2021年9月4日土曜日

日韓の深淵―盧泰愚さんの時代④/日本の支配が遺したもの

日本の植民地時代に日本人教師の教えを受けた世代には解放後も、旧師への敬愛の念を語る韓国人は少なくない。私自身、新聞記者として7年ほど韓国に滞在していた間、そんな人に何人も会った。大統領になった人の場合も、日本人旧師を慕ったのは盧泰愚さんだけではなかった。

「生涯、教えを胸に刻んだ」

朝鮮半島の南北和解や韓国の民主化に貢献し、ノーベル平和賞を受けた金大中さん(19242009年/大統領在任19982003年)は、その「自伝」で何人かの日本人教師について書いているが、好印象を持った先生が多かったようだ。とくに木浦商業学校3年生(1941年)のときの担任には大きな感化を受けた、と次のような述懐をしている。

青瓦台HP 小渕首相と握手する金大中大統領(1998年)
野口甚六という先生だった。「原則は確固と守るべきだ」と教えられた。それでいて、実際において柔軟でなければ勝利者にはなれない、とも諭された。感受性の強い青年期の私は大きな感銘を受け、生涯その教えを胸に刻んだ。原則を守りながらも、方法において柔軟な「実事求是」(金大中さんは「座右の銘」と語っていた――筆者注)の生き方をその時に学んだ。

「教頭先生はすばらしい、立派な方だった」

やはり韓国の民主化運動をリードした、金大中さんの前任の大統領金泳三さん(19272015年/在任1993年~98年)も植民地時代末期の中学校時代のことについて、朝日新聞の箱田哲也ソウル支局長(当時)のインタビューに次のように語っていた。

青瓦台HP 細川首相と握手する金泳三大統領(1993年)

「キタジマという校長がいて、朝礼で30分話すうち25分が韓国の悪口。本当に悪い人だった。一方でワタナベという教頭先生は本当にすばらしい人で、韓国人、日本人をまったく区別しない立派な人でした」

「私が国会議員になった時、ワタナベ先生を韓国に招きました。当時最も立派だったホテルを用意した。……先生は感激して泣いてくれて、亡くなられた後は、大阪に住むご家族を大統領府に招待しました」(2010127日付朝日新聞オピニオン面)

金泳三さんが渡辺巽先生を韓国に招いたのは日韓正常化前の1955年のことだった。韓国を訪れる日本人はほとんどいなかった、そんな時代に金泳三さんは2週間にわたりこの旧師をソウル、慶州、統営などに案内した。

■曲解?

朝鮮人の民族性抹殺を意味した「皇国臣民化」教育。盧泰愚さんに限らず、のちに大統領となった少年たちは辛い体験も記憶していた。金大中さんは「自伝」の中で、次のようなことを書いている。

学校では日本語だけしか使えなかった。そんなある日、父が学校に来た。運動場に立っていた父のそばへ行ったが、(父は日本語ができなかったので)話すことができなかった。父も何も言わなかった。私は小さい声で言った。「お父さん、帰りましょう。家で話してください」。朝鮮人が朝鮮語をしゃべれないとは、考えれば、考えるほど、息の詰まる世の中だった。父は家に帰っても何も言わなかった。

それでいて、口々に語る旧師への思慕の念。国と国が支配被支配の関係にあったとはいえ、民衆レベルの人と人の関係はそれを超越しうるということなのだろうか。盧泰愚さんは『回顧録』のなかで、「真からの人間愛は国境を越える」と書いている。

しかし、長い歴史と伝統のある他国を支配し、言葉も名前も奪うという正気の沙汰とも思えぬ同化政策がそれによって免罪符を与えられるということにはならないだろう。韓国より長い期間、同様の同化政策を強いられた台湾の政治活動家、黄昭堂さん(19322011年)はその著書『台湾総督府』(ちくま学芸文庫)で、次のように指摘している。

 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。

〽手本は二宮金次郎

日本の朝鮮植民地支配は解放後も韓国に深い傷痕を残した。日本が抹殺しようとした民族のアイデンティティーをどう取り戻すか。それが最も深刻な問題の一つだった。それは今も、「日帝の残滓」という言い方で、しばしば俎上にあがる。

その深刻さを私に気づかせてくれた一冊に、柳周鉉著、朴容九訳の『小説 朝鮮総督府』がある。1967年に韓国で出版されて反響を呼び、翌68年、講談社から翻訳出版された上中下3巻本である。

タイトル通り、朝鮮総督府に焦点を当て、日本の統治実態に切り込んでいる。寺内正毅、斎藤実、宇垣一成、南次郎といった歴代総督や総督府高官、抵抗運動をする朝鮮人らを実名で登場させ、数々の歴史資料や記録を駆使してドキュメンタリー風に書いている。

ラストシーンが強く印象に残った。1945816日、つまり日本の敗戦で韓国が解放された、その翌日のソウルの街角の情景を描いている。以下の通りだ。

『小説 朝鮮総督府』

終日、うきうきした気持ちで街をさまよって、日暮れどきになってやっとわが家のある嘉会洞の路地へ踏み入った。

子どもたちが遊んでいた。

六、七歳の幼い女の子たちが<オジャミ>と呼ぶ日本式のお手玉遊びをしている。布でこしらえた四つの小豆の小袋を両手でかわるがわる打ち上げながら、首をコックリコックリやりながら、歌をうたっている。

   柴刈り縄ない、わらじをつくり

   親の手を助け仕事を励み(ママ)

   兄弟なかよく、孝行つくす

   手本は、二宮金次郎……

心ない子どもたちの歌をききながら尹貞悳は溜息をついた。

日本人の二宮金次郎でなければこのくにの幼い者たちが手本にする人物はいないというのであろうか。ほんとうに幼い者たちの手本になる人物がこのくににはいないのだろうか。

――方向感覚を失ったわれらの幼い蕾たちよ。

尹貞悳の目からは、なぜか涙があふれて流れ落ちた。…

ここに登場する尹貞悳なる人物はこの小説で狂言回しの役目を担わせている女性で、この816日朝、全国で一斉に解き放たれた政治思想犯の一人としてソウルの西大門刑務所から出てきたばかりという設定である。

文部省唱歌だった「二宮金次郎の歌」は、私も幼いころに聞いた記憶がある。やはり、近所の女の子たちが「オジャミ」をしながら歌っていたと思う。

 引きずる「日帝の残滓」

『小説 朝鮮総督府』の作者柳周鉉氏(192182年)は京畿道驪州生まれ。早稲田大学で学び、解放前年に帰国、24歳で解放の日を迎えていた。小説に描かれたソウルの街の情景はそのままその日の柳氏の心象風景であったのだろう。

 実際、「方向感覚を失った幼い蕾たち」は日本人が去った解放後も「日帝の残滓」を引きずった。言葉や習慣といった民族のアイデンティティーの回復(確立)はもとより、植民地期の近代化をめぐる論争、日本の植民地支配に抗い戦った人々と、日本に協力した(させられた)「親日派」といわれる人たちとの葛藤……。その後遺症は解放後76年たったいまも消えてはいないのである。(つづく)

            立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清 

*参考文献

金大中(波佐場清・康宗憲訳)『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ―民主化への道』岩波書店、2011年

小林慶二『金泳三―韓国現代史とともに歩む』原書房、1992年


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