2021年9月17日金曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑦/捏造の「歴史」を注入

日本は植民地朝鮮の子どもたちに学校で何を教えていたのか。「修身科」と並び「皇国臣民」化教育の重要な教材の一つだった「歴史」教科書はどのようなものだったのか。 

東京の「あゆみ出版」が1985年に刊行した復刻版『朝鮮総督府編纂教科書』(全66巻)の中から朝鮮人児童用の『普通学校国史』(上、下巻2冊)を取り出してみる。1922年(大正11年)の朝鮮教育令(第2次)の下、朝鮮総督府が普通学校用に初めて作った歴史教科書だった。それまで普通学校の教科に「歴史」はなかった。 

めくってみると、上、下巻とも巻頭に歴代天皇の名と「皇紀」で示された在位期間が列記されている。目次は天照大神、神武天皇に始まり、天皇の名が頻出する。ところどころに「新羅統一」や「朝鮮の太祖」といった朝鮮に関する項目もある。 

皇国史観

内容はどうだったのか。戦後、朝鮮史研究をリードした歴史家、旗田巍さん(190894)が次のような分析をおこなっていた。

『普通学校国史』は日本人児童用の国定『尋常小学国史』の全文を収録し、それに若干の朝鮮史に関する教材を加えていた。そこでは朝鮮は古くから外国の属国になり、自立できない国なので天皇の恩沢によって忠良な日本臣民として生きるべきだと説いた。

登場してくる天皇はみな英明で国を憂い国民をいつくしむ君主だ。天皇を中心に日本の歴史を考え、天皇の盛徳と天皇への国民の忠誠が日本の歴史を発展させる原動力だとする皇国史観であり、それを日本人児童同様、朝鮮人児童にも注入した。 

神功皇后の「三韓征伐」

皇国史観は対外侵略を「国威の発揚」として美化した。一例として、神功皇后を見る。古事記や日本書紀に登場し、神のお告げで朝鮮を攻めて「三韓征伐」をしたとされる人物だ。明治政府発行の肖像入り紙幣に第1号の人物として採用されてもいた。 

普通学校国史は朝鮮半島の地図と挿絵入りで、次のようなことを書いている。

『普通学校国史』に載った神功皇后の挿絵=復刻版より

 

 ▼仲哀天皇の皇后、神功皇后は天皇と共に熊襲の平定で九州に行ったが、途中で天皇が亡くなった。そのころ、朝鮮には新羅・百済・高麗[高句麗]の「三韓」があり、新羅の勢いが最も強かった。

 皇后は新羅を従えれば熊襲は自ずと治まると考え、兵を率いて新羅を討った。紀元860年[西暦200年]のことだった。皇后は出発前、海水で髪を男のように結い、軍船を連ねて新羅に押し寄せた。

 新羅王は大いに恐れ、「東の方角に神国があり、天皇というすぐれた君主がいると聞く。これは日本の神兵に違いない。どうして防ぎ得ようか」と直ちに降参し、「毎年の貢ぎ物は怠らない」と誓った。やがて、百済と高麗も日本に従った。

 こうして朝鮮は天皇の徳になびき、熊襲も治まった。次の応神天皇の代に王仁という学者が百済から来て学問を伝えるなど、日本がますます開けていったのは神功皇后の手柄によるものであった。 

卑弥呼をモデルに歴史捏造

この物語は史実に反し、日本側で勝手に作り上げた虚構であった。東京大学の小島毅教授(1962年生まれ)は著書で、「神功皇后は卑弥呼をモデルに造形された。隣国をひれ伏させたとすることで、記紀が編纂された7世紀後半の国際情勢のなかで、ずっと昔から日本が韓国(当時は新羅)より上位にあるのだという歴史を捏造した」と、次のように指摘する。  

 ▼中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」は、西暦239年、倭の邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝とよしみを通じたことを記述している。日本書紀の編集者たちはそのことを知っており、中国の史書を無視することはできなかった。

 ▼そこで、卑弥呼と神功皇后の合体が行われた。神功皇后伝承自体、卑弥呼をモデルに創造されたのかもしれない。日本書紀には、中国の史書と一致させようとする努力がうかがえる。日本書紀と三国志を比較すると、神功皇后と卑弥呼は時代が重なる。

 ▼日本書紀は無理につじつまを合わせようとし、実際には二代にわたった邪馬台国の女王の治世を神功皇后一代の話にしている。結果、神功皇后の息子の応神天皇は母親の摂政によって70歳まで即位できず、神功皇后も100歳で亡くなったことになっている。 

小島教授は、この「三韓征伐」は、明治初年の「征韓論」にも影響を与えた、と次のように指摘する。

「『征』という字は、上に立つ者が下の者の間違った行為を懲らしめる、という意味を持っている。しかも当時、この隣国の正式な国名は『朝鮮』であり、『韓』ではなかった。それなのに『征朝』でなく『征韓』なのは、明治政府が神功皇后の三韓征伐を意識していたからだろう」 

朝鮮を見下げた記述

朝鮮を見下げた記述は神功皇后だけではなかった。豊臣秀吉についても「皇室を尊び人民を安んじ、外征の軍を起こして国威を海外にかがやかした」などとしている。征韓論や日清・日露戦争、韓国併合も美化している。旗田魏さんは次のように書いている。 

「注目すべきは、これらの侵略が主として朝鮮を対象に行われたことである。こういう教科書を読まされた朝鮮人児童は一体どんな気持ちがしたであろうか。当時の普通学校に通ったある朝鮮人の話によると、一番嫌いな授業は歴史の授業だったというが、当然のことと思う。しかし日本は、朝鮮人の気持ちを無視して、こういう教科書を強引に押しつけたのである」 

皇国史観を注入する教育は1938年の朝鮮教育令改正(第三次)でいちだんと強化された。盧泰愚さんらはそんな中で、天皇に忠義を尽くす「大日本帝国臣民」たるべく、東方遥拝や神社参拝を強いられ、「皇国臣民の誓詞」を唱えさせられていたのである。 

癒えない歴史の傷痕

植民地朝鮮が日本の支配から解放されて76年になる。この間、韓国側から発せられた天皇をめぐる発言がしばしば日韓関係を揺さぶってきた。 

20128月、時の李明博大統領(1941年生まれ)が日本と領有権を争う日本海の竹島(韓国名・独島)に突然、上陸して物議をかもした。慰安婦問題をめぐる日本政府への反発が直接の引き金だったとみられたが、そのさい、「天皇が訪韓したいのなら、独立運動で亡くなった人を訪ねて謝罪すればいい」と息まき、波紋を広げた。 

20192月、韓国の文喜相・国会議長(当時、1945年生まれ)は慰安婦問題に絡み、米ブルームバーグ通信のインタビューに次のように答えたと報じられた。

「(謝罪は)一言でいいのだ。日本を代表する首相か、間もなく退位される天皇[現上皇]が望ましいと思う。その方(天皇)は戦争犯罪に関わった主犯の息子ではないですか。(被害者の)おばあさんの手を握り、申し訳なかったと一言いえば、問題は解決する」 

安倍首相(当時)ら日本側が激しく抗議すると、文議長は「なぜ、このように大きな問題になるのか、到底理解できない。被害者から『許す』という言葉が出るまで謝罪しろということだ」「謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事か。盗人猛々しい」と猛反発したのだった。 

歴史の傷痕は深く、いぜんとして十分に癒されていないようにみえる。(つづく)

          立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清 

*参考文献

旗田巍「朝鮮人児童に対する朝鮮総督府の歴史教育――第二次朝鮮教育令下の歴史教科書」旗田魏監修『日本は朝鮮で何を教えたか』あゆみ出版、1987

中塚明『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研、2002

小島毅『父が子に語る日本史』ちくま文庫、2019

小島毅『父が子に語る近現代史』ちくま文庫、2019

 

2021年9月13日月曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑥/「皇国臣民」化と差別化の教育

 「中国の異民族同化政策に既視感」

昨年10月、朝日新聞のオピニオン面「声」欄に載った見出しである。中国の新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区に住む人たちに対する当局の締めつけは、戦前の日本の朝鮮半島統治とダブって見えるというのである。

「無職 安藤勝志(静岡県 78)」とある投稿者は次のようなことを書いていた。 

 ▼1910年の韓国併合後、日本は皇民化政策として日本語教育や国家神道による神社参拝を強制。朝鮮民族の抵抗を強大な軍事力で弾圧した。

 言語や宗教の弾圧は朝鮮半島の民衆のトラウマとなり、その感情は今日も事あるごとに反日的行動として噴出していると感じる。

 異民族の言語や宗教の自由を奪うことは基本的人権の侵害だ。国家の行うべきことではない。中国は異民族の文化や宗教を尊重すべきた。 

植民地朝鮮で日本がおこなった同化政策、皇民化政策はどんなものであったのか。 

小学校と普通学校

教育が大きな柱であったことはいうまでもない。併合翌年1911年に出された朝鮮教育令(第1次)は次のような内容を盛り込んでいた。

教育勅語の趣旨に基づき忠良な臣民を育成する。

 時勢と民度に合わせるように(教育を)おこなう。 

朝鮮人にも日本人同様、教育勅語に沿った「皇民化教育」をおこなうとする一方で、差別化もするというのだった。後者について初等教育でいえば、朝鮮に住む日本人子弟は内地(日本本土)同様、文部省の国定教科書を使って6年制の「小学校」で学んだのに対し、朝鮮人子弟は修業年限4年の「普通学校」で、朝鮮総督府の教科書を用いた。 

普通学校に行く朝鮮人は多くなかった。学校自体少なかったうえに、民衆の間で「普通学校に入れると、男の子は鉄砲の弾除けにされ、女の子は売春婦にされる」と警戒されたりもしたようだ。 

「一視同仁」

1919年、朝鮮で憲兵警察による武断政治に反発して「31独立運動」が起きた。日本は軍隊を出動させて鎮圧。この年819日に出された天皇の詔書は次のようなものだった。

「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し、其の民衆を愛撫すること一視同仁、朕が臣民として秋毫の差異あることなく、各其の生に聊し、均しく休明の沢を享けしめんことを期せり」

分かりやすく砕くと、次のようになるだろう。 

私はずっと朝鮮が平穏無事であることを願ってきた。朝鮮の民衆をいっさい差別することなく愛しており、私の臣民であることに少しの違いもない。各人が安心して暮らすことができ、ひとしく私(天皇)の徳を享受できるように、と心に誓っている。 

同じ日、首相の原敬は声明で次のように説いた。

朝鮮は日本の版図であって属邦ではない。植民地ではなく日本の延長にある。

 日本語を強要

31運動」後、統治方式は「文化政治」に切りかわり、「東亜日報」など朝鮮語の新聞が許可された。22年の朝鮮教育令(第2次)で制度上、普通学校の修業年限が日本人小学校と同じく6年になり、24年には京城帝国大学が開校した。 

しかし、普通学校の場合、実際には4年制のままのところが多く、朝鮮語より「国語(日本語)」の比重が高まった。教師が授業で使う言語も朝鮮語の時間のほかは日本語となった。東京大教授の矢内原忠雄(その後、東大教授を追われ、戦後東大総長)は26年に出した『植民及植民政策』の中で次のように書いた。 

私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人教師が朝鮮人児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するのを見、心中涙を禁じ得なかった。 

普通学校で入学試験

この時期、朝鮮人の間で教育要求が高まった。朝鮮人の私立学校が抑圧される一方で、総督府の学校も足りなかった。結果、普通学校で入学試験が行われ、志願者の半数以上がふるい落とされた。 

京城帝大も朝鮮人にはハードルが高かった。入試では日本の古典など日本人に有利な出題がなされ、初年度24年春に予科に入学できた朝鮮人学生は定員180人中44人だけだった。

     ソウルの孝昌公園に建てられた李奉昌像。1932年、東京の桜田門外で天皇の馬車に手榴弾を投げつけ、韓国で「義士」とたたえられる=筆者写す


19383月、朝鮮教育令改正(第3次)。翌4月に国家総動員法の公布を控え、「内鮮一体」の総動員態勢に備えた制度改変だった。普通学校を小学校と名称変更するなど日本との一体化を名目に学校などでの朝鮮語の使用が禁止されていった。 

■金時鐘さんの回想

1929年生まれ、いま奈良県に住む在日詩人、金時鐘さん(93)は済州島の普通学校でのことを次のように回想している。

はやく立派な日本人になって、天皇陛下の良い赤子になることが何よりも大事なことだと毎日諭されていましたから、朝鮮語の授業はまったくもって余計な勉強だったのでした。そのような状態のなかで朝鮮語の授業は「支那事変」[1937年からの日中戦争]が始まった年の二学年いっぱいでなくなりましたが、それまででも朝鮮語の授業は、何かと別の課目になりがちな時間でした。(『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』岩波新書)

五木寛之さんの回想

そんな時代に盧泰愚さんは農村部で少年期を過ごした。そこでの朝鮮の少年たちにあって「日本」はどういうものであったのか。盧さんと同年1932年の生まれで、韓国の農村部で少年期を過ごした作家の五木寛之さん(88)の回想は当時の空気を伝えてくれている。 

五木さんの両親は朝鮮で教職だった。物心ついた時から朝鮮にいて学齢期に達する少し前、辺鄙な村に引っ越した。父親がそこの普通学校の校長に赴任することになったのだった。 

 恐ろしいほどの寒村だった。私の家の家族を別にすると、日本人は村の駐在所の巡査夫婦だけだった。……そこでは日本語を使う朝鮮人はほとんどいませんでした。

もちろん、周りに一緒に遊べる日本人の子どもなどもいない。その代わりに、地元の子どもたちがよく遊びにきました。彼らは、私がもっている漫画の本を見せてほしい、とせがむわけです。それで、少し優越感をもって見せてやったりする。……

私が使うのは日本語だけです。一方、彼らのほうは日本語をほとんど使わない。日本語を強制されてはいても、日本人がほとんど誰もいないのですから、当然、彼ら同士はいつも朝鮮語で話しているわけです。

しかし、一緒に遊んでいるうちに、私もほうも朝鮮語を片言で少しはおぼえますし、向こうも日本語を教えられているので、片言の日本語はわかります。コミュニケーションはさほど問題なかったような気がします。(『運命の足音』幻冬舎文庫) 

徴兵・徴用で義務教育を計画

朝鮮人の就学率は全般的に低かった。総督府の内部文書は朝鮮人学齢児童の就学率について、191117▽22102▽37308▽42545――などと記している。ちなみに日本国内のそれは1910年の時点で98%に達していた。 

戦時総動員体制下、39年から日本内地への朝鮮人労務動員が本格化し、44年には強制徴用となった。軍事的動員も38年以降まず志願兵募集の形で始まり、44年からは朝鮮人にも徴兵制度が適用された。 

4212月、総督府は朝鮮でも46年から義務教育を実施すると発表した。その時点における朝鮮人の日本語理解率は2割程度とみられていた。日本語が分からない、皇国臣民化教育のなされていない朝鮮人を、たとえば軍隊に連れて行ったら、どういうことになるか―― 

日本は太平洋戦争に突入したこの時期に至り、徴兵、徴用の面から朝鮮人の義務教育化に踏み切ろうとしたのだった。それが実施に移される前の458月、日本の敗戦によって朝鮮は解放された。(つづく)

            立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清 

*参考文献

旗田巍「日本人の朝鮮観」『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮 第3巻』勁草書房、1966

佐野通夫『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』社会評論社、2006

旗田巍監修『日本は朝鮮で何を教えたか』あゆみ出版、1987

姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』朝日文庫、1992

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』ちくま文庫、2015

木宮正史『日韓関係史』岩波新書、2021

2021年9月8日水曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代⑤/「二宮金次郎は尊敬されていますか」

戦前、理想的な人間像として「文部省唱歌」に歌われた二宮金次郎(本名・尊徳)は、その時代、「筆頭の教科」とされた「修身科」の教科書に登場する代表的な人物だった。どんなふうに教えられたのか。

一粒のコメ

大戦期の1942年、国民学校で使われた文部省発行の『初等科修身 一』(3年生対象)を見てみる。当時の状況から考えて、盧泰愚少年が使った朝鮮総督府の教科書もこれと同一か、ほぼ同じ内容だったはずである。二宮金次郎は「一つぶの米」という題で取り上げられ、以下のような内容が盛られていた。 

「一つぶの米」の挿絵 1942年文部省発行の『初等科修身一』

 ▼14歳のときに父を亡くした金次郎は、母を助けて小さな弟たちの世話をし、家のために働いたが、間もなく母も亡くなった。金次郎の兄弟は別れ別れになってよその家にもらわれていき、金次郎はおじの世話になる。

 ▼おじの家で金次郎は昼は田畑を耕し、夜は縄をなったりわらじを作ったりした。悲しいこと、つらいことがあっても辛抱した。「家をおこし、国を盛んにするには心を緩めずに働かなければならない」と考えたからだ。 

 ▼金次郎は川端の荒れ地を開いて菜種をまいた。翌春、一面に美しい花が咲き、菜種がたくさん取れた。金次郎は油屋に頼んでそれを油に代えてもらい、夜の仕事が済むと、その油で火をともし、本を読んだ。

 ▼大水が出たことがあった。金次郎は荒らされたところをよく耕し、捨てられた稲の苗を集めてそこに植えた。秋、それがよく実って一俵の米が取れた。「一粒の米でも育てていけば、たくさんの米になる。土地も手入れをすれば立派な田になる。怠けると荒れてしまう」。そう考えて金次郎はいっそう精を出して働いた。

■忍耐、勤勉、倹約、努力……

内村鑑三(18611930年)が明治末年に英語で書いた名著『代表的日本人』でこの人物を取り上げている。鈴木範久訳の岩波文庫でかいつまむと、次のようだ。

二宮尊徳 『代表的日本人』の表紙より

 

江戸後期の1787年、相模の貧しい農家に生まれた。早くに両親を亡くし、伯父のもと、昼は働き、夜も勉強に励んだ。……数年後、生家に戻り、斜面や沼地を次々と切り拓く。やがて、かなりの資産を持つようになり、倹約家、勤勉家と仰がれる。請われて藩主の領地や全国各地の荒廃した村々を救い、最晩年は徳川幕府にも用いられた。 

 

ここでは、忍耐、勤勉、倹約、努力、信念、仁愛、自助、自尊、誠意、道徳、実直といった言葉があふれ、尊徳をめぐるエピソードの数々が具体的に紹介される。一例をとれば、次のようである。 

 村人の信頼を失った名主が尊徳に知恵を借りに来た。

 答えは簡単だった。

「自分可愛さが強すぎる。村人に感化をおよぼそうとするなら、自分のもの一切を村人に与えるしかない。全財産を売って村の財産にし、すべてを村人に捧げるがよい」

名主は、犠牲が大きすぎると言ってきた。

尊徳は言った。

「よもや自分の家族が飢えるのを心配しているのではあるまい。あなたが役目を果たしているのに、相談役の私が役目を果たさないとでも思うのか」

名主は教えどおりに実行した。彼の影響力と声望はただちに回復した。一時の不足分は尊徳が自分の貯えから調達した。まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、名主は以前にもまして裕福になった。

 

■「施政者に都合のいい人物」

二宮尊徳は植民地朝鮮でも、とくに1930年代の「農村振興運動」で、勤倹の模範として農村青年に浸透がはかられた。 

この人物をいま、どう見るべきか。人によって評価はさまざまだろう。尊徳が発揮した勤勉、努力、誠意といった価値は尊い。社会のために尽くそうという精神も見習いたい。私自身、そう思う。しかし、それはやはり個々人の問題だろう。国家が強制したり教科書で教えて子らの評価につなげたり、という問題ではない。 

あの時代、個人の尊厳を無視し、国家中心の特定の価値観で染め上げた全体主義が、とんでもない方向に突き進んだ。その反省から戦後の日本国憲法は「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)とうたいあげたのである。 

二宮尊徳が教科書に主流人物として登場してきたのは明治中期以降だった。それについて中村紀久二『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで 』(岩波新書)は、次のような指摘をしている。 

明治政府が尊徳を尊重したのは、百姓一揆の方法をとらず、決して政治を口にせず、農民自身の勤勉と倹約によって、農村の矛盾を解決した点である(奈良本辰也『二宮尊徳』岩波新書)。勤勉と倹約を強調して農民の生き方を教える尊徳の態度は、いずれの時代の施政者にとってもまことにつごうのよい人物であった。 

二宮金次郎の復活

そんな二宮尊徳が今また、教科書に復活してきた。2006年、第一次安倍政権で教育基本法の抜本改正がなされ、15年の学校教育法施行規則の改正で「道徳」が「特別の教科」に格上げされた。これを受けて18年から小学校、19年から中学校で検定教科書が用いられるようになり、そこに金次郎が登場してきた。従来の「道徳の時間」にはなかった子らの学習成果についての評価も行われている。 

どんな内容なのか。例えば、教育出版の小学4年生用『小学道徳4 はばたこう明日へ』は「勤労、公共の精神」の「徳目」と関連して「二宮金次郎の働き」と題する文章が載せられている。概略、次のようだ。 

金次郎は200年ほど前、いまの小田原市の農家に生まれた。幼いころ、台風の洪水被害で一家の暮らしが苦しくなった。金次郎は懸命に働く両親を助けて朝は山へ薪とりに行き、昼は田畑で働き、夜はわらじをつくり、その合間に勉学にも励んだ。

 大人になった金次郎は桜町という地域の人々の暮らしを立て直す仕事を頼まれた。金次郎は家々を一軒ずつ訪ね歩いて人々の暮らしぶりを調べ、みんなで働くことのすばらしさを説いた。 

 しかし金次郎のやり方に不満を言う人も少なくなく、思うように進まない。金次郎は一時あきらめかけたが、人々を救うことを第一に考え、10年をかけて人々と田畑や用水を整える仕事を進め、人々の暮らしを豊かにしていった。

 その後も金次郎は600以上もの村の立て直しに尽力した。「一生懸命働いて周りの人や世の中の役に立つこと」。これが金次郎の大切にしていた考えであり、いまでも多くの人々が、金次郎の功績から働くことのすばらしさを学んでいる。 

ここには戦前の修身科の教科書の「家をおこし、国を盛んにする」といった言いようはさすがにない。しかしこれは、たとえば特定の価値観の押し付けにつながっていくことにはならない、と言い切れるのかどうか。 

前川喜平さんの警告

「特別の教科・道徳」について文部科学省は「学習指導要領解説」のなかで、特定の価値観の押し付けなどを強く否定。「答えが一つでない道徳的な課題を一人ひとりが自分の問題として捉え、『考える道徳』『議論する道徳』へと転換をはかる」と説明しているようだ。 

児童の評価も数値によるものでなく、一人ひとりがどれだけ成長したかを記述式で評価するのだという。本当に大丈夫なのかどうか。 

これについて例えば、元文部科学事務次官の前川喜平さん(66)は次のような警告を発している。 

学習指導要領に列挙されている徳目を見ると、個人の尊厳や自由の価値にはほとんど触れていない。重視されているのは「我慢する」「わがままを言わない」「自己抑制・自己犠牲を厭わない」「国を愛する」「日本人としての自覚を持つ」「法やきまりを守る」「父母・祖父母、祖先を敬う」といった徳目ばかりだ。

個人や自由の価値には触れず、自己抑制や自己犠牲を美化し、国家や全体への奉仕を強調する道徳は、国家主義、全体主義へと子どもたちの精神を追い込むものになるだろう。 

前川さんは、目指しているのは戦前の教育勅語の復活だ、と警戒している。 

重かった盧泰愚さんの問いかけ

「二宮金次郎はいまも尊敬されていますか」

30余年前、盧泰愚さんが私たち日本人記者団に発した、こんな問いかけは、当時、私が考えていたより、ずっと重かったのである。(つづく)

           立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

*参考文献

前川喜平「我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ/教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる」東洋経済ONLINE2019126日 https://toyokeizai.net/articles/-/260699?page=4

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

二宮尊徳(児玉幸多訳)『二宮翁夜話』中公クラシックス、2012

2021年9月4日土曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代④/日本の支配が遺したもの

日本の植民地時代に日本人教師の教えを受けた世代には解放後も、旧師への敬愛の念を語る韓国人は少なくない。私自身、新聞記者として7年ほど韓国に滞在していた間、そんな人に何人も会った。大統領になった人の場合も、日本人旧師を慕ったのは盧泰愚さんだけではなかった。

「生涯、教えを胸に刻んだ」

朝鮮半島の南北和解や韓国の民主化に貢献し、ノーベル平和賞を受けた金大中さん(19242009年/大統領在任19982003年)は、その「自伝」で何人かの日本人教師について書いているが、好印象を持った先生が多かったようだ。とくに木浦商業学校3年生(1941年)のときの担任には大きな感化を受けた、と次のような述懐をしている。

青瓦台HP 小渕首相と握手する金大中大統領(1998年)
野口甚六という先生だった。「原則は確固と守るべきだ」と教えられた。それでいて、実際において柔軟でなければ勝利者にはなれない、とも諭された。感受性の強い青年期の私は大きな感銘を受け、生涯その教えを胸に刻んだ。原則を守りながらも、方法において柔軟な「実事求是」(金大中さんは「座右の銘」と語っていた――筆者注)の生き方をその時に学んだ。

「教頭先生はすばらしい、立派な方だった」

やはり韓国の民主化運動をリードした、金大中さんの前任の大統領金泳三さん(19272015年/在任1993年~98年)も植民地時代末期の中学校時代のことについて、朝日新聞の箱田哲也ソウル支局長(当時)のインタビューに次のように語っていた。

青瓦台HP 細川首相と握手する金泳三大統領(1993年)

「キタジマという校長がいて、朝礼で30分話すうち25分が韓国の悪口。本当に悪い人だった。一方でワタナベという教頭先生は本当にすばらしい人で、韓国人、日本人をまったく区別しない立派な人でした」

「私が国会議員になった時、ワタナベ先生を韓国に招きました。当時最も立派だったホテルを用意した。……先生は感激して泣いてくれて、亡くなられた後は、大阪に住むご家族を大統領府に招待しました」(2010127日付朝日新聞オピニオン面)

金泳三さんが渡辺巽先生を韓国に招いたのは日韓正常化前の1955年のことだった。韓国を訪れる日本人はほとんどいなかった、そんな時代に金泳三さんは2週間にわたりこの旧師をソウル、慶州、統営などに案内した。

■曲解?

朝鮮人の民族性抹殺を意味した「皇国臣民化」教育。盧泰愚さんに限らず、のちに大統領となった少年たちは辛い体験も記憶していた。金大中さんは「自伝」の中で、次のようなことを書いている。

学校では日本語だけしか使えなかった。そんなある日、父が学校に来た。運動場に立っていた父のそばへ行ったが、(父は日本語ができなかったので)話すことができなかった。父も何も言わなかった。私は小さい声で言った。「お父さん、帰りましょう。家で話してください」。朝鮮人が朝鮮語をしゃべれないとは、考えれば、考えるほど、息の詰まる世の中だった。父は家に帰っても何も言わなかった。

それでいて、口々に語る旧師への思慕の念。国と国が支配被支配の関係にあったとはいえ、民衆レベルの人と人の関係はそれを超越しうるということなのだろうか。盧泰愚さんは『回顧録』のなかで、「真からの人間愛は国境を越える」と書いている。

しかし、長い歴史と伝統のある他国を支配し、言葉も名前も奪うという正気の沙汰とも思えぬ同化政策がそれによって免罪符を与えられるということにはならないだろう。韓国より長い期間、同様の同化政策を強いられた台湾の政治活動家、黄昭堂さん(19322011年)はその著書『台湾総督府』(ちくま学芸文庫)で、次のように指摘している。

 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。

〽手本は二宮金次郎

日本の朝鮮植民地支配は解放後も韓国に深い傷痕を残した。日本が抹殺しようとした民族のアイデンティティーをどう取り戻すか。それが最も深刻な問題の一つだった。それは今も、「日帝の残滓」という言い方で、しばしば俎上にあがる。

その深刻さを私に気づかせてくれた一冊に、柳周鉉著、朴容九訳の『小説 朝鮮総督府』がある。1967年に韓国で出版されて反響を呼び、翌68年、講談社から翻訳出版された上中下3巻本である。

タイトル通り、朝鮮総督府に焦点を当て、日本の統治実態に切り込んでいる。寺内正毅、斎藤実、宇垣一成、南次郎といった歴代総督や総督府高官、抵抗運動をする朝鮮人らを実名で登場させ、数々の歴史資料や記録を駆使してドキュメンタリー風に書いている。

ラストシーンが強く印象に残った。1945816日、つまり日本の敗戦で韓国が解放された、その翌日のソウルの街角の情景を描いている。以下の通りだ。

『小説 朝鮮総督府』

終日、うきうきした気持ちで街をさまよって、日暮れどきになってやっとわが家のある嘉会洞の路地へ踏み入った。

子どもたちが遊んでいた。

六、七歳の幼い女の子たちが<オジャミ>と呼ぶ日本式のお手玉遊びをしている。布でこしらえた四つの小豆の小袋を両手でかわるがわる打ち上げながら、首をコックリコックリやりながら、歌をうたっている。

   柴刈り縄ない、わらじをつくり

   親の手を助け仕事を励み(ママ)

   兄弟なかよく、孝行つくす

   手本は、二宮金次郎……

心ない子どもたちの歌をききながら尹貞悳は溜息をついた。

日本人の二宮金次郎でなければこのくにの幼い者たちが手本にする人物はいないというのであろうか。ほんとうに幼い者たちの手本になる人物がこのくににはいないのだろうか。

――方向感覚を失ったわれらの幼い蕾たちよ。

尹貞悳の目からは、なぜか涙があふれて流れ落ちた。…

ここに登場する尹貞悳なる人物はこの小説で狂言回しの役目を担わせている女性で、この816日朝、全国で一斉に解き放たれた政治思想犯の一人としてソウルの西大門刑務所から出てきたばかりという設定である。

文部省唱歌だった「二宮金次郎の歌」は、私も幼いころに聞いた記憶がある。やはり、近所の女の子たちが「オジャミ」をしながら歌っていたと思う。

 引きずる「日帝の残滓」

『小説 朝鮮総督府』の作者柳周鉉氏(192182年)は京畿道驪州生まれ。早稲田大学で学び、解放前年に帰国、24歳で解放の日を迎えていた。小説に描かれたソウルの街の情景はそのままその日の柳氏の心象風景であったのだろう。

 実際、「方向感覚を失った幼い蕾たち」は日本人が去った解放後も「日帝の残滓」を引きずった。言葉や習慣といった民族のアイデンティティーの回復(確立)はもとより、植民地期の近代化をめぐる論争、日本の植民地支配に抗い戦った人々と、日本に協力した(させられた)「親日派」といわれる人たちとの葛藤……。その後遺症は解放後76年たったいまも消えてはいないのである。(つづく)

            立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清 

*参考文献

金大中(波佐場清・康宗憲訳)『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ―民主化への道』岩波書店、2011年

小林慶二『金泳三―韓国現代史とともに歩む』原書房、1992年


2021年8月31日火曜日

日韓の深淵――盧泰愚さんの時代③/日本人老旧師との再会

日本統治下の国民学校で盧泰愚少年が慕い、深い感銘を受けた日本人教師は、佐藤彰先生といった。盧泰愚さんは『回顧録』で書く。

   ▽差別しなかった佐藤先生

学校は、校長はじめ半分ほどが日本人で、あとは韓国人の先生だったと思う。とくに記憶に残るのは佐藤彰という日本人の先生だ。

その方は他の先生と違い、民族差別をしなかった。「内鮮一体」のスローガンは宣伝用で、実際には韓国人と日本人の間に厳然たる差別があった。佐藤先生だけは、真から日本人と韓国人を区別せず、同じように接してくださった。

 ▽「森の石松」

佐藤先生は教え方が特別だった。分かりやすく、目標が達成できれば必ず賞を出してくれた。賞の中でも子供たちが一番喜んだのは先生から昔話を聞くことだった。

どれほど興味深く話されたものか。眠くなっていた時も話が始まると、目がパッチリと開いた。

アンデルセン童話をはじめ、いろいろな国の童話を聞かせてくれた。私は、そんな話に引き込まれた。5年生のとき、本を読む楽しさを知った。野山で木を切り、それを売ったお金で本を買ったりもした。いちばん最初に読んだ本として記憶に残るのは侠客、森の石松の物語だった。

 ■日韓の長い断絶

佐藤先生は盧泰愚少年が3年生のときの担任だった。ほどなく異動で他校に移り、日本は敗戦。解放された朝鮮半島は南北2つに分断され、朝鮮戦争を戦った。休戦後も混乱は続き、日本との関係は断たれた。1965年、戦後20年にして日本は南の韓国と国交を正常化したものの、人々の往来がほとんどない時代が長く続いた。

その間、盧泰愚少年は陸軍士官学校を出て軍人になり、政治家に転身。朴正煕、全斗煥と続いた韓国の軍事政権は民主化運動で終わりを告げ、新たな大統領直選制の選挙で盧泰愚さんは民主化後最初の大統領に選ばれた。

佐藤先生は1919年、福岡・大牟田市の生まれ。熊本の中学を出て朝鮮に渡り、京城師範学校を出て38年、慶尚北道の公山小学校(のちに国民学校)に赴任した。盧泰愚少年はこの年の春、同校に入学したのだった。

戦後、佐藤先生は日本に引き揚げ、岡山県で教員生活を続けた。78年、倉敷市の小学校校長を最後に退職。その後、地元で公民館長などをしていた。

■45年ぶりの再会

そんな師弟が45年の歳月を隔てて再会を果たすこととなった。盧泰愚さんが大統領になったすぐあとの88年春、ソウルの大統領官邸青瓦台に、この老旧師を夫人共ども招待したのである。韓国で先生に感謝する日として設けられている「教師の日」の翌日の516日のことだった。

文藝春秋に載った佐藤彰先生の手記

その時のことを『盧泰愚回顧録』は次のように書いている。

就任式の盧泰愚大統領=『盧泰愚回顧録』

  ▽「よかった義理と人情の教育」

昼食をとりながら2時間近く、ご一緒した。佐藤先生はしきりと感激の涙を流した。私は童心に返ったような思いだった。先生は姿こそ昔のままではなかったが、物言いはいつまでも教師であった。

私が「日帝時代の教育は悪い点もあったが、義理と人情を重視した教育はやはりよかったのだと思います」というと、先生は「不死鳥という鳥は火の中に身を投じ、自らを焼く苦痛を克服することで永遠に死なない鳥になるといいます。大統領にもそのような精神が必要だと思います」と諭してくれた。

 ■佐藤先生の回想

佐藤先生は帰国後、大統領との再会の日のことや昔日の盧泰愚少年について書いた手記を『文藝春秋』(19887月号)に載せた。ここで紹介した佐藤先生の生い立ちなどもその手記によっている。そこには、次のようなことが書かれている。

    再会

▼日本語で「せんせい」。それが45年ぶりに聞いた教え子の第一声だった。「大統領、おめでとう」と返すと、盧泰愚大統領は旧師の手を握り、そのまま抱きかかえた。佐藤さんは夢中で抱き返し、ただオイオイと泣いてしまった。

▼食事を囲みながら、通訳を通しての会話だった。大統領は昔のことをよく覚えていた。まず、「先生はいろいろな昔話をしてくれました。なかでも桃太郎と浦島太郎の話はよく覚えています」と切り出してきた。

  学校

公山国民学校は、児童1学年約60人、全校で400人近かった。教師は校長を含めぜんぶで6人で、日本人は校長と佐藤先生だけだった。

授業はもちろん、教科書も日本語。1940年の「創氏改名」で、朝鮮の人たちは日本式の姓を名乗らされた。盧泰愚さんも例外でなかった。そうした事情から、盧泰愚さんが大統領になっても、それが自分の教え子だということに、はじめのうちは気が付かなかった。

  盧泰愚少年

当時、小学校に進む児童は朝鮮人のなかではエリートだった。父親がいなかった盧少年の家庭環境からすれば、近くの簡易学校[手っ取り早く「文盲」をなくすために山村僻地に設立された2年制の学校]に通ってもよかった。5キロも6キロも離れた小学校に通えたのは余裕のある叔父の助けがあったからのようだった。

▼422月、「シンガポール陥落祝い」で学校にゴムボールとゴム靴が支給された。佐藤先生への割り当てはボール10個と靴10足。担当の60人以上の児童のうち、盧少年にだけ、両方をペアでやった。苦境に負けていないことへの褒美のつもりだった。

佐藤先生自身、結核を患った父のことで辛い思いをしていた。そんな自らの境遇を盧少年に重ね合わせ、特別な思いで見ていたようだ。

盧泰愚さんとの再会に際し、佐藤先生は記念品として2冊の本を用意した。「五・一五事件」で凶弾に倒れた首相犬養毅の生涯を記録した『犬養木堂伝』と、二宮尊徳について書いた『尊徳報恩記』だ。あらかじめ東京の韓国大使館から、大統領が尊敬する日本人はこの2人だと聞き出していたからだった。

佐藤先生は次のように書いている。

「二宮尊徳は私の影響かな、と思いました。公山小学校の校庭に尊徳の像をたててもらい、子どもたちに尊徳を尊敬すべしと説いたのは、若き日の私だったからです。犬養が標榜した政治は庶民の政治、大統領がめざす『普通の人』の政治の通じるところがあります」

「弾圧に手を貸していたのかも……

佐藤先生にとっては四十数年ぶりの韓国だった。盧泰愚少年らが学び、自らが教鞭をとった公山国民学校のあった公山に立ち寄ったときは三十数人もの教え子たちが集まり、歓迎してくれた。

佐藤先生は文藝春秋の手記で「教え子たちが自分の名前を言いながら抱きついてきたときには、韓国に来て本当によかったと涙が出た」と書いている。さらに次のようにも書いている。

「日本に帰ってきたいま、私はつくづく思います。私は確かに自分の信念を持って教えてきましたが、しかし正しいと思ってやったことも、実はときの日本政府の韓国人に対する弾圧に手を貸していたにすぎないのかもしれません」

「けれども、彼らはあくまでも優しく私たちを受け入れてくれました。韓国の人というのは、いわゆる恨みに恨みをもって返すような、そういうふうな精神構造を持たない、すばらしい国民じゃないかと思います」

 私たちは、このことをいま、どう受け止めたらいいのだろうか。(つづく)

立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清

参考文献

趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013