第7章 オリンピック・米国……「国家は軍隊とは違うな」
■安企部・保安司令部が公認と総選挙を操る
1981年2月25日の大統領選挙で全斗煥が当選した。
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| 全斗煥大統領は81年夏、慶尚南道鎮海沖で魚釣りを楽しんだ |
形式上、5271人の選挙人が全国77の地域選挙区で投票するという体裁をとり、全斗煥はそこで90・2%にあたる4755票を獲得した。
▽一挙に野党党首と大統領候補
その日、次点で落選した民主韓国党(民韓党)の柳致松候補(党総裁、2006年没)が金哲記者(東亜日報、2011年没)に向かって「プッ」と冷笑してみせた。
「どうして、笑われるのですか」
「だって、こっけいだよ。これまで、いちど野党第1党の大統領候補になってみようと命懸けだった者たちがいたかと思うと、党首になろうと、生きるか死ぬかの身悶えをした者もいた。わたしの場合、その2つのことを一挙にやってのけたんだから。こうも易々と、な」
第5共和国の初期、新軍部権力の恐るべき剣幕によって567人の政治家が規制によって縛られるという、柳致松らにとっては「棚ぼたのような幸運」もあったのである。世の中、「死んだ者の後釜はちゃんと出てくる」という格言通りなのだろうか。
▽国会議員選挙
国会議員選挙(第11代)は、81年3月だった。
政治がカチカチに凍りついた厳冬の時代ではあったが、それでも選挙となると熱くなった。
裏取引があり、人事の請託もあった。さまざまな群像が、空席となった議席の後継をめぐり、なかなかの熱戦を繰り広げた。
高貞勲(1988年没、中佐で予備役編入)が党首を務めた民主社会党(民社党)のケース――。
80年11月29日、ソウルのコリアナホテルで民社党発起準備委員会を開くなど、革新政党結党の準備を進めていた。年末、高貞勲は保安司令部の韓鏞源・情報処長を自宅に訪ね、こう訴えた。
「安企部の支援だけでは結党資金が足りません。保安司令部情報処のほうで東亜建設の崔元碩代表と会って民社党を支援するよう言っていただけると、大変助かります」(『韓鏞源回顧録』)
▽「多党制」
結党に関することは中央情報部の管轄なので、韓鏞源は気が進まなかった。しかし、断わるわけにもいかず、仕方なく崔元碩に事情を話すと、「その件については、保安司令部の秘書室のほうからも、よろしく、という連絡がすでに入っています」と言うのだった。高貞勲は、保安司令部秘書室長の安秉浩にも同じように働きかけていたようだ。
韓鏞源処長は、適当に遠ざけた。
高貞勲にたいし、「大統領も(体裁を整えるために)革新系野党を育てようとしておられるのだから、民社党担当の安企部要員によく話してみなさい」と助言だけをして適当に距離を置き、手を引いた。80年、全斗煥の新軍部は、民正党を頂点に、その周りにいくつかの衛星政党を配置して格好だけでも多党制を取り繕おうとしていた。
▽コネ候補
与党民正党の候補公認をめぐるエピソード――。
81年2月、民正党の総選挙公認候補名簿を決裁している最中に全斗煥が言った。
「金復東将軍[全斗煥や盧泰愚らと陸士同期(11期)で、盧泰愚の義兄]が、全羅南道の海南選挙区に任永得(立法議員)を是非入れてやってほしいと言ってきていたんだが、入ってないな。あの地域では考試の両科[日本の上級公務員試験に相当する試験の司法科と行政科]に通った天才だとも聞いているので、入れてやろうや」
そう言いながらその場で任永得の名前を書き入れた。
ところが、任永得は落選し、閔丙楚(民韓党)と李成一(国民党)の野党候補2人が当選するという結果になった[各選挙区とも定数2の中選挙区制で、与党の候補が当選しやすい仕組みになっていたのだが、それでも任永得は落ちた]。このあとの85年の総選挙で、全斗煥は、任永得を民正党の全国区(比例代表制)候補として公認して当選させ、意地を通したのだった(『韓鏞源回顧録』)。
▽「政治風土刷新法」
81年3月の総選挙を3カ月余り後に控えた80年11月5日、いわゆる「政治風土刷新法」が出てきた。
新軍部がこの法によって政治活動を縛り、規制した人員は、先述のように実に567人にものぼっていた[対象者は、国会議員選挙への出馬が禁じられたほか、政治団体の結成や他の候補の応援演説を含め一切の政治活動が禁止された]。
朴正煕政権の与党だった旧共和党の具泰会、吉典植、金鍾泌、金昌根、金澤寿、陸寅修、李孝祥、丁一権や、維政会(維新政友会)の白斗鎮、崔栄喜、太完善、そして旧新民党の金泳三、高興門、辛道煥、李哲承、李敏雨、李忠煥、黄珞周ら、政界の大物たちがことごとく網羅されていた。
野党の多くの現職、前職議員のほか、党中央本部の局長級幹部らもそこには含まれていた。
ところが、有能な朴寛用(のちに6選し、国会議長。金泳三政権で大統領秘書室長も歴任)や趙洪奎(のちに3選)、金徳圭(のちに5選)らは、対象者の名簿に入っていなかった。新軍部の無知によって、国会の専門委員を務めていたかれらの役割や実力のほどを見抜けなかったためだった[専門委員は、国会議員の立法や国政チェックをサポートする国家公務員で、高度な専門知識を持っていた。日本の国会における常任委員会調査員に相当]。
民韓党の公認審査が始まった日の夜12時半ごろ、金鉉圭・公認審査委員[第10~12代国会議員。当時まだ、当選1回の若手議員で、規制対象から外れていた。のちに全斗煥政権を激しく攻撃した]は、朴寛用に電話をかけ、「審査にパスした。明朝、公認証書をもらいに党本部に出て来るように」と連絡した。
訳:波佐場 清

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