潤弘の4人も辞表を叩きつけて法服を脱いだ。かれらは89日、「依願退職」という形で大法院を去った。梁炳皓らは弁護士開業すら思うに任せず、その秘書や運転手までもが、「浄化」の名のもとに首を切られた。鄭泰元判事はこの時は辞表を出さなかったが、翌814月、第5共和国憲法に基づいて大法院が再構成された際、再任用から脱落したのだった。

▽「全判事の自宅を調べておいた」

全斗煥率いる保安司令部が大法院を暴力で制圧した19808月末、全斗煥は「新時代の指導者」を自任し、大統領の座に就いた。

全斗煥は、李英燮大法院長が挨拶がてらに青瓦台に赴くと、「金載圭事件の処理を大法院があんなに遅らせてしまったせいで、光州で起きた、あのような予想もできなかった国家的騒擾が起きてしまった」と浴びせかけた。

全斗煥(左端)の大統領就任祝いで、李英燮大法院長(全斗煥のすぐ横)は青瓦台を訪れた=1980年9月

 全斗煥は、ほかの将官たちが「大砲を一発ぶっ放して大法院を吹っ飛ばしてしまおう」というのを、なんとか自分で宥めたのだといい、「国事犯について、少数意見などとはどういうことだ」と怒鳴り散らした。80年暮れ、全斗煥が青瓦台近くの秘密の施設で開いた忘年会では、席上、李英燮大法院長が全斗煥に杯を勧めると、全斗煥はいきなり大法院長の腕をぎゅっと掴み、一言、「あの時は大法院の判事全員の自宅を調べておいたんですよ」と言い放ったという。

▽司法府ならぬ「司法部」

 そのような「暴力政治」のなか、司法府は「司法部」[部は、省庁の意。韓国語ではともに사법부となり、同音の「司泡部」も連想させる]も同然だった。

これは李英燮大法院長の「退任の辞」のなかに出てくる表現だが、司法府が新軍部の一行政部局のようだったという自嘲的な造語だった。かれは「司法府トップのポストを引き受けるときは抱負や理想も大きく、高かったが、いま、過去を振り返ってみると、すべてが悔恨と屈辱にまみれたものでした」と回顧した(1981415日の「退任の辞」)。

1981123日、大法院は「金大中内乱陰謀事件」の上告審において、「全員一致」で被告12人の上告を棄却し、金大中の死刑が確定した。

▽レーガン当選に欣喜雀躍

ここで、いまいちど、2審で「死刑」の判決が下された1980113日に戻ろう。

その2日後の115日、金大中にとっては死刑判決以上に落胆させられ、絶望的になることが起きた。

米国の大統領選で「人権大統領」のジミー・カーター(民主党)が敗北し、ロナルド・レーガン(共和党)が当選したのである。

青瓦台では「スリー許」が、レーガン当選の報に机をたたいて欣喜雀躍し、万歳を叫んだ(グライスティーン駐韓米大使がワシントンに送った報告)。

「レーガンが勝った」

保守派のレーガンが勝ったということはそのまま、「癌(がん)的存在」である金大中の処刑を意味した。

もう、米国の人権問題への口出しに気遣う必要はない。「障害物」の金大中を処刑し、思い通りにやれる――5共の実力者たちは歓喜に沸いた(グライスティーンが後日、米国で金大中にそう語った)。許和平も、金大中は米国の介入がなければ死んでいただろうと記録している。

                      訳:波佐場 清

 

2026年8月1日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(45)

 米韓首脳会談実現のために金大中を生かす

韓米首脳会談は、死刑囚・金大中の命と引き換えに実現したものだった。

ここでいま一度、半年前の1980年夏に時計の針を戻し、金大中が収監された南山の地下室を覗(のぞ)いてみよう(2004年、金大中の内乱陰謀事件は24年後に無罪が確定した)。

▽懐柔

中央情報部の地下室にいた金大中が光州抗争[光州事件]について知ったのは80710日のことだった。

当時、全斗煥は中央情報部長の辞表を出してはいたものの、依然として合同捜査本部捜査団長の李鶴捧を通じて情報部を支配していた(後任の情報部長・兪学聖は、7月18日に就任)。

その李鶴捧が地下室に来て、新軍部に協力するよう求めた。

「(1980年)2月に、あなたがわたしと権正達に会った時、我々に協力するという、あの誓約書に署名すべきだったのです。そうしていれば、こういうことにはならなかった。いまからでも、あなたが我々といっしょにやるというなら、大統領職以外のどんなポストでも提供します。拒否するというなら生かしておくことはできない。必ず死ぬことになります。裁判は形式的なものにすぎません。協力すれば助かり、拒否すれば死ぬのです」(『金大中自伝』)

50日以上に及ぶ地下室での監禁・取り調べに疲れ果てていた金大中は、即答できなかった。

「よく考えてみてください。23日後にまた来ます」

▽光州の報道見て覚悟

李鶴捧が帰っていくと、捜査官が新聞の束を差し入れてきた。

光州抗争の5月の何日間かの凄惨な状況が、そこでは伝えられていた。

光州抗争の犠牲者たちは光州市郊外の望月洞につくられた墓地に運ばれた=19805
 金大中は意識が薄れていき、活字が霞んでよく見えなくなったと思うと、そのまま気を失った。意識を取り戻すと、医師の姿が目に入り、リンゲル注射を受けていた。

3日後、李鶴捧が再び来ると、金大中は言った。抗争の犠牲者たちを裏切ることはできないという覚悟から出た言葉だった。

 「協力することはできない。おまえたちが殺すというなら、それはもう、どうしようもないことだ。死ぬことが、すなわち生きることだと思っている」(金大中)

 李鶴捧はやや慌てた様子で帰ると、2日後にまた、やってきた。

 金大中はそれでも拒絶した。李鶴捧は怒りながら立ち去った。

 ▽刑務所長も「尊敬」

 80年7月15日、中央情報部の地下室から城南市の陸軍刑務所に移送された。

 懐柔は、陸軍刑務所に移送されてからも続いた。現役大佐の所長が、金大中の顔色をうかがいながら監房の周りをそわそわしながら回っているのだった。

 「所長がなぜ、ここに来ているのか、分かっているつもりです。しかし、わたしの心は変わらないので、そのように上に報告しなさい」

 すると刑務所長は、「よく分かりました。尊敬いたします」と答えたかと思うと、すぐに金大中が求める本やコーヒー、タバコを差し入れてくれた(『金大中自伝』)。

金大中は死刑がいったん確定し、
無期懲役に減刑されたあとも、
刑務所内で精力的に読書を続けた

 ▽死刑求刑に愛国歌

 8月14日、「金大中内乱陰謀事件」にたいする戒厳軍法会議(軍事裁判)の初公判が開かれた。

罪名は「反国家団体の首魁」――。

その公判で文益煥、芮春浩、李文永、高銀、韓完相、李海瓚、薛勲ら、事件に巻き込まれた24人と初めて再会した。蘇宗八弁護士は次のように抗弁した。

「内乱だというが、被告人たちが火炎瓶や角材どころか、火かき棒(火箸)一本、バッカス[日本のリポビタンに似た栄養ドリンク]の瓶一個を手にした、ということさえ、起訴状には書かれていない。いたい、何を持って内乱を起こそうとしたというのか」

9月11日、検察の求刑は「金大中に死刑」――

最終陳述で金大中は1時間40分にわたり、一つひとつ理路整然と反論し、このように締めくくった。

「わたしはもう死ぬことになるだろうが、死刑は覚悟してきたところだ。しかし、政治的な報復がこの地でもう二度とおこなわれないよう、願いたい。これがわたしの最後の望みであり、神の名において遺す、わたしの遺言だ」

その瞬間、愛国歌が法廷に響き渡った。

韓完相教授は後日、こう回顧している。

「法廷で聞いた金大中の最終陳述は忘れられない。それを聞き、わたしたちは愛国歌をうたった。法廷騒乱罪になるかもしれないと思ったが、義憤を抑えきれず、正真正銘、生涯初めて腹の底から湧き上がってくる愛国歌をうたった」

▽二審判決も死刑

9月17日、判決公判――。

金大中は、裁判長の口の形に自分の生死がかかっていると考えた。「死刑」の発音は口が横に広がり、「無期懲役」は口をすぼめることになる。固唾をのんで見守った文応植裁判長の口は、横に広がった。

「金大中 死刑」

113日の二審判決でも死刑を言い渡された。予定通りの筋書きだった。

▽少数意見判事に暴力

残るは三審の大法院だけだった。そんななか、金大中処刑に向けて全斗煥の新軍部は大法院をも陥落させ、すでに手の者を潜り込ませていた。

大法院判事をボコボコに殴りつけて辞表を出させた「5共式のやり口」は、歴史に記録として残しておくに値する。

新軍部にとっては、この年5月24日に処刑された金載圭の三審判決が問題だった。大法院判事14人のうち、ここで少数意見を出した6人が標的にされた。金載圭が「(朴正煕を)殺害したことは事実だが、『内乱目的』はなかった」とした梁炳皓、閔文基、任恒准、徐潤弘、金潤行、鄭泰元の6人の判事である。かれらは殺気だった新軍部の脅しや圧力にも屈せず、言うべきことを言ったのだった。

新軍部としてはいま、金載圭の処刑に続く第2ステージとして金大中を内乱陰謀に追い込んでいかなければならない。しかし、「少数意見」を述べた6人の判事たちが異議を唱えることは分かりきっていた。

▽粛正

それで、前もってこの6人にたいし、思い知らせてやろうとしたのが、7月のことだった。

5月末に光州抗争を鎮圧した新軍部は、6月から国保委(国家保衛非常対策委員会)を動かし、いわゆる「社会浄化」を掲げて2級以上の公務員にたいする粛正(退職強要)を開始した。それに紛れ込ませて、少数意見を出した大法院判事たちを一掃しようとしたのである。

ところが、国保委に派遣されていた判事たち(金憲武ら)が実務レベルで新軍部を宥めすかした結果、いったん、7月中旬の粛正のヤマ場は乗り切った。

                      訳:波佐場 清