「中国の異民族同化政策に既視感」
昨年10月、朝日新聞のオピニオン面「声」欄に載った見出しである。中国の新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区に住む人たちに対する当局の締めつけは、戦前の日本の朝鮮半島統治とダブって見えるというのである。
「無職 安藤勝志(静岡県 78)」とある投稿者は次のようなことを書いていた。
▼1910年の韓国併合後、日本は皇民化政策として日本語教育や国家神道による神社参拝を強制。朝鮮民族の抵抗を強大な軍事力で弾圧した。
▼言語や宗教の弾圧は朝鮮半島の民衆のトラウマとなり、その感情は今日も事あるごとに反日的行動として噴出していると感じる。
▼異民族の言語や宗教の自由を奪うことは基本的人権の侵害だ。国家の行うべきことではない。中国は異民族の文化や宗教を尊重すべきた。
植民地朝鮮で日本がおこなった同化政策、皇民化政策はどんなものであったのか。
■小学校と普通学校
教育が大きな柱であったことはいうまでもない。併合翌年1911年に出された朝鮮教育令(第1次)は次のような内容を盛り込んでいた。
▼教育勅語の趣旨に基づき忠良な臣民を育成する。
▼時勢と民度に合わせるように(教育を)おこなう。
朝鮮人にも日本人同様、教育勅語に沿った「皇民化教育」をおこなうとする一方で、差別化もするというのだった。後者について初等教育でいえば、朝鮮に住む日本人子弟は内地(日本本土)同様、文部省の国定教科書を使って6年制の「小学校」で学んだのに対し、朝鮮人子弟は修業年限4年の「普通学校」で、朝鮮総督府の教科書を用いた。
普通学校に行く朝鮮人は多くなかった。学校自体少なかったうえに、民衆の間で「普通学校に入れると、男の子は鉄砲の弾除けにされ、女の子は売春婦にされる」と警戒されたりもしたようだ。
■「一視同仁」
1919年、朝鮮で憲兵警察による武断政治に反発して「3・1独立運動」が起きた。日本は軍隊を出動させて鎮圧。この年8月19日に出された天皇の詔書は次のようなものだった。
「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し、其の民衆を愛撫すること一視同仁、朕が臣民として秋毫の差異あることなく、各其の生に聊し、均しく休明の沢を享けしめんことを期せり」
分かりやすく砕くと、次のようになるだろう。
私はずっと朝鮮が平穏無事であることを願ってきた。朝鮮の民衆をいっさい差別することなく愛しており、私の臣民であることに少しの違いもない。各人が安心して暮らすことができ、ひとしく私(天皇)の徳を享受できるように、と心に誓っている。
同じ日、首相の原敬は声明で次のように説いた。
朝鮮は日本の版図であって属邦ではない。植民地ではなく日本の延長にある。
「3・1運動」後、統治方式は「文化政治」に切りかわり、「東亜日報」など朝鮮語の新聞が許可された。22年の朝鮮教育令(第2次)で制度上、普通学校の修業年限が日本人小学校と同じく6年になり、24年には京城帝国大学が開校した。
しかし、普通学校の場合、実際には4年制のままのところが多く、朝鮮語より「国語(日本語)」の比重が高まった。教師が授業で使う言語も朝鮮語の時間のほかは日本語となった。東京大教授の矢内原忠雄(その後、東大教授を追われ、戦後東大総長)は26年に出した『植民及植民政策』の中で次のように書いた。
私は朝鮮普通学校の授業を参観し朝鮮人教師が朝鮮人児童に対し日本語を以て日本歴史を教授するのを見、心中涙を禁じ得なかった。
■普通学校で入学試験
この時期、朝鮮人の間で教育要求が高まった。朝鮮人の私立学校が抑圧される一方で、総督府の学校も足りなかった。結果、普通学校で入学試験が行われ、志願者の半数以上がふるい落とされた。
京城帝大も朝鮮人にはハードルが高かった。入試では日本の古典など日本人に有利な出題がなされ、初年度24年春に予科に入学できた朝鮮人学生は定員180人中44人だけだった。
ソウルの孝昌公園に建てられた李奉昌像。1932年、東京の桜田門外で天皇の馬車に手榴弾を投げつけ、韓国で「義士」とたたえられる=筆者写す |
1938年3月、朝鮮教育令改正(第3次)。翌4月に国家総動員法の公布を控え、「内鮮一体」の総動員態勢に備えた制度改変だった。普通学校を小学校と名称変更するなど日本との一体化を名目に学校などでの朝鮮語の使用が禁止されていった。
■金時鐘さんの回想
1929年生まれ、いま奈良県に住む在日詩人、金時鐘さん(93)は済州島の普通学校でのことを次のように回想している。
はやく立派な日本人になって、天皇陛下の良い赤子になることが何よりも大事なことだと毎日諭されていましたから、朝鮮語の授業はまったくもって余計な勉強だったのでした。そのような状態のなかで朝鮮語の授業は「支那事変」[1937年からの日中戦争]が始まった年の二学年いっぱいでなくなりましたが、それまででも朝鮮語の授業は、何かと別の課目になりがちな時間でした。(『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』岩波新書)
■五木寛之さんの回想
そんな時代に盧泰愚さんは農村部で少年期を過ごした。そこでの朝鮮の少年たちにあって「日本」はどういうものであったのか。盧さんと同年1932年の生まれで、韓国の農村部で少年期を過ごした作家の五木寛之さん(88)の回想は当時の空気を伝えてくれている。
五木さんの両親は朝鮮で教職だった。物心ついた時から朝鮮にいて学齢期に達する少し前、辺鄙な村に引っ越した。父親がそこの普通学校の校長に赴任することになったのだった。
恐ろしいほどの寒村だった。私の家の家族を別にすると、日本人は村の駐在所の巡査夫婦だけだった。……そこでは日本語を使う朝鮮人はほとんどいませんでした。
もちろん、周りに一緒に遊べる日本人の子どもなどもいない。その代わりに、地元の子どもたちがよく遊びにきました。彼らは、私がもっている漫画の本を見せてほしい、とせがむわけです。それで、少し優越感をもって見せてやったりする。……
私が使うのは日本語だけです。一方、彼らのほうは日本語をほとんど使わない。日本語を強制されてはいても、日本人がほとんど誰もいないのですから、当然、彼ら同士はいつも朝鮮語で話しているわけです。
しかし、一緒に遊んでいるうちに、私もほうも朝鮮語を片言で少しはおぼえますし、向こうも日本語を教えられているので、片言の日本語はわかります。コミュニケーションはさほど問題なかったような気がします。(『運命の足音』幻冬舎文庫)
■徴兵・徴用で義務教育を計画
朝鮮人の就学率は全般的に低かった。総督府の内部文書は朝鮮人学齢児童の就学率について、1911年1・7%▽22年10・2%▽37年30・8%▽42年54・5%――などと記している。ちなみに日本国内のそれは1910年の時点で98%に達していた。
戦時総動員体制下、39年から日本内地への朝鮮人労務動員が本格化し、44年には強制徴用となった。軍事的動員も38年以降まず志願兵募集の形で始まり、44年からは朝鮮人にも徴兵制度が適用された。
42年12月、総督府は朝鮮でも46年から義務教育を実施すると発表した。その時点における朝鮮人の日本語理解率は2割程度とみられていた。日本語が分からない、皇国臣民化教育のなされていない朝鮮人を、たとえば軍隊に連れて行ったら、どういうことになるか――。
日本は太平洋戦争に突入したこの時期に至り、徴兵、徴用の面から朝鮮人の義務教育化に踏み切ろうとしたのだった。それが実施に移される前の45年8月、日本の敗戦によって朝鮮は解放された。(つづく)
立命館大学コリア研究センター上席研究員 波佐場 清
*参考文献
旗田巍「日本人の朝鮮観」『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮 第3巻』勁草書房、1966年
佐野通夫『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』社会評論社、2006年
旗田巍監修『日本は朝鮮で何を教えたか』あゆみ出版、1987年
姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』朝日文庫、1992年
趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013年
鄭大均『日韓併合期ベストエッセイ集』ちくま文庫、2015年
木宮正史『日韓関係史』岩波新書、2021年
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