2026年8月30日日曜日

金忠植『5共 南山の部長たち』/韓国民主化40年(55)

  朴世直、「次はオレだ」で失脚

全斗煥は権力の頂点から世の中を見下ろして号令をかける快感を覚え始めた。そんな全斗煥の逆鱗に触れてカッとさせ、流れ弾に当たってしまったのが首都警備司令官の朴世直だった。

▽予備役編入

198186日、朴世直少将の予備役編入が発表された。

朴世直はソウル五輪組織委員長としても活躍した

――軍の捜査機関(保安司令部)は、在米実業家の李圭煥(陸士12期、大佐で予備役編入)について、個人事業のために朴世直・首都警備司令官を通して高官らに請託行為をおこなった容疑で去る731日、捜査に着手し、85日に捜査を終えた。朴世直将軍は「請託排除運動」で率先垂範すべき立場にありながらも、越権と本分逸脱によって軍の威信を失墜させたことにより、ここに補職を解任し、予備役編入の措置を取る(朴鍾植・国防部スポークスマン)。

「ハナ会」会長である全斗煥大統領の直系、陸士12期の先頭ランナーだった朴世直が「越権・本分逸脱」という理由で突然、失脚したのである。

▽「不忠事件」の類推

1973年の「尹必鏞不忠事件」のことを思い起こさせた[この事件は、当時首都警備司令官だった尹必鏞が中央情報部長の李厚洛に向かって「朴正煕大統領閣下もお年を召されたのだから、兄貴(李厚洛のこと。朴正煕に次ぐナンバー2とみられていた)が後継者になられたら」などと言っていたことが分かって朴正煕の逆鱗に触れ、失脚した事件。尹必鏞が背後で支援していた全斗煥らのハナ会にまで捜査の手が伸びた]。新たに起きた朴世直事件では、捜査を担当したのは朴世直と陸士同期で、格別に親しい間柄にあった朴俊炳・保安司令官だった。これは、なにか特別な理由があってのことだったのだろうか――。

これといったウラ事情のようなものがあったというわけではなかった。

朴俊炳は保安司令官になってから、まだ1週間しか経っていなかった。そんなところへ大統領の指示が下りてきたものだから、ともかく急いで真相をつかみ、大統領にそのままを報告しただけだった。朴世直が陸士同期の実業家のためにソウル市長らに圧力をかけた、ということだったのだが、実際に金品を受け取っていたわけでもなく、請託の内容もたいしたことではなかった。

しかし、青瓦台としては「ハナ会出身といえども、調子に乗ってしゃしゃり出、小生意気な態度をとる者は許さない」という見せしめをしたかったのだ、という説が流れた。全斗煥が自ら「お膳立てをした者が別にいるというのに、いったい、どこのどいつが勝手に箸を付けようとしているんだ」と言って怒った、という話も漏れ伝わってきた。

▽軽率な舌禍

この事件の捜査結果を大統領に報告した後、保安司令官の朴俊炳は、大いに困り果てることとなった。青瓦台が急遽、「来い」というものだから息せき切って駆けつけると、すでに国防長官の周永福と陸軍参謀総長の李熺性が全斗煥大統領の前に座っていた。朴世直を予備役に編入させる――という通報だった。朴俊炳は大統領に善処を乞い、「副軍団長ぐらいに出すのはいかがなものでしょうか」と懇願したが、周永福がかれの服の裾をつかんで引っ張った。予備役編入はもう、決裁が済んだことなのだからやめておけ、という合図だった。朴俊炳はそれでもなお、朴世直の首都警備司令官退役式だけはやってほしい、と進言し、その式に直接、挨拶文も準備して出席するという友情を示したのだった。

朴俊炳は後日、インタビューに答え、朴世直退役の真相についてこう語った。

「実のところ、当時、朴世直将軍が各界の人たちと活発に接触しながら『次期大統領は自分だ』と言わんばかりの言動をしていたことが問題になったのだ。あとで知ったのだが、全斗煥大統領は首都警備司令部の作戦参謀、金振永大佐らを呼んで朴世直将軍の日ごろの言動について直接確認したうえで、そのような措置を取ったのだ」(『月刊朝鮮』20133月号)

朴世直は、1973年の尹必鏞と同じように軽率な舌禍で飛ばされたのである。

▽復権

ところが、それからわずか6カ月余で、大統領の怒りはおさまった。

全斗煥は19823月、朴世直を韓国電力の副社長に据え、続いて安企部の第2次長に起用した。その後、朴世直は総務処長官、体育部長官、オリンピック組織委員長と次々に要職を歴任し、名誉を回復していった。動力資源部長官だった李宣基によると、全大統領は李に韓国電力に朴世直のポストを見つくろうよう指示した際、「実際のところ、あいつ(朴世直)は参謀総長の器なんだが、途中で不幸なことになった。分かってみると、別にどうということでもなかったんだが」と言っていたという(中央日報1993212日付)。第5共和国における全斗煥人事の一つのパターンではあった。

▽勉強家

もともと朴世直は、軍人にしては顔が広く、人付き合いを楽しむタイプだった。

筆者は1986年、総務処長官時代のかれが長官室で、その忙しい最中にあってもフランス語の録音テープを聞いて会話の勉強をしているのを目にしたことがある。

夭折した詩人の奇亨度から一時期、週1回、定期的に文章の書き方について教わったりもしていた。総務処の長官室はソウル世宗路の政府総合庁舎9階にあったのだが、当時、奇亨度は中央日報の政治部記者として総合庁舎内にある総理室と総務処を担当していた。奇亨度の、その飛び抜けた文才について報告を受けた朴世直は、奇に直接頼み込んだのだった。

▽大望

朴世直は軍人には珍しく社交的で、実業家や大学教授、キャリア官僚、外国の大使ら、軍隊外にも交友関係を広めていた。ハナ会の中心メンバーであり、全斗煥政権の実力者として首都警備司令官に座っていたかれには「カッコいい、粋な人物」として慕うファンも多かった。

また当時、一部の政治記者たちは、そうした朴世直の行動や身のこなしから、まだ消えてはいない、かれの野望を認めたりもしていた。ある時期、大統領の座を狙う胸中をうっかり吐露して痛い目に遭ったが、いぜん、その夢を捨てきれず、軍人から文民に転身すべく必死に勉強していたというわけではあった

                       訳:波佐場 清

 

0 件のコメント:

コメントを投稿