■「カラスに代わるシロサギはいない」
国家安全企画部(安企部)が新聞小説の隅をほじくって作家を連行し暴行を加えたということは、それだけ部長の兪学聖が暇だったということでもあった。そんな合間を縫って兪学聖は訪米の旅に出た。
▽安企部長の米CIA訪問
1981年5月、米CIAへの公式訪問だった。
安企部から政治情報局長の金根秀、海外情報局長の李相悦、北韓(北朝鮮)局長の金泰叙が同行した。これは第5共和国(5共)がレーガン米政権と蜜月関係に入ったことの一つの証左でもあった。というのも、両国情報機関の公式交流は1961年に韓国に中央情報部(KCIA)ができて以来、初めてのことだったからである。
兪学聖は、新軍部が権力を奪取していった「12・12軍反乱」や「5・17戒厳令拡大」の時期、ソウルで米CIA韓国支部長をしていたロバート・ブリュースターを、病気見舞いも兼ねて訪ねた。ブリュースターは、ワシントン郊外で癌と闘っていた。兪は、そんなかれに全斗煥大統領からの感謝状を手渡した。
▽新軍部の恩人
ブリュースターは、新軍部の政権から破格のもてなしを受けるに十分な資格があった。
かれは「12・12反乱」に際し、米国人の中では真っ先に全斗煥に電話をした。
そして深夜、国防部長官の盧載鉉にも電話して崔圭夏大統領のところへ行くよう促した。夜が明け、グライスティーン米大使と全斗煥が初めて会うように仕向けたのもブリュースターだった。かれは「情報マン」らしく、まず現実を認めるというのが哲学であり、全斗煥の新軍部は、かれが間に入ってくれたおかげで、そっぽを向いた米国を説得することに成功したのだった。
全斗煥らの新軍部が韓米連合軍司令部の指揮下にある韓国軍第9師団第29連隊などを勝手にクーデターに動員した問題で、ジョン・ウィッカム駐韓米軍司令官(兼韓米連合軍司令官)が激怒した際にも、ブリュースターはグライスティーン大使とウィッカム司令官を相手に事態の収拾に乗り出し、波風を立てぬよう2人を説得した。
ブリュースターはとくに、金潤鎬(歩兵学校長をしていて「12・12反乱」の翌日、いきなり対米窓口役として呼び出され、その後、合同参謀本部議長も務めた)と親しかった。金潤鎬に「ボボ(Bobo)」という英語のニックネームを付けてやったのもブリュースターであり、2人は家族ぐるみの付き合いをするほどの仲だった(『ウィッカム回顧録』)。
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| 得意の英語を生かし、新軍部の対米国パイプ役を務めた金潤鎬 |
ウィッカムは、「12・12」の直後、全斗煥、盧泰愚、黄永時を軍法会議にかけてやると息まき、クーデター成功後も2カ月以上にわたって全斗煥との面会を許可しなかった強硬な原則主義者だった。
そんなウィッカムが「クーデターを主導した者たちも、金潤鎬についてだけはすぐれた人物を選んだものだ」と回顧録に書いている。金潤鎬がブリュースターをそれほどまでにうまく丸め込んで新軍部の利益を実現していた、ということでもある。
▽「最善ならずとも…」
ブリュースターは、ウィッカムとグライスティーンを新軍部の側へ引っぱり込んでいった。
ブリュースターは2人に「全斗煥とは距離を置くべきだが、われわれ(米国)は、かれといっしょにやるしかない。ほかにやりようがないではないか」とずっと説得し続け、とうとう、そちらの方向に心を傾かせてしまったのである(『ウィッカム回顧録』)。
ブリュースターは1980年の「ソウルの春」に際し、グライスティーン大使に次のようなことまで言っていた。
「もし、全斗煥が(文民政権をひっくり返して)政権を完全に奪取しようと考えているのだとしても、それは国の安全保障を危うくしたり、北朝鮮の介入を挑発したりということではなく合法的になされるべきだ、ということをかれに納得させるべく、われわれとしてはベストを尽くすべきだ」
全斗煥は最善ではないにしても、米国にとっては「次善」だということだ。
ウィッカムのブリュースターについての回顧は続く。
「ブリュースターは全斗煥と個人的に親しくなったと言っていた。12・12反乱についてまではあらかじめ知らされていたわけではなかったにせよ、2人は重要な問題について頻繁に意見を交わすまでの仲になっていた。ブリュースターはわたしに、自分と全斗煥の親密さを利用してもらっても結構だとも言っていた」
▽「誰が全斗煥に代われるのか」
80年1月、全斗煥らの新軍部に対して李範俊将軍らが逆クーデターを起こそうとしているとの情報にカーター米政権が未練を捨てきれないでいる時期があった。米本国では、米国主導による全斗煥排除を模索していた(『グライスティーン回顧録』)。ところが、ソウルでは、ブリュースターCIA支部長、グライスティーン米大使、そしてウィッカム駐韓米軍司令官がこの逆クーデター情報を握りつぶすことにした。
この時のブリュースターの立場と、大使の電文はこうだった。
「全斗煥にたいする軍部内の支持勢力が強く、かれを排除すること自体が難しいだけでなく、たとえそれに成功したとしても、だれがかれに取って代わるべきなのか、それが問題なのだ」(『グライスティーン回顧録』)
結局、グライスティーン大使は次のような電文を送ることになる。
「われわれ(米国)が排除しようとするカラス(全斗煥)に代わる、信頼するに足るだけのシラサギ(政治家)は見いだせない」(1980年4月)
▽北方外交へ布石
いずれにせよ、ブリュースターはソウルのCIA支部長時代、殺伐とした状況にあって、グライスティーン大使とウィッカム司令官を積極的に宥(なだ)めすかし、米国の立場が「現実容認・現状維持」となるようリードしたのだった。
そのブリュースターをパイプ役にすることで新軍部は米国を引き込み、第5共和国の発足へと突き進むことができたのである。反乱軍にすれば、ブリュースターは恩人そのものではないか。
兪学聖部長は米国で、駐米公使の孫長来(安企部要員)とドナルド・グレッグ(ブッシュ副大統領の補佐官)との間の水面下のチャンネルづくりもおこなった。兪学聖はまた、元CIA長官の経歴を持つブッシュ副大統領とも会って北朝鮮との南北高位級会談を後押ししてもらい、さらにはソウル-モスクワ、ソウル-北京間に水面下のチャンネルを設けるべく、米国に仲介してもらいたいと要請した。
このようにして兪学聖安企部長が交流の突破口を開くと、83年4月には米CIA長官のケーシーがソウルを公式訪問したりもした。この時の安企部長は盧信永に交代していたが、ケーシーは盧信永の案内で青瓦台も訪れた。ケーシーは情報分析官を同行させ、全斗煥大統領の前で北朝鮮に関する情報について詳細なブリーフィングをおこなった。
▽広がる民主山岳会
1981年夏に入ると、金泳三の「民主山岳会」の同志は毎月、その数が増えていった。政治活動が縛られていた政治家たちだったが、暇つぶしがてらの山登りに興味を覚え始めたのだった。
登山の参加者が引き続き増えていくと、安企部は、会員にたいする監視はもちろん、脅しや暴行、懐柔といった弾圧で会の活動を妨害した。地方では不法な連行や軟禁がいよいよひどくなっていったが、それでも全国的に山岳会の組織は広がっていった(『金泳三回顧録』)。
厳しい政治の冬を解かす「登山の予熱」は、野党の同志たちに希望と自信を植え付けた。登山に始まったその温もりの広がりに、安企部は頭を悩ませた。
ただならぬ動きは食い止めておかなければならない。しかし、難癖をつけようにも、その取っ掛かりは見いだせなかった。
そうして1年ほどが経つうちに、その口実が見つかった。
▽金泳三、2度目の自宅軟禁
1982年4月16日付ニューヨーク・タイムズに金泳三と山岳会に関する特集記事が載った。東京支局長のヘンリー・ストークスが「春の北漢山・大南門〜牛耳洞コース」の登山に同行して書いたルポだった。記事は次のように締めくくられていた。
「登山を終えた50人ほどの山岳会会員らは、こう叫んだ。『民・主・光・復』と――」
この記事を口実に、金泳三は82年5月31日、2回目の軟禁となって自由を奪われた。
最初の軟禁が解かれてから1年でまた、自宅に閉じ込められることになったのである。
政治活動禁止の措置に背いたというのが表向きの理由だった。
しかし実のところは、山岳会と金泳三の活動によって民主化熱が広がるのを恐れたのだった。だからといって、山岳会員全員を締め上げ、コントロールすることは困難だった。会員たちはすでに準備運動を終えた状態にあり、山登りがしたくてうずうずしている彼らの活動を一挙に止めてしまうことはできなかった。
訳:波佐場 清

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