2014年9月3日水曜日

日本は平和憲法で北東アジアに貢献を——林東源・元韓国統一相

林東源・元統一相
北東アジア情勢は緊張を孕み、複雑な様相を見せている。この地域に平和をもたらすにはどうしたらいいのか。

韓国の金大中政権下、大統領の右腕として初の南北首脳会談に道を開くなど、果敢な平和政策を推し進めた林東源・元統一相が今年7月6日、名古屋で開かれたNPO法人・三千里鐵道主催の集会で、「北東アジア平和への韓国の課題」と題する講演をおこなった。2000年の南北首脳会談の「6・15共同宣言」14周年を記念する集会だった。

講演の内容を以下に掲載する。立命館大学コリア研究センターの波佐場清・上席研究員が翻訳した。

■転換期の北東アジア
日本の安倍内閣は憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を決めました。日本は「戦争をしない国」「戦争に加担、協力しない国」から、「海外で武力を行使する国」「戦争できる国」に変わることになったのです。
これによって日本と中国の関係はますます緊張し、民族主義の感情が高まって北東アジアにおける安全保障上の不安と軍備競争の加速化が憂慮されます。一方で、そんな日本との間で歴史と領土の問題を抱えた中国の習近平国家主席が韓国を訪問し、朴槿恵大統領との間で、共同声明では明示されなかったものの、日本の右傾化に対する共同対応の問題などを話し合いました。
 東アジアは激動の時期を迎えています。過去30余年間にわたって高度経済成長を続けてきた中国が米国とともに2大経済大国として浮上してきています。中国のGDPは2020年ごろには米国を追い越すだろうと展望されてもいます。経済力の拡大は軍事力の増強を伴うとみられ、国際的な影響力も強めていくでしょう。
 米国が唯一の超大国として国際秩序を仕切っていた時代は過ぎ去ろうとしています。過大な軍事拡張による米国経済の衰退が国力の相対的衰退を招いたのです。とはいえ、米国はまだ相当の期間、軍事、科学技術、文化の分野で中国に対して相対的な優位を維持していくとみられます。
 米国は2012年ごろから経済の再建と覇権の再構築へ「アジア回帰」を宣言し、アジア太平洋地域重視の「リバランス戦略」を推進し始めました。安全保障面では同盟の強化で中国の軍事的膨張の可能性を牽制し、経済面では環太平洋経済連携協定(TPP)の締結によって自らの利益を確保するとともに中国の影響力の拡張を遮断し、覇権を維持しようとしているのです。
 このようなリバランス戦略の中心に据えられているのが、核心的なパートナーである日本との同盟の強化です。厳しい財政難に喘ぐ米国は、日本を押し立てて中国の海洋進出を監視・牽制しようとしており、日本の軍備増強と集団的自衛権の行使を支持しています。米国のリバランス政策で勢いづく安倍首相とその支持勢力は平和憲法の改定を推進する一方で、過去60年間にわたって維持してきた専守防衛の原則を棄て、集団的自衛権の行使と再武装を推進しています。このような状況を背景に安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱え、靖国神社参拝でナショナリズムを煽り、歴史修正主義を際立たせて領土紛争を激化させています。そんな中、一方で、平和を愛する日本国民とアジアの人々の間には平和憲法の改定に反対する声がしだいに高まってきています。
 いま指摘した米中2大強国という構図は冷戦の復活とは性格が異なるといえます。かつての米ソ冷戦は、両陣営間を「鉄のカーテン」で仕切り、経済や文化などあらゆる面が断絶する中で、イデオロギー対決と核兵器競争、軍事的拡張が極大化したのが特徴でした。いま、米中の戦略的関係はこれとは違い、経済や文化の分野では平和的競争と協力を維持する一方で、政治と軍事の面では互いに牽制しあうという様相を見せています。
 中国は米国との間で、新しい形の大国関係の樹立を主張しています。歴史的に見るとき、既存の覇権強大国と浮上する新生強大国間には摩擦や衝突が生じ、行き着くところ、戦争を招いたりもしてきました。中国が主張する「新型大国関係」というのは超大国である米国と新生大国の中国が互いに相手方の核心的な利益を侵害せず、協力しながら平和的に共同繁栄を追求する関係に発展させていこうというものです。過去の失敗に学び、「ウィン——ウィン」の新しいモデルをつくろうというもののように見えます。中国は米国との軍備競争、武力衝突、そして戦争を回避しようとしているのです。ただ、米国の軍事的な脅威に対抗するうえで必要な先端兵器の開発は推進するという立場のようです。
 ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官はその著書『On China』(日本語訳「キッシンジャー回想録 中国」=岩波書店)の中で、米中関係は勝ち負けのゲームになってはいけない、と警告しています。「米国と中国は互いに、相手方によって支配されるにはあまりにも巨大すぎる大国であり、経済強国だ。戦争や冷戦時代のような形の紛争においてはどちらも勝利者にはなれない。…相互補完的な利益を追求し、共同の繁栄と発展を図るべきだ」として「共進化(co-evolution)」論を唱えています。彼は米国の反中国ブロック形成の企図は成功しないだろうといい、太平洋共同体の形成を主張しています。
 協力的な米中関係は北東アジアにとって祝福となるでしょうが、対決的な米中関係は災いをもたらし得ます。米国、日本と中国の間が互いにとって脅威であり対決は避けられない、と誇張し、歪んだ判断によって不信と葛藤を深め、不幸な事態をもたらすようなことがあってはなりません。そのような事態を予防するためには、この地域で、安全保障面で協力しあう平和共同体の形成が緊要だと言えます。

■転換期の韓国の立場
北東アジアの平和に向けた韓国の課題としては何よりもまず、この激動の時期に対処するうえで正しい立場と戦略をとることです。韓国には二通りの考え方があります。一つは歴史的にみて、中国が強大化すれば、朝鮮半島の地政学的地位からいって脅威になるとするもので、従来の韓米同盟を引き続き維持強化すべきだという立場です。もう一つは、誇張された中国脅威論に取り込まれず、中国の浮上を現実のものとして受け入れて米国とともに、中国とも良い関係を維持していくべきだという立場です。
 韓国と中国の間の貿易規模は、韓米・韓日間の貿易規模を合わせた額よりも多くなっています。そして、対中貿易の黒字が韓国の貿易赤字を埋め合わせてもいるのが現状です。韓中間の貿易と経済協力は引き続き増加傾向にあり、中国はすでに韓国にとっては切り離せない最も重要な貿易パートナーとなっているのです。それだけではなく、中国の北朝鮮に対する影響力の大きさや安全保障面における中国の重みを考えるとき、韓国にとって中国の重要度はますます高まっていくでしょう。
 韓国はまた、米中両大国の間にあってどちらの側につくかという選択を迫られる立場に置かれているともいえますが、現実はすでに、「韓米同盟を維持しつつ、韓中間は戦略的協力パートナー」という局面に入っています。米中のうちのどちらかという二者択一ではなく、バランスを保とうというのです。韓米同盟が中国を脅かすものであってはならず、また、中国との協力関係が米国を排斥するものであってもいけないという立場です。また、韓国は安全保障の自律性を高め、バランス外交で国益を高める一方で、米中両国間の葛藤の解消にも寄与していこうというものです。これは朝鮮半島はもとより北東アジアに安定と平和をもたらす道となるでしょう。
 
 ■朝鮮半島における平和体制の構築
 北東アジアの平和に向けての韓国の最も重要な役割は、朝鮮半島で平和体制を構築することです。朝鮮半島の平和なしには、北東アジアの平和は保障できません。
 朝鮮戦争の砲声が止んで60年になりますが、戦争はまだ終わってはいません。軍事休戦体制下で引き続き敵対関係を維持しているのが朝鮮半島の悲しい現実なのです。米国、中国、日本、ロシアと南、北は、6者協議の「9.19共同声明」(2005年)で、関連当事国(米国、中国、南、北)間の平和会談を約束し合いました。この約束にしたがって関連の4者は平和会談を開き、いまの休戦体制を平和体制に転換していかなければなりません。韓国が、北と力を合わせて平和会談の開催を推進し、主導していかなければならないのです。そのためには閉塞した局面にある南北関係をまず改善しなければなりません。南と北は「6.15共同宣言」(2000年)の順守と実行を再確認して交流と協力を活発化させ、相互の信頼を確かめ合っていかなければなりません。「核問題の解決をまず先行させ、その後で平和を」というのではなく、両者を並行して進めるべきなのです。
 4者による平和会談では、朝鮮半島の平和を保障するために、例えば、南北の対決と米朝敵対の関係を解消して関係正常化と非核化を進める▽政治軍事的信頼構築と軍備削減に取り組む▽外国軍の問題の解決をはかる————といった実質的な措置を取っていくべきです。そんな平和プロセスを通して冷戦構造を清算し、朝鮮半島に平和体制を構築していくべきなのです。
 朝鮮半島の問題が米中間の葛藤と紛争の種にならないようにしなければなりません。そのためにも休戦体制を平和体制に転換する努力を急がなければなりません。朝鮮半島に平和体制を構築することによって北東アジアにおける平和共同体づくりに貢献できるのです。
 
 ■平和共同体
 韓国は、北東アジアの平和と安定に向け、地域の平和共同体づくりで先頭に立たなければなりません。米国と中国が共に韓国との協力を必要としている現状況にあって、韓国は米中間の架橋の役割を果たせるでしょう。まず、韓米日3国と北朝鮮の関係改善が緊要です。そのような意味から言って、このところの日朝の関係改善への努力を評価し、いい結果がもたらされることを期待しています。
 地域の平和共同体づくりに向けてはこの間、様ざまな談論が提起されてきました。北朝鮮の核問題を扱ってきた6者協議を母体に、必要に応じてそれを広げていけばいいという主張もその一つです。政治軍事的な信頼構築を推進し、潜在的な葛藤と軍事的緊張の要因をなくして共同の安全保障を実現する一方で、経済、通商、環境、テロ、国際犯罪などを網羅する包括的な地域協力の平和共同体が望ましいでしょう。
 韓国の朴槿恵政権は、「北東アジア平和協力構想」を唱えています。まず域内国家が環境、災害救助、原子力安全、テロ対策など、協力が容易な問題から取り組み、対話と協力を通して信頼を積み重ねながら協力の範囲を広め、いずれ欧州安全保障協力機構(OSCE)のような強固な多者間の協力体に発展させていこうという構想です。まず参加国すべてが受け入れやすい分野から始めようというのは理にかなっていると言えましょう。

 ■北東アジア3国の協力
 韓中日の3国は歴史的にも地理的にも非常に密接で近しくするほかない間柄にあります。北東アジアは躍動的な経済圏として登場してきており、世界経済の成長を牽引する主役として共同の繁栄を先導するチャンスを迎えています。3国は葛藤と対立でなく、協力を通して共同の繁栄と発展を目指していかなければなりません。韓国は日本と中国の間にあって促進者の役割を担うべきでしょう。
 韓中日の3国はこの間、定例化してきた3国首脳会談をうまく運営し、そのもとで2011年秋にソウルに置かれた3国協力事務局を活性化し、共同の関心事を話し合いで解決していかなければなりません。経済分野における3国の協力関係を強化し、国民交流と文化交流を進め、歴史や領土、域内安保、外交葛藤の問題を話し合いの中で克服していかなければなりません。今はまず、韓日関係から早急に回復させていくことが緊要です。
 韓国と日本は米国の同盟国ですが、いまは米中関係を安定させる方向で貢献していくことが、みんなの利益になるでしょう。韓国と日本は力を合わせ、政治的には米中間で架橋の役割を果たし、経済的には北東アジア経済共同体づくりを主導すべきです。そうして北東アジア安保協力の平和共同体づくりを先導するのがこの地域の平和と繁栄のための道となるでしょう。
 最後に、日本の平和憲法第9条に関連して一言申し上げようと思います。植民地支配と侵略戦争を経験したアジアの人々にとってこの第9条は、過去の歴史に対する反省と、過ちを繰り返すまいとする戦後日本国民の真摯な決意として受け止められてきました。第9条は、日本がアジアの人々に信頼され、愛されるうえでの資産となってきたのは事実なのです。
 いま平和憲法の第9条を変えようとする動きに対して、平和と安定にとって脅威になるとの憂慮が広がっています。日本自ら過去を正しく認識し、謙虚に反省しようという決断が不足しているのではないかという疑念も持たれています。
 東アジアの平和に向けての日本の役割は非常に重要です。日本はまず平和憲法の第9条を守ることで自らの安全保障はもちろん、北東アジアの平和と安定にも寄与できるのです。平和を愛するアジアの人々は日本が「平和主義を貫いて国際社会に貢献する国」になることを切に願っています。
 平和憲法第9条を守ろうという道徳的勇気を持ってたたかっている多くの平和を愛好する日本の民主市民に敬意を表し、激励の拍手を送りたいと思います。

《略歴》イム・ドンウォン 1933年平安北道生まれ。韓国陸軍士官学校、ソウル大卒。80年陸軍少将として予備役編入。駐オーストラリア大使。盧泰愚政権下で南北高位級会談代表。金大中政権下で大統領外交安保首席秘書官、統一相、国家情報院長など。著書に『피스메이커(Peace-maker)』(중앙books)=日本語版『南北首脳会談への道』(波佐場清訳、岩波書店)http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-024163-2 /英語版『PEACEMAKER』(米スタンフォード大学アジア太平洋研究センター)=など。




2013年11月20日水曜日

「安重根の隠れ家」を中国・延辺に見た


「犯罪者だ」(菅義偉官房長官)
「独立と東洋平和のために命を捧げた方だ」(韓国外務省報道官)

日本の初代首相、伊藤博文を中国ハルビン駅で暗殺した独立運動家、安重根の碑を建てる計画が中国で進んでいることをめぐる日韓政府間の応酬は、両政府間で行き違う歴史認識問題の、いよいよ核心部分に行きついたようだ。

中国吉林省の延辺朝鮮族自治州で、その安重根が一時期活動の拠点にしていたとされる「隠れ家」を見た。以下は2007年4月に現地を訪れた時の様子を書きとめておいた一文の再録である。
 

中朝国境を流れる豆満江は中流でいったん北に大きくうねり、延辺朝鮮族自治州の州都、延吉市の東あたりで、また、南下しながら東の日本海へ注いでいく。下流付近は北朝鮮とロシアに両側から挟まれて中国領土は狭くなり、日本海まで15キロ余りの防川というまちで、中国の領土は尽きる。その防川の手前およそ20キロの小さな村に「安重根の家」はあった。
 















行政区画でいえば、琿春市敬信鎮圏河村。幹線道路沿いに中国語で「安重根義士故居」、ハングルで「安重根義士遺跡地」と記した案内表示があり、そこをわき道に200メートルほど入ると、畑の中に小さな家がみえてきた。

わらぶき木造、土壁の平屋。オンドルの煙突が突っ立っている。家屋全体がすこし歪んでいる。

どこからか、ひとりの女性が現れた。近くで農業を営み、この家の管理を引き受けている崔今花さん(33)だった。朝鮮族で、その話すところは、こうだ。
  
100年前、安重根は間島(延辺朝鮮族自治州の旧称)から沿海州にかけての地域で活動し、この家は1908年4~6月の間、安重根とその仲間ら12人が拠点にしていた————


 中に入ると、入り口に3つのかまどが並び、むしろ敷き8畳ほどの居間が広がっている。奥には3畳ほどの部屋が2つ。天井に裸電球が一つぶら下がり、その横の壁に安重根の写真が掛けてある。 

家の歪みは外から見た以上にひどく、壁が傾いていまにも崩れ落ちそうだ。崔さんは4年前まで家族とここに住んでいたが、いたみがひどく、別の家に移ったそうだ。
 
関係当局に補修と保存を訴えてきたが、聞き入れてもらえないという。ここら辺りは以前、朝鮮族の住民が多かったが、だんだんと減り、いま、この村の住民380人のうち朝鮮族は15人だけで、あとはみな漢族だという。当局の腰が重いのはどうやら、そんなこととも関係があるようなのだ。

入り口に募金箱があった。のぞいてみると中国の元札にまじって韓国のウォン札も何枚かみえる。ここ数年、韓国の観光客がふえ、去年は約3千人がここに来たという。崔さんは「みなさんの力を借りてこの家を守っていきたい」と、わたしにも協力を求めるのだった。
 
 
 
 
近くに碑があり、安重根についてつぎのような内容がハングルで刻まれていた。 

<1879年9月2日、黄海道海州生まれ。日露戦争後、義兵闘争に参加。上海、延辺とロシア沿海州一帯で抗日救国活動を展開。1907~09年、何度か琿春県敬信を訪れ、人民を動員、学校を建て抗日と民族独立を宣伝した。1909年10月26日、伊藤博文をハルビン駅で射殺。その事績は中国でも大きな波紋を呼び、周恩来は中学時代、「安重根」という劇を演出、のにち「中朝人民が日本帝国主義の侵略に反対した闘争は安重根が伊藤を銃撃した時から始まった」と語った>
 
 
この家について語られていることが実際にどこまで検証されたものか、わからない。しかし蓋然性はある。

韓国各地で義兵が立ち上がった1907年夏、平壌南西の鎮南浦で無為の日々を送っていた青年安重根は山岳ゲリラに加わった。翌年6月、間島で「連合大韓義軍」の参謀中将に選ばれ、朝鮮半島北部の咸鏡北道へ出撃。このあとロシアのポシェットで「断指同盟」を提唱し、仲間と薬指の先を切って「大韓独立」を誓い合ったといわれる。

1909年10月、安重根はロシアのウラジオストクにいて伊藤博文のハルビン行きを知り、ウスリースクから中ロ国境を越えて綏芬河に入り、東清鉄道でハルビンへ。旅順・大連から満鉄を北上し、奉天(瀋陽)、長春をへてハルビンに向かった伊藤を待ち受けたのだった。

これを現地で聞いた説明と付き合わせると、安重根があのわら屋にいたのは、ちょうど連合大韓義軍の参謀中将になる直前だったということになるわけである。

伊藤暗殺後、日本は一気に韓国の完全な植民地化へと進み、1910年8月、併合。その朝鮮支配を「安定」させるためさらに満洲の支配へと突き進んだ。そんな中で間島の地は抗日闘争のひとつの拠点となっていったのだった。
  ◇
中国・延辺朝鮮自治州はかつて朝鮮側から「間島」(朝鮮語読みで「カンド」)と呼ばれた地域である。日本のかいらい国家「満洲国」の時代は「間島省」とされた。もともと19世紀後半、朝鮮からの移住者によって開墾された土地であることから「墾土」(カント)といったのが、なまったとも言われているようだ。

20世紀初頭の日露戦争(1904~05)は朝鮮半島と満州をめぐる争いだった。勝った日本はさっそく伊藤博文が漢城(ソウル)に乗り込み、時の朝鮮の王、高宗に直接迫って韓国の外交権を奪い保護国化する。1905年11月の第2次日韓協約(乙巳保護条約)である。

韓国は強く反発し、高宗は国際社会に訴えようとオランダ・ハーグの万国平和会議に密使を送る。1907年6月のことだった。密使はハーグで門前払いされ、伊藤の激怒で高宗は退位させられる。日本はこれを機にその夏、韓国支配をさらに強め、軍隊も解散させる。

職を失った兵士らは義兵となり、農民らも加わって各地で蜂起する。その一部は豆満江を越え、間島やロシアの沿海州を拠点に抗日活動をおこなった。そんな中に、のちに伊藤博文を暗殺する安重根もいたのだった。
 
 

2013年8月11日日曜日

鄧小平と北朝鮮の指導者の違い

『キッシンジャー回想録 中国<上・下>』(塚越敏彦ほか訳、岩波書店)を読んだ。冷戦下、1972年の米中和解の立役者であり、その後も4世代にわたる中国の指導者らとの深い交わりで米中関係に大きな影響力を及ぼしてきた米外交の巨人、ヘンリー・A・キッシンジャー氏の大著である。

毛沢東、周恩来から鄧小平、江沢民、胡錦濤、さらに習近平氏にまで言及、中国の歴史に対する深い造詣と各世代の政治家への鋭い洞察、そして国際政治に通じた碩学ぶりには、ただ圧倒されるばかりである。

本書については、いろいろな人たちの書評がなされているところだが、ここは「コリア閑話」の主宰者として、中国に隣接するもう一つの社会主義国、北朝鮮との関係で思い浮かんだことを少しばかり書いてみたい。

とくに印象に残ったのは、鄧小平に対するキッシンジャー氏の思い入れの深さだ。中国を改革開放に導き、いまの「経済大国」の基礎を築いた、その人である。私は北朝鮮の現状を思い浮かべ、平壌の指導者らと重ね合わせながら、その部分を読んだ。

鄧小平については、次のようなことを書いている。

▽毛沢東の哲学的な長広舌や寓話と、周恩来の優雅な専門家かたぎに慣れっこになっていた私は、鄧小平の渋い、きまじめなスタイル、時に挟む皮肉な合いの手、哲学への嫌悪と現実的なものへの偏愛といったものに慣れるには時間がかかった。
▽彼は自分のことを「田舎者」と形容し、「言語の習得は難しい。私はフランスに留学したことがあるが、フランス語はついにできなかった」と告白した。
▽時がたつにつれて、私は、思いに沈んだような目を持つ、この小柄で果敢な人物を大変尊敬するようになった。彼は信念を曲げず、世の中の激動に直面して平衡感覚を失うこともなく、いつか、この国を変革するであろう人物だった。

鄧小平は、中国の現状に謙虚だった。

▽鄧小平は復権した1973年、オーストラリアの科学者代表団との会談で、中国は貧しい国であり、先進国から学ばなければならない、と語った。こうした自己認識を表明する中国の指導者は、彼が初めてだった。鄧小平はまた代表団に、中国が達成した成果だけでなく、遅れている面も見るべきだ、と助言した。これも中国の指導者としては前代未聞の発言だった。
▽79年4月に北京を訪問した際、華国鋒と鄧小平の2人と個別に会談した。華国鋒は、重工業に重点を置き、農業生産は、人民公社を基礎に、おなじみの5カ年計画によって機械化と肥料使用を進めるという、ソ連方式での生産拡大計画について説明した。
▽鄧小平はこうした正統的な考え方の一切を退けた。彼によれば、人民は自ら生産したものに対し、報酬を与えられるべきなのだった。重工業より消費物資の生産が優先されなければならず、共産党は指図することを減らし、政府の権限は分散させられなければならないのだった。
▽それからほどなく、華国鋒が指導部から姿を消した。その後、10年間にわたって、鄧小平は、語った通りを実践した。
▽彼の戦術の要点は、毛沢東の存命中はほとんど表面に出ることのなかった「実事求是」「理論と実践の統一」の考え方を「毛沢東思想の基本原則」にまで高めることだった。毛沢東は少なくとも60年代半ば以降、国内問題で実利性を強調したことはない。

鄧小平は、巧みなやり方で、毛沢東の一部を否定していった。

▽鄧小平は「70%は正しく、30%は誤り」とした毛沢東のスターリン評価を持ち出し、毛沢東に対してもこの「70-30」評価が妥当だとの考えを示唆した(これが程なく中国共産党の公式の毛沢東評価となり、それは今も変わらない)。こうすることで鄧小平は、毛沢東が自らの後継者に指名した華国鋒を非難することができた。

鄧小平は人民の創造性を解き放った。

▽毛沢東は、彼の個人的なビジョンで苦しむ人民の耐久力を当てに、統治した。鄧小平は、彼の将来ビジョンを実現してくれるであろう人民の創造性を解き放つことで、統治した。
▽毛沢東は意志の力とイデオロギー的純粋さで障碍を乗り越えるという、中国「大衆」の力に神秘的な信頼を寄せることで、経済発展を成し遂げようとした。鄧小平は、中国の貧困と、先進世界との生活水準の巨大な格差を直視する。鄧小平は「貧困は社会主義ではない」と宣言し、中国は欠点を是正するため、外国からの技術、専門家の助言、資本を必要とすると訴えた。

鄧小平は78年12月の中国共産党11期3中全総で再び復権。この会議で、鄧小平のその後のあらゆる政策を特徴づけることになる「改革開放」のスローガンが採択されたのだった。

▽鄧小平は会議の閉幕に当たって重要講話を行い「思想を解放し、実事求是で、前に向かって一致団結しよう」と宣言。毛沢東が文字通り、人生のあらゆる問題について解答を与えた10年間が終わった。鄧小平はイデオロギー的な締め付けを緩和し、「自分で物事を考える」態度を奨励することが必要だと強調した。
▽80年に、鄧小平の地位の上昇は完成した。鄧小平の大規模な改革は達成の過程でかなりの社会的、政治的緊張を生み、89年には天安門事件となって爆発したのだった。

鄧小平は、外国訪問でも率直な姿勢を貫いた。

▽毛沢東はまるで皇帝のように外国指導者を招いたが、鄧小平のやり方は違った。彼は東南アジア、米国、日本を歴訪し、大変に目立ち、率直で、時として非常に慌ただしい、独自の外交を展開した。
▽78年と79年に鄧小平が行った一連の外遊は、革命的な挑戦者という、それまでの海外における中国のイメージを変えた。鄧小平は歴訪中、先進国と比べた中国の後進性を指摘し、先進工業国から技術と専門知識を得たいとの望みを強調した。
▽鄧小平が外遊したこと、および、その外遊で彼が繰り返し中国の貧困に言及したことは、中国政治の伝統からの衝撃的な決別だった。それまで、中国指導者の外遊は珍しかった(天下を統べるという中国の伝統的概念からすれば、彼らに訪問すべき「外国」など、もちろんなかった)。中国の後進性と、海外から学ぶことの必要性を開けっぴろげに強調する鄧小平の姿勢は、中国の皇帝や官僚が外国人と接する時の超然たる態度とは、際立った対照をなしていた。

鄧小平は、日本に対してもへりくだった態度を見せ、実利を取った。

▽鄧小平の歴訪は日本から始まった。日中平和友好条約の批准書交換セレモニー出席が目的だった。鄧小平の戦略構想では、ソ連、ベトナムを孤立させるうえで日本の協力を得るためには、正常化だけではなく、和解が必要だった。
▽この目的のため、鄧小平は半世紀にわたって日本が中国に与えた苦しみについて、問題を決着させる用意があった。彼は元気いっぱいに振る舞い、「私の心は喜びでいっぱいだ」と宣言し、日本側の会談相手を抱きしめさえした。
▽鄧小平は中国の経済的な後進性を隠そうとはしなかった。来客のサイン帳に署名を求められ、彼は日本の達成を評価する前代未聞の言葉を記した。「われわれは、偉大で、勤勉で、勇敢で、知的な日本の人々を尊敬し、彼らから学んでいる」。

鄧小平は、引き際もきれいだった。

▽鄧小平は90年代初めから、重要な役職から徐々に身を引き始めた。近代中国で、自ら身を引いた指導者は彼が初めてだった。89年12月、スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)は鄧小平が謁見した最後の外国高官となった。以来、公式行事に出席せず、世捨て人となって97年に死去した。

こうしてみると、北朝鮮の指導者との違いが際立つ。北朝鮮が「先代の遺訓」を金科玉条とし、自尊心にこだわるのも、やはり、「自主」を「生命」とすることの表れなのだろうか。

キッシンジャー氏は中国と北朝鮮の関係について、次のような分析もしている。

▽中国は1961年に北朝鮮と友好協力相互援助条約を結んだ。その条文には、外部からの攻撃に対する相互防衛の条項が含まれていて、現在も有効である。しかし中国の歴史からみれば当然ながら、その条項は朝貢関係という意味合いを持っていた。北京は北朝鮮に保護を提供し、北朝鮮と相互に依存するという関係ではなかった。

▽中国は、北朝鮮の核開発計画の最初の10年間、米朝間で解決すべきという姿勢をとっていた。北朝鮮は主に米国から脅威を感じているので、核兵器の代わりとなる、必要な安心感を北朝鮮に与えるのは、米国の責任というのが中国の考えだった。だが、時間が経つにつれ、北朝鮮への核拡散はいずれ中国の安全保障にも影響を与えることが明白になってきた。
▽もし北朝鮮が核保有国として受け入れられれば、日本や韓国だけでなく、ベトナムやインドネシアなどのアジア諸国までもが最終的に核クラブ入りし、アジアの戦略的展開が様変わりすることになる。
▽中国の指導者は、そのような結末に反対している。同様に、中国は北朝鮮の壊滅的な崩壊も危惧している。なぜなら、そうなれば60年前に中国が阻止しようとして(朝鮮戦争を)戦ったのとまったく同じ状況が、国境地帯に再現される可能性があるからだ。

キッシンジャー氏は北朝鮮の核問題をめぐる今の状況を、こう分析しているというわけである。