2026年8月1日土曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(45)

 米韓首脳会談実現のために金大中を生かす

韓米首脳会談は、死刑囚・金大中の命と引き換えに実現したものだった。

ここでいま一度、半年前の1980年夏に時計の針を戻し、金大中が収監された南山の地下室を覗(のぞ)いてみよう(2004年、金大中の内乱陰謀事件は24年後に無罪が確定した)。

▽懐柔

中央情報部の地下室にいた金大中が光州抗争[光州事件]について知ったのは80710日のことだった。

当時、全斗煥は中央情報部長の辞表を出してはいたものの、依然として合同捜査本部捜査団長の李鶴捧を通じて情報部を支配していた(後任の情報部長・兪学聖は、7月18日に就任)。

その李鶴捧が地下室に来て、新軍部に協力するよう求めた。

「(1980年)2月に、あなたがわたしと権正達に会った時、我々に協力するという、あの誓約書に署名すべきだったのです。そうしていれば、こういうことにはならなかった。いまからでも、あなたが我々といっしょにやるというなら、大統領職以外のどんなポストでも提供します。拒否するというなら生かしておくことはできない。必ず死ぬことになります。裁判は形式的なものにすぎません。協力すれば助かり、拒否すれば死ぬのです」(『金大中自伝』)

50日以上に及ぶ地下室での監禁・取り調べに疲れ果てていた金大中は、即答できなかった。

「よく考えてみてください。23日後にまた来ます」

▽光州の報道見て覚悟

李鶴捧が帰っていくと、捜査官が新聞の束を差し入れてきた。

光州抗争の5月の何日間かの凄惨な状況が、そこでは伝えられていた。

光州抗争の犠牲者たちは光州市郊外の望月洞につくられた墓地に運ばれた=19805
 金大中は意識が薄れていき、活字が霞んでよく見えなくなったと思うと、そのまま気を失った。意識を取り戻すと、医師の姿が目に入り、リンゲル注射を受けていた。

3日後、李鶴捧が再び来ると、金大中は言った。抗争の犠牲者たちを裏切ることはできないという覚悟から出た言葉だった。

 「協力することはできない。おまえたちが殺すというなら、それはもう、どうしようもないことだ。死ぬことが、すなわち生きることだと思っている」(金大中)

 李鶴捧はやや慌てた様子で帰ると、2日後にまた、やってきた。

 金大中はそれでも拒絶した。李鶴捧は怒りながら立ち去った。

 ▽刑務所長も「尊敬」

 80年7月15日、中央情報部の地下室から城南市の陸軍刑務所に移送された。

 懐柔は、陸軍刑務所に移送されてからも続いた。現役大佐の所長が、金大中の顔色をうかがいながら監房の周りをそわそわしながら回っているのだった。

 「所長がなぜ、ここに来ているのか、分かっているつもりです。しかし、わたしの心は変わらないので、そのように上に報告しなさい」

 すると刑務所長は、「よく分かりました。尊敬いたします」と答えたかと思うと、すぐに金大中が求める本やコーヒー、タバコを差し入れてくれた(『金大中自伝』)。

金大中は死刑がいったん確定し、
無期懲役に減刑されたあとも、
刑務所内で精力的に読書を続けた

 ▽死刑求刑に愛国歌

 8月14日、「金大中内乱陰謀事件」にたいする戒厳軍法会議(軍事裁判)の初公判が開かれた。

罪名は「反国家団体の首魁」――。

その公判で文益煥、芮春浩、李文永、高銀、韓完相、李海瓚、薛勲ら、事件に巻き込まれた24人と初めて再会した。蘇宗八弁護士は次のように抗弁した。

「内乱だというが、被告人たちが火炎瓶や角材どころか、火かき棒(火箸)一本、バッカス[日本のリポビタンに似た栄養ドリンク]の瓶一個を手にした、ということさえ、起訴状には書かれていない。いたい、何を持って内乱を起こそうとしたというのか」

9月11日、検察の求刑は「金大中に死刑」――

最終陳述で金大中は1時間40分にわたり、一つひとつ理路整然と反論し、このように締めくくった。

「わたしはもう死ぬことになるだろうが、死刑は覚悟してきたところだ。しかし、政治的な報復がこの地でもう二度とおこなわれないよう、願いたい。これがわたしの最後の望みであり、神の名において遺す、わたしの遺言だ」

その瞬間、愛国歌が法廷に響き渡った。

韓完相教授は後日、こう回顧している。

「法廷で聞いた金大中の最終陳述は忘れられない。それを聞き、わたしたちは愛国歌をうたった。法廷騒乱罪になるかもしれないと思ったが、義憤を抑えきれず、正真正銘、生涯初めて腹の底から湧き上がってくる愛国歌をうたった」

▽二審判決も死刑

9月17日、判決公判――。

金大中は、裁判長の口の形に自分の生死がかかっていると考えた。「死刑」の発音は口が横に広がり、「無期懲役」は口をすぼめることになる。固唾をのんで見守った文応植裁判長の口は、横に広がった。

「金大中 死刑」

113日の二審判決でも死刑を言い渡された。予定通りの筋書きだった。

▽少数意見判事に暴力

残るは三審の大法院だけだった。そんななか、金大中処刑に向けて全斗煥の新軍部は大法院をも陥落させ、すでに手の者を潜り込ませていた。

大法院判事をボコボコに殴りつけて辞表を出させた「5共式のやり口」は、歴史に記録として残しておくに値する。

新軍部にとっては、この年5月24日に処刑された金載圭の三審判決が問題だった。大法院判事14人のうち、ここで少数意見を出した6人が標的にされた。金載圭が「(朴正煕を)殺害したことは事実だが、『内乱目的』はなかった」とした梁炳皓、閔文基、任恒准、徐潤弘、金潤行、鄭泰元の6人の判事である。かれらは殺気だった新軍部の脅しや圧力にも屈せず、言うべきことを言ったのだった。

新軍部としてはいま、金載圭の処刑に続く第2ステージとして金大中を内乱陰謀に追い込んでいかなければならない。しかし、「少数意見」を述べた6人の判事たちが異議を唱えることは分かりきっていた。

▽粛正

それで、前もってこの6人にたいし、思い知らせてやろうとしたのが、7月のことだった。

5月末に光州抗争を鎮圧した新軍部は、6月から国保委(国家保衛非常対策委員会)を動かし、いわゆる「社会浄化」を掲げて2級以上の公務員にたいする粛正(退職強要)を開始した。それに紛れ込ませて、少数意見を出した大法院判事たちを一掃しようとしたのである。

ところが、国保委に派遣されていた判事たち(金憲武ら)が実務レベルで新軍部を宥めすかした結果、いったん、7月中旬の粛正のヤマ場は乗り切った。

                      訳:波佐場 清