■公安勢力vs許和平
1981年に入ると、青瓦台の許和平は「鄭道伝気取りだ」と陰口を叩かれるようになった。
朝鮮王朝建国の功臣である鄭道伝(1342~98)のように、第5共和国の設計者として、あまりにものさばり過ぎているとする反発だった。とくに盧泰愚の親戚である朴哲彦や、大統領の妻の叔父の李圭光らと敵対し始めた。
▽許和平に弱み
81年4月、法務部長官の人事をめぐり、許和平と朴哲彦がぶつかった。
許和平には弱みがあった。弟の許和南がスパイとして捕まり、服役していたのだ。
許和平は第5共和国の実力者となり、国政を全面的に采配しながら、改革の名のもと、すべてをあまりにも急進的、一方的に推し進めた。それは許和平が社会主義的な意識を持っているからではないか、と公安部門の関係者らは囁き合った。
▽法務長官人事巡り、確執
朴哲彦は、そんな許和平を意識し、公安検事の大ボス株である李鐘元(大邱高検長)を次期法務部長官として推した。現職長官は呉鐸根で、朴正煕大統領によって1976年に検察総長に抜擢され、80年5月以来、法務部長官を務めていた。
許和平は、骨の髄まで反共で凝り固まった南山(中央情報部)の要員たちからも深い恨みを買っていた。
許和平は、保安司令部秘書室長としてのさばり、(中央情報部長の座にいて朴正煕大統領を暗殺した)金載圭のせいで「反逆者集団」になった南山の牙を抜き、情報部の者たちを、まるで罪人扱いしてきたではないか――。
「スリー許」が、李鐘元に反対し始めた。
許三守率いる司正首席秘書官室を動員して李鐘元と夫人の私生活についてまで身辺調査をしているような気配だった。そして夫人は高利貸しまでやっていると大統領に報告した。
朴哲彦も大統領に訴えた。
「自由民主主義の哲学に疑念があったり、前歴が疑わしかったりする人物には留意すべきです」。もちろん、許和平を念頭に置いてのことだった。
結局、李鐘元が法務部長官になり、この神経戦は朴哲彦の勝利で終わった。
▽政権に忠誠誓う大法院長
81年4月16日、兪泰興が大法院長に抜擢された。
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| 兪泰興は大法院長退任後、国政諮問委員に委嘱された=1986年 |
兪は、1979年の「10・26事件」、つまり金載圭による朴正煕暗殺事件の審理で主審判事を務め、金載圭に内乱目的殺人罪を適用して死刑を言い渡した大法院判事として有名だった。保安司令部の督促と兪泰興の迅速な裁判進行により、金載圭は、事件からわずか7カ月後の80年5月24日、光州民主化抗争のさなかに死刑が執行された。
大法院長任命を前に、全斗煥大統領の指示を受けて政務首席秘書官の禹炳奎と秘書官の朴哲彦、孫晋坤が、兪泰興宅を訪れて面談した。記録として残っている兪判事の「忠誠の誓い」は異様なものだった。
「個人的な親交もない私を大法院長候補として考えてくださっているだけでも光栄なことですが、任命されれば最善を尽くして任命権者(大統領)と国民に奉仕致します。分断国家の現実に照らし、司法府のトップは政治的な公安事件では政府に協力すべきであり、一般事件については所信に基づき、独立して判断しなければなりません。判事たちの任用に当たっては、国家観がしっかりせず、品位に欠ける人物は排除するほかありません」(兪泰興の書簡)
▽判事の堕落
兪泰興大法院長のその後の行動は、このいじましいばかりの一途(いちず)さから寸分たりとも外れるものではなかった。大法院を担当した当時の安企部情報官の次のような評価が興味深い。
「1980年末、金大中内乱陰謀事件が3カ月という超スピードで1、2審とも死刑判決が下され、続く大法院でも上告棄却というかたちで金大中の死刑が確定したでしょう。それは、金載圭の迅速な死刑確定に協力した大法院判事(兪泰興)が大法院長に上り詰めたからなのです。在野のほうで金大中に対する100日間の不法拘束について問題を提起していたが、法院(裁判所)は見て見ぬふりをしていました。その時、司法府の卑劣さを直接、目の当たりにしたのです」(のちの盧泰愚政権下、安企部改革を掲げて内部に設けられた安企部政策研究官を務めた厳相益弁護士が安企部情報官から聞いた話をまとめた記録からの引用)
具体的に、どう卑劣だったのか。その安企部情報官は、こう語っている。
「金大中の死刑確定に協力した裁判官の一人が権力内部の実力者をこっそり訪ね、全国区議員のポストを要求していたことが、わたしたち安企部のアンテナに引っかかりました。上のほうでその判事に、全国区議員の代わりに大法院判事のポストを推薦してやったといいます。そんな人物が大法院判事になって何カ月かしてのことでした。全斗煥政権がつくった社会浄化委員会に1通の投書が投げ込まれたのです。その人物の裁判官時代の女性問題に関するものでした。それで密かに内偵してみたのですが、大法院判事になる前、裁判所の女性職員2人と不倫関係にあったことが分かったんです。女性職員は、結婚後も関係を続けていたのでした。そんな事実を報告すると、上のほうで、その大法院判事を内々に依願退職させたといいます」
▽コネ人事
5共時代の裁判所の人事は、安企部要員の目から見ても、あきれ返るばかりのものだった。
「裁判官の中にも出世主義者が何人かいました。安企部のアンテナに引っかかった三流の裁判官たちに多かった。裁判所内部では実力もなく、無視されているような裁判官が、大統領の弟や兄のツテを頼って大法院判事にしてほしいと頼み込むようなこともありました。それで全大統領が大法院長を呼び出し、食事をいっしょにしながら、その裁判官を大法院判事にするよう指示したこともありました。『ソウル大出身者だけでなく、他の者たちにも大法院判事をやらせてみてもいいのではないのか』といった論理でした。裁判官らには冷笑するような雰囲気がありました。大統領の側近に手を回し、適当な名分さえ立てれば、実力がなくても大法院判事になれる――そんな自嘲の混じったもの言いが法曹界で流行っていました」
▽安企部が弱みを握る
軍隊式に身内の頼みごとを聞いてやる人事にあっては、破格の出世もあった。
「とんでもない出世をした裁判官もいました。あるとき、全斗煥大統領が大法院長に、地方裁判所のある裁判官をすぐに裁判所長クラスに昇進させたうえで青瓦台の秘書官として送り込むよう命じたことがあります。わたしたちの情報機関で調べてみると、その裁判官は大統領の弟にいろいろと働きかけていたことが分かりました。それで、そのような命令が下ったのでした」(以上、いずれも『月刊朝鮮』2021年6月号)
兪泰興体制となった裁判所は、その翌年の1982年、「27万ドルの不法搬出」事件[ソウルの金浦空港で大量の外貨が隠されたカバンが見つかった事件。これをきっかけに、大法院と検察のトップ幹部らが、高級料亭の女将たちによる賄賂工作などに深く関わっていたことが発覚した]で安企部に弱みを握られてさんざんな目に遭い、第5共和国時代の全期間を通してますます、権力の言いなりになっていったのだった。
訳:波佐場 清

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