『キッシンジャー回想録 中国<上・下>』(塚越敏彦ほか訳、岩波書店)を読んだ。冷戦下、1972年の米中和解の立役者であり、その後も4世代にわたる中国の指導者らとの深い交わりで米中関係に大きな影響力を及ぼしてきた米外交の巨人、ヘンリー・A・キッシンジャー氏の大著である。
毛沢東、周恩来から鄧小平、江沢民、胡錦濤、さらに習近平氏にまで言及、中国の歴史に対する深い造詣と各世代の政治家への鋭い洞察、そして国際政治に通じた碩学ぶりには、ただ圧倒されるばかりである。
本書については、いろいろな人たちの書評がなされているところだが、ここは「コリア閑話」の主宰者として、中国に隣接するもう一つの社会主義国、北朝鮮との関係で思い浮かんだことを少しばかり書いてみたい。
とくに印象に残ったのは、鄧小平に対するキッシンジャー氏の思い入れの深さだ。中国を改革開放に導き、いまの「経済大国」の基礎を築いた、その人である。私は北朝鮮の現状を思い浮かべ、平壌の指導者らと重ね合わせながら、その部分を読んだ。
鄧小平については、次のようなことを書いている。
▽毛沢東の哲学的な長広舌や寓話と、周恩来の優雅な専門家かたぎに慣れっこになっていた私は、鄧小平の渋い、きまじめなスタイル、時に挟む皮肉な合いの手、哲学への嫌悪と現実的なものへの偏愛といったものに慣れるには時間がかかった。
▽彼は自分のことを「田舎者」と形容し、「言語の習得は難しい。私はフランスに留学したことがあるが、フランス語はついにできなかった」と告白した。
▽時がたつにつれて、私は、思いに沈んだような目を持つ、この小柄で果敢な人物を大変尊敬するようになった。彼は信念を曲げず、世の中の激動に直面して平衡感覚を失うこともなく、いつか、この国を変革するであろう人物だった。
鄧小平は、中国の現状に謙虚だった。
▽鄧小平は復権した1973年、オーストラリアの科学者代表団との会談で、中国は貧しい国であり、先進国から学ばなければならない、と語った。こうした自己認識を表明する中国の指導者は、彼が初めてだった。鄧小平はまた代表団に、中国が達成した成果だけでなく、遅れている面も見るべきだ、と助言した。これも中国の指導者としては前代未聞の発言だった。
▽79年4月に北京を訪問した際、華国鋒と鄧小平の2人と個別に会談した。華国鋒は、重工業に重点を置き、農業生産は、人民公社を基礎に、おなじみの5カ年計画によって機械化と肥料使用を進めるという、ソ連方式での生産拡大計画について説明した。
▽鄧小平はこうした正統的な考え方の一切を退けた。彼によれば、人民は自ら生産したものに対し、報酬を与えられるべきなのだった。重工業より消費物資の生産が優先されなければならず、共産党は指図することを減らし、政府の権限は分散させられなければならないのだった。
▽それからほどなく、華国鋒が指導部から姿を消した。その後、10年間にわたって、鄧小平は、語った通りを実践した。
▽彼の戦術の要点は、毛沢東の存命中はほとんど表面に出ることのなかった「実事求是」「理論と実践の統一」の考え方を「毛沢東思想の基本原則」にまで高めることだった。毛沢東は少なくとも60年代半ば以降、国内問題で実利性を強調したことはない。
鄧小平は、巧みなやり方で、毛沢東の一部を否定していった。
▽鄧小平は「70%は正しく、30%は誤り」とした毛沢東のスターリン評価を持ち出し、毛沢東に対してもこの「70-30」評価が妥当だとの考えを示唆した(これが程なく中国共産党の公式の毛沢東評価となり、それは今も変わらない)。こうすることで鄧小平は、毛沢東が自らの後継者に指名した華国鋒を非難することができた。
鄧小平は人民の創造性を解き放った。
▽毛沢東は、彼の個人的なビジョンで苦しむ人民の耐久力を当てに、統治した。鄧小平は、彼の将来ビジョンを実現してくれるであろう人民の創造性を解き放つことで、統治した。
▽毛沢東は意志の力とイデオロギー的純粋さで障碍を乗り越えるという、中国「大衆」の力に神秘的な信頼を寄せることで、経済発展を成し遂げようとした。鄧小平は、中国の貧困と、先進世界との生活水準の巨大な格差を直視する。鄧小平は「貧困は社会主義ではない」と宣言し、中国は欠点を是正するため、外国からの技術、専門家の助言、資本を必要とすると訴えた。
鄧小平は78年12月の中国共産党11期3中全総で再び復権。この会議で、鄧小平のその後のあらゆる政策を特徴づけることになる「改革開放」のスローガンが採択されたのだった。
▽鄧小平は会議の閉幕に当たって重要講話を行い「思想を解放し、実事求是で、前に向かって一致団結しよう」と宣言。毛沢東が文字通り、人生のあらゆる問題について解答を与えた10年間が終わった。鄧小平はイデオロギー的な締め付けを緩和し、「自分で物事を考える」態度を奨励することが必要だと強調した。
▽80年に、鄧小平の地位の上昇は完成した。鄧小平の大規模な改革は達成の過程でかなりの社会的、政治的緊張を生み、89年には天安門事件となって爆発したのだった。
鄧小平は、外国訪問でも率直な姿勢を貫いた。
▽毛沢東はまるで皇帝のように外国指導者を招いたが、鄧小平のやり方は違った。彼は東南アジア、米国、日本を歴訪し、大変に目立ち、率直で、時として非常に慌ただしい、独自の外交を展開した。
▽78年と79年に鄧小平が行った一連の外遊は、革命的な挑戦者という、それまでの海外における中国のイメージを変えた。鄧小平は歴訪中、先進国と比べた中国の後進性を指摘し、先進工業国から技術と専門知識を得たいとの望みを強調した。
▽鄧小平が外遊したこと、および、その外遊で彼が繰り返し中国の貧困に言及したことは、中国政治の伝統からの衝撃的な決別だった。それまで、中国指導者の外遊は珍しかった(天下を統べるという中国の伝統的概念からすれば、彼らに訪問すべき「外国」など、もちろんなかった)。中国の後進性と、海外から学ぶことの必要性を開けっぴろげに強調する鄧小平の姿勢は、中国の皇帝や官僚が外国人と接する時の超然たる態度とは、際立った対照をなしていた。
鄧小平は、日本に対してもへりくだった態度を見せ、実利を取った。
▽鄧小平の歴訪は日本から始まった。日中平和友好条約の批准書交換セレモニー出席が目的だった。鄧小平の戦略構想では、ソ連、ベトナムを孤立させるうえで日本の協力を得るためには、正常化だけではなく、和解が必要だった。
▽この目的のため、鄧小平は半世紀にわたって日本が中国に与えた苦しみについて、問題を決着させる用意があった。彼は元気いっぱいに振る舞い、「私の心は喜びでいっぱいだ」と宣言し、日本側の会談相手を抱きしめさえした。
▽鄧小平は中国の経済的な後進性を隠そうとはしなかった。来客のサイン帳に署名を求められ、彼は日本の達成を評価する前代未聞の言葉を記した。「われわれは、偉大で、勤勉で、勇敢で、知的な日本の人々を尊敬し、彼らから学んでいる」。
鄧小平は、引き際もきれいだった。
▽鄧小平は90年代初めから、重要な役職から徐々に身を引き始めた。近代中国で、自ら身を引いた指導者は彼が初めてだった。89年12月、スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)は鄧小平が謁見した最後の外国高官となった。以来、公式行事に出席せず、世捨て人となって97年に死去した。
こうしてみると、北朝鮮の指導者との違いが際立つ。北朝鮮が「先代の遺訓」を金科玉条とし、自尊心にこだわるのも、やはり、「自主」を「生命」とすることの表れなのだろうか。
キッシンジャー氏は中国と北朝鮮の関係について、次のような分析もしている。
▽中国は1961年に北朝鮮と友好協力相互援助条約を結んだ。その条文には、外部からの攻撃に対する相互防衛の条項が含まれていて、現在も有効である。しかし中国の歴史からみれば当然ながら、その条項は朝貢関係という意味合いを持っていた。北京は北朝鮮に保護を提供し、北朝鮮と相互に依存するという関係ではなかった。
▽中国は、北朝鮮の核開発計画の最初の10年間、米朝間で解決すべきという姿勢をとっていた。北朝鮮は主に米国から脅威を感じているので、核兵器の代わりとなる、必要な安心感を北朝鮮に与えるのは、米国の責任というのが中国の考えだった。だが、時間が経つにつれ、北朝鮮への核拡散はいずれ中国の安全保障にも影響を与えることが明白になってきた。
▽もし北朝鮮が核保有国として受け入れられれば、日本や韓国だけでなく、ベトナムやインドネシアなどのアジア諸国までもが最終的に核クラブ入りし、アジアの戦略的展開が様変わりすることになる。
▽中国の指導者は、そのような結末に反対している。同様に、中国は北朝鮮の壊滅的な崩壊も危惧している。なぜなら、そうなれば60年前に中国が阻止しようとして(朝鮮戦争を)戦ったのとまったく同じ状況が、国境地帯に再現される可能性があるからだ。
キッシンジャー氏は北朝鮮の核問題をめぐる今の状況を、こう分析しているというわけである。
0 件のコメント:
コメントを投稿